Fate/defective c.10
第7章
不幸の形を知った。ただ、それだけだ。
「あなたが僕のサーヴァントですか?」
幼い少年らしい短髪は、しかし老齢者のように真っ白だった。同じくらい白いシーツの敷かれたベッドの上に彼は横たわり、屈託のない笑みをこちらに向けている。差し伸べられた左手にはしっかりと令呪が刻まれているが、その腕はあまりにも細く、微かに震えている。マットレスと毛布の間に埋もれた体躯には、腹から下が見当たらない。白い肌に食いつくように多くの黒い管が繋がれ、それは無機質な機械へ通じている。生きているんだか死んでいるんだか解らない。
けれどその目はしっかりと僕を見据えていた。それだけが彼の生を訴えているように見えて、僕は思わず彼の左手を握る。冷たい。
「ああ。僕は君のサーヴァントだよ」
僕の知っている人間の手はもっと温かかったはずだ。そして人間には下半身がついていて、こんなに痩せていない。そして、こんなに狭い部屋の一角に閉じ込められたりなどしていない。僕は彼が気味悪く思えて、急に手を離した。
「あ…ごめんなさい。僕、気持ち悪いですよね」
彼は薄く微笑んで気を遣ってきた。
「……あ、いや……気にしないでいい」
なぜ?
こんな状況で、なぜ笑えるんだ?
僕の知っている人間はこうじゃなかった。辛ければ泣き、嬉しい時に笑う。そして僕は幸福だったのだ。こんな不幸を知らない。このマスターはなぜ、笑っている?
「でも僕、よかったです。ちゃんと幸福な人生を歩んだ英雄を召喚できて……あなたには、少し申し訳ないけど、うっ」
言葉の途中で彼はえずいた。僕はびっくりして彼の背中に手を添える。
「大丈夫?」
「はい、すみません……大丈夫です」
手術着のような衣服ごしでも、この少年の背中の薄さが伝わってくる。
「僕、こんなですけど…あなたと一緒にいられるよう、頑張りますね」
僕を見上げるその表情は、正真正銘、心の底からの無邪気な喜びで満ちていた。こうして見ると年相応に幼い。
僕はそっと、その少年の頭を撫でてやった。少しでも乱暴にしたら壊れてしまいそうなので、ゆっくり、そっと撫でる。
「今日はもう寝ておくといい、無理をするのは良くない」
「……はい、また明日、お話ししましょう」
黒い管がゴポリと気泡を吐き出すような音を立てた。冷たい機械の中の針が目盛りを指し、液体が循環する。
目を戻すと、少年はすでに細い寝息を立てていた。
彼との初対面の日は、そういう一瞬だった。
次の日も、その部屋に行った。厳重な施錠を解除され、足を踏み込む。相変わらず金属の箱がひしめき合い、管がもつれ合う雑然とした部屋の中央にある一台のベッドに、少年はいた。
「おはようございます、ライダーさん!」
「…おはよう」
昨日より衰弱していておかしくないのに、彼は元気よく挨拶を投げかけてくる。
「今日の調子はどう?」
「はい、すごく元気です! 身体は少し疲れてるけど、なんだか今までにないくらい…何というか、わくわくしてます」
彼は晴れやかに答えた。嘘を言ったり強がっている風には見えない。僕は相変わらず彼に対してある一種の気味悪さを覚えたが、すぐにそれを振り払った。
「そう、良かった。でも無理はしないで。つらくなったらすぐに言うんだよ」
少年は一瞬、目をわずかに見開いて僕を見た。
そしてすぐにふわりと笑顔になる。
「ありがとう、ライダーさん。……そんなことを言ってくれたの、あなたが初めてです」
「………」
僕は少しの時間躊躇ってから、それでもやはり彼に聞かざるを得なかった。
「君は、君をこんな風にした、周りの人間を憎いと思ったことが無いの?」
彼の顔からしばらく表情が消えた。どんな顔をすればいいか彼の中でぐるぐると考えあぐねた後、困ったような笑みを浮かべてこちらを見た。
「そう、ですね。他の人から見たら僕は不幸なのかもしれません」
「じゃあ何で」
「でも、僕にはこの人生しか無かったので……。他人を憎めと言われても、憎み方も分かりませんし。それに、周りに不幸な人間がたくさんいるより、幸福な人間が多い方が僕も嬉しいんです。あなたのように」
そこまで言って、彼は一度激しく咳き込んだ。僕は驚いて昨日のように彼の背中をさする。薄くて、冷たい。まるで真冬の早朝に泉に張る薄氷のようだ。彼はしばらく呼吸を整えたあと、また困ったように微笑んだ。
「すみません。……僕、こんなんで聖杯戦争に勝てるでしょうか」
弱々しくうなだれる彼に、僕は思わず彼の小さい肩を掴んで言った。
「大丈夫。……大丈夫だから。僕が勝たせてあげる」
自分でも、その時どうしてそれほど強気な発言ができたのかわからない。けれど、そう言わずにはいられなかった。少年は僕を見上げて、僕の両目を見つめた。まるで心まで見透かされるような視線に一瞬たじろいだが、僕も少年の両目を見つめ返す。
僕のマスターは、「はい」と力強く頷いた。
「ライダーさんのこと、信じます」
ああ、なんて純朴な人間なんだろう。
世界の全てから追いやられたようなこの場所で、とっくに壊された身体で、それでも心だけはいつまでも美しい。憎み方も知らず、ただ人の幸福のみを祈るこの幼い少年に、僕は喚び起され、生きている。なんて運のいいことなんだろう。その時の僕は確信した。彼こそ真名を賭して仕えるべき人間だと。マスターを何としてでも聖杯の元に導く。これが僕の、第二の生の在り方なのだと。
彼こそが僕のマスターである、と。
「聖杯を勝ち取ったら、何を願うの?」
何度目かの夜、僕はマスターに尋ねた。寄りかかった小さく分厚い二重窓の向こうは曇りのない空だ。気持ちの良さそうな春の夜風が吹いているのだろうが、ここまではやってこない。けれど十分だ。この部屋には、僕と、マスターだけがいる。
彼は僕の問いに「うーん」としばらく考えたが、首をひねった。
「あんまり…思いつかないです」
「マスターは無欲だなあ」
僕らは顔を見合わせて少し笑いあった。
「そう言うライダーさんは、何かお願い事があるんですか?」
「僕? うーん」
そう言われると、聖杯の力で叶えたい願いなど出てこない。生前に全く未練はないし、今も特に強い願望があるわけでもない。本当に、呼ばれたから来ただけ、という体なのだ。
「あんまり無いかな」
マスターは、ふふ、と笑った。
「確かに、ライダーさんは今更聖杯に何かを願う英霊ではなさそうです」
「そう見える? 僕だって前は結構わがままで……あ」
そこまで言って、ふと視界の端を何かがよぎった。首を後ろに回して窓の外を見るが、春の夜空が広がっているだけだ。星はまばらで、満天の星空には程遠い。さっきのは、鳥の影が通り過ぎただけだったのだろうか。まるで流星のように通り過ぎたから、てっきり……。
そこまで考えて、僕は思いついた。
「ライダーさん? どうかしましたか?」
「そうだ、こうしよう。僕は君と星の良く見えるところに住む」
少年は驚いて僕の顔を見た。
「そんなことでいいんですか?」
「もちろん。それで秋になったらとっておきを見せよう」
幼いマスターはしばらく何のことかわからなかったようで、うーん、と言いながら記憶の箱を引っ掻きまわした。その箱のどこにあったのかは分からないが、すぐに答えを導き出して顔を輝かせる。
「流星群!」
「その通りだよ、マスター。僕の願いは決まり。それで、マスターは結局どうするの?」
彼はまた悩ましい顔になった。細い腕を持ち上げて額に手をやる。それから照れ臭そうにこう言った。
「僕のは…内緒です」
「ええ!?」
マスターは自分だけしか知らない秘密を見つけた子供のように、ふふんとどこか得意げに笑った。
「ひどいなぁ。教えてくれよ」
「その時が来たら、ちゃんと言いますよ」
「今はお預け、ってことだ」
「そうです」
その時。その時か。聖杯を勝ち取った時。
その時、彼の体はもとの10歳の少年にもどり、呪いは解かれる。管は外され、機械は用済みのゴミ捨て場に持っていかれる。そして僕と彼は誰も知らないどこか遠くの、何のしがらみもない自由な地で、新しく生きる。毎年秋、木の葉が舞う頃に特別な流星群が降り注ぐ。
僕らはそんな夢を見ていた。無機質な狭い病室の中で、呪いを宿したマスターと、黒衣に身を包んだ一騎のライダー。そんな現実は、僕が早々に打ち砕いてみせよう。そしてこの少年に、永遠の幸福を。
手足が、ずるずると泥になって溶け落ちそうなほど重い。頭が働かない。依代としていた仮面が砕けた今、より一層限界が近づいてくるのがわかる。この強制的な狂気の鎖に縛られず、本来のクラスで召喚されていたならばもう少しもったはずだ。
新宿駅、南口、と建物に張り付けられた看板は示している。人がいて、道が広い。それだけだ。だが、連日のテロ的な無差別殺人事件に恐れをなしているのか、駅前を歩く人間はずっと少ない。タクシーやバスががらんどうの箱となって、大河のような道をのろのろと進んでいる。立ち止まって空を仰いでいるのは、僕だけだ。
五日間。たった五日間だった。サーヴァントの一騎も倒せず、魔術師一人殺せず、魔力切れで自滅する、愚かな狂戦士のはぐれサーヴァント。前回の聖杯戦争の方が、まだマシだったような気がしてくるが、それはそれ、どちらも最低な記憶であることに違いはない。
僕は歩く。鉄で固められたかのように、一歩が重い。人々は彷徨する僕をちらりと一瞥して、目を背けて去っていく。誰も、僕が一日に100人殺したあの殺人事件の犯人だとは思ってもいまい。けれど今はもう殺す人間を探し出すことすら億劫だ。一人殺したところで得られる魔力は1時間も持たない。
いよいよ終わりかと思い空を再び見上げる。曇天。つまらない、灰色の空だ。こんな日に消えるのか、僕は。
その時、背後で声が上がった。
「君。おい、君だよ君。サーヴァントだろう」
僕はゆっくりと振り返り、声の方を見た。少し離れたところに、チャコールグレーのコートを着た、恐らく外国人の初老の男性がいる。声をあげたのは彼のようだ。目が合うと、つかつかと革靴の底を鳴らして近づいてきた。
「誰だ」
「ふむ。君がバーサーカーかね? 霊基構成に異常はなし、狂化されてはいるがごく弱いね。それで五日間、人間500人の魔力でしのいできたわけか。だが限界だ。今にも消滅寸前、いやはや、間に合ってよかったよ」
背の高い片眼鏡の老人は、豊かな白髪をかきあげてつらつらと一方的に喋った。
鬱陶しい。
「誰だ、と聞いている」
「ワタシかい? ご覧の通り、ただの老いぼれた魔術師さ。名前はアーノルドという。聖杯戦争があると聞いたから慌てて駆けつけたんだが、出遅れてしまったようでね。こうやって日本をウロウロしているんだ。そうしたら今にも消滅寸前のバーサーカーがいたものだから、興味があってねえ」
「………」
僕はものを言う気力も無く、黙って背を向けた。
「興味本位ならとっとと帰れ。邪魔だ」
「そう冷たいことを言うな。ワタシは君に協力したいと思っているんだよ」
僕は無視して、足を引きずるようにその場から離れようとした。だが魔術師アーノルドは無駄に長いその足ですぐに僕に追いつく。
「そのまま消えるのは、君の本意ではないだろう?」
しわがれた囁き声が耳元で響いた。
僕は足を止める。
「君ははぐれサーヴァント。ワタシはサーヴァントのいない魔術師。再契約でワタシと君の縁を繋ごう。ワタシがマスターになれば、君は十全な力を持って他の6騎を圧倒できる。君がサーヴァントになれば、ワタシは聖杯に近づくことができる。そうだろう?」
「………煩い。僕はあの人以外をマスターと認めない。帰れ」
「君につまらない意地を張っている余裕などあるのかね!」
突然大声で叫ばれた。何人かがこちらを向き、興味なさげに目をそらす。
アーノルドは声を低くして続けた。
「マスター殺しのサーヴァント、しかもバーサーカークラスのお前が、単独行動のスキルも持たずに聖杯戦争を勝ち抜けると思っているのかね。再契約をしたまえ。意地を張れば張るほど、願望の実現は遠のくのだよ」
僕は狡猾な老魔術師の顔を睨みつけた。
「お前に何がわかる」
「分からないが、協力は出来る。それとも君はここで無念の露と消えるのかい?」
僕は彼を睨みつける。
彼は薄く笑いかける。
どこかでごろごろと雷が鳴った。僕とアーノルドはしばらく睨み合った。沈黙が続き、やがて僕が腹を括らねばならない時が来た。
「心を決めたようだな」
僕より少し背の高いその魔術師は、周囲の人に聞こえないよう、僕だけに向かってごく小さな声で囁いた。
「―――告げる。汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、我に従え。ならばこの命運、汝が剣に預けよう」
再契約の詠唱だ。これに答えれば僕はこいつに従わなくてはならない。だが……今までより、効率はいい。早く、望みを叶えられる。早く、あの人を呼び戻せる。早く、幸福に――
「バーサーカーの名に懸け誓いを受ける。貴様を我が主として認めよう。…アーノルド」
僕がそう言い放った瞬間、アーノルドの骨ばった首筋に蛇のように令呪が現れた。うねり、組み立てられ、定着する。アーノルドは少し首筋に触って、満足そうに頷いた。
「さて。まぁ今日からせいぜい、上手くやっていこうではないか」
先ほどまで泥のように崩れかけていた手足が十分に力を取り戻すのがわかる。悔しいがこいつは相当な魔力量を持っているし、惜しみなくこちら側に提供してくるのがわかる。
今は耐えるしかない。
何、聖杯に辿り着いた時は、真っ先に用済みとして令呪もろとも首を裂いてやればいいだけの話だ。
Fate/defective c.10
to be continued.