黒い猫
主人公・みのりはこの春に就職したばかり。同時に始めた一人暮らしに、寂しさを感じ始めていた。そんな時、部屋に黒猫が突然現れた。猫らしくない黒猫の様子に首をひねるみのりだったが、飼うことにする。ひとりと一匹の共同生活が始まると、黒猫は「自分は人間だ。」と言い出した。《全14話》
黒い猫
大雨の夜、それは突然現れた。
仕事を終え、帰宅したわたしはリビングに入る。鞄を足元に置いて、ほっと息をついた瞬間だった。視界の端で、何か黒い物が移動した。はっとして部屋の明かりを点けると、見覚えのない黒猫がソファの上にひらりと飛び乗ったところだった。
その猫は真っ黒というよりも、僅かに紫がかった色をしている。その猫はこちらを振り向き、金色の丸い瞳でじっとわたしを見つめている。室内はざあざあと雨音が響いていた。
「おかしいわね。戸締まりはしてあったはずなのに。お前、どこから入ってきたの?」
猫はにゃーんと鳴いた。こちらを警戒しているのか、尾をゆっくりと揺らし、耳を立てる。わたしとの間に一定の距離を保とうとしているようだ。首輪がないので恐らく飼い猫ではないのだろう。けれど、この艶やかな毛並みは野良でもなさそうだ。
一戸建てならまだしもここは地上三階、マンションの一室だ。この猫は雨に濡れていないようだし、見たところ傷もない。部屋のどこかが壊された様子もない。玄関も窓もベランダも、全ての鍵は閉まっていた。本当にどうやって入ってきたのだろうか。
「ま、聞いてもしかたないか。猫だし。」
雨はだんだん激しくなっている。わたしの独り言をかき消すように、雨粒がけたたましい音を立てて窓ガラスを叩く。
こんな夜に外へ放り出してしまうのも忍びない。取り敢えず、今夜は家に置いてあげようと思った。
わたしは下ろしていた髪を後ろで一つに括り、雨に濡れた上着を脱いだ。代わりにエプロンをつけて、夕食の準備に取りかかる。
「猫ちゃん、あなたは牛乳でいいよね。」
お皿に牛乳を注いで、足元に置いてみる。しかし、猫は近づこうともしない。
「お腹、空いてないの?」
猫はこちらを気にしながらじりじりと近づくも、牛乳を一瞥するとそっぽを向いてしまった。
「牛乳、嫌いなの? やっぱり猫缶がいいのかしら。でも、うちにはそんなものはないの。贅沢言わないでね。」
猫は「そんなことはお構いなし」といった風情で、再び部屋を歩き始めた。どうやら牛乳はお気に召さなかったらしい。
食事の用意をしながら様子を見ていると、猫はその後もしばらく部屋を歩き回っていた。だが、ある場所で足をピタリと止める。食い入るように一点をじっと見つめて、何やら神妙な顔つきをしている。一歩出しかけた足を宙に浮かせたまま、固まってしまっているようだった。その視線を辿ると、壁に掛かったタペストリーに行き当たる。
それは、以前両親から貰った京都土産だった。羽織の形をした浅葱色の生地に袖口は白いだんだら模様で縁取りされ、背の部分には「誠」と書いてある。彼の有名な、新撰組の隊服を模したものだ。
わたしが猫の動きに気を取られていると、ふと火にかけていた鍋の煮える音が変わった事に気付いた。慌てて火を止めたが、中の味噌汁はすっかり煮え立ってしまっていた。
やがて夕食が出来上がり、わたしはテーブルについた。すると、今まであれほど無関心だった猫がいつの間にか空いているもう一つの椅子の上にいる。テーブルを支えに立ち上がり、わたしが夕食を食べる様をまじまじと見ていた。
「もしかして、これが食べたいの?」
猫は返事をするかのように、にゃーんと鳴いた。
今日のおかずはアジの開き、味噌汁、ごはん、ほうれん草のお浸しだ。アジはともかく、猫にほうれん草なんて食べさせて大丈夫だろうか。とはいえ、いくら猫でもあまり見つめられるといささか食べにくい。猫が尚もじいと見つめ続けるので、わたしは少し分けてやることにした。
「仕方ないわね。お皿に分けるから、ちょっと待ってて。」
皿に出してやると、猫はペロリと平らげた。何故か必死で前足を使おうとしていたようだが、どうも上手くいかない。結局口を皿に運んで食べに行き、ようやくありつけたようだ。しぶしぶ、仕方なく、といった様子で、未だにそのことに戸惑っているらしい。どこの猫かはわからないが、こんなに食べることが下手で生きて行けるのだろうか。わたしは少し心配になった。
当の猫は、わたしの手の中でごろころごろと喉を鳴らし、すっかり寛いでいる。ひとしきり食べて満足したようだ。少し遊んでみようかと思い、猫をひょいと持ち上げる。猫の身体はなんとも柔らかく、よく伸びた。最初の警戒心はどこへやら。どうでもいいのか、猫はされるがままだ。わたしは、猫を頭からしっぽまで眺めた。
「あ、オスだ。」
そう呟いた瞬間、猫は弾かれたようにわたしから離れ、ソファと壁の間に隠れてしまった。どうしたんだろう。ちらちらとこちらを伺って、まるで恥じらっているように見える。暫くは出て来る気配はなさそうだ。毛の色も、食べ方も、恥じらうのも変だと思った。けれど、愛嬌はある。
「ねえ、猫ちゃん。あなた、うちの子になる?」
猫はソファの陰からそうっと顔だけを出す。返事をするかのように、にゃあ、とひと鳴きした。意思の疎通が出来たような気がして、わたしは嬉しくなった。
「よし、決まりね。じゃあ、とりあえずお風呂に入れてあげるわ。」
猫は少し困惑しているようだ。やっぱりお風呂は嫌がるものなのかしら、などと思いながら、猫を風呂場まで連れて行く。どうせなら一緒に入ってしまおうかと服を脱ごうとすると、それまで大人しかった猫は急に走り去ってしまった。慌てているようだったけれど、何だったのだろう。わたしはひとまず脱ぐことを諦め、猫を探すことにした。
「猫ちゃん、どこ?お風呂に入ってよ。」
猫は、またソファの影に隠れていた。金色の目が電灯に反射して光っている。
「どうしたの?とりあえずあなただけ洗っちゃうから出て来てちょうだい。そんなところにいたら、埃だらけになるわ。」
猫はこちらの様子を伺いながら、そろそろと出てきた。わたしはそっと抱き上げ、今度は直接お風呂まで行った。逃げるくらいだから抵抗されることも想定していたが、入ってみれば案外素直だった。
猫の体を洗ってやると、とても気持ちよさそうに目を細める。流し終わると自ら湯船に飛び込んだ。しかし、深さに驚いたのか、溺れそうになってい。わたしは慌てて猫を引き上げた。
◆
「きれいになったね。」
にゃーん、と猫は鳴く。気持ちが良いらしい。タオルで身体を拭いてやり、ドライヤーで乾かす。温まったからか、どうやらうとうとして来たようだ。彼はわたしに気を許してくれたらしい。乾かし終わる頃には、猫はぐっすりと眠ってしまった。
「かわいいなあ。そうだ、名前つけないとね。」
何がいいかな、と考えながら猫をベッドまで運んだ。わたしと猫の、同居生活の始まりだった。
改めてよろしく
「ただいまー。」
わたしは小さな同居人に声をかけた。彼はとことこと短い廊下を歩き、毎夜わたしを玄関まで出迎えてくれる。大学を出て、就職を期に一人暮らしを始めて約半年。慣れてはきたものの少し寂しく思っていたところで、それが思いのほか嬉しかった。
同じ物を食べ、同じ布団で眠る。猫とわたしは正に寝食を共にする仲になっていた。
「ただいま、ムサシ。」
ムサシの顎下をくずぐってやると、彼は目を細めて気持ちよさそうにしている。
いつまでも「猫ちゃん」ではいけないと思い、猫に名前を付けた。最初は、体が黒いので「クロ」にしようとしていた。だが、試しに呼んでみると「それは自分のことか」とでもいいたげな顔をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。
次いで「コジロウ」と呼んでみたが、これもあまり良い反応ではなかった。下を向いて首を横に振る様には、哀愁すら感じた。
最後に「ムサシ」と呼んでみた。これは許容範囲だったらしい。しばらくの間じっと私を見て、考えるような素振りをした後、にゃーと鳴いた。これを了承と捉え、以来ムサシと呼ぶことにしている。
ムサシは時々、言葉を理解しているのではないかと思う事がある。とは言うものの、彼はにゃーとしか鳴かず、確かめる術はないのだが。
「ムサシ。今日はお土産があるんだよ。」
わたしは鞄から小さな包みを取り出した。ムサシのために、首輪を買って来たのだ。薄い紫色のベルトに、小さなリボンがついている。それに小さなアメジストを自分で取り付けた。
「どう?可愛いでしょう。ムサシの毛の色に合わせたのよ。」
首輪を見るなり、ムサシは引きつった顔をした。しかし、わたしとしてはこの子がうちの子である目印を付けておきたい。わたしは今にも逃げ出しそうなムサシを素早く捕まえた。
ムサシは鋭い悲鳴のような鳴き声を上げ、逃げ出そうと暴れ始めた。必死で抵抗しているが、ここはわたしも譲れない。激しい攻防戦の末、わたしはムサシに首輪を付けた。
とっても可愛いと思うのに、首輪をつけたムサシは酷く気落ちしたようにしょげている。首もしっぽもこれ以上下がらない、という程ぺたんこに下げ、なんだか元気がない。ムサシの周りだけが、急に真冬の夜にでもなったかのような雰囲気だ。そんなに落ちこむとは思いもよらず、さすがに心配になってきた。
「ねえ、ムサシ。首輪……そんなに、嫌?」
「そりゃあ、嫌に決まっているでしょう。それに、私はムサシでもコジロウでもないと何度も言えば分かってくれるんです。」
「……え?」「……あれ?」
わたしは耳を疑った。目も疑った。ここはわたしの家で、わたしの他に喋りそうなものは何もない。残る可能性としてはムサシだが、猫が喋るなんて考えられない。混乱するわたしをよそに、ムサシはさらに喋った。
「私ですよ。他に誰もいない。」
さも当たり前かのようにスラスラと話すムサシを、わたしはじっと見つめる。吹き替え版の映画を、生で見ているかのような光景だ。
「どうして……。」
「私だって不本意なんです。猫だなんて。」
ムサシは大げさな程、大きくため息をついた。
「どういうこと?ムサシ、猫に見えるけど。」
「だから、私はムサシじゃありませんよ。そして、猫でもない。」
ムサシは名前ばかりか、猫である事までも否定した。わたしはますます混乱する。もともと不思議な子だったけれど、その上喋るとは思いもよらなかった。
「……猫でないのなら、何なの?まさか……妖怪とか、化け猫とか、言わないでよね。」
「はははっ。妖怪か。近いかもしれませんよ。」
「えええっ。嘘っ!」
わたしは思わず後ずさる。けれど、狭い部屋の中だ。あまり逃げ場はなく、すぐに壁にぶつかって尻餅をついた。
「あはは、そんなに怖がらないでください。私、あなたには感謝しているんですから。」
「そ、そんなこと言われたって、びっくりするわよ。」
「そうか、それもそうですね、すいません。冗談が過ぎました。ほら、落ち着いてください。取って食いやしませんよ。私も人間なんです。元は。」
ああ、やっと声が出た、と言って猫はわたしに近づき、目の前でちょこんと座った。しかしこの状況だ。その冗談は、冗談にはならない。
「私は沖田総司といいます。改めて、どうぞよろしく。」
猫は涼しい顔で、ペコリと頭をさげた。
猫の魂
猫が喋った。
それだけでも信じられないのに、元々は人間だったとまで言った。事も無げに、ムサシはゆっくりと床を掃くように尻尾を降っている。
「元って……それはどういう意味?」
「私、確かに死んだはずなんです。でも、何でだろうなあ。気がついたらこの部屋に居ました。しかも、猫になっていた。あの、雨の日です。」
「あの日……あの大雨の日ね?」
わたしは猫が現れた夜を思い出す。どこから入ってきたのかと首を捻ったものだ。
「ええ、そうです。あなたの言葉は分かるのに、私の言葉は全て鳴き声になってしまう。もどかしいったらなかった。何故だかわかりませんが、これでようやく話ができます。」
わたしと同じ物を食べたがったり、食べ方が下手だったり。けれど、そのくせ牛や豚は絶対食べない。お風呂は一人で入りたがる。今でも一緒に入った事はないけれど、わたしが服を脱ごうとしたら大慌てで逃げて行く。
猫にしては変わっていると思っていた。とは言え、人間だったと言われてもやっぱり信じられないが。
それよりも、わたしははたと気がついた。驚き過ぎて聞き流してしまったが、彼は日本人なら誰もが知るであろう名前を名乗った。
「ねえ、ムサシ、さっき、沖田総司って言った?」
「言いましたよ。何度も言いますが、私はムサシじゃありません。」
ムサシは、ややムッとした声色で否定する。
「あ、あの、聞いてもいいかしら。死んだっていうのは、どうして?まだ若かったのよね?」
「労咳ですよ。私は二十四でした。」
労咳とは、現代でいう肺結核のことだ。今は有効な治療薬があり、治療法も予防法も確立されている。たまにこじらせて亡くなる人もいるそうだが、きちんと治療すれば治る病気だ。しかし、それもこの数十年程のことだ。それまでの長い間、結核は不治の病として恐れられてきた。
結核で亡くなった沖田総司といえば、わたしは一人しか知らない。
「まさか、あの新選組の、沖田総司さん……?」
「ええ、そうですよ。凄いなあ。「あの」と、いうことは、そんなに有名になっているんでしょう?私たち。」
沖田さんは笑った。けれど一瞬だけ、切ない目をしたようにも見えた。泣き笑いのような、なんとも複雑な表情だった。
「日本人なら殆どの人が知ってると思うわ。」
「そうなんですか。それはすごい。」
沖田さんは飄々として、まるで他人ごとのように話す。終始ニコニコしていて、なんだか拍子抜けてしまった。猫の表情などよくわからないが、きっと笑っているのだろう。わたしはそう感じた。
「それはそうと、そろそろ私にもあなたの名前を教えて下さいませんか。」
それもそうだ。あまりの驚きで、すっかり忘れていた。
「え?ああ、そうね。福岡みのりです。質問責めにしてごめんなさい。」
「いいえ、構いませんよ。私だって驚いているんですから。」
「本当にびっくりよ。ねえ、何で猫になっちゃったの?」
相変わらず、沖田さんはにこにこしている。穏やかな口調で、話し方も丁寧だ。わたしは少なからず、彼に好感を持った。
「さあ、どうしてでしょうね。私、死ぬ少し前に黒猫を斬ろうとして失敗したんです。もしかしたら、あの時の猫に化かされているのかもしれませんね。」
「猫の恨みは深いって言うものね。なのに斬ろうとしたなんて。」
「自分の体力を試したかったんです。でも、駄目でした。三度も現れたのに、遂に斬ることができなかった。」
沖田さんはその黒猫を捕まえる事すら適わず、体力の衰えを痛感したそうだ。当時の平均寿命は、現代に比べて幾分短かかったはずだ。まだ若いのに、さぞ悔しかった事だろう。
わたしは何も言えなかった。当の本人は陽気に振る舞うので、尚更悲しくなってくる。
「参ったなあ。でも、仕方ないか。これでも生きているようですし。最近は少し慣れてきたところなんです。身体が軽くて動きやすい。死んだと思えば、マシかもしれませんね。」
慣れればなかなか便利なんですよ、と彼はまた笑った。
*沖田総司の没年齢については諸説ありますが、本作では24歳としています
文明開化
「あ゛ー。あ゛ー。はは、おもしろいな。」
猫のムサシに、いや、沖田さんだった。わたしは質問責めに遭っている。新撰組の事から始まり、武士や幕府、この時代の事など、彼はいろいろな事を気にしていた。
彼が生きていた時代とのギャップを埋めるには、説明すべき事がたくさんある。この数日をかけて話しているが、特に現代の事は理解しきれていない様子だ。けれど新撰組の末路や武士の消滅、時代の移り変わりを彼は冷静に受け止めている。
150年程先の未来に居ることも、なんとなく覚悟はしていたらしい。部屋の中にある物は彼にとって不思議なものばかりで、わからないなりにも違う世界に居るのだと思ったそうだ。
テレビもエアコンも電灯も掃除機も、当然彼が生きていた時代にはなかったものだ。便利な世の中になったと驚き、しきりに感心している。中でも、彼の一番のお気に入りは扇風機らしい。声が変わるのか面白いしく、暇さえあればその目の前に陣取ってご機嫌で遊んでいた。
「聞いて下さい、みのりさん。こんなダミ声、私じゃないみたいだ。」
彼はあまりに無邪気で純粋だった。かつて人を斬りまくり、鬼神などと呼ばれて恐れられていたという。けれど、彼の様子からはどうもピンと来ない。
その沖田さんは、扇風機の前でうんと伸びをしている。爪先から尻尾の先まで伸ばしきり、何とも気持ち良さそうな表情だ。死ぬことも厭わずに剣を振るって生きたというあの沖田総司を、この姿から誰が想像できるだろう。
文明の利器に感心しきりの沖田さんだが、彼にはどうにも馴染めないこともある。例えばわたしの恰好だ。
わたしは髪をポニーテールにし、部屋着としてTシャツと短パンを着ている。真夏で暑いのだからこれに限るのだけれど、彼の目は非常に厳しい。
「以前から思っていましたが、みのりさん。なんて格好をしているんです。腕も足も丸出しじゃありませんか!」
「何で?このくらい普通じゃない。」
「普通なもんですか。商売女でもそんなに出していない。髪型だって男のようだ。はしたない。」
沖田さんは「目のやり場に困るんです」と言い、こちらをあまり見ないようにして話している。口調は怒っている風だが、その実あたふたしているようにも見えた。クスっと笑うとまた怒られるのだが。
彼曰わく、当時の女性は素足を晒すなどとんでもないことだったそうだ。脛を見せることすら恥だという。それを考えると、この格好は幕末男子には少々刺激が強いかもしれない。
「みんな、とは言わないけれど、現代はこんなものよ。なんなら外に出てみる?」
「いいですね、行きましょう。そういえば、もうずっと出ていない。」
沖田さんは嬉々として立ち上がった。早く行きたいと言わんばかりだ。
「決まりね。沖田さん、外で喋っちゃダメよ。」
「何故です。いいじゃありませんか。」
沖田さんは首を傾げ、尻尾を横に振る。
「良くないわよ。あなたの時代にも喋る猫なんていなかったでしょう?」
「いませんよ。」
「もし、公にでもなったら大騒ぎになるわ。剥製にされたって知らないわよ。」
「はくせいとは、何です。」
剥製とは、死んだ動物を薬剤を使って、ありのままの姿で保管する方法のことだ。明治時代に考案されたので、彼が知らなくても無理はない。
説明すると、彼はさあっと青ざめて黙ってしまった。少し脅しすぎたようだ。
「……わからないようになら、少しくらい喋ってもいいわ。でも、気を付けてね。」
「わかりました。何だか、今なら長州人の気持ちがわかる気がしますよ……。」
沖田さんは物憂げな顔をして、ぽつりと呟いた。
「え?何?聞こえなかったわ。」
「いいえ、なんでも。」
彼はいつもの笑顔で、小さな頭をフルフルと横に振った。
外に出て、近所をぶらぶら散歩することにした。
特にあてもなく歩き始めるが、沖田さんには見るもの全てが驚きと新鮮さで溢れているらしい。丸い目をますます丸くしている。
コンクリートに覆われた道路。大きなマンション。細長い鉄塔。立ち並ぶ家々も、今時は日本家屋の方が珍しい。どこへ行っても車が走り、信号機が光っている。電車が近くを通った時は、彼は毛を逆立てて飛び退いた。
どれもこれも、彼が想像していた景色ではなかったのだろう。先程も自転車に迂闊に近付き、危うく轢かれそうになっていた。
「ふう、危ない所でした。あんな物がそこら中にうろうろしているなんて。」
「自転車っていうの。歩くよりも早く、遠くまで行けて便利よ。」
へえ、と彼は先ほど轢かれそうになった自転車の後ろ姿を見つめた。
「どの人も夷人のような着物を着ている。あの人も、あの人も、髷がない。……刀も。」
そこへ、すっかり落ち込んだ様子の沖田さんの前方に女の人が通りかかった。沖田さんの耳がぴくりと動き、その人を目で追っている。
「あの女人もひどい格好だ。髪も結わずにみっともない。」
その女性はミニスカートに素足でサンダルを履き、ストレートの長い髪を下ろしていた。素足もそうだが、髪を結っていないのは遊び女なのだそうだ。つまり、ふしだらの代表のような格好、ということらしい。
「そういう時代なのよ。もちろん着物も素敵だけど、普段着には不便だもの。感覚も変わっているのよ。」
「……。」
沖田さんは少し寂しそうに俯いて、押し黙ってしまった。時代を超えた事、武士の世が終わった事、彼の現状。あらゆる事への実感と喪失感に、彼は耐えているのだろう。
わたしは彼を抱き上げ、背中を撫でる。何もしてあげられないけれど、それでも彼を励ましたいと思った。
招かれざる客
今日は休日だ。朝から溜まった洗濯物と格闘し、掃除に勤しみ昼食の準備までを一気に済ませた。
一通りの家事を終えて一息つこうとした時、わたしは沖田さんがいない事に気が付いた。
「沖田さーん?どこー?そろそろお昼にしましょう?」
家の中を探すが、沖田さんは見つからなかった。
ひょっとすると外に出たのかもしれない。うっかり喋って変な人に目を付けられでもしたら、猫の身で無事に帰れるかどうか分からない。わたしは俄かに恐ろしくなった。
悶々と悪い想像を膨らませていると、外から子供達が遊ぶ声が聞こえた。キャッキャと笑い声が聞こえ、随分賑やかだ。窓から見下ろすと、沖田さんは近所の子供たちと遊んでいた。
彼を迎えに私も外へ出た。階段を降りていると直ぐに気付き、こちらへ歩いて来る。
「沖田さん、ここにいたのね。そろそろお昼、食べようよ。」
「あ、みのりさん。もうそんな時間ですか。ありがとうございます。」
沖田さんは子供たちに大人気だった。いざ帰るとなると「また遊んでも良いか」「名前はなんだ」などと、しきりにせがまれた。
部屋に帰ろうとすると、何となく視線を感じたような気がした。けれど、振り返ってもそれらしい人影は見あたらない。気のせいかと思い直し、わたしはマンションの階段を登った。
部屋に戻ると、沖田さんはほっと息をつく。うんと伸びをして、足先からしっぽの先までじっくりと伸ばしていく。頭を幾度か振り、その場に腰掛けた。
「沖田さん、大丈夫?疲れてない?」
「平気ですよ。屯所にいた頃はよく近所の子供達と遊んでいたんです。懐かしいなあ。」
沖田さんは遠い目をする。随分と上機嫌だ。けれど、不便さもあるらしい。
「けれど、猫のふりは難しい。うっかり喋ってしまいそうで、堪えるのに苦労しました。」
そう言って、彼は苦笑いをする。
「子供、好きなの?」
「ええ、好きですよ。どうせ遊ぶなら、芸妓よりも子供達と遊んだ方がずっと楽しい。隊士の皆には、そのことでよくからかわれていましたけれど。」
沖田さんはおどけた顔をして見せた。同僚達との遣り取りでも思い出しているのだろう。その表情はとても楽しそうだ。
「芸妓って、お座敷遊び?よく行ってたの?」
「付き合い程度ですよ。時々、島原で隊の宴会があったんです。隊士達もよく女郎を買っていましたし、馴染みの女郎がいる者も多かった。」
「……ふうん。」
わたしは、目をすっと逸らした。沖田さんの方を見ずに、適当に返事をする。
昔と現代では違うのかもしれない。けれど、わたしは島原や女郎という言葉にあまり良い印象は持っていない。
島原は体よりも芸を売ることがメインだったそうだ。けれど、要はそういう場所だ。今時の事情はだいぶ変わっているだろうが、女の身ではあまり行きたいところではない。わたしは不愉快だった。
「どうしたんです、みのりさん。私、何かしましたか?」
「いいえ、別に。沖田さんが何処で何をしようと勝手ですから。」
わたしはぷい、と沖田さんから顔を背けた。沖田さんは少し焦った様子で弁解する。
「みのりさん、何か誤解しているでしょう。私は女郎は苦手なんです。酒は飲みましたが、女郎を買ったことはありません。」
「へーえ。そうですか。」
「みのりさんてば。」
やきもちを妬くほどの間柄でもないのだが、わたしは面白くなかった。
沖田さんはおろおろして、必死でわたしをなだめようとする。もしも沖田さんが人間だったら、眉を八の字にして困り切った顔をしていたことだろう。けれど、わたしはこれ以上聞きたくなかった。
そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
わたしは返事をして玄関へ向かう。沖田さんも後ろからついて来る。
扉を開けると、そこには思わぬ人物が立っていた。わたしは凍りついたように思考が止まり、言葉を失った。
「探したよ、みのり。やっと見つけた。」
玄関に立っていた男はニヤリと笑った。
その男は高校時代の同級生で、名前を木島 太一といった。1年生の時に同じクラスになったのだが、大して仲良くもないのに妙なほど気に入られ、対処に困っていた。
2年生に上るとクラスが離れた。けれど、ほっとしたのもつかの間だった。しつこく言い寄られ、付きまとわれるようになる。その内、自宅にまで現れるようになったので警察にも相談していた。
所謂ストーカーである。そのため、わたしは高校卒業後に家族と共に引っ越しを余儀なくされた。
それが功を奏したのか、その後音沙汰はなかった。お陰で、大学時代は至極平穏に暮らしていた。彼も少し遠くへ進学したと聞いていたし、もう終わった事だと思っていたのだ。
我に返ったわたしは、直ぐに扉を閉めようとした。けれど、上手くいかない。わたしは早く追い返したいのに、木島は扉を力一杯こじ開けようとしていた。
わたしはドアノブを必死に引っ張るが、それ以上の力で引き戻される。幸い玄関チェーンをかけてあったので、扉は殆ど開かなかった。扉に当たったチェーンがガチャガチャと大きな音を立て、辺りに鳴り響いている。
「おい!開けろよ!何で逃げたんだよ!どれだけ探したと思っているんだ!」
木島は逆上し、玄関先で暴れ始めた。このままでは扉が壊れるのではないかと思うほど、扉に殴る蹴るを繰り返している。彼は大声で怒鳴り散らし、嵐のように荒れ狂っていた。
どうしてここがわかったのだろう。また付きまとわれるのだろうか。
いろいろな考えや恐怖が、わたしの思考を支配する。為す術もなく、わたしは茫然とその場に立ち尽くしていた。
その時、後ろから黒いものがさっと飛び出した。沖田さんだ。
玄関の少し開いた隙間から木島の顔に飛びつき、その黒い身体ですっぽりと覆ってしまった。木島は突然視界を奪われたことに驚き、バランスを崩して尻餅をつく。その隙に沖田さんは素早く部屋に戻り、わたしは玄関を閉めた。
しっかりと鍵をかける。これでこの場はしのげたが、彼はますます怒ったらしい。その後もずっと玄関先で怒鳴り散らしている。
警察へ通報しなければ、とは思う。けれど、扉を占めることが出来た安堵感からか、身体が震えて動かない。わたしは廊下にへたり込み、とうとう立ち上がることが出来なくなってしまった。室内には、ドンドンと木島が扉を叩く音が響く。
恐ろしくて仕方がない。どうして、どうして。そればかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
沖田さんは玄関先でじっと外の様子を伺っていたが、わたしが座り込んでいることに気付くとこちらに来てくれる。
彼はわたしの足から這い上がり、わたしの頬を舐める。その時、わたしは初めて自分が泣いている事に気づいた。
沖田さんは何も聞かずにいてくれた。黙ったまま、わたしを慰めるように涙を舐め、拭ってくれる。わたしは沖田さんに手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。沖田さんは暖かい。その暖かさが、今はひどく心に沁みた。
わたしはこの後、直ぐに引っ越しを決めた。
あなたはだあれ
「ふふふ、沖田さん、やっぱり猫だね。」
「もう……。だから、私は、猫じゃないんです……って、ああ、もう。」
わたしたちは、あれからすぐに新しいマンションに引っ越した。今のところ、あの男には居場所が知られていないらしく平穏な日々を取り戻している。
沖田さんは相変わらずの様子だ。日向ぼっこをしたり、近所を散歩したり、しゃべること以外はまるで本物の猫のような生活をしている。そこで、わたしは猫じゃらしの玩具を買った。「自分は猫じゃない」と言い張る沖田さんだが、くねくね動く猫じゃらしへの衝動には抗えず、しっかりとじゃれついている。猫じゃらしを追いかけて右往左往し、猫パンチを繰り出す。彼が言うには、どうしても体が勝手に動くらしい。
「やめてください、こ、これじゃまるで……猫……ごろごろごろ……。」
沖田さんは、猫じゃらしを捕まえた。床に寝そべり、猫じゃらしをしっかり抱えて離さない。満足そうに喉を鳴らしている。
「その割に、ごろごろ言ってるじゃないの。」
「私の意思じゃありません。勝手に鳴るんです。」
「まあまあ、いいじゃない。かわいいわよ。」
「みのりさん……男にかわいいはないでしょう……。」
沖田さんはすっかりしょげてしまった。がっくり肩を落とし、耳もしっぽもぺたんこだ。これがトドメになってしまったようだ。武士にかわいいは禁句らしい。
「ごめんね、沖田さん。機嫌なおして。おまんじゅう一緒に食べようよ、ね?」
「もう、食べ物で釣られると思っているんですか。全く。」
などと言いつつ、沖田さんは甘いものに目がない。結局は喜んで、猫には大きいと思われるサイズの大きなおまんじゅうを、食後のデザートにペロリと平らげてしまうのだ。
「沖田さん、それ食べたらお風呂用意するね。」
「はい、ありがとうございます。」
わたしが声をかけると、沖田さんは口元をあんこでいっぱいにしていた。どうやら機嫌は戻ったらしい。
お風呂と言っても、彼は猫だ。桶にお湯を張って行水するくらいである。わたしがシャンプーをしてあげる事もあるけれど、彼がひどく恥ずかしがるのであまり頻繁にはしない。けれど、今日は饅頭のせいで沖田さんの体には口元以外にもあんこがあちこちに付いていた。久しぶりだったこともあり、わたしは沖田さんを丸洗いする事にした。
沖田さんは抵抗したが、何とか洗い上げ、身体を乾かし終えた。彼はどうやらドライヤーが好きらしい。暖かさが心地良いのか、今回もすぐに眠ってしまった。
洗うとき、沖田さんが嫌がって暴れたので首輪を外せなかった。首輪も少し汚れているし、まだ濡れている。わたしは沖田さんから首輪を外して洗い、一晩干しておくことにした。
わたしもお風呂を済ませて床についた。沖田さんがしゃべるようになる前は一緒に寝ていたけれど、その後彼が話し始めてからは、彼が「気を使うから」と言い、別々に寝るようにしていた。
けれど、この間のストーカー事件から、わたしが一方的に沖田さんを抱いて眠るようになった。暖かさが心地よく、安心して眠れるのだ。子供のおしゃぶりのようなものかもしれないけれど、そこにいてくれるだけでほっとする。沖田さんはそわそわして落ち着かないようだったけれど、それでも大人しく黙って毎夜抱かれてくれていた。
その日もわたしは沖田さんを抱いて、ぐっすり眠った。しかし翌朝、またも思わぬ大事件が起こった。
朝、目覚めたわたしは目を瞑ったまま、枕元の時計を取ろうと体をよじる。けれど、何故か体が動かない。その上、重さも感じる。そういえば何かに挟まれているような気もする。枕元に何か変な物でも置いていただろうかと考えていると、今度はわたしの直ぐ後ろでいびきのような音が聞こえた。更に何やらムニャムニャ言っている。
考えてみれば、夜中にも何度か似たような音を聞いた気がする。声は沖田さんに似ていたなと思いながら、恐る恐る目を開けた。すると、わたしの物ではない長い黒髪が見えた。そして、逞しい腕が、何故かわたしをがっちり捕えている。恐らくこの腕は男性だ。そこまで考えたわたしは、一気に目が覚めた。
「きゃー!何!何なの!あなた誰よ!どうしてここにいるのよ!離して!」
男も目を覚ました。取り乱し暴れるわたしを見て、はっとしたように彼も勢いよく起き上がった。
「どうしました、みのりさん。まさか、またあの男ですか!どこです、どこにいましたか!」
「え?あ、き、きゃー!」
彼は裸だった。わたしはさらに驚いた。けれど、やはり声には聞き覚えがある。わたしは、同じベッドで寝ていた彼をじっと見つめた。
長い髪をポニーテールに纏め、細身だが筋肉質でがっしりしている。顔は不細工ではないが、特別男前でもない。けれど、涼しげな目元は優しく、印象的だ。
「みのりさん?どうしたんです。私の顔に、何かついていますか?」
「……もしかして、沖田さんなの……?」
「そうですが……。ん?う、うわあああっ。」
どうやら、彼は沖田さんらしい。自分が人間の姿をしていることに、しばらく気付いていなかったようだ。彼は大慌てで、そばにあったタオルケットで体を隠す。顔どころか、耳や首まで真っ赤だ。
「お、沖田さん。どうしちゃったの?猫じゃなくなってる……。」
「私にも何がなんだか……。でも、確かに私の体です。」
「息、苦しくない?咳は?」
元の体に戻ったのなら、先ず気になるのは結核のことだった。なんせ、そのために一度死んでいるのだから。
「いいえ。何ともありません。労咳にかかる前のように、すごく体が楽です。ああ、これはいいや。」
「本当?良かったわ。何だかよくわからないけれど、とりあえず良かったのよね。」
「ああ、嬉しいなあ。もう猫はこりごりです。」
沖田さんから満面の笑みがこぼれた。嬉しくて仕方ないらしい。抑えても抑えきれない程、笑みがこみ上げてくるようだ。
「わたしに遊ばれるものね。」
「はは、そうですね。けれど、もう猫じゃらしも怖くない。」
とりあえず、わたしは沖田さんの服を買いに行くことにした。いつまでも裸のままではお互い落ち着かない。
それから、一応病院にも連れて行った方が良いかもしれない。沖田さんの身体の中で結核が今どうなっているかはわからないけれど、予防や治療が出来るのならそれに越したことはない。
それにしても、本当に不思議な事ばかりが起こる。人間に戻ったのなら、次はどうなるのだろう。沖田さんは幕末に戻りたいのだろうか。もう一度、新撰組のために戦うのだろうか。元の時代に戻る方法なんて見当もつかないけれど、もしもこのまま別れてしまうとしたらあまりに寂しい。考えたくなかった。
てのひら
「おはよう、沖田さん。今日は人間なんだね。」
「みのりさん、おはようございます。ええ、やっぱりこの方がいい。」
朝、わたしがリビングに行くと、沖田さんは既に起きていた。ソファに座り、新聞を読んでいる。けれど、その恰好は何とも独創的なものだった。
上半身裸で、下半身にはTシャツを履いていた。どうやら、ずり落ちないように腰のあたりでシャツの裾を縛ってあるらしい。
沖田さんは、日によって猫になったり人間になったりを繰り返していた。猫の日も多いが、最近は日に日に人間でいる事が増えてきている。
「ねえ、それ、シャツだよ。上に着るものなのに、よく履けたね。」
「あれ?そうでしたっけ。どうりでスカスカすると思ったんです。」
「それにしても、毎朝すごい寝癖だね。これは直すのが大変そうだわ。」
沖田さんは髪を片手で押さえ、はにかんだ。彼の短くなった髪は寝癖が付き、ところどころ跳ね上がっている。本当は、毛先が耳に軽く被さるくらいのショートヘアだったはずだった。だが、今朝は台風になぎ倒された稲穂のように髪がうねって毛が立ち上がっていた。
初め、沖田さんは洋服を着るのも髪を切るのも嫌がった。けれど、わたしに着物を用意出来るほどの甲斐性はないし、かといって裸でウロウロされても困る。それに、この時代に男性の長髪は悪目立ちしするだろう。
そこで、わたしは土方歳三の写真を見せることにした。函館戦争の折に撮ったという、短髪で洋式の軍服を着たあの写真だ。
土方さんは西洋化した新政府軍に大層苦戦した。そのため、自軍でも直ぐに洋服を採用する。更に「帽子が被りにくいから」と、それまで総髪にしていた髪もバッサリ切ってしまったそうだ。随分とあっさりした理由だが、沖田さんを説得するには十分だった。
そして、一緒に寝るのも止めた。人間に戻って以来、沖田さんはリビングのソファで眠っている。けれど、あの時代の人にしては背の高い彼には、我が家の小さなソファでは丈が足りないらしい。たまに落ちては痛そうに腰をさすっている。他に寝られそうな場所がないので申し訳なく思っているが、まさか同じ布団で寝るわけにもいかない。本人は遠慮しているようだが、痛い思いをさせていることに申し訳なく思っている
「ねえ、沖田さん。今日は買い物に行きましょうか。沖田さんの布団、探そう。それに、下着とか服とか、まだ足りないでしょ。」
「いえ、ソファでしたか。あれで十分ですよ。服も足りてます。猫でいる日もありますし。」
「遠慮しない遠慮しない。あんまり良いものは買えないけどね。実はバーゲンなの。他のものも見たいし、行きましょ。」
「ばあげん?」
沖田さんの顔に「?」が浮かんだ。
「普段よりも安く買えるの。ああ、血が騒ぐわ。そうだ、今日は電車に乗るからね。沖田さんは初めてよね?」
よく行く大型のショッピングセンターで、バーゲンが始まっているのだ。この機会に沖田さんに必要そうな物は揃えておこうと思った。
駅に着くと、沖田さんはその設備に唖然としていた。券売機のボタンが光ることに驚き、改札の自動扉の動きに警戒し、エスカレーターにはお礼を言っていた。どうやら、誰かが中で動かしていると思ったらしい。そして、ホームに入り電車が近づいたときには「なんですか、あの鉄の塊は」と目を見開き、「此方に向かって来ます!」と、逃げる事を考えたようだ。あれに乗るのだと話すと、ぽかんとして電車を見つめていた。
「これはすごい。駕籠よりも、馬よりも早いぞ。景色がどんどん変わります。」
あんなに警戒していたはずなのに、乗ってしまうと楽しくて仕方がないらしい。沖田さんは上機嫌で、食い入るように外を見ている。けれど、ふと遠い目をしてこう言った。
「新撰組が、大公儀が負けてしまうわけです。西洋化によって、こんな動力が身近な物になるのですから。どんな剣の達人でも、鉄砲や大砲には適わない。」
「……沖田さん。」
「それに、着物だって慣れれば洋服のほうがずっと動きやすい。私は今まで、洋服なんて夷敵の真似事をするようで汚らわしいとすら思っていました。けれど、これは動きやすいし便利です。和服と差が付いて当然でしょう。」
沖田さんはそう言って、窓越しに空を仰いだ。その佇まいが切なくて、わたしは不意に泣きそうになった。耐えかねて涙がこぼれたとき、沖田さんが気付いてオロオロしはじめた。
「すみません。そんな顔をさせるつもりではなかったのに。私、みのりさんには笑っていて欲しいんです。泣いていてもきれいですが、あなたは笑っていた方がずっといい。」
「あ、ありがとう……。」
沖田さんはいつも、ストレートな物言いをする。こんな事まではっきり言われると少し照れくさい。けれど、悪い気はしなかった。
やがて目的地に着き、買い物を済ませた。買った布団は宅配してもらい、服や小物の紙袋を両手に下げて歩く。店を出る前に沖田さんはトイレに行き、わたしは近くの壁際に立ち彼を待っていた。
その間に電車の時間を調べようと鞄の中の時刻表を探しながら、壁にかかっている時計を見るために少し移動する。しかし、歩き始めてすぐに男性と勢いよくぶつかってしまった。その拍子に持っていた紙袋を1つ落とし、中身をぶちまけた。
「あれ?福岡さん?」
「え?」
わたしは顔をあげて前を見る。ぶつかったのは同僚だった。
彼とは同期で、わたしは彼を酒田くんと呼んでいる。普段から仲良くしている彼は要領が良く、仕事もよくできる。鈍くさいわたしは、よく彼に助けて貰っていた。
「やっぱりそうだ。ごめんね。大丈夫?」
「わたしこそ、ちゃんと前を見てなくて。ごめんなさい。」
「ううん。それは僕もだから。それより、荷物が。」
落としたのは沖田さんの服と下着類だった。どう見てもわたしの物ではない。彼は拾うのを手伝ってくれたけれど、わたしは沖田さんの事を秘密にしている。それらはあまり見られたいものではなかった。
焦って目の前に落ちていた靴下を拾おうと手を伸ばすと、彼の手と重なった。慌てて手を引っ込めようとするが、何故かなかなか離してくれない。
「あの、ちょっと。酒田くん?」
「ねえ、これって、君のじゃないよね。……彼氏、いたんだ。」
「そういう訳じゃないけど……まあ、いいじゃない。」
気まずい空気が漂う。早く片づけてしまいたいのに、彼は手を握る力を僅かに強めた。荷物についても、これ以上あまり深く聞かれたくはない。彼が更に口を開く。次は何を言われるのかとはらはらしていると、頭上から声がした。
「もし。私の連れに何かご用でしょうか。」
沖田さんだ。声のする方を見上げると、沖田さんは恐ろしいほどの威圧感を放っていた。顔は笑っているのに、目が据わっている。
「みのりさん、遅くなってすみません。大丈夫でしたか。」
「う、うん。ありがとう。ちょっと、ぶつかっちゃって。荷物を落としたから、手伝ってくれたの。」
「そうですか。それは失礼しました。後は私が拾います。ありがとうございました。」
そう言って、沖田さんはわたしから酒田くんを引き剥がし、落ちたものを素早く拾い集めた。
「ちょっと。君……。」
「では、私達はこれで。」
酒田くんは何か言いたそうにしていたが、沖田さんがそれをピシャリと遮る。有無を言わさず、といった面差しで酒田くんを一瞥すると、くるりと踵を返した。呆気にとられている酒田くんを放ったまま、わたしの手を引いて歩き始めた。
「さあ、早く帰りましょう。」
沖田さんはあれから機嫌が悪い。わたしがいくら弁解しても聞き入れてくれない。むすっとして黙ったまま、黙々と歩いている。何を怒っているのだろうか。それにしても、彼は歩くのが早い。段々ついて行けなくなったわたしは、足がもつれてきた。
「沖田さん、ちょっと待って。早いよ。」
「え……あ、すいません。うっかりしてました。」
沖田さんは、「しまった」というような顔をして、歩くスピードを落としてくれた。けれど、やっぱりそれ以上話してくれない。
「ねえ。なんで怒ってるの?」
「怒ってません。」
「じゃあ、なんで喋ってくれないの。」
「……すいません。」
返事はあったけれど、やはり前を向いたままだ。
「沖田さん、何か変よ。どうしたの?」
沖田さんは立ち止まり、わたしの方へ振り返った。けれど、目を伏せて口ごもり、視線は余所を向いている。どうやら言葉を選んでいるのだろうか。
「いえ、なんでもないんです。本当に。ただ……。」
「ただ?」
「みのりさんは、あの男が好きなんでしょうか。」
言いにくそうに、けれどはっきりとわたしに問い掛ける。その顔つきは至極真剣で、真っ直ぐにわたしの目を見つめる。
「え?酒田くん?どうして?」
「違うなら、いいんです。」
表情を崩さずに、沖田さんはすっと目線をずらした。
「彼は同僚なの。仲はいいけど、そういう目で見たことはないわ。」
「そうですか、わりかりました。」
沖田さんはニッコリ笑い、また歩き始めた。いつもの沖田さんに戻ったらしい。柔らかくなった表情にわたしはほっとした。
彼はまだ、手を離してくれない。けれど、手の温もりが心地良かった。
あなたのために
買い物に出かけた翌日、酒田くんとは少し気まずかった。彼は何事もなかったかのように接してくれているけれど、最近は少し距離を置くようになっている。これからは、以前のようにあまり気軽に助けてもらうのは止めておこうと思う。きっと、それが隙になっていたのだろう。わたしは少し反省した。
あれからひと月ほど経つが、沖田さんはずっと人間のままだ。猫になる日は一日もなかった。ならば今のうちに、と病院へ行くことにした。検査の結果、やはり結核に罹患した形跡があったらしい。念のために治療もしておいたので、もう大丈夫だろう。わたしも沖田さんも大喜びだった。
ある日の夕食時、沖田さんは途中で箸を置き、居住まいを正して真率な面持ちでこう言った。
「みのりさん。私、仕事を探したいと思います。」
「仕事?」
「ええ。せっかく人に戻ったんです。いつまであなたに甘えるわけにもいかない。あなたは、いつ元の時代に戻れるともわからない私に、衣食住だけでなく医者にまで見せて下さいました。あなたにはどんな感謝の言葉も足りません。私はあなたに恩返しがしたい。」
「そんなの、いいのに。」
けれど、沖田さんは首を大きく横に振る。いつになく真剣な様子に、わたしも箸を置いて聞くことに専念する事にした。
「よくありません。私がみのりさんを養うならともかく、これじゃあ私はヒモです。」
「この場合はすっごく特別だと思うけど……。」
「でも、事実です。」
彼は怖いくらいに深刻な顔つきで、きっぱりと言い切る。
「それは、そうかもしれないけど……。あのね、はっきり言うわ。今、沖田さんが仕事を見つけるのは、すごく難しいと思う。」
「何故です。私は何だってしますよ。」
沖田さんは立ち上がり、ずいと身を乗り出した。テーブルの端をぐっと掴み、ひどく焦った顔をしている。立った勢いで椅子が後ろに倒れ、バンと大きな音が響いた。
「この時代で仕事を見つけるにはね、職歴はともかく、学歴とか、そうだ、戸籍も要るでしょうね。」
沖田さんは「なんだそれは」というような顔をした。わたしはひとつずつ説明し、どれも今すぐにどうにかなるものではないと話すことにした。
仮に夜間中学に入るにしても、先ずは戸籍だ。確か就籍届とかいうものがあったはずだ。まずは役所に相談だろうか、などと思案する。相談するにして、も何と説明すれば納得してもらえるかは分からないのだが。
とにかく、これらは少しばかり難しいのだと言うと、沖田さんはとてもショックを受けたようだった。彼はそろそろと、ゆっくりとした動きで倒れた椅子を起こして座り直した。しかし、直ぐに気を取り直したようだ。拳をきゅっと握り、神妙な顔つきでこう言った。
「仕方ない。道場破りでもしましょう。私、腕には自信があるんです。」
「……それだけは止めてちょうだい。」
沖田総司が道場破り──。猫の生活で少々なまっていたとしても、きっと何処へ行っても勝ててしまうだろう。けれど、今どきそんなことをすれば法律に反するかもしれない。そもそも、道場自体も数が少なそうだ。兎に角、ろくな事にならないだろう。わたしはこんこんと言って聞かせた。
「困ったな。これではあなたに何もお返しする事が出来ない。」
沖田さんは暗い顔をした。眉を八の字に下げ、萎れた花のようにうなだれている。見ているわたしも心苦しい。
「仕方ないよ。戸籍のことは考えておくから、とりあえず今は現代のことをもっと知って、なじまないと。外で働くのはそれからだよ。」
「でも。」
沖田さんは諦めない。気持ちは嬉しいのだけれど、どうしたものだろうか。剣術道場を開くという手もあるが、これも今すぐどうにかなることではない。今のご時世、何をするにも身元を証明できなければどうにも出来ないだろう。とはいえ、手持ち無沙汰でいることが勿体ない気持ちもわかるし、せっかくのやる気を削いでしまうのも憚られる。そこでわたしは考えた。
「あ、じゃあ……。」
「なんでしょう。私に出来ることならなんでも。」
パッと表情を明るくした沖田さんが、期待に満ちた眼差しでわたしの言葉を待つ。まるで子犬が尻尾を振り回している様子に、思わずくすりと笑ってしまった。
「掃除と洗濯を手伝って!できれば料理も。」
「私は男ですよ。男子が厨に入るなんて。」
「何でもするんでしょ?わたし、沖田さんにしてもらえたらとっても助かるし、嬉しいんだけど……ね?」
わたしは「お願い」と、拝むように手を合わせる。ずるいかも知れないが、少し意識して上目遣いで見つめてみた。沖田さんは少し顔を赤くしたように見えたので、もしかしたら効果があったのかもしれない。
他は八方塞がりだし、これで何かしてもらえるならこれくらいのことはする。しばらくの押し問答の末、わたしは沖田さんを看破した。
「……分かりました。やりましょう。あなたの役に立てるなら。」
沖田さんは複雑そうだったけど、なんとか了承してくれた。主婦のようなことをさせるのは申し訳ないけれど、現状では外で働くことが難しい。らなば、やはりこれくらいしかないのだ。
沖田さんは、少しずつ家事を覚えていった。家電の扱いにも慣れ、スーパーで買い物もできるようになった。元々器用なのか、少し教えるとすぐに出来るようになる。「まさか私が家事をすることになるなんて」と、落ち込んでいたようだけれど、せめて戸籍が出来るまでは仕方ない。わたしは、こうして少しでもこの時代に馴染んでくれればいいと思った。
再来
その日、仕事を終えたわたしは近所まで帰って来ていた。途中で沖田さんに会い、家まで一緒に歩く。
彼は、手に近くのスーパーマーケットのビニール袋を下げていた。袋の口からネギがにゅっと飛び出ている。買い物の帰りだったらしく、「今日の夕食は何にしようか」などと話しながら歩いていた。すると、沖田さんが急に厳しい顔つきに変わり、声を潜めた。
「みのりさん。振り向いては行けませんよ。あの男がいます。先日、玄関先で暴れた男です。」
「うそ……どうしよう。」
「どうやらつけられていたようです。その角に入って、少し走りましょう。」
沖田さんは目配せして、前方の路地を示した。
「わかったわ。」
わたしは小さく頷き、カバンを握りなおす。しかし、実行するよりも先に木島に後ろから声をかけられてしまった。作戦は失敗に終わる。
そういえば、高校時代にも似たような事があった。 下校すると、何故かわたしよりも先に木島がわたしの家の玄関の前にいた。恐ろしさから玄関に近づけず途方に暮れ、裏へ回って塀を登って裏口から入り、母に泣きついたのだった。あれから数年経つが、またつけ回されることになるとは、とんだ災難だ。
少し距離があるが、木島は沖田さんを思い切り睨みつけているのがわかる。沖田さんも鋭い目で木島を見据えた。木島は沖田さんの存在に腹を立てているようだ。
「おい、みのり。どういうことだ。この男はなんだよ!俺からは逃げるくせに!」
沖田さんはわたしを庇うように一歩前へ出た。泰然と構える様は凛としている。
「そりゃあ、逃げたくもなるでしょう。こんなに追い回されているんですから。」
「うるさい!おまえには関係ない!」
「ありますよ。みのりさんは怯えています。放ってはおけません。」
涼しい顔でやり取りする沖田さんと、怒りでますます顔を紅潮させる木島は対照的だった。
木島は掴みかからんばかりの勢いで、こちらに向かってくる。沖田さんはわたしに買い物袋を手渡すと、木島の正面に立った。すると、急に周りの空気が一気に冷えるような感覚を覚えた。
沖田さんは、いつもの笑った顔からは想像出来ないくらいに怖い顔をしていた。眉はつり上がり、眼孔は鋭く、氷のように冷たい。全身から殺気を放っているようだ。わたしは剣のことなど解らないが、それだけでも足がすくんでしまう。わたしに向けられたらものではないが、びりびりとした空気が、緊張感をより高めた。
一方、木島も沖田さんの殺気にあてられたようだ。進むのを躊躇し始めた。もたついているうちに、逆に沖田さんが木島ににじりより、一歩一歩追い詰める。視線だけで男を射殺してしまいそうなくらい、迫力と威圧感に満ちていた。まるで、沖田さんそのものが鋭利な刃物のようだ。木島はついに腰を抜かし、へなへなとその場に座り込む。
「もう二度と、みのりさんに近づかないとこの場で誓え。さもなくば、」
沖田さんは言葉を途中で切った。歯切れの悪い言い方だった。本人もどこか不本意そうで、表情は変わらないものの何か違和感を覚えた。
けれど、木島を脅すには十分だったようだ。その顔は気の毒なほど青ざめ、今にも泡を拭いて倒れてしまいそうなくらいに怯えている。木島は一つ頷き、それを確認した沖田さんはくるりと振り返る。わたしの元に戻るその表情は、いつものにこやかな笑顔だった。あまりに爽やかで、つい先ほど、大の男を殆ど目だけで圧倒したなんて想像ができない。
「みのりさん。帰りましょう。もう大丈夫です。」
「う、うん、ありがとう。あの、大丈夫かな、あの人。」
わたしは並んで歩く沖田さんの顔をを見上げた。沖田さんも視線を一度わたしに向ける。
「ええ。もう近づかないと約束させました。放っておいても、一人でなんとかするでしょう。」
2人してちらりと木島を振り返ると、彼は未だ座り込んでいる。
「ありがとう。沖田さん。」
「いえ、私はああいう男は好きません。あなたに何かあってはいけませんしね。」
沖田さんはにっこり笑った。
今度こそ帰ろうといくらか歩いた時、沖田さんが急に後ろを振り返った。また一気に空気が冷える。木島が真っ直ぐ沖田さんに向かって来ていた。
木島は拳を振り上げて、沖田さんに襲いかかる。沖田さんは軽くかわし、木島の攻撃をひょいひょいと避けていく。木島は拳を振り回すが、一つも当てることができない。
「往生際の悪い。いい加減にして下さい。」
「お前こそ、みのりから、離れろ。」
木島はだんだん息が切れてきているらしい。ゼエゼエしながら腕を振り回しているが、沖田さんには全く歯が立たない。振り子のように、身体が腕に降られているようだ。その沖田さんはもう木島を相手にする気はないらしい。軽くあしらって、もう終わらせたいようだ。
「もう近づくなと言ったでしょう。」
「黙れ!」
木島は沖田さんには適わないと思ったか、今度はわたしに向かって来た。けれど、わたしはその場から動けない。逃げたいのに足が動かないのだ。
ぎゅっと目をつぶり、身構えた。しかし、鈍い音が聞こえただけで、何も起こらない。わたしは恐る恐る目を開けた。
「だから止めろと言ったんです。女子にまで手を出すなんて最低だ。」
木島は沖田さんに胸ぐらを掴まれ、近くの塀に叩きつけられていた。彼はそのままずるずると塀を伝いながら座り込み、茫然としている。沖田さんが木島を見下ろす目は、それまでよりも一層冷たかった。
それ以上、木島は追って来なかった。無事に帰宅し、玄関の鍵を閉めてほっと息をつく。ふと見上げると、沖田さんがすぐ目の前に立っていた。眉を寄せ、悲しい目をしていた。
沖田さんは、ふいにわたしを抱き寄せた。両手をわたしの背中に回し、沖田さんはぽつぽつと話し始めた。
「かつて私は、大勢の人を斬りました。死んだ後、猫になってしまったことが私への罰ならば、甘んじて受けようと思っていました。」
わたしは抱き締められたまま、チラリと沖田さんを見上げる。彼は泣きそうなくらいに、憂いのある寂しそうな表情をしていた。
「ですが、あなたを知るほど、これほど過酷なものはないと思い愕然とました。以前あなたが泣いたとき、私はこの腕で抱きしめたいと思いました。そして、この手で涙を拭いたかった。けれど、猫の身体ではままならない。それがとても辛かった。」
沖田さんは、きゅっと力を込めた。わたしは黙って話を聞く。
「願い続けるるうちに、人間に戻ることが出来ました。あなたのお陰です。あながいなければ、私は猫のまま過ごしていたでしょう。」
沖田さんは力を少し緩めて、わたし見た。強い意志を秘めた真剣な眼差しに、吸い込まれてしまいそうだ。
「私はみのりさんが好きです。あなたをずっと守っていきたい。」
心臓が跳ねる。けれど、その緊張感すら愛おしく思えた。
「わたしも。沖田さんが、好き。」
沖田さんは笑った。そしてゆっくり顔を近づけ、互いの唇が触れ合った。熱い唇に沖田さんの想いを感じる。手が震えていたし少しぎこちなかったのは、きっと緊張からだろう。
わたしたちはその晩、朝まで抱き合って眠った。ずっと、ずっと、離さなかった。
元の木阿弥
翌朝、わたしは耳障りな音で目を覚ました。ガリガリと、まるで猫が柱を引っ掻いているような音だ。ムクリと身を起こし、音のする方を見てわたしは唖然とした。沖田さんが柱で爪を研いでいた。それも、猫の姿で。
「お、沖田さん?」
呼びかけてみたが、沖田さんは反応しない。無心に爪を研ぎ続けている。わたしはごしごしと目をこすった。
「猫に戻ってるの?何で?ずっと人だったのに……。今まで爪とぎなんてしたことあったかしら?」
沖田さんは顔だけ振り向いて、にゃーんと鳴いた。わたしは手を伸ばし、抱き上げようとする。しかし、沖田さんはそれに気づくと急に爪研ぎを止めた。するりとわたしを避け、ひとりでさっさとリビングの方へ行ってしまう。わたしになど全く興味はない、と言わんばかりのその行動に、わたしはショックを受けた。
「本当に、どうしちゃったの?わたし、嫌われたの……?猫だし。もう、わかんないよ。」
リビングに入った沖田さんはこちらを振り返り、にゃーと鳴いた。わたしはしばらく呆然としていたが、そこではっと我に返った。
そうだ、今日は平日だった。とりあえず朝食を摂る必要がある。仕事は待ってくれないのだから。
いつものように、2人分の朝食を作った。けれど、沖田さんはしっぽを立てて、わたしの足元に寄ってくるだけだ。一向に食べる気配がない。
「沖田さん、食べないの?」
沖田さんは尚も足元にじゃれつく。仕方がないのでお皿を足元に置いた。すると、沖田さんは鼻をお皿に近づけ、においを確かめるようにしながら食べ始めた。恐る恐る口に入れるものの、気に入らないのか、直ぐに止めてしまった。いつも最後の一かけまで綺麗に食べる沖田さんには珍しい行動だ。もしかして、どこか悪いのだろうか。わたしはだんだん心配になってくる。
一方、沖田さんは食事に興味をなくしたようだ。食べかけのお皿を放ったまま、部屋の中を歩き、ソファに飛び乗った。そして、ソファから窓際に飛び移り、ガリガリと窓ガラスをひっかく。外に出たいのだろうか。けれど、こんな状態では出せない。今出してしまったら、このまま返って来なくなるような気がした。
「沖田さん、ダメよ。わたし、今から出勤しないといけないし。ね?」
沖田さんは、わたしをチラリとも見ようとしない。窓から降りて、次はソファのそばに置いてあった小さなバスケットの中に入ってしまった。中にはリモコンなどの小物も入っているのだが、邪魔にはならないのだろうか。
思えば沖田さんは、猫だった頃でもあまり猫らしくはなかった。けれど、今朝は本物の猫のような行動が目立つ。何だか別人(別猫だろうか)が沖田さんの着ぐるみを着ているようにすら思える。この猫は、沖田さんではない──。漠然と、けれど確信にも似た直感がわたしに訴える。
では、沖田さんはどこへ行ってしまったのだろうか。さっぱりわからないが、時間は刻々と迫っていた。
わたしは、とりあえず沖田さんとよく似たこの猫に首輪を付けて、慌てて出勤した。 何となく、この猫を見失ってはいけないような気がした。
その日もつつがなく仕事を終え、自宅に帰る。玄関を開けて中に入ると、沖田さんとよく似た今朝の黒猫が座って待っていた。猫はあくびをし、立ち上がって伸びをする。もう一度座りなおして後ろ足で頭をひと掻きし、わたしに気づくと話しかけてきた。けれど、その声はやはり沖田さんのものではない。
「やあ、やっと帰って来た。待ちくたびれてたではないか。」
猫はさも疲れたとでも言わんばかりに、大きく息を吐き出した。
「……あなた、だれ?」
「ふむ。それもそうだな。吾輩は……。」
「沖田さんはどこ?」
この猫の正体なんてどうでもいい。そんなことよりも、沖田さんが居なくなったことの方が余程重大だ。
「おい、聞ききたまえ。君から聞いたくせに。」
猫は、さもおもしろくなさそうに口を尖らせて抗議する。
「そんなこと知らないわよ!なんで沖田さんが居ないの!」
「まあまあ、少し落ち着きたまえ。」
「落ち着けるわけないでしょう!」
わたしは思わず大きな声を出してしまった。けれど、猫は少しも動じない。それどころか、すました顔で何事もなかったかのように振る舞う。わたしは余計に腹が立った。
「彼は今、仕置き中だよ。」
「仕置きですって?」
意外な言葉が飛び出した。あまりの唐突さに、事情がすっと飲み込めない。思わず口を噤み、猫を見つめた。
「そうさなあ……。よし、初めから教えるとしよう。吾輩と、沖田君とのことをね。しかし、ここじゃあなんだ。取り敢えず、居間へ行こうではないか。」
猫はそう言うと、リビングに向かってさっさと歩き始めた。わたしの部屋なのに、我が物顔で歩く猫がどうにも腹立たしい。すっかり食われてしまっているのが気に食わないが、今は彼が沖田さんの唯一の手掛かりのようだ。わたしは靴を脱いで部屋に入り、リビングで待つ猫を追った。
夢のまた夢(前編)
わたしは猫を追ってリビングに入り、パチンと明かりを点けた。鞄を置き、羽織っていた上着を脱ぐ。前を歩いていた猫はくるりと振り返ると、ピンとしっぽを立ててわたしに甘えるように摺り寄った。
「吾輩は少々腹が減った。お嬢さん、教える前に我輩に牛乳をくれまいか。」
朝食をほとんど食べなかったのだから、さぞお腹が空いていることだろう。わたしは冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出す。
「そうだ。今朝あなたが残した物もあるけど、食べる?」
「いや、牛乳だけでいい。人間の食べ物はあまり好きでなくてね。」
わたしは牛乳を皿に入れて、猫の足元に置いてやった。 猫は夢中で牛乳を飲む。余程空腹だったのだろう。なみなみとついだ牛乳は、あっという間になくなった。猫は最後の一滴まできれいに舐め取り、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「ああ、生き返った。ありがとう、お嬢さん。」
「いいえ。ねえ、それより。沖田さんは?」
「ああ、そうだったな。ではお嬢さん、始めるとしよう。」
猫はわたしに向き直った。わたしの真正面に座り、しっぽを大きく回したと思ったら、世界がぐるぐると回り始めた。ひどい目眩を起こしたようだ。立っていられないほど、頭がぐらぐらする。そのうち吐き気まで催して、もう駄目だと思った瞬間、急に穏やかになった。わたしは何が起きたのかが分からない。暫くは目が回り続け、ついに座り込んでしまった。
少し落ち着いた頃に顔を上げると、わたしは知らない場所にいた。辺りを見回すと、どうやらここは土間のようだ。どこの家かわからないが、土間なんて今時珍しい。わたそはしげしげと眺めた。
かまどの上に古いすすだらけの鍋が乗っている。物といえばはそのくらいしかなく、寂しいほどに閑散としていた。他の家財道具も極端に少なく、あまり生活感がない。掃除は行き届いているようだけれど、普段は使われていない離れ、といった感じだ。
キョロキョロしていると、背後から着物姿のお婆さんがぬっと現れた。ぶつかりそうになってわたしは驚いたが、お婆さんはすっとわたしをすり抜けてしまった。まるで、わたしがこにいないかのようだった。信じられない思いで自分からお婆さんに触ってみるが、すり抜けてしまってどうしても触る事ができない。その上、わたしはお婆さんに全く気付かれていないようだ。
どういうことだろう。もしや、あの沖田さんそっくりの黒猫のせいなのだろうか。わたしが動揺しているうちに、お婆さんは草履を脱ぎ、奥の方へ入っていった。いつまでもここにいても仕方がない。わたしも後をついて行く事にした。
奥には一部屋だけだった。襖は半分開いており、布団の端が見える。部屋は明るく、一つの塵もない。中はがらんとしていて、布団の他には縁側に吊された風鈴と葛籠 が一つ置いてあるだけだった。
お婆さんは、中の人に声をかけて部屋に入る。わたしも後に続くが、その人の顔を見てぎょっとした。 思わず駆け寄ろうとしたが、おばさんとの会話が始まった。わたしはひとまず、それをじっと聞くことにした。
「お加減はどうですか。」
「ええ、今日はだいぶ良いようです。」
「お食事は……。おやまあ、また残したんですか。」
殆ど手のつけられていないお膳を見て、お婆さんはため息をついた。
「饅頭が食べたいなあ、私。」
「菓子ばかり食べていたって、治りやしませんよ。」
お婆さんはそう言いながら残ったものを片付けて、また土間に戻って行った。カチャカチャと鳴る食器の音が、だんだん遠ざかっていく。
寝ていたのは沖田さんだった。彼は恐らく寝間着であろう浴衣を着、長い髪を頭の後ろで一つに纏めている。思わずぞっとするほど、げっそりと痩せ細っていた。顔色は悪くやつれて生気が感じられない。正に骨と皮だけ、という表現がぴったりだ。「死相が出る」とはこういうことかもしれない、とさえ思った。
わたしは元気な沖田さんしか知らない。そのせいか、目の前の彼はまるで別人のようだった。けれど、あの涼しげな目はそのままで、むしろ更に澄んで見える。
お婆さんがいなくなってから、彼は遠い目をしてぼそりと呟いた。
「……どうせ、もう治らないのだから。」
風鈴がちりんと鳴る。
わたしは、もう見ていられなかった。廊下に出て部屋から目を背け、壁にもたれて項垂れる。するとその時、縁側に黒い猫が現れた。きっとあの黒猫だ。わたしは黒猫を追いかけようとした。
しかし、驚いたことに、わたしよりも先に沖田さんが行動した。
彼は脇に置いてあった葛籠の中から刀を取り出し、畳を這うように移動する。やっとの思いで縁側まで辿り着き、黒猫に斬りかかった。けれど、あと少しのところで猫はひらりとかわし、あっという間に逃げてしまった。沖田さんは脱力し、そのまま縁側に倒れ込む。
「ああ、また、駄目だった。こんなことでは、私は何の役にも立てない。」
沖田さんは目を閉じ、ため息をついた。荒く、浅い呼吸をして、身体中が汗ばんでいる。どうやらそのまま動けなくなってしまったようだ。物音を聞きつけて、先ほどのお婆さんが慌てて戻って来た。沖田さんの姿を見たお婆さんはさほど驚く風でもなく、淡々と彼を布団に戻していく。
「今度はどうしたんです。また猫ですか。」
「ああ、斬れない。……斬れないよ、婆さん。」
沖田さんは布団に倒れ込み、うなされるかのように呟いた。それを聞きながらお婆さんは彼に手を貸しながら、「はて」と首を捻る。
「罰が当たりますよ。猫を斬ろうだなんて。それにしても、どこの猫でしょうねえ。この辺りに猫を飼う家なんてなかったはずだけれど。野良もあんまり見かけなかったんですけどねえ。」
「さあ。でも、最近よく現れますよ。黒い猫だった。」
「さあさあ、いいから寝てください。こんなことばかりしていたら、治るものも治りませんよ。」
そう言って、お婆さんは沖田さんから刀を取り上げた。そして、彼に寝るように促す。沖田さんは不本意そうに口を尖らせているが、抵抗する力もないようだった。
すると、沖田さんは突然咳込んだ。力無く、乾いた咳だった。沖田さんの口から、ごぼっと赤いものが溢れる。ゼイゼイと息をする沖田さんを支えながら、お婆さんは手拭いで血を拭う。
その時、また黒猫が縁側に姿を見せた。沖田さんは、目を瞑ったまま、お婆さんに言った。
「婆さん、あの黒猫は……また来てるだろうなあ。」
お婆さんは縁側まで見に行った。辺りを見回し猫を探しているようだが、猫はずっと縁側にいる。寝そべって、じっと沖田さんを見ている。けれど、どうやらお婆さんには見えていないようだった。
「なんにもいやしませんでしたよ。それよりも、しっかりお休みなさいな。」
沖田さんはそのまま布団を被って寝ている。お婆さんは沖田さんの近くに座り、彼をうちわで扇ぐ。黒猫はわたしをじっと見つめ、こちらまでやってきた。
「お嬢さん。吾輩は、彼の思念なのだよ。吾輩は毎日彼を見舞っていたが、もう3度も襲われた。けれど、彼は遂に吾輩を斬ることはできなかったがね。」
わたしは頷いた。涙が一粒、頬を伝って落ちていく。
外は太陽がキラキラと輝く。柔らかな風が軒先の風鈴を揺らし、遠くで蝉の声がした。のどかで穏やかな時間が、ただ流れていた。
夢のまた夢(後編)
気付けば何もない真っ黒い場所にいた。ぼんやりする頭で、これまでどこでどうしていたのかと、必死に思い出す。
「そうだ、黒猫はどこへ……。」
はっとして辺りを見回すと、黒猫も一緒にいた。わたしの足元で、猫はうんと大きく伸びをしている。猫は「やっと目覚めたか」と言って、その場に座り直した。
「あの後すぐ、彼は死んだ。」
「そう……。」
「彼は最後まで新撰組のために生き、戦う事を望んだ。誰の役にも立てず、落後したまま死ぬことを最も恐れた。あんな身体でも、戦場に戻り戦いたいと願っていたのだよ。吾輩を斬ろうとしたのも、その現れだろうな。」
聞きながら、わたしは沖田さんと出会った頃のことを思い出していた。飄々として、明るく、あまり悲壮な印象は受けなかった。沖田さんは「庭先に現れる猫をどうしても斬れずに、体力の衰えを痛感したのだ」と言っていた。わたしが思っているよりもずっと、辛い思いをしていたのかもしれない。
「そこでだ。吾輩は、彼にもう一度チャンスをやろうと思った。だが、彼は人を斬りすぎた。どんな理由であれ、その事実は消えない。」
「沖田さん、自分のために斬っていた訳ではないと思うわ。」
わたしは、同意を求めるように猫を見つめた。猫もこくりと頷き、話を続ける。
「わかっているさ。吾輩は彼の思念なのだからな。」
「だったら。」
「あの時代には、そういう役割を担う者は何人もいた。彼らにとってそれが当たり前の事だったとしても、それとこれは別なのだ。」
猫は続けて熱弁を振るう。熱のこもった演説するような話し方だ。
「殺生をせずに生きることができるならば、ということさ。しかし、彼は腕が立つ。そこで、剣の通用しない時代へ、猫の姿にして送り出した。これなら、間違っても殺してしまうことはあるまい。特別に吾輩と同じ身体だぞ。」
「変わった色だとは思っていたのよね。」
「ふふふっ、そうだろう。」
猫は得意げに鼻を鳴らした。心なしか、ふんぞり返っているようにも見えないこともない。
「その上で、優しそうなお嬢さんの所へ遣ったのだ。君も寂しそうだったからね。我が輩の狙い通り、彼を受け入れてくれた。」
あの日、突然現れたのはそういうことだったのか。密室だったはずの部屋に沖田さんがいて、何事かと驚いたものだ。
「彼はまず、言葉を欲した。彼は温厚で誠実だったから叶えてやった。そうそう、お嬢さんのこの首輪。実はこれがミソなのだよ。」
猫は、自分の首に付いている紫色の首輪を前足で指した。前にわたしが買って、さらにアメジストを取り付けたものだ。今朝、沖田さんだとは違うと思いつつ、縋るような気持ちでこの猫に付けてから出勤した。
「これが?どこにでも売っているわよ。」
「厳密には、この石だな。ここに沖田くんの願いと、吾輩の猫妖術を込めたのだ。」
「猫妖術……。思念って言っていたけれと、つまり化け猫なのね、あなた。」
わたしがそう言うと、猫はさほど気にすることもなくあっけらかんと答えた。
「まあ、そうだな。人は我々をそう呼ぶ。100年も生きれば仕方あるまい。」
「あなた、一体いくつなの……?」
驚いて聞き返したが、猫は特に気にすることもなく続ける。
「そんなものは忘れたよ。ただ、猫の力だけではこんなにも長生きできない。吾輩の場合は沖田くんの思念を頂戴し、糧にした。」
「食べちゃったの?」
「ほんの少しだけな。猫が喰らうと昇華され、能力が大幅に底上げされるのだ。吾輩はその恩恵を受けて、こうして今も生きている。沖田くんの思念は鋼のように強靭、それでいて清水のように清らかでね。強い力になったよ。」
まさかそんな物を食べていたとは思わなかった。わたしはますます驚き、思わず上ずった声が出た。
「化け猫って、もっと恐ろしいものだと思っていたわ。」
「猫にも色々と事情があるのさ。場合によってはこの限りではないぞ。例えば、吾輩の友人にタマ君というのがいてね。彼は昔、人間に無残な殺され方をしたらしい。以来、彼は恨みのあまり……」
「そ、そう。怖いから、その話はもう止めましょうよ。」
「そうかい?では、続きといこう。彼は次に、人に戻りたいと願った。お嬢さんを守るためならば、とな。これも叶えてやった。しかし……。」
猫は、一度息を吐き、大きく吸った。そして、急に語気を荒げ、怒り始めた。
「奴はまた人を傷つけた。吾輩が止めなければ、危うく人を殺めるところだった。」
恐らく、木島に襲われた時のことを言っているのだろう。けれど、それは何も沖田さんが好き好んでしたことではない。
「それは不可抗力じゃないかしら。襲われたのはわたし達の方なのよ。それに、いくら何でもまさか本気で殺そうだなんて……。」
「いいや、奴は本気だったよ、お嬢さん。力の差も歴然だった。同じ過ちを繰り返すことは許されない。よって、吾輩は彼を猫に戻した。」
理不尽な猫の言分に、わたしはむっとして反論した。けれど、猫も譲らない。
「そんなの、ひどいわ。戻してよ。沖田さんのせいじゃないのに。まだ少し、現代の感覚に戸惑っているのよ。」
「吾輩の責任上、危険な者を放っておくわけにはいかないのだよ。」
「よく言って聞かせるわ。それに、またあの男が来たらと思うと、怖いの。わたし一人ではどうにも出来ないわ。警察にだって相談はしているけれど、何か起こらないと動いてくれない。沖田さんがいてくれて、わたし本当に心強かったのよ。だから、お願い。お願いよ。」
わたしは頭を下げた。沖田さんを戻して貰おうと必死だった。猫はしばらく考える素振りを見せ、こう言った。
「……今後の生活次第だな。」
「どういうこと?」
猫に聞き返したとき、ぷつりと何かが切れた。途端に目の前が真っ暗になり、上も下もわからなくなるような妙な感覚に襲われる。すうっと何かに吸い込まれるような感覚を最後に、それ以降の記憶はなかった。
気がついたとき、わたしはリビングに戻っていた。ゆっくりと起き上がり周りを見回す。ふと視線を落とすと、黒猫がわたしの膝の上にいた。金色の目をぱちくりとさせて、わたしを見つめている。首には見慣れた首輪が付いていた。
「……沖田さん?」
「ええ、そうです。つい今し方戻りました。経緯(いきさつ)は猫に聞きました。みのりさんも、大変だったでしょう?」
「沖田さん……良かった、良かった……。戻って来てくれたのね!」
涙が滲んでよく見えない。本当に戻って来てくれたのだ。わたしは沖田さんを抱き上げ、そのまま抱きしめた。彼はいつかのように、涙を舐めとってくれる。それが嬉しくて、わたしはしゃくりあげてまた泣いた。
「そうだ、お仕置って、聞いていたの。大丈夫?」
しゃくりあげながら、沖田さんに聞いた。聞きたいことがたくさんあったが言葉になったのはこれだけだった。
「猫じゃらし地獄でした。我ながら、よく耐えたと思いますよ。」
沖田さんは、にっと笑った。彼曰く、小さな空間のなかで、たくさんの動く猫じゃらしに絶えず囲まれて続けていたそうだ。どうしても捕まえたい衝動に駆られ、つい追いかけてしまうらしい。そのため、相当な体力を消耗するが、力尽きるまで追い続けてしまったと、ため息をついた。
「よかった。どこも悪くないわよね。怪我してないわよね。」
「大丈夫ですよ。でも、また猫に戻ってしまいました。今度は、私があなたを抱きしめて差し上げたかったのに。」
沖田さんは耳をぺたんこにし、いかにもがっかり、という出で立ちだった。それでも、わたしは沖田さんが帰って来てくれたことが嬉しくて仕方ない。ふわふわとして暖かい沖田さんを、さらに優しく抱きしめた。
けれど、私たちは気付いていなかった。木島が、私たちの居場所を嗅ぎ付けていたことを。
赤心を尽くして
小気味よく晴れた秋の1日のことだった。そろそろ暖かいものが恋しくなる。わたしはスーパーマーケットで食料を調達してきた。「今夜は鍋にしようかな」などと考えながら、いそいそと家路につく。
しかし、どうやらわたしは待ち伏せをされていたらしい。気づいた時には既に遅かった。わたしは家の玄関を開けるなり、例のストーカー男・木島によって、玄関に押し込められていた。
乱暴に腕を掴まれ、引っ張られる。持っていたスーパーの袋が壁にぶつかった。袋を落としてしまい、入っていた卵が割れたらしい。黄色い液体が流れ出て、玄関を汚していく。 割れた卵が、まるでわたしの分身のようだ。黄色い水たまりをぼんやりと見つめていると、木島は袋ごと踏み潰した。後ろ手で玄関の鍵を閉め、にやりと笑う。
木島の手には、鈍く光る物が握られていた。何を持っているかを理解するよりもわずかに早く、部屋の中から沖田さんが飛び出した。 沖田さんは、ばっと木島の右腕に飛び付く。わたしは木島の気が逸れた隙にさっと離れ、とりあえず部屋の中へ逃げた。
木島は包丁を握り締め、刃先をこちらに向ける。血走った目は、じろりとわたしを睨みつけていた。沖田さんは、頭からしっぽの先まで全身の毛を逆立てている。そして、フーッと唸るような声を出した。相当怒っているようだが、あの日からずっと猫のままだ。人間には戻っていない。いくら沖田さんでも、これではさすがに分が悪いだろう。
木島が玄関から一歩踏み出した。土足で廊下をずんずん歩き、距離を詰めてくる。わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
「みのり。今日は一人なのか。あの男は、いないんだな。」
「だ、だったら、なんだっていうのよ……!」
沖田さんがわたしの前に出た。爪をぴんぴんに伸ばし、今にも跳びかからんばかりの形相で木島を睨みつける。庇ってくれようとするのは嬉しいが、猫のままでは心許ない。今度ばかりはさすがに命の危険を感じる。黒猫に「今後の生活次第だ」と言われたことは気がかりだが、もうそれどころではなかった。
木島は行く手を阻もうとする沖田さんを蹴飛ばした。全身を壁に打ちつけられて、沖田さんはぐったりしている。遂にわたしの目の前までやって来た。私は後ずさりし、じりじりと壁際に追い詰められていく。木島の目と包丁が、ギラリと嫌な光を放つ。 わたしはチラ、と沖田さんを見た。沖田さんは、目はしっかり開いている。けれど、まだ動くことはできないでいるらしい。鋭い視線だけをこちらへよこした。
わたしは冷や汗をかきはじめた。全身の血液が逆流しているかのような感覚だ。このままではいけないのはわかっている。けれど、足が竦んで動けなかった。口がからからに乾き、声も出ない。目はだんだん近づく刃先と木島の目とを往復している。膝はがくがくとし、震えが止まらない。腰を抜かしそうになった時、木島が急によろめいた。どうやら沖田さんが体当たりをしたようだ。
しかし、やはり猫の力では男に及ばない。包丁を振り回しながら襲いかかる木島としばらく格闘した後、今度は首根っこを掴んで投げ飛ばされてしまった。床に落ちた沖田さんは、カエルが潰れたような声を上げてうずくまってしまう。それでも立ち上がろうと懸命に手足をバタつかせていたが、うまくいかない。少し斬られてしまったのか、所々に赤い線が滲んでいた。
「沖田さん!」
「変な名前だな。生意気な猫め。おい、みのり。猫よりも、俺がいるだろう。もうずっと、離さないからな。」
木島はそういうと、包丁を構えた。刃先は真っ直ぐにこちらを向いている。わたしはギュッと目をつぶり、身構えた。いよいよ、もう駄目だと思った。
わたしが一体何をしたのだろう。何故こんなことになるんだろう。そう簡単に人生を諦める事などできない。どうして、どうして……心も意識もぐちゃぐちゃだった。
やがて嫌な音が聞こえ、わたしは体の奥底からぶるりと震えた。しかし、何も感じない。痛くもないし、死んだにしてもまるで実感がない。恐る恐る目を開けてみると、とんでもないことが起こっていた。
眼前の惨事に、さっと血の気が引く。わたしと包丁の間に、沖田さんがいたのだ。彼の黒い右脇腹がみるみる赤く染まり、苦しそうに表情を歪める。これには木島も驚いているようだ。すっかり動きが止まってしまっている。
「お、沖田、さん。嘘……嘘よ。そんな……。」
わたしはよろよろとその場に座り込んだ。沖田さんもわたしの膝の上にずり落ちてくる。わたしは彼を必死で受け止め、抱きしめた。
着ていた上着を脱いで傷口に当て、止血しようと試みる。その時、ぼんやりと沖田さんが淡く光った気がした。錯覚かと思っていると、光のベールが幾重にも現れ、どんどん明るくなっていく。やがて目を開けていられない程に強く青白い光に変わり、眩い光が彼の全身を覆う。さらにもう一度強く光ったと思ったら、直ぐに光が消えた。
沖田さんの姿が再び見えたとき、彼は人間に戻っていた。 わたしは慌てて首輪を外した。彼のお腹は真っ赤だ。血の気の引いた青い顔をして、寒そうにしている。
木島はますます驚いたらしい。目を白黒させて沖田さんの変化を見ていた。けれど、現れたのはいつか自分を撃退した沖田さんだ。我に返った男は「今なら勝てる」と小さく呟く。包丁を構えなおして、こちらに向けた。
「狂ってる。あんた、おかしいわ……やめてよ。」
木島は鼻で笑った。わたしはの訴えはあっさり無視されてしまったらしい。足に力が入らない。立ち向かったところで適うはずもない。わたしは沖田さんを抱きしめ、今度こそ殺されると思った。
木島が振りかぶったその時、沖田さんがカッと目を見開いた。次の瞬間にはわたしの腕を振りほどき、立ち上がって木島と対峙していた。
沖田さんは片手で木島の包丁を持つ手を抑え、動きを封じる。さらにもう一方の拳で木島の顔を殴り、その手から包丁を奪った。そして、その包丁の柄で木島の首にもう一発お見舞いし、完全にのしてしまった。怪我人とは思えない身のこなしに、わたしは呆気にとられる。
木島を取り押さえることに成功した。けれど、同時に沖田さんもその場に倒れてしまった。わたしは慌てて沖田さんに駆け寄ったが、足がまだ震えている。もつれるようにしながらなんとかたどり着いて、沖田さんの顔を覗き込んだ。
「沖田さん、ごめんなさい。庇ってくれたのね。どうしよう……血が止まらない。」
赤がどくどくと溢れて、床に染みをつくる。押さえても、押さえても、どうにも止まらない。涙が零れて沖田さんの頬に落ちた。
「あなたが無事で、良かっ……た。」
「でも、沖田さんが……。」
「私……今まで、大きく斬られた……ことなんて、なかったのにな。まさか、この時代にきて刺されるなんて、思いも、しませんでした。」
沖田さんはわたしを確認すると、ほっとしたような表情をした。けれど、話し方は「息も絶え絶え」と言った風た。
「私が斬った連中も、こんな気分だったのかな。」
沖田さんは笑った。苦しそうに肩で息をしながらも、どこか吹っ切れたような顔をする。
「黒猫が言ってたの。人を傷つけたら、沖田さんは今度こそ許してもらえなくなっちゃう。ごめんなさい。わたしのせいよ。わたし、わたし……どうしたらいいの。」
「良いんですよ、みのりさん。それに、あなたのせいでも、ありません。私は、既に罪を、重ねてきましたからね。当然の報い、です。」
「そんなこと、言わないでよ……。」
涙でよく見えない。沖田さんの顔も歪んで見えた。
「私は、あなたに幸せを沢山、沢山もらいました。そして、あなたを守る、ことができた。十分過ぎるくらいです。」
沖田さんは目を閉じた。右手でわたしの頬をするりとひと撫ですると力が抜け、バタリと床にぶつかった。わたしは必死で彼に呼びかける。時々ピクリと反応するけれど、それだけだった。
その後、沖田さんは病院に運ばれ、木島は警察へと連行されていった。
終わりは始まり
後の聴取で知ったことだが、木島はわたしの新しい家の近所にある小さな病院で事務として勤めていたらしい。逃げたつもりが、却って近づいてしまっていた。今更後悔しても仕方がないが、運の悪さに恨めしさすら覚える。
わたしも関係者として、事情を話しに何度か警察へ行った。他にも沖田さんを看病したり、沖田さんの戸籍問題のために奔走したりして、あっという間に二週間が過ぎてしまった。けれど、沖田さんは未だ目覚める気配がない。
わたしは沖田さんの病室の窓を開け、風を入れる。来る途中で買ったコスモスを活けて、わたしはベッド脇の椅子に腰掛けた。
沖田さんから外した首輪をぎゅっと握りしめる。彼が急に人間に戻ったので、大慌てて外した。そのために金具が壊れ、ベルト部分も破れてペラペラしている。
沖田さんを見つめながら、深いため息をついた。
「せっかく貰った命なのに。こんなのないよ……。」
彼は青白い顔をして横たわっている。失血し過ぎて一時は命が危なかったらしい。何とか一命を取り留めたものの、意識は未だ戻らないままだった。
生きているのか心配になるくらいに、彼は静かに眠っている。いつ目覚めるのか、それとも、もうこのまま目覚めないのか。それは医師でもわかりかねるとのことで、あとは本人の生命力を信じるしかないとまで言われた。
もう涙も出なかった。何も考えたくなかった。殺風景な白い壁が、余計に不安をかき立てる。
すうっと風が吹き、コスモスの花びらを揺らした。その秋風はわたしの身体の中までも吹き抜けて行くかのように、ただただもの悲しさに暮れていた。
にゃーん──
そんな時だった。どこからともなく、猫の鳴き声が聞こえた。わたしはハッとする。
「猫……?もしかして!」
気位の高い黒猫を思い浮かべたと同時に、何処からともなく例の黒猫が現れた。沖田さんの胸の上に座って、しっぽをくるりと持ち上げる。そして、再度にゃーんと鳴き、わたしを見つめた。
わたしは握っていた首輪を見る。これがあれば、また話が出来るはずだ。曲がった金具が折れないように慎重に戻し、やや不恰好ながらも猫に付けた。
「やあ、お嬢さん。また会ったな。元気がないようだが、大丈夫かい?」
「大丈夫なわけないでしょ。殺されそうになったし、沖田さんもこんなだし。大変だったんだから。」
「ああ、だから来たのだよ。」
猫は相変わらずだ。飄々として、何でもなかったかのような口調に、わたしはまた深いため息をついた。
「言っておくけど、沖田さんは殺さなかったわよ。その上で撃退したんだからね。刺されていたのに!」
わたしはじろりと黒猫を睨み付ける。恨み言を言ったところで何も変わらないが、どこかにぶつけたかったのかもしれない。
「もっと、もっと早く人に戻してくれていたら、こんなことにはならなかったわ……!」
最後の方は、だんだん涙声になってしまった。鼻をすすりながら、黒猫に訴える。
「吾輩は間違った事は言っていないさ。しかし、こんな事件に巻き込まれるとはな。吾輩も責任を感じるからこそ、こうして出向いたのだ。」
「呑気なこと言わないでよね。」
わたしはぷい、とそっぽを向いてやった。完全に猫のせいというわけではないけれど、責任の一端はあると思う。
「そう怒らんでくれよ、お嬢さん。」
「だって……このままじゃ、沖田さん……。」
今度こそ、本当に沖田さんは死ぬかもしれない。そう言いかけて、わたしは俯いた。口に出すとまた泣きたくなる。それに、これ以上言ってしまうと、本当にそうなってしまいそうだ。どうしても言いたくなかった。
そんなわたしの様子を見て、黒猫は自信満々といった風に胸を張った。もしも、彼が人間だったなら、ドンと胸を叩いていただろう。
「吾輩だって、ちゃーんと考えているのだ。任せておきたまえ。安心していいぞ。ところで、お嬢さん。牛乳を頼めるかな。」
「そんなものないわよ。ここ、病院だもの。」
「腹が減っては戦はできぬ、と言うではないか。」
猫はベッドから降り、わたしの脚にすり寄る。
「もう、分かったわよ。しょうがないわね。買ってくるから、そこで待ってて。」
「すまないね。お嬢さん。」
「よく言うわよ。」
全く。いつもいつも、この猫は牛乳をせびるんだから。などとうそぶきながら涙を拭い、わたしは売店まで急いだ。
それにしても、あの黒猫。普段は何を食べて生きているんだろうか。現れた時は、いつもお腹を空かせているような気がする。
そこまで考えたとき、後ろから声がした。「出来れば低脂肪乳にしておくれよ」と、黒猫が更に注文を付けてきた。図々しいのも変わらない。けれど、いつかの時のように、手掛かりはあの猫しかないのだ。牛乳一本で沖田さんを助けて貰えるのなら、安いものだと思った。
「ああ、うまかった。腸に染み渡るようだよ。」
牛乳をたらふく飲んだ黒猫は、満足そうに前脚でお腹をさすった。表情も緩みきっている。そのまま昼寝でもしてしまいそうな様子だ。 ちょうどお昼時だったので、わたしもお弁当を買って一緒に食べた。空になった容器を捨て、またベッド脇の椅子に座り直す。
「よし、では始めるとしよう。」
黒猫はさっと立ち上がり、ベッドに飛び乗った。沖田さんの胸の上をうろうろと歩き回り、彼の身体の真ん中あたりに座り込む。にゃーと鳴いて、しっぽをくるりと一振りした。
すると、わたしは突如として猛烈な眠気に襲われた。どうにも目蓋が重い。とても開けていられる状態ではなくなった。あっという間に意識が遠のき、わたしはそのまま眠ってしまった。
わたしが目覚めた時、辺りはすっかり暗くなっていた。しんと静まり、物音はほとんどしない。
あれから何時間経ったのだろう。わたしはゆっくりと体を起こし、ごしごしと目を擦った。どうやら椅子に座ったまま、沖田さんのベッドの端に突っ伏して寝ていたらしい。
「そうだ。黒猫は……。」
辺りを見回すが、黒猫は見当たらない。むしろ、ここで黒猫に会ったことすら、夢か幻だったような気がする。
首をかしげたその時、呻き声が聞こえた。わたしははっとして沖田さんを見る。
「うう、う……。」
「沖田さん?」
うっすらと目が開いている。わたしは何度も何度も確認した。それでも、沖田さんの目が開いている。わたしは嬉しくて、泣きながら笑っていた。それを見た沖田さんは、横になったまま不思議そうな顔でわたしを見ている。
「みのりさん?私は……そうか、刺されたんでしたね。また死んだかと思いましたが、生きているようです。」
「良かった、本当に……。」
沖田さんは、泣きじゃくるわたしにそっと手を伸ばし、涙を拭う。わたしはその手を握り、自分の頬に寄せてまた泣いた。
「夢にあの黒猫が現れたんです。早く起きろと言われました。その時、あなたがわたしの枕元で泣いているのも見ました。それで慌てて飛び起きたんです。」
「猫が、来たの。この病室に。あなたを助けるって。」
「そうですか。彼にも感謝しないといけませんね。」
沖田さんは笑った。まだ弱々しいながらも、顔色は良く、生気があるように感じた。
「私はあなたと出会ったとき、あなたと会話したくてたまりませんでした。その内、人間に戻りたいとも思うようになりました。そう願い続けるうち、私は遂に人に戻ることが出来ました。すると次は、とても怖くなりました。」
すう、と大きく息をついて、沖田さんは続ける。
「私は今まで、死ぬことを怖いと思ったことはありませんでした。戦って死ねるなら本望でした。けれど、今は怖い。あなたを守れなくなることが、あなたを失うことが、とても、怖い。」
沖田さんはそう言って、わたしの髪を一房手に取って軽く口付けた。なんだか恥ずかしいような、でも嬉しいような、ひしめき合うような幸福感に満たされる。この人が、心底愛しいと思った。
「猫、助けてくれたんだね。どこに行ったのかしら?」
「さあ、わかりません。私は夢でしか見ていませんし、直ぐにいなくなってしまった。それより。私はもう猫にならないような気がします。完全に人に戻れたんですよ、きっと。」
「どうしてわかるの?」
彼は確信に満ちた顔で話した。
「何となく、そういう感じがするんです。昔、完全に人だった頃の感覚が戻ったようなんですよ。それに、夢で猫が言ったんです。今後、私が誰かを手に掛ける事があれば、次は容赦なく完全な猫にする、と。」
沖田さんは柔らかく微笑んだ。わたしも嬉しくて、霧が晴れたように心がぱっと明るくなった。
「じゃあ、そこに気を付ければ……!」
「ええ。恐らく、一生人間のままで過ごせるでしょう。本当に、彼に感謝しなければ。」
「良かったね。沖田さん。沖田さんなら大丈夫よ。あんなこと、そうそうあっちゃたまらないわ。」
わたしは沖田さんの手をきゅっと握った。彼もそれに応えるように握り返してくれた。
「努力します。私だってこのままがいい。それよりも。ありがとう、みのりさん。ずっと看ていてくれていたのでしょう。」
沖田さんはもう一方の手で、再度わたしの頬を撫でて微笑んだ。
「愛しています。みのりさん。私には、あなたしかいない。」
わたしはまた泣いた。声をあげて、子供のように。これ以上の幸せなんて、きっと他にはないと思った。 わたしにだって、沖田さんしかいない。いつの間にか、かけがえのない人になっていた。
それからの沖田さんはみるみる回復した。医師や看護師も驚く程、あっという間に退院できてしまった。つい最近まで意識がなく、生死をさ迷っていたなんて信じられないくらいだった。
そして、戸籍問題も片付いた。幾度もの手続きの末、無事に就籍届を出すことができた。ただ、流石に「沖田総司」では有名すぎる。それでは何かと支障が出るだろうと思い、彼の本名である「藤原房良(ふじわらのかねよし)」と混ぜて、「藤原総司」として届けることにした。
藤原さん、もとい沖田さんは、手始めに夜間中学に通いながら仕事を探すことにした。そして、幸運にも2駅先に剣道道場を見つけた。その道場で助手として、手伝える事にもなった。沖田さんは教えるのはあまり上手くないようだけれど、剣の腕前は折り紙付きだ。お金を貯めて、いずれ自分の道場を建てるのだと張り切っている。新しい目標も出来て、まずまず順調だと思う。
その後も、黒猫は現れなかった。沖田さんも、ずっと人間のままだ。
それから更に1年が過ぎた。
肩に淡い秋の陽を感じ、ぽかぽかとして気持ちがいい。わたしは沖田さんと2人で、わたしの実家の目の前にいた。沖田さんはカチコチに緊張している。着慣れないスーツ姿で、さらに窮屈そうにしている。私たちは、2人して玄関先でそわそわしていた。
「総司さん、大丈夫?入る前から疲れてない?」
「大丈夫。それよりも、きちんとご挨拶しなければ。」
そうは言うものの、総司さんの顔は引きつり強張っている。
「そんなに緊張しなくてもいいのに。」
「そいつは仕方ないさ。何たって、みのりのご両親なんだから。」
「取って食われたりしないよ。」
「はは、それもそうか。……近藤先生、土方さん、おミツ姉さん。私の一世一代の大勝負です。草葉の陰から見守っていてください。」
よし、と気合いを入れる総司さんを見ながら、わたしは草葉の陰から総司さんを見守る3人を想像してしまった。
「草葉の陰って……。」
「だって、みんなとっくに死んでいるんだから。」
「今度、お墓参りしようか。近藤さんのは知らないけど、土方さんのは墓碑くらいあったと思うの。そうそう、総司さんのお墓もちゃんと残っているそうよ?」
そう言うと、総司さんの顔がますます引きつった。緊張を解すつもりが、却って逆効果だっだろうか。
「いや、私のは止そう……。もう、当分死にたくない。」
総司さんは何かを振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。
総司さんは玄関チャイムを押した。家の中で母が返事をして、バタバタと玄関に向かって来るのが聞こえる。
両親には総司さんが幕末から来たことをまだ教えていない。彼があの沖田総司だと言ったとしても、信じてもらえるかどうかは分からない。また一波乱起きるかもしれない。けれど、総司さんの人柄を分かって貰えればきっと大丈夫だろう。
さわやかな風に吹かれるような気持ちで、わたしは総司さんを見上げた。彼も顔をこちらに向けて、微笑み返してくれる。彼の後ろには、晴れて澄み切った秋の空がどこまでも広がっていた。
後で聞いた話だが、母が玄関を開けた時に、わたし達の後ろの道路に黒い猫が座っていたらしい。猫はしっぽを大きく一振りすると、直ぐに消えてしまったそうだ。
完
黒い猫
構想を練っているときは、実は沖田総司を出すつもりではありませんでした。ざっくりと「魔界の帝王が勇者にでも倒された後、何かの理由で召還された」くらいに考えていました。
今でも、それはそれで良かったかな?とも思います。ですが、魔王を改心させたらただのオッサンになってしまいそうなので止めました。だいたい、極悪人だからこそ魔王はカッコイイのです。
次の候補が沖田さんでした。わたしは、昔から日本史が好きです。特に詳しい訳ではないし、誰が好きとかいつの時代がいいなんてこともありませんが、好きです。加えてこの作品を書いた頃は幕末がマイブームでした。心がそのあたりにあったので、この時代の人にしようと思ったわけです。
あの時代は優秀な人がホイホイ亡くなっていますから、「志半ばで、しかも若くして、(恐らく)この世に未練を残して死んだ」という今回の設定において、人材には事欠きません。特に土佐藩なんて酷いもんですよね。
個人的には武市半平太が男前で賢くてステキだと思います。けれど、この方は結構過激な考えをお持ちだったようです。所謂テロリスト的な志士なので、猫のまま戻してもらえなくなりそうなので却下しました。
坂本龍馬も面白い人物です。土佐弁が難しいこと以外は適任だったかもしれません。けれど、彼はあまりに人気者過ぎるのでやっぱり却下。もし、彼が猫になっていたら紫がかってない真っ黒にしていたかな、と思います。
そこで沖田総司です。彼の儚い人生がこの設定に合う気がして、猫になっていただくことにしました。それに、彼はまだ20代。先の二人よりもはるかに若いです。人生のやり直しもし易そうですし、ヒロインと年も近いしでちょうどいいかとも思いました。
今思えば龍馬さんや武市さんを猫にして、歳の差恋愛、若しくはアラサーヒロインにしてもよかったかなとも思います。けれど、まあそれはいいでしょう。ちなみに、猫の時の黒いけど紫がかっていた毛の色は、わたしが持つ沖田さんのイメージと、普通に居そうにない色にして個別化したかった事との2つです。
そして、更に最近考えたのは、いっその沖田さんでもない無名の志士か新選組隊士でもよかったかな、ということでした。対場とか内容を合わせるならば、会津藩士でもいいかもしれません(同じではないでしょうけれども。)。
いっそ、架空のそれらしい人物を作ってしまった方がよかったかもしれないな、と今更ながら思います。もしかしたら、往生際のわるいわたしは性懲りもなく、名もない剣士編を改めて書くかも知れません。
化け猫の設定は思いつきです。人の思念で100年生きるなんて、きっと何を調べでも出てきません。怨みをもって死んだ猫が化け猫になる、というのは有名な話ですのでこれは調べれば直ぐに出てくると思います。
猫が20年生きると化け猫になる、という説もあります。さらに、飼い猫ならそのくらいの年齢になれば人語を解する、とも言われているようです。実際に、長年猫を飼っている知人によると、どうやら思い当たる節があるとのこと。面白いです。
ちなみに、沖田さんが亡くなる前に「いつも庭に現れる黒猫を斬ろうとして斬れないまま亡くなった」というのは実話だそうです。実際に看病をしたという老婆の証言があったんだとか。そういう逸話が残っているので、これも調べると直ぐに出てくるはずです。
それにしても。斬ろうとしたなんて、それこそ化け猫になりそうな気がしますが……。斬れなかったからセーフでしょうか。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。これにて「黒い猫」は完結です。ご愛読、ありがとうございました。
以下、誰でも知ってそうな小ネタ集
1.沖田さんは年齢不詳
沖田総司の享年は三つ説があります。沖田家累代墓碑を元に24歳、沖田家に伝わる書物を元に25歳、生年から換算して27歳。
本小説、「黒い猫」では24歳説を採用しました。理由は上記のあとがきをご参照ください。
書くにあたって、沖田さんの年齢が、「確か、そのくらいで若かったような」と思い、調べてみたら三通りも出てきて「あらま」と思ったものです。
ちなみに、生年もはっきりしないんだとか。なのに「生年から換算して27歳没」ってどういうことだろう笑。年齢不詳ですね。
2.お墓が残ってます
本作最終回で沖田さんの墓所の事にも触れていますが、今も東京都内のお寺にあるそうです。ただし、一般人の立ち入りは禁止らしいですが。
昔、新選組ブーム?が起こったそうで、一時ファンが殺到したそうです。けれど、ファン達のマナーの悪さに辟易した住職が、その墓地を立ち入り禁止になさったんだとか。懸命な判断でしょうね。それは。
3.本名はまるで別人
作中にも出ましたが、沖田総司は通称名です。本名は藤原房良(ふじわらのかねよし)というそうです。下の名前ならともかく、苗字まで変わるなんてどういうことなんだろう。不勉強がバレます。
普段使うフルネームだと、沖田総司房良となるんでしょうか?ちなみに、あとがきにも出てきた二人は、坂本龍馬直柔(なおなり)、武市半平太小楯(こだて)がフルネームなんだとか。
諱(いみな:「直柔」や「小楯」の部分)や本姓のシステムがイマイチよくわかりません。諱が本名なのは最近知ったんですが、えらい人が呼ぶときに使ったり、本人が死んでから使う名前だそうです。通り名で使う苗字の他に、更に本姓があるってなんてややこしい……!
以上、たぶん結構な人数の方がご存じであろう小ネタ集でした。お粗末様です。