砂漠の旅 31 32
試練が終わった。
父が去った後彼は激しく脱力した。そのまま2階に上がり、美しく重い香りの藍で染められた深い色のベッドに横になった。
しばし寝たのだろうか。目を開けて横になったままふと気づくとすぐ隣に「はかいしゃ」を名乗る例の女性がいた。椅子に座っていた。ただ座っていた。
「あれ?また夜ですか?」彼は訪ねた。あたりは真っ暗だった。
「君は父に会い、とりあえず病が治った。だから私と会う時、君の夢は夜であり続ける」女性の声は硬かった。
「なんだかそれを聞くと安心します」彼は言った。(疲れが完全にとれた)彼は思った。寝すぎた時のだるさもなく、ただ彼の疲れは取れた。まだ生きていたい、旅を続けたいと思った。そうせねば、ではなく、そうしたい、とただ純粋に思った。
「君の獣を君は醜いと言ったね。そんなことないと思うよ。そう思うのは私だけじゃないと思う。」彼女は窓の外の景色を見ながら言った。
「なぜ私がこんなことを言ったかわかる?」彼に視線を移していった。
しばし彼は天井に視点を移し考えた。
「わかりません。」
「君と喋ったとき、旅は外に頼る行為だ、と言ったでしょう?君はもう、頼るばかりの存在であることは嘘になりえる。」
「君は病を治し、生きる権利を得たとも言えるだろう。得てしまった。嘆いてばかり、はもう嘘になり得る」
「嘘になり得る」彼はその言葉をかみしめるように繰り返した。
「君は(かっこよく言うならば)壁をこえました」彼女は言った。
「でもいつ『嘆いてしまうような状況』に戻るか分からない。僕は外に頼るばかり、から手を離すことが怖いです。」
「君の病は心の問題でしょ?今後未知の何かがやって来るとしても、新しい何かに立ち尽くすことがあっても、君が壁を越えたということは君の心に生き続ける。」彼女は言った。
確かにあった、彼の痛みが、彼から「欠落」しているのを彼は心の中に見た。
「では僕はこれからどうなってゆくでしょうか。どうしてゆくべきでしょうか」彼がそう言ったあと、少しの沈黙があった。
「私は、君の病は美しいと思った。本当に、美しいと思った。」彼女は少し寂し気に言った。彼は病が治っていた。
「正直に言って、君の心は常に砕かれ続けていた。それは君にとって、意思を持てない君にとって唯一の必然だった。」
「青い人達の持てる、あの途方もない崩壊的な美しさは、途方もない必然から生まれるものなのかもしれないね」彼女は小さく暴いた。
「君は、少し成長したよ」彼女は優しく言った。
「ここからの話は私にも、未知だけど」と彼女は口だけにこりと笑って見せた。
「君はいつまでたっても、嫌われようとしている。無意識のうちにね。それは心を砕こうとしているからじゃない?」「その綻びの中の、その裂けめの断面の美しさが忘れられなくて。」
「でも、それもまた、外に頼る行為だ」「外が砕いてくれるのを『待っている。』」彼女は見抜くように言い切った。
「今までのあり方での、旅という『外に頼る行為』は君がどうしようもなく心を砕かれているから、途方もない必然があるから、容認されたんだと思う。」
「君は壁を越えたよ。君にはもう、『どうしようもなく』心を砕かれていない。だからたった今、君には『途方もない』必然も存在しない。」即座に彼女は「新しい必然が必要だね」と言った。
彼女からのヒントに彼は少しの沈黙をした。
「『外に預ける行為』、と『意思』」
親指と人差し指で閉じた瞼をぐりぐりしながら、聞き取れないくらい小さな声でぼそりと言った。
「あたり」
「君、詩を書くって言ってたよね。これ、結構いい題材になるんじゃない?」楽しそうに彼女は言った。
「ちょっと皮肉ってない?」彼は手を瞼から離し、彼女を見て楽しそうに少し乾いた笑いで答えた。
「あはは。そうかも。でももったいないよ。せっかくの前進を詩にしないなんて。」
「アイデアって、0から1の大事な作業なのに、世界に葬られて行ってて、なんか少し虚しくなります。」彼は笑った。
「どこだってアイデアはそういう扱いになりがちだ。」「大丈夫。君という価値も、いつかは忘れ去られる」「君、なんだかんだで生きるのへたくそだし」
「大丈夫、てどういうことですか。結構そういうこと言う人なんですね」彼は楽しそうに笑った。
「話が脱線しているね。その、『外に預ける行為』と『意思』って具体的に言うとなんでしょう?身近なところで言うと」彼女がひょいっと投げるように彼に質問した。
彼は(言いたくないなあ)と激しく苦笑いしながら思った。言った。
「恋愛、てやつですか」「受け身ではあり得ない、恋愛というやつですか」
にかっと彼女が笑った。
砂漠の旅 32
しかしはかいしゃは、はかいしゃとしての役割を淡々とこなした。
「君の病は治ったけど。」
「君の言う、『プラスチックの泥』は君の体に残っているし、それは多分一生抜けない仕様になっている。」
「なぜですか?」
「それは君がそうしたいと決めたからだ。そうあるべきだと思って、そうしたいと君が決めた。」
はかいしゃは説明を続けた。
父が去り、彼が脱力の中で横になった後、彼に些細な変化があった。
彼の体から脂質が消えた。その代わりに、全身にもやしが生えた。
はかいしゃは淡々と役割をこなした。ひたすらもやしを逐一手で払い落し、彼から切り離した。表情は髪に隠れていた。
それを獣が見ていた。
彼は見ていなかった。
獣は彼の「意思のなさの受け身」に殴られ続けているのかもしれない。
獣は目を見開いた。焦点を合わせた。奥に光る深い緑と縦に細長い真っ黒な黒目だった。美しい瞳だった。獣は大きな欠伸をした。奥に大きな犬歯と健康的な歯茎が見えた。獣は泣いていた。何もできない自分を嘆いた。獣はバサバサと体についた滴を払うように体をふるった。沢山の鱗がこぼれた。鱗の小さな隙間からふさふさのなめらかな毛が見えた。長い長い尻尾が生えた。大きな耳は力を抜いたように見えた。「フイ ヒョイ チョイ」獣は鳴いた。
「外より、近さだろう?」獣が自分に言い聞かせるように言った。
バリバリといとも簡単にプラスチックの泥を食らった。
「僕には何が出来ますか」「何で返済されますか」説明を聞いて彼はまず聞いた
「思いつく限り三つ、選択肢が存在すると思う。」
「『君ともう、会わない』つまり私が君の存在を忘れる」
「『君が、私を愛する』それは私が不快でなければ返済に近い。これが一番だろうね。まあ君に勇気も力もあるのか疑問だし、沢山の煩わしさがある。」
「もう一つは少し面白い。君には珍妙な新しい病が生まれている。それを行使して返済に当てるというものもある。」
「新しい病ですか」彼は言った。
「君の獣、プラスチックの泥、食べたでしょう?それで、君の獣の体の中に、梅ゼリーが巡っているよ。」
砂漠の旅 31 32
この一連の文章における、「頼る」の言葉の中身や定義?が所々ぶれてます。「預ける」もそれに合わせてちぐはぐです。まあ気にしないでください。