戦国長編小説『蝶や花や』第3話・2幕~雷鳴に轟け! 八卦方位掌~
空を覆った乱層雲により、あたりは闇に包まれようとしていた。
大堀部隊の奮戦により、敵は次々と堀へ戦力をつぎこんだ。
大手と搦手の戦力が薄らいだ一瞬を狙って、水野勢が大手を突破、続いて搦手門を信光勢が突破した。
すべては濃姫が味方を信じきれたから起きた必然である。
水野、信光、濃姫の3軍がなだれこみ、北へ逃げる兵を追撃する。
兵たちに続いて最後に砦に入った濃姫は、すでにひとけのない場所でひとり倒れこみ、とどめを刺されそうになっている敵を見つけた。
「待て! 殺す必要はない。ここはいい。大将を探せ!」
「承知しました!」
味方が去ると濃姫はその男の前にしゃがんだ。まだ10代後半の若者だ。脚をやられ、立ちあがれないようだ。
「その傷では戦えない。大将がどこにいるか言え」
「だれが言うか」
「言えば命は取らぬ。どこにいる!」
「見くびるな」
「く……」
「もうこの傷では戦えない。ひと思いにやってくれ」
「おまえ、家族はいるか」
「なに」
「家族はいるのか」
「なぜそんなことを聞く………。妻と子がいる。だがいつでも命を捨てる覚悟はできている。情けなど不要」
「違う。おまえの役目は、おまえが愛している者たちのところへ生きて帰ってやることではないのか」
自らの袖の布をちぎり、それを脚に巻いてやる。
「なにをしている」
「これで出血は止まる」
「……おまえ、名はなんという」
「信長の妻、濃姫だ」
「信長の!」
「おまえは」
「弥助」
「弥助、生きてここを出ろ」
「待て……。大将は松平忠茂殿。北の船着場周辺に側近とともにいる」
「織田の兵が来たら、わたしに助けられたと言え。いいな」
そう言って駆けだした。
敵兵は北に戦力を集め、厚い壁となって抵抗を続けていた。
水野兵が叫ぶ。
「忠分様! 敵の数も減ってきてはおりますが、士気が高く猛攻を受けております!」
「貴様らも精鋭であろうが! 三河の兵は水野兵の宿敵だ、意地を見せろ!」
伏兵や地形を活かした攻撃により、敵は態勢を立て直しつつある。
濃姫が前線に追いついたとき、濃姫の部隊の足軽大将が倒れているのを見つけ、
「しっかりしろ! あれほどともに訓練を重ねてきた仲ではないか。わたしを置いていくなど許さぬ! 必ず助ける、じっとしてろ、今、止血する」
「……一命、捧げたてまつります」
「……しっかりしろ……死ぬな………うっ」
このとき山に本陣を構えていた信長は――。
伝令役が馬で駆けてきて、
「殿! 数ではこちらが勝っておりまするが、敵の士気が高く一進一退にて、戦況いまだ定かならず!」
「砦に突入する!」
馬廻衆(うままわり。大将の護衛でありおもに小姓たち)のひとりが、
「殿、まだ早すぎます。もうしばらくのご辛抱を!」」
「これ以上は待てぬ」
「われらは殿をお守りするのがお役目。ほとんどの兵力を砦に投入し味方はわずかしかおりませぬ。余力を残しておかねば」
「自分の妻が命の削り合いの場で戦っている! それを傍観しているようなくずが総大将なら、この尾張に未来などない!」
雷鳴が轟き、西から雨の滝が車軸を流して大地を駆けてきた。
砦では刀と槍が入り混じるなか、汗も涙も掻き消える雷雨に襲われた。
「ゆくぞ!」
濃姫は敵兵を無視して味方数名とともに敵の大将を捕らえる策に出た。
少し進んだところで敵がいなくなり、
(伏兵か!)
察した直後、建物の陰から奇襲がかかり、味方が斬り倒される。
敵の本陣を守る旗本の先手7人の武士が、濃姫を取り囲んだ。
「我が名は濃姫。道を開けねば斬る!」
濃姫と聞いて、顔を見合わせた兵らは、功績をあげようと斬りかかる。
濃姫は薙刀の刀刃でさばいて石突(地に突き立てる部分)で顔面を強撃し、敵はもんどり打って倒れこんだ。
1対1では勝目なしと、7人は同時に斬りかかった。
濃姫は薙刀を右手に持ち、胴の前に突きだした。
異国の武術を昇華させた斉藤流薙刀術、八卦方位の構えである。
八卦の正象、すなわち、天・沢・火・雷・風・水・山・地を操り8方位を撃破する。
腕に力を込め、手首をひねり舞うように体を回転させ、奥義の八卦方位掌を繰りだした。
雷鳴のような剣撃音が響き、刃の衝突で火ばなが散る。突風が起きて雨水が舞う。勢いで地面の泥土がほとばしった。
あらゆる8方位からの攻撃をさばく絶対防壁である。
一瞬の出来事に唖然としていた兵らは手にあったはずの刀がないことに気づく。
刀はすでに地面で眠っていた。それを見た兵らは一目散に散っていく。
濃姫は技を使ったことで手のひらに痺れを感じていたが、あとを追ってきた味方と合流し、北へ向かった。
砦の北の端についたところで、やはり伏兵の集団が襲う。
乱戦になる。ふと建物の陰から鉄砲兵が姿を見せた。気づいた濃姫だが、すでに引き金を引く瞬間だった。
放たれる瞬間、だれかが濃姫にしがみつきともに倒れこんだ。
振り返ると、最初、雨で目が塞がれよくわからなかったが、それは信長であった。
「危なかったな!」
信長本陣の部隊が到着したのである。
「な、なんでここに」
「我が名は織田信長! 無駄に兵を弄し百年河清をまつ愚かな今川についてここで死ぬか、それとも冷静にふかんして生きる道を選ぶか!」
信長が叫ぶと、敵兵は一気に士気を失った。
敵のひとりが叫ぶ。
「信長殿にお伝えする! わが大将、忠茂様は撤退なされた! われらは降伏しこの砦を明け渡しまする!」
雷雨ですでにほの暗いが、じきに日が落ちる。これ以上の戦いは不要。
「すぐにこの尾張から出て行くがよい!」
戦いが終わり、今川軍は砦から退却していった。
「殿、怪我は」
濃姫が言うと、
「こっちのせりふだ。けがはないか」
「傷ひとつない。みなが守ってくれた」
「そうか」
信光が駆けてきて、
「殿! お怪我は!」
忠分も合流し、
「姫様もご無事で!」
「信光殿、忠分。ご苦労であった。じき日が暮れる。怪我人の手当ても必要だ。すぐに我らも撤退だ。砦と遺体の始末は水野兵に任せる」
雨は小粒となっていた。織田軍が兵を引いたあと、濃姫と信長は大堀の前に立ち、死体の山を見つめていた。
「みな、命をかけてこの尾張を守ってくれたのだ………お濃、なにをしている」
なにを思ってか、濃姫が兵らを仰向けにしてひとりひとりの脈をとりだした。
「まだ生きている者がいるかもしれない」
「よせ」
「生きているなら置いていけない」
「しっかりしろ! みな、守りたい者たちのために戦い死んだのだ」
「わたしを助けるために死んだ者もいる。その者たちのために、いまとなってはもうなにもしてやれない。どうしたらいい……」
「その者たちのぶんまで、生きていくのだ」
「それで、許してくれるだろうか……」
「おれがその者たちなら、許す」
両軍の精鋭同士が衝突した村木砦の戦いの死者は、今川勢600。織田勢は東西で100。
南を攻めた信長の本隊は、槍隊を中心に400。もとは深かった南大堀は、遺体の山で埋まっていた。
そして、生き残った足軽たちの中に、傷を負わなかった者はだれひとりとしていなかった。
両軍合わせて1200人の死者を出した熾烈な攻城戦は、織田、水野連合軍の猛烈な攻撃により、約9時間という短い時間で幕を閉じたのである。
織田勢は緒川城に引き上げる途中、野営にて食事や傷の手当てをし、休息をとった。
信長は兵らの傷を見て、そして戦いの様子を兵らから生で聞き、涙を流しながら、兵たちひとりひとりに礼を述べていった。
戦国長編小説『蝶や花や』第3話・2幕~雷鳴に轟け! 八卦方位掌~