kill

(もうっ!イライラする!)
 苛立ちにまかせてエンターキーを打った所で、誰かに見られている気がしてモニターから目を上げた智美は、ようやく自分に視線が集まっていることに気づいた。どのくらい前から見られてたんだろう、一気に怒りが吹き飛んだ代わりに、みるみる顔が赤くなってくるのが分かる。
「失礼しました!」
思わず立ち上がって頭を下げる。一拍おいて頭の向こうでふっと空気の緩む気配、そして再びどこからともなくキーボードを打つ音が聞こえてきた。恥ずかしさに頭を上げることもできず、うつむいたまま椅子に座り、両手で口元を隠してそろそろとため息をついた。
 終業時間をとうに過ぎた社内は、智美の所属するシステム部以外の照明は全て消されていて、しんと静まりかえったその場所から、システム部の物音だけが妙にはっきりと響いてくる。窓を見てみると外はもう真っ暗で、夜空を覆った六月のどんよりした雲の下で、風に吹かれた街路樹と街灯が怪しげな影絵を作っている。
 社内のコンピューターシステムの運用を行う智美の部署に、システムトラブルの連絡が入ったのが、これから休みになろうという金曜日の終業時間直前だった、二時間ほど前。システム部の社員達は居残りで対応することになったが、新入社員の智美は退社を許可された。普段なら迷わず退社させてもらうのだけれど、その日ずっと智美を苛立たせていた朝の出来事のせいで、家にまっすぐに帰りたくなかった智美は、残業させてもらえる様に申し出たのだった。

「宮下さん」
 向かいの席から高沢に呼ばれた。
「はい!」
遠ざかりかけていた緊張が再び戻ってくる。高沢はコンピュータシステムの知識がない新人の智美の教育担当で、男性ばかりのシステム部では智美の他に一人しかいない女性社員なのに、智美は無口で感情の読み取りにくい、三歳年上のこの先輩が苦手だった。
「無理しなくてもいいのよ?」
「大丈夫です。早くお仕事覚えたいですし、やらせてください」
そう答えると、微かに高沢の瞳が揺れた様な気がしたが、一瞬で黒いセルフレームの眼鏡の奥に隠れてしまった。何かを考えているのか、すぐに返事はないまま高沢は智美を見ている。心の奥を見透かされている様な気がして決まりが悪い。何か言った方がいいのかなと思い始める頃、ようやく高沢が口を開いた。
「じゃ、集計プログラムの動作確認をお願いします。運用マニュアルは納品物のキャビネットの一番下の段」
「はい」

 ようやく拘束から解かれた様な気がして、立ち上がって指示された戸棚に向かい、鍵がかけられているスチールの扉を開くと、探し物は教えられた通りの場所に収まっていた。思ったよりも厚いそのファイルを取り出してみると、やはり思ったよりも重かった。こんなの読んでちゃんと私に分かるのかな、不安になりながらも落とさない様にしっかり抱えて自分の席みに戻ると、高沢が
「動作ログの確認方法の所を見て」と手短かに指示をくれた。
目次から目的のページを探して読み進めて行くと、手順は意外と簡単そうに見えたので、少し気を取り直して書かれている通りにコンピューターを操作したが、動作記録を見つけた所で、軽いめまいがした。(すごい量……この中からおかしい所を探すの?でも、やらないといつまでも終わらないよね)覚悟を決めてモニターに目を落とした。

 画面に映し出された文字をひたすらに追っていく。ほとんど手を動かさない単調な作業なので、ともすれば気がそれて別のことを考えそうになってしまう。だめだめ、これ以上ひんしゅくを買わない様にがんばらないと、自分に言い聞かせながら目の前の文字の行列に集中しようとするが、ちょっとした拍子に朝の事件がよみがえってきて智美を苛立たせる。朝から何回反芻しているんだろう。どうしたらこのイライラは収まるんだろう。そんな智美の気持ちとは関係なく、文字の羅列は規則的にどこまでも果てしなく続いている様に見えた。

 大きなサッカーの大会が行われているらしく、智美と一緒に暮らしている恋人の隆史は、毎晩の様に深夜の中継に夢中になっていた。サッカーに興味のない智美には、普段ならとっくに眠っている時刻の放送に付き合う理由もないので、先に休む事にしていたが、隆史は連日の夜更かしで朝起きられなくなってきていた。好きなことを楽しんでいるんだから、と始めのうちは優しく起こしてあげることもできたけれど、毎日朝寝坊を繰り返されると、次第に許せるものも許せなくなってきていた。

 その朝も、やはり隆史はいくら起こしても一向に目覚める様子がなく、いい加減起こすのもばかばかしくなってきた智美は、朝食の準備を始める事にした。キッチンに立つと、窓から見える近所の大きな木が、厚い雲の下で体を揺らしていた。(今日は何回起こしたら起きるのかな。なんか起こすのも疲れちゃった)火にかけた鍋の蓋がみるみる曇っていった。
 朝食の支度をする間も何度か声をかけたけれど、隆史は起きる気配がなく、朝食が出来上がる頃には言葉もトゲトゲしくなってきていた。
「ねぇ、もう七時十五分だけどいいの?」
「うわっ、やっべぇ」
途端に飛び起きて慌しく身支度を始める隆史を見て、出勤時間にはまだ余裕があるはずなのに、どうしてそんなに慌てるんだろう、と不思議に思っていると、スーツに着替えた隆史は玄関に向かっていく。そのまま出て行こうとする隆史を慌てて呼び止めた。
「ちょっと、朝ごはんはどうするの?」
「食べてたら間に合わないから」
「どうして?いつもこんなに早く出ないでしょ」
「今日は早い時間に打ち合わせが入ってるんだ。行ってくるね」
そのまま家を出て行こうとする隆史に、ついに智美の怒りが爆発した。
「早く出るんだったら言っておいて!朝ごはん食べられないなら、何か言う事はないわけ!?」
「ごめん。でも、もう時間ないから出ないと」
「毎日何回も起こしてるのに起きないのは誰!?起こしてって頼むんだったら、ちゃんと起きて!私は隆史くんのお母さんでも家政婦さんでもないよ!!」

 どんなに怒ってみても、隆史を遅刻させる訳にはいかないと冷静に考えられる自分もいて、無理やり暴れる気持ちを抑えこんで隆史を送り出したけれど、ぎりぎりの所で閉じ込めた感情は、ふとした事でその扉から漏れ出してきて、一日中智美を苛立たせる事になった。

 隆史のことを思い出して、また腹立たしくなってくる。(遊んでて毎日朝寝坊して、その上せっかく作った朝ごはんも食べられないってどういうことよ!)またキーボードを叩く手に力が入ってきたことに気づいて手を止めた。深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。もう一度気持ちに蓋をしてモニターに目を戻すと、延々規則正しく並んでいる様に見えた文字の羅列が、その日の夕方四時を境に変わっていることに気づいた。
「高沢さん、ログがおかしい所見つかりました」
「見せて」
 すぐに手を止めて立ち上がった高沢は、智美の隣りに来てモニターを見た。
「この今日の四時くらいの所です」
高沢はじっと智美が示した所をみた後、
「もう少し見てみるね」と自分の席に戻って行った。高沢がキーボードを叩く音が聞こえて来る。タイピングの音にも人それぞれに個性がある事と、軽やかで繊細な高沢のそれが嫌いではない事に最近気づいた。だからといっても、高沢その人が苦手なことに代わりはないのだけれど。そんなことを考えていると当の本人は、
「このプログラムのエラーが原因みたいね。作った業者さんじゃないと直せないけど、月曜にならないと先方も対応できないでしょうし」と相変わらずの無表情で智美に言った後、少し考えて
「部長、宮下さんが見つけた集計プログラムのエラーが障害の原因になっているみたいですけど、製作元の対応は月曜日以降になるでしょうから、それまでプログラムは止めておいていいですか?」とシステム部長の嶋田に聞いた。

 嶋田は相当な切れ者であると言う評判なのだが、飄々とした普段の姿しか知らない智美にはお茶目なおじさんという印象の方が強い。
「お、あの集計プログラムが原因だった?それなら影響もほとんどないし、対応が決まるまで止めておいて下さい」と応えた嶋田は智美を見て、
「ご苦労様。宮下さんが残ってくれたお陰で、早く原因が見つかったよ」と言った後に「でも、キーボードには優しくしてあげてね」と加えてニヤッと笑った。
「はい、気をつけます」
真っ赤になってうつむいた智美に、他のシステム部の社員達も声をかけた。
「宮下さんが見つけたの?集計プログラムなんてよく気づいたなぁ」
「せっかくの金曜なのにどうなるかと思ったけど、お陰でそんなに遅くならずに帰れそうだね」
原因が見つかって安心したからか、嶋田の冗談が功を奏したのか、余裕を取り戻して来た他の社員達からは先程までの緊張感は薄まり、部内の空気も和らいできた様だ。

「あの、私、高沢さんに言われたことをしただけなんです」
 そう応えていると高沢が言った。
「じゃあ宮下さん、このプログラムを止めてみましょう。手順はその運用マニュアルにあるから」

立ち上がって再び自分の席にやって来る高沢を見ながら、皆が冗談を言ってる時でも高沢さんはこんな調子なのね、などと悠長に考えていたが、今までやったことのない作業をするという事に気づいた途端、ひゅっと胃がすくんで手に嫌な汗がにじんだ。「コンピューターは言われた通りの事しかしない。もし間違えて命令を出しても間違いを正してくれたりはしないから、取り返しのつかないことになる」システム部に入った時から繰り返し言われてきたことが頭をよぎる。とにかく何をするのか確かめる為に分厚い説明書をめくっていくと、停止方法の項にたどり着く、説明に長くページが費やされているが実際の手順は至って易しく、命令文をひとつ入力するだけで済む様だ。これなら出来そう、と安心した所に高沢が声をかけた。
「それ程難しくないから」
「はい」
一文字一文字慎重にキーボードを打って命令文を入力し終えると、今度はコンピュータに実行指示をだす前に入力した内容を何度も確認する。
「大丈夫。あってる」
こう言う時に抑揚のない声で言われると焦ってしまう。
「実行します」
 恐る恐るエンターキーを押した。入力した命令が実行される。が、すぐに結果が表示されない。何か問題が起こったのでは、と不安になるのに十分なくらいの時間がすぎた後、一気に画面が長々と不備を伝える文章で覆い尽くされた。
「大丈夫よ。ちゃんとコマンドはあってた」
すぐに高沢が言ってくれたお陰でどうにかパニックにならずにすんだが、自分でも分かるくらいに混乱している。
(マニュアル通りにしたのにどうして?何か大変な事になっていたらどうしよう。)
隣りを見ると高沢の目は文章を追っている。智美も同じ様にしてみるが、ほとんど意味が分からない。智美にとってはまるで永遠の様な重苦しい沈黙の後——恐らく実際の時間は数秒だったろうが——メッセージを読み終えた高沢が言った。
「何か問題が起こった訳じゃなくて、プログラムに障害が起こってるから普通の手順じゃ止まらないって言ってるみたいね」
つまり智美の操作が原因で何か問題が起こった訳ではないということだ。
「よかった……」
安堵している智美の隣りで高沢はもう次の行動を起こし、説明書を取り上げてぱらぱらとめくっていったと思うと、嶋田にこう言った。

「部長、運用マニュアルにある手順だともう止まらないみたいですから殺してもいいですか?」
(殺す?)
 突然の物騒な発言に驚いている智美をチラリと見た嶋田が、システム部全体をゆっくりと見回した後でそれまで聞いたことのない様な深刻な声で許可を出した。
「こうなった以上仕方ないね、殺しましょう」
先ほどまでの和やかな空気はどこへやら、急に静まりかえった部内がただならぬ雰囲気に包まれる。
「はい」
無表情に返事をした高沢が智美を見た。隣りに立っていて座っている智美を見下ろす格好の高沢からは、いつも以上の圧力を感じる。
「あ、あの、殺す……って?」
高沢はじっと智美を見つめている。
「このプログラムの製作者」
「え?」
システム部の社員達もじっと智美を見つめている。
「宮下さん、お願いします」
「えぇ?!」
(コロス?ワタシガ?!)思わず大きな声が出てしまった。
「そんなこと出来ません!」
思わず立ち上がると同時にシステム部がどっと大きな笑いに包まれる。あっけにとられてキョロキョロと周りを見回していると、全く表情を崩さないままの高沢が言った。
「冗談。殺すって言うのは止まらなくなったプログラムを強制的に終らせること」
「え?え?」
ますます笑い声が大きくなった。いつも通りに戻った嶋田が大笑いしながら言った。
「ごめんね。殺すって言う話になったら宮下さんを引っかけてみようって相談してあったんだ。いや、本当に予想通りの反応だね」
(それって、皆で私の事をからかってたってこと……?)

 ようやく状況は理解できたが、怒り出したい様な安心した様な、色々な感情が混乱してどうすればいいのか分からないでいると、隣りで高沢がそっぽを向いていることに気づいた。よく見ないと分からない、微かに肩を震わせているその様子が、笑っているのだと分かると、急におかしくなって来てついに智美も笑い出してしまった。
「もう、ひどいです」
笑いながら嶋田に抗議すると、
「本当に申し訳ない。こんなに見事にひっかかってくれるとは思わなかったよ。それにしても、高沢さんが名演技だったね」
嶋田に続いて他の社員達からも謝罪があって、システム部がまた和やかな雰囲気になった後、一通り部内が落ち着いた所で高沢が言った。
「今度こそプログラムを止めましょう。今回は私がやるから見てて下さい。キーボード借りてもいい?」
「はい」
高沢に席を譲る為に立ち上がろうとすると
「このままでいいわよ」と制された。

 キーボードを高沢の方に寄せて、これからの作業を記録する為にメモを用意すると、キーボードに高沢の手が伸びて来た。考えてみれば高沢の手をこんなに近くで見るのは初めてのことだ。マニキュアをしていない事には気づいていたけれど、高沢その人をそのまま表している様な、短く揃えられた飾りのないほっそりした指先を見て、きれい、と感じた。
「まずは止めたいプログラムのプロセス番号を調べて——」
高沢が説明と共にコンピューターを操作する。キーボードの上を流れる様に滑る指が独特の調べを紡いでいく。
「——さっき調べたプロセス番号が必要になるの。間違えたら違うプロセスが止まることになるから気をつけて」
「kill。本当に殺す、なんですね」
メモをとりながらも意識は高沢の手元に向いてしまう。
「——はい、これで完了。メモはとれた?」
「とれました。ありがとうございました」
小曲の演奏を終えた高沢が自分の席に戻っていった。もう少しその音を聞いていたかった様な、その指先を見ていたかった様な、名残惜しい気持ちになる。
「よし。各自手順にそって障害復旧の確認をお願いします。確認が完了したら障害復旧の連絡を出すので、念の為にその後十五分くらい様子を見て問題なさそうだったら終わりにします」
嶋田の声で止まっていた時間が流れ出した様に全員が一斉に作業を始める。システム部はキーボードを打つ音で満たされていった。

 帰り支度を終えて事務所を出た智美は、エレベーターを一人で待っている高沢の後ろ姿に気づいて、このままエレベーターに乗るかどうか戸惑った。その日の出来事で少し高沢と親しくなれた気はしたけれど、エレベーターで高沢と二人きりになったら間が持たなそうとも考えた。そうこう考えている間に振り返って智美に気づいた高沢が、
「お疲れ様」と言った。
「お疲れ様でした」
エレベーターの扉が開き、先に乗り込んだ高沢が待ってくれたのでお礼を言って後に続いた。扉を開くボタンを押していた人差し指が、扉を閉じるボタンに続いて一階のボタンを押すと、ゆっくりと扉が閉まっていった。

「今日はありがとうございました。新しい事、色々覚えられました」
「どう致しまして」
 下っていくエレベーターの中で、まずは一番間違いなさそうな話を選んだ。智美の方に振り返った高沢と向きあったけれども、この話題はこれ以上先がないことに気づいて、次の話題を探そうと懸命になった。
「私の事、からかおうっていつ決めたんですか?」
「宮下さんが入ってくる前。次の新人さんをって部長が」
 元々おしゃべりが得意ではない智美が、これ以上の会話を諦めかけた時、急に思い出したことがあった。
「そう言えば高沢さんの手ってきれいですね。何かケアとかされてるんですか?」
急に高沢はそっぽを向いてしまった。気を悪くさせちゃったかな、と不安になってさっきと同じ様によく見てみると、今度は後ろで纏めた髪の向こうに見える耳が真っ赤になっていることに気づいた。やがて向こうを向いたままの高沢が聞こえないくらいに小さな声で、
「何も特別なことはしてないけど……ありがと」
と言うと、想像してもいなかった普段見た事のない様子に、智美までドギマギしてきて
「あ、えっと、どういたしまして……」
とだけ応えることができたが、代わりにさっきまでとは違う気まずさが小さな部屋の中に満ちていた。

 その後、会社を出た所で高沢が、「私は東横線だから」と言って智美の帰り道とは違う方向に歩き出すまでの間、全く会話はないままだった。高沢さんって思ってたのと違う人なのかも、そんな風に考えながら駅に向かって歩き出すと、湿気をおびた風が肩まである髪を撫ぜていった。(今日は本当に色んな事があったな)活気に満ちた金曜の夜の街を渡ってきた風が、改めて充実感を感じさせてくれた。前から来た楽しげな恋人たちとすれ違うまで、朝からずっと智美を捉えて離さなかった苛立ちがなくなっていることに気づかなかったくらいに、穏やかだった。
 少し、歩く速度を早めてみる。
(止まらなくなったプログラムを止めるには、特別な手順が必要。なら朝から続いてたイライラを終わりにする特別な事ってなんだろう。……そう言えば隆史君って学生の頃イタリアンのお店でバイトしてたんだっけ……じゃあ明日のお昼ご飯は久しぶりに自慢のお料理を作って貰おうかな)
 高沢の真似をしてキーボードを打つ振りをしてみる。
『k・i・l・l——』
エンターキーを押した所で、もう一度風が通り過ぎて行った。

kill

kill

新入社員宮下智美のとある一日のお話し。 朝から恋人とケンカするし、苦手な先輩はいるし。 世の中ってむつかしい。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-12

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