ツユクサの朝露ひかるこの場所で

ツユクサの朝露ひかるこの場所で

■第1話 12年ぶりの、その姿

 
  
 
それは、目を閉じると浮かぶ遠く幼い記憶。
 
 
近所の河川敷の名もない雑草が生い茂る斜面に、小さな背中を丸めてしゃが
み込む姿がある。目をキラキラ輝かせてありふれた緑色の中に点在する小さ
な小さな蒼色を優しく摘んでいるその横顔。その蒼色は朝露にぬれて花びら
を揺らしながら差し込んで来た朝陽にまるで微笑むように佇んでいる。
 
 
 
  『アキラちゃん。

   言葉は生きてるから、いいことばっかり言うといいんだよ。

   そうすれば、その通りになるんだよ。』
 
 
 
まるで夢物語のようにぼんやり朧げに耳にしたその言葉と、彼から差し出さ
れたツユクサの小さな小さな花束が、いまでも心に残っている。
 
 
 
  (あれは・・・ アタシの初恋なのかな・・・?)
 
 
 
読みかけの文庫本に挟めていたツユクサの栞にそっと目を落とし、アキラは
それを指先で掴んで目の高さにかかげた。ゆっくりと視線が下から上方へと
移動し、一点で定まってそのフィルムコーティングされた蒼色を見つめる。

こどもの頃に初恋の男の子から貰ったツユクサを押し花の栞にして、17才
になった今でも大切に大切に宝物として持ち続けていたのだった。
 
 
 
 
 
 
”ギョッとする ”とは、こういう状況のことを指すのだとアキラは思い切り
しかめた片頬で、目の前に飄々とした面持ちで立つヒビキを眇めた。

自宅1階の廊下奥にある洗面所。その更に奥に浴室への引き戸があり、脱衣
所と風呂場があるのだが。
 
 
夜8時。

入浴を済ませたアキラは、あとは寝るばかりと緩いTシャツとショートパン
ツ姿で洗面所へ続く引き戸を開けた。買ってからだいぶ経ったTシャツは首
元がよれてだらしなく弛み、こぼした何らかのシミも付いてくすんでいる。

ショートパンツに至っては、ウエスト部分のゴムも心許ない状態でそれが逆
に寝るには腹部を圧迫せず丁度いい具合なんだと、自分に言い訳して。

首から提げたバスタオルの端を掴み、ガシガシと乱暴にショートボブの髪の
毛の雫を拭きながら引き戸を開け現れたアキラの目に映ったのは、洗面所で
歯を磨く ”その姿 ”だった。
 
 
ヒビキは、その隙だらけで緩すぎる格好のアキラに一瞬目をやりすぐさま素
っ気なく目を逸らすと、まるでアキラなど見えていなかったような涼しい顔
を向けた。

年頃の男女がこんな狭い空間で鉢合わせしているというのに、全く以って意
識の ”い ”の字も感じられないその横顔に、不本意ながらもアキラの方が
過剰に意識してしまい、髪を拭いていたバスタオルを再び首から提げ咄嗟に
胸元を隠し、露わになっている緩いショートパンツから覗く太ももをモジモ
ジと居場所無げに擦り合わせた。
 
 
すると、真っ直ぐ洗面所の鏡に顔を向けたままその飄々とした横顔はボソっ
と呟いた。それは歯ブラシを咥えている為、くぐもって響く。
 
 
 
  『名前とおんなじで、男みたいだな。

   キモい反応するなよ。

   お前みたいな凹凸無しになんか、僕は1ミクロンも興味ないから。』
 
 
 
その低く抑揚ない声色に、アキラは目を見張り固まる。そして一気に真っ赤
になると爆発するようにその場から飛び出して行った。
 
 
 
  『ムカつくムカつくムカつくムカつく・・・。』
 
 
 
首元のバスタオルを再び掴んで前髪を乱暴にモシャモシャと乱れ拭きながら、
怒り狂うアキラはリビングを通って母親が立つキッチンへと向かう。

その足音は絵に描いたようなイライラ感が溢れ、ドシンドシンとまるでゴジ
ラが街を踏み潰して回るようなそれでフローリングを通して振動が響く。

一人娘アキラの耳障りなそれに、母ナミは顔をしかめて『うるさいわよ!』
と不機嫌そうに一言吐き捨てた。
 
 
 
  『ねぇ、なんで?

   なんでアタシに ”アキラ ”なんて男の子みたいな名前つけたの?!
 
 
   ってゆうか、なんでアイツと一緒に暮らさなきゃなんないの?
 
 
   ヤだよ~・・・

   アタシ、アイツと絶対的に相性悪いってばぁ~・・・
 
 
   ムリ!

   ホントのホントに、アタシ。本気でムリだからぁ・・・。』
 
 
 
母ナミにすがるようにその腕を取りユラユラ揺らすと、夜のリラックスタイ
ムを愉しむために淹れたナミお気に入りのハーブティーのティーカップまで
揺れてユラユラと小さく波打つ。

マロウという名のそのハーブティーは、最初鮮やかなスカイブルー色でそこ
にレモンを数滴たらすとピンク色に変化する美しいものだ。
ブルーが少しソーサーに毀れ、ナミは更に眉根をひそめてアキラを睨んだ。
 
 
『そんなこと言わないのっ!!』 しがみつく娘を鬱陶しそうに振りほどき、
ナミはリビングのソファーに深く腰掛け目を瞑ってゆっくりとハーブティー
の香りを愉しむと、どこか勿体付けるようにしずしずとカップに口を付ける。
 
 
 
  『マキちゃんが入院する間、ヒビキ君ひとりになっちゃうんだよ?
 
 
   気の毒だと思わないの? まだ17よ?17・・・
 
 
   アンタと同い歳なのよ?

   アンタがひとりぼっちで3か月も生活することを想像してみなさい。』
 
 
 
そのナミの強い語気に、アキラは不満気に口を尖らせ黙りこくる。

ヒビキの母マキコが入院することとなり、父親は海外赴任中で簡単には帰国
できないため高校生の息子をひとり置き去りには出来ないと、予定入院期間
の3か月だけアキラの母ナミがヒビキの面倒を頼まれたのだ。
 
 
ナミとマキコは仲の良い母方の従姉妹であり、よってアキラとヒビキは再従
兄弟。俗に言う ”はとこ ”という関係だった。

幼い頃に遊んだ記憶はあるものの、ヒビキ一家の遠方への引越によって暫く
会ってはいなかった。今回顔を見合わせたのが12年ぶりという、酷く長い
歳月が流れていた事実に驚き、互いの ”成長 ”という名の変貌っぷりに言
葉をなくす程だった。
 
  
 
  ”名前とおんなじで、男みたいだな。

   キモい反応するなよ。

   お前みたいな凹凸無しになんか、僕は1ミクロンも興味ないから。”
 
 
 
先程のヒビキの言葉を思い出し、再度苛立つアキラ。

そして、同時にふっと遠い記憶を甦らせていた。
 
 
 
  『カズキ君はあんなに優しくてカッコ良かったのに・・・。』
 
 
 
ヒビキの兄、カズキの想い出に小さくため息をつくアキラだった。
 
 
 

■第2話 朝食タイム

 
 
 
朝。
 
自宅のキッチンに今までは存在しなかった、スラっと背の高い学ラン姿の
背中が母ナミと並んで立って、なにやら愉しそうに談笑しながら朝食の支
度を手伝っている。

ガスコンロに掛けられたフライパンには目玉焼きとベーコンが3人分焼か
れ、香ばしい音とにおいを狭いキッチンに充満させている。カチっという
電気ケトルの湯が沸いた合図の音に、ヒビキは既に粉末を入れ準備してい
たスープカップにお湯を注ごうと、ナミとの話に引き続き愉しそうに笑い
ながらクルリと振り返ると、その目にはどこか不貞腐れたような面持ちの
アキラを見止めた。
 
 
『・・・。』 一瞬、眼鏡の奥の切れ長の目がアキラを感情のない視線で
見つめ、次の瞬間口先ばかりの挨拶をこぼす。 『オハヨオ。』
 
 
 
  『・・・ぉはよ。』
 
 
 
一拍遅れてアキラの口から出たそれも、明らかに不機嫌そうな不明瞭な色。

今までナミとヒビキの明るくハツラツとした声色で彩られていたその空間
がアキラのそれで一気になんだかどんよりと重く沈殿する空気に変わった。
 
 
母ナミがヒビキの背中越しにアキラを睨み付け、わざとらしく大きく滑舌
よく娘へと声を掛けた。 『お は よ う っ。』

その ”仲良くやりなさいよ ”という母からの無言の圧力に、アキラは渋
々小さく頷き、もう一度『・・・おはよ。』と居心地悪そうに目線を指先
に落としながら呟いた。

そんなアキラを、ヒビキは笑いも怒りもしていない読めない表情で見つめ
すぐさま目を逸らして再び背中を向け、朝食の支度の手伝いを続けた。
 
 
 
アキラと母ナミの朝食時間は、普通の家庭のそれより早い。

若くして他界した夫の代わりに、女手一つで一人娘のアキラを育て上げ、
もうかれこれ25年以上看護師として働くナミは、職業柄普通の会社員よ
り出勤時間が早いことが多かった。なるべくアキラの為に夜に家をあけな
いよう極力夜勤を入れない代わりの、それ。

その為、母娘のコミュニケーションを図る大切な場として、ナミの出勤前
に少し時間が早目だとしても必ず二人で顔を見合わせて朝食を摂るという
習慣があった。
 
 
母マキコの入院中この家に世話になるヒビキも、この早朝の朝食タイムに
必然的に加わることとなる。

それは、ナミなりの配慮だった。
 
 
 
  『私の出勤時間が早いから、

   ヒビキ君も朝ごはんは普通より早い時間になっちゃうけど

   ちゃんと私たち3人で、毎朝、食べるからね!』
 
 
 
ヒビキに変に気を遣って食事の時間を一人だけ変えでもしたら、それでなく
てもアキラと折り合いが悪いのに余計にふたりの間に距離が出来てしまう。

ナミはこの家で3人が一緒に住む3か月間は、当たり前にヒビキも家族の一
員として、同じ事をし同じ物を食べて同じ空気を感じてほしかった。
 
 
3人で囲む早朝の朝食は、一見仲睦まじい雰囲気だった。

ほぼナミが喋り、ヒビキがそれに応えて笑い、アキラはそれに小さく相槌を
打つ。たった15分か20分のそれだったけれど、ちゃんと小さな一歩かつ
大切な時間にはなっているとナミは思っていた。

例え、今はまだ談笑しながらもアキラとヒビキが目を合わせることが一度た
りとも無かったとしても・・・
 
 
食事を終えたナミが、慌ただしく上着とバッグを片手に玄関先へと向かった。

玄関の上り框に立ち、アキラとヒビキはその背中を『いってらっしゃい』と
声を揃え見送る。
 
 
すると、玄関ドアのノブに手を掛け家を出ようとしたナミが一瞬動きを止め
て振り返り、アキラへと呟いた。
 
 
 
  『昨日お願いした ”アレ ”  ・・・頼むわよ。』
 
 
 
その有無を言わせぬ一言に、アキラは思い切り片頬を歪めて苦い顔をした。
 
 
 

■第3話 お弁当 

 
 
 
  『昨日お願いした ”アレ ”  ・・・頼むわよ。』
 
 
 
母ナミが出勤前に振り返りざま言い残したその一言に、玄関ドアの向こうに
もう消えて見えはしない母の背中をアキラは睨み続けたまま顔をしかめた。
 
 
ナミが言った ”アレ ”
それは、昼食の弁当作りのことだった。
 
 
毎朝早い時間に大切なコミュニケーションの一環として必ず顔を見合わせて
朝食を摂る母娘。朝食は母ナミが準備するが、アキラの弁当までは作る時間
がなく自分の分は自分で作って持参するという独自のルールが出来ていた。
 
 
アキラの家に同居するヒビキは、母マキコが入院している間は少し離れた隣
町の高校への電車通学を余儀なくされる。今までは母が手作り弁当を持たせ
てくれていたが、勿論それを継続など出来る状況ではないのは明らかで。

それを思ってナミが娘アキラにヒビキの分も併せて作るように頼んでおいた
のだった。
 
 
ヒビキはナミが出勤するのを笑顔で見送ると、玄関ドアがパタンと閉まると
同時に瞬時に能面のような顔に戻って、アキラの方を見もせずに仮住まいの
和室に戻って行こうとした。

『ちょっ・・・。』 呼び止めようとしたアキラにも、その学ランの背中は
無反応で全く足音も立てずに廊下の先へと流れるように進んでゆく。
 
 
アキラは眉根をひそめ不機嫌そうに溜息をひとつこぼした。
 
 
 
 
 
毎朝の流れとして、母ナミを見送った後は再びキッチンに戻りエプロンをし
て冷蔵庫を開ける。同時にリビングのテレビのスイッチをONにし、朝の情
報番組を時計代わりに付けっ放しにしながら、今日の弁当のおかずは何にし
ようかと前屈みになって、ナミがキレイに整理した庫内を眺めるのだ。
 
 
大雑把なアキラとは違いナミは食材を個別にキチンと保存し、まるでテトリ
スのように無駄なく美しく配置されている。昨夜の夕飯の残りの炒め物をリ
メイクし、冷凍食品の唐揚げをレンジで温め、ほうれん草入りの玉子焼きに
彩りの野菜を詰めれば本日の弁当は簡単に完成しそうだ。白米ではナンだか
ら挽肉を甘辛く炒めてそぼろご飯にでもしたら最高だなんて考えつつ、自分
の赤い弁当箱の他にもうひとつ青いそれを棚から取り出し、仕分けアルミカ
ップやバランを使って着々と弁当は出来上がっていった。
 
 
 
  『出来たっ!!』
 
 
 
赤いチェック柄ハンカチで自分の弁当箱を包み、渋々作ったヒビキ用の青い
それを包み終わると、アキラは一応ナミとの約束は守った達成感に少しだけ
気分よさげにガッツポーズを作った。
 
 
その時、カバンを片手にリビングにヒビキがやって来た。

一瞬キッチンのアキラに目を向け無言ですぐさま逸らすと、テレビ前のソフ
ァーに静かに腰掛け、ローテーブルの上にあったリモコンでチャンネルを勝
手に替える。

それはアキラが決して観ることが無いNHKの朝のニュースだった。ヒビキ
はそれをさも当たり前といった顔で眺めている。定規で計ったような美しい
姿勢で座り、スっと伸びた痩せた喉元にはクッキリ浮き上がる喉仏が目立つ。
銀縁メガネの奥の目は感情は読み取れないけれど、母ナミと話して笑う時の
それは表面上ではなく心から愉しそうに笑うのだ。

だとしたら何故そんなに自分だけ嫌な態度を取られなければならないのか、
アキラには皆目見当が付かなかったが、それより何より今は一言の断りも無
くチャンネルを替えられたことが癪に触って仕方がない。
 
 
 
  『あのさ・・・

   ちょっと、なんか、無いわけっ?!

   さっきの番組、アタシが観てたとは思わないの・・・?』
 
 
 
そう強めの口調で言ったアキラに、ヒビキは呆れた様に皮肉な声色で返した。
メガネの奥の目が馬鹿にしたように哂ったのがレンズ越しに透かし見える。
 
 
 
  『NHK以外の選択肢があるなんて知らなかった。』
 
 
 
『アンタねぇ!!!』 怒り心頭でドタドタと足音を立てヒビキの目の前に
立ちはだかったアキラ。その手にはヒビキ用の弁当箱の包みを引っ掴んだま
まで。しかし、手に掴むそれの存在などスッカリ忘れる程に完全に頭に血が
上り、いまだ飄々とソファーに座るヒビキを真っ赤な顔で睨み付けた。
 
 
 

■第4話 ケンカ

 
 
 
ソファーに座るヒビキの前で仁王立ちして、片手は腰に片手は弁当箱を掴ん
だまま、その悪びれない飄々とした顔に向かって指をさしたアキラ。 
 
 
 
  『ねぇ、分かってんの?

   3か月一緒に住むんだから、

   少しは相手への ”思いやり ”とか、 ”気遣い ”とか、

   必要だとは思わないわけっ??』
 
 
 
怒り狂うアキラからは熱が放出され、モヤモヤと陽炎でも出ているのではな
いかというくらいの迫力がある。

ヒビキはそんな目の前のアキラを冷静に見つめ、メガネのブリッジを右手中
指でクっと押し上げると、小さくひとつ息を付いて言った。
 
 
 
  『僕はナミ叔母さんにお世話になっているのであって、

   お前には世話になってないと思うんだけど、違う・・・?
 
 
   お前だって叔母さんに養ってもらってるだけだろ?
 
 
   僕がお前に何かしてもらったことなど無いし、

   してもらおうとも思ってないから。』
 
 
 
その抑揚のない口調に、アキラは唇を噛み地団駄を踏んで足を鳴らす。

元来グっと堪えて我慢など出来るタチではない。全身で喜怒哀楽全ての感情
を表現するタイプなのだ。頬を歪めて引き攣らせ真っ赤に染まる顔で、怒り
のまま手をバタつかせアキラは叫んだ。
 
 
 
  『ナンなのよ! ナンなのよ! ナンなのよぉおおおおお!!!』
 
 
 
その心からの叫びにもヒビキは鬱陶しそうに片耳に指を差込み目を眇めて、
”うるさいんだけど ”と嫌味なアピールを涼しい顔でやってのける。

アキラは行き場のない負の感情を持て余し、仁王立ちの体勢から小さくし
ゃがみ込み身体を丸めると、強く強く握った拳をふるふると震わせて、この
最悪な朝をどう乗り切ればいいのか、怒りで全く思考停止している頭で必死
に考えあぐねる。

鼻にシワを寄せギュッと目をつぶり、邪念を払うように首を大きく左右に振
る。心臓がバクバクと爆音を立て、熱を持ちカッカする身体が痛いほどで。
 
 
何度も大きく大きく深呼吸をしてそっと目を開けると、アキラの視界に片手
に握り締めたままの弁当の包みが映った。それと同時に、怒りに任せてそれ
をかなり激しく振りまわしてしまった事に気付く。
 
 
 
  (ぁ・・・ ヤバ・・・。)
 
 
 
アキラはいまだしゃがんで小さく身体を丸めたまま、暫く手に掴んだ青い弁
当箱の包みを見つめ、不機嫌そうにヒビキへとゆっくり差し出した。
 
 
ヒビキはそんな一連のアキラの言動を呆れた面持ちで見ていた。

怒り狂ってヒステリックに叫んだかと思ったら、突然小さく丸まってピクリ
とも動かなくなり、そして今、謎の包みを自分へと差し向ける日焼けした細
い腕を、小首を傾げぼんやりと。
 
 
すると、アキラが蚊の鳴くような声で呟いた。
 
 
 
  『コレ・・・。』
 
 
 
その声色は、怒りのピークが過ぎ次第に冷静になっているそれ。
どこかバツが悪そうに眉根をひそめ、更にヒビキへと向けぐんと手を伸ばす。
 
 
 
  『ぉ、お弁当・・・

   お母さんに頼まれたから・・・ アンタの分も・・・
 
 
   だから・・・

   取り敢えず、一応・・・ 毎日作るつもり、だから・・・。』
 
 
 
その一言に、はじめてヒビキが目を見張り動揺する素振りを見せた。
 
 
”お前になんか世話になってない ”発言のその直後に、アキラが自分の分
まで弁当を作ってくれていた事を知るなんて、最低最悪な事態で。

何故こんなにアキラに対してだけつっけんどんな振る舞いをしてしまうのか
自分でも分からぬまま、なんだか売り言葉に買い言葉でついつい応戦してし
まう。

アキラが掴む青いチェックハンカチの包みをきまり悪そうに見つめ、ヒビキ
は更に追い打ちを掛けるように思わず嫌味を吐いてしまう。
 
 
 
  『それ・・・

   さっき、散々振りまわしてたじゃん・・・
  
   
   ・・・僕への当てつけ??』
 
 
 
そう言ってしまって、すぐさま顔を伏せた。

本当は、心の奥底では、有るはずないと思っていた弁当を作ってもらえてい
た事が純粋に嬉しかったのに、巧くそれを表せずあろう事か逆に嫌味で返し
てしまった。
 
 
『わ、わざとじゃないってば・・・。』 そう零したアキラの声色もまた、
なんだか哀しげに寂しげに響く。ヒビキは自分が作ったものなど口にしたく
ないのだと、やけにネガティブな方向に思い込んで。
 
 
 
  『アタシが作るのがイヤなんだろうから、

   アタシから、お母さんに頼んどいてあげるよ・・・。』
 
 
 
その一言を耳に、ヒビキが少し慌てて言い掛ける。 
 
 
  
  『ぁ、ぃゃ。 その・・・。』
 
 
 
しかし二の句を継ぐことが出来ずに、きゅっと口をつぐんでしまった。

そして素直に感情を出せずに、ボソボソと低く呟いた。
 
 
 
  『・・・購買でパン買うから、いい。』
 
 
 
その瞬間、付けっ放しのテレビから現在時刻のアナウンスが流れた。
 
 
電車で通学しなければならないヒビキは、もう出発しなければ間に合わない。
足元に置いていたカバンを引っ掴むと、アキラを見もせずに『じゃぁ。』と
一言呟いて玄関へと駆けて行った。

玄関ドアがバタンと閉まる音をリビングで聴きながら、アキラはヘナヘナと脱
力した状態でフローリングに座り込み、今朝のケンカを思い返していた。

テレビからは普段全く観ることがないNHKのニュースが淡々と流れている。
 
 
 
  『こんなんで、やってけんのかなぁ・・・。』
 
 
 
青いチェックの包みをぼんやり見つめ、アキラがぐったりと疲れた顔を作った。
 
 
 

■第5話 ため息

 
 
 
ヒビキは重い足取りで昼休みの喧騒で賑やかな廊下を歩いていた。
 
 
その片手には、校舎1階の購買部で買った玉子サンドとパック牛乳が入った
白いビニール袋が握り締められている。ヒビキの気怠い歩みに併せて脚の横
でビニールが揺れてカサカサと乾いた音を立てた。
 
 
今朝、アキラがせっかく作ってくれた弁当を素直に受け取ることが出来ず、
尚且つ最上級の嫌味まで言ってそのまま出て来てしまった。

一瞬チラリと見えたアキラの顔は、怒っているというよりもなんだか哀しそ
うでその顔を見ていられずに逃げるように玄関を飛び出した自分を思い出す。
 
  
  
  (・・・購買でパン買うから、いい。)
 
 
 
アキラに言った言葉を思い返し、パンの入ったビニール袋をそっと目の高さ
に挙げてぼんやり見つめた。あまり好きではないパンの、全く好きではない
玉子サンドを敢えて選んで買った自分が何を意図しているのか自分自身分か
らずに。

しょんぼりとうな垂れて、ヒビキはひとつ溜息をこぼした。
 
 
教室に戻ると、ヒビキの席前のクラスメイトが珍しいその光景に驚いた顔を
向けた。
 
 
 
  『あれ? 珍しくねぇ??』
 
 
 
そう言って、そのクラスメイトはヒビキの諸事情を思い出し、ヒビキがそれ
について返事をするよりも早く二の句を継いだ。
 
 
 
  『あぁ・・・

   今、親戚ん家にいるんだっけ・・・?
 
 
   ・・・てことは、

   暫くはパンなんだ・・・?』
 
 
 
なんの深い意味もなく投げかけられた、今朝の事情など何も知らないその発
言に再度ヒビキはうな垂れて唸るように『ん・・・。』と返した。
 
 
 
 
 
その頃アキラは、自席の机の上に弁当箱を広げ箸でつまみ上げた玉子焼きを
苦々しく眇めていた。
 
 
自分だけが食べるならともかく他人に食べさせる事を考慮して、いつもより
気持ち多目に頑張ったつもりの弁当。おまけに相手はあのヒビキだ。中途半
端なものを作った日には何を言われるか分かったもんじゃない。

不本意ではあるけれどいつもの内容よりも豪華なそれに、改めて眉根をひそ
め今朝の遣り取りを思い返して睨み付けた。
 
 
 
  『どうしたの?アキラ・・・
 
 
   なに?

   さっきからずっとお弁当睨んでるけど・・・。』
 
 
 
いつも一緒にお昼ご飯を食べるクラスメイトが怪訝な顔をしてアキラを見つ
める。その弁当箱の中にどんな憎らしい相手がいるのか小首を傾げながら。
 
 
『ん~・・・。』 奇しくもヒビキと同じタイミングでアキラがうな垂れ唸
っていた。
 
 
 
 
 
その日、学校が終わり家へ帰るとアキラはまだヒビキが帰宅していない事を
確認しどこかホっと胸を撫で下ろしていた。
 
 
 
  『ってゆうか、アタシの家だっての・・・。』
 
 
 
どこか余所余所しく抜き足差し足でリビングに爪先を落とす自分に、自分で
小さく突っ込むもやはり顔を合わせづらい、出来れば合わせたくないその相
手の不在を家中必死に確信し、自分以外誰もいないことが確定するとやっと
落ち着けたようにリビングのソファーにドカっと座り込んだ。

そして首を反らしてソファーの背もたれに深く背を預け、大きな大きな溜息
をつく。思ったより無意識のうちに大きく深く吐いた自分のそれに驚き、そ
して再びうな垂れて溜息をついた。
 
 
同じ時、アキラがいるであろう家に帰りづらくて、ヒビキが無駄に駅前の商
店街をウロウロとしている事など何も知りもせずに。
 
 
 

■第6話 帰宅

 
 
 
アキラはチラチラとリビングの壁にかかった時計の針を覗き見ていた。
 
 
ヒビキと顔を合わせるのが気まずくて、学校から帰宅してからずっとソワソワ
落ち着かないまま。取り敢えず、まだ帰って来てはいないヒビキ。
 
 
アキラは毎夕の仕事である炊飯をする為、キッチンでエプロンを手に取った。
腰紐を後ろで交差させ前に持ってくると、どこか気怠く指先で蝶々結びにする。

”女子力 ”などという異性目線を意識したものに微塵も必要性を感じないア
キラらしいシンプルなデニム地のストライプ柄エプロンは、男勝りなアキラを
尚のことキリリと男前に魅せる。
 
 
胸の中のモヤモヤを吐き出すように大きくひとつため息をつくと、炊飯ジャー
の釜に2合の米を入れ、『ぁ。』とふいにこぼれた自分の声に手を止めた。

通常、母ナミと二人の夕飯は米は2合だが、今は一人分多く炊かなければいけ
なかった事を思い出しての、先程の『ぁ。』

計量カップに並々に米をもう1合分入れ釜にそれを移すと、水道のハンドルを
上にあげて水を注ぎ右手の平でシャリシャリとかき回し米を研いだ。
 
 
炊飯はアキラの担当だったが、おかずは夕方6時には帰宅する母ナミが担当だ。

冷蔵庫の中には1週間分の食材が所狭しと詰まっていて、毎日終業後にスーパ
ーに寄って買出しをしなくとも夕飯作りが出来るよう準備はされている。その
都度買出しをするより、まとめ買いの方が食費が安く抑えられるのも利点だ。
 
 
アキラは炊飯のセットを終えると、冷蔵庫を開けて覗き込んだ。

昨日まで冷凍庫で丁寧に保存されていたアジが、冷蔵庫内で解凍されている。
今晩のメインはアジのようだ。焼くのか、フライにするのか、小さく小首を傾
げて思いめぐらす。早目に消費してしまった方が良いキャベツと昨日の残り物
のポテトサラダがあるから、それらを添えてアジフライにするというのがアキ
ラの予想。それなら味噌汁の具はシンプルに豆腐とワカメがいいな、なんて考
えていると、ギュルルルと腹の虫が暴れてすっかり陽が暮れた夕刻を報せた。
 
 
もう一度、壁掛け時計に目を遣った。
まだヒビキは帰って来ない。
 
 
もしかしたら今朝のことを気にして帰りづらいのだろうか。

やはりヒトの家に世話になっている身分なのだ。売り言葉に買い言葉的に応戦
したものの、気まずくなってしまっていつもの時間には戻りづらいのかもと、
アキラはそっと目を伏せてリビングに移動し、ちょこんとソファーに腰掛けた。

自分の家だというのになんだか居心地が悪くて、手持無沙汰に学校指定のサブ
バッグに手を差し込むとそこに入れてある文庫本を引っ張り出した。
 
 
そこにある活字など何も頭には入らないのだけれど、ツユクサの栞が挟んであ
るページを開くと一応上から下へと目で追ってみた。それはただの視線の上下
運動にしかならず、物語はやはり上の空。上空の彼方へと消えてゆく。
 
 
その時。
 
 
ガチャガチャと玄関ドアの鍵が開錠される音が響き、アキラは慌ててソファー
から立ち上がった。指先で掴んでいた文庫本が足元に転がったのも気にせず、
弾かれたように一気に駆け出し階段を上る。

そして自室に飛び込むと部屋の内側からドアに張り付くようにしてそっと耳を
寄せ、帰宅した人物が母ナミか別の人間か計り知ろうと息を殺す。
 
 
玄関ドアを静かに開けツヤツヤに磨かれたローファーを脱いだヒビキが、どこ
か気まずそうに上り框に片足を踏み込んで廊下へと進んでいた。
 
 
 

■第7話 栞

 
 
 
ヒビキが帰宅すると同時に2階の方からドアがバタンと閉まる音が聴こえ、
それが ”誰の何 ”を意味するのか気付かないはずもなく、そっと階段の
方に目をやり眉根をひそめて視線を落とした。
 
 
『ただいま・・・。』 返事など返ってこないのは分かっているけれど、
小さく小さく呟くと静まり返ったリビングの、誰もいないそのやけに広く
感じる空間にヒビキのこぼした一言が寂しげに彷徨った。
 
 
 
  (謝りたいのにな・・・。)
 
 
 
何故かアキラにだけは素直になれない自分が、どこか他人事みたいに不思
議で仕方がない。どうしてあんな態度をとってしまうのか、どうしてイラ
イラしてしまうのか、どうして言葉に棘が表れてしまうのか。
 
 
なんだか夢の中のようにぼんやりと考えながら、リビングのソファー横に
通学カバンを気怠げに置き座面に鎮座するクッションを肘掛け側によける
とドサっと腰を下ろし座る。自分の膝の上に肘をつき背中を丸めてうな垂
れた。すると、脚と脚の間にローテーブルの下に文庫本が転がっているの
が見えた。更に身体を屈め腕を伸ばしてそれを掴み上げる。手首を返して
それの表と裏を見つめる。先程までこの場所にいた人間が落としていった
物ということは火を見るよりも明らかで。
 
 
 
  『こんなの読むんだ・・・? 意外だな・・・。』
 
 
 
思わずひとりごちたその一言。

あのアキラなら、推理モノとかホラーとか好き好んで読みそうなものなの
に今ヒビキが手に取るそれは恋愛小説の部類に入るそれ。恋愛なんか全く
興味なさそうな顔して実はロマンティックな恋物語に憧れているなんて、
体中がむず痒くなる感じがしてヒビキは苦笑いをしてそれをテーブルの上
にポンっと置いた。
 
 
すると、もう一つカーペットの上に何か落ちている気配に目を遣った。
リビングの照明に反射して何かが小さく光った気がしたのだ。

『ん??』 もう一度身体を屈めて指先をテーブル下に伸ばすと、それは
フィルムコーティングされた長方形の薄っぺらいものだった。そのフィル
ムの表面が光ったようだ。指先で摘んで、ゆっくり目の高さに掲げる。
 
 
すると、
 
 
 
  『ぇ・・・?』
 
 
 
ヒビキの目に入ったものは、ツユクサが挟まれた栞だった。

ほんの少しくすんだ蒼色のそれ。栞にしてからそこそこ時間が経っている
ということなのだろうか。しかし逆にそんなに前のそれを大切に挟んで持
っているという事にもなる。
 
 
 
  『コレ・・・。』 
 
 
 
じっと栞を見つめていた。遠い記憶をゆっくりと呼び覚ますよう、じっと。
 
 
 
  『・・・コレって。

   あの時の・・・ じゃない、よな・・・?』
 
 
 
その時。
 
玄関のドアチャイムがけたたましく2度鳴り、来客の合図が物音ひとつし
ないリビング中に響き渡った。
 
 
『ナミおばさんかな・・・。』 ヒビキは慌てて立ち上がり玄関へと駆け
ドアを開錠して開けると、慎重に開けたその隙間の向こうには思った通り
仕事から帰宅したナミが少し疲れた顔で、しかし母親特有のやさしい顔で
微笑み『ただいま。』と笑う。
 
 
『おかえりなさい。』 ヒビキもそう小さく笑って返した。

どこか胸に引っ掛かるツユクサの栞を掴んだままなのをスッカリ忘れて。
 
 
 

■第8話 初恋 

 
 
 
ナミはリビングへの廊下を進みながら自分の右手で左の肩を揉み、右側に少
し首を倒しながら『今日も一日よく頑張った~ぁ・・・。』と独り言のよう
に呟いた。
 
 
ヒビキはその華奢な背中を後方から見つめながら、自分の母マキコは専業主
婦の為そんな姿もそんな一言も今まで見も聞きもしたことがないな、なんて
ぼんやりと考える。専業主婦だって頑張っていない訳ではないのに、働く主
婦ほどの評価はされていない事を今になって初めて気付いていた。
 
 
リビングのソファーに上着をポンと放ったナミは、そのままオフホワイトの
ブラウスシャツの袖を肘まで捲ると、キッチンのナミ専用エプロンをすぐさ
ま着けて夕飯作りに取り掛かり始めた。

冷蔵庫を開け、今朝解凍しておいたアジを取り出すとフライにする準備を始
める。同時に味噌汁の具は何がいいか、冷蔵庫内を覗き込むように見眇めて
豆腐とネギを取り出し急にクルリと振り返った。
 
 
 
  『ねぇ、ヒビキ君。

   お味噌汁の具、”豆腐とネギ ”と ”豆腐とワカメ ”

   ・・・どっちがいい??』
  
 
 
思いがけず問われたそれに、ヒビキは若干驚いて視線をキョロキョロと泳が
せた。正直なところどちらも好きだしどちらでも良いのだが、こういう場合
『別に、どっちでも』というのが一番相手にとって困ると知っている。

無意識の内に右手を口元に当て、『じゃぁ・・・ ワカメ、で。』と返した
瞬間ナミが『あ!』と少し大きめの声を上げた。
 
 
ヒビキはナミの発したそれに、自分が出した ”ワカメ ”という提案に問題
があったのかと、なんとなく申し訳なさそうに口をつぐむ。

すると、片手に豆腐のパックを持ったまま他方の指をヒビキへと向けて差し
ナミは愉しそうに笑って言った。
 
 
 
  『それ!

   アキラのよ、アキラの栞・・・。』
 
 
 
ヒビキは落とし物の栞を掴んだのを忘れたまま口元に手を当てていたようで
それが目に入ったナミの先程の『あ!』だったのだ。
 
 
 
  『あ・・・ あぁ、コレ・・・

   リビングで、さっき・・・ 拾って・・・。』
 
 
 
別に落とし物を拾った善意の第三者なのだが、なんだかまるでこっそり盗ん
だみたいにヒビキは背中を丸めて居場所無げに眉根をひそめる。

すると、ナミは更に愉しそうに笑いながら続けた。
 
 
 
  『ソレ、ね・・・
 
 
   アキラの初恋の人からもらったツユクサなのよ。

   こどもの時にもらったのを、わざわざ栞にして・・・
 
 
   ヒビキ君のお兄ちゃんの、カズキ君からもらったんだって~。』
 
 
 
なんだか嬉しそうにどこか切なそうに、ナミは目を細めてクスクスと笑う。

娘の初恋を胸の奥で宝物のように思っているような、そんなあたたかい顔で。
 
 
 
  『あ~んな男の子みたいなアキラにも、

   意外に可愛いトコあるでしょ~・・・?』
 
 
 
そう言ってヒビキへと近寄り手を伸ばし、ナミはツユクサの栞を指先で掴ん
で自分の目の高さに掲げ、再びやさしく穏やかな笑みをその口元に作った。
 
 
 
  『カズキ君が生きてたら・・・

   素敵な男の人になってただろうねぇ・・・。』
 
 
 
そのやさしすぎる声色に、ヒビキは思わず顔を伏せた。
 
 
突然のそれに、胸の中にはモヤモヤした霞が広がり落とし処の無い気持ちが
急速に広がってゆく。
 
 
今は亡き、兄カズキ。

そのカズキが、アキラの初恋の相手。
 
 
 
 
     ツユクサをくれたカズキが、初恋の・・・
 
 
 
 
ぼんやりと足元に落としていた視線に、小さなため息がまざって揺らいだ。
 
 
 

■第9話 初恋の相手

 
 
 
その夜、3人での表面上穏やかな夕飯を終え、内心ドっと疲れたアキラが2
階の自室に戻ろうとドアノブに手を掛けた時、急に後ろから声を掛けられた。
 
 
 
  『ぁ、あのさ・・・。』
 
 
 
それは母ナミのソプラノの声ではない。
という事は必然的に消去法でヒビキのそれだということになる訳で。
 
 
アキラはドアノブに手を掛けたままビクっと身体を跳ねさせ、気まずさに
一向に振り返ることが出来ない。頭の中ではまるで何も無かったかの様に
ヒビキへと穏やかな顔を向けたいとは思っているのだけれど、実際アキラ
の表情筋はガッチガチに固まり、目の下の辺りはヒクヒクと痙攣まで起こ
して振り返って微笑むなど到底無理な状況なのだ。
 
 
ヒビキは声を掛けた瞬間は今朝のことをアキラに謝ろうと思っていた。

『ごめん』なんてストレートな言葉では言えないけれど、少し格好付けて
『悪かった』ぐらいなら言える、否。言おうと思っていたのだ。
 
 
しかし、目の前のアキラは呼びかけにも無反応で振り向きもしない。

きっと今朝のことを根に持っているのだろう。怒って当然だとは思うけれ
ど振り向くぐらいしたっていいのではないかと逆に苛立ってしまう。
 
 
 
 
  (ツユクサをくれた兄ちゃんが、初恋の相手・・・)
 
 
 
 
すると、ナミから聞いたそれが一瞬頭をかすめた。

モヤモヤと重く沈殿する塊が、ヒビキの心の中をドス黒く染めてゆく。
 
 
その瞬間、ヒビキの喉元は歯がゆく震えながら当初言おうと思っていた言
葉とは全く違うそれを吐き出してしまった。
 
 
 
  『お前、兄ちゃんが初恋なんだって・・・?』
 
 
 
言ったその刹那、ヒビキはギュっと目を瞑ってうな垂れた。
 
 
アキラの顔など見なくても、今どんな表情をしているかは分かる。

ゆっくりとスローモーションのように振り返ったそのショートボブの髪の
毛先が前に後ろに揺れて止まる。そして、まるで音が聴こえそうなほどに
冷たく目を眇め唇を噛み締めてコッチを睨んでいるのだろう。
 
 
咄嗟に『ごめん』と謝ろうとしたヒビキ。

もしアキラが呆気らかんと、幼い記憶のそれを笑い飛ばしでもしてくれた
らヒビキも軽くからかって、でもちゃんと謝って終わるつもりだった。
 
 
しかし、次の瞬間アキラの口から出たのは怒りと哀しみが混じったそれ。
 
 
 
  『アンタに・・・

   ・・・アンタなんかに、関係ないでしょ・・・。』
 
 
 
その低く唸るような声色にヒビキは爪先に落としていた目線をゆっくりと
上げると、アキラの今にも泣き出しそうな不安定な表情が目に入った。
 
 
 
 
  (ツユクサをくれた相手が・・・

   ツユクサをくれた、兄ちゃんが・・・ 初恋の・・・)
 
 
 
 
 
  『もし・・・

   もし、例え兄ちゃんが生きてたとしても、

   お前なんか相手にするはずないだろっ!!!』
 
 
 
何故かヒビキも泣きだしそうな顔でアキラへと吐き出すように怒鳴った。
 
 
2階の廊下に耳をつんざくような重い沈黙が広がっていた。
 
 
 

■第10話 宿題

 
 
 
それ以来というもの、アキラはヒビキと家の中でも目も合わせず口もきかず
にいた。
 
 
最初はヒビキから突然からかわれた ”初恋の件 ”に本当に怒り狂っていた。

誰にでも他人に安易に揶揄されたくない事のひとつやふたつは有る。
アキラにとってはそれのひとつが ”カズキ ”のことだった。
 
 
しかも亡くなった人との想い出なのだ。それを大切に大切に胸に秘めている
のに、あんな風にバカにされしかも『相手にするはずない』なんて、そんな
事わざわざ言われなくたって自分自身で分かっているのに。
 
 
アキラはいまや半ば意固地になってヒビキを避けていた。

まるでヒビキなんてそこには存在しないかのように、視界の片隅にも入れず
たまに物言いたげに口元をうごめかすヒビキの横を表情筋を1ミリも動かす
ことなく通り過ぎた。
 
 
しかし、元来誰かを無視し続けるなんて出来る性格ではない。
怒りのパワーは相当なもので、アキラの気力体力をいとも簡単に奪ってゆく。

それはヒビキの猛省している気配にも影響を受けていて、普段は過剰に上か
ら目線なその態度も心なしかしょんぼりとしているように感じる背中を目に
アキラも仲直りのチャンスを狙ってはいるものの、自分からは踏み出せずに
時間ばかりが過ぎていった。
 
 
 
それは、とある夜のことだった。
 
 
 
夕飯を終え母ナミは自室に戻っていき、静かなリビングにはアキラひとり
だった。ローテーブルの上に教科書とノートを開き、シャープペンシルの
頭でコメカミをカリカリと掻きながら、明日までに仕上げなければならな
い宿題を不機嫌そうに睨んでいる。
 
 
そこへ、リビングのドアがふいに開いた。
 
 
キッチンで水を飲もうとリビングに足を踏み入れたヒビキが、まさかそこ
に居るとは思いもしない相手を目に、驚いて一瞬その場で固まる。

しかし、慌ててアキラから目を逸らして気まずそうに足早にキッチンへと
向かう。アキラもまた驚いて目を見張るも、慌てて教科書を真剣に読み耽
っている素振りをして顔を伏せた。
 
 
リビングとキッチン、たった数メートルの距離がなんだかやけに遠い。
 
 
互い、声をかけたくて。
でも、なんて言ったらいいのか分からなくて。
 
 
ヒビキはキッチンのシンク前で、手にグラスを持ったまま立ち竦んでいる。

アキラはラグにぺたんこ座りをしていた脚を両腕で抱えて体育座りの体勢
に変え、膝に顔をうずめて小さく小さく丸まっていた。
 
 
 
  ゴクリ。。
 
 
 
水が喉を通って流れる音がリビングに響いた。
ヒビキの痩せた喉仏が上下に動き、冷水と覚悟を呑み込んで沁みてゆく。

軽くグラスを洗って洗い桶にそれを置くと、ゆっくりとアキラへと近付い
て行った。そしてソファーの下で体育座りをしているアキラの背中越しに
テーブルの上に広げられた教科書やノートを覗き込む。

ヒビキのかすかな足音が近付く気配に、自分の脚を抱きかかえるアキラの
手が思わず親指を隠してぎゅっと拳を作り身構えた。
 
 
すると、
 
 
 
  『そんなのも分かんないの?

   ・・・終わってんな。』
 
 
 
ヒビキの口から出たなんだか久しぶりに感じるその嫌味ったらしい一言に
アキラは一瞬不機嫌そうに眉根を寄せ、しかしそんな遣り取りがなんだか
少し嬉しくて上半身をひねり後方に立つ姿に向かって大袈裟に言い返す。
 
 
 
  『うるっさい!! 放っとけ!!』
 
 
 
その瞬間、久々に目が合った互いの目の奥の奥が愉しそうに笑っている事
に気付く。しかし、そんなこと気付いてないフリをして掛け合いを続ける
ふたり。
 
 
 
  『ってゆーか、

   なんで自分の部屋でやんないの?』
 
 
 
その至極真っ当な質問に、アキラはちょっと照れくさそうに口を尖らす。
 
 
 
  『だってさぁ・・・

   自分の部屋だと、マンガとか・・・ 誘惑があんじゃん・・・。』
 
 
 
まるで小学生のようなその答えに、思わずプっと吹き出したヒビキ。

各種誘惑物が無いリビングにわざわざ移動して宿題をしなければ自制でき
ないなんて、同じ歳とは思えない。
なんだか可笑しくて可笑しくて止まらなくなってしまって、ヒビキは無意
識のうちにアキラがラグに体育座りする隣まで行き、ソファーに腰を下ろ
して笑いながら全くペンが進んでいないノートを斜め後方から覗き込んだ。
 
 
 
  『あー・・・ 違う違う。

   そこの数式はそうじゃないだろ~・・・。』
 
 
  『うるっさいってば!!
 
   あっち行ってよねぇ!!』
 
 
 
学校の教科では ”体育・美術・音楽 ”が得意なアキラは、目の前の最も
苦手とする ”数学 ”を睨み、斜め後ろで愉しそうに笑っているヒビキへ
もジロリと睨みを利かせる。

しかし数学が最も好きで得意なヒビキは、こんな単純明快な数式が何故理
解できないのか全く以って意味がわからない。
 
 
不貞腐れたように頬をふくらますアキラの横顔を、そっと見つめた。

長いまつ毛が瞬きに併せてやわらかく揺れている。
 
 
『アイスでどうだ?』 ヒビキが突如呟いたそれに、アキラはその意味
が分からずに小首を傾げた。
 
 
 

■第11話 アイス

 
 
 
『ぇ・・・?』 アキラはヒビキの口から出た ”アイスでどうだ? ”とい
う言葉の意味が分からず、瞬きを繰り返して見つめた。
 
 
すると、ソファーに浅く腰掛けていたヒビキはラグに直座りするアキラの隣
にストンと腰を下ろし胡坐をかくと、アキラが指先で渋々握っているシャー
プペンシルを奪い取りノートを自分の前にスススと引き寄せる。
 
 
 
  『ハーゲンダッツ、な?』
 
 
 
そう呟いてメガネのブリッジを中指でクっと上げると、アキラがあれ程頭を
ひねってもひねっても解けなかった問題をいとも簡単にスルスルと解き明か
してゆく。
 
 
 
  (宿題・・・ 手伝ってくれるんだ・・・?)
 
 
 
アキラは気付かれない程度に少しだけ目線をヒビキの横顔へと向けた。
 
 
今、二の腕が触れ合うくらいの至近距離で並んで座り宿題に目を落とすヒビ
キは、いつもの捻くれ者らしい飄々とした感情の読めない表情をしている。

しかし、銀縁メガネの奥の目は今日はどこかやさしいそれに感じた。
 
 
突然のこの成り行きに気付かなかったが、こんなにヒビキと近寄ったのは初
めてで途端に照れくさくなる。でも、ヒビキも自分と同じように仲直りをす
る機会を探していたのだと感じ、アキラは正直なところ心から嬉しかった。
 
 
 
  『ハーゲンダッツは高いよ!!

   せめて150円以内にしてよねぇ~・・・。』
 
 
 
”宿題を手伝う報酬はハーゲンダッツ ”というヒビキの提案に、本当は別に
それが買えない訳ではないけれど、いつもの喧々諤々とした遣り取りがした
くて敢えて大袈裟にイチャモンを付けてみる。

すると、滑らかに問題を解いていたシャープペンシルの手を一瞬止めヒビキ
はチラリと隣のアキラへと視線を向け『仕方ないな。』と小さく笑った。
 
 
あんなにふたりでいるのが気まずく重苦しかったはずのこの空間が、今は穏
やかでやさしくて、なんだかやけに心地良い。
 
 
 
 
   本当はお互い仲良くなりたかったのだと、知る。

   本当はお互い愉しくやっていきたかったのだと、知る。
 
 
 
 
アキラはなんだか急激に胸が詰まってしまい、ただただぼんやりとヒビキの
横顔を見つめていた。

すると、ヒビキは落ち着かなそうに眉根をひそめて1度乾いた咳払いをする
と再びメガネのブリッジを指先で上げ、ぎこちなくボソっと呟いた。
 
 
 
  『・・・ノ、ノート見ろよ・・・。』
 
 
 
アキラに無意識に近距離で見つめられ、その視線が照れくさくて仕方なくて
居場所無げに視線を泳がす。ヒビキも今夜突然急接近したふたりの距離に嬉
しさを隠しきれない反面、恥ずかしくてどうしていいのか分からず、しかし
必死に平静を装っていたのだから。
 
 
 
ふたりの間に、照れくさくてもどかしい時間が1秒ずつ秒針を刻んでゆく。
 
 
 
『僕が全部やったら意味ないか。』 慌てて二の句を継いで、ヒビキはノー
トを再びアキラの前へとズズズと滑らせ移動した。

『ん??』 目の前に戻って来てしまったあまり再会したくはないそれに、
小首を傾げるアキラ。『教えてやるから自分で解いてみろよ。』とヒビキは
シャープペンシルを指先で器用にクルクルと廻して小さく笑う。
 
 
 
  『ええええええええ!!!』
 
 
 
アイスの出費だけで面倒な宿題がチャラになると思っていた怠け者が、思い
切り不満の声を上げてジタバタと足掻いた。
 
 
 
  『ヤだよっ!

   どうせアンタ、ネっチネチ意地悪く教えるつもりでしょ~!!』
 
 
 
口を尖らせ目を細めてジロリと睨むその顔がまるで駄々を捏ねる小学生みた
いで、おまけにその酷い ”決め付け ”にヒビキは思わず吹き出して笑って
しまう。
 
 
『いいから、ほらシャープ持てってば!!』 頑なにシャープペンシルを持
つ事を拒絶するアキラに、ヒビキは笑いながら華奢な手を掴むと無理やりシ
ャープペンシルを握らせた。
 
 
 
 
   はじめて触れたアキラの手は、思った通りじんわり熱くて。

   はじめて触れたヒビキの手は、思った通りひんやり冷たくて。
 
 
 
 
ふたり、照れくさそうにその相手の温度に目を伏せた。

胸の奥の奥で、やけに心臓が騒がしく暴れて音を立てた。
 
 
 

■第12話 距離

 
 
 
ヒビキは広げるノートをアキラの肩越しに覗き込み数学の公式の説明をする。
 
 
右手を伸ばして ”三次方程式の解と係数の関係 ”を出来るだけかみ砕いて
教えるも、アキラの左側に胡坐をかいて座っているヒビキの腕がアキラの
二の腕に軽く触れているその状況がどうしようもなく照れくさくて意識し
まくって、アキラは三次方程式どころではない。
 
 
『じゃぁ、コレ解いてみて。』 そう声を掛けられ、ヒビキの意外に男ら
しい指でさされた問題に、上の空真っ最中のアキラは『えっ?!』と素っ
頓狂な声を上げた。

慌てて高速で教科書をめくるも、どの数式を当てはめてこのまるで異国語
のような ”α ”や ”β ” が羅列するそれを求めたらいいのか皆目見当
もつかない。
 
 
ヒビキは眉根をひそめて呆れ気味に笑う。

そして、ぽつりと呟いた。
 
 
 
  『お前の記憶力は、ほんと・・・ どーしようもないな・・・。』
 
 
 
なんだかやけに感情が込められて発せられたその一言に、アキラは申し訳
なさ半分・開き直り半分で『なによっ!!』と口を尖らせる。
 
 
『だから、ココは・・・。』 脱力しながらも、再び少し身を乗り出して
数式の説明をするヒビキ。ふと改めて見ると、アキラとの距離はあと数セ
ンチで体と体が触れ合ってしまいそうに近いではないか。

チラリと視線を流すと、アキラのショートボブの毛先が健康的に日焼けし
た頬をかすめて小さく揺れている。不満気に尖らせたその唇は、さくらん
ぼみたいにぷるんとして荒れひとつ無くて柔らかそうで。
 
 
 
思わず、見惚れていた。

囚われてしまったかのように、そこから視線を動かせない。
 
 
 
すると、アキラが少し身をよじらせてヒビキから少しだけ離れた。

我に返ったヒビキも背を反らせその距離を開ける。ヒビキの目に入ったのは
照れくさくて仕方なさそうに頬も耳も首も真っ赤に染める、アキラの困り果
てたような俯き顔だった。
 
 
 
互いの心臓が、狂ったように鳴り響いた。
 
 
  どくん どくん どくん どくん

  ドクン ドクン ドクン ドクン
 
 
 
ふたり、言葉を紡げずに俯いてしまう。

先程まであれだけ無意識で近付いていた距離が、今は意識しまくって恥ずか
しくて逆に不自然な程にぽっかりと二人の間にその空間を作って。
 
 
アキラは勝手にヒクヒク動いてしまう表情筋に困ったように眉根をひそめ、
体育座りをして脚を抱え込み顔を膝と膝の間にうずめる。

ヒビキはそっと顔を背け、痒くもないのにポリポリと首の後ろを掻き毟った。
 
 
すると、そのどうしようもなく恥ずかしく居た堪れない空気に、アキラがガバ
っと立ち上がり早口でまくし立てた。
 
 
 
  『ちょ、ちょっと休憩!休憩!!

   アタシ、アイス買いにコンビニ行ってくるよっ!!』
 
 
 
真っ赤な顔をして息継ぎも無しに発すると、立ち上がった際にテーブルの端に
膝をぶつけた反動でシャープペンシルが転がってラグの上に落ちた。

このままの空気で二人きりで宿題なんか出来ないと感じたヒビキも、その案
に賛同し慌てて大仰にコクリコクリと頷き早口で返す。
 
 
 
  『そ、そうだな・・・ ぅん。

   一旦、休憩しよう休憩・・・。』
 
 
 
アキラはソファーの背もたれに掛けてあったパーカーを羽織ると、ケータイ
と財布を握り締めて足早に玄関へと向けてリビングを出て行きかけた。しか
し思い出したように振り返って、照れくさそうにヒビキへと一瞬だけ視線を
向けると『なにがいい?』 とアイスの希望を訊ねる。
 
 
急に訊かれて、口ごもるヒビキ。

本当はアイスなんて別に食べたいと思ってなどいなかった。ただアキラとの
仲直りの口実だっただけの、それ。

普段あまりアイスなど食べないヒビキには、その具体的な固有名詞などすぐ
出てこず、口から出るのは『え~っと・・・。』という迷い音だけで。
 
 
中々明確な返答が出来ずにヒビキは視線を泳がせた。
すると壁掛け時計の針はもう夜の10時を回っているのが目に入った。
 
 
 
  (こんな時間にひとりで行かせるのは、ちょっとなぁ・・・。)
 
 
 
  『僕も行く。

   お前のセンスは当てにならないからな。』
 
 
 
ヒビキも立ち上がって、ツンと顎を上げてそう言い放った。
 
 
 

■第13話 夜道

 
 
 
アキラとヒビキ、ふたりは薄暗い住宅街をコンビニに向け歩いていた。
 
 
等間隔に並ぶ街路灯がネズミ色のアスファルトをぼんやりとやわらかく照ら
すそこを、微妙に間隔を空けて進む。

アキラらしい飾り気ないビーチサンダルのゴム底が擦れる音と、ヒビキの生
真面目な通学用スニーカーのそれが照れくさそうに藍空に二重奏を響かせる。
 
 
すると、無言の空気に耐えられなくなったアキラが数歩後ろを歩くヒビキへ
チラっと顔だけ振り返りツンと生意気な顔を向けて言った。
 
 
 
  『・・・てゆーか、

   ”アタシのセンスは当てにならない ”って何よっ?!

   ホント、感じ悪いったらないわ・・・。』
 
 
 
言い終るか否かのタイミングで、ヒビキはすぐさま口を挟む。
 
 
 
  『じゃぁ、どんなの買おうとしてたか言ってみろよ。』
 
 
 
『ん~・・・。』 そう言われてアキラは立ち止まり、唇を突き出して斜め
上を見眇める。中々思いつかなくて腕を胸の前でクロスして考え込んで。
 
 
そして、『モナ王、とか?!』

手と手をパチンと打ち、まるで ”良案だ! ”と言わんばかりに胸を張る。
 
 
 
  『ほら、だってさぁ~

   モナカとバニラアイスの他に、チョコまで入って・・・

   アレ、美味しいじゃんっ!!
  
   
   ・・・それに、安いし。』
 
 
 
すると、ヒビキは小さくため息をついて呟いた。
 
 
 
  『チョコが入ってるのは ”チョコモナカジャンボ ”じゃない?

   モナ王は、ただのバニラだったと思うけど・・・。』
 
 
 
『え~・・・ そうだったっけ? そっか・・・。』 アキラは然程気に
していない風に軽く小首を傾げると、『まぁ、いいや。』と再びビーチサ
ンダルの爪先を前に繰り出す。シャリシャリと靴底が擦れる音がなんだか
ご機嫌に鳴り響き何故か耳に心地よい。
 
 
ヒビキはその後ろ姿を立ち止まったまま、ぼんやり見ていた。
 
 
細かい事は気にしない、いつまでもクヨクヨ考え込まないアキラを心の中
では羨ましく思っていた。明るくて元気で真夏の太陽みたいで眩しくて。

しかしそれはギラギラと容赦なく照り付けるそれではなく、あたたかさと
やさしさを兼ね備えた穏やかな夏の午後の陽のようで。
 
 
 
  『ツユクサをくれた兄ちゃんが、初恋の相手・・・。』
 
 
 
ぽつり、思い出して呟く。
 
 
仰々しく飾らないTシャツにハーフパンツ姿のアキラは、ヒビキが後方で
立ち止まっているのも気付かずに小さくリズムを取りながらどんどん一人
進んでゆく。

なんだかそれを見ていたら、必死に手を伸ばして掴もうとしてもその背中に
は届かないような気がした。いつまでもここに立ち止まっている自分になど
ここでしゃがみ込みうずくまる小さな自分になど気付かずに、一人でさっさ
と行ってしまうのではないかと。
 
 
 
  『ツユクサをくれた・・・ 相手が・・・。』
 
 
 
もう一度呟いて、思わず小さく笑ってしまった。

俯いて足元に目を落とすと、自分のスニーカーの爪先がいじけるようにㇵの
字になっていて、まるで迷子の子供みたいで。
 
 
ひとつだけ、溜息を落とした。
しかしそれは、一瞬吹いた夜の風にさらわれて音も無く消える。
 
 
そして、顔を上げ先に向かうアキラの元へと小さく駆け足で追い付く。

急に走る靴音が近付いてきた気配に驚いたアキラが振り返ると、互いの目が
合った。
 
 
『なによ、ビックリした~・・・。』 頬を緩めて自然体のやわらかい笑顔
を見せるアキラに見つめられて、ヒビキもつられて小さく笑った。
 
 
眉根を下げて情けなく寂しげに笑った。
 
 
 
  『ホント・・・

   お前の記憶力は最悪だな・・・。』
 
 
 
『えっ??』 言われた意味が分からず、小首を傾げたアキラだった。
 
 
 

ツユクサの朝露ひかるこの場所で

ツユクサの朝露ひかるこの場所で

突然3か月だけ同居することになった ”はとこ ”は、同い歳の有り得ないくらい性格が悪いヒビキだった。性格も何もかも合わないアキラとヒビキは毎日毎日ケンカを繰り返す。アキラの初恋の相手、ヒビキの兄カズキはあんなにも優しくて格好良かったというのに。歯がゆくも切ない期間限定の同居生活は、少しずつ二人に変化をもたらすが・・・。≪未完≫

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-07-03

Copyrighted
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  1. ■第1話 12年ぶりの、その姿
  2. ■第2話 朝食タイム
  3. ■第3話 お弁当 
  4. ■第4話 ケンカ
  5. ■第5話 ため息
  6. ■第6話 帰宅
  7. ■第7話 栞
  8. ■第8話 初恋 
  9. ■第9話 初恋の相手
  10. ■第10話 宿題
  11. ■第11話 アイス
  12. ■第12話 距離
  13. ■第13話 夜道