砂漠の旅 34 35
砂漠の旅 34
彼は嘘の町に向かわなければならなかった。夢から覚め、彼は嘘の町に向かわなければならない。
かくしてせるむはせるーになったわけだが、別に何かが変わるわけでもなかった。(名前って結構どうでもいいな)彼は思った。名前は大事である。
男の正体はよくわからなかった。ただ、手ぶらだった。そして毎日彼の様子を見に来てくれていたらしく、彼は感謝の言葉を述べた。
「いやあ、君が作ったの?あの干し肉。美味しかったああ。」干し肉は乾ききらないまますべてなくなっていた。
「どれくらい寝ていたんでしょうか。」
「さあ?僕が来てから一週間ぐらいだと思う。どろどろの塊が生きているとは思わなかったよ。きもちわるかった。」さっぱりした感じで言った。
「干し肉、食べたんだ。」
「ごめんね!つい、美味しそうだったから!君が生きているとは思わなかったんだ。」
「僕が生きているとは思わなかったのになぜ僕の様子を毎日見に来たの?」
「それ!」と男は指を指した。一瞬目の奥に見えた、後ろめたさはすぐに簡単に隠れた。男は彼のお茶碗を凝視していた。
「最初は君が気持ち悪くて近づけないくらいだったんだけど、ちょっと前に美味しそうな匂いがしてきたんだ。」
彼は茶碗を見つめた。別に変哲のない茶碗だった。
「別に何の変哲のない茶碗だけど」彼は言った。
「確かに!でも美味しそうな匂いだ。もらっていい!?」男は潔すぎた。
彼は唐突の頼み事に少し戸惑った。しかしその茶碗はもう完成されていた。
「大切な茶碗なんだ。」彼は言った。
「ふーん。そうなんだ!」関係ないように男は続けた。「もらっていい!?」
(まあいっかあ)彼は思った。
「どうぞ」彼は男にその茶碗を渡した。
「君はうつくしいなあ!。頭おかしいよ!君!」男はあっけらかんと言った。
「ありがとうございます」彼は誉め言葉だと思った。
「普通ただでくれる?逆に怖いんだけど。代わりに何か教えてあげるよ。なんでも言ってくれ」彼は、優しい人だな、と思った。
彼は病の事を話した。
「僕はこれから、どんな自分であるべきなのか分からないんです。教えてください」
しばし男は彼をデッカイ目で見つめた。彼は少し怖かった。
「…。君、病治ったと思ってるの?治ってないよ?だって病は心の問題だ。心は映ろうものだ。」
「じゃあまた僕は我を忘れた時、溶けてしまうのですか?」
「しいて言うなら溶けにくくなった、という感じじゃないかなあ。」「心が一人で立てるようになった人間はそれ自体に食われても溶けない。」
うーん。と男は考えた。
「君の病の根幹の話だ。病の根幹は溶ける事じゃなくて、我を忘れてしまう所、だろうな。気づかないうちにぼけえっとしちゃうところ。」
「あ、そうなんです。気づかないうちにぼーっとしてしまいます。なんか、意識と無意識の狭間を漂っている感じ、というか。でも、確かに生きるためには意思が必要だ、とも思うんです。しかし僕はできればずーっとぼーっとしてたいんです。心地いいんです、それ。そのぼーっとしている感じの延長で生きていたいのに、強く、生きるという場所を踏むにはしっかり現実を意識しながらその『狭間』よりも生きている側の意思、狭さ?表面的な?所に自分を置かなくちゃいけない。なんかそれ自分に向いてなくて。」
「人は『生きる』べきだ。意思がなければ人は生きれないと思うんです。自分を生かすための『すべき』は、ほとんど『したい』に近い気がします。生きることは主張です。主張しなければ人は『確かに生きる』ができない。飢え死にしそうな人たちがたくさんいて、パンの配給がその半分の量しかなかったら、その歩くことままならない状況でも『歩いてパンをもらうべきだ、もらいたい』とその一つの偏った主張を持つ人が『生きる』ができるでしょう。しかし僕はぼーっとしたがりで、多分沢山ほかの思いがちらついてしまうんです。(沢山の種類のパンがあるけど、どれが一番いいかなあ)とか(とても足りそうにない。沢山食べれない人が出てくる)とか(歩く疲労に見合うだけのパンかなあ)とか(沢山の人が前にいる。その人たちは押しのけていく自分を不快に思うかもなあ)とか。どうしてもそうなってしまうんです。つまり『生きる』に自分らしく、が意味合いとして溶け込んでいるのに、生きようとする意志は僕の自分らしく、に反する行為なんです。」彼は何も見てないような目で狂ったように喋った。
「うーん。はっはっは!何言ってるのかよくわからん!」
「はあ。」
「そもそも自分がどうあるべきか、は確かに考えるのは大事だ。しかしなんか、どうしたいか、の方が大事じゃね?」
「いやだから僕のこうしたい、が生きる方向を向いてない感じがするのが問題なんです。」
「うーん。君の言ってることは一応辻褄はあってる感じがするけどなんか違うんだよなあ。なんていうのかなあ。君の言ったことは、君の小さな経験の中で、分かり切ったものをひたすら小さくこねる事にしか目がいっていなくて、周りの未知を勘定に入れれてない感じがする。自分の意思って自分で人工的に作るものでもない気がするんだ。」
「自分で人工的に作るものでもない。」彼は繰り返した。
「つまり、自分の中にある範囲の中で自分で作り上げるものでもない。意思は、人工的な意思を持って作るものじゃない。」
「よくわかりません」
「人工的な意思で作った意思は嘘みたいなものだ」
「よくわかりません」
「〈君の言うところの『意思の狭さ』〉を持ちたくないと言っている君だって死が近づいて、死の実感が湧いたら簡単に『意思の狭さ』を行使して苦しみ悶えながら生きようと一心不乱になるだろう。もし君がさっき言った強い意思を求めているなら、そういう環境にいればいい。何にも考えず、とりあえずそういう環境に身を置くことは、その問題の解決策だ。」
「もしそれが嫌なら、別にその病直さなくていいんじゃね?とも思うよ。とりあえずの病への収拾がついた今、病で死ぬこともないだろう」
茶碗をこね繰り返し、手を止め、彼をはっきり見て言った。大きな目だった。
「しかしまあ、意思を狭さと断言し、意思を持たないことを広さと勘違いして、『死んで腐敗した糞以下みたいな優越感』に浸り腐ってるてめえは死んでいる。お前は所詮は一人の人間だ。無意思を利用して、それ自体を見たつもりで、それ自体を話そうとしたって所詮切り取りに過ぎない。無意識に、意思でそれ自体を選択している。所詮は狭さに生きてる、ってこと」
彼は何も言えなかった。
「しかし何事も使い方だ。俺はお前のそのぼんやり加減が結構気に入った。意思のなさは(皮肉にも)、お前のその俯瞰しようとする癖をつけた。無意識と意識の狭間で、お前がそれ自体を必死にそれ自体のまま主張しようとすることは結局は切り取りなわけだが、それは『意思』とは言えないか?」「たった今の君の君らしさは、無意識的で無選択的な、意思にあるのかもしれない。そしてその無意識的な意思はそれ自体を見ようとすることから生まれた自己の完全否定による、生きていることの悲しさと他を思うやさしさが儚く香っている。」
「それ自体を見ようとすることは、死を見る事にも近い気がする。底のない暗闇。君の意思には死が介在するのかもね。もしかしたらそれが『根源的な意思』を作り出すかもしれない。」「『根源的な意思』は心が壊れ、傷つき、起き上がれない人にとって薬になりえる」
「でも『根源的』はもういらないのか、君には。もう超えた部分だから。」
「これから君に必要なのは死にたい方向から生きる方向への意思じゃなくて、どう生きてゆくかの意思だ。」
彼はよく分からなかった。しかし何となくわかった気がした。鳥肌が立った。
茶碗から急にぶわっと梅ゼリーが吹きこぼれた。それは、花の様な形になった
「おお、開花。この匂いですよお」男は呟き、満足げに言ってばくばくそれを食べた。
彼は自分の核であるこの部分は、誰にも言わず、隠して生きていよう、と思った。
男は食べる手を急に止め、大きな目が彼を見た。殺気を含んでいた。彼は恐怖を感じた。
「それに何より、何より、意思を『狭さ、見ようとしないこと』と言うのは非常に気に食わない。怒りを覚える。意思は多くを見ながら、それでも苦しみ、選んで、『積極的に一つを見ようとする事』だと言いたい。」「君の内面の問題はとりあえず解決している。次の必然はもう滲んでいる。なんだと思う?」
彼はこれからの自分の事を考えた。どう生きてゆくかを。
男は無表情で梅ゼリーを食べた。
「今の君らしさもそう、悪くない。」男はそえるように最後に言った。
砂漠の旅 最後
内面の問題にとりあえずの収拾がついても、現実は何も変わっていない。彼は嘘の町に行かねばならなかった。病にひとまずの収拾がついた彼にとって、嘘の町が旅の一区切りになった。生き物らしくあるために、中途半端で終わらせたくない物事があった。
「手ぶらですけど、どうやって、どこからここに通っているんですか?」彼が聞いた。
「ん?俺オアシスに住んでる人間だから。たまに旅人が来るのが楽しみなんだ。色んな事を教えながら物々交換してるのさ」「君から出た食べ物もなかなか面白かったよ。茶碗、もらうよ。」
「嘘の町から来ている訳じゃないんですね。」
「いやあ出身は嘘の町さ。悪いことして追放されちゃった」男は適当なことを言った。
「悪い事ですか」
「世間的に悪いということになっていることをして。大事な時なら別にそれが間違ってるとは思わないけどね。」
命に関わることは別問題にして、決まり事なんて世間からの非難を全身に浴びる勇気をもって破るためにある。その行動が極めて個人的になるとしても。大事なワンポイントの、生きるための行動を閃かせるために。彼も若いんだし一度で充分だから、破ればいい。青春とはそういうものを孕むものなのかもしれない。
彼は何日かそこにいて、男と話をしたり、だらだらと旅支度をしたりした。
惜しみながら彼は出発した。
嘘の町に
そして彼は嘘の町についた。 昼だった。
彼の脂質の問題にはひとまずの収拾がついた。もう、彼は旅を続ける必然性がなかった。
彼はこれからどう生きてゆくかを考えなければならない。
(砂漠の旅 おわり!)
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