太平洋、血に染めて 「紅の棺」
「エキストラにさようなら」の翌日に起こった出来事です!!
*オープニングテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=3QXlTkW95hM
ミサイルが直撃した空母のブリッジは上半分がふきとび、まるで王冠のようにギザギザになっている。その王冠の上に、今日も太陽が白く輝いているのであった。
大五郎はヨシオとふたりで舳先に立っていた。腕組みをして仁王立ちになり、いつものように舳先の示す水平線をだまってながめていた。波で空母が上下し、水平線の位置が高くなったり低くなったりしている。空母は、ゆっくりと波に運ばれていた。操舵室のあるブリッジは大破し、舵やスクリューは潜水艦の魚雷攻撃を受けて破損していた。つまり、この空母は自力で進むことができないのである。
甲板にいるのは自分とヨシオのふたりだけ。とても静かである。青空の下には、見渡す限りの碧い海が広がっている。ちかくに陸地はないのだろうか。水平線の先に見えるのは、大きく真っ白な夏雲だけだった。
腕組みをしたまま、大五郎は傍らののヨシオをふと見上げた。
「きょうもいいてんきだね、おじさん」
ヨシオは返事をしない。いつものことなので大五郎は気にしなかった。仁王立ちで腕組みをしながら、ヨシオはだまって水平線の向こうを見つめている。波で空母が上下するたびに、ヨシオのメガネがきらきらと光っている。彼は、いつもカタパルトオフィサーのイエロージャケットを羽織り、おなじくカタパルトオフィサーのヘルメットを被っているのだ。なぜヨシオがそんな格好をしているのか。その理由を知るものは、だれもいないのだ。
ピピ……ピピ……ピピ……
ヨシオの腕時計が鳴った。
「昼になったか」
水平線に顔を向けたまま、ヨシオが言った。
「おじさん、ひるめし!」
大五郎が飛び跳ねると、ヨシオは腕組みを解いて踵を返した。
「コッペパンとコーンスープ!」
駆け足でヨシオを追い越すと、大五郎は張りきってタラップを降りていった。
食堂は難民や生き残った空母の乗組員であふれかえっている。どちらかといえば、難民のほうが多かった。三週間まえ、大五郎たちは空母ではなく病院船に乗っていた。その病院船が、いきなり潜水艦の攻撃を受けたのだ。病院船に一発の魚雷が命中。沈みかけてるところに、ちょうどこの空母が通りかかった。大五郎たち難民は、無事に救助されたのである。だが、脅威はまだ去ってはいなかった。大五郎たちが救助された直後、空母は潜水艦の攻撃にさらされた。ブリッジがふきとび、魚雷攻撃によりスクリューが破損。かくして、空母は航行不能に陥ったのだった。それから三週間、大五郎たちはあてもなく太平洋をさまよいつづけているのであった。
コッペパンにコーンスープ、それに野菜サラダをのせたスチール製のトレイを運びながら、大五郎はいつもの席に座った。入口正面から奥に向かって並ぶ長テーブルの、いちばんうしろの席だ。そして、大五郎のとなりには、いつもヨシオが座っていた。
「今日も朝から海を眺めておったのか、ぼうず?」
のん気そうな笑みを浮かべながら向かいの席に長老が座った。
「うん!」
「どうじゃ、なにか見えたか?」
大五郎は首を大きく横にふった。
「そうか。なにも見えんかったか」
長老はしみじみとうなずいてコーンスープをすすった。
長老のとなり、ヨシオの向かいにカウボーイハットの男が座った。ハリーである。
「今日もコッペパンひとつにコーンスープ、それに野菜サラダか。泣けるぜ」
グチをこぼしながら、ハリーが肩をすくめた。ハリーは、いつも眩しそうに目を細めていた。その表情は確かに泣いているようにも見える、と大五郎は思った。
「おいらは、コッペパンだいすき!」
大五郎が笑うと、ハリーは不満そうな顔でコッペパンを小さくちぎった。
「オレはホットドッグのほうがすきだ」
ハリーは以前、俳優の仕事をしていたと言っていた。長年やっていたがまったく売れず、主役はおろか、セリフのある役をもらったことはいちどもなかったらしい。いつも通行人や死体役のエキストラばかりで、クレジットに名前が載ることも滅多になかったという。
彼がホットドッグを好んで食べるのにもわけがあった。役者時代、ハリーはいつものチーズバーガーではなくホットドッグをかじりながら通りを歩いていた。そのとき、彼は見知らぬ若い女性に声をかけられた。ひょっとしてクリント・イーストウッドさんですか、と。彼は一瞬戸惑ったが、迷わずこう答えたのだ。
―― イエス! ――
記念撮影にも応じ、おまけにサインもしてやった。いつだったか、そんな話をしてくれたことがあった。ハリーは話している間、ずっと無邪気な笑みをたたえていたのを大五郎は覚えている。ハリーは、ほんの一瞬だがスターの気分を味わうことができた。ハリーにとって、ホットドッグは幸運を呼ぶ食べ物なのだ。いわゆる〝まじない〟である。自分もいつか〝彼〟のようなスターになれるように、と。
ハリーのとなりに、赤いモヒカンあたまの男が座った。
「やれやれ。あいかわらずシケた昼メシだぜ」
丸い黒縁メガネをかけた男。コバヤシである。数日まえ、彼は元ギャングのボスだったスネークと共に、この空母を乗っ取ろうと反乱を企てた男なのだ。だが、スネークの野望はヨシオの活躍によって見事に打ち砕かれたのだった。以来、コバヤシは改心し、ヨシオをアニキと呼び慕うようになっていた。
丸い黒縁メガネを押し上げながらコバヤシがため息をついた。
「寿司が食いてえなあ。ラーメンも食いてえ。アニキも、食いてえとは思いやせんか?」
「あきらめるんだな」
スプーンでコーンスープをかき混ぜながらヨシオが言う。
「大陸がどうなっているのかわからんが、もし無事にたどり着けたとしても、ここで出される食事よりマシなものは食えんだろうな」
コーンスープの器の中に目を落としたまま、他人事のようにヨシオは語った。
「寿司、か」
大五郎の向かいの席で長老が唸った。
「いちど食べてみたかったのう」
独りごとのように長老がつぶやいた。長老の故郷は、中東の小さな国だと言っていた。小さな国の中の小さな村。その村も、ひと月まえにはじまった核戦争で消滅してしまったのだ。長老の国だけではない。この戦争によってほとんどの国家は消滅し、計り知れない犠牲が出たのだ。
「生き残れただけマシってことか。やれやれ」
「安心するのはまだ早いぜ、コバヤシ」
小さくちぎったコッペパンを口に運びながらハリーがつづける。
「たしかに、オレたちは生き残ることができた。だが、艦は故障して動かなくなっちまった。それも太平洋のド真ん中でだ。いまだに救援が来る気配もないし、無線も通じない。おまけに食糧も底をつきかけている。つまり……」
「げーむおーばー!」
手を上げながら大五郎が答えると、ハリーはやれやれというような表情で首をふった。
「たしかに、いまのわしらは無力じゃ」
長老はコーンスープの器を静かに置くと、みんなの顔を見渡しながらつづけた。
「じゃが、まだあきらめてはいかん。わしらが生きのこったのは、ここで死ぬためではないはずじゃ。信じよう。神を」
「おとぎ話でもあるまいし」
ヨシオが嘲笑を浮かべながら席を立った。
「もし、神様とやらが本当にいるのなら、核戦争なんぞ起こりはしなかったろうよ」
そう言いのこして、ヨシオは食堂のドアを出ていった。
「かみさまも、せんそうでしんじゃったのかな?」
大五郎が言うと、ハリーは肩をすくめて苦笑した。
故郷を脱出するとき、大五郎は両親とはぐれてしまった。あれから故郷がどうなってしまったのか、大五郎にはわからない。はたして、両親は無事なのだろうか。いや、きっと無事のはずだ。きっと、神様が守ってくれたにちがいない。
「おいらは、かみさまをしんじる!」
勢いよく席を立つと、大五郎は駆け足で食堂のドアを飛びだした。
食堂を出ると、大五郎は甲板に通じる左舷のタラップのほうへ向かった。
「あっ」
大五郎はトレーニングルームのまえで足を止めた。中からだれかの話し声が聞こえてくる。入り口のドアから中をのぞくと、部屋の奥に黒いマントの男の姿があった。世界的に有名なヤブ医者・羽佐間九郎、通称ブラック・ジョークと呼ばれている男だ。
九郎の傍らに、もうひとり男が立っている。全身が筋肉の塊のような男だ。身につけているのは、黒いポージングトランクスのみ。まるで水泳選手のようだ、と大五郎は思った。
「せんせー!」
大五郎はドアを入って九郎に駆け寄った。
「やあ、ぼうず。今日も元気そうでなによりだ」
九郎が大きな傷痕のある顔でほほ笑んだ。
右のマユから左の頬にかけて三日月形に流れる大きな傷痕。そして彼の瞳は、まるでマネキンのように感情が凪いでいるのであった。
「せんせー、ここでなにしてたの?」
「ちょっとな。彼と薬のはなしをしてたんだよ」
「くすり?」
大五郎は九郎の傍らに立つ筋肉男をそっと見上げた。体はゴリラのように大きく、顔はモアイにそっくりである。はたして、この男はいったい何者なのだろうか。
「おじさん、かぜひいたの?」
心配そうに尋ねた大五郎に、モアイはニコリと笑って首をふった。
「カゼなんかひくもんか。おじさんがたのんだ薬というのは、アナボリックステロイドのことだよ」
「あなぼ……りっく……?」
「筋肉がたくさんつく薬さ」
「でも、もういっぱいきんにくついてるよ?」
「いや、まだ鍛えていないところがあるんだ」
「どこをきたえるの?」
「そっ、それは、なんというか……つまり、その……」
言葉に窮すると、モアイは咳ばらいをしながら九郎をチラリと見やった。
九郎が冷たい瞳で大五郎にほほ笑みかける。
「おちんちんだよ」
「きっ、きみィ」
予想外の九郎の言葉にモアイが戸惑う。
「いくら〝玉〟だからといって直球はいかんよ、直球は。せめて股間と言いたまえ」
モアイは迷惑そうな顔で人差し指を立てながら言うのであった。
しかし、どうして股間を鍛える必要があるのか。大五郎は不思議に思った。
「なんでそんなところきたえるの?」
「いいかい、坊や。股間というのは、どうやっても鍛えることができないんだよ。急所……つまり、弱点というわけだ。おじさんは、その弱点がどうしても気にくわなくてね。おじさんは……最強の体を手に入れたいんだよ」
モアイが顔のまえで握りこぶしをつくった。全身の筋肉がメキメキと音を立てながら引き締まってゆく。
「とっちゃえばいいのに」
「だめだ!」
モアイが目をむきながら吠えた。
「もし、そんなことをしたら……おじさんは……とにかく、簡単にとったりしてはいけない物なんだよ」
なんだか歯切れの悪い口調である。
「でも、さいやじんも、じゃくてんのシッポをとったらつよくなったよ?」
「サ、サイヤ……?」
モアイが掌をもち上げて首をふった。どうやらモアイはサイヤ人の存在を知らないようだ。
「よう。なにしてんだい先生」
コバヤシがドアを入ってきた。ハリーも一緒である。
「あ!」
コバヤシがモアイを指差しながら声を上げた。
「あんた、もしかしてターミネーターの?」
大五郎は「はっ」とした。そうだ。どこかで見たことのある顔だと思っていたのだ。この男は、ターミネーターにそっくりなのだ。
「よく言われるんだよ。道を歩いていると、記念撮影やサインを求められてね」
はにかみを見せながらターミネーターが肩をすくめた。
「それで、サインはしたのかい?」
ハリーが興味深そうに尋ねると、ターミネーターは照れくさそうに首をふった。
「ちょっと迷ったけどね。ことわったよ」
「オレはしたぜ。記念撮影にも応じたよ」
「そういえば、どこかで……」
ターミネーターは怪訝そうにマユをひそめると、あたまをかがめてカウボーイハットの下に隠れたハリーの顔をのぞき込んだ。そして、しずかに口もとで笑った。
「やあ、キャラハン刑事。調子はどうだい?」
「絶好調さ」
ハリーもニヤリと笑った。
「ジュリアスだ」
ターミネーターが名乗りながら右手を差しだすと、キャラハン、もといハリーも右手を差しだし「ハリーだ。よろしく」と名乗り、握手を交わした。
「あんたも体を鍛えてるのかい? ドクター・ハザマ」
あいさつ代わりにハリーが言うと、九郎はノドの奥でククク、と不気味に笑った。
「まさか。彼に薬をたのまれただけさ」
軽くハリーと会話を交わすと、九郎はマントを靡かせながらドアのほうに足を向けた。
「それじゃ、私はこれで失礼するよ」
「ああ、ドクター」
ジュリアスが九郎を呼びとめた。
「例の薬は、いつ……」
「もう出来てるよ。試作品だが、じゅうぶん効き目はあるはずだ。あとで医務室まで取りに来たまえ」
「わかりました。のちほど伺います」
九郎は世界的に有名なヤブ医者である。彼のつくった薬が予定通りの効果を発揮したことなどいちどもない。彼の薬を使うなら、ドラッグストアの安物の薬を使ったほうがマシ。彼の患者は、口をそろえてそう言うのだ。むろん、大五郎もそう思っていた。数日まえ、大五郎は彼からもらった下痢止めを飲んだところ、効果がありすぎて便秘になったのだ。あれでよく医者がやっていられるものだ、と呆れる大五郎なのであった。
「おじさん、じゅりあす、っていうの?」
大五郎がたずねると、ジュリアスは優しくほほ笑んだ。
「ああ。おじさんの名前はジュリアスだ。坊やは、なんて名前なんだい?」
「だいごろー!」
「ダイ、グロウ?」
「ちがうよ。だいごろーだよ」
「ダ、ダイ……グ……?」
「だ い ご ろ う!」
「ダイ……ゴロウ。ダイ、ゴロウ。ダイゴロウ」
ジュリアスはおぼつかない口調でくり返した。
「そう、だいごろー!」
大五郎は親指を立てて笑った。
「オー、イエス! ダイ ゴロウ!」
笑顔でうなずきながら、ジュリアスも親指を立てた。大五郎は、またひとり新しい友達ができた。
両親とはぐれて独りぼっちになったとき、大五郎はとても不安だった。毎日、ずっと泣いていた。そんなとき、病院船でハリーや長老と出会った。ふたりに慰められ、そして励まされて、大五郎は少しづつ元気を取り戻していったのだ。友達が増えるたび、哀しみが減ってゆく。しかし、両親の無事をたしかめるまで、大五郎の胸の中にある哀しみが完全に消えることはないのである。
「しかし、なんでそこまで筋肉にこだわるんスか? ジュリアスのダンナ」
両手のダンベルを脇腹のよこで上下させながらコバヤシが尋ねた。
穏やかな表情が急に曇り、ジュリアスがうつむく。
「……小さいころ、私はいじめられっ子だったんだよ」
ジュリアスはベンチに腰をおろし、ひざの上で両手を組んだ。大五郎もとなりに腰かけてジュリアスの話に耳をかたむけた。
「生まれつき体が弱くてね。よく病気もした。スポーツも苦手だった」
床の上をじっと見つめながらジュリアスがつづける。
「でも、強くなりたいと思っていた。私は強くなりたかった。私は……弱い自分が嫌いだったんだ」
ジュリアスが吐息をついて首をふった。弱い自分が嫌い。大五郎もおなじだった。
「おじさん」
大五郎はジュリアスの顔を見上げながら、慰めるようにほほ笑んで見せた。ジュリアスも顔をよこに向けてかすかにうなずき、大五郎に笑顔を返す。
「私は自分と戦いつづけた。自分の中の弱さと」
ジュリアスがゆっくりとベンチから立ち上がってコバヤシのほうへ足を進めた。
「そして体を鍛えはじめると、内気な性格も直ってね。自分に自信がもてるようになったんだ。鍛えられたのは体だけじゃない。心も鍛えられたんだ」
ジュリアスはコバヤシからダンベルをひとつ借りると、脇腹のよこで右腕を上下させた。
「いじめっこは、やっつけたの?」
大五郎が尋ねると、ジュリアスは口もとに笑みを浮かべながら首をふった。
「いいかい、ダイゴロウ。おじさんが強くなりたいと思ったのは、いじめっ子に復讐するためじゃないんだ。自分に負けないために、おじさんは強くなりたかったんだよ」
「じぶんに、まけない?」
「ダイゴロウには、まだむずかしかったかな」
ジュリアスが大五郎に笑顔を向けたままコバヤシにダンベルを渡したときである。
「――ベギ!」
とつぜん、コバヤシが裏返った声で大きな悲鳴を上げた。どうやらダンベルを受け取りそこなって、足の上に落としたらしい。
「おっと、失礼」
大五郎に顔を向けたまま、ジュリアスが含み笑いをした。大五郎も、両手で口もとを押さえながら笑った。
コバヤシが右足を両手でかかえながら飛び跳ねている。
「ラ……ッ!」
赤いモヒカンあたまが足を滑らせた。
「ゴン!」
ベンチに後頭部を打ちつけながら床に転がるコバヤシなのであった。
「こうならないために、強くなるんだ」
ジュリアスが口から白い泡をふいて痙攣するコバヤシを指差した。
「おいらも、つよくなる!」
大五郎も、力強くジュリアスにうなずくのであった。
「なあ、ハリー。ちょっと頼みがあるんだが」
ハリーのとなりを歩きながらジュリアスが神妙な面持ちで言った。
「頼み?」
「ああ。聞いてくれるかい?」
「べつに遠慮はいらんさ。オレにできることなら、なんでも言ってくれ」
「ありがとう。じつは……」
ジュリアスはうしろを歩く大五郎たちをちらちらと気にしながら、ささやくような小さな声でハリーと話している。大五郎はそんなジュリアスを気にすることなく、コバヤシのとなりをぴょんぴょんと飛び跳ねながら歩いていた。
「なんだって?」
おおげさな声を艦内通路に響かせながらハリーが立ち止まった。いったい、ふたりはなんの話をしているのだろうか。大五郎は傍らのコバヤシと顔を見合わせた。
怪訝そうに細くした眼でハリーがつづける。
「どうかしている。本気で言っているのか?」
ジュリアスはうろたえた表情で大五郎たちを一瞥すると、落ちつきを取り戻すように大きく息をすってハリーにうなずいた。
「ああ、本気だとも」
「なあ、ジュリアス」
ふいにハリーが立ち止まってジュリアスに向きなおった。なんだかよくわからないが、大五郎も通路のまん中で立ち止まった。コバヤシも大五郎のよこにボーっとした顔で突っ立っていた。
ため息混じりにハリーがつづける。
「わるいことは言わん。やめたほうがいい」
「もちろん、危険なのはじゅうぶんわかっているさ。でも、どうしても試したいんだ。試してみたいんだ」
切羽詰まった表情でジュリアスがハリーにつめ寄る。
「たのむ、ハリー」
ジュリアスの力強く燃える視線を避けるように横を向くと、ハリーは両手を腰に当てて首をふった。
「あんたの気持ちはよくわかった。だがな、ヘタをすりゃあ性別が変わっちまうかもしれないんだぜ?」
まぶしそうに細くした眼をジュリアスに戻してハリーがつづける。
「きっと後悔することになる」
そしてハリーはもういちど首をふった。
ジュリアスはガッカリした表情で床に視線を落とすと、重い吐息をもらしてハリーに背を向けた。
「ここで逃げたら、それこそ後悔することになってしまう」
ジュリアスが小さくつぶやいた。そして二、三歩ほどゆっくりと足を運び、決心したように立ち止まってクルリとふり向いた。
「おねがいだ、ハリー。YESと言ってくれ!」
すがるような表情でジュリアスが哀願した。
だが、ハリーはまだためらっている。両手を腰に当ててなんども小さくうなずいたり、ときどき小首をかしげる仕草をくり返していた。大五郎もアゴに手を当ててハリーと一緒に考えた。コバヤシは両手をポケットに突っ込んで、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけだった。
ジュリアスはポージングトランクス意外、なにも身につけていなかった。きっと、あまりにも筋肉がつきすぎているので服のサイズが合わないのだろう。大五郎はそう思った。
固い表情のまま、ジュリアスはだまってハリーの言葉をまっていた。
ハリーはひとつため息をつくと、おもむろに葉巻を取りだしてくちびるに挟んだ。
「……甲板でまってる」
そう言って葉巻に火を点けると、ハリーはジュリアスの顔を見ながら煙を吸い込んだ。
「準備ができたら上がってきてくれ」
「ハリー、それじゃあ……?」
にわかに和らいだジュリアスの顔にハリーがうなずく。
「かならず、生きて帰ってくるんだぜ」
ハリーは、くちびるの隙間からゆっくりと紫煙を吐きだしながらほほ笑んでいるのだった。
「アイル・ビー・バック!」
そう言って親指を立てると、ジュリアスも口もとで不敵に笑った。
よくわからないが、なにかとんでもないことがはじまろうとしている。大五郎は、なんだか妙な胸騒ぎをおぼえるのでありました。
甲板に上がると、空がまっ赤に燃えていた。とてもきれいな夕焼けである。そして空母の舳先には、やはりヨシオが腕組みをしながら仁王立ちになっているのであった。しかし、夕焼けの中にいるのはヨシオだけではなかった。ヨシオの傍らでハゲ頭を輝かせる老人。長老である。ただ、ハゲているのは頭頂部のみで、長老の白髪は肩まで伸びているのだ。そして、アゴにも白く長いヒゲを蓄え、右手には杖をもち、その姿はまるで絵本に出てくる仙人のようだった。
大五郎たちはヨシオと長老の立つ舳先に向かった。
「いい夕陽だ」
長老の傍らに立ってハリーが夕陽に目を細めた。
「あいかわらずヒマそうじゃな、カウボーイ」
夕陽をよこ顔に浴びながら長老がほほ笑んだ。
「ここにヒマじゃねーヤツなんているのかよ」
そう言って鼻を鳴らしたコバヤシのアホヅラを長老がギロリとにらみつけた。
「おい、そこのモヒカン。キサマは口の利きかたを知らんようじゃな」
「テメーのほうこそ、あんまりいい年のとりかたをしてねーようだな。くそジジイ」
「おっ、おのれ~。言わせておけば図にのりおって」
ふたりのケンカはいつものことである。大五郎はジュリアスと顔を見合わせ、ふたりで肩をすくめた。
「よせよ、ふたりとも」
見かねたハリーが仲裁に入った。
「ところで、ヨシオ。じつは……」
ふたりをなだめると、ハリーはなにやらヨシオと相談をはじめた。
口には葉巻をくわえ、両手を腰に当てて、まぶしそうに目を細めながら話し込んでいる。いったい、ハリーとヨシオはなにを話しているのだろうか。
「……と、いうわけなんだ」
ハリーが話し終えると、ヨシオはジュリアスに冷たい視線を向けた。
「本気なのか?」
「あ、ああ。本気だ」
いささか気恥ずかしそうにジュリアスがうなずいた。
「下手をすれば、二度と男に戻ることはできんのじゃぞ? おぬしは、それでもやると言いなさるのか?」
長老も心配そうに言う。
「私はドクター・ハザマを信じています。彼のつくった、この薬を」
ジュリアスの掌の上で金色の小さなカプセル剤がキラリと光った。この「タマランYゴールド」という薬は、股間がダイヤモンドのように硬くなる効果があるのだ。もちろん、予定通りの効果は保証できないのだが。しかし、ジュリアスは九郎を信じていた。あの人は、私にとって神のような存在なのだ。ジュリアスは、そう言った。
たしかに、医者として人の命を救っている九郎は神と言えるのかもしれない。ただ、どちらかといえば九郎は死神だろう、と大五郎は思った。
「おじさん、こわくないの?」
「あ、ああ。平気さ。恐いもんか。ハハハハぁ……」
ジュリアスは腰に手を当てて高笑いしているが、その笑顔は緊張でこわばっていた。
無理もない、と大五郎は思った。空母の舳先、カタパルトラインの終点に仰向けで寝そべり――頭は舳先のほうに向けて――大きく股を開く。ジュリアスがこれからやろうとしているのは、カタパルトからうち出されたシャトルを股間で受け止めるという命がけの実験なのだ。長老の言うように、一歩まちがえば性別が変わってしまうかもしれないのである。だが、はたしてその程度ですむのだろうか、と大五郎も不安に思うのであった。
「私は、いま……弱い自分を倒す!」
ジュリアスが薬を含み、ゴクリとのみ込んだ。彼は本気でやるつもりだ。
「とめても無駄、というわけか」
腕組みを解くと、ヨシオはゆっくりと夕陽に背を向けた。
「ハリー、管制室でスタンバイしろ」
カタパルトの射出位置に向かいながらヨシオが指示をだすと、ハリーは不安そうに目を細めて鼻から紫煙を吐きだした。
「あの薬はヤバイ気がする」
そう言って足もとに落とした葉巻をふみ消し、「もし本当にあの薬が効いたら、オレは神様を信じてやるよ」と請け負った。
「あーめん!」
大五郎も請け負い、胸のまえで十字を切った。
「さてと。行くか」
カウボーイハットの鍔で顔を隠すと、ハリーはだまってジュリアスのよこを通りすぎた。
「ハリー」
ジュリアスが呼び止める。しかし、ハリーは歩きつづける。このままだまって行ってしまうのだろうか。大五郎がそう思ったとき、ハリーがふいに足を止めた。
「あんたのことは信じている」
背中を見せたままハリーがつづける。
「薬なんかに頼らなくても、あんたはじゅうぶん強いさ」
そう言ってジュリアスを励ますと、ハリーはゆっくりと左舷のタラップのほうへ去って行った。
「ありがとう。ハリー」
ジュリアスは静かな眼でほほ笑みながらハリーの背中を見送っていた。
ハリーが向かったのは統合カタパルト管制室である。甲板上には二本のカタパルトラインが舳先に向かって並んでおり、その二本のラインの間、艦首中央部分に統合カタパルト管制室はあるのだ。ちょうど大人のひざ下ぐらいの高さで、およそ二メートル四方の半地下になっているドーム型の構造物だ。
「おじさん、ぐっどらっく!」
大五郎は傍らのジュリアスを見上げて親指を立てて笑った。
「ああ。グッドラック!」
ジュリアスもニコリと笑って親指を立てると、いよいよ舳先に立ってスタンバイした。
「うっ、ウおォお……オ!!」
とつぜんジュリアスが夕陽の中で両手を広げ、ブルブルと震えはじめた。いったい、なにが起きたのだろうか。
「股間が……股間がビリビリしてきやがった。こ、こいつぁ、バイアグラより効くぜ」
はたして、バイアグラとはいったいなんのことなのか。大五郎にはジュリアスの言ってる意味がわかりませんでした。
だんだん薬が効いてきたのだろうか。ようやく自信をとりもどしたジュリアスの表情は、じつに清々しく輝いていた。
「よし、いけるぞ。やってくれ、ヨシオ!」
ジュリアスが空母の舳先、左舷側のカタパルトライン上で仰向けになって股を大きく広げた。衣服はポージングトランクス以外、なにも身につけていない。
ヨシオは大破したブリッジを背にしてシャトルのよこにスタンバイしている。大五郎も、シャトルをはさんでヨシオの向かい側にスタンバイした。長老は数メートル先の統合カタパルト管制室の上に腰かけている。コバヤシも長老のよこに立って腕組みをしている。舳先の向こうでまっ赤に燃える夕陽に照らされながら、ふたりは静かにジュリアスを見守っていた。
カタパルト管制室の青みがかったウインドウガラスの向こうにカウボーイハットの影が見えた。ハリーだ。ウインドウガラス越しにハリーが親指を立てた。ヨシオも親指を立てて応えると、すぐにシャトルのチェックをはじめた。戦闘機の前脚部分の射出バーをひっかける場所である。ちょうど駐車場にあるパーキングブロックほどの大きさで、よこから見ると口を大きく開けた魚のような形をしていた。
じつに三トンをこえる重さの戦闘機を、一瞬で時速三百キロちかくまで加速させることができるカタパルト。そんなものを股間で受け止めたら、いったいどんなことになってしまうのか。大五郎には、恐ろしくてとても想像することができなかった。
シャトルのチェックを終えると、ヨシオは周囲を指差しながら安全確認をはじめた。それから左足をよこに伸ばして腰を落とし、左手を腰のうしろに回して右手を甲板の上に下ろした。大五郎もヨシオとは逆の右足を伸ばしておなじ格好になった。ヨシオの右手がまっすぐに舳先を示したとき、ハリーがカタパルトの射出ボタンを押すのだ。
空が紅い。海も紅い。ジュリアスまでの距離は、およそ百メートル。シャトルは大きく口を開けてジュリアスの股間を狙っている。潮風が静かに吹きぬける。そして舳先のほうから差し込む陽の光が、ヨシオのメガネを紅に染めた。
「うけとれ、ジュリアス!!」
ヨシオの右手が、まっすぐに舳先を指した。
「うけとれ!!」
大五郎もヨシオの向かい側で左手を伸ばした。
「アイル・ビー・バック!!」
ジュリアスは仰向けに寝そべったままパンツをモッコリさせた。
プシューッ、という大きな音とともに勢いよく〝魚〟が泳ぎだした。まっ白な水蒸気を噴きあげながらカタパルトラインを泳ぐキラーフィッシュ。その疾駆する様は、まるで水面を黒い背ビレで切り裂きながら獲物に襲いかかる人喰いザメのようだ、と大五郎は思った。
すさまじいスピードで泳ぐシャトル。ジュリアスの股間までの距離は、あと二十メートル。
「アイル・ビー・バック……アイル・ビー・バック……」
ジュリアスは自分自身を励ますかのように不思議な呪文を唱えている。
インパクトまで、あと十メートル。
「アイル……」
……五メートル……四……三……
「ビー……」
……二……一……インパクト、ナウ!
「――バッ?!」
「――はねた!」
大五郎はジュリアスを指差しながら叫んだ。仰向けのまま、ジュリアスが三メートルちかく跳ね上がったのだ。まるでカウンターショックで強力な電流を流された患者のようだ、と大五郎は思った。
「バッ、バ……シ……」
ジュリアスが呻いている。般若のような形相で苦しそうに呻いている。甲板の上に跪く格好で、両手を股のあいだにつっこみながら呻いている。
「ルゥゥ~……」
腹の底からしぼりだすような低い声で呻きながら背中を丸めるジュリアス。血走しった眼をカッと見開き、まっかな顔で歯を食いしばりながら呻きつづけている。大五郎も、思わずこぶしをにぎりしめて歯を食いしばった。ジュリアスの体がキラキラと輝いている。まるでシャワーでも浴びたように、全身脂汗でびっしょりだ。
「……ラ」
ジュリアスが甲板の上に顔をうずめて丸まった。もう呻き声も聞こえない。まるでダンゴムシのように丸まったまま、ジュリアスはピクリともうごかなくなってしまった。
「あっ」
大五郎は左舷のほうをふり向いた。足音が聞こえたからだ。左舷のタラップを、何者かがゆっくりと上がってくる。
「せんせーだ!」
甲板へ現れたのは死神、もとい九郎である。
「ああ、ここにいたのか」
まるでアンティークドールのような薄気味わるい顔でほほ笑みながら大五郎の傍らに九郎がやってきた。
「じつは、さっきの薬のことなんだがね。あれは服用してから効果があらわれるまで、最低でも一時間はかかる――」
そこまで九郎が言いかけたとき、舳先のほうからスススーッとシャトルがもどってきた。大五郎の股の下をゆっくりと、ゆっくりとシャトルが通過してゆく。九郎は不思議そうにマユをひそめながらシャトルを目で追っている。やがてトンネルを抜けたシャトルは、まるで駅に到着した新幹線のようにピタリと九郎の足元で止まるのだった。
「ごりんじゅうです!!」
大五郎は元気よくジュリアスを指差した。
九郎が凪いだ瞳を舳先に向ける。九郎の顔を夕陽が照らし、潮風がひゅるりと吹きぬける。黒いマントが、ばさばさと哀し気に靡いている。凪いだ瞳のまま口を半開きにしながら、ばさばさとマントを靡かせている。喜怒哀楽を忘れ去った蝋人形のような顔を夕陽に染めながら、九郎は無言でフリーズしているのでした。
ヨシオも舳先を向いたまま、無表情で腕組みをしている。メガネを茜色に染めながら、丸まったジュリアスを冷静に観察していた。
長老とコバヤシも動かない。カタパルト管制室のそばで、夕陽を背にしてうずくまるジュリアスをじっとながめていた。
長老たちの足元の青みがかったウインドウガラスに浮かぶカウボーイハット。カタパルト管制室の中で、ハリーは自分自身を否定するようにあたまをふっていた。
それにしても、ジュリアスが最後に言いのこした「バシルーラ」とは、いったいなんのことだったのか。母の名を呼んだのか、あるいは恋人の名前だったのか。よくわからないが、たぶんなにかのおまじない――痛いの痛いの飛んでいけ、みたいな――なのだろう、と大五郎は思った。
「あすた ら びすた べいびー!!」
ジュリアスの背中に沈んでゆく紅い夕陽に向かってちからいっぱい叫ぶ大五郎なのであった。
*ベギラゴン・・・某ロールプレイングゲームに登場する炎系の攻撃魔法。
*バシルーラ・・・某ロールプレイングゲームに登場する敵を遠くへ飛ばす
魔法。
エピソード「紅の棺」
おわり
太平洋、血に染めて 「紅の棺」
次回 「死闘! 海上決戦!!」
おたのしみに!!
*エンディングテーマ
https://www.youtube.com/watch?v=9fu4J971x8U
https://www.nicovideo.jp/watch/nm7492365(予備)
*提供クレジット(BGM)
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https://www.nicovideo.jp/watch/sm19101874(予備)
【映像特典】
https://www.youtube.com/watch?v=gXiaaZAm77g
https://www.youtube.com/watch?v=yFkoLN11IH4
・ダイヤモンドマッスル(ジュリアスのキャラクターソング)
https://www.youtube.com/watch?v=tl92wiSMHXk
・ザ・パワー(トレーニング中のジュリアスをイメージしたBGM)
https://www.youtube.com/watch?v=Cvm1aR8FrNg
https://www.nicovideo.jp/watch/sm13864852