夜明けが一番哀しい 新宿物語
夜明けが一番哀しい 新宿物語
(8)
フー子の長い髪が風にゆれ、彼女の背中を見せた姿が、異様なまでに暗い影をはらんでいた。
トン子はすぐにでも階段を駆け下りてそばへ行き、フー子の華奢な体を抱き止めたい衝動にかられた。だが、彼女は鉄柵に阻まれていて、それが出来なかった。
トン子は思わず大きな声を出していた。
「フー子」
フー子が自分の声を聞いて、とっさに海に飛び込んでしまうのではー、とトン子は恐れた。
フー子はだが、すぐに声のした方を振り返ると、トン子達のいる送迎デッキを見上げた。
トン子はとたんに緊張感のゆるみを覚えて、その場にへたり込みそうになった。
「なんだって、そんな所にいるのよ。何処から行ったの? こっちへおいでよ」
トン子は気を取り直して、ようやく言った。
フー子はなにも答えなかった。それでも黙ったまま踵を返して水際を離れた。
「おれ、寒くなっちゃったよ。車へ戻ろうよ。船がいなくちゃつまんねえや」
ノッポが元気のない声で言った。
「ピンキーと画伯はどこにいるの?」
安子が初めて彼等の姿の見えない事に気付いて言った。
「知らねえ、あいつら酔っ払いと中毒患者なんだから、どうしようもないよ」
「ねえねえ、画伯がさ、なかなかマンガが描けないもんだから、誰かに手塚治虫のマンガを一冊食べなければ、いいマンガなんか描けるわけないよ、って言われてさ、本当に食べちゃったの知ってる?」
元気を取り戻したトン子が、安子とノッポのあとを追い掛けながら言った。
「いつ?」
ノッポが、信じられない、といった声で聞いた。
「ほんとよ、あんたのいないうちさ」
安子が言った。
「こんなちっちゃな本だったけど、一ページ一ページ破って口に入れると、水を飲みながらどんどん食べちゃったんだよ。それであの人、おなかをこわして、一か月ぐらい蒼い顔をしていたんだから」
トン子が言った。
「信じられないね」
ノッポが、いかにも自分が正常な感覚の持ち主ででもあるかのように、気取って言った。
「あの子、マンガ家なんかになれっこないよ。あんなふうにしていたんじゃあ」
安子が見限ったような口振りで言った。
「でも、絵を描かせたらうまいわよ。さっさと描いちゃってさ」
トン子が言った。
「絵がうまいだけでマンガ家になれるんなら、誰も苦労しないわよ」
安子が言った。
「そうさ、マンガ家になるには想像力がなければ駄目だよ」
ノッポが訳しり顔でうけ合った。
「やだあ ! あれピンキーじゃない?」
トン子が突然、頓狂な声を出して指差した。
「ほんとだ、ピンキーだ」
ノッポが答えた。
ピンキーは階段の降り口のところで体をエビのように折り曲げ、腕を枕にして眠っていた。
「やだあー、ずっとあそこに寝ていたのかしら?」
トン子が大げさに驚きを表して言った。
「寒くないのかね、あいつ」
ノッポが言った。
「お酒に酔ってるから寒くないのよ」
安子が言った。
「だって、酔っぱらって寝ちゃってさ、凍死したなんて、よく新聞に出ているじゃん」
「それは真冬で、カチカチに氷がはる寒中の事よ、バカね」
安子が軽蔑したように言ってノッポを見た。
「そうか、それもそうだな」
トン子はピンキーに近付くとゆり動かした。
「あんた、こんな所で寝ていると死んじゃうよ」
ピンキーは眼を覚ました。コンクリートの上に足を投げ出して座るとぼんやりしていた。それからまたすぐに、うとうとし始めた。
「わたし達帰るわよ、置いて行っちゃうから」
トン子はピンキーの背後から両脇に手を入れて抱き上げた。
ピンキーはようやく、よろよろと立ち上がった。
「あんたも困った人ねえ」
トン子は世話女房のような口振りで言った。
階段を降りるとフー子が立っていた。
「あんた、あんな所で何やってたの? わたしなんだか、あんたが今にも海の中へ飛び込んでしまうんじゃないかっていう気がして、とっても怖ったわよ」
トン子は言った。
フー子は眼を伏せただけで答えなかった。
フー子にどことなく暗い翳があるのは、やはり家庭環境が影響しているのだろうか、とトン子は考えた。
トン子はいつだったか、確かに、無口なフー子から彼女の境遇を聞いたように思った。それとも、単に、自分が想像しただけだったのか?・・・・
それにしても、フー子はどうしていつも、あんなにお金を持っているんだろう? 彼女の父親はやっぱり、大きな会社の社長なんだろうか? いったい、フー子はあんなにお金が自由に使えるのに、なにが不満で夜中まで、ふらふら街の中をほっつき歩いているんだろう?・・・・
トン子は少し前を歩いて行くフー子の形の良い小さな尻を包んだジーパンのポケットには、いくらのお金が入っているんだろう、と考えた。
「あら ! 車がない」
突然、安子が立ち止まった。
先程、ピンキーが停めた場所に車はなかった。
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