夜明けが一番哀しい 新宿物語
夜明けが一番哀しい 新宿物語
(9)
「盗まれちゃったのかしら?」
安子は辺りをキョロキョロ見廻した。
「画伯はどこへ行ったんだ?」
ノッポが言った。
「画伯が乗ってっちゃったのかしら?」
「ピンキー、あんた車どこへやったの?」
トン子は聞いた。
ピンキーは寒そうに背中を丸めながら、
「知らねえよ」
と、ボソボソした声で呟いた。
ようやく辺りには、夜明けの仄明るさが漂いはじめて来た。開港記念公園に突き当たる一直線の道もはっきり見通せた。
「チェッ ! 画伯の野郎が乗ってっちゃったんだよ、きっと。あいつ、なんの積もりなんだろう」
ノッポが悔しそうに言った。
「気が狂っちゃったんじゃないの?」
安子が言った。
「そうかも知れないなあ。アンパンで頭がおかしくなっちゃったんだよ、きっと」
ノッポが言った。
「どうしよう、どうやって帰るの? フー子あんたお金持ってる?」
トン子が泣き出しそうになって聞いた。
「あるわ」
フー子は小さな声で言うと、早速、尻ポケットからクチャクチャになった千円札を何枚か掴み出した。
「ありがとう、これだけあれば、みんな電車で帰れるわ」
「だけど、まだ電車なんか動いてないよ」
ノッポが言った。
「動いてるわよ、もう」
東京駅のキオスクで働いている安子が言った。
「今、なんじ?」
トン子がノッポに聞いた。
「五時ちょっと前だ」
「じゃあ、もう動いてるわよ。わたしが新宿からいつも帰るのは四時過ぎなんだから」
トン子が夜明けの一番電車て千葉へ帰る時の時刻を基準にして言った。
「だけど、おれ腹へっちゃったよ。何か食いに行こうよ。それだけあれば、何か食えるだろう?」
ノッポがトン子の手に握られた数枚の千円札を見て意地汚く言った。
「それこそ、食べ物屋なんか、まだ開いてないわよ」
安子が言った。
「山下公園の方へ行けば、なんかあるんじゃない?」
トン子が言った。
「屋台ならともかく、店が開いてるわけないでしょ。こんな時刻にさあ」
安子はトン子をやり込めるようにツッケンドンに言った。
「ホテルのスナックなんかやってない?」
トン子は言った。
「あたし達みたいなのがホテルに入って行ったら、追い出されるに決まってるわ」
安子は言った。
山下公園通りへ曲がる反対側の角に、数軒の飲食店の看板が見えたが、どの店もドアを閉ざしたままだった。
「みんなまだ、開いてないね」
トン子が疲れた声で言った。
誰も答えなかった。
公園通りへ入ると、右手には豪華なビルやホテルが軒を連ねていた。
ホテルの前には何台かのタクシーが停車していた。どのタクシーも運転手が仮眠を取っているのか、顔が見えなかった。
五人はすっかり葉を落とした銀杏並木の公園通りを、当てもないままに歩いて行った。
公園入口まで来た時、彼等は奇妙な光景を眼にした。
一匹のさして大きくない茶色の犬が、公園入口の舗道で直径一メートル程の円を描きながら、しきりにぐるぐる廻っていた。
「なに、あの犬、あんな所で何やってんの?」
安子が言って、みんなの注意をそこに向けた。
犬は一心不乱といった様子で、同じ場所をただグルグル廻っていた。思い詰めたような、何かに憑かれでもしたかのような犬の行動は、その一途さゆえに不気味でさえあった。五人は自ずと足を止めて見入っていた。
犬はやがて五人に気付くと、ふと立ち止まって顔を上げ、彼等を見詰めていた。しばらくそうして見詰めていたが、あとは何事もなかったかのように何食わぬ様子で、すたすたと車道を横切り、ビルの陰に消えて行ってしまった。
「なに、あの犬、バカみたい」
トン子が可笑しそうに言った。
「頭がおかしいんじゃないのかい?」
ノッポが言った。
「犬にも頭が変になるのがあるのかしら?」
トン子が言った。
「頭のおかしな犬か」
ノッポが言って笑った。
「狂犬病ってのがあるだろう?」
ピンキーが唐突に言った。
「あれは、ただ頭が変になるのとは違うでしょ」
安子が言った。
「犬専用の神経病院なんてあったら、面白いだろうな。ワンワン、わたしは神経の病気なんです、何処かいい所があったら教えて下さいって犬同士で言い合ったりしてね」
ノッポが犬の恰好を真似して言った。
フー子はいつの間にか居なくなっていた。
他の四人は、その事に気付きもしなかった。犬の話しで夢中だった。
少し行って彼等はさらに、次の異様な光景に息を呑んでいた。
数十メートル先の歩道に、ピンキーのパクッて来たクーガーが乗り上げ、大きな銀杏の樹に激突してメチャメチャになった姿があった。
「画伯だわ」
安子が呑んだ息を吐き出すようにして言った。
「あの人、どうしたかしら?」
トン子が言うと、三人は早くも走り出していた。
夜明けが一番哀しい 新宿物語