砂漠の旅 33
「僕はあなたに夢の中でしか会えません」
「どうだろうね。これから君に会えるかどうかも含め、今後の君の選択を楽しみにしておくよ」
「私の事、忘れないでねっ」ときらっとわざとらしくぶりっ子になり、彼女は部屋を出て行った。
彼はまだここにいたいと思った。ぬくぬくとした布団の中にずっといたい、と思った。布団をかぶり、もう眠くはなかったが目を閉じて横になり、足を畳んで心地よい泥濘の中に埋もれていった。
無理に押し込められていたかのように太陽がぺかり、と顔を出した。太陽はそのままぐんぐん上がって、窓からの光が床にあたり、光は部屋を明るくしていった。その光の気配が彼には煩わしかった。
かすかに遠くから声が聞こえる。だんだんはっきりしてくる。
「おーい!おきろー!。はいおっきーろ!おっきーろ!おっきーろ!」軽快な手拍子と共に声が聞こえてきた。非常にやかましい。たまらず彼は目を開けた。明るかった。昼間だった。かすかな風を感じる。たき火が目の前に見えた。(熱い)彼は思った。目の端に黒いズボンが見える。
「うおー!本当に起きた!すげー!」誰かが重たそうな体をジャンプさせ、彼の視界から外れ、空に向かって吠えている。
青年はただの青年である。彼は夢から覚め、現実に戻ってきた。オアシスに戻ってきた。
彼の体はびっくりするほど普通だった。横になったまま、左のふくらはぎを触っても、彼の体は普通だった。彼の病は心が原因だ。時間が移ろい、状況が変わった。彼の病は治った。
(誰かいるなあ)彼は思った。同じように伸びをし、欠伸をした。(なんかしっくりこないな)彼は思った。彼の疲れは取れていた。彼は後ろにもたれようと、体重を傾けた。しかし後ろには何もなかった。そのまま地面にこてん、と仰向けになる。木の根が地面から出っ張っていて、彼の背中に当たった。彼は普通に痛かった。
仰向けのまま、ぼんやりと光を遮り、風に揺れる緑を見ている。
その様子を硬直して、まん丸の目で、口を半開きに超楽しそうに見ている男がいる。背が低く、猫背で、ずんぐりむっくりの非常に元気そうなお兄さんおっさん、と言った風貌で、かっくかくの髪型を頭にのっけて、ダボダボの服を着て、やけに新しい皮靴を履いている。
「すげぇ…」男は再び呟いた。何がすごいのかさっぱりわからない。
彼は仰向けに、零れる光を眩しく思いながら(僕はただ、ある、にしか存在できていない)と思った。(やはり意思がいるなあ。嫌だなあ)彼は同時に半壊の状態だった気持ちよさを思い出していた。
これからすぐにでも、彼は嘘の町に向かいたかった。
その複葉の大きな木はまっすぐと伸び、確かに生きるために青空を切り取っている。そこには意思があると思った。意思をもつその木は、薄ピンクのやわらかな針を束ねた様な美しい花を咲かせていた。
(ちくしょうが)彼は何となく思った。
「おはよーー!!」そんなこと気にしない全力で絶叫のおはようが、この世の鬱積を全部吹き飛ばすように彼の耳に届いた。男にしては高い声で、彼は耳がキーンとした。
彼は寝ころんだまま、首だけ動かし、無機質にほほ笑んだ。(なんかしっくりこないな)彼は思った。
ぐい、と体を起こし、試しにやってみるか、と彼は息を吸い込み
「おはよーーー!」と男を見て、顔をゆがませ全力で叫んだ。
ふう、とすっきりしたように息を吐き(こっちの方がまだしっくりくるなあ)と彼は思った。何より彼は、自分が思ったより大きな声が出たことをうれしく思った。
男はますます目を広げ、楽しそうに「ほぉぉぉぉ!」と奇声を上げた。
「あ、おはようございます」彼は言った。
「君誰!?」笑い男が言った。
「初めまして」彼は律儀に言いほほ笑んだ。
男は問いかけに答えてくれたことがうれしいかったのか、さらに調子を上げて、今にも笑いだしてしまいそうな様子で
「君、誰!?」とさらなる奇声を発した。
「せるむです。初めまして」
「せ、せるむと言うのかあ!せるむ…。」
彼は突如眉間にしわを寄せ、腕を組み、首を傾げた。
「せるむ?」
「せるむと言うのか。そりゃあだめだ」と、急に地声になった。普通のおっさんの声だった。
彼は最初からびっくりする間もなく男がいたのでただその様子を見ていた。
「どうしてダメなんですか?」彼はとりあえず聞いた。
「バカ野郎。せるむ、じゃあ「細胞がない」みたいじゃないか。そうだ、君は今日たった今からせるう、だ。せるう。おい、よろしくな、せるう。」と握手を求める。
「せるう、はなんか言いにくいし嫌です。というか急になんじゃい、という感じです。あと、せるう、って逆から読むとうるせ、になってそれもなんか嫌です。」
「ああ。じゃあせるー、はどう?せるー いいじゃん。OK!君は今日たった今からせるーだ!」びしっと指をさし男は言った。
彼は別にもうどうでもよかった。
「あ、了解です」
かくしてかれの名はせるーである。
砂漠の旅 33