レイニー・ドライブ(作・さよならマン)
お題「雨」で書かれた作品です。
レイニー・ドライブ
フロントガラスを濡らす大粒の雨の滴は、ワイパーが行き来する間の僅かな隙を狙って猛烈に押し寄せて来る。大型トラックのテールランプが水に溶かしたように赤く滲み、横を追い越すバイクの跳ね上げた水飛沫が派手な音を立ててドアガラスに打ち付けられる。
憂鬱な雨は、僕の抱えるその他いっさいの細かい憂鬱をひとまず洗い流してくれる。だから僕は雨が好きな方だ。
さっきから人通りの多そうな繁華街の周辺をぐるぐる走り回っているのに一向に客がつかまらないことも、いつもなら幾分気が滅入るけれど、今日はまるでどうでもいいことのように思える。どうせ人が乗らないのなら、勝手気ままに雨の日のドライブを楽しんでいれば良いだけだ。
しかしそんなことを思ってみた矢先に、市立美術館の階段の前に見知った男と女が背伸びして立ち、元気に手を振っているのを見つけてしまい、僕はため息まじりの笑いを零した。わざと目の前を通り過ぎるふりをして、ちょっと離れて車を停めた。
ドアを大胆に開け放ち、車体を揺さぶる勢いで梨奈が乗り込み、遼もその後に続いてきた。それから梨奈はわざわざ遼越しに体を目一杯伸ばしてドアを掴み、バタンと大きな音を立てて閉めた。今日は一段とせっかちなご様子だな、と思いながら、電光表示を空車から回送に切り替えた。
「久しぶりー!いやーっ、ひどい雨だよー。今年は空梅雨だーなんて思ってたらさー」
「おいおい、普段からあんな停め方なのか?クレーム入るぞ」
さっきまで雨音だけが響いていたはずの車内が、嘘のように騒がしくなる。「まあね」と軽く返事して、車を動かす。バス停に立つ傘を差した女子高生が怪訝な目でこちらをじっと見ていたけれど、そういうのは慣れているから大して気にならない。
「なあ、やっぱり回送じゃまずいんじゃないか。せめて賃走とか、でなきゃほら。貸切とか」
「じゃあ、ちゃんと払ってね。今までの分も」
梨奈が笑って遼の肩を小突く。
「だって!どーすんの?あたしたちお金ないよ」
この二人の漫才みたいなやり取りをルームミラーで見ていると、つい前方に気が向かなくなってしまう。こんな風に、昔からちょっと離れた位置で笑っているのが好きだっただけに、このシチュエーションが僕にとってはちょうど良い。いつも二人が前に座るとき僕は後部座席に、僕が運転するときには、二人は子供みたいに仲良く並んで後ろに座っている。
街を遠ざかり、寂れた商店街を横目に過ぎて、小さな裏道から住宅地へと入っていく。もう何度も二人を乗せているから見慣れた景色だけど、ここを走るたびに不思議と懐かしさを覚える。赤茶けたトタン張りの古い家に、薄汚れた白い壁のアパート、そこには小さく「ヘブン宙峰」という文字があり、登下校ではそれが妙に印象的だった。小学校の低学年の頃によく遊んでいた友達の家を通り過ぎ、公園の植え込みを横切る頃には、車内の雰囲気はさっきよりも少しだけ落ち着いていた。
「その傘、ずっと使ってるよね」
ミラーの端に覗く、けろけろけろっぴの折りたたみ傘を見て僕は言った。梨奈が小さな頃から持っているやつだ。
「へ?ああ、これ……昔ちびかった時、これが欲しくてスーパーでめちゃくちゃ泣いたんだよ。寝そべっちゃって叫んで暴れるくらい」
「そんなに好きだったのか。その、カエル」と、頰杖を突いた遼が横から言った。梨奈はうーんと唸って妙にまじめな顔をして答える。
「そう言われたら、べつにそういう訳じゃないんだよねー。けろっぴもよく知らなかったし。なんであの時、あんなに騒ぐほど欲しかったんだろ?」
「まあ、小さい時ってそういうもんだよ」
グレーに沈んだ車内の中で、その折りたたみ傘は唯一、雨の中に咲く花のように鮮やかな色彩を放っていた。
それは僕に、この時期にお寺の入り口に咲いているであろう、色とりどりの紫陽花を連想させた。
「紫陽花」
僕がそう口にすると、梨奈はまん丸い目を運転席に向け、遼は眠そうな遠い目で顔を上げた。
「見に行くか」
二人の返事を聞くよりも先に、ウインカーを右に入れた。「いいねー」「ああ」と、ささやかな賛同の声が上がった。車は曲がりくねった狭い道に入り、アロエの鉢や猫よけのペットボトルを避けながら進んでいく。こういう運転にも慣れたものだ。
「運転上手くなったよねー。前はあんな下手くそだったのに」
「もとから上手かったよ」
「いやいやいや、覚えてないの?伊豆行くとき、あんた崖から落ちかけたじゃん」
「ああ」遼が笑いながら低い声で言った。「あんときはマジで、死にかけたよな」
一瞬、車内が静かになり、代わって勢い良く降り続ける雨の弾ける音に支配された。
「あはははっ」
体勢を崩して、梨奈が笑った。
「下手なのはお互い様だっての」と僕は肩をすくめ、車を停めた。「着いたよ」
お寺の門の両側に、石の塀を乗り越えてたくさんの紫陽花が咲いていた。咲くという言い方は、あるいはあんまり似合わないかもしれない。紫陽花たちは初めからずっとそこに隠れていて、雨の時期になるのを見計らって一斉に姿を現したみたいだった。
「すごい。思ってたよりきれい」
けろっぴの傘を差した梨奈が車から降りるなり、飾り気なくそう言った。
「なー」
普段あまり感嘆することのない遼も、紫陽花の多さと色の鮮烈さに声を漏らす。
紫陽花は、水色の花や、桃色の花や、紫色の花がそれぞれ同じところに集まっていて、微妙な濃度の違いがきれいなグラデーションを作っていた。それは例えてみたら……なんと言えば良いか…………
「なんか、モンスター、って感じじゃない?」と梨奈。
遼が僕よりも先に「モンスター?」と反応した。
「だって、色がさ。なんかこう、可愛いモンスターって感じ」
突拍子もないが、言われてみればそんな風に見えないこともなかった。一応「確かに」と答えておいた。
「ねー!」
「なんでそうなるんだよ……」
その時、ビニール傘を差した住職が門から出てきて、会釈をした。僕らも会釈した。
「なにか、ご用ですか」
「ああいや、紫陽花を見ているだけなんです。ちょうど良い時期なので」
「すごくきれいですねー」
「それはどうも。ありがとうございます。……おや、そちらは……」
そう言って、住職は遼の方に手のひらを向けた。
「お連れの方ですかな」
「あっ……はい、どうも、そうです」と、遼はたじたじ返事をした。人見知りは相変わらずのようだ。
住職はにこやかな表情でお辞儀をしながら、ゆっくり「こんにちは」と一言口にすると、門の方へ歩いた。
「それでは。雨が強いので、運転には気を付けてください。くれぐれもね」
そう言い残して、住職は境内へと戻っていった。遼はその後ろ姿を見つめた後、僕らに向かって言った。「知ってるのか?」
「まーねー」と、梨奈は歌うように答えた。
「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」
僕はそう呟き、運転席に戻った。二人はさっきほど乱暴ではない乗り込み方で、後部座席に座った。
「出発っ!」
梨奈が声を上げる。遼は虚ろに窓の外を見ながら何かを考えているようだった。
「どうかした?」
ハンドブレーキを下ろしながら声を掛けると、遼は「いや」と呟いた。「どうでもいいことだよ」
「なーに?」
「いや、なんか……俺もあの坊さん知ってるような気がしてさ」
それを聞くと梨奈はふっと笑って、「ふーん」と応えた。
「そりゃあ、まあ近所のお寺だし」と僕は言ってみた。
「まあ、それもそうだな」
遼はそう言い、とりあえず納得したようだった。
曲がりくねった道を再び抜けて、今度は遼の家を目指していく。仕事をさぼっているという感じも、もうほとんど残っていない。どうせ今日は客が少なかったんだし、また別の日に頑張れば済むことだ。仮にそれじゃ済まなかったとしても、そんなのは大した問題じゃない。生きていて直面する問題なんて、所詮、些細なことばかりだ。この二人を見ていると自然とそんな気分になれる。
「最近なあ、記憶がぼけてるんだよ」
遼は窓の外を見たままそう言った。なにそれ、と梨奈が笑った。
「最近ってか、けっこう前からかもな。それすらよくわかんねえんだけど、何となく頭がボーッとしててさ」
「それはあれだよ。五月病ってやつ」
「そうか。まあ今、六月だけどな」
雨は弱まるどころか、どんどん強くなっているように思えた。今まで降らなかった分を一気に解放したとしても、こんなにも大量に溜め込んでいたのかと思えるような、長く激しい雨だ。
「そろそろだね」と、梨奈が言う。それからまもなく、遼の住む一軒家に到着した。前は二人ともアパート暮らしだったけれど、今はちゃっかり実家に戻って暮らしている。
「ありがとな。クビになんなよ」
「じゃあ次は代金用意しといてね」
遼は何も言わずニヒルに笑って、庭に入っていった。犬が尻尾を振って吠えながら、飼い主の帰宅を喜んでいた。
「さて、あと一人」
「おねがいします」
住宅地をさらに奥へと進み、山の方へ向かっていく。
「やっぱりあいつ、気が付いてないんだな」
「うん。ま、遼はそーいうとこあるから」
道の途中で、雨の中を走る一人の男がいた。三十歳くらいで、スーツ姿だった。男はこちらに気がつくと、慌てて手を上げた。
「どうかしましたか」
一応車を停めて、声を掛けた。
「ああ!実は、急ぎの用でして!乗せていただけませんか」
僕は軽く梨奈に目配せをして、彼女がうなずくのを確認してから、表示を回送から賃走に切り替えた。
「どうぞ」
「どうもすみません!ありがとうございます」
梨奈はそそくさと動いて客の座るスペースを空けてくれた。男は目的の住所を告げて乗り込み、コウモリ傘を畳んで座り込むと、胸ポケットから取り出したハンカチで濡れた額や頬を拭った。
男の目的地はすぐ近くの民家だった。彼は司法書士で、クライアントに捺印を貰いそびれていることに気がつき、急遽雨の中、自宅を飛び出してきたところだという。家の車で奥さんが買い物に行ってしまったらしい。
男の隣で、梨奈は始めおとなしく座っていたけれど、途中からふざけて「雨に唄えば」を口ずさみ始めた。しかも歌詞が分からないところばかりで、ほとんど鼻歌だった。僕は力無げに笑うしかなかった。
「どうしました?」
「いえ、こっちの話で」
やがて目的の家に着き、男は焦りつつ代金を払い礼を言うと、玄関めがけて走っていった。
「お客さん、来てよかったね」
梨奈がいたずらっぽくにこにこしながら言った。
「全くこっちが焦ったよ」
ぐるりと回って道を戻し、回送のタクシーは雨を照らして進んでいく。もうじきに日も暮れる頃だ。
「遼は、あのままでいいと思う?」
出来るだけ何気なく、そう聞いてみた。
「んー。でも、そのうち思い出すかもしれないよ?」
「思い出さなかったら?」
「それはそれで、いいんじゃないかな。こうしてたまに、一緒にドライブとかしてればさ」
ドライブ。あんなことがあってタクシー運転をやっている自分も、考えてみれば変なものだと思う。だけど今になってみれば、もはやあれも一つの思い出のような出来事にしか過ぎない。
伊豆旅行の帰りに、遼は車のハンドル操作を誤って、下りの加速がついたまま山肌のコンクリートに派手に突っ込んだ。レンタカーの前半分はほとんどペシャンコ。結局助かったのは、後部座席に座っていた僕だけだった。
「思い出したら、やっぱりショック受けるかな」
「そのときは、あたしたちがいるよ。大丈夫だって」
梨奈のポジティブシンキングには根拠はないものの、昔から奇妙な説得力がある。
「そうだね」と、僕は応えた。
やがて山のふもとあたりまで来ると、道の突き当たりに、一軒の立派な和風建築が現れた。梨奈の住む家だ。
「ありがと!じゃ、まったねー」
梨奈はドアを開け、折りたたみ傘を広げると、車から降りて軽やかに歩いていった。
「シーングインザレーン…………ふーんふーん、ふふーんふふーん…………」
さっきはああ言ってたけど、なんだかんだであれ、お気に入りみたいだな。
けろっぴの傘を回しながら歩く姿を車窓越しに眺めて、僕は内心そんなことを思っていた。
レイニー・ドライブ(作・さよならマン)