ネコ

カーテンが風によって揺れる。その向こうに眠そうにあくびをする猫の姿があった。
その猫は、悲しいだろうなとふと思うのだ。
自由という存在を知らないが故に自分の所在を知る術もないのだから。
向こうの家の少年はクロと呼ぶ。毛の色を取って付けただけの名前だ。
そして、さらに向こうの家の少年は白と呼ぶ。理由は、その猫を見ていると心がしろくなるようだからだと言っていた。
その猫は、あたかも分身でもしているかのように誰かの心にいるのだ。
悲しいだろうなと思う。その猫はその心に自分の存在を聞く術を持っていないのだから。

私の心を空が読んだかのように雨が降り始めた。
その猫はニャーと一声、溜息のように漏らし颯爽と消えて行った。

私は、雨の匂いに少し戸惑いながら窓を閉めた。
唯一猫の所有物である声を貰ったかのように感じたその響きがいつまでも耳から離れなかった。
悲しいだろうなとまた思う。その猫の所有物は無いに等しいのだから。
その庭も、そして猫を昼寝に誘う太陽もまた、誰かの物であり、誰のものでも無いものなのだから。



私はその猫をネコと呼ぶことにした。その猫には固有名詞など要らないかのように思えたからだ。代名詞という共有できるもの一つあれば、その猫は悲しみという枠の中に入ったまま私の心にいるのだから。
それは、不幸とも取れるが、最大の幸福ではないかと思うのだ。
悲しみの枠の中にいる限りネコは、して貰えるという立場に自動的に置かれているのだから。
そして、また眠そうに欠伸一つすれば、この庭に寝床を貰えるのだから。
そして、その権利を主張しなくても、義務を果たさなくても、そして、意味あることを何一つしなくてもネコはネコのまま時間を過ごせるのだから。

だからこそ、その猫は悲しみの枠を飛び出さないのだから。



テレビからニュースが流れていた。その内容は近日中に台風が接近するというものだった。
私の頭の中に浮かんだのはネコだった。
外に洗濯物を干しているかのように慌てて考えている自分に少しだけ戸惑った。
悲しみの枠の中にいた猫が、どうしてか悲しみと一体化しているかのように感じたからだ。


そして、私はある決意をした。代名詞のまま距離を取ってきたその猫を私の領域に入れることにしたのだ。
その訳は簡単であるようで少しだけ私の何かを悩ませた。
本当にいいのかと考える前に悲しみを受け入れるかのようにその猫を受け入れていた。

その猫は、毎朝決まって5時に鳴く。悲しみが泣いているかのように。
その声で目が覚めると、ネコは決まって鳴き止む。
その時ふと思う。一体何を訴えたかったのだろうと。
けれど、それを知る事は許されない事であり、知らうとしないことが私とネコの暗黙のルールなのである。
だからこそ、私はこの鳴き声に蓋をするのだ。
ネコの望みであるかは知らないが、ミルクを差し出すのだ。
きっとそうであるだろうという確信めいたそれを無駄に信じて。



雷の音が響いた。
ネコの毛が逆立っている。恐怖心と言えるものがネコを襲っているのだと感じた。
その毛を直すかのようにネコを撫でた。
ネコは安心したようにまた欠伸一つし、目をぱちぱちさせている。
一つ一つの仕草が、ネコの所有物であるかのように私には思えるのだ。
見た目を所有しているネコは私とは違い強い何かを持っているのだ。
自由など知らなくても、自分の存在など知らなくてもネコはネコでいることしか出来ないのだから。

ネコは白でも黒でも、何でもあり、そして、何でもないのだと私はネコの隣で欠伸を一つし、また、ネコの毛を撫でた。
ネコの所有物に触れるかのように、そっと優しく。
そして、ネコの所有物になろう自分自身の心も撫でるかのように。
そっと、優しく。



台風が去った今、私はネコの所有物である意味をなくしたのだ。
そして、ネコはまたクロにも白にもならなければならないのだ。

ネコとしていたこの日々の中でも、またネコはネコとして居られない部分を持っていたのだ。

悲しみの枠の中にいるネコの背中を見つめ、私は揺れるカーテンの向こうにネコを預けた。

誰にというより、その猫の居場所ともいえる数えきれない人の心に。
悲しみの枠なしに、猫が自分の姿を写せる心に出会える事を願いながら。
尻尾が少しだけ上がったように、猫の所有物が少しだけ微笑んだかのように見えた私の心も、また、誰かの所有物であり、誰の所有物でもないかのように。

カーテンが揺れるたび、ネコは固有名詞を振り払って遠くに消えっていた。

己という概念さえ所有しないその猫の背中はありったけの輝きを放ちながらそっと静かに私にネコという固有名詞を返して颯爽と消えていった。



そして、またテレビからニュースが流れる。
桜が咲くという季節のお知らせが壁を伝って耳に入る。
その猫の上にも、また誰の所有物でもない桜が咲いているのだろうと。

そして、今日もまた、猫は欠伸一つ残し、誰の所有物にもならないで生きているのだろうと
数えられない星を見ながら、私は見えない何かを探している。
当ても無い私だけの所有物とでも言える何かを。
猫の残した欠伸一つに。

ネコ

ネコ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-25

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