ファンタジック・タカシ

ファンタジック・タカシ

 魔法の国・サンラインにやって来た水無瀬孝は、非合法ギリギリの素敵なお店「サモワール」にて、「桃色天使」という通り名の下着泥棒を捕まえることになっていた。
 だが、水無瀬孝の霊体(肉体に宿る魂のようなものであり、魔法を使うには不可欠とされる)コウは、捜査の途中で「勇者」の力を欲する悪い魔術師に襲われてしまった。
 たまたまコウと別行動を取っていたタカシは、そのことを知らぬまま「桃色天使」の捜索を続けているが…………。

【1】もう一つの「サモワール」。魔法と幽霊の国の話。

 オースタンの良い子のみんな、こんにちは、こんばんは、或いはおはよう。俺、タカシ。
 自分が誰に向かって語りかけているのかってことは、実は非常に深淵な問いだと俺は思うんだけど、こんなこといきなり言われても普通は困るよね。適当にやろうぜ!

 俺の相方、霊体のコウが可愛い女の子とどこかに行きやがってから、俺は係員にサモワールの中の別の棟に連れて行かれた。「器の棟」とかいうらしい。
 あの陰気な係員曰く、霊体が楽しんでいる間に肉体が待機するための場所が、ちゃんと用意してあるそうだ。まぁ、紹介が必要だとか何とかお高く留まるだけあって、中々に気遣いが出来ている。

 …………で、俺がこのもう一つの「サモワール」で何をしていたか、って話なんだけど。

「残念、ドリンクバーなんだよなぁ…………」

 俺は誰にともなく呟きつつ、カウンターに置いてあった謎のフルーツジュースを自分のグラスに注いだ。バーテンダーがいる時には、酒と、ついでに何かパッとつまみを作ってくれるのだが、今は氷を取りに行ってしまって姿が見えなかった。(ちなみに、この世界では氷は大変貴重品だとかで、溶けないよう特別な魔法をかけ、別室で厳重に保存してあるのだそうだ)

 俺は仕方なく、グレープフルーツに似た味の、毒々しいピンク色のジュースを味わいながら、ぼんやりと辺りの景色を眺めやった。
 美しいビーチに向かって張られたウッドデッキの上には、高級そうなデッキチェアやテーブルが見栄え良く並んでいる。遠く伸びる白い砂浜には、真珠のような月明かりがゆったりと落ちて、暗い海からは絶え間なく、しとやかな波音が響いてくる。そよ吹く優しい夜風は、カウンターの端に飾られた白い花を愛おしげに撫でていた。

 毎度のことながら、魔法というのは実に不思議なものだった。確認しておくがここは屋内である。外からでは、こんな場所が中にあるだなんて思いもよらなかった。何がどうなっているやら、別にそんなに詳しく知りたいとも思わないが、つくづく不思議な風景ではあった。

 見ている限りでは、寛いでいる人々はごくごく普通の紳士淑女だと思われた。皆一様に入り口で渡された浴衣と下駄を身に着けているせいもあるだろうが、何か後ろ暗いことを抱えていそうな、ナタリーの話に出てきたような怪しい連中にはとても見えなかった。所作もいちいちしとやかで、上流階級じみている。
 グラーゼイが眉を顰めるようないかがわしい場所でもないし、リーザロットが「そういうところ」なんて表現をぼかした理由も、今のところ一切見当たらない。コウが行った方の棟が危なっかしいだけで、ここは安全地帯なのかもしれないけど…………。

 とは言え、そんな危険な魂の宿る肉体が集まる場所というのなら、この景色も疑ってかからねばならないだろう。人の心ってのは、見かけからじゃ到底わからないものだ。
 つらつらと俺が考えに耽っていると、どこからともなく氷を持ったバーテンダーが戻って来た。

「ああ、お待たせいたしました、ミナセ様。何かお作りしましょうか?」
「ああ、いえ。さっき、そこのジュースをもらいました」

 俺がピンク色のジュースが満たされた瓶を指さすと、バーテンダーはほっこりと笑顔になった。

「左様でございましたか。あちらは、当店自慢のリージュの実のジュースでございます。お気に召しましたでしょうか?」
「美味しいです。酔っていると、特に効く気がします。だいぶ気分が良くなりました」
「ありがとうございます。多くのお客様からそのような声をいただいておりまして、好評のあまり、ついに先月からご自由にお飲み頂けるようになりました。少々向精神作用がございますので、この階のお客様のみへのサービスなのですが。…………いやいや、気に入っていただけたようで、何よりでございます。毎日裏庭で、丁寧に育てている甲斐があります」
「ああ、自家栽培なんですか。良いですね。俺も自宅でちょっと齧りますよ」

 俺は「向精神作用」という、聞き捨てならない単語を思い切って聞き流し、話を継いだ。

「ところで、この階だけのサービスってことは、他の場所にもバーがあるってことですよね。それってどこから行けるんでしょうか? 見たところ、それらしいものはないですけど…………」

 バーテンダーは愛嬌のある大きな目をぱちくりと瞬かせると、しげしげと俺を見つめて言った。

「おや。ミナセ様は、サモワールは初めてでございましたか?」
「はい、実は」
「おやおや、それは失礼致しました。何だかとても場に馴染んでいるご様子でしたので、私はてっきり常連のお客様かと勘違いしておりました。
 それでしたら、誠に僭越ながら、ここで過ごされるのが一番かと存じますよ。ここだけのお話、この階でもお相手の紹介は可能でございますし、何より、この場所が最も清潔で美しく、手前味噌ながら、このバーのカクテルが一番上等でございますからねぇ」
「んー…………お相手、ねぇ」

 俺は喉の奥で繰り返し、首を捻った。そう言えば、ここへ来る直前にも係員からそんなことをほのめかされた覚えがあった。最初に足を踏み入れた時、勝手がわからなくてうろついていたら、綺麗なこなれた感じの人がバーに連れて行ってくれたし、やはりそういう場所でもあるのか。

 俺は悪気無くその女性を追い返してしまったことを惜しみつつ(「もうちょっと辺りを探検してくる」とか言って、俺は好奇心に任せて無邪気に一人で浜辺へ出掛けた)、気を取り直して話を再開した。

「うん…………それも悪くないんですが、やっぱり、他の場所の雰囲気ってのにも興味があって。覗いてみるだけで良いんですけど」

 バーテンダーはやや肩を落とすと、さりげなく溜息を吐いた。額にじんわりと皺が刻まれ、口がへの字型に曲がっていく。
 彼は声を低めて、言った。

「…………ミナセ様。実を申しますと、階下への移動は私が担当しております。ですから、お客様がどうしても下へとおっしゃるのであれば、私は転移術を使わせていただきます。しかし」

 バーテンダーはさらに声のトーンを落とし、続けた。

「お客様の安全をお守りするのも、私の仕事の一つでございます。…………ミナセ様。もし、階下へ行かれるのでしたら、どうかご探索は地下2階までになさってくださいね。地下3階へは、決して行かれませぬよう」

 俺は残ったリージュのジュースを飲み干し、グラスをカウンターに置いた。

「わかった。…………まぁ、でも、何とかなると思いますよ。危なそうだったら、ピュッと戻ってきますから。どうやって戻るのか、まだ知らないけれど」

 バーテンダーはどうにも俺を信用しきれない風であったが、最終的には渋々地下への移動を承諾してくれた。

 彼は俺をバーの裏手にある魔法陣の中へと導くと、早速、術の準備を開始した。俺は詠唱の手順やら文句やらが書かれていると思しき本を、使い慣れた辞書のように容易く繰るバーテンダーを見ながら、この国では本当にどこにでも魔術師がいるものだなぁと今更ながら心を躍らせていた。

 やがてゆっくりと、時空移動の時の小規模版のような光が俺を包み込み始めた。バーテンダーは浮足立つ俺を憂い顔で見つつ、ほとんど懇願するように言った。

「ミナセ様。くれぐれも、地下3階へはお立ち入りになりませぬように」

 俺は片手をあげ、ニヤッと笑ってそれに答えた。

 * * *

 地下1階に移動した時、俺はすでに賑やかな酒場の中に立っていた。
 広いホールに、テーブルやイス、赤ら顔のオッサン、胸元の開いたドレスを着たお嬢さんやらが所狭しと敷き詰まっている。あちこちから湧き起こる歓声は実に愉快で溌剌としていた。
 俺は上の階との落差に目を白黒させつつも、絶妙な具合に期待と不安とを胸の内でブレンドさせた。

 こんな気分の時には、コウの奴が使っている「扉」の力のことが羨ましくなる。あの力があったら、この景色はどんなふうに感じられるのだろう。この胸のざわめきと、この場所の魔法はどんなふうに混ざり合うのだろう。
 あの力は俺だけでは使えない。何度か試してみたけど、さっぱりだった。そもそもコウと一緒でなければ、俺には「扉」の気配すら感じ取れない。俺には見えるものが見えるだけで、触れるものが触れるだけだった。

 俺の世界はどこまでも「物」で埋め尽くされている。
 今、目の前に見える酒樽や空っぽのジョッキなんかから始まって、そこのちょっと齢の行ったお姉様達を形作る細胞や、愉快に響くオルガンの音を伝達するのに不可欠な空気に至るまで、俺の世界は大きい物から小さい物まで、物だけで一杯一杯だ。

 あの扉は、きっと精神だか魂だかの領域でだけ、感じ取れるものなのだろう。あけすけに言ってしまえば、あれはまさに妄想の産物なのである。魔法だって、本当は全部妄想で、この「サモワール」なんて、丸ごと空想の中にあると言っても全然過言じゃない。

 だが、勘違いしちゃいけないのは、妄想イコール「嘘」ではないってことだ。
 元々俺が暮らしていた世界、オースタンでだって、決して空想や想像が完全に現実と分離していたってわけではなかった。世界中の子供たちが、いもしない幽霊を信じて夜中にトイレに行けなくなるように、妄想と世界はそれとなく絡み合っていた。
 もっと言えば、子どもたちは大人になっても、昔「見た」幽霊をいつまでも覚えている。彼らは幽霊の思い出と一緒に、少しずつ世界を形作っていく。

 どこの世界でも、心は深く世界と繋がっている。誰がどんなに否定しようとも、コウはいるし、幽霊は永遠にもっともらしく語られ続ける。彼らは嘘なんかじゃなくて、真に世界に根付いて「在る」。ただ、視えないだけで。

 特にこの世界・サンラインでは、お姫様から騎士、自警団の女の子、バーテンのおじちゃんに至るまで、みんなが「魔法」を信じている。ここでは「魔法」は確かに在る。オースタンでは他愛もない「妄想」も、在り方が違えば、強い力を持つのだ。

「つまり、夢だけど、夢じゃない」

 俺は独り言葉を噛みしめ、独り頷いた。

 と、それはいいとしてもだ。こんな場所で、物質の塊たる俺は、ちょっとばかり肩身が狭かった。何だか世界の半分がいつも目隠しされているようで、どうにも落ち着かない。自分がどこか欠けていると、嫌でもわかってしまうのだった。

 俺はしばらく辺りを観察してから、とりあえずはお酒でも取りに行くかと店の奥のカウンターへ歩いて行った。何であれ、それでも俺に見えるものはたくさんある。もしかしたら、この俺にしか見えないものだって、あるかもしれない。「ワンダも歩けば棒に当たる」って、サンラインで言うかは知らないけれど、とにかく歩こう。

 ふと、遠巻きに俺を見ていたお姉様のうちの一人がふらりと立ち上がって、何となく後をついてくるように見えたけれど、俺は気付かないふりをして足を速めた。(いや、だって、「お姉様」って、かなり控えめな表現だったんだもの…………)
 俺はカウンターにつくなり、羊の顔をしたバーテンダーのお兄さんに話しかけた。

「こんばんは。注文良いですか?」

 羊のお兄さんはふるふると首を横に振り、案外甲高い声で答えた。

「だぁめ。アナタ、上の階から来たばかりでしょう? いきなりお酒だけってのは、ちょっとよ」

 俺は肩をすくめ、ではどうすればいいのかと尋ねた。羊男はカウンターの内側から黒いカバー付きのメニューを取り出し、差し出した。

「選んでちょうだい」

 俺はみっちり並んだお品書きをチラと見、顔を上げて正直に言った。

「実は、外国から来たばかりで、まだ文字が読めないんだ」
「あら、そうなの。失礼。…………読み上げた方が良いかしら?」

 羊男がゆっくりと口角を持ち上げる。俺はここで引いては何かが廃ると察し、果敢に突っ込んだ。

「いや、いいよ。ここのイチ押しをお願いしたいな」
「まぁ、本当にいいの? あの子、なかなか過激よ」

 …………あの子?
 俺は一瞬だけ怯んだが、破れかぶれで構わず言い切った。ここまで来て、据え膳食わぬわけにもいくまい。

「じゃあ、それを」
「ウフフ、かしこまりました。んじゃ、ちょっと待っててね」

 羊男が愉快そうにメニューを取り下げると、代わりに奥から猫目の、綺麗なオカッパ頭の女の子がやってきて、酒の注文を取った。俺は上で飲んだのと同じ蒸留酒を頼み、肘をついて「あの子」の到来を待った。

 * * *

 それから「あの子」はすぐにやって来た。
 意外にも…………それは食べ物だった。

 俺はしかし、目の前にどっかと盛られた「あの子」を見つめたまま、1ミリたりとも動けなかった。全身から引いた血の気が、いつまで経っても戻ってこなかった。皿の上で香ばしく揚がっているそれは、俺のよく知った形をしていた。

 収斂進化っていうのか? いや、俺みたいにオースタンから紛れ込んだ可能性も捨てきれない。

 俺は絶望に心臓を押し潰されそうになりながら、震える手で酒を煽った。
 チェイサーのように、羊男の声が耳に響く。

「サモワール地下街名物、レッドローチの素揚げ。ウチのシェフがオースタンまで研修に行って、腕に撚りをかけて作ったのよ。
 さ、召し上がれ。サービスでベルペッパーもかけてあげる。食べものは何でも、スパイシーが美味しいわ」

 俺は答えることができなかった。
 たくさんのレッドローチが…………それは、どこからどう見ても、赤いGだった…………小エビの如くサックリと揚げられた様は、常軌を逸していた。っていうか、オースタンに研修って言ったか? 今。

「過激…………」

 俺の呪詛じみた呟きに、いつの間にか俺の隣に座っていたさっきのお姉さんが、楽しそうに笑って解説を加えてきた。

「知ってる? レッドローチって栄養豊富で、薬にもなるんだって! お兄さん、何だかションボリしているから、調度良いかもしれないわよ? お酒と一緒に食べて、ホット・ホットよ!」

 俺は息切れと動悸に喘ぎながら、おずおずと隣のお姉さんに目をやった。まさに藁にも縋る思いである。お姉さんは溢れんばかりの慈悲と征服感とをグレーの瞳に湛え、気前良く言った。酒焼けた声が、いかにも調子良い。

「だぁいじょうぶよぉ!! そんなに怯えなくっても、パクッといけば案外、食べられちゃうものよ? 目を瞑っていれば、エビみたいなものだもの。
 そうだ! 勇気が出ないのなら、私が一緒に食べてあげようか!? お兄さん、故郷の一番下の弟にそっくりで、最初に見た時から放っておけなくてぇ」

 俺はお願いしますと丁寧に頭を下げた。据え膳食わないよりかは食った方がマシであり、そのためには、誰かの協力は不可欠だった。事実、俺にはお姉さんが女神に見えていた。目を細めてみれば、ほら。女神じゃないが、恵比寿様によく似ている。

 そして、俺は覚悟を決め、
 謹んで…………ゴキブリを食した。

 …………。
 …………えっ、味?
 それについては、知りたいなら自分で食べてみたら良い。決して八つ当たりなんかじゃない(嘘)。オースタンでも場所によっては同じようなものが食えるらしいし、百聞は一見に如かずだ。レッツトライ・アンド・ビー・ホット。(万が一に備え、洗面所か病院の近くでやることをお勧めする)

 食後、俺は不機嫌を突き抜けて、無機嫌と化していた。
 恵比寿姉さんはそんな俺にとても親切にしてくれた。

「あらぁ、やっぱり都会っ子にはキツかったかぁ。ウチの田舎じゃ、爺婆が普通に作るもんなんだけどね。まぁ、若い子は絶っ対に食べないんだけどさ、アハハハハ!
 ドンマイ! あんなもんじゃ男は廃らないよ。さぁさ、私の分の水もお飲み。吐いた後は、しっかり水分取らなきゃね。
 それより、ねぇ、良かったらこれから私と一緒に、もっと下に降りてみない? 良い酔い覚ましになると思うわよ。抜け道を知っているの」

 俺は、はや5杯目となった水をいじましくちびりながら、上目遣いに姉さんを見た。

「…………もっと下って、地下2階?」
「いんや、もっと下さ。3階まで、いっぺんに降ろしてもらえるの」

 俺はピンクのジュースの向精神作用により(もしくは、レッドローチのホットな作用により)ユラユラと定まらない視界を正すため、目をこすった。

「んん…………でも、3階には入るなって、上のマスターが…………」

 姉さんはこちらが椅子から転げ落ちるかのような大声でそれを笑い飛ばすと、豪快な調子で続けた。

「またまたぁ、若い奴が何を言っているんだか! お兄さん、男は度胸でしょ? むしろ今時は、女も度胸に根性、ってな具合だし。こんな世の中じゃ、人の言う通り良い子に生きてちゃ、世界の半分も見れないわよ? 私も田舎から出る時は、死地へ赴く戦士の気分だったものよ!」

 俺は何だか海賊に諭されている気分だった。海賊、それもただの海賊ではなく、七つの海を股にかけた恵比寿様を頭領とする一団が、巨大なクジラの背に乗って、俺をポンポコと囃し立てていた。

 もう何が幻想で何が現実なのか、さっぱりわからなかったし、わかりたくもなかった。そういうことの境界って、実はものすっごくくだらないと思う。
 俺は今一度酒に手を出し、思い切って一気に杯を空にした。

「行く。折角、扉を開けて旅に出たんだ。…………行かなくちゃ」

 姉さんは俺の空いた杯に即座に水を注ぎ、ダイナミックに全身を揺らして喜んだ。

「イエス! じゃあ、早速テレサに頼んでくるわね!」

【2】初めてづくしの大冒険。俺が守るべきものとは。

 テレサというのは、さっきカウンターでお酒の注文を取っていた女の子のことだった。
 無口な猫目の彼女は恵比寿姉さんのマシンガントークを黙々と受け流した後、最後に端的に言った。

「わかりました。それでは、裏口を開けます」

 言うなりテレサは俺達を酒場の端へ連れて行き、ポケットから取り出したチョークで床にスラスラと魔法陣を描き始めた。

「そこ、書いちゃっていいの?」

 俺が聞くと、テレサは吊り上がった猫目をキッとさらにきつく吊り上がらせ、短く答えた。

「大丈夫です。お任せください」

 俺は叱られた子犬のように縮こまり、それ以上は何も尋ねなかった。所在なくションボリと見守るばかりの俺に、姉さんはテレサへ何かを手渡しながら、そっと耳打ちをした。

「テレサはね、これで魔術学院の学費を稼いでいるから必死なのよ。話しかけないであげて。彼女に頼むと、正規のマスターに頼むよりかなり安上がりで済むから、私、お得意様なのよ」
「そうなんですか…………って、えっ? お金がかかるの!?」

 俺が声を裏返らせると、姉さんはひょっこりと肩をすくめた。

「当ったり前じゃないのよ! 他人のために、誰がタダで魔法なんて使ってくれるものですか。…………危険なのよ? 魔法って。私も嗜み程度にはやるけれども、専ら自分のためよ。上から来る時には、何も言われなかったの?」
「うん、確認してないけど…………サービスだと思ってた」
「まぁ、上の階じゃサービスだったかもしれないけどねぇ。何にせよ空間移動ってのは、術者にかなりの負担がかかるもんだよ。特に若い女の子は、子供ができにくくなるとか何とかで…………」

 会話の途中で、テレサが厳しく言葉を挟んだ。

「準備ができました。無駄話は止めて、陣の中へ入ってください」
「ハイハイ、わかったわ。でも、あんまりピリピリしているとブスになるわよ?」
「…………はやく」

 見るからに不機嫌なテレサに追い立てられて、俺達はのこのこと小さな円の中に収まった。
 姉さんが俺の耳に息を吹きかけてくる。

「心配要らないわ。今回は私のおごり。ウフフ…………」

 姉さんの巨体に縮こまって寄り添っていると、メスのアンコウに吸収された小っちゃなオスの姿が思い浮かんでくる。(…………例えがよくわからないって? そしたら、お手元の端末で調べてみてよ。可哀想な生き物がいるんだよ)

 テレサは俺達がギリギリ収まったのを見届けると、不慣れな手つきでメモ帖を繰りながら、たどたどしく詠唱を始めた。
 俺は酒とリージュとローチでぼやけた視界が、いつもの光で白く包まれていくのを黙って見ていた。もし下手に話しかけて失敗されたら、今度こそ時空の迷子かもしれない。
 姉さんの「大丈夫よぉ」という、やけに甘ったるいなぐさめの言葉を右から左へ、流しそうめんのように聞き流しつつ、俺は地下へと潜行していった。
 
 * * *

 地下に着いた俺を待っていたのは、薄汚れた長い廊下と、今にも消え入りそうな、心許ないランプの明かりだった。廊下の両側には絵札のかかったドアがずらりと並んでおり、その中からはギシギシ、コトコトといった不気味な物音が絶え間なく漏れ出ていた。

 ドアの絵札はどれも意味深で、どこかタロットカードを彷彿とさせた。牢に繋がれた男や、虚ろな顔で祈りを捧げる黒衣の女。のたうつ九つ頭の大蛇。火炎に巻かれた街。墓を掘る子供。いくら見ても、あまり愉快な絵は見つからない。

 俺は隣に立っている姉さんを仰ぎ、なるべく不安を押し隠して尋ねた。

「…………これから、どうするの?」
  
 姉さんは両手を腰に当て、堂々たる体躯を揺すって大笑した。

「アハハ! 「どうするの?」だって! 血が騒ぐわぁ。
 でもね、ここは裏口だからね。まずは表のカウンターへ出て、鍵をもらわなくちゃ部屋には入れないわよ。お楽しみは、それからってこと! 焦っちゃダメだよ、男の子!」

 俺は腕に湧き出たさぶいぼをさすりながら、自分が何かとんでもないことをしでかしつつあるのではないかと思案した。酔いが回っているせいで、ちっとも頭が働いてくれない。一歩廊下を歩むごとに、不安の靄が正体不明のまま、濃く、厚くなっていく。

 姉さんは俺の腕を引き、ずんずんと前へ歩んでいった。俺はさながらリードに繋がれたワンダに似ていた。フレイアと旅していた時と比べて、ちっともワクワクドキドキしない。(いや、違う意味でのドキドキは止まらないんだけど)もっとこう、ドラマチックな物語が旅に出た俺を待っているはずだったのに、どこでどう間違えたんだろう?

 時折、「あう!」だとか、「おう!」だとかいう、アシカの鳴き声じみた叫びが部屋から聞こえてくるのも、中々に恐怖だった。喘ぎ声なのか何なのか知らないが、あまり深追いすべきではないだろう。耳を澄ませば、鞭のしなる音とかも聞こえてくるし…………。扉の奥には、俺の知らない世界がなみなみ溢れているっていう、いつもの話に過ぎない。そう思いたい。

 姉さんは元気良く喋り通していた。

「サモワールもまぁ、これでも小綺麗になっちゃった方なのよね。昔のギラギラ、ベトベトした水の方が、私は好みだったんだけどもさ。教会の人が入り浸るようになってから、変に上品ぶるようになってねぇ。
 私ら庶民としちゃ、本当に良い迷惑だよ…………とも言い切れなくってねぇ。あの人たち、確かにすごく金払いが良いし、目につくような乱暴者も大勢いるけど、大半はまぁまぁまぁ、ケツの穴の小っさい保守的なヤツらで、大人しいもんだしねぇ。…………そりゃあまぁ、媚びるわよねぇ。
 昔は、騎士団っつったら、もっともっと遥かにお堅いもんで、放蕩なんて絶対にしなかったもんなんだけどねぇ。時代はすっかり変わったよ。まぁ、その昔っつっても相当昔で、んー…………かれこれ100年以上前の話だから、当然っちゃ当然なんだけどね。あの頃は、勇ましい獣戦士があっちにもこっちにもいたのよぉ? ああ、思いを馳せるだけで、ゾクゾクが蘇るわぁ~」

 俺はやたらに長い、迷路じみた複雑な廊下を辿りながら、ふとした思いつきのように気掛かりを口にした。(100年云々は根性で聞き流した)

「そう言えば、最近は「桃色天使」っていう泥棒がこの辺りに出るらしいね。噂じゃ、このサモワールにも出没するとか」

 姉さんはぴたっとお喋りを中断すると、わざとらしくガバリと自身の肩を抱いた。

「あらヤダ、怖ぁい! ここにも?」
「何でも、下着を盗むんだとか」
「ヤダ、「下着」って、アンタそれ、霊液のことじゃないの!?」
「レイエキって、何?」
「もう、わからないフリしちゃって! 私に言わせたいのね? 事の始めに、女が身体に塗るアレよ! 隠語なの。ああ、おぞましい!」

 俺は酔っているなりに頭を働かせ、さらに事情を探っていった。

「ごめん、外国から来たばっかりで、いまいち勝手がわからないんだ。…………そもそも、こんな管理された場所で、どうやって盗みなんかするんだろう?」
「そりゃあ、やっぱり、ここの従業員が協力しているんじゃないかしら?」
「えっ。でも、それって結構な信用問題じゃないの?」
「上の階や、向こうの棟なら、ね。でも地下じゃ、他人の商売に触れないっていう暗黙のルールがあるからね。さっきのテレサにしたってそう。バレていないわけはないんだけど、皆お互いに、大っぴらに言えない事情を抱えているからこそ、何も言わないのさ」
「つまり、姉さんにも何か秘密があるの?」
「さぁね。いずれにせよ、私はここが長いから、色々知っているってわけ。
っていうか…………そういうお兄さんだって、何か隠していることがあるんじゃないの? どうしていきなり「桃色」のことなんて持ち出したんだい? 外国から来たって言うけれど、文字も読めないってことは、スレーン人ってわけでもないでしょう? どこから、どうしてサンラインに来たんだい? 元々上の階にいたってことは、本当はそれなりのご身分なんでしょう? どうなの? ねぇ」

 俺は怒涛の質問攻めにたじろぎ、口を噤んで肩を落とした。話がずれてしまったあげく、逆に追い詰められてしまうとは、探偵失格だ。

 姉さんは愉快そうに俺の沈黙を笑い飛ばすと、周りに聞こえるのではと不安になる程の大声で続けた。

「アハハ! だから、いちいち言われたことを気にしなぁいの! まったく、近頃の若い男は気が弱くっていけない。例え嘘だろうが、見栄だろうがね、無理矢理にでも押し通してやるって気概が、本物を叩き上げるってもんよ!?
 内実はどうあれ、せいぜい空威張りしてりゃあいいのよ! そうすりゃ、いずれ見る目のある女が、アンタの背中を空までだって突き上げてくれるよ? 女は気位で人を見るんだよ。良い女ほどね!」

 俺にはもう、彼女が船長に見えて仕方がなかった。恵比寿船長。大漁の神様的な。
 ニートに張れる見栄もクソも無い気がする、なんてコウならいじける所だろうが、俺は船長の言うことをもっともだと思った。そうだ、弱気はいけないよな。

 要は、やると決めたことをやればいいだけだ。シンプルイズザベスト。コウの野郎も、本当はよくわかっているはずなのだが、どうにもアイツは思い切りが悪い。土壇場にならないと腹を捌く覚悟が決まらない。心ってやつは、良くも悪くも、複雑に物事を考え過ぎるのだ。だからこそ、|肉体≪俺≫がしっかりしなくちゃいけない。
 俺は笑って姉さんに言った。

「姉さんは、さすがに年の功だね」

 姉さんはギロリと俺を睨むと(だが、口元はしっかり微笑んでいた)、不敵に返した。

「まぁね。信用してちょうだいよ」
「する、する」

 俺達はさらに廊下を進んでいった。

 * * *
 
 そんなわけで、俺は姉さんのことは尊敬している。
 だが、それとこれとは別という話も大いにあった。

 俺はカウンターでもらった鍵を手に、今更になって震え上がっていた。自分が今、何をしようとしているか、ようやく頭で理解できたのだった。
 さっきまでの強気はどうしたんだ、って?
 それについては、我ながら矛盾しているとは思う。だが、どうかわかって欲しい。
 人にとって、やるべきことを真にやることが如何に困難であるか。それが故に人は、ありとあらゆる既存の規範に全力で縋り付き、脳をそれで染め上げる。会社が第一。日本が第一。家族が第一。
 みんな、使える言い訳探しに必死だ。

 …………要は、何が言いたいかと言うと。

 俺はゴキブリは食えても、姉さんは食えない。
 
 どうか、どうか俺を責めないでくれ。確かに姉さんはすごく良い人だ。ここまでホイホイ世話になってついてきておいて、今更膳を下げてくれだなんて通らないのもわかっている。俺としても、女の人のプライドは極力傷つけたくはない。フェミニストというつもりもないが、守らなきゃならないものだと思っている。
 だが、だが、俺は今、ガチな話、十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っている気分だった。

 なぜ? 女の子は初めてを大切にして当然みたいな風潮があるのに、男の子には無いのだろう? 差別?
 おい、コウ。お前を置いてけぼりにして、俺だけ楽しもうとした罰なのか、これは?

 姉さんは俺の気持ちを知ってか知らずか、鼻歌交じりで部屋へと歩んで行った。これから何が俺を待ち受けているのか、両側のドアから漏れてくる声が、これでもかとばかりに教えてくれていた。

「ねぇ、お兄さん、初めて?」

 俺は何も言わない。

「ウフフフフ…………」

 姉さんの意味深な笑みが俺の感情を凍らせていった。いっそこのまま完全に凍結してくれたら楽になれるのにと、本気で考えた。

 と、ちょうどそんな折だった。通り過ぎた部屋から妙な物音が聞こえてきた。乱暴に、慌ただしく物をより分けるような、ここにはやや場違いな音だった。
 俺は落としきりだった目をそちらへ向けた。

「どうしたの?」

 姉さんの呼びかけに、俺は「静かに」と、ジェスチャーだけで答え、扉の方へ寄って、おそるおそる耳を張り付けた。

「ヤダ、趣味が悪いわ」

 小声で諫めてくる姉さんに、俺はもう一度同じジェスチャーを繰り返した。集中すると、確かに何かを漁るような物音がする。殺伐とした、それでいて注意深く押し殺された声がする。
 俺は耳を澄ませ、調査を続けた。

「――――――――そっちは、どうだ?」
「もう無い。それより、そろそろ戻ってくるぞ。潮時だ。…………オイ、転送の準備はまだか?」
「あと少し」
「早くしろよ」
「急かさないで、集中が乱れる」
「あっ! 使用済みの下着、まだそこにあるじゃねぇか。よく探せよ。いくらになると思ってんだ?」
「悪かったな。こっちはお前ほど変態じゃないんだ、「桃色」」

 …………「桃色」!
 俺と姉さんは同時に顔を見合わせ、目を瞬かせた。まさか、こんなところで!

「どうする?」

 姉さんの問いかけに、俺は力強く頷いた。

「捕まえよう。実は俺、自警団の仕事をしているんだ。協力、お願いできる?」

 姉さんはどっしりとした眼差しと共に、男らしく言った。

「もちろん」

 俺達は改めて部屋の鍵を解錠できないか検討した。カウンターに連絡しようかとも考えたが、戻っていたら時間がかかってしまう。やつらがここにいるうちに、自力でどうにかしたかった。

「ピッキングはできそう。でも、魔法の扉だったら、無理に開けるとマズい?」

 俺が聞くと、姉さんは腕を組んで答えた。

「むしろ、手動で開けるのが一番安全じゃないかしら。下手にいじくって魔力の痕跡を残したら、後でどんな難癖を付けられるかわかったもんじゃないしね。大したロックがかかっているとは思えないし」
「なるほど」

 俺はそりゃあ好都合と、ポケットの中をまさぐろうとした。

「…………あ」

 俺はそこまでしてようやく、自分が浴衣に着替えていたということを思い出した。オースタンから着てきたジャージのポケットには、この間父のスーツケースを開けるために使ったヘアピンがそのまま入っていたはずだったのだが、迂闊だった。
 気落ちする俺に、姉さんがすぐさま髪に留めていたピンを2本引き抜いて差し出した。

「ハイ。しょうがない子ね」

 俺はお礼を言いつつ、早速解錠に取り掛かった。
 自慢じゃないが、俺はこの作業が昔から大の得意だった。友人と夜の学校に忍び込んだ時も、両親が旅行中に鍵を忘れて出掛けてしまった時も、父親が海外でスーツケースの鍵を失くして帰って来た時も、全てこの腕で何とかしてきた。

 俺は中の様子を窺いながら、なるべく音を立てずに作業を進めていった。片手のピンを小刻みに動かして、ちょうど良い具合を少しずつ、素早く探っていく。もう片方のピンは緊張を漲らせ、最後の仕掛けを待つ。最後の一手間にコツが要ることもあるから、油断はできない。ごく慎重に回さなければ。
 幸い今回は素直な扉だったので、あっという間に仕事が終わった。

「開いた」
 
 俺が呟くと、姉さんは全身で驚きを露わにした。

「えぇっ、もう? 何の音もしなかったわよ?」
「魔法使いみたいだろう」

 なんて、ここでは返せないが、友達からはよく言われたものだった。俺は最終確認のために、中から聞こえる声に今一度耳を傾けた。

「オイ、まだ終らないのか!?」
「もう描きあがる。痕跡を残さないようにとなると、複雑なのよ」
「あいつら、浴室でまた始めたようだ」
「どうせ早いぜ。信用ならねぇ」

 直後、転送の準備をしていると思しき女がヒステリックに悪態付いた。どうも魔法陣を描き損じたらしい。「桃色」の舌打ちが追って聞こえてくる。元々の部屋の使用者は、ここにまで届くような大声で盛んに喘ぎ続けていた。

「今だ、行こう」

 俺が勇んでドアノブに手を掛けたところを、姉さんが制止した。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、お兄さん! 入ってどうするのさ?」
「どうするって、捕まえるんだよ」
「どうやって?」
「普通に、肩とかを押さえて」
「その後は?」
「カウンターに突き出して、自警団にでも連絡してもらえばいいと思うけど」
 
 姉さんは深く長い溜息を吐くと、ポンと俺の両肩に手を乗せた。

「あのね、お兄さん。相手が魔法を使ってきたらって、まずは考えましょうね? お兄さんがどれだけ強いのか知らないけれども、もし見た目通りなら、返り討ちに遭うのが関の山じゃない?」

 姉さんは俺の目を見、淡々と諭した。

「だからね、ちょっと待って、私に捕縛術の準備をさせてちょうだい。まさかあんなに早く鍵が開くとは思わなかったから、まだなの。きちんと縛っておいた方が、ここのカウンターよりもまともな、上の事務所にも連れて行きやすいでしょう?」

 俺はぽかんと口を開け、姉さんを見返した。

「あぁ…………そっか。そんなことができるんだ。ありがとう、姉さん。お願いするよ」
「まったく。頼りになるんだか、ならないんだか」

 姉さんは俺から手を離すと、何やら複雑な印と一緒に詠唱を始めた。ぴしゃりと張りのある声で、聞くだけで気分が上がってくるのを感じた。いつものあやとり語が、こんなに好戦的に響くなんて信じられなかった。フレイアの染み込ませるような唱え方とも、リーザロットのとろけるような唱え方とも、まるで違う。人によって、同じ言葉がこんなに変わるものか。
 姉さんは唱え終わると、心なしか若々しい顔つきとなっていた。

「いいよ、開けな」

 相変わらずの酒焼け具合だったが、何だか声すらも若返っていた。酔っぱらっている脳の判断することだから、あまり信用はできないけれど、体型も少しスリムになっている気がする。
 俺は彼女にスパンと尻を叩かれ、再度発破をかけられた。

「何、ボサッと見ているのよ。行くんでしょ?」
「あ、ハイ!」

 俺は全身をぶつけるようにして、思い切り扉を開いた。

【3】俺の内なる獣と子供。信じたい夢。

「そこまでだ、「桃色天使」!!!」

 口をついて出る大見得。中にいた男女が目を真ん丸にして、乱入してきた俺達を見た。
 だが彼らの驚きもさながら、相対する俺達の驚愕も相当なものだった。
 俺の後ろで、姉さんがポツリとこぼした。

「テレサ…………。アンタ、何してるのよ?」

 部屋の真ん中で魔法陣を描いていた女の子が、ゆっくりと顔を上げた。綺麗に整っていたおかっぱ頭がぐしゃぐしゃに乱れ、険しかった眼差しがさらに鋭く、凶悪なまでに冴え渡っている。

 テレサの隣には男が二人、立っていた。一人は血の通わない陰気な顔つきで、いかにもサモワールの従業員といった風だった。
 そしてもう一人は、獣のような筋肉質な身体つきに、野蛮で不潔な面をしていた。
見間違えようも無い。そいつは俺を牢にぶちこみやがった、自警団のバッファロー男だった。

「お前…………!!!」

 俺は声を詰まらせ、バッファロー男を睨んだ。あれだけ人を変態呼ばわりしておいて、この野郎!!

 ついで俺は、バッファロー男が持っていた袋の口からこぼれた、「霊液」らしき物体にも目を留めた。霊液は単一電池サイズの透明な小瓶に入っていて、赤い花びらのようなものを中に浮かべていた。ベッドの上にぶちまけられた、まだ湿った跡を見る限り、やや粘性の液と見える。一体何にどう使うのかな?

 ともあれ俺は姉さんに、早速犯人たちを捕縛するよう頼んだ。

「あの髭の男を、逃さないで! …………アイツが、「桃色天使」だ!」
 
 姉さんは聞くや否や「ヒュッ」と短く口笛を吹いた。

 するとたちまち、砂のようなものが彼女の足元からどうと湧き出し、部屋は瞬く間に散らばった砂粒で覆われた。

 砂粒はチリチリと激しく弾け、俺は堪らず目を細めた。肌に当たるとかなり痛い。
 同時に俺は息を飲んだ。

 砂嵐の中を、決死の形相のバッファロー男が雄叫びを上げ、こちらに向かって来ていた。なりふり構わない突進で、目が砂で真っ赤に燃え上がっている。振りかぶった二の腕の筋肉が隆々と盛り上がっていた。

「う、うわぁ――――!!!」

 俺は咄嗟に姉さんの袖を引いて、後ろへ逃げようとした。だが姉さんは怯まず、微動だにせず、かえって俺を盛大に突き飛ばした。

「ナメんじゃないよ、若造!!」
「ごめんなさい!!」

 と、俺はみっともなく後じさりしながら(きっとバッファロー男に向けて言ったのだろうが、自分が怒られたとしか思えなかった)、彼女の全身がカッと鮮烈に光り輝くのを見た。
 
 アドレナリンの過剰放出が見せる、一瞬のスローモーション。
 姉さんはおもむろに腰を落とすと、深い呼吸と共に拳を作った。流星の如き正拳突きが、じっくりと空を破る。
 熱を持った緑白色の光の尾が、彼女の拳から煌々と伸びた。

 輝く拳はバッファロー男のみぞおちに深く深くのめり込み、彼の身体をスポンジのようにぐにゃりと捻じ曲げた。

 時が戻る。
 衝撃波により、部屋の壁に豪快なヒビが入った。
 風によって豪快に吹き飛ばされる砂粒。
 俺や他の見物人は、その砂を顔一面に浴びながら、呆然と口と目を開けていた。

「…………かっ、は」

 吹き飛ばされたバッファロー男が、かろうじて苦悶の息を漏らした。
 ドッ、と大袈裟な音を立てて崩れ落ちた彼は、芋虫じみた動きでどうにか四つん這いになると、腹を押さえ嗚咽し、嘔吐した。
 姉さんは彼の方へ勇ましく歩み寄ると、トドメの言葉を叩き付けた。

「獣人化もせずに、みっともない!! 出直してきな、泥棒!!」

 姉さんは後ろで縮こまって震えているテレサと従業員の男を振り返ると、「ヒュッ」とまた涼やかな口笛を吹いた。

 合図と同時に、散らばっていた砂粒がテレサ達の周りに集まり、二人の足や腕を素早く固めていく。彼らが慌て出した時には、すでにその身体はすっかり砂に覆われて、顔だけを出すのみとなっていた。

「ちょっ、ヤダ、助けて!!!」

 甲高い声で叫ぶテレサに、姉さんはギュウと眉間を険しくした。

「ダメ!! アンタ、いつからこんなことしてたんだい? 最近、妙に転送の腕を上げてきていると思ったら…………。まったく! どうせサモワール以外でも、このコソ泥とつるんで、色々やらかしてたんだろう!?」
「イェービス姉さんには関係無い!! 放っといてよ!! 学費のためだけに生きて働いて生きて働いて、大して成果も無くて、馬鹿馬鹿しくて、やってらんないってのよ!! 大体、何の筋合いがあって私に文句言うわけ!?」
「馬鹿だね!! だったら、とっとと学院なんてやめたらいい!! 何の筋合いも何も、アンタに魔術の基礎を教えてやったのは誰だと思ってるんだい!?」
「私が使いたかったのは、姉さんの田舎くさい地味魔法なんかじゃない!! 騎士団みたいな、派手でキラキラしたのが良かったの!!」
「生意気言ってんじゃないよ!! 騎士団目指して、下着泥棒の片棒担いでるんじゃあ、世話も無い!!」

 俺は二人の言い合いを聞きながら、バッファロー男がよろりと立ち上がるのを横目に見た。

「――――姉さん!!」

 俺はバッファロー男の上半身が、本物のバッファローのように大きく、毛むくじゃらに変身するのを指差した。
 バッファロー男は完全なる獣面に変化するや否や、頭の巨大な角をブンと大胆に振りかざし、大地も引き裂かんばかりの凄まじい咆哮を上げた。

 バッファローの周囲の砂が急激に渦を巻き、たちまち大きな砂の塊を、いくつも、いくつもいくつも作り上げていく。それらはもはや岩石であった。
 岩は一層壮絶なバッファローの咆哮によって、爆発的に辺りに散った。

「お兄さん、伏せな!!」

 俺は姉さんに言われるまでも無く、すでに床にうつ伏せていた。情けないとか思う余裕は一切無い。

 岩石は四方の部屋の壁を粉砕し、隣接した部屋の壁まで一気にぶち抜いた。
 テレサの絶叫と、いつの間にか浴室から出てきていたカップルの絶叫とが重なって、超音波のような悲鳴が場に響き渡る。崩れ落ちてくる建物の破片が、俺のすぐ傍にザクザクと突き刺さった。たまらず俺も悲鳴を上げる。

 しかし、姉さんは動じない。
 彼女は口笛を吹き、新たなる砂を大量に湧かせた。莫大な量の砂が、津波のような音を立てて、崩壊しかけの壁を埋めていく。一方で床に散った砂は、働き蟻のごとく整然と凝集し、俺やテレサらを守る小さなドームを形成していった。

 素っ裸のカップルが、作られたドームの内側でなおも叫んでいる。
 残りの砂は姉さんの魔力が起こす風と、バッファローの咆哮との間で、乱れに乱れていた。まさに砂嵐である。
 ドームに守られているとはいえ、砂は容赦無く俺の顔を打ち据えてきた。俺はバッファローと同様に、目を真っ赤にして耐えた。

 こんな騒ぎになっているっていうのに、店は一体何をしているのだろう!? どうして誰も助けに来ないんだ!?

 俺は恨みがましく思いつつ、ドームからわずかに顔を出した。
 戦闘がこう着状態に陥っているのを見計らい、姉さんに話しかけた。

「姉さん!! 大丈夫!?」

 姉さんはチラと俺を見やると、険しい顔つきのまま言った。

「大したことない、と言いたい所だけど、このままじゃちょっとマズいわね。ちょっと煽りすぎちゃったかね。…………あんまり長引かせると、こっちが先に力尽きちゃいそうだ」
「何か手伝えることない?」
「そうさね」

 姉さんはちょっとばかり思案していたが、やがてまた俺を見返して言った。

「そしたら、お兄さん、少し身体を貸してもらえるかい?」
「へ? 身体?」
「「無色の|(カラーレス)」って聞いたことある? 一応話しておくと、「無色の魂」ってのは、テッサロスタで作られる、人工の霊体のことなんだけど」
「はあ」
「それを空の肉体に入れれば、霊体不在の今のお兄さんでも、ちょっとした魔法が使えるようになるのよ」

 俺は砂塵まみれの顔をこすり、目を瞬かせた。

「それって、つまり、俺も戦うってこと!?」
「むしろ、お兄さんが戦うのよ!」
「でっ、でも! 俺、魔法の無い国から来たんだ! 使いこなせるわけ…………」
「魔法の無い国なんてないよ!」

 姉さんはぴしゃりと言い切ると、苦しそうに顔を歪めた。刻まれた皺が深まるにつれ、若々しさがぐんと失われていく。少しずつだが、バッファローの勢いが勝ちつつあるようだった。砂嵐の中心が移動し、バッファローを核に渦巻こうとしている。
 姉さんは相手を真っ直ぐに睨み付けながら、腹に力を込めて続けた。

「とにかく! やるの!? やらないの!? どっちなの!?」

 俺はあわあわと口を動かしつつ、動転したまま答えた。

「やっ、やる!! やってみる!!」
「よし、そうこなくっちゃ!!」

 姉さんは顔を皺くちゃにして笑うと、印を組んでいた手を解いて、新たな詠唱を始めた。遠く、地の底にまでだって届きそうな、高らかな魔海への呼び声に、俺は自分の身体が熱っぽく呼応するのを感じた。

 何かが、俺の内に沸々と宿り始める。
 温かなもの。ひんやりとした、雫のようなもの。
 たくさんの水泡がぽつりぽつりと混ざり合い、柔らかく、透き通り、少し悲しいぐらいにあっけなく、沁み通っていく。

 気付けば、青い果実を抱く小さなトカゲが目の前でじっと俺を見つめていた。
 トカゲ…………いや、竜の子供?
 見慣れない鱗の色と顔立ち、爪と牙に、ふとそんな考えがよぎった。
 つぶらな竜の黒い瞳は、何を訴えることもなく、ただ静かに映る世界を湛えている。まるで合わせ鏡のように、俺と竜との境目が交錯した。
 不思議な生き物はやがて、陽炎のように立ち消えた。

 ――――…………世界の半分が、色づいて見える…………?

「さぁ、魂が入ったよ! とっておきの暴れん坊を入れたからね!」

 姉さんの溌剌とした声が、やけに耳に響いた。頭がぼうっとする割に、辺りの景色が滅茶苦茶鮮やかに見える。…………いいや、視界自体は擦りガラス越しみたいにぼやけているのだが、それ以上に、命の放つ魔力が、ビリビリと全身に伝わってきた。

「魂の入った身体は、思う以上の力を発揮するわよ! …………お兄さんも、たまには良い子ちゃんなんか止めて、好きに暴れたらいい!!」

 全身を巡る血液が、まるで命を宿したみたいに力強くキックして、心臓を駆け抜けていった。酒やらジュースやらローチやらですっかり興奮しきった気分と合わさって、尋常ならざる活力が身の内に漲ってくる。

 続々と噴出する脳内麻薬が、身体のあちこちのリミッターを際限無く外していく。身体中の神経が暴れ出す、その寸前まで、エネルギーが迸った。
 堰を越えた衝動が雪崩となって、理性を押し潰していく。
 今すぐ走り出したい!
 叫び出したい!
 噛み付きたい!
 壊したい!
 誰でもいい、戦いたい!

 俺は、獣になっていた。
 獣。なんだろう。皮膚がエメラルドの鱗に覆われていく。

 …………竜?
 どうでもいい。

 次の瞬間、俺は鋭い爪に照明を反射させ、バッファローに飛び掛かっていっていた。
 テレサやカップルの絶叫を痺れるほど背中に浴びて、俺はバッファローと岩石の中へ、一目散に突っ込んでいった。

 バッファローは充血した目をこれでもかと見開き、岩石を俺に放った。
 飛び交う岩の弾幕を掻い潜り、俺は瞬時に彼の懐へ達する。

「――――――――何ッ!?」

 驚愕するバッファローの顔面に、俺は容赦無く爪を立てた。

 舞い上がった鮮血の飛沫が、さらに俺の脳を加速させる。怯え竦む相手の目の光が、さらにぐんと気分を駆り立てる。
 俺はもう一方の手を夢中かえって振り抜き、後ろへ退きかける相手の顔を、真一文字に布切れの如く引き裂いた。

 恐れか、怒りか、バッファローが野太い雄叫びを上げる。俺は本能の命ずるままに牙を剥いた。相手の柔らかい喉笛が弾ける、その音の予感が俺を支配していた。
 喉。喉。喉。
 それしか目に入らない。

 砂がみるみる凝集し、バッファローの手足を覆っていった。姉さんが支援してくれているのだ。
 だが同時に、バッファローの首筋を守るように、厚い岩石のマフラーが編まれつつもあった。バッファローの魔力が、姉さんの魔力に拮抗している。今なら、身体でわかる。

 血まみれ、砂まみれのバッファローが、悪魔じみた目つきで俺を睨んでいた。毛先から滴る血雫が汚らしく、禍々しく、雄々しい。
 彼の返り血を浴びた俺の面もきっと、きっと同じくらい醜いだろう。興奮する。

 俺は首が狙えぬと察するや、目標を彼の無防備な後ろ肩へと変えた。俺は急角度で横に跳ね、壁を思い切り蹴った。
 そのままバッファローを背中から押し倒す。すかさず大きく口を開く。牙をガブリと沈める。液体の噴き出る、皮が破ける焦がれていた音が脳に満ち溢れると、俺は堪らず首を左右に大きく振った。

「テメェ…………離し、やがれ!!」

 バッファローが俺を引き剥がそうと、暴れ、抗した。しかし俺は鋭い爪を深く深く相手の身体に食い込ませ、喰らい付き、立ち上る血の匂いに酔いしれていた。歓喜のあまり、舌はもうまともに働いていなかった。
 痺れも痛みも、全てが快感に変わっていく。

 バッファローが身をよじるのに合わせて、俺は何度も、何度も咬み直した。牙が肉を裂く度に、小気味の良い音がブチブチと鳴る。喉笛まで、動脈まで、何としてでも辿り着きたい。
 バッファローが俺の腹を肘で強く打つ。岩石が立て続けに横っ面を打つ。俺は血糊にぐっしょりと濡れながら、なおも牙と爪を立て続けた。

「お兄さん、やめな!! それ以上やったら、死んじまうよ!!」

 姉さんの悲鳴が聞こえた。聞こえただけだった。

 俺は、腕に更なる力を込めた。強引だが、一気に喉まで喰う!!

 テレサらの一際甲高い悲鳴が響いた。
 俺が首をうんと伸ばした、その直後、巨大な岩石が俺の後頭部を強かに打った。

「―――――――ッッッ!!!」
 
 俺は言葉にならない声を上げて前のめった。意識が一瞬、真っ白になる。
 バッファローがその隙を突いて、強烈な拳を左の下顎に叩き込んだ。

 俺は宙高く吹っ飛ばされながら、すぐさま猫のように着地姿勢を整えた。考えてのことでは無い。身体が独りでに動き、戦闘から気を離そうとしなかった。

 俺は意識が真っ白になったまま、四つ足で着地し、相手をギッと見据えた。垂れてくる血が目に沁み、瞬膜が反射的に一度閉じた。

「くっ…………どんだけラリッてやがる、コイツ。並の適応じゃねぇ」

 バッファローが忌々しげに吐き捨てた。俺は未だぼやける頭で、それでもじりじりと、辛抱強く相手の出方を窺っていた。

 姉さんが何かしきりに喋りかけてきていたが、今度こそは本格的に理解不能なノイズにしか聞こえなかった。
 目の前にあるのは、獲物。
 高揚しきった気分が、カッカと血を燃やす。
 瞬きの間すら、相手を睨み続ける。
 息をし続ける。
 動くために、
 狩るために、
 その為だけに。

 足元の砂が、磁石に挟まれた砂鉄のようにゾロゾロと動いていた。
 姉さんが操っているのか、あるいは、俺とバッファローとの間に流れる緊張が、自然と動かすのか。砂は楕円形の綺麗な渦模様を、ゆっくりと描いていく。

 俺は相手のわずかな呼吸の乱れを気取り、即座に床を蹴って前へ踊り出た。投げられた岩石が、丁度擦れ違いざまに床を破壊する。

 バッファローのつま先が、俺に向かって閃光のように蹴り上げられた。俺は極限の集中の中、見切って刹那だけその場に踏み留まり、そこから跳んで彼の側頭部に体当たりをかました。

 転がるバッファローを組み敷き、俺は牙を振りかぶる。喉笛へ、一直線に向かっていく。

 バッファローは雄叫びを上げ、俺を掴んで乱暴に身体を転がした。俺たちは一塊になって、ゴロゴロと雪崩れていく。
 砂が盛大に巻き上げられた。俺は苛立ちに駆られ、がむしゃらな噛み付きを繰り返した。皮膚を掠るばかりで、ちっとも血が出ない。いちいち抜けて牙に絡まる毛が、すごくうざい。
 俺は焦り、雑に攻撃を重ねた。
 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。

「お兄さん!!! 落ち着いて!!!」

 姉さんの制止を無視し、俺は牙を立て続けた。だが次第に、バッファローが勢いを押し返してきた。

 バッファローは冷静に、からかうように俺の牙を躱していった。時折、角で反撃さえ叩き込んでくる。俺はその都度頭に血が上って、余計に躍起になった。

 考えるより先に、攻撃が出る。そうしないと、さらに苛々する。悔しさやら、憎しみやら、吐き気やらで、身体が爆発しそうになる。
 ほんの1秒だって、我慢できなかった。

「ハッ!! マヌーのクソ酒でハイになったガキが、ボロ出してきやがった!! 肥溜めがママに見えんのか、アア!?」

 俺は喋ることが煩わしく、唸り声だけで応じた。(そもそも意味がわかんねぇんだよ!!!)

「オイ、オイ、すっかり飲まれてやがんな、トカゲ野郎!
 ナタリーはどうした? 一緒じゃなかったのか? 振られたか? アレがいりゃあ俺も勝ち目が無かったが、腐れたババアと、そのペットのお前じゃ、いくらやっても無駄だぜ!?」

 俺は爪を振り上げた。しかし、勢いをつけようとして肩を大きく反ったその瞬間、バッファローが足を振って、上体をぐんと跳ね上げた。
 巨大な額が眼前に迫る。

「喰らえ、クソ野郎!!!」
「――――ッッッ!!!」

 俺は鼻先に派手に頭突きを打たれ、よろめいた。激痛が走り、視界が白黒に点滅する。

 バッファローは飛び上がって立ち上がると、荒々しく何事かを叫んだ。
 俺は定まらぬ足元で、かろうじて踏ん張ったが、やがて目に飛び込んできた光景を見て絶句した。

 砂で覆われていた壁がみるみる崩れていき、今までにない規模の岩塊を、数え切れぬ程に、急速に作り上げていた。

「ハハハァッ、やっと調子が出てきたぜ!! ババア、望み通り本気でぶっ殺してやらぁ!!」

「ごめん…………お兄さん!! ずっと、支えてきたんだけど…………もう、持たない…………!!」

 俺はいつの間にか、すっかり骨と皮だけの老婆と化した姉さんを目の当たりにして、ようやく正気を取り戻した。

 我に返ると、肌を覆っていた鱗が急にボロボロと剥がれ落ちていった。猛っていた心臓が風船のように萎み、血と一緒に、ドクドクと全身から力が抜けていった。
 俺は崩れ落ちる膝を、留めることができなかった。筋肉痛をも通り越して、身体が骨ごと、がらんどうになってしまったようだった。

「やめてよ!! 私たちまで巻き込む気!?」

 テレサの絶叫に、バッファローが淡泊に答えた。

「こうなったら、いっそ跡形も無くぶっ壊しちまった方がマシなんだよ!! そこのヘタレトカゲが、変態「桃色」で、俺は偶然居合わせた正義の自警団だ!! わかるだろ!? むしろ、お前らは死んでくれねぇと困るんだよ!!」
「な…………なんですってぇ!?」

 テレサの顔から血の気が一気に失せる。俺は息も絶え絶えの姉さんに、今一度、声を張って頼んだ。

「ね…………姉さん、お願いだ!! あと少しだけ、俺に、戦わせてくれ!!」

 姉さんは無言で印を組み、乾ききった唇を微かに震わせた。

「行きな」

 そう呟いたように見えた。彼女の深いグレーの瞳は、老いたとて決して枯れない瑞々しい輝きを秘めていた。
 俺は自分の周りに、砂がじっくりと渦巻いてくるのを感じ取った。

 ――――――――もっと、来い!!!

 俺は内に残った闘志を焚き付け、より多くの砂を呼ぼうとした。コウと一緒の時みたいに、魔力の扉がくっきりと感じられるわけでは無かったけれど、やってやる!! 絶対に引き寄せてやる!!

 オースタンでだって、サンラインでだって、何にもできない、しょうもない俺だが。26にもなって、いつまでもフラフラしていて、挙句の果てには妹にまで軽蔑されて、それでも何色にも染まれない俺だが。
 やると、決めたんだ!!

 俺はなけなしの力を振り絞り、全身に気合を込めた。自力でも、身体を熱くしてみせる。
 できるったら、できる。嘘も本当も、道理も不条理も、あるもんか。
 そんなので納得するほど、俺は大人じゃない。賢くもない!!

 破れかぶれの気迫に応じてか、少しずつバッファローの岩塊から、砂が呼び寄せられてきた。気持ちが昂っていくにつれて、鱗がまたプツプツと再生され始める。爪が、牙が、ギリリと尖っていく。

 …………俺には、信じたいことがある。

 コウはいるし、魔法はあるし、世界は自分が思うより、ずっと広いって、信じたい。お化けも神様も、きっとどこかにいると、目に見えなくたって、俺は心の底から信じている。
 そんな魂が今、魔法を呼ぶ。扉を開く、戦う力になる。
 だから、負けない。
 俺は、この夢だけは、絶対に貫き通す!

 俺は全身に砂の鎧を纏った。見れば姉さんだけでなく、テレサも俺に力を注いでくれていた。
 テレサは猫目を弱々しく吊り上がらせ、懸命に詠唱を続けていた。地下へ送ってもらった時と同じ、拙い彼女の白い光を浴びたら、俄然力が湧いてきた。扉が、すぐそこにある!

 バッファローの周りの砂が、微かに動きを淀ませた。
 バッファローが腹に力を溜める。
 俺はその瞬間、足に漲らせた力を弾丸のごとく解放した。

 同時に、憤怒も露わに、バッファローが俺めがけて一斉に岩塊を降らせる。
 俺は機敏に岩の雨を避け、バッファローの足元ギリギリを狙って、地面スレスレの低姿勢で突っ込んでいった。
 礫が、鎧を砕く。
 足が熱く燃える。
 地を蹴る。さらに加速する。

「させるか!!!」

 バッファローが短く詠唱し、自分の周囲に巨大な岩の壁をせり上がらせた。
 だが俺は止まらず、四脚になって壁に飛びついた。強靭な爪と脚力が、いとも容易く壁面を掴ませた。
そのまま走る。視界が90度、ダイナミックに回る。
 
 バッファローが乱暴に詠唱を加える。壁にいくつもの棘が盛り上がった。瘤と呼んだ方が良い、無骨な岩の棘。
 俺は流れるように棘の合間を走り抜けていった。
 周囲の空間が高速で旋回する。
 俺はあっという間に、壁の頂点に昇り詰めた。

 見下ろせば、血走った眼。バッファローが呆然とこちらを見上げている。
 俺はその瞳に、喰い込ませんと牙を剥いた。
 濁った瞳の脆さが、そのまま岩の強度に伝染る。
 俺は壁が粉雪と壊れる直前、バッファローに飛び掛かった。

 尻餅をつく獣。俺はその上にのし掛かる。
 あんなに恋しかった喉の肉が、無防備にばっくり晒されていた。
 俺は生唾を飲む。
 快い波が、脳をさざめかす。
 俺は喉笛を引き裂く代わりに、一度、力の限り長く、わなないた。

 砂が豪快な煙を立て、俺達を中心に渦巻く。
 俺はバッファローの厚い肩を、無残な傷口を、これでもかと強く押さえていた。
 バッファローの角が猛然と俺の頬を打つ。砂の兜が粉々に砕ける。
 俺は傷口にじっくりと爪を埋め、丁寧に牙を立てた。理性と野性が、ギリギリでせめぎ合っている。俺はまだ獣じゃない。俺は俺を、コントロールできる。
 相手の角がモロに俺のこめかみを打った。だが俺は、食いしばり、一切口を離さなかった。

 バッファローの、ほとんど声にならない雄叫びが砂を凝集させようとする。
 俺は気合だけで、それに抗う。
 砂が乱れ飛ぶ。
 竜巻のように、高速で渦が成長していく。破壊された瓦礫が次々と飲み込まれて、渦は瞬く間に天井を貫いた。

 俺達の混沌を映すように、竜巻のエネルギーは止め処なく増幅していった。
 ついに部屋ごと巻き込まんとする、その瞬間、まばゆい光が恒星の如く、一挙に空間に溢れた。

「――――――――!?」

 俺は途端に、スゥと意識が遠退いていくのを感じた。砂が重力を忘れ、粉のように舞っていた。台風の 目を思わせる、魔力の空白が部屋を包む。
 バッファローの肩から、とろけるように力が抜けていった。

 光はすぐに収まった。
 後には、水を打ったような静寂だけが余韻となって残った。
 俺はいつしか周囲に舞っていた砂が、重たい泥の雨と化していることに気付いた。雨は浴びているとなぜか、不思議なくらい心が静まった。
 崩れた天井の奥に広がる、灰色の靄から、惜しみなく注がれる雨…………。

「これ、「裁きの雨」…………?」

 放心した表情でテレサがこぼした。
 姉さんの掠れた声が彼女に応じる。

「…………「裁きの雨」は、祈りへの手向け。裁きの主を信ずる道を往かんと、強く願う者に恵まれる、っていうけどね…………。
 …………初めて見た…………。
 何にせよ、教会への誓約がなくちゃ奇跡は起こせないって、嘘だったんだねぇ…………」

 泥の雨はたちまち深い沼を溜め、部屋と、俺達をじっとりとした沈黙に埋めていった。
 崩れた壁の向こうから、こっそり騒ぎを見守っていた他の客達が、おずおずとシーツを被って覗きにやって来た。

 俺はこれでもかと深く、長く、溜息を吐いた。身体を覆っていた鱗が、茶色い雨と一緒にごっそり剥がれ落ちていく。全身の力が抜けて、心の鎧が氷みたいに溶けた。

 やがて雨はゆっくりと止んでいった。

 俺はその後もしばらく、呆然と佇んでいた。

「…………。
 …………お兄さん」

 姉さんに肩をたたかれて、ようやく俺は彼女の方を振り返った。

「…………ごめん、姉さん。何だか…………大変なことになっちゃった」

 俺が申し訳無くて目を伏せると、姉さんは優しく返してきた。

「そうね。でも、よく頑張ったわ。「桃色」を捕まえて、テレサ達や私も助けてくれたんだもの。ホラ、裁きの主だって祝福しているわ!」
「祝福、なのかなぁ。…………そもそも俺が余計な事をしなかったら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
「馬鹿言わないの! アンタは正しいことをしたよ。自信持ちな。格好良かったんだから!」

 俺は立ち上がろうとして、突如走った激痛に悶えた。全身の筋肉という筋肉が、一筋残らず断裂したかのようだった。俺はあえなくまた泥に手を付き、苦笑した。

「ハ…………ハハ。どうしよう、動ける気がしないや」

 姉さんはカラカラと陽気に笑うと、どこか懐かしむみたいな表情で言った。

「ま、そうだろうね。訓練も無しにあんだけ暴れりゃ、少なくとも3日は動けないだろうよ」
「3日じゃ済まない気がする」
「お兄さんはまだ若いからね。栄養取って、よく寝ていれば、そんなもんだよ」

 実は若いというほど若くもないのだがと内心でこぼしつつ、俺は自分の下で伸びているバッファローに目を向けた。

 バッファローはすっかり力を使い果たしたのか、今までの威勢が嘘だったかのようにおとなしく虚空を眺めていた。
 俺は余計なことかと思いながらも、彼に話しかけた。

「…………あのさ。何で、こんなことしたの?」

 獣人化の解けたバッファロー男は(それでもその髭は、夥しい泥と血にまみれていた)、やさぐれた調子で答えた。

「…………金がねぇんだよ。騎士様のお友達にはわかんねぇだろうが、金も、魔力も無いヤツには、ロクな場所じゃねぇんだよ、ここは」
「魔力、あったじゃん」
「クソみてぇなもんだろうが、あんなんは。…………所詮俺程度じゃ、ナタリーみてぇなガキ一人、どうにもできやしねぇ。いずれアイツのが出世するって、目に見えてやがる。この世は才能が全てだ。まともにやってられっかよ、クソが」
「…………。だからって、そんなに貧しいようにも見えなかったけど。金も、才能も」
「ほざけ。餓えてなけりゃ満たされてるって、本気で思ってんのか? どんな馬鹿野郎だ、吐き気がする、オェ、底抜け鍋でクソ酒と煮られろ。
 チッ…………ああ、クソ。テメェのつけた傷のせいで本当に吐きそうだ。痛ぇな…………。いくら雑魚とはいえ、3人も集まりゃ、な…………」
「…………人を騙したり、陥れたりしてでもしたいことって、何?」
「あ? 何の話してやがる?」
「仲間にまで、手をかけようとしたろう? 仲間を裏切って、他人に罪を着せて、そんなにまでして一体、何がしたいの? アンタ」
「バカが。決まってんだろ。金使うんだよ。うまいもん食って、高い酒を飲む。上等な宿に行って、女を買う。賭場に行く。何でもできるだろうが」
「それ、本当にしたいの?」

 バッファローは冷たい眼差しを俺に寄越すと、徹底した無表情で言った。

「お前、グゥブの下痢か、ローチの小便でも頭に詰めてんのか? 完全にイッてるぜ、その真顔。
 …………別に大して欲しくもねぇが、他に望むもんなんかねぇんだよ。今が楽しけりゃ、それでいい。それ以外の真理なんざ、全部トチ狂ったクソ魔術師共の、暇つぶしのゲロ以下の妄想だ。
 欲しいものなんざ、ハナっからねぇんだよ。どこの世界にもありゃねぇ。何も欲しくねぇんだよ。くだらねぇ、つまらねぇ、どこまで行っても、クソばかり。ガキにはわかんねぇだろうがな、俺は、そういうクソの煮詰まった地獄で、やりようを見つけてんだよ。
 魔力も、金も、あるところにゃ、腐る程うなってる。少しぐらい拝借したって構わねぇだろう。魂の根がどうの、魔海の苗床がどうのと、クソ屁理屈並べる以前に、この世で金と力がなきゃ、何の話にもなんねぇんだ!
 …………元々、平等じゃねぇんだからよ。それぐらい許されてもいいだろうが!」
「アンタ…………生きてて楽しくないだろ。自分でも、わかってんじゃん」
「ハッ、テメェはそうして童貞のまんま、ババアの膝枕でクソ酒しゃぶって、一生ママの夢でも見てろよ、クソが!!」

 俺は黙って相手を見つめ返した。バッファローは次第に苛立つ元気が湧いてきたと見え、勝手に開き直って怒鳴り始めた。

「っつぅか、騙したからって、何だってんだよ!! そもそも騙される馬鹿が悪いんだろうが!? 俺は、テレサ共より賢い!! だから頭使って生きてきただけだ!! 何か文句あんのか!?」
「あるよ」
「言ってみろ、このヒョロガリヘタレ野郎!! 〇×△!!」

 俺は飛び出たスラングにうんざりして、会話を打ち止めた。もうちょっと元気だったら、あと少しぐらい付き合ってやったかもしれないけれど、今はとてもそんな余裕は無い。

 要するに、僻んで自棄になった、ってだけの話だ。それ以上でもそれ以下でもない。それこそ宇宙の何よりもくだらない、何とやらのクソの糠漬け特盛りチャンプルーみたいな話だ。

 俺はバッファローの言う通り、心底ガキで、彼にはちっとも共感できない。何より、絶対に欲しいってわけでも無いのに、わざわざ余計に働くとか、ニートには常軌を逸しているとしか思えない。騙される方が悪い云々に至っては、低俗と断ずるより他にない。

 俺は一つ、欠伸をした。どうしてこう、物事をつまらなく考える大人が育ってしまうものか。才能なんかなくたって、いくらだって見えるものはあるっていうのにさ。
 せめて自分くらいは、信じてあげたらいいのにな。
 
 俺は今すぐに眠ってしまいたいのを堪え、誰かが連れてきてくれた、見るからに上等な着物を纏った従業員との対応に集中することにした。さてさて、何と申し開きしようかなぁ…………。

【4】魔法の種。

 結論から言って、俺は罪に問われなかった。

 どころか、今回の事件は驚くぐらい巷で話題にならなかった。
 同じ晩にサモワールの本館で起きた大事件――――例によって、俺の相方・コウがその中心人物だったわけだが――――が、全て攫って行ってしまったからだった。

 翌日の新聞には、「「桃色」、捕まる」と小さく見出しが出た程度で、俺の名前も、姉さんの名前も一切書かれなかった。俺たちは勇気ある民間の協力者として、サモワールのオーナーから、ちょっとしたお詫びとお礼の品をもらっただけだった。(ちなみに、この品ってのは高級手ぬぐいと、貴重なお酒だった)

 そんなわけで俺は、ホッとしたような、ちょっと残念なような心持ちで、明くる日を過ごし、見舞いに来てくれた姉さんと再会したのだった。

 姉さんはベッドの上で、二日酔いと筋肉痛で満身創痍の俺をじっくり眺めまわしつつ、しみじみと言った。

「驚いたわぁ。どっかの国の貴族様なのかもとは思っていたけれど、まさか、お兄さんが噂の「勇者様」とはねぇ。そりゃあ、主も雨あられ雷と降らせるのも頷けるわ」

 俺は何となく気恥ずかしくなり、肩を縮めた。

「別に、だからってわけじゃなかったと思うけど…………。その、「勇者」のことは言うなって、騎士団の人から言われててさ。だから、別に騙していたわけじゃないんだよ」
「わかってるわよ! あんまり大っぴらに言うべきことじゃないって、私も思うもの。それにしても、色々と合点がいったよ。オースタンから来たんじゃ、そりゃあ何にも知らないわけよねぇ。
まっ、お兄さんの正体はさておき、よもや自分が一生の内で、蒼姫様の館に入ることがあるなんて、思いもよらなかったわぁ。久しぶりよ、本気でおめかししたのなんて。何て豪華な屋敷なんでしょう。ふっかふかじゃないの、そのベッドもぉ」
「まぁ…………ね」

 俺は頬を掻き、やや視線を泳がせつつ、改めて姉さんの容姿を窺った。
 ツーちゃんのこともあるし、この世界において、見た目はそれほど信用できる要素じゃないのはわかっていたつもりだったが、それでもこうしてその変化をまざまざと見せつけられると、さすがに戸惑った。

 姉さんは今や、艶めかしい挑発的なスタイルに、理知的な佇まいを併せ持った、栗毛色の長髪がチャーミングな美女となっていた。ピッチリとお尻の形が出るスカートが、どこか秘書っぽい。グレーの瞳だけが唯一、変わらずに凛々しく輝いている。
 俺はつい彼女から目を逸らして、言った。

「その…………驚いたと言えば、姉さんも、全然違うよね。前の時と」
「フフ。お兄さんに会うから、気合入れてきちゃった」

 俺は何と返していいのか、本当にわからなかった。実年齢百何歳というのはどうも真実のようであったし、喜ぶのは間違っているような気もするのだが、しかし。

 それに、たとえ彼女の真の姿が恵比寿様であっても、目の前の美女であっても、やはり年上の女の人と話すのは慣れないことだ。お酒が抜けると、本当に情けなく気が萎んでしまう。
 姉さんは前かがみになって(胸が!)そんな俺の顔を強引に覗き込むと、相変わらずの酒焼け声で、優しく言った。

「テレサからね、お兄さんに伝言があるのよ」
「えっ、テレサさんから?」
「そう。「止めてくれてありがとう」だってさ。学院も、泥棒も、やめるきっかけができて、かえって楽になった、ってさ。自分に足りないのは才能じゃなくて、気概だって、お兄さんを見ていて気付いたらしいよ」
「…………そっか」

 俺は少なくとも一人、自分が誰かのためになれたと知って嬉しくなった。世界を救う「勇者」とまではいかなかったとしても、サンラインに来て誰かの運命が変わったというのなら、はるばるやって来た甲斐がある。
 思わず笑みを漏らす俺に、姉さんは満足そうに付け加えた。

「ねぇ! 私ね、お兄さんが「勇者様」って聞いて、本当に良かったと思っているのよ。だって、お兄さんなら、きっとどんな時だって頑張ってくれるって信じられるからね。
 …………中々いないよ? 頼んだレッドローチを本当に食べる人って」
「そこ?」

 俺が苦笑いすると、姉さんは元気良く笑い声を立てた。

「アハハ! もちろん、他にも色々あるよ。人を見た目だけで扱わない所とか、素直なところとかね。お兄さんはいずれ何かやる男だって、私、わかるよ」

 俺は首の後ろで手を組んだ。決してこんなに褒められることじゃないとは思うけれど、信頼してもらえるのは悪い気がしなかった。
 それから姉さんは、温かな手でゆっくりと俺の頭を撫でた。

「たくさん人を頼りなね、お兄さん。自分ひとりで、すぐに強くなる必要なんか無い。そんなことは、できやしない。少しずつでいい、きちんと強くなっていきな。
 素直さと、優しさと、それから…………憧れることを、忘れちゃいけないよ。
 私、昔は「無色の魂」を編む仕事をしていたから、肉体だけで戦うってことが、どんなに心許ないか、わかっていたつもり。ましてやお兄さんは、オースタンの人だったんだもんね。表には出さなくても、きっとすごく苦労したでしょう。
 お兄さんは、本当に強い人だったね。魔法を根っから信じるって、サンラインの子にだって、実はすぐにできることじゃないんだよ。安心できる場所で、じっくりと力を見つめて、考える時間が必要なことなんだ。
 お兄さんはずぅっと昔から、目に見えないものをちゃんと尊敬して、自分の内に育んできたんだろうね。胸に確かな種を秘めていたからこそ、最後まで戦えたんだ。
 憧れはね…………魔法の種。子供じみた夢でも、愚か者の妄想でもないの。形は無くとも、紛れもない、あなたの一部。それが真に成長した時にこそ、ようやく、誰にも負けない、あなたの力になる。
 だからね、お兄さん。これからも、あなたの憧れを大切に守り抜いてね」
「…………わかった。…………ありがとう」

 俺は姉さんの微笑みを見、俯き、それからまたそっと目を向けた。
 姉さんはその間ずっと、穏やかに見守り続けてくれていた。どこか目元がクジラに似ている。

「あの」

 俺はもう一度、繰り返した。

「姉さん、ありがとう。俺…………頑張るよ」

 姉さんは大きく頷き、今度は両手で、ぐしゃぐしゃと乱暴に俺の髪を掻き回した。

「よし、その意気だ!! 全部終わったら、今度こそ遊んであげるからね!!」

 俺は照れてしまい、やっぱり黙り込んでしまった。

 * * *

 …………と、まぁこんな具合で、タカシの冒険は一旦は幕を閉じる。
 色々あったけれど、とても楽しかったなと、俺は次なる旅に思いを馳せるのであった。

(了)

ファンタジック・タカシ

 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
 そのうちまた、タカシの話を書くかもしれません。
 その時にはどうぞよろしくお願いします!

 水無瀬孝の霊体「コウ」が主人公の本編『扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>』http://ncode.syosetu.com/n9009dl/も、よろしければどうぞ。現在も大体週1ペースで連載中です。挿絵もあるので、ぜひ覗きに来てください!

ファンタジック・タカシ

とある晩、救国の「勇者」として地球から異世界・サンラインへと旅立ったニート時々フリーター、水無瀬孝(ミナセ・コウ)。彼は数々の苦難を乗り越える中で、魔法によって霊体と肉体に分離させられてしまった。 この物語の主人公は、水無瀬孝の肉体である通称「タカシ」。霊魂と魔法の世界で、魔法も霊体もない彼は、果たして生き残ることができるのか!? バトルあり、ギャグあり、シリアスありの、本格ファンタジー。 ※この小説は別サイトにて連載中の『扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>』http://ncode.syosetu.com/n9009dl/の関連作品となっております。用語や人名などはこちらが元ですが、本作ではあまり深い理解は必要ありません。ぜひタカシと一緒に、軽いノリで楽しんでもらえたらと思います。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-30

Copyrighted
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  1. 【1】もう一つの「サモワール」。魔法と幽霊の国の話。
  2. 【2】初めてづくしの大冒険。俺が守るべきものとは。
  3. 【3】俺の内なる獣と子供。信じたい夢。
  4. 【4】魔法の種。