丸い家
サングラスに厚化粧のばあさんがプールに浮かんでいた。よく見れば、ばあさんと呼ぶほど年齢は行っていないかもしれない。不平を言うためだけに作られたような口元と見事な肥満体、それを包んでいる、おそらくはその辺のカエルか何かをつぶした液体で染め上げたのであろう毒々しいワンピース。それらが彼女を十歳以上は年老いて見せていた。
「来るもの拒まず、って聞いてるけど?」と彼女は言う。
「ええ、まあそういうことになってます」私は答える。「しかし、せめて正面玄関から入って来て欲しかったんですがね。それともこのまま話を聞きましょうか? あなたが話しづらくなければ、ということですが」
彼女は黙ってプールから上がって来た。豊かな黒髪からどぼどぼと水がしたたり落ちる。「入れてくれる?」
「もちろん」私は彼女に微笑みかけ、家の中に案内した。まずバスタオルを取ってこなければなるまい。
一階の客間には一人がけのソファが気まぐれな位置に点々と置かれている。カエル婦人(便宜上そう呼んでおく)は背の低い丸テーブルの近くにあるそれに腰かけた。サングラスはかけたままだ。
「アイスティーです」私はテーブルに彼女の分のグラスを置いた。「ふつうの、紙パックに入って売っているやつです。妻は外出中で。彼女が淹れたものは何でもうまいんですが」
「あなたは医者でも探偵でも宗教家でもないって聞いてるけど?」
「ええ、だから治療も調査も説教もしません。何もしないから、お金も取らない」
「この家のものはみんな丸いんだね」
「ああ、よくお気づきで。私も妻もそこが気に入って買ったんですよ」ここの家具はほとんどが備え付けのもので、すべて丸みを帯びたやわらかいフォルムで統一されている。角とか先端とかいったものとは一切無縁である。誰も傷つけない。時計の針も丸い。それを針と呼ぶのがためらわれるほどに。「ほら、プールもひょうたんみたいな形だったでしょう」
婦人はうんともすんとも言わず、うなずきもしなかった。そのまま身動きせず小一時間座ったままだった。私は書斎から眼鏡と仕事の資料を持ってきて客間で読むことにした。「うん、こいつもなかなか悪くないな」などと言いながらちびちびとアイスティーを飲み、時折彼女が死んでいないかどうかそれとなく確認した。
妻と子供たちが帰ってきた。「あら、お客さんね。こんにちは」「こんにちは」「こんにちは」と彼女らは言った。
「おかえり。妻です。と、リクとリコ。双子です。男の子と女の子」
「今日はグリーンカレーを作るわ。よかったら食べていってくださいな」と妻。カエル婦人は無反応だったが、妻は構わずキッチンに向かった。
リクとリコは部屋に残った。二人は「脳育に最適」とかいう触れ込みの積み木をまったく非頭脳的な仕方で組み立てては蹴り崩した。どちらがより美しいフォームでクッションの上に倒れこむことができるかを競い合った。あるいは、ただ単に部屋の中を走り回った。しかし、二人の名誉のために言っておくが、彼らはこうしたあれこれを極めて紳士的に淑女的に行ったのであって、見た目ほど騒がしい音は立てていなかった。それくらいの慎みは備わっている。これが彼らなりの、客人との距離の詰め方なのである。
キッチンから幸福な香りが届き始めたころ、リコがそっとカエル婦人に近づき、「こんにちは」とあらためて挨拶した。リコは婦人のふくよかな腹に触れると、「赤ちゃん、いるの?」と婦人に訊いた。まさかそんなわけはなかろう。婦人が何も答えないので、リコはまたリクとの慎み深い遊びに戻っていった。しばらくして、婦人は「まるで猫だわ」とつぶやき、グラスに手を伸ばし、初めてアイスティーに口をつけた。なぜ妻に淹れなおしてもらうことを思いつかなかったんだと、私は自らを激しく責めた。
カエル婦人はやはりサングラスをかけたまま何も語ろうとしなかったが、一応素直に食卓にはついた。
チキンと茄子のグリーンカレー、アボカドたっぷりのサラダ、オニオンスープ、塩ゆでした大量のそら豆。子供たちが野菜嫌いでなくて本当によかった。いや、私たち夫婦が野菜ばかり食べるから勝手に野菜好きになったのか。
「たくさん食べてくださいな」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
「さあ、お客人もどうぞ遠慮なく召し上がれ。いや、本当に、食べなくたっていいんですよ。まずいなんてことはあり得ませんが、人には苦手なものもあるし、気分ってものもある」
「いいから食べなさいな。おいしい?」
「おいしい!」
「ねえ、お水」
「あら、忘れてたわ」
「うん、こりゃいけるな」
「ねえ、サラダに入ってるこれ、なあに?」
「どれ…何だこりゃ?」
「ブロッコリーじゃないの?」
「いや、ブロッコリーも入ってるけど…」
「アーティチョーク」
「あ、これがアーティチョークってやつですか。よくご存じで」
「はい、リコ、グラス。みなさん、お水は置いときますからご自由にどうぞ。何か話してた?」
「これ、アーティチョークってやつだって? 初めて食べたよ」
「そうそう、私も初めて使ってみたけど、どう?」
「おいしい!」
「よかった。パスタに入れたり、から揚げにしたりしてもいいみたい。あとね、おならの匂いを抑える効果があるらしいわよ」
「へえ。詳しいね」
「ウィキペディア」
「から揚げ、食べたい」
「これからはね、いろいろ珍しい野菜にも挑戦しようと思ってるの。ロマネスコとか」
「ロマネスコ? 聞いたことないな」
「ウィキペディアで調べなさい」
「ねえ、いきぺでぃあってなに?」
「ウィキペディアで調べなさい」
「福神漬け、食べたい」
「あら、忘れてたわ」
「いやいや、グリーンカレーには合わんだろ」
「そう?」
「えー、合うよ」
「一応、見てくるわ」
「もっと、こう、なんか、タイっぽいやつが合うんじゃないの?普通のカレーじゃないんだからさあ」
「合わない」
「ですよねぇ? ほらあ」
「違うよ、福神漬けが食べたいのー。合うとか合わないとかじゃなくってー」
「冷凍したのがあったわ。解凍してるからちょっと待ってね」
「おかわり!」
「はいはい」
「なんか、逆に食べたくなってきたな、福神漬け」
「おいしいよ」
「だよな」
「あたし、きらい」
「ええ? 今まで普通に食べてなかったっけ? カレーのとき」
「なんか、食べなきゃいけないと思ってたの。お皿に入ってたから」
「そんなことはないさ」
「リコはマジメだなあ」
「そろそろいいと思うんだけど。あんまりたくさんなかったから、取りすぎないでね、リク」
「はーい」
「どれ…うん、うまい。合うんじゃないか? グリーンカレーにも、うん。リコもどうだ、試しにちょっと」
「えー」
「合う」
「はは、合いますか? ほら、合うってさ」
「じゃあ、ちょっとだけ…うーん、きらい!」
「はは、そうか。まあ、食えなくたって死にゃしないさ」
「これからはリコのお皿には入れないわ、福神漬け」
「その分、ぼくが食べるよ」
「よかったな」
「うん」
「ねえ、またココナッツミルクが半端に余ったわ。どうしましょう」
「こないだのプリン、おいしかったよ」
「タピオカを入れたやつね」
「なんでもいいんじゃないの。そら豆のココナッツミルク漬けとか」
「あなたすぐ適当なこと言うのね」
「スフレ」
「スフレ!」
「なにそれ?」
「ふわふわしたケーキみたいなやつよ。なんだかおしゃれな感じね」
「フロランタン」
「フロランタン!」
「なにそれ?」
「ほら、たまに人からもらうお菓子よ、アーモンドがのってて甘いやつ。自分で作ろうと思ったことはないけど」
「フレンチトースト」
「フレンチトースト!」
「なにそれ?」
「そりゃあうまいだろうなあ。なあ、明日の朝それ作ろうよ」
「ねえ、それどんなの?」
「明日になればわかるわよ」
「ジャム」
「ジャム!」
「それって作るのに他に必要なものってありますか?」
「砂糖とコンデンスミルクを加えて煮詰めるだけ。砂糖だけでもできる」
「あら簡単」
「楽しみが増えたな」
「なんかもうお腹空いてきたよ」
「あ、デザートに桃があったの忘れてたわ。切ってくるわね」
「帰らせてもらうよ」食後の紅茶を飲んで一息ついたところで、カエル婦人がそう言った。
「車でお送りしましょう。丘のふもとの街でしょう?」
私はガレージから例によって丸い車を出してきて玄関先に止めた。そこでは婦人と子供たちが所在なく突っ立っていた。
「あれ、お母さんは?」と私。
「なんか、うちの中に走ってった」とリクが言い終わらないうちに、妻が何やら袋をもって走ってきた。見ると、茄子やトマトやきゅうりなどの野菜がごろごろ入っている。
「よかったら、これ、うちで育てた野菜ですの、さっきのカレーの茄子もうちのなのよ、すっかり言い忘れてましたわ、料理、お詳しそうだから、きっとおいしく使っていただけますでしょう?」妻は息を弾ませながら一気に話し、婦人に袋を手渡した。婦人は黙ってそれを受け取った。
「じゃ、行きましょうか」私は婦人を助手席へと促した。
「さようなら」
「さようなら」
「さようなら」
三人に見送られながら、丸い車は走り出した。曲がりくねったでこぼこ道を下って、街へと向かう。隣に座る婦人はどことなく大事そうに野菜の袋を抱えている。私の見たところでは。
「良い子たちだね」と婦人がつぶやいた。
「そうでしょう?」私は思わずにやりと笑いかけた。「うちはね、徹底的に甘やかす方針ですよ。世間は甘いぞ、人生は楽しいぞ、ってね」
「私にも子供がいたことがあった」
「そうでしたか」
私は婦人が何か話すのを待ったが、その先はないようだった。
「ここでいいよ」と婦人が言うので、街の入り口に来たところで停車し、婦人とともに一度車を降りた。
「では、お気をつけて。気が向いたら、またお越しください。みな喜びます。それに、おいしい野菜も季節ごとに変わります」
静かな夜だ。虫の声だけがやけに大きく聞こえてくる。婦人のサングラスの奥の目が本当は何を語りたがっているのか、私にはわからない。ほんのしばしの沈黙の間、私は過ぎゆく夏の余韻を楽しんでいた。
「料理、とてもおいしかったと伝えて」静かに、はっきりとした口調で婦人は言った。
「ええ、確かに」私は微笑んだ。
婦人はゆっくりと街の中に消えていった。月明かりの下で、野菜を入れた袋が白く浮かび上がって見えた。私は丘の上の家に帰るべく車を走らせた。
私たちの丸い家には、多分なにかを抱え込んだ人々がやって来て、多分特に救われたりはしないまま去っていく。カエル婦人は明日もなにかを抱え込んだまま朝を迎えるだろう。そのとき、私たちはココナッツミルクで作ったフレンチトーストをほおばりながら婦人のことを思い出しているだろう。
丸いプール。丸いソファ。丸い時計。丸い野菜。子供たちの丸い目。妻の丸い手。丸い丘に建つ私たちの丸い家。今夜は月も丸く輝いている。
すべてがやさしくありますように、と祈りながら私は今日も眠りにつくだろう。
丸い家