我らの調はデスマーチのリズムに乗って

みなみひろはる

  1. ある春の日に
  2. 進路指導室で
  3. 教室で
  4. ピグマリオンの全き未来
  5. オリエンテーション
  6. 和倉先輩と迷子
  7. 我らは選び育てるだろう
  8. 一定時間で解決せよ!
  9. ゴッドハンド
  10. 湯布院教授の逆鱗
  11. イマジネーション
  12. 美少女の定義
  13. あんたバカでしょ?
  14. 誓言
  15. 作戦会議
  16. 一番槍の誉
  17. 悔悛の涙
  18. 打ち上げの後で
  19. 特別昇任試験
  20. 腰蓑とバニースーツ
  21. 壮行会? コスプレパーティ?
  22. 全員気を付け!
  23. それぞれの理由
  24. 終わりの兆し
  25. ちょっと飛ばしましたから
  26. 花のように
  27. 神がその手を肩に
  28. 宜しい、認めよう
  29. 辞令
  30. 我らの調はデスマーチのリズムに乗って

ある春の日に

 ある春の日、少年は父母に連れられてショッピングモールへ行った。少年は学校の入学式を終えたところだった。入学のお祝いで連れてきてもらったのだ。
 少年のお目当てはモールの最上階にあるプラネタリウム。星が見たかったのではない。そこで解説をしている、当時まだ物珍しかったコンパニオンロボットに会いたかったのだ。そのロボットは見た目の年格好が15歳くらいの少女を模したデザインだったが、まだ6歳の少年にとっては随分大人びて見えたものだ。
 その時のプラネタリウムがどんな演目だったかを少年はまるで覚えていない。ただ、巨大な黒い鉄アレイのような投影機が何やら恐ろしげに見えたこと、入り口で子供のお客一人ひとりに握手していたロボットに、にっこり笑って出迎えてもらったこと。少年も優しく手を握ってもらったこと。そして、髪にまとった淡く光るリボンがとてもきれいだったことを覚えている。
 それから年月が経ち、少年が六年生となった時に別のロボットに会った。その頃、ロボットは家庭への普及の初期段階で裕福な家庭にしかロボットは買えなかったのだが、少年と仲の良い先輩がお金持ちの家の子で、そこにハウスメイドとして最新のロボットがいたのだ。
 「ヴェスタ」と名付けられていたロボットは、それまでのロボットと比べても明らかに進歩していて、立ち居振る舞いや表情の変化、会話の滑らかさや自然さなど、もうほとんど人間と変わらない印象を与えた。既にいっぱしのワルガキだった少年がロボットのスカートをめくったら、ロボットに戸惑った様な顔でやんわりと抗議され、却って顔を赤らめたものだ。
 その頃には少年の将来の夢ははっきりと決まっていた。自分でロボットを作りたい。プラネタリウムで働いていたあのロボットの様な、あるいはヴェスタの様な。
 どこの会社に行くかも決めていた。ヴェスタを作った会社、世界最高のコンパニオン・ロボットメーカー、ピグマリオン・ラボラトリーズへ自分は行くのだと。

進路指導室で

 その日、少年とその母、そして少年の指導担任は学校で三者面談を行っていた。これで5回目の面談だったが、少年と母親が完全に対立してしまっており、担任は困り果てていた。少年は何十回目だか何百回目だかの言葉を繰り返している。

「俺は大学なんて行きたくないですし、行く意味が無いです。俺はロボットを作りたいんだから、ロボットメーカーに就職したいんです」

 母親は絶対反対だ。

「何を言ってるの、空海(そらみ)。ロボットを作りたいなら大学でそれなりの勉強をして、それからロボット会社に就職するのが当たり前でしょうが。そうですよね?」

 意見を聞かれた担任も、うんざりするほど繰り返した答えを返す。

「普通はお母さんの言う通り、大学でロボット工学なり人工知能工学なりの専攻コースを取ってから、メーカーに就職するのが普通です。義務教育だけでは普通は工場労働者コースですから、空海君が目指している開発関連の部署には行けません」
「でも先生、ピグマリオンは……」

 割り込んでくる少年を押さえて、担任が続ける。

「そう、ピグマリオン・ラボラトリーズだよね、修善寺君が行きたいと言っている会社は。確かに、ピグマリオンという会社は変わっていて、義務教育卒で取った生徒を社内で徹底教育してから研究所に入れるコースがあるね」
「俺は、そのコースに行きたいんです。大学でフラフラ遊んでるより工場の現場で鍛えられながら勉強して、大学に入った連中が入ってくる前に研究所でロボットの開発をしたいんです」

 今までそれを何遍も聞かされている母親が、これまた同じことを繰り返す。

「何を言ってるの、あんたは。確かにそういうコースもあるというのは聞いてるけど、別に大学に行ってからその会社に入る人達だって沢山いると言うじゃないの。研究所には大卒の人のほうが義務教育だけの人達よりずっと多いって聞いたわよ」

 少年もやり返す。仲の良かった先輩がその会社に勤めていて、色々と教えてもらっているので大層手強い。

「そんなの今だけの話だよ。毎年大卒者の採用は減っていて、その分年少組の割合が増えてるんだから、のんびり大学なんて行ってたら、俺の卒業する頃には大卒の採用が無くなっちゃうよ」

 少年の言う「年少組」というのは義務教育だけで採用された社員の事だ。確かに少年の希望する会社、ピグマリオン・ラボラトリーズは年少組を「会社の背骨」と表現して、非常に大事にしている。出世も大卒者より早いものが多い。だが……

「そんな極端な話があるわけないじゃないの。それに、その年少組だって採用者のほんの一握りだけで、殆どの人は落ちこぼれて工場勤務になるって言うじゃない。大学に行けば、そのピグマリオンだけじゃなくて他のメーカーの研究所勤務の仕事だって選べるんだから、いま行きたい会社を無理に選ばなくたって良いじゃない」

 母親の話はもっともで、担任もどちらかと言えばそちらに賛成だ。少年の学力は学科毎の点数の偏りが大きいものの、中堅以上の大学を十分狙える実力がある。ロボットメーカーは一頃の自動車産業並みの盛況を示していて採用枠が大きいから、大学に入ってからメーカーを選んだほうが遥かに将来に不安なく過ごせるだろう。ただ、少年はそういうタイプではない。

「俺は芙蓉や三菱みたいな二流メーカーには興味ないし、行きたくないよ。世界最高のロボットメーカーはピグマリオンだし、俺はそこで働きたいんだよ」

 担任は心のなかで嘆息する。結局、少年は進路を狭く決めてしまっていて他の進路は視野に一切入っていないのだ。これくらいの年の子供には多いことだし、ゆっくり時間をかけて視野を広げてやることも可能だと思うが、必要な時間が教師側に与えられていない。
 結局のところ「本人の意欲を最大限尊重して」という教師側リスク最小の結論になりそうだ。だが、母親は執拗に反論している。

「あんた、よく考えなさい。その年少組って言うのは、毎年採用している百名くらいの新卒社員のうち二三人だけだと言うじゃないの。2,3%くらいの確率しかないのよ。大学に行けばもっと高い確率で研究所に行けるんだし、もしピグマリオンがダメでも他の会社で研究ができるじゃないの」

「だから、何度も言ったじゃないか。年少組は最短で三年で研究所に行けるんだよ。工場で実務経験を積んだ上でね。大卒組は普通は4年だし、カリキュラムによっては卒業に五年かかる大学だってあるんだ。そのくせ実務経験がないから年少組より仕事ができないんだよ。俺が大学行ってからピグマリオンに入ったって、後悔するに決まってるよ!」

 次は母親が労働環境を問題にするだろう。一体何回繰り返したのだろうか。そう思い、担任は心のなかで溜息をつく。

「あんたは都合の良いことばかり聞いてきたみたいだけど、ピグマリオンには何度も労基署が入って調査されてるのよ。工場勤務以外に教育時間で拘束していて、一日の労働時間が十時間以上だったり、週に二日しか休ませなかったりとか。金曜日だって休みじゃないし、祝日もろくにないのよ」

 担任はこれへの反論も全部暗記してソラで言える。それくらい聞かされ続けたのだ。

「別に法律は守ってるんだからいいじゃないか。週休三日は法律で決まってるわけじゃなくて、法律は週休二日なんだから。労働時間だって勤務以外の自習時間まで含めての話だよ。和倉先輩は遊ぶ時間だってちゃんとあるって言ってたじゃないか!」

 もうそろそろいいところだろう。うんざりして眠気まで感じてきた担任はまとめにかかる。母親には悪いが本人の人生である。担任の目からも本人の選択は最善ではないと思われたが、愚行ともまた言えなかった。生徒の個性を尊重すべし。尊重すると増長しそうな個性だが、それもまた一興。そうも担任は思ったし、そうしろというのが当代教育者の不動の指針だ。早い話が教師側リスク最小の原則であるのだが。

「ピグマリオンの勤務の厳しさはお母さんの言う通りで非常に有名だよ。査察が入ったことも一度や二度じゃない。ただし、ヘルスケアが充実していることでも知られているけどね。だから、工場勤務を目指している生徒には勧めているんだ。将来性もあるし給与も悪くはないしね。ただ、年少組を目指す限り非常に過酷で、落ちこぼれる人のほうがずっと多いのは事実だよ。空海君には覚悟はあるの?」

 当たり前だが、まだ十六歳になったばかりの男の子の覚悟には勢いだけが望めるもので重さなど期待できない。だが両親への言い訳にはなろう。

「もちろんです。俺は変な回り道をして後悔したくないですし、上手く行かなくてずっと工場勤務になっても、好きな方向に進めたんだから、後悔しないと思います」

 母親が往生際悪く反論する。担任にも世の中が分かっている母親の言い分の方がずっと理解できるし、自分の息子であればやはり同じことを言うだろうと思う。

「あんたは子供だから自分が間違っていたことを知って、その時にはもう引き返せないんだって事がわかった時、その時の後悔がどれほど深いのかわかってないのよ。その時に神様に祈ってももう遅いのよ」

 少年には熱心なクリスチャンでもある母親の心が見えず、只々信心に凝り固まって頑迷であるだけに映っているようだ。わかるまい、少年にはまだわからないのだ。

 だが、今はそれでいいのだと担任は思う。彼はこの頑固で扱いに困る少年、目の前の宝物に必死に手を伸ばそうかと見える、この輝く眼の持ち主が大好きなのだ。今、少年には自分の前にどこまでも伸びる広い道がはっきりと見えているのだろう。そして、そんなものが見える幸運に恵まれる子は少ない、本当に少ないのだ。ならば……

「俺は、自分が一番いいと思った道を行きたい。もしそれが上手く行かなくてもね。それは努力が足りなかったせいでそうなるのかも知れないし、運が悪かったせいでそうなるのかも知れないけど、それを神様のせいにして恨んだり後悔したりはしないよ」
「お母さんどうでしょうか? 空海君の決意は堅い様ですし、将来を甘く考えているわけではなく、彼なりの覚悟もあるようです。彼の意志を尊重してあげてはいかがでしょう」

 本来三回で終わる予定の三者面談なのだが、この少年の場合はこれが実は延長戦、それも二回戦目なのだから都合5回も面談しているのだ。これ以上粘らずに折れてくれ、と担任が祈る。

「本当に頑固で困るわ、あんたは。お父さんと一緒ね。仕方が無いわ、あんたの人生だからね」

 やっぱり神様いますね! そう担任が思った瞬間だった。

教室で

 進路指導の翌日、少年は普段どおりに学校へ行った。彼は二学年飛び級しているから、当然進学クラスに入っている。20年ほど前に行われた大規模な学制改革で義務教育は高等学校までを含めた12年間になり、飛び級制度もその時に導入された。本来、平等が基本の義務教育に能力別の選抜制度はふさわしくないという意見もあったが、結果の平等よりも機会の平等を求める世間の声に押されるように成立したものだ。
 この制度のもとで、学業成績の優れた学生は飛び級が可能となり、大学へ15歳、16歳で入学するものが多くなった。というより、飛び級しないで大学に進学するものは殆どいなくなったと言って良い。飛び級せずに十八歳で卒業した学生はそのまま就職したり、各種の専門学校やコミュニティカレッジと呼ばれる生涯教育機関に進んで職能教育を受けてから就職する。

 そんな中で、二年飛び級した少年が就職するのはかなり稀な事と言えた。実際上、ピグマリオン・ラボラトリーズ以外の企業では考えられないことである。少年は六年生の頃からそんな事、つまり卒業したらピグマリオンに就職すると言っていたから周りからは変わり者と認識されていたが「ロボットを作る仕事」というのは今時の少年少女にとっては憧れの職の一つであったから、それほど周囲から浮き上がることもなかったようだ。

「空海、昨日の三者面談はどうだった?」

 話しかけてきたのは宇佐美という生徒だ。家が主人公の近所で付き合いが長いので、比較的親しい。

「やっと終わったよ。お袋がやっと納得してなぁ。全く参っちゃうぜ、同じことを何度も何度も言わせやがってよー。伊東先生も延々付き合わされていい迷惑だよな」
「お前が言うわけ? ひどいなぁ」

 宇佐美が笑っている。それはそうだろう。原因の半分は少年にあるのだから。

「だって、俺がピグマリオンに行くって言い出したのは、もう何年も前だぜ。それを今更ガチャガチャ言われたってなぁ」
「まぁ、和倉先輩があそこに就職した時から、お前ずっと言ってたもんな」

 和倉先輩というのは、和倉聖(わくら さとし)という名前で、二人の近所に住んでいる、彼らより三つ年上の先輩だ。やはり二年飛び級組であるが、実力的には三年飛び級してもおかしくない実力のある学生だった。両親の方針で最後の飛び級を断ったのだが、理由は『学内での交友関係に差支えがある』ということだった。
 一年飛び級するものは学生全体の3割以上いて、これはどこの義務教育校でも一学年で2,3クラスを確保できる。二年飛び級するものは一割程度だから、大抵各学年に一クラスしか無いのが普通だ。これが、三年飛び級になると5%以下になり一クラスにまとめても十数名の少人数クラスになってしまうので、三年飛び級の生徒を中心に集めたエリート校に行くことになる。二年飛び級組でも多少の疎外感を感じるのが普通だが、転校を強いられる三年飛び級となると孤立感にまでになってしまうことも多い。
 それを嫌って二年飛び級までに押さえておく家庭もあるということだ。但し孤独感の代わりにエリート意識も得られるわけで、多くの学生は機会を得られたなら三年飛び級を選ぶのが普通でもある。
 和倉の家は元々エリート家系でもあるので、却ってエリート意識にこだわらなかった事もある。本来なら私立の学校に通っているべき人間なのに、わざわざ公立の義務教育校に通わせている点でも、エリート意識に大した価値を見出していない家庭であるのだろう。

「和倉先輩、家に来てくれて説明までしてくれたんだぜ。それでもお袋は『大学行け』なんだから嫌になっちまうよ」

 少年がぼやくと宇佐美も混ぜっ返す。

「まぁ、普通の奴は大学行くんじゃないかぁ? お前は普通じゃないからしょうがないけどさぁ。年少組で生き残るのは大変みたいじゃん。お前、大丈夫なわけ?」

 少年はちょっとムキになって反論する。多少不安ではあるようだ。

「大丈夫だよ。和倉先輩の話だとほとんどの奴は元々工場勤務のつもりで入って来てて、それほどラボに入りたくはない奴が多いんだってよ。だから、最初の段階でちょっと厳しい教育プログラムを受けると、すぐ諦めて普通の工場勤務を目指すんだってさ。本当にラボに入りたくて就職した奴はそういう連中とは気合が違うから、年数の違いはあっても最後にはラボに入れるんだって言ってたよ」

 宇佐美はニヤニヤ笑いながら聞いている。もう少し突っ込むつもりでいるようだ。年の割に子どもっぽい反応の少年をいじるのが、宇佐美の楽しみだったりするのだ。

「でもさぁ、和倉先輩ってメチャクチャ勉強できたじゃんか、お前と違って。ああいう人が『大丈夫』って言ってても、俺らみたいな普通人がそのまま信じて大丈夫なのかな?」
 少年は余計ムキになって反論する。本当はそれが心配ではあるのだ。宇佐美はそれが分かっていて突っついているのだが、少年は内心の不安を見透かされていることに気付いていない。

「何言ってんだよ、実際にラボを希望している人間は遅くても五、六年で入れるのは事実なんだぜ。和倉先輩なんかまだ入社二年目なのに、今年の夏にはラボに入れそうだって言ってたんだぞ」
「だから、先輩は大秀才じゃないかって言ってんの! 俺達とは出来が違うでしょ、あの人」
「そりゃそうだけどよ」
「それにさ、五年も六年もかけて研究所に入るんじゃ、大学経由で就職するよりずっと不利じゃん。大学だって頑張れば3年で単位全部取って卒業できるのは知ってんだろ。ピグマリオンは大卒だって研究職で採用してんだからさ」
「何言ってんだよ、ピグマリオンの大卒者の就職倍率って100倍以上なんだぞ。それに大学行ってたんじゃロボット製作の仕事なんて全然身につかないじゃんかよ。年少組は工場で実際のロボット製作の実務をしながら理論の勉強ができるから、学習効率が全然違うって和倉先輩が言ってたしな」
「和倉先輩レベルではな。俺ら程度じゃ工場の仕事で疲れて、勉強どころじゃないんじゃないの?」

 宇佐美にかなりしつこく突っ込まれて、少年はかなりイライラしてきたようだ。宇佐美が少年が不安に感じているところを正確に突いてきているためなのだが、何のことはない、少年は思ったことが全部顔に出てしまう質なので、宇佐美にとってはやりやすいことこの上ないのだ。

「別に年少組は和倉先輩みたいな秀才ばっかりじゃないはずだろ。それでもちゃんとやることやってれば、いつかはラボに行けるって言うのは間違いねぇんだよ。それともお前、和倉先輩が嘘付いてるって言ってのかよ?」
「別にそんなこたァ言ってないだろ。それに俺は、お前にピグマリオンに行くのを止めろと言ってる訳じゃないしな」
「じゃぁ、ごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ。俺のお袋かよ、お前は」

 宇佐美は苦笑している。少年をいじるのが楽しくて仕方ないようだが、これ以上からかうと本気で怒り出しそうなので止めておくことにした様だ。

「まぁそう怒るなって。あと三ヶ月でお互い卒業なんだしよ。俺は受験があるからこれから本番だよ。でもお前はいいよな。身体検査だけなんだろ? ピグマリオンの試験って」
「大昔の軍隊じゃあるまいし、そんな訳あるわけねぇだろ。ちゃんと筆記試験があるよ。それにあんまりテストの点が酷いと、年少組の教育コースに入れねぇからな」
「難しくはないんだろ」
「あぁ、大学受験に比べれば遊んでるようなもんだって先輩が言ってた。その代わり教育プログラム自体と、工場の職場教育が半端なくキツイんだってよ。入っちまえば楽できる大学とは逆だよ」
「そりゃ、大学を舐めすぎてるんじゃないのかぁ? 理系の学科に入って三年で卒業しようと思うと、ほとんど休みが取れないって言うぜ」
「普通は四、五年でゆっくり卒業だろ。ピグマリオンじゃ、のんびりするコースはないんだぜ」
「何だよ、結局メチャクチャキツイんじゃんか」

 休み時間が終わり、授業の予鈴がなる。

「まぁな。でさ、お前次の授業は隣りの教室じゃねぇの? そろそろ先生来るぞ」
「あぁ、それじゃ俺はこれで。来月は受験だから気張んないとな」
「授業で寝るんじゃねぇぞ」
「お前じゃあるまいし。そんな余裕あるかよ」

 宇佐美は笑いながらカバンを持って隣に移動する。少年はこの教室でそのまま授業だ。日本史の授業なのでいつもの様に寝てしまうのだろう。

ピグマリオンの全き未来

 少年は2月末にピグマリオン・ラボラトリーズの採用試験を受け、無事合格の連絡をもらった。和倉の言う通り、試験自体は簡単だったが、ロボットには関係ないという理由で全く勉強していなかった社会科関係が壊滅的な成績だった少年は、採用試験では社会科関連の問題が全く回答できず、採用通知が来るまで随分不安な日々を過ごした。
 もっとも、大化の改新が何年だろうが知ったことかと言うのは、ピグマリオンの方も同様だったのか、あるいは他の学科の点数でカバーできたのか、入社式での少年の席次は六番目だった。多くの採用者が工場勤務志望の学生とは言え、人気企業であり採用倍率は50倍近い会社である。それなりに平均点は高い中で上位一割に食い込んだのだから、大健闘したと言えるだろう。

 入社式では創立者で社長である別府博士の、あっけないほど短かった挨拶や、集中教育コースの責任者である理研大の湯布院教授のざっくばらんな訓示の後、営業と総務を管轄する有馬常務の訓示が始まった。最初のうちこそ緊張していた少年だったが、元々が形式ばったことが嫌いな質でこういう席ではすぐ退屈してしまう。だが、常務の訓示は少年の眠気を払うのに十分な効果を現した。

「諸君、初めまして。当社で常務を務める有馬です。御存知の通り、当社はコンパニオンロボットの研究開発を行う会社として、2044年に設立されました。決して忘れずに覚えておいてください。当社はコンパニオンロボットの開発のために作られたのです。産業用ロボットではありません、軍事用ロボットでもありません、人に寄り添い人に尽くすコンパニオンロボット、それこそが我社の製品なのです」

「社名の由来であるピグマリオンについて説明しておきましょう。ピグマリオンというのはギリシャ神話にあるキプロスの王様です。彼は彫刻に巧みで大理石に女性像を彫り、それが人間となることを神に願いました。願いは叶って像は生身の女性となりました。その女性が『ガラテア』です。神話ではピグマリオンは神に祈りましたが、我々は神に祈るだけではなく、自らの技によってそれを成し遂げました。我々は未来のかけらを我が手で掴みとったのです」

「我社の全き未来はどこにあるのか? それはコンパニオンロボットの進化の道の先にあります。我社は2046年に発表した処女作である人工意識(AC)を持つAIコンピュータ『ガラテア』で世界に先駆けて拡張チューリングテストをパスしました。我々が最初に「意識を持ち、人間と会話できる人工知能」を創り上げたのです。また、海外でガラテアに追随するAIが出現してきた時、我々はガラテア2を世に問いました。諸君の知る通り、ガラテア2は完全自律行動型ロボットであり、実用サイズのヒューマノイド・ロボットとして始めてフレーム問題を現実的レベルで解決した製品であります。常に我社はコンパニオンロボットの進化において最先端にあり、これからもまた最先端であり続けます」

「我社が現在生産してるのはガラテア3、すなわち第三世代のコンパニオンロボットです。ガラテア2では不十分だったAIの性能、すなわちAIへの内的欲求の設定や感情の積極的付与、表現力の向上など、これまでよりさらに人間に寄り添えるだけの性能を実現し、我国だけではなく世界的なムーブメントとして「ロボットの意識と権利の、法による保護」運動まで巻き起こす事となっています。我々の製品は人類の文化、文明にかつてない大きな影響を与えつつあるのです」

「我社においても決して直接の生産に携わらない多数の哲学者が日夜活発に活動し、明日のロボットがいかにあるべきか、そして、我々人間はいかにあるべきか、人間とは何であるのか、ロボットとは何であるのか、それを探求し続けているのはそのためです。ピグマリオン・ラボラトリーズは単にコンパニオンロボットという製品を作るだけの会社ではありません。我々が作っているのは文化であり、文明であり、未来なのです」

「私は諸君に求めます。諸君らは我社の製造ラインで手を動かして製品を作るだけの存在ではないことを忘れないで下さい。我らが作っているのはただ便利な自動機械というだけのものではありません。それは『我らの未来を変えていく何か』なのです。ロボットの開発、それもより人間に近く寄り添うコンパニオンロボットの開発において、避けられない問い。それは『人間とは何であるのか、ロボットと人間を分かつのは何であるのか』という問であります。そして、まだ我々はその問に答えられる準備はないのです。これまでのロボットの開発において明らかになったことは無数にあります。しかしそれでもなお足りず、道は遥か彼方に続いており、終わりは霞んで見えないのです」

「ですから私はさらに諸君に求めます。どこまでもこの道を行き、ロボットの未来に何があるのか、我ら人類の未来に何があるのか、それを共に探りましょう。工場で生産に携わる者は工場で、ラボで研究に携わる者はラボで。私はそれを片時も忘れるなとは言いません。しかし日々の忙しさや困難に囚われて進むべき道を見出せないと思ったとき、その時にこそ思い出して下さい」

「もう一つ伝えておきましょう。今ここに座っている諸君のうち、入社試験成績上位の30名には集中教育コースへの参加を強く勧めます。また、それ以外の人も希望すればそれに参加することが出来ます。教育の目的は開発部へ入る人材の育成です。諸君も知っているとは思いますが、我社の集中教育コースはその過酷さで知られております。最初に50名程度で始まりますが、一ヶ月後には人数は半減し、三ヶ月後にはさらに半減します。一年後には一割程度、つまり五、六人しか残りません」

「と言っても、コースを外れた人が解雇されるわけではありませんから安心して下さい。集中教育はクラブ活動と一緒ですから、それを外れた人も工場でしかるべき部署に配属されて、そこでちゃんと出世も昇給も出来ますからね。たとえ途中でコースを外れたとしても、集中教育を受けた事は必ずプラスの人事評価となるのです」

「そして、生存競争に生き残った人は最短で三年半、長い人で六年半程度でラボ、すなわち開発部に配属されます。そうやってラボに入った人は『年少組』と呼ばれています。そして、この年少組こそ我社の背骨であり、我社の未来を先頭に立って切り拓く者達であります」

「今、我々のラボでは次世代型のガラテア、すなわちガラテア4の開発が進んでいます。数年以内に最初のプロトタイプが産まれ出るでしょう。開発は着実に進んでいます。最短ならば三年半で君たちも開発に参加できるのです。我々は一刻でも早い諸君の参加を待っています。訓示は以上です」

 穏やかな表情で話される淡々とした訓示であったが、内容はこれ以上無いと思われるほど青臭かった。少なからぬ新入社員がその大げさな内容に少々呆れた様子を示したが、少年には強い印象を与えた。少年は素直に感動し、自らの行く手にロボットと人間の未来を見たいと思ったのだった。

オリエンテーション

「空海っ! お前、席次6番だったな。バカのくせに頑張ったじゃないか」
「あーっ、和倉先輩じゃないすか。お久しぶりッス。でも、人の顔見るなり『バカ』すかぁ、ヒデェなぁ」

 少年が体育館での入社式の後、オリエンテーションのために大会議室に移動する途中で和倉と会った。どうやら待ち構えていたらしい。

「先輩、仕事はいいんスか? まだ昼前ッスよ」
「あぁ、班長に断ってあるから大丈夫だよ。学校の後輩が来るから顔だけ見に行くって言ってあるんだ。と言っても、お前の方はオリエンテーションがあるんだな」
「そうっスね。後5分で始まるんで、それまでには着席してないとマズイんすよ」
「俺も一応顔見に来ただけだから時間は取らないよ。おまえらは今日班分けして、明日からいきなり教育と勤務が始まるからな。明日から生活がガラッと変わるから覚悟しとけよ」
「わかりました。で、班分けなんスけど、俺は先輩の班に入れるんスかねぇ?」
「そりゃ俺にはわかんないよ。多分、工場での部署はバラバラだと思うな。それから、集中教育の方は最初の班分けはほとんど意味ないからな」
「それは何でなんスか?」
「訓示で聞いたと思うけど、集中教育コースは落伍者がどんどん出るから、最初の内なんてしょっちゅう班分けがあるんだよ。もっとも、お前は最上位の班に入れそうだから、班内に落伍者が出ずに最後まで班替えがない可能性もあるけどな。最初は新人だけで班を組んで、最初にどかっと、それから徐々に落伍者が出て人数が減っていくんだ。それで例年だと二ヶ月後位に俺達みたいな先行組の班に割り振られるんだよ」
「学校とは随分やり方が違うんスね。それって一年生と六年生が同じクラスで授業受けてる様なもんじゃないッスか?」
「一番最初のふるい落としの時期は先生が直接教えるけど、それ以降しばらくは新人は色々先輩から教えてもらうんだよ。俺も新人の時には先輩から随分教わった。最初は先生から直接教わるよりも、俺達みたいな先輩社員から教わる時間の方がずっと長いしな。俺達にとっても、新人に色々教えるのが勉強の一環なんだよ」
「あぁ、何でも先生から教わるわけじゃないんスね」
「そうだな、お前もやればわかるけど、単に教わるよりも人に教えるために勉強する方がよほど大変だし、身にも付くと感じるな。先生達もよく考えてると思うよ。こっちはいっぱいいっぱいで教えてるのに、先生は容赦なく突っ込んでくるからな。教わってる方にじゃなくて、教えてる方にだぜ。えらいプレッシャーだよ、あれは」
「先生役もやるんスか、結構大変そうッスねぇ……」
「ばーか、まだ新人じゃないかお前は。そんな先のことを悩んでどうすんだよ」

 和倉が明るく笑って少年の後ろ頭を軽く掌で叩く。

「ま、それもそうッスね。じゃ、俺はオリエンテーションがあるんで失礼します」
「あぁ、説明中に寝るんじゃないぞ」

 そう言って和倉は口元に笑みを浮かべ、踵を返すと軽く手を振って自分の部署に戻って行った。

 オリエンテーションでは和倉の言うとおり、明日から集中教育と実務教育が始まることを告げられた後、給与や勤務時間に就業規則等の退屈な説明が30分ほど続いた。その後に工場での配属先が告げられた。職能教育はその配属先で個別に行われると言う事だった。その後、休憩を挟んで集中教育に関する説明になった。
 集中教育に参加を予定する新入社員は参加申請書と誓約書を書かされた。誓約内容を簡単に言えば、集中教育は自らの自由意志で受ける事、集中教育が業務ではないことを理解している事だった。
 これははっきり言って労基署対策で、業務の一環としての教育としてしまうと、法律で決められた週毎の最大労働時間を大幅に超えてしまうからであった。週あたりの最大労働時間は32時間、月毎で128時間、年間で1400時間が法定労働時間であり、まともな上場企業でこれを守らなければ到底タダでは済まないからだ。
 工場の勤務時間は8時から4時までだが、集中教育は4時から30分の食事休憩を挟んで8時まで続く。休日の金曜日と法定休日の土曜日は9時から6時まで講義と実習だ。これをまともに計算したら年間勤務時間は2500時間を軽く超えてしまう。
 だから、集中教育は社内の厚生事業の一環として行われている事になっており、参加を希望する社員が会社の厚生施設を利用する感覚で勉強しているという事になっているのだ。
 また、工場勤務からラボへの異動も集中教育とは関係無いことになっている。あくまで特別昇任試験をパスすれば集中教育の受講を問われずにラボに行けるという事だ。実際上は集中教育を受けていなければ一割も回答できず、大卒者でも準備なしでは3割程度しか回答できない極めて高度なレベルの試験であったから、全くの建前ではあったが。
 その代わり、受講生への会社からのケアには怠りがなかった。全ての受講生は通勤時間を節約するために、個室が準備されている工場内の社員寮に無料で入ることになっていたし、毎週末の健康チェックも厳しかったから健康上の理由で一時的に受講停止になる者もいるほどだった。食事はやたらにメニューの充実した社員食堂で社員価格の更に半額で提供されたからそちらの心配もなかった。集中教育自体には言い訳程度の受講費用が求められたが、社員食堂での食事三回分程度であったから、気にする者もいなかった。
 結局、集中教育コースの受講希望者は70名弱で、去年より10名多いということだった。班分けは一班七人程度の班九つに分けられ、少年は第一班に配属された。第一班は入社試験成績の上位七名、第二班は8位から14位までの七名でエリートコースということだろう。それ以外の班は入社試験の結果とは関係なくランダムに配属されたようだった。
 入寮は月内までにということだったが、少年は身の回りのものだけ持って、今日から入寮する気だった。進路については大もめしたものの、別に両親と上手く行っていないわけではない。ただ、気楽な一人暮らしというものに憧れていただけの話だ。もうひとつは、工場内の寮に住んでいればその分早起きをしなくて済むという計算があった。

和倉先輩と迷子

 少年はオリエンテーションが終わると、和倉にメッセージを入れた。しばらくすると電話で返事が返ってきた。

「おう、終わったか。こっちももうちょっとで定時だから、ラウンジで待ってろよ」
「わかりました。第一工場の二階にあるラウンジでいいんですよね」
「あぁ、あと十五分足らずで行くから待っててくれ」
「了解ッス」

 販売機で紅茶を買い、それを飲んでいると和倉がやってきた。白い防塵作業服のままの姿だ。

「ちわっス。着替えないできたんスか?」
「あぁ、俺は寮生だからこの格好で部屋から出勤だしな。お前もどうせそうなるんだぜ」
「まぁそうでしょうね。工場の中を歩くだけなのにいい服着てもしょうがないし」
 実際には少年は『いい服』なんて殆ど持っておらず、いつもTシャツとジーンズかチノパンだから、普段着が作業着同然なのだが。
「お前も寮にはすぐ入るんだろ?」
「もちろんですよ。こんな辺鄙な場所だし、家から通ったら一時間以上かかりますもん。毎日遅刻しますよ」

 少年は朝が弱い。毎日母親に叩き起されて、ようやく学校に間に合っていたのだ。また、少年は辺鄙と表現したが、ピグマリオンの関東第一工場は郊外ではなく東京湾に面した湾岸地区にあり、広大な旧製油所跡地に立地している。確かに公共交通機関の便が悪い場所ではある。
 和倉が入寮について質問する。少年は和倉にとっては少々生意気な後輩だが、やはり気に入っていて何かと面倒を見てくれるのだ。

「引越しはどうするんだ? 手伝ってやろうか」
「いや、寮ってベットとかクロゼットとか全部付いてて、布団やシーツも借りたほうが良いって言われたんで、自分の服とか個人端末くらいしか持ってくるものがなさそうなんすよね。メシも社員食堂で朝昼晩と食えるんでしょ?」
「あぁ。朝は六時から開くし夜勤者向けに夜の十二時までやってるよ。そもそも寮の個室にはキッチンがないしな。そうだ、調理場のコックもウェイトレスも全員ロボットだぞ。七十人くらいいるんじゃないかな」
「そりゃロボット会社なんだから当たり前なんじゃないですか?」
「ガラテア3は一人二人しかいないぜ。残りは全部他社製、それも全世界から集めてるんだ。多分日本で一番色んなロボットを見られる場所だよ、ウチの社員食堂って」
「へぇ、面白そうっすね。早く行ってみてぇなぁ」

 非関税障壁で守られた日本市場には海外製のロボットはなかなか入ってこれず、あまり日本国内で見る機会がない。ロボット好きの少年としては興味津々だ。

「まぁ、明日の昼から使うわけだからな。それとも今日飯食ってから帰るか? 入社したんだし、年少組候補生なんだから、ほぼタダ飯同然だぜ」
「うーん、そうしたいんすけど、お袋が……」
「この時間だともう夕食の準備始めてるかもな。まぁ、食堂もロボットも逃げないから、明日を楽しみにしてろよ」
「そうっスね。俺、明日から寮に入れるようにお願いしてきたんで、明日からはずっと通えるし」
「何だよ明日からかよ。俺もせっかちって言われるけど、お前はそれ以上だなぁ」

 少年はニヤニヤ笑いながら減らず口を叩く。

「総務の人から二人目だって言われましたよ。地元採用なのに翌日から入寮させろって言う新入社員は、って。一人目は確か和倉っていう人らしいンスけどね」
「俺は入社前からシステム知ってて、予め寮の事を会社に頼んどいたんだよ。お前みたいな『今日話し聞いて明日から引越し』とかいう無計画野郎と一緒にすんな」
 苦笑いしながら和倉が答える。少年はどこからこんな憎まれ口が出てくるのかと思われる様な、線が細くてかわいらしい顔立ちなのだが、長い付き合いの和倉はさすがに慣れている。ついでに顔の事を言うなら、和倉の方は文句なしの美男だ。
「家に帰ったらまたお袋と喧嘩ですよ。気が重いッス」
「そりゃ、お袋さんは怒るだろ。お前、なんでも自分で勝手に決めて親に全く相談しないって、お袋さんが嘆いてたぞ」
「先輩にまで愚痴ってるんですか? ウチのお袋にもまいったなぁ」

 少年は顔をしかめている。和倉は機嫌を崩さずに話を続ける。

「そりゃ、ご近所でお前とはガキの頃から付き合いがあるんだからしょうがないだろ。普通親に相談することを、お前全部俺のところに持ってきたじゃないか」
「だって、俺が行きたかった会社に先輩が勤めてるんだから、相談しない方がおかしいじゃないですか」
「そりゃそうだけど、親にも一応相談しないとマズイだろ。お前、全部自分で決めてから、結果だけお袋さんに紋切り型で言うもんだから揉めるんだよ」
「だって、親父ならともかくお袋にピグマリオンの話したってわかる訳ないじゃないですか。ゴリゴリのクリスチャンでロボット嫌いな方だし」
「形だけでも相談しろよ。お袋さん、本当にお前の事心配してるんだから」
「はいはい。まぁ、明日からの入寮は譲りませんけどね。どうせ入らなきゃいけない訳だし」
「まぁな。しかしよく総務も応じたよなぁ、受け入れ準備だってあるはずなのに…… あれ? あの子新入社員じゃないか? どうしたんだろうこんな所で」

 和倉がラウンジの隅のほうを見てそうつぶやく。少年がそちらを見ると、確かに少女が一人、立ったままこちらを見ている。肩より少し下までの、少しカールしたストレートヘア、広い額に薄い眉、ちょっと目尻が下がった優しげな目元。化粧っ気の全然ない、どちらかというと幼い顔立ちで可愛らしい女の子だ。手には色の褪せた手提げかばんを持っている。

「確か、あの子って主席で入社した女の子ですよ。迷子にでもなったのかな?」

 和倉が女の子の方へ歩いて行き、明るい口調で話しかける。

「あれ、どうしたの? 新入社員だよね?」
「あ…… はい、そうです。今日入社した松崎聡華(まつざき さとか)と言います」

 少女は手に下げたかばんを胸に抱いて、伏し目がちに答えた。どうやら多少人見知りする子の様だ。和倉が重ねて質問する。

「こっちは出口と反対側だけど、迷子にでもなったの?」
「は、はい。少し工場の中を見てから帰ろうと思ってたら、帰り道が分からなくなってしまって」
「あはは、広いからね、この工場は。工場入り口のバス停まで案内するよ。空海もこれで引き上げだろ?」
「ですねぇ。食堂に行ってみたかったですけどね」
「まぁ、明日の昼には行けるから安心しろ。出勤の一時間前に来て朝飯食ったっていいんだし」

 少女が勇気を振り絞って、という感じで和倉に質問する。

「あの、ちょっとお聞きしていいですか?」
「ん? 何?」
「えぇと、お二人はお知り合いなんですか? こちらは新入社員の人ですよね」
「あぁ、こいつは僕の後輩なんだよ。家も近所だしね。そうだ、自己紹介して無かったね。僕は和倉聖(わくら・さとし)。入社して三年目の新米社員だよ。こいつは修善寺空海」

 少年も少しはにかみながらあいさつする。実は少年は同じ年頃の女の子が苦手だ。思ったことがそのまま顔に出る性分のせいで不機嫌や腹立ちがすぐ顔に出てしまうので、それを怖がった同じクラスの女の子達からひどく避けられたりした事がある。悪いことに少年を避けるようになった女の子たちの中に少年が恋心を抱いた女の子がいたものだから、その時の思い出が強い苦手意識になって染み付いているのだ。

「修善寺です。和倉先輩とは僕が学校上がる時より前から遊んでたんで、兄貴みたいなもんなんですよ」
「ほぉ、女の子には随分丁寧な口を聞くんだな。お前がそんな感じで話すのは初めて聞いたよ」

 和倉が少年をからかう。少年と仲の良い者は少年をいじらずにはいられない様だ。少年も自分らしからぬ口の聞き方だとは感じているので言い返せない。

「なんすか、それ? まぁそれはどうでもいいッスから早くバス停まで行きましょうよ。帰りが遅いとお袋がうるさいんスよ」

 松崎も和倉に話しかける。

「すいません、お話中だったのにお邪魔してしまったみたいで」
「あぁ、いいんだよ。俺もそろそろ集中コースの授業時間だしさ。それじゃ行こうか」

 和倉はそう言って二人を促してバス停まで送った。バスの中で少年は松崎に何か話しかけたかったが、結局何も話題が思いつかず、話しかけたところで相手にしてもらえない様な気もしたのでずっと黙っていた。そして駅でさよならを言って別れた。

我らは選び育てるだろう

 翌日から少年は寮に入り、工場勤務と集中教育が始まった。寮に入る入らないでは、案の定母親とちょっと揉めたが、週末ごとに実家に帰ることで母親も納得した。もちろん少年には約束を守る気などさらさら無い。あれこれ理由をつけて帰らない気で満々だ。
 集中教育は最初の一週間は緩やかなもので課題の提出も実習もなく、どこが過酷なのだろうと受講者全員が拍子抜けした。逆に工場での実務教育、実際には礼儀作法やら電話の応対などのしつけ教育だったが、これがなかなか大変だった。特に新入社員に評判が悪かったのが「ラジオ体操」なるもので、古臭いピアノ曲に合わせて体を動かすのだが、背筋が伸びていないの肘が曲がっているのと延々ダメ出しをくらって散々だった。話を聞けば50年前の工場であればどこでもこれをやっていたそうだが、現在ではどこの工場でもストレッチを5分程度やることになっていて、今時こんな運動をやらせているのはピグマリオンぐらいらしい。時代の最先端企業がとんだ時代遅れのことをしている訳である。
 三週間程経ち、少年の言葉遣いが多少社会人らしくこなれてきて、一通りの新入社員教育が終わった頃を見計らったかのように集中教育が本番となった。安全教育が含まれる職場教育を優先していただけの事だったのである。
 それまではラボから来た若い研究員が教えていたが、彼らがすることは自分たちが集中教育コースを受けていた時の昔話が中心で、眠れるときに寝ておけとか、チームワークや助け合いが重要だから同じ班の人間は仲良くしろとか言う話ばかりで、具体的なロボット工学やAI技術などの教育は殆ど無かったのだ。
 少年などはしびれを切らして、いつになったらまともな集中教育が始まるのかと、教育に来た先輩社員にはっきり聞いたこともあるのだが、もうすぐだと言うばかりでその時にははっきりと答えてもらえなかった。しかし、会社はとっくにスイッチを入れる日を決めていて、のんびりと過ごせる日々はもうわずかしか残っていなかった。そして、その日は程なくやって来た。

 工場での教育が終わってから集中教育が始まる時間、班ごとではなく全体で話しを聞くことになり、全員で大会議室に集合した。会議室には主任教育者の三人の先生達が待っていた。

「入社式以来だな。みんな元気で何よりだ。忘れてしまっている人もいるだろうからもう一度自己紹介しよう。僕は湯布院隼人だ。理研大でロボット工学の教授職をしているが、ピグマリオンでも集中教育コースの責任者をやらせてもらってる。僕の専門はメカトロニクスと人工神経系だ。ロボットだけではなくて義手や義肢の研究もしているから、サイボーグになりたい人は言ってくれ。すぐに改造してやるからな」

 にこやかに湯布院教授があいさつする。がっちりした体格で大きなガラガラ声の先生だ。白衣よりも鉢巻と印半纏が似合いそうな感じがする。最後のくだりを冗談だと思った社員が笑っているが、実は本当に冗談なのかはわかったものではない。教授は隣に並んでいる二人の紹介を始める。

「こちらの男の先生が宮城先生だ。産業総合研究大の教授をされている」

 宮城教授が挨拶する。年は40歳手前くらいで白髪が目立つ髪、いかにも大学教員風の飄々とした感じの先生だ。

「宮城蔵王(みやぎ・くらお)です。名前は『くらお』で『ざおう』じゃないですからね。機能性多層膜、この会社では主に人工皮膚に使われていますが、それの研究が専門です。大学の方ではロボット用の人工皮膚だけじゃなくて、人間の医療用人工皮膚の研究も進めてます。ここではもっぱらロボット用の人工皮膚関係の事を教えます。よろしく」

 最後に女の先生の紹介をする。三十歳過ぎに見える、ちょっと冷たい感じのする女性だが、すごく綺麗な顔立ちだ。クールビューティーと言うのだろうか。

「こちらが湯布院翠先生。僕の連れ合いなので苗字が一緒で紛らわしいけど、勘弁して欲しい。彼女も僕と同じく理研大の教授をしている」

 女性の方の湯布院先生が挨拶する。低めのトーンだがよく通る声で話す。

「こんにちは。湯布院翠(ゆふいん・みどり)です。湯布院が二人で紛らわしいので、君たちの先輩は私を『翠』と呼んでいますから、君たちもそう呼んでくれて結構ですよ。大学では旧姓の道後で通してますから、あるいは道後と呼んでもらっても結構。私はAIの研究をしています。主にソフトウェアの研究です。みんなに教育する分野もAIを中心とする分野になります。よろしく」

 翠先生が追加の説明をする。

「主任教育担当者は我々三名が任命されているけれど、もちろん私達だけではとてもじゃないけれど手が回りません。なので教育担当は我々以外に十名ほど任命されています。ほとんどはラボに勤務している研究者に時間を割いてもらって、あなた達の教育に手を貸してもらう事になります。本来ならこちらに呼んで自己紹介してもらうのだけれど、みんなそれぞれ担当する研究に忙しい人達だからわざわざここに呼ぶわけにも行きません。だからここでの話が終わった後、班別の授業に入りますがその時に顔を合わせることになります」

 そして湯布院教授が新入社員を改めてぐるっと見回してから話し始めた。今までとは口調がガラッと変わる。

「これまでは職能教育とかち合っていたので、こちらの教育がまるで出来なかったが、職能教育の方が山場を超えたと言う事なので、こちらも遠慮なしに始めさせてもらうぞ。待たせて済まなかったな、修善寺空海君」

 いきなり名前を呼ばれて、少年はびっくりした。多分、先輩社員に質問したことが伝わったのだろう。湯布院教授はにやっと笑って少年を見てから、話を続けた。俄然声が大きくなる。

「今日からおまえらの生活は180度変わるぞ。どう変わるかはわしの話が終わって、教育が始まればわかる。有馬常務が訓示で話していたのを覚えてるか? 常務は一ヶ月後に半分が残り、三ヶ月後にまた半分、一年後にはたった一割が残ると言ったんだ。それは誇張なしの事実だからよく覚えておけ。覚悟のないものは全て淘汰される。教育と銘打ちゃいるが、おまえらが義務教育で受けてきたような甘っちょろい教育ではないからな。楽しみにしていろ」
「入社式の訓示で有馬常務は言ったな、年少組は我社の背骨になる人材だと。ならば我々教育担当は、会社の背骨たるにふさわしい人材を選び育てるだろう。意欲と能力に溢れ、苦難に耐えるガッツある人材をな。ワシからは以上だ」

 話はそこで終わり、それから班ごとに分かれて教育が始まった。少年の属する第一班は翠先生が最初の授業を受け持った。

一定時間で解決せよ!

 寮内の学習室に入ると、翠先生は小ぶりのマグに入れたコーヒーを飲みながら説明を始めた。生徒たちもそれぞれ飲み物を口にしながら話を聞く。

「さて、君たち相手に授業をするのは初めての事になるわね。最初に教育のやり方を説明しておくわ。湯布院先生と宮城先生、それに私の三人はそれぞれ全く違うスタイルで、全く違う分野の授業を進めていくけれど、教育の基本は一緒よ。三人とも加点主義で成績を評価するの。私と宮城先生は減点は一切しないわ。湯布院先生は機嫌次第ね。めったに減点はしないけれど。それから、君たち一班、それに二班への教育はほとんど主任教育者三人だけで行うの。貴方達は選抜クラスに入ったのだと理解していいわ」

 真面目な表情を崩さずに説明が続く。

「私の場合は毎回の授業の最初に課題を出します。授業の最後までに回答できれば、それでOK。加点一よ。時間内に解けなかったら、翌日の授業の最初に回答できれば、それでもOK。特に減点もしないわ。もちろん回答できなければ加点ゼロよ」

 二三の生徒がやや安堵した様な表情をみせる。徹夜で課題を終わらせなくても良いようだ。

「大体一年間で、私が受け持つ授業の数は60回程度かしらね。だから、一年間で得点できるのは60点ということになるわ。他の先生の分もいれると年間で180点というところかしら。それで、ラボへの異動に必要な特別昇任試験と集中教育での累加点数の関係を言わせてもらえば、550点から650点が大体分岐点になるようね」

 つまり、一年通して加点を続けていかないと、三年でラボに移動するという最短コースは難しいということだ。

「もちろんこれは目安よ。試験は一発勝負だし、そこでちゃんと点が取れるなら異動はできるから安心して。ただ、累加点が500点以下で社内試験に合格できた社員はまだいないのよ。それは覚えておいてね」

 こう言われてしまっては、早くラボに行きたいと思えば徹夜でも勉強しないといけないようだ。やはり楽は出来ないと思い知り、雰囲気の暗くなった生徒にさらに追い打ちがかかる。

「それから、時間内に課題ができなければ徹夜でやればいいと思っているんでしょうけど、会社はそれを許しませんからそのつもりでね。寝不足で工場に入って事故でも起こせば、ラボに行くどころか命がなくなりますからね。安全教育で嫌になるほどスプラッタムービーを見せられたでしょうから、よくわかっているでしょうけど」

 ピグマリオンでは重大災害は幸いにして今まで起こしていないが、安全教育では海外他社工場での事故事例集や昔のライン生産用ロボットによる災害例などをモザイク抜き・音声入りでこれでもかと言うくらい見せつけられて、松崎など少なからぬ新入社員が貧血を起こして医務室行きになったのだ。さもあろう、悲鳴入りの四肢切断事故ビデオはおろか頭部切断事故事例まで念入りに見せつけられたのだから。

「あなた達はもう全員寮に入ってるわね。消灯時間は十二時ちょうどで、寮の学習室は十一時四十五分まで、ネットワークやメッセージシステムも緊急用を除いて十二時から朝六時までは停止なのも知ってるわね。だから八時に授業が終わったら、それから十二時十五分前までと、朝六時から朝七時までが貴方達の持ち時間よ。出勤は八時だけど、朝食を抜いて勉強するのも禁止します。課題の回答が合っていても朝食を抜いていたり、消灯時間以降に起きていたことがわかれば加点しませんからそのつもりでね」

 回答時間も制限されているのか…… そう思って少年をはじめ、その場にいた新入社員一同が心のなかで溜息をつく。

「これはあなた達の健康管理上の必要があってそうするのだけれど、もう一つ重要なことは『一定時間内で解決する』という重要性をあなた達の体と心に叩き込んでおきたいからなの。ラボに行ってなにより重要なことは時間なのよ。分かっていると思うけれど、ロボットを開発しているのはピグマリオンだけじゃないわ。世界中の最高の知性がそれぞれ競争している世界なの。大げさだと思うだろうけれど、それこそ命がけでね」

 翠先生の声が大きくなってきた。顔も少し紅潮している。クールな感じの女性に見えたけれど、実はそうでもないのかなと、少年は思った。

「ラボに入ってしまえば、全ては自己管理に任されるわ。徹夜で働こうが定時で退社して遊びに行こうが自由よ。ただ、徹夜しない人は成果を挙げられずに会社を去っていく運命にあるだけ。だからラボの人たちはみんな必死で働いて、長雨の合間にわずかに差し込む陽の光を浴びるように僅かな休暇を楽しみ、また必死で働くの」

 工場と違い、ラボには労基署の査察が伝統的に殆ど入らない。建前は過重労働や健康被害の訴えが労働者サイドから出てこないことだが、実際には研究開発でのデスマーチは当然で、そこを絞めつけてしまうと国家レベルでの技術開発力が削がれてしまうという、決して表には出てこない政府判断のためだ。もちろん、欧州や北米からは不当競争行為ということで糾弾され、長年の問題になっている。

「あなた達も、遅かれ早かれそういう世界に放り込まれるわ。例年の第一班は一人くらいは三年半でラボへ行くし、残りの人も二、三年遅れでラボ行きよ。」

 翠先生は言わないが、第一班と第二班以外の班からは殆どラボ行きの人間は出ずに早い段階で落伍してしまう。先生達は今週中に半数弱が落伍すると見ていた。実は入社試験では学力だけではなく、ある種の心理テストとして研究者としての意欲や適性も測っており、いかに学力が優れていても意欲に乏しいと判定された新入社員は席次を大きく落とす事になっていた。

「ラボに行った時に決まった時間内で解決するという気構えがない人は、只々ズルズルと仕事をして、健康と引換に成果をあげるか、あるいは健康を代償にしても何も得られなかったりするのよ。そういう人はいずれ会社から去る運命にあるの。健康上の理由だったり精神的に続けられなかったりでね。それは会社にとっても大きな損失だから、あなた達にはそうなって欲しくないの」

 翠先生は一人ひとりの顔を見ながら少し言葉のペースを落として話しを続けた。

「もう一度念を押しておきましょうか。まず一つ目、睡眠時間を削らないこと。これは絶対よ。工場の方から念を押されてるし、これを守らない社員は工場側の業務命令で集中教育に参加できなくなって、もうラボには行けなくなるわよ。労働災害が命に関わることを忘れないで。 二つ目、朝食を必ずとること。三つ目は『一定時間内で解決する』というテーゼを忘れないこと。以上よ」

 そして、ニコッと笑って付け足した。

「それから、日曜日や連休が入った時には勉強しちゃダメよ。しっかり遊びなさい。この中にもボーイフレンドやガールフレンドと付き合ってる人がいるでしょうけど、週に一度くらいは一緒の時間を過ごしなさいね」

 俺にゃ関係ねぇなと、少年が鼻白んだら、ちょうど翠先生と目が合った。

「君、名前は?」

 急に名を聞かれて少年がドキマギしながら答える。

「えと、修善寺、修善寺空海です。」
「やっぱり…… 早く集中教育を始めろって言ってた子ね。休暇はちゃんと取りなさい。自分は関係無いって言う様な顔してちゃダメよ」

 まぁ、誰が見てもまるわかりの表情を浮かべていたので注意されても已むを得まい。いきなり図星を突かれた少年は耳たぶまで赤くなっている。かなり痛い目に会っている割に、少年はどれくらい自分の気持ちが開けっ放しになっているのかがよくわかっていないのだ。それで少年はちょっと悔しかったのだろう、抗議とも言い訳ともつかない言葉をもごもごと口にした。

「だって、俺付き合ってる女の子とかいないですよ」

「じゃあこれから頑張りなさい。ピグマリオンは社内恋愛も社内結婚も推奨よ」

 じーっと少年を見つめて翠先生が畳み掛ける。かなりトウは立っているものの、こんな美人に見つめられたことなど少年は今まで一度も無かったから、たちまち動揺して返事も出来ずに目を伏せてしまう。にらめっこは翠先生の完勝だ。

「君は和倉君の後輩よね。彼から少し話を聞いてるわ。私が遊びなさいというのはあなたたちの為ではあるけど、会社のためでもあるの。息抜きすべき時に積極的に息抜きができない人は、大して仕事も出来ない人が多いわ。だから、あなたたちには漫然と休暇を過ごして欲しくないの」

 そう言ってから、また少年を見て可笑しそうに付け加える。

「もっとも、君は社員食堂で一日過ごしても退屈しないんでしょうけどね」

 少年は入社してからこっち、世界ロボット博物館の観がある社員食堂で、片っ端から暇そうなロボットをつかまえては質問攻めにしたりして遊んでいることが多いのだが、翠先生まで知っているとなると、どうやら新入社員の奇行として結構人に知られているようだ。あるいは和倉が話したのかも知れない。

「今日はここまでにしましょう。学習課題は次の授業から出すから楽しみにしてなさい」

 そう言って翠先生は授業を切り上げ、引き上げていった。少年はまだ頬が火照った感じがしていた。

ゴッドハンド

 宮城先生は講義よりも実習を多く行う。課題は出さない。出せば採点しなければならないし、そこまでの時間が取れないというものぐさな理由でだ。今日も実際の人工皮膚を使っての実習をすることになっている。先生はいつもの如く双眼ルーペをサングラスの様に頭に載せたスタイルだ。傍目には奇妙なのだが、本人はそうするのが気に入ってるのかも知れない。

「じゃ、今日も前回の続きで切開・接合の実習だよ。前回一通りやってみたから、今度は僕は指示だけ出したら後は黙って見てることにするよ。君たちだけで作業を進めてみてくれるかな」

 そう言って、準備の済んだ人工皮膚切開・接合用の実習キットを作業台の上に出した。

「じゃ、松崎さんからやってみようか?」
「はい、わかりました」

 松崎聡華が少し心許なさそうに返事をして作業台の前に立つ。

「じゃ、切開からやってみて。線を引いてあるからそれをなぞるように」
「はい」

 超音波スカルペルがピーンと金属音を上げ、人工皮膚に抵抗なく斬り込んで行くが、皮膚が切開しない。ブレードを入れる深さが浅すぎて切りきれていないのだ。

「松崎さん、ちゃんと切れてないよ」
「……すいません」
「一回で切断できない場合、どんな不具合があったかな?」

 少年が答えようとするが、制止される。

「おーっと、修善寺君はわかってるみたいだけど、これは松崎さんへの質問だからね。じゃ、松崎さんどうぞ」
「切断面がささくれたりでこぼこになったりして、接合の時に支障が出ます」
「そう、その通り。では、それが分かっていて、なお切りきれなかったのは何故?」

 ニコニコしているが追求は厳しい。宮城先生のいつものスタイルだ。

「切り過ぎると皮膚の下にあるナーブラインレイヤー(人工神経線維層)を切ってしまいそうで怖くて、それで……」
「なるほど。でも、ナーブラインレイヤーと人工皮膚の間には1mm、つまり1000μmもクリアランスがあるよ。セパレータ層が1000μmだからね」

 もちろん熟練すればよそ見をしながらでも出来る作業なのだが、まだ素人で手先の器用さにまるで自信のない松崎には至難の業なのだ。松崎は意気消沈してうつむいて謝る。

「すいません……」
「いや、謝ってもらっても困るな。鼻歌歌いながらでも出来るようになってもらわないとね。これはあくまで練習で、実際のロボットの皮膚を切っているわけじゃないんだから思い切って行きなさい」
「はい」
「そうしたら、松崎君は、このやりかけの人工皮膚をあっちの実習台に持って行って、むこうで切開を繰り返し練習してね。接合実習用の皮膚は別にあるから、それはバラバラに切り刻んでいいよ」

 宮城先生は笑いながらそう言って、一つ向こうの実習台を指差す。

「修善寺君、君は上手だから松崎君の練習に付き合ってやってね。一回お手本を見せてやってくれないか」
「え? でも、僕も前回初めてやっただけですよ」
「あぁ。君はやたらに器用だし前回さんざん練習したろ。だから、これについてはもう教えることが無いんだよ。今日は先生役やってね」
「はぁ……」

 確かに、前回の実習では少年は一回だけ切り込みすぎてナーブラインを切ってしまったが、それ以外はほぼ完璧だったし、前回の実習用の人工皮膚はほとんど少年が一人で切り刻んでしまったようなものだったから確かに練習は十分だった。松崎が人工皮膚の実習台を持って移動しているので、少年は道具の方を持ってその後を追う。

「じゃ、やってみようか。一回僕が切るので見てて」

 そう少年は言ってすっと切込みを入れる。一回できれいに切開出来ている。切り込みの深さもぴったりだ。

「修善寺君は上手ね。私は不器用だから……」

 松崎が自信なさ気な表情で言う。

「いや、前回俺一人でほとんど実習用の人工皮膚を粉々にしちゃうくらい切りまくったからね。ヤスなんか『危ないヤツ』呼ばわりしやがってさ」

 ヤスというのは野沢泰友という名の新入社員で、少年とは仲が良い一人だ。今は向こうで宮城先生に指示されながら切開のおさらいをしている。野沢も少年と同様に器用な質で、もう手際よく切開が出来るようになった様だ。

「ふふっ、ひどいね、野沢君」
「まぁ、アイツに危ないヤツ呼ばわりされるくらい切ったら、手の方が勝手に覚えると思うよ」
「うん」

 しばらく二人で仲良く練習していると、宮城先生から呼ばれた。

「修善寺君、ちょっとこれやってみなさい。難しいから」

 そう言って切開実習用の実験用ダミーヘッドを示す。

「はい、どこを切開するんですか?」
「瞼を切除してごらん。一番薄い人工皮膚だ。工場の熟練職員でもこれがきれいに出来るのは一割だからね。というか、これが正確に出来ればマスターバッジのブロンズがもらえるんだけどね」

 マスターバッジというのは熟練工に対する社内表彰で、持っているとブロンズバッジなら賞与が二割増しというとてもいい物なのである。ちなみに最高位のプラチナバッジは十割増し、つまり二倍の賞与がもらえる。
 宮城先生はいつもの様にニコニコ笑ってモニタを指し示しながら説明を続けている。

「ガラテア3の上眼瞼の解剖はこんな感じだよ。瞼の厚みは薄いところでは500μm無いし、他の部分と違って非常に柔らかいから注意してね。それとは逆に人工瞼盤に接合してある人工筋肉の終端部は非常に硬いからね。かと言って余り力を入れて切りこむと眼球までやってしまうから気をつけて欲しいな。それから、解剖図に書いている通り、瞼にはセパレータ層がない部分があるし、全体的に薄いからね。特にナーブラインが通っている部分はクリアランス100μmだよ」

 宮城先生は簡単に言っているが100μmというのは髪の毛一本の厚さしかないのだ。宮城先生はナーブライン切断の注意点も再度説明している。

「以前の講義で説明したとおり、ナーブラインは接合点で正しく切断できないと再接合は大変だからね。接合点を外さないようにね。」

 ナーブラインは所々で太くなっていて、そこで切断・再接合が容易にできるようにしてあるのだが、そこを外して切断すると、大仕事になる。

「というわけで、これは裸眼では出来ないから5倍の双眼ルーペを使ってやってみようね。僕が右をやってみるから、みんなよく見てて」

 早速宮城先生はルーペをかけて、早速上眼瞼切除を始める。目頭から眉の下側のラインに沿って目尻まで切開。それから瞼の皮膚を下側に引いて裏返し、人工瞼盤を露出させて瞼盤と人工筋肉の接合部剥離に入る。ピンセットで筋肉を挙上しつつ専用の刃先に換えた超音波スカルペルで小刻みに接合面に切りこんで徐々に剥離させ、30秒ほどで完全に剥離した。目尻と目頭の部分には人工瞼盤に繋がっている強度の大きい特殊エラストマーの芯が埋めこんであり、それぞれにナーブラインが入っている。これも注意深く切り込み、ナーブラインを接合点で切断して上眼瞼切除を終了した。5分もかかっていない。

「じゃ、修善寺君やってみよう。あくまで練習だからね。固くならないように」

 そう言われても、いきなり難度の高い手技をやらされるのであるから、緊張しない方がどうかしているだろう。少年は無言で切除に取り組み、15分以上かかったが、何とか切除には成功した。

「よーし、切除は出来たね。すごいな君は。これは毎年一番手技の優れた新人に度胸試しでやらせてるんだけど、切除まで行けた人ってほとんどいないんだよ。最近では和倉君くらいかなぁ」

 大抵の者はあまりの難度に途中でプレッシャーに負け、ギブアップしてしまうのだ。

「さて、そうしたらチェックの時間だ。うーんと、二本しかないナーブラインを変なところで両方切ってるねぇ。和倉君は一本だったかな。エラストマーを切るときの超音波スカルペルの出力が高すぎたね。切る相手によってこまめに調整しないと手応えが掴めなくなるし、皮膚側の熱損傷を起しやすくなるよ。逆に瞼盤と筋肉の剥離は上手だし速かったね。今ぐらいの手際なら工場の熟練工でも誉めてくれるよ。和倉君はナマクラになったスカルペルチップの交換をしないままで、超音波の出力も上げずに一気に切ろうとして眼球ごとザックリやったからなぁ」

 楽しそうに手技の巧拙を解説している。少年は一応切除には成功したが、接合点以外でナーブラインを切ってしまうとイレギュラーな人工神経再接合になり、顕微鏡下で高価なマイクロマニピュレータを使っての修理作業になるので非常に手間がかかる。もっとも、眼球に傷を入れると悪くすれば眼球交換で、さらに面倒な事になるから和倉よりはマシだったのかも知れない。

「さて、時間もいい様だから夕食にしよう。食事の後に接合の実習だよ」

 宮城先生はそう言って、さっさと食堂へ歩いて行ってしまった。先生が行ってしまうと野沢が少年に話しかけてきた。

「空海、やったなぁ。スゴイじゃんか」

 少年は照れ笑いを浮かべながら謙遜した。

「いや、メチャクチャ難しかった。結局ナーブラインは切っちゃったしな。先生は褒めてくれたけど、工場で同じことしたら殴られるんじゃないかなぁ」
「そりゃないだろ、っていうか、これがちゃんと出来る人ってバッジホルダーなんだろ。新人にやらせるわけないって」
「まぁそうかもな。しかし宮城先生はあっという間に終わらせたけど、信じらんねぇよ」
「ゴールドバッジ持ってる腕利きの職工さんが『ゴッドハンド』って呼ぶからなぁ。普通じゃないよな、宮城先生」

 別の社員が切除した瞼を指さしながら口をはさんだ。那須陽一(なす よういち)と言う名の社員だ。

「でも、これを接合なんて出来るのかな? 切断面はそこそこ厚みがあるけど、眼瞼挙上筋とかの接合が厄介そうだよな。でこぼこになったらスムーズに瞼が開閉しなくなるし、眼球も傷つけちゃうしさ」

 少年もそう思うようだ。

「やっぱり陽ちゃんもそう思う? 俺も無理そうだと思うんだけどな。なんかコツとか特殊な治具を使うのかな?」

「わからんなぁ。まぁそれはともかくメシを食いに行こうよ。とっくに松崎さんたちは先生について食堂に行っちゃったぜ」

 那須がそう言うと、野沢も別の思惑がある様で少年を促した。

「空海、早く行こうぜ。俺は松崎さんの隣の席キープなんだからさ」
「おう、でももう指宿さんあたりが隣に座ってると思うけどな」

 那須が思うところがあるらしく、野沢に忠告する。

「ヤスさぁ、松崎さんが気に入ったのはわかるけど、あんまり強引に押すと逃げられるぞ。あの子、おとなしそうだし、今まで男と付き合ったこともなさそうだからな」

 野沢はまるでめげていない。

「えー? 俺ってそんなに強引? 普通だと思うけどなぁ。おとなしい子ならこっちから積極的に話しかけなきゃ、全然きっかけがつかめないじゃん」
「まぁ、そりゃその通りなんだけどさ。相手によって程度を加減しないと、って言う話だよ。これからずっと顔をあわせていく相手なんだし、おかしな事になるとお互いに辛いぞ」
「何? 陽ちゃんの過去にそういう思い出があるとか?」

 少年が混ぜっ返すと、那須はニヤリと笑って切り返す。

「そいつはノーコメントだな。 ていうかさ、空海は逆にそういう方面にうとすぎると思うんだけどな。大体お前、女の子の前で緊張し過ぎだよ」
「ほっといてよ! 気にしてんだからさ」

 ちょっとふてくされて少年が返事をすると、もう先の方へ歩いている野沢が大声で二人を呼んだ。

「早く食堂に行こうぜ。メシの時間が終わっちまうよ!」

湯布院教授の逆鱗

「バカ野郎! お前それでもロボット工学者目指してんのか? あぁ?」

 少年はしょっちゅうこんな感じで湯布院教授に怒鳴られる。今回は読書の内容についてだった。

「お前、アシモフを一冊も読んだこともなければ、アシモフのファーストネームも知らないって言うのはどういう了見だ? 手塚も知らない、チャペックも知らない、ロビィも知らなきゃHAL9000も知らない、ターミネーターも知らねぇしガンダムやアナライザーも知らないとか、俺には全く信じられねぇ!」

 少年はひたすら恐れ入って謝るばかりだ。

「すいません……」

 だが教授の怒りは全然収まらないどころか、エスカレートしていくばかり。

「すいませんじゃねぇんだよ、バカ野郎! お前、ホントにロボット工学者目指してんのか? 俺ぁな、ホムンクルスだのゴーレムだのといった話まで知ってろとは言わねぇよ。だがな、俺が挙げたのはたった百年かそこら昔の小説やムービーだぞ。その時代のイマジネーションが下敷きとなって、今のロボットがあるんだよ。聞かしてもらうが、お前はアトムやウランを知らないで、他に何を知ってるってぇんだ、言ってみろ!」

 少年は小説の類を読まないし、ムービーもそれほど見ない方だ。

「すいません、その手の小説とかムービーに出てくるロボットには、全然興味が無かったので知りません。僕が知ってるのはガラテア3みたいな実物のロボットばっかりで……」

 少年の『全然興味がない』という一言が、教授の逆鱗に触れたようだ、脳の血管が切れるんじゃないかと心配になるくらい激怒している。

「興味がねぇだと! テメェ、入社テストで日本史も世界史も零点だったが、ロボットの歴史も零点か、あぁ? 信じられん、全く信じられん」

 二科目も零点だったのか…… と、少年が変なところでショックを受けていると、教授が恐るべき課題を突きつけてきた。アシモフのロボット物を数冊指定され、週末の三日で内容の要約と現在の視点において、予測が正しかった部分と外れた部分とを示し、アシモフの予測の現実性について考察してレポートにまとめることになったのだ。同じ週末には翠先生の課題も出るはずだから、金曜土曜と徹夜して日曜日にギリギリまで頑張っても全部出来るかどうか…… 少年の週末はいきなりデスマーチ進行に決定されたわけだ。

 最後に湯布院先生がダメ押しに一言付け加えた。

「この課題をブッチギリやがったらタダじゃ済まさんからな。やっつけ仕事でお茶を濁すのも同様だ。加点しないだけじゃなくて、もっと決定的な何かが起こると思え」

 はっきり口に出さないが『未提出ならラボ行きは諦めろと言っている』と少年は思わざるを得なかった。そして湯布院教授は他の社員への課題を出さぬままに腹を立てて帰ってしまった。

「空海、今日は災難だったなぁ。アシモフなんて、俺も名前を知ってるだけで読んだことなんてねぇよ」

 野沢が少年に声をかける。野沢もあまり書籍に親しむタイプではない。

「俺、お伽話とかフィックションとか全然ダメなんだよな。学生の時だって『ロボティックス』や『ロボット工学会誌』とかの専門誌ばっかり読んでたしなぁ」

 ロボティックスは一般ユーザー向けのロボット技術誌なので少年でも十分理解できたが、工学会誌の方は学会の報文集だから所々が分かる程度で、はっきり言えば背伸びをして読んでいた振りをしていたというのが正しい。さすがに最近は集中教育の効果で、だんだんと理解できるようになってきてはいるが。

「でも、お前どうするんだ? 教授が読めっていった本、全部まともに読むとそれだけで三日以上かかっちゃうぞ」

 那須が少年に心配そうに聞く。実はアシモフなら那須はかなり読んでいるが、普通に読んで一日一冊程度だった記憶がある。すると松崎が少年に提案する。

「今回、湯布院先生は私達には課題を出さなかったし、元々ほとんどの課題って班ごとに出されるんだから、私達が手伝っても問題はないと思うんだけどな。二、三冊くらいならともかく、これだけの冊数だと手分けしてやらないと追いつかないよ」
「俺も、それに賛成だな。いつもどおりみんなで片付けようぜ」

 野沢が即座に賛成する。少年に同情したからというよりは、松崎と一緒に過ごせるのが重要ということのようだが。

「悪いな、みんな。そうさせてくれ。まさかこんなことでラボ行きを諦めるわけには行かないし、かと言って俺ひとりじゃとっても……」
「じゃ早く始めましょ。もう湯布院先生は帰っちゃったんだし、さっさと読んで要約を先に片付けるのが得策よ」

 そう言ったのは指宿和泉(いぶすき いずみ)、小柄で日本人形のような顔立ちの子だ。次席で入った優秀な女の子で負けず嫌い、そしててきぱきした性格だ。那須も少年に忠告を与える。

「そうだな。それと空海、お前は一応全部のストーリーに目を通せよ。多分お前に質問が集中するはずだし、その時にここは手伝ってもらった部分だからわかりません、なんて言えないからな。俺達も読んだことのない話には要約に目を通すことにしようぜ」
「じゃぁ、最初に要約の担当を決めようね。長い話は前半・後半で分けて二人でやることにしようね」

 松崎が割り振りを決めると、那須が期限を設定する。

「じゃぁ、明後日の金曜日の消灯時間までに要約は完成させよう。それから要約を完成させた人は、自分の担当以外のストーリーにも目を通しておくことにしよう。小説に書かれた技術の検討もしなきゃいけないしな」

 それを受けて指宿が週末全体の大まかなスケジュールを設定する。

「検討の方は土日で片付ければ…… あぁ駄目ね、もっと急がないと。金曜日の翠先生の授業で課題が出るはずだし、それで丸一日拘束されるはずだもの。翠先生の課題を土曜日にやって、湯布院先生の方を日曜日に片付けましょうよ」

 すると別の女の子が口をはさむ。霧島咲耶(きりしま さくや)という子で学生時代には校内のミスコンで5連覇達成という美少女だ。見た目は南欧系のハーフと言った感じだが、実際はコテコテ純血の日本人。ちなみに少年と野沢は彼女の見事なバストについつい目が行ってしまうので、彼女から敬遠されている。彼女は「サキちゃん」と呼ばれることが多い。

「翠先生の課題、一日で大丈夫なのですか? 週末の課題は厄介なのが多いのです。私達、いつも消灯まで粘って、それでも終わらなくて、結局土曜日も丸々使って片付けてるパターンが多いのです」

 指宿が即座に言い返す。

「大丈夫ですか? じゃなくて、片付けなきゃいけないでしょ。翠先生が言ってた『一定時間で解決する』って奴よ。いつもは先生が時間を決めるけど、今回は私達が自分で設定するわけよ。おわかり?」

 年齢は霧島が一つ上で、背丈も指宿は霧島より10cm近く低いのだが、霧島が性格的におっとりしていて押し出しが弱いので、キビキビして押し出しも強い指宿にはどうも分が悪い。

「うん、そう言われれば確かに指宿さんの言う通りなのですよ。頑張んなきゃです」

 もう一人の女の子が松崎に質問する。網代錦(あじろ にしき)という名で、体格の良い、いつもニコニコしている愛想のいい子だ。彼女も名前で「錦ちゃん」と呼ばれている。

「私、アシモフならこの本だけ読んだことあるよ。これ私が取って良いかなぁ? 読んだことのある本の要約の方が早く片付けられるじゃない?」
「そうね。本当は読んだことの無い物をやる方が勉強にはなるんだろうけど、そんな事言ってられないからね」

 指宿がそう答えると、読書があまり好きではない野沢がぼやく。

「しかし厄介な課題だよなぁ、俺は読書感想文みたいなのが一番苦手だったんだけどなぁ」

 間髪入れずに指宿がぴしりと釘を刺す。

「私達には課題の選り好みは出来ないのよ。出されたからにはやるしか無いの。頑張んなさいね!」

 何だか翠先生が乗り移ったような感じだ。野沢が頭を掻きながら少年に話しかける。

「空海、貸しだからな。来週みんなに奢れよ」
「了解だ。みんな頼むよ。月末には初月給がちょっとだけど出るし、そっちは任せといてくれ」

 松崎さんが慌てて止めようとする。

「そんな、ダメだよ。いつもみんなで課題をやってるんだし、今回だけ修善寺君に奢らせちゃ、おかしいよ」

 那須が笑って松崎に言い返す。

「あはは、良いって、本人も納得してるんだからさ。今回は有り難くご馳走になろうよ」
「でも……」
「アイツに飲み物でも奢らせて、会社の芝生でみんなで飲む程度で良いじゃない。並木の山桜がそろそろ咲きそうだしね」

 指宿がみんなの尻を叩く。

「はいはい、そんな先の話してどうするの? バカな話してないでさっさと作業を始めましょ。時間がないのよ、時間が!」

 一同がそろって返事をする。

「はぁーい」

 その日の消灯まで、みんな学習室で読書を続けた。そして彼らがベッドに入る頃、湯布院教授は自宅で翠先生に怒られていた。

イマジネーション

「あのね、あなたがアシモフが好きなのは構わないし、昔のロボット物のカートゥーンが好きなのも勝手よ。ロボットのフィギュアをコレクションするのもね。でも、何であなたの趣味をあの子達が押し付けられなきゃならないの? 二三冊本を渡して、これを読んでおけというならまだわかるわ。十冊近く本を押し付けて一日二日でレポート書いて来いって、それ一体何? 教育? ねぇ、あなた一体何考えてあの子たちを教えてるわけ? 言ってみなさいよ!」

 腰に手を当てた翠先生が、ソファに座った湯布院教授を睨みつけながら怒っている。教授は小さくなって弁解する。

「いや、だってさ、修善寺の奴はその手の教養が欠片もないんだぞ。全然興味がないとか言いやがるしさ」
「何言ってるの? そんな話をするなら別府博士はどうなるのよ。博士だってアシモフは知ってたって作品を読んだことは無いはずよ。何故かガンダムにはやたらに詳しいけどね。私だってアシモフは面白いと思うけれど、それと教育とは別でしょ」
「いや、あいつらは将来研究者になる人間なんだし、イマジネーション抜きで研究者になれるわけがないじゃないか。修善寺みたいになんにも知らないって言うのは極端すぎるだろ」
「無理やり読ませてレポート書かせるんじゃ、イマジネーションも何もあったものじゃないでしょうが! 教育効果を考えて課題を出してるの? 私には全然そうは思えないんだけど!」

 湯布院教授はまるで言い返せない。正直に言えば腹立ちまぎれに言い出してしまった課題で、本来は予め準備していた別の課題を出す筈だったのだから。翠先生はさらに畳み掛ける。

「あなたや別府博士達がロボットの研究に入った頃はまだ人工知能研究が未発達で、一部の研究者はアシモフのロボットに代表されるような人工意識の開発を半ば不可能視してた時代だっわよね。だけど今はそれこそ古典SFに出てきたようなヒューマノイド・ロボットがどこにでもいる時代なのよ。私達が研究を始めた時代には人工意識の開発を不可能視する流れに逆らうためにも、イマジネーションの力は今とは比べものにならない程大きかったと思うけれど、今はそうじゃないでしょ」

 研究者のイマジネーションについては湯布院教授にも考えがあり、気圧されながらも反論する。

「いや、そんな事はない。イマジネーションこそ研究者に求められる大事な資質の一つじゃないか。イマジネーションは専門バカの頭には決して舞い降りてこないよ。俺はあの子達が小粒にまとまってしまって、目先の研究だけに囚われてしまうのが嫌なんだよ。そして科学技術の遥かな未来を見ようともしなくなってしまうのはもっと嫌なんだ。俺はあの子達に、うつむいて足元だけ見て歩く研究者になって欲しくないんだ」
「もちろん足元をしっかりと見て、与えられた研究テーマを地味にコツコツとこなす研究者だって社会にとってかけがえのない存在だということは俺にもわかるよ。それはそれで尊い仕事なんだ。でも、俺はあの子達に科学の遥かに輝く地平、そして決して光射さぬ深淵に目が届く様であって欲しいんだよ。イマジネーションだけが、ともすればうつむいてしまう顔を高く上げさせてくれるんだよ」
「それはわかるわ、あなたがいつも言っていることだしね。でも今回のやり方は極端だし間違ってる。あんな課題を出したら、あの子達は今週末は課題以外何もできないし、悪くすると日曜日に徹夜をしても間に合わないかも知れないのよ。それに松崎さんや那須君あたりは読書好きだから、あなたが挙げた本は結構読んでいるはずだし、だとしたらとばっちりもいいところよ」
「いや、それはわかってるんだよ。それで君の今週の課題をペンディングしてくれって頼んでるんじゃないか」
「だから私が怒ってるのよ! こっちはキッチリとカリキュラム作って、それに従って教育してるんですからね。行き当たりばったりで計画変更する人の都合で、勝手にされたんじゃたまらないわよ! それとね、もう一つ言っておきますけど、宮城先生に迷惑かけたら承知しないわよ」
「わかってるよ。それにどうせ宮城君はニコニコ笑って断るに決まってるよ。だからさ、今回の分は俺の教育カリキュラムの方で調整して後で帳尻合わせるから、君の方の今週末の課題は何とか来週に回してくれよ」
「しょうがないわね。貸しですからね、後でちゃんと埋め合わせなさいよ」
「わかってるよ……」

 言いたいことを言い切って少し気が落ち着いた翠先生は、ソファーに座ったままの湯布院教授の背後に回ると両肩に手をおいて教授の顔を上からのぞき込む。

「あなたが修善寺君をとっても気に入ってるのはよくわかるのよ。あの子が気にかかるからこそこんな課題を持ち出したんでしょ。私は課題自体には賛成できないけど気持ちはわかるわ。私もあの子は大好き。残念ながらAI開発グループに入る適性はなさそうだけどね」
「あぁ、俺も向いてないと思う。あいつ自身はAIに行きたいみたいだけどな。AIはピグマリオンの花形だから」
「宮城先生もあの子を手元に欲しがってるわよね。会社を辞めさせて産総研大の自分の研究室に入れちゃおうかって冗談を言ってたくらいだし。この間、あの子に失敗させるつもりで難しい手技をやらせてみたら、一発でそこそこの結果を出しちゃってびっくりしたらしいわよ」

 湯布院教授はニヤリと笑い、翠先生に話しかける。

「彼にはあいつはやらんよ。もうあいつは俺の子分に決めてるんだから」
「彼が人工皮膚研究をやりたがったらどうするの?」
「どんどんやらせるさ。やりたきゃアクチュエーターだってやらせるし、人工神経系(ANS)だってな。ただし俺の手元でだ」

 翠先生が微笑みながら教授に小声で話しかける。

「本当に気に入ったのね」
「あぁ、ああいうネジの外れたバカがこの頃は殆ど入社してこなくなっちゃったからな。あいつには欠点もそれなりに多いけど、アレだけガッツのあるバカは少ないよ」
「そうね…… あなたはあの子が社員食堂で何してるか聞いた?」
「あぁあれな、格さんと一緒に自分の目で見たよ。俺が見た時には第三食堂でロシア製のウェイトレスが捕まっとったな。あいつ、周りの連中が呆れて見てるのに全然平気なんだよ。お前とはちょっとにらめっこしただけで真っ赤になるくせにな。ああいうド外れたロボットバカは本当に得難いんだ」

 格さんと言うのは有馬格之進常務の事である。修善寺教授にとっては大学時代の後輩である有馬常務と社長の別府博士は気安い場ではいまでも『格さん』と『三郎』なのだ。

「不思議な子よね。まだ入社して一月半、本格的に教育を始めて四週間なのに教育主任の三人全員にモテるんだものね。とんだプレイボーイだわ。そもそも入社試験で零点の科目が二つもあるのに、それでも一班に潜り込んでるんだから普通の子じゃないのよね」
「そうだな。ただ、今年はあいつだけじゃなくて他の新入りも粒がそろってるな。当たり年だと思うよ」
「えぇ、ただもう他の班は三分の二が脱落しちゃったけどね。例年より極端に早いペースだわ。三班から下のクラスは宮城先生と研究所の教育担当達が早くふるい落として楽しようと思って、相当きつく絞ったみたいなのよね」

 かすかに顔をしかめて湯布院教授がそれに答える。

「今年は一班と二班が生き残れば十分だからとか言ってやがったな、宮城君は。全く血も涙もねぇ話だよ」
「しょうがないわ、元々席は限られているのだもの。それでも落としたくない子は多少いるみたいね。多分二三人残るだろうって言ってたわ」
「そうすると、今年はとりあえず一ダース以上が生き残るんだな」
「そういう事になるわね。大漁で目出度いけれども有馬常務が大変よね。年少組養成には工場勤務職員の三倍以上の雇用コストがかかるんですもの」

 年少組候補者の給与と一般職員との給与に差はほとんどないが、年少組候補者には教育コストが莫大にかかるために、会社の負担は非常に大きい。会社もそれだけの期待をかけているのだ。

「まぁ、格さんには頑張ってもらうさ。年少組はまだまだ少なすぎる。早く大卒組を追い抜くくらいの数を揃えなきゃな」
「それを一番望んでいるのが常務だものね。そもそも年少組の制度だってあなたと常務の発案だし」

 元々自社工場を持たないファブレス企業だったピグマリオンは、かつては博士号を持たない社員が少数派だったほど大学院卒の比率が高かったが、自社でガラテア2の生産工場を持った機会に、現場叩き上げの開発者をじっくり育てたいという二人の意向で、年少組の社内制度が徐々に整えられてきた経緯がある。

「一班と二班は全員残れるかしら?」

 難しい顔で湯布院教授が答える。

「二班は二三人微妙なのがいるけど、一班は一人も脱落させたくないよ」

 翠先生がいたずらっぽく微笑んで耳元で教授にささやく。

「そう思うんなら、これからは無茶な課題はやめてあげてね」
「あぁ、反省してるよ」

 眼を閉じて、ため息混じりに教授がそうつぶやいた。

美少女の定義

 湯布院教授の課題が出た週末は、翠先生の課題がなくなったために一日余裕が出来そうだった。しかしながら第一班の人間は翠先生に日曜日に自宅に来るように言われたため、週末は結局全て潰れてしまうことになった。
 ただ、野沢の親戚に不幸があって日曜日に葬儀に出席となったため、野沢抜きで湯布院教授の家に行くことになった。昼御飯をご馳走してくれるということなので、十一時過ぎに湯布院教授宅の最寄り駅に集合する事とした。

「空海さ、先生は駅に迎えの娘が来てるって言ってたけど、どの子だろうな?」

 那須が周りを見回しながら少年に聞く。少年もわからないようだ。

「先生の娘さんだよね。やっぱり翠先生みたいな感じじゃないの? 和倉先輩が『すごい美少女だぞ』って言ってたし」

 真面目くさった顔で那須が言う。

「美少女ってことは、湯布院先生には似なかったって事だよな」
「理論的にはそうなるよねぇ。湯布院先生似の美少女って、常識的な想像力の外側にあるもんね」
「美少女の定義をどうにかしないと無理だよなぁ。いかつい顔でもOKとか」
「それ、定義の拡張が強引すぎて破綻してない?」
「そうだなぁ、一般常識に反し過ぎるよなぁ」
「しかし陽ちゃんもひどいこと言うよね」
「いや、お前の方がひどくない?」

 二人が湯布院教授に聞かれたらタダでは済まない様な話をしている間に、松崎が見つけたようだ。

「あの子がそうじゃない? キョロキョロしてるし、翠先生に似た感じの子だし。ほら、あの青いデニムシャツ着ている子」

 指宿がそちらに歩いて行って確認する。彼女は決してモタモタしない。

「あの、私はピグマリオン社員の指宿と言いますけど、湯布院先生の娘さん?」

 少女がニコッと笑う。痩せて背の高い女の子だ。指宿よりも頭一つ以上高い。少年よりもちょっと低い程度だ。

「はい、そうです。湯布院珊瑚です。えぇと、他の社員の方はどこですか?」
「あぁ、あそこにゴチャッと固まってるのがそうよ。みんな、こっちよ!」

 指宿に呼ばれ、みんながそちらに集まり、それぞれ自己紹介する。

「松崎聡華です。初めまして」
「湯布院珊瑚です。家までは歩いて直ぐですから案内しますね」
「霧島咲耶です。よろしくね」
「那須です。初めまして」
「あ、修善寺です。よろしく」
「網代です。珊瑚さん、翠先生にそっくりだね」

 挨拶が済むと珊瑚はみんなを自宅まで案内して行った。女の子は珊瑚を中心に固まって歩きながら話している。その間、彼女達に聞こえない位の小声で少年と那須がこそこそ話をしている。

「やっぱり翠先生似だったね、陽ちゃん」
「そりゃそうだろ。湯布院先生に似なくてほんとに良かったよな、あの娘。えぇと珊瑚ちゃんだっけ」
「でも和倉先輩の言う通り、すごい美少女だよね。モデルのバイトとかやってそうじゃない?」
「だよな。背もすらっと高くてあの顔立ちだもん。モデルか美形の子役女優かって感じだよな」
「顔の感じは六年生か七年生くらいだけど、その割に背が高いよね。来年あたりは俺、負けてるかも」
「まぁ、お前はちょっと平均より低めだしな」
「ちぇ、陽ちゃんは背が高いからいいよな。俺もあと5センチ欲しかったな」

 少年は周りの友人がみんな背が高くていつでも一番チビだったので、身長にはちょっと劣等感を持っている。

「珊瑚ちゃん、ちょっと痩せてるよな。まぁ、これからどんどん成長するんだろうけどな」
「サキちゃんくらいのバストになったら無敵だろうね。サキちゃんも超弩級の美少女だけどさ」

 声をさらに潜めて那須が少年に忠告する。

「空海さ、霧島の胸の話はやめとけ。多分あの娘、その手の興味を本気で嫌がってるぞ。それと、お前とヤスはあの娘の胸元見過ぎだよ。これから同じ班で長く付き合うんだから、女の子には気を使っておけよ」
「え? ヤスはともかく、俺そんなにジロジロ見てる?」
「見てるよ。どっちかと言えばヤスよりお前の方がな。一人の女の子に完全に嫌われちまうと、その子の友達からも総スカンだぞ。そりゃもう残酷な位にな。そうなりたくないだろ?」
「そりゃそうだよ。俺、学校時代は実際そうなってたんだから、ここでまたそれを繰り返したくないよ。でも、俺そんなに見てる?」
「あぁ、誰が見ても失礼だって言うレベルでな。お前は人から自分がどう見えてるかを、もう少し気にしたほうがいいと思うぞ」

 そうこうしているうち、駅から歩いて十分足らずの場所にある四十階建ての超高層アパートに到着した。その三階に湯布院教授の家はある。エントランスホールで翠先生が出迎えてくれた。

「いらっしゃい、みんな。お休みなのに来てもらってごめんなさい。うちの人が月曜日まで待てないから今日課題を受け取るとか急に言い出しちゃって。ホントに計画性がないのよね」

 済まなそうにそう言って、迎え入れてくれる。珊瑚はみんなに会釈して先に行ってしまった。今までニコニコして女の子同士で話していたのに、ちょっと、素っ気無い感じだ。翠先生が振り返って珊瑚の後ろ姿を見ている。

「いえ、こちらこそお邪魔してしまってすいません。野沢が親戚の不幸で来れませんけど、あいつもちゃんと一緒に課題やりましたんで、よろしくお願いします」

 那須がそう言って頭を下げる。

「えぇ、わかってるわ。じゃ、こっちだから」

 翠先生はそう言ってエレベータホールに歩いていく。珊瑚は階段を上がったらしく、もうホールにはいなかった。

あんたバカでしょ?

 家に入ると奥から湯布院教授の声がする。

「おう、早かったな。いま飯の準備してるから待ってろ」

 少年が怪訝そうな顔で翠先生に質問する。

「湯布院先生が作ってるんですか?」
「えぇ、うちでは交代で食事を作るから。今日はあの人がシェフで私が給仕と片付けね。あれで私より料理は上手よ」

 微笑みながら翠先生が答えてくれる。湯布院先生、あんな薩摩芋みたいな指で料理するのかぁ、と少年は失礼な感想を頭に浮かべる。霧島がリビングに漂ってくる匂いに反応している。

「美味しそうな匂いがします。お魚焼いてますね」
「あの人がお魚大好きなのよねぇ。アメリカでは三食ともハンバーガーで済ませて平気なくせにね」

 呆れ顔で翠先生が愚痴る。水産資源量の激減で鮮魚の価格は魚種にもよるが20年前の2倍、50年前の10倍になっている。昔から高価な国産和牛よりも更に高価な食品になっているのだ。今日は鯖を焼いているが非常識に高価な国産近海物だ。かつてはノルウェー産が手頃な価格だったが、大西洋では鯖が禁漁になって久しい。

「とりあえずみんな座って。もうそろそろ出来るから」

 そう言って翠先生がキッチンに入る。霧島もキッチンに行きながら翠先生に声をかける。

「あ、私もお手伝いするですよ。大勢いるし配膳だけでも大変じゃないですか。私、お料理大好きなのですよ」
「私も手伝いましょうか。配膳くらいならお手伝いできますから」

 松崎も手伝いを申し出るが、翠先生は笑って言う。

「ありがとうね、みんな。でも、キッチンが狭いからあまり人が入れないのよ。そうしたら、悪いけど霧島さんお手伝いお願いね」
「はい、任せてください。何でもお手伝いするです」

 いつになく霧島が元気だ。ポーズではなく、本当に料理が好きらしい。しばらく待つとキッチンから戻って配膳を始めた。

「空海、あのな……」

 小声で那須がつぶやく。あれだけ言っても霧島の胸元に少年の視線が行くのだ。本能のなせる技だし那須にも気持ちはわかるとはいえ、そういう言い訳が女性に絶対に通用しないのも那須には分かっている。那須は心のなかで嘆息する。
 少年にも那須のつぶやきが聞こえて自分でも気がついたのか、うつむいて赤面している。霧島も見られているのは分かっているのだが、そういう視線に晒されるのに慣れている部分もあり、表情も変えずに無視している。もちろん内心では少年に憤っているのも間違いない。また、那須が少年をたしなめたことも何となくわかった様だ。松崎と指宿は見て見ぬふりで、網代はいつもどおりニコニコしていて、分かっているのか分かってないのか見極めがつかない。

「待たせたな。じゃ、食事にしようか。霧島君には手伝ってもらっちゃったな。ありがとう」

 湯布院先生がキッチンから出てきて自分の席に座る。ちょっとした会議室ほどもあるかなり広いリビングなのだが、10人そろって食事ができるくらいテーブルが大きいので部屋が小さく見える。

「ではいただきましょう」

 そう翠先生が言って食事が始まった。珊瑚がテーブルについていないので不審に思った松崎が質問する。

「あの、珊瑚さんはお昼を一緒に食べないんですか?」
「友達と一緒に帰り道で食べてきちゃったらしいの。もったいないわよね、あの子の分も準備してたのに」

 そう翠先生が答えると、湯布院教授も一言付け加える。

「まぁ、晩飯に取っておけばいいじゃないか。魚は冷蔵庫に入ってるんだし、塩焼きするだけなんだからさ」
「そうね……」

 翠先生はちょっと寂しげだ。指宿が湯布院教授に質問する。

「珊瑚さんは何年生なんですか?」
「あぁ、十年生になったところだよ。先月二回目のスキップをしたから十二歳になったところだね」
「えぇ? まだ十二歳なんですか。それでもあんなに背が高いんですか、いいなぁ」

 指宿は本当に羨ましい様だ。それを聞いて翠先生が笑いながら指宿に話す。

「でも、あの娘はもうちょっと背が低い方が良かったって言ってるわよ」
「えぇ? 背は高い方が良いよねぇ、松崎さん」

 食べている最中に急に振られた松崎が、慌てて返事をする。

「うーん、私も背が低いから、やっぱりもうちょっと高いほうが良かったかな」

 網代が話に混ざる。彼女は平均より上背がある方だ。

「でも、背が低めの方がカワイイって言われそうじゃない。私もちっちゃい子がちょっと羨ましいと思うけどな」
「でもあんまり背が低いと、服とかみんなオーダーになったりとかさぁ。デザインが子どもっぽいのが多かったりとかあるじゃない」
「それは背の高い方が深刻だと思うけどな。大きいサイズって、どうも選択肢が少ないような感じじゃない?」

 なんだかもう、珊瑚の話はそっちのけになっている様だ。

「えー? 私の着たい服ってみんな…… って、修善寺君さぁ、もうちょっと綺麗に食べられないの? 焼き魚食べたこと無いの?」

 いきなり話題が変わって少年が狙い撃ちされる。実は少年は骨抜きした切り身の魚しか食べたことがないので、焼き魚がひどいことになっている。

「あるけど、骨付きの魚は……」

 少年は容赦なく指宿に突っ込まれる。

「松崎さんとか翠先生の皿を見てみなさいよ。ぜんぜん違うでしょ。頭から尻尾まで食べろとは言わないけど、もうちょっときれいに食べなさいよ。大体お箸の持ち方からして駄目じゃないの、あなたは」

 別に指宿は少年を嫌っているわけではないのだが、どうしても一言二言言いたくなるようだ。那須が苦笑しながら話に割り込む。

「何だか口うるさい姉と、ダメな弟の会話みたいだなぁ」

 指宿も笑いながら返す。

「あぁ、言われてみればそうね。うちの弟達もこんな感じなのよねぇ、背格好も修善寺君と似たり寄ったりだし。何だか嫌な親近感があるわね」

 少年が言い返す。

「弟さんたちも大変だよな、こんな口うるさいお姉さまがいるんじゃ。家で気の休まる暇が無いんじゃないの?」

 だが、すかさず指宿に切り返される。

「はいはい、お喋りは良いから早くきれいに食べなさいね。いつまでモタモタ食べてるの? 周りを見てみたら? あなただけよ、半分以上料理が残ってるのは」

 霧島も追撃体制だ。さっきの意趣返しもあるのかも知れない。

「今はお魚がすごく高いのです。骨にいっぱいお肉が残ってるです。こんなに食べ残したらもったいないです。罰が当たるです」

 笑いながら湯布院教授が助け舟を出す。

「いいよいいよ、ゆっくり食えば。別に急いで食べたからって賞金が出るわけじゃないしな。ただ、焼き魚ってのは冷めちまうと旨くないから、冷める前に食えよ」

 そして、食事が終わると課題の提出になった。要約を交代で朗読した後、技術検討のレポート発表となる。本来は少年一人に課された形の課題だったが、結局のところ発表はそれぞれ分担して順番にやることになった。内容には満足してもらえたようで、湯布院教授は終始笑顔だった。

「かなり厳しい課題だったが、よく期限内で片付けたな。おそらく指宿君あたりが仕切ってみんなの尻を叩いたんじゃないかと思うが」
「えぇ? そんなことないです。那須君や松崎さんが頑張ってくれたからですよ。実際、要約はこの二人で半分以上片付けたんです」

 指宿が謙遜している。もっとも、場を仕切って尻を叩いたのは間違いなく指宿だったのだが。すると、湯布院教授がジロッと少年を見る。

「何だ、修善寺にやらせるはずの課題だったのになぁ」

 松崎が取り繕って説明する。

「私と那須君は、一回読んだことのある本の要約だったのですぐ終わったんです。時間に余裕がなかったので、他の人の担当分をさらに分けて作業したので、そういうことになりました。でも、修善寺君は最終的にはみんなで作った要約を読んだだけではなくて、ほとんどの作品を読了しているんですよ」

 那須も援護してくれた。

「レポートの部分は初期段階でかなりみっちりと討論しましたけれど、そこでは指宿さんと修善寺が一番仕事をしたと思います。 まとめの段階ではやはり松崎さんが頑張ってくれたなと思いますね」

 翠先生が質問する。

「その評価の根拠は何かしら。順に説明してくれるかしら、那須君」
「はい、討論ですが、指宿さんと修善寺は発言量が違いました。指宿さんは基礎的な物理学などの学問に沿った視点からの意見が目立っていて、レポートに取り込まれた分量は修善寺よりも多かったです。逆に修善寺は常識をわきまえないようなとんでもない意見も多くて、レポートに採用された物は少ないんですが、他の人間が考えつかないような視点からの意見をどんどん出してくれたおかげで、議論自体が非常に活性化しました。正直に言わせてもらえば、普段は野沢や霧島さん、それに網代さんが討論の場で活発な意見を出すことって少ないんですけれど、今回は全員がかなりテンションを上げていたと思います」
「まとめの段階ではどうだったのかしら。松崎さんが頑張ったということだったけれど」
「そうですね。討論が活発だった分、それを絞り込んでまとめていく作業が大変だったんですが、彼女が一旦意見を出すと、大体その線で議論がまとまっていった感じがありました。それと議論を収束させていく段階では指宿さんもかなりアイデアを出してくれたと思います」

 湯布院先生も質問する。

「なるほど、それでは那須、お前はどこで頑張ったんだ? 何だか監督していたみたいな言い草だったが」
「え…… あ、そうですね。要約は確かに他の人より多くやってます。実は先生が課題に出した本はほとんどが読んだことのあるものでしたから。ただ、それ以降は他の人に頼りっぱなしと言いますか、あまり役に立ってなかったのではないかと思います」

 少年が話に割って入る。

「いや、それはないと思うけど。陽ちゃ…… いや那須君は議論でも結構発言してたし、まとめの議論を聞き取って、最終的に文章にまとめて清書したのはほとんど陽ち…… 那須君の仕事だったし」

 湯布院教授が苦笑しながら言う。

「もういい、陽ちゃんで。全く、子供かお前は…… それとな、那須。お前はちゃんと人の仕事を評価出来ているんだから、自分の仕事も正確に評価して人に報告できなければいかんぞ。自分の能力をフカスのはバカ丸出しだが、変に謙遜して過小に申告するのも会社にとって害があるんだ。わかったな」
「はい」

 小声で那須が返事をする。何だか叱られているような感じだ。

 すると翠先生が力づけるように言葉をかけてくれる。

「こんな思い付きのメチャクチャな課題なのに、みんなよく頑張ったわね。良いレポートよ、自信を持ちなさい」
「いや、思い付きなのは認めるけど、そんなにメチャクチャじゃ……」

 湯布院教授が小声で反論するが、ピシャリと一言で撃退された。

「分量がメチャクチャよ。おかげで私が課題を出せなかったじゃないの」
「それは後で埋め合わせるよ。勘弁してくれよ、生徒の前なんだからさ」

 みんな、笑っていいものかどうか判断がつきかねて複雑な表情だ、一人を除いては。

「あははは、湯布院先生も、翠先生には弱いんですねぇ」

 少年は屈託なく笑ってそう言ったが、周りを見ると『うわ、こいつ言っちゃったよ』感が充満している。これはちょっとまずかったかなと思っていると、湯布院教授が黒い笑いを浮かべて少年に言う。

「楽しそうだなぁ、修善寺ィ。明日も楽しいぞぉ、課題楽しみにしてろよ、とびきり歯ごたえがある奴を準備してやるからなぁ。楽しいぞぉ」
「え? は、はい。頑張ります」

 翠先生も困ったような顔で少年を見ている。

「今のは君の身から出た錆だからね。課題、頑張ってね」

 みんなの目が言っている『また? またとばっちり? ねぇあんたバカでしょう? バカなんでしょう?』と。

誓言

 少年は寮への帰り道にずーっと責め続けられて、結局はその日夕食を奢らされることになった。

「空海なぁ、お前は何で『言わなくていい一言』が我慢出来ないんだよ」

 那須には既に酒が入っている。庇ってくれる気配は皆無だ。当然指宿にだって容赦はない。

「デリカシーがないにも程があるわよ。あなたは自分が湯布院先生の立場で、自分の教え子にあんなこと言われてガマンできるわけ?」
「いや、多分無理なんだけど、その…… つい……」

 霧島もこの時とばかり責め立てる。元々少年にそれほど好印象を持っていないから口調はアレだが、内容は辛辣だ。

「自分がされるのは許せないのに、人には平気で口にするって恥ずべき事なのです。人間としてどうかと思うです」

 網代は大ジョッキを手にして相変わらず笑っている。

「アハハッ、キツイねーサキちゃん。でも、あの湯布院先生の目の前であの発言って凄いよねー。翠先生がフォローしようがなくて困った顔してたもんね。あんな翠先生見るの初めて」

 法事が終わってから合流することになった野沢が、店に入って来た。飲み物を注文して話しに加わる。

「何? 空海がまた何かやったって? また厄介な課題が出たの?」
「まだこれからだけど、明日が憂鬱よ。湯布院先生の笑いが不気味だったわぁ」

 そう言って指宿が溜息をつく。

「何やらかしたわけ? こいつ」
「いや、湯布院先生が翠先生に『メチャクチャな課題を出して!』って怒られててさ、それ見てこいつ思い切り笑っちゃったんだよ。周りが全員笑わないように我慢してるのにだぜ。そうしたら、湯布院先生がな……」

 那須が肩をすくめてそう説明する。少年も済まなそうに付け加える。

「いや、俺は湯布院先生があんなに翠先生に弱いとは思っても見なくてさ、思わず笑っちゃったんだよな。みんなも笑うかと思ってたら、笑ってるの俺だけでさ。あ、マズイかなと思ったときにはもう遅くてなぁ」

 野沢が呆れて返事をする。

「お前、何でもそうだけど全然我慢ができないからなぁ。うちの犬だってお預けくらいできるのによー」
「犬以下なのかよ、俺。ひどくない? それ」

 少年が口を尖らせると、霧島が反駁する。見た目からはそう見えないが、相当腹を立てている様だ。

「何逆ギレしてるですか? 修善寺君は今の立場わかってるですか? 文句言える立場ですか? 全然我慢が出来ないって言うのは、それを言われてるんだって事がわかってるですか?」

 網代も笑いながら追い打ちをかける。

「修善寺君は黙っててもすぐ顔に出るしねー わかりやすくて見てて楽しいんだけどさ、やっぱりそういう人はお子ちゃまだって言われちゃうよ」

 野沢がさすがに哀れに思ったか、少しだけフォローする。

「まぁ、こいつがお子ちゃまだってのは共通理解だからさ。今更責めてもかわいそうだろ。その代わり裏表もないんだしさ」

 食べ物の注文を終わらせた那須達が話しに加わる。

「週末キツイ思いしたと思ったら、また明日もなんだもんなぁ。ただでさえ集中教育は厳しいって言うのに、わざわざ更に過酷にしてくれるんだもん、こいつ」

 少年は平謝りだ。

「うー、ゴメンなさいー」

 ずっと黙っていた松崎が口を開く。

「確かに、あそこで笑っちゃったのは失礼だったし、明日の課題を考えると気が重いけど、修善寺君はここまでの帰り道でも散々みんなから怒られたんだし、そろそろ勘弁してあげれば? もう料理も来るんだし、そろそろ気分を切り替えようよ」

 だが霧島が納得しない。相当今まで溜まっていたようで、ここにきて一気に怒りが開放されたかの様だ。

「松崎さん甘いのです。今までのやりとり聞いていても、修善寺君全然反省して無いのです。自分の性格だから仕方ないって開き直ってるのです。このままだと、この先何回でも同じことしてくれるのです。こっちがたまらないのです!」

 松崎はあっけに取られて黙ってしまう。いつもはポーッとしている霧島が、ここまではっきり少年への反感を示すとは思っても見なかったので、どうフォローしたものか見当がつかない様だ。

「じゃあさ、サキちゃんはどうすればいいと思う?」

 網代がズバリと質問する。ニコニコしているが目が笑っていない。

「え? それは…… それは修善寺君が自分で考えなきゃいけない事なのです。私がどうこうしろと言うのはおかしいのです」
「じゃぁ、とくにサキちゃんは修善寺君にああしろこうしろと言う気はないんだ?」
「私にそこまで偉そうなことを言う権利はないのです。ただ、那須君が言うように毎日毎日厳しすぎる課題を持ち込まれるのは勘弁なのです。こんなことが続いたら、私達全員が集中教育に落ちてラボになんて行けなくなるです」
「だってさ。修善寺君はどうする気なの?」

 少年は既にかなり凹んでいて、半分思考が止まったような状態だったので、少し慌てて返事をする。

「そうだな…… 開き直ってるって言われたのは、やっぱりその通りで言い返せないんだよな。減らず口はガキの頃からで、それでずっと叱られ続けて何発親父に殴られたかわからないくらいなんだけど、やっぱり治らなかったしな。でも、俺のせいでみんながラボに行けないなんてことになったら、責任の取り様が無いよな……」

 少し考えて、少年は言葉を続ける。

「ここで約束するよ。もし、俺のせいで今回みたいな事がまた起こったら、俺はそれ以上みんなに迷惑をかけない様に集中教育の受講を中止する。それで勘弁してもらえないかな?」

 松崎と那須が同時に言葉を発する。

「ちょっと何言い出すの? 修善寺君」
「お前何言ってるんだよ、俺達はそんな話までしてるわけじゃないだろうが!」

 少年はかすかに微笑して深めにうつむいて瞑目し、両手を組んで小声でもう一度繰り返した。

「父と子と精霊の御名において誓います。今度同じような迷惑をみんなにかけたら、ラボ行きを諦めます」

 網代が少年に向かって話しかける。あっけに取られたのか、もう笑みはかき消えてひどく真面目な顔をしている。

「修善寺君はクリスチャンだったんだね。でも、本当にそれでいいの?」
「あぁ、俺は戒律を破ってばかりの悪いクリスチャンだけどね。神父様には『神様の名で誓うのは戒律に反する!』って凄く叱られるんだ。だけど俺は今まで誓言を違えたことは一度もないんだよ」

 那須が話に割って入る。かなり動揺している様子だ。

「お前、何言ってるんだよ。酔っぱらって誓いもクソもあるかよ」
「陽ちゃん、俺まだ一滴も呑んでないよ。ここはみんなへのお詫びのための席だったんだし、そこで俺が呑んじゃうほどバカじゃないよ」
「自分で何言ってるか分かってるのか? 一旦教育を外れると再受講なんて出来ないんだぞ」
「わかってる……」
「あのな、湯布院先生にしろ翠先生にしろ、俺達をやめさせるつもりで課題を出しているわけじゃ無いんだぞ。それが証拠に今回は翠先生の課題を待ってくれてるじゃないか。まだ集中教育が始まって一月ちょっとだけど、それは俺たちみんなわかってることだろう。バカな誓いは取り消しとけよ」
「陽ちゃん、俺、神様の名前で誓言したんだよ。それを違えるならその場でキリスト者として死ぬか、神様の教えを捨てるかどっちかなんだよ。もう一つ言っておけば、陽ちゃんたちとの約束と誓言は別のものだよ。誓言は神様との約束だからね」

 一旦腹が決まると、少年はとことん頑固だ。まだ一月半ほどの付き合いだが、那須にはそれがわかってきている。

「わかった。じゃあこれだけは受け入れろ。お前が俺達に迷惑をかけたかそうでないかは、俺達に決めさせろ。俺たち全員が『迷惑だ』と言わない限り、絶対にバカなことをするなよ。約束してくれ」
「わかったよ。それでいいよ」

 網代が表情はあまり変わらないものの、やや唖然とした感じの霧島に聞く。

「サキちゃんもそれでいい?」
「……私には修善寺君が何を誓うべきだとか、そうでないとかを言う資格がないのです。そういうことは修善寺君が自分で決めて欲しいのです」
「いや、そっちじゃなくて那須君が言った方」
「那須君の言うとおりでいいのです。那須君が見てないと、修善寺君は一人合点してとんでもないことをしそうなのです」

 松崎がポツリと言う。

「みんな、料理冷めちゃうよ。早く食べよ。修善寺君も食べなよ。さっきから何にも口にしてないよ」

 ずっと黙っていた指宿が沈んでしまった場をフォローしようと、努めて明るく話しだす。

「修善寺君さぁ、ほんとに大丈夫なの? 今まで見てるけどホントに減らず口多いんだよねー 結構かわいい顔してるのに、何でそのセリフが出るかなって不思議なのよねー」
「ホントだよな。普通、湯布院先生みたいなエライ人には怖くて突っ込めないぜ。学校でもそうだったのかよ、お前」

 野沢もフォローに必死だ。元々、こういう重い雰囲気が大嫌いなのだ。

「まぁな。何かエライ人とか先生とかには一言言いたくなっちゃうんだよなぁ。でも、これからはちゃんと我慢するよ。自信ねぇけどさ」
「自信ないとか言ってる場合じゃないでしょ。それが開き直りだって言われてんの! ちゃんと我慢しなさいよね、子供じゃないんだからさぁ」

 結局、野沢や指宿の努力も空しく夕食は盛り上がらないままお開きとなり、全員寮に戻った。寮に戻ってからも消灯までに時間があったので、那須は少年と野沢を自分の部屋に呼んだ。

「空海よ、ちょっとさっきのは極端すぎるだろう。確かに霧島はかなり怒ってたけどお前に辞めろって言ってたわけじゃないんだぜ。あれじゃ、却って彼女がかわいそうだよ」
「でも、俺達はみんなラボに行くために頑張ってるんだし、その足を俺一人が引っ張ってるんなら、やっぱり責任取らないわけには行かないよ」
「何遍も言うようだけどさ、湯布院先生達は俺達をラボに入れさせないために課題出してるわけじゃない、ってのをわかってるか?」
「わかってるけどさ、でも『お前のせいでラボに行けなくなったら……』って言われちゃったら、俺はもうああ言うしか無いよ」
「だから冷静になって考えてみろよ。お前が湯布院先生にどれだけマズイ口をきいた所で、それが原因で俺たち全員を見限るなんてことがあるわけがないだろ。それぐらい霧島にだって分かってるよ」
「でも、あそこまで言うんだから、やっぱり彼女は俺と一緒の班でやって行きたくないんだって考えるしか無いじゃないか」
「だからそれが違うって言ってるんだよ。俺は彼女と親しいわけじゃないけど、どう考えても今日のは勢いで出た言葉だよ。お前はあの娘の言葉尻を悪い方へねじ曲げて考えすぎてるよ」

 少年はうつむいて言い返せない。野沢も少年に質問する。

「例えば百歩譲って、咲耶がお前を辞めさせようと思ってるとするだろ。で、お前は『あの娘が嫌がってるから俺はラボ行きを諦めます』って言うわけ? 俺なら、あの娘の機嫌を取り持って何とかしようと思うんだけど」
「お前ならヘソ曲げた女の子の機嫌を取ることだって難しくはないんだろうけど、俺にゃ絶対無理だよ。ここに来てからは松崎さんとか指宿さんが結構気さくに話しかけてくれるけど、学校の時には俺に話しかけてくる女の子なんて一人もいなかったんだぜ。もともと女に好かれる質じゃネェんだよ、俺」
「だからって、諦めて工場行くのかよ」

 そう野沢が言うのを那須がたしなめる。

「ヤス、そういう問題じゃないんだよ。こいつは霧島が自分をとことん嫌ってるって考えてるけど、それが間違ってるって言う話なんだよ」

 少年が那須に弱々しい口調で質問する。

「先生の家に行く途中で、陽ちゃんが俺に霧島さんの胸ばっか見るなとか注意したけど、やっぱりああいうのがまずかったんだよね?」
「まぁそうなんだろうとは思うけど、はっきりとはわかんないよ。俺だってあの娘と話をする機会は多くないしな。でも、本気でお前のことを嫌ってたら、もうお前とは口をきかずに周りの空気を固めてるよ」
「それって、どういう事?」
「指宿さんや松崎さん、網代さんまで巻き込んでお前を黙殺しにかかるってことだよ。最後は俺やヤスも巻き込んでな」

 那須は自分がやられたわけではないが、そうなった奴を見たことがある。少年は実際に自分がやられてるので、それがどれほど効くかはよくわかっている。

「あぁ、わかる。そう言えば俺がそれやられた時も、直接には女の子たちに何も言われなかったもんな」
「だろ。霧島は直接お前に文句言ったんだから、そこまで状態は深刻じゃないと思うぞ」
「錦ちゃんあたりなら、ある程度わかるんじゃねぇの? あの二人は工場でも部署一緒だし、仲よさそうじゃんか」

 野沢が那須に言う。逆に言うと松崎や指宿は少年や那須達とも話す機会が多いのだが、あの二人はややグループから浮いている観がある。那須が野沢に返事をする。

「まぁそうかも知れないけど、今日はもう無理だろ。もしかすると今頃二人で話してるかも知れないしな」

 那須の勘は正しく、網代は自分の部屋に来るなり泣き出した霧島を慰めている真っ最中だった。同期入社ではあるものの二年スキップした網代は一年スキップの霧島より一歳下なのだが、しっかり者の網代の方が頼られてしまっているのだ。
 今回の件では霧島にはそれほど少年を追い込んでいる自覚はなく、単純に怒ってまくし立てていただけなのだが、とんでもない方向に少年が走って行ってしまったので困惑している。確かに少年の無遠慮な視線を腹立たしく思っていたのは事実だが、下ネタまで口にする野沢よりはマシだと思っていたし、ましてや居ない方が良いとまでに嫌っているわけでは全く無いのだ。
 網代の方は霧島の感じていた不愉快の程度も分かっていたし、いつも我慢して何も文句が言えなかった霧島に同情してもいた。だからたまには不満を爆発させてもいいだろうと思ってつい煽ってしまったのだが、少年がいつも湯布院教授にするように平謝りするものだと思っていたら、辞めて責任を取るみたいな話を始められてしまったので、こちらも困惑気味だ。

「サキちゃんさ、もう泣かないで大丈夫だって。しばらく修善寺君とは気まずいかも知れないけど、私が何とかするからさ。明日、指宿さんとか那須君とかに相談するってば。どうせ男どもは今頃三人であーでもないこーでもないって悩んでるはずだし」
「でも私、明日からどうしようなのです。もう修善寺君の顔をまともに見れないのです。那須君も松崎さんもきっと口をきいてくれないのです」
「だからー、大丈夫だって。那須君も松崎さんも優しいからわかってくれるよー。修善寺君とは暫く口がきけないかもしれないけど、まぁそれは我慢しようよ。そのうち仲直り出来る様にするからさー」

 結局、消灯後も霧島は自分に部屋に帰らず、来客用の簡易ベッドを寮長に頼んで借りてきて二人で眠った。霧島は大泣きした割にすぐ眠ったが、網代はなかなか寝付けなかった。

作戦会議

 翌日の早朝、那須は寮の内線電話で指宿や網代を呼び出して一緒に食堂で朝食がてら打ち合わせをした。もちろん少年と霧島の件である。寮から一番離れた位置の食堂なので、他の寮生と一緒になる心配は少ない場所だ。

「おはよう。錦ちゃん目が赤いけど大丈夫か? 寝不足じゃないの?」

 那須が網代に声をかける。泣いていたのではないかと思うくらい網代の目が赤い。

「うーん、眠いよー。サキちゃんは隣でぐうぐう寝てるのに、私は全然寝られなくてさー」
「アハハッ、苦労するねぇ、お姉さんは」

 指宿が網代をからかう。

「私の方が一つ年下なのにー。 でもサキちゃんって二つ下の松崎さんにまで甘えそうなんだよねー。参っちゃうよ」

 那須が霧島の様子を確認する。霧島の少年への心証が非常に気になっているのだ。

「錦ちゃん。霧島さんの様子はどんなだった? まだ空海に怒ってるの?」
「ううん、昨日は私の部屋に来るなり泣き出して、どうしようどうしようって大変だったもん。怒るなんて余裕は全然無いよ」

 指宿が那須に質問する。

「修善寺くんはどうなの? まだ凹んでるの?」
「うーん、昨日の感じではかなりな。あいつ、学校時代に一回クラスの女の子たちから一斉に無視されたことがあったらしくて、トラウマになってるんだよ。ここでもまたそうなるんじゃないかって思ってるみたいなんだよな」
「へぇ、意外ね。あの子いじめられっ子だったんだ。もっともアレだけデリカシー無くて口が悪いとねぇ」
「まぁな。悪気がまるで無いから却って質が悪いんだよな、あいつの場合は」

 網代が額に手を当てて考えながら話しだす。

「うーんと、そうすると今すぐには修善寺くんとサキちゃんの仲直りは無理だね。お互いがもうちょっと精神的に復活するのを待たないと良くないだろうね」

 指宿がそれに答える。

「私もそう思うな。とりあえずあの二人は私達で別々にフォローして、時間をおいてから仲直りさせようか。でもなんか、修善寺くんが露骨に霧島さんから目を逸らしたりして、泣かせたりしそうで怖いけどね」
「空海の方は俺と野沢でフォローするから、霧島さんの方は女性陣にお任せするよ。あと、松崎さんはどう思ってるのかな? 指宿さんわかるかな?」
「そうねぇ、昨日の感じでは班内の雰囲気が壊れちゃうのを心配してるみたい。彼女はここにいる私達とスタンスは一緒だから、いっそここに来てもらえばよかったね」
「あぁ、あの子が俺達の中では一番年下なんだけど、その割にはしっかりしてるような気がするんだよな。ダテに主席を張っていないって言うかさ。じゃぁ、松崎さんの方の連絡は指宿さんに任せていいかな」
「えぇ、大丈夫。任せといて」

 網代が那須に質問する。

「先生達には話をしたほうがいいかなぁ? 那須くんが条件付けてくれたおかげで、彼が勝手に辞めちゃう可能性はあまりないけど、事が事だし翠先生に相談しておいたほうがいいと思うんだよねー」
「湯布院先生にじゃなくて?」
「うん、湯布院先生だとさー、何かメチャクチャになりそうで怖いんだよねー」

 指宿もそれに同意する。

「わかるわかる。思うんだけど、湯布院先生って修善寺くんの事すごく気に入ってて、ああいう無茶な課題とかも愛情表現じゃないかと思うんだよね。修善寺くんだけでしょ、お前呼ばわりでバカバカ言われるの」
「あぁ、あんまり羨ましくないけどな」

 笑いながら那須が返すと指宿は真面目な顔で答える。

「やっぱり、翠先生の方が冷静だしね。湯布院先生には私達から直接話さないで、翠先生から話してもらおうよ」
「じゃぁ、今日の講義が終わったら翠先生が帰る前に話を聞いてもらおうか。どうする? 俺たち三人で行く?」
「松崎さんも一緒に行ってもらおうよ」

 指宿がそう提案するが、網代が反対する。

「うーん、私はサキちゃんが気になるから、翠先生の方は指宿さんにお願いしたいな。修善寺くんのフォローも野沢くんじゃちょっと不安だし、那須くんがいてくれたほうが安心なんだよねー」
「それじゃ、私と松崎さんの二人で翠先生に相談することにするよ。その代わり、あの二人のフォローはお願いね」

 指宿がそう言うと、那須が力強く返事をする。

「分かった。じゃぁ、空海は俺と野沢でお守りするから、翠先生の方はよろしくお願いするよ」

 そう言って三人は別れ、勤務を終えたあと今日の講義に入る。湯布院教授は結局の所、昨日の話ほどのキツイ課題を持ち出すことはなく、腹立ちまぎれに脅かしただけだった様で、生徒の方は拍子抜けだった。教授の方は少年が妙におとなしいのと霧島に元気が無いのが気になったようだが、特にそれについて質問することもなく授業を終えた。
 授業が終わると松崎と指宿は別の班を教えていた翠先生に会い、三人連れ立って食堂へ行った。

「昨日はそんなことがあったの。修善寺くんにも困ったものねぇ」

 翠先生が眉をしかめている。あまりに子どもじみた話であきれ返ってしまっているのだ。指宿までつられて眉をしかめて話している。

「まるっきりお子ちゃまの言い草なんですけど、本人が大真面目なんで困るんですよ」 
「那須くんが『迷惑かどうかはこっちで決めるから』って言って、釘を刺しているので大丈夫だとは思うんですけどね」

 松崎がそう言うと、翠先生は笑って答える。

「大丈夫よ、修善寺くんが何遍書類を出して『辞めます』って言っても、うちの人が全部破って捨てちゃうから、どんなに辛くったってあの子は集中教育コースからは逃げられないのよ」

 指宿も笑って答える。

「あはっ、湯布院先生なら本当にやりそうですね」
「本当にやるわよ。あの人は別府博士や有馬常務にだって先輩風吹かせてやりたい放題だもの。いつも常務に『お宅様の無茶ばかり言う旦那を何とかしてくれ』って頼まれるのよ」

 松崎も少し安心したのか微笑んでいる。

「すいません、翠先生。本当はこんなことで御心配掛けたくなかったんですけれど、修善寺くんも霧島さんも大事な仲間なので、万一おかしな事になったらと思うと心配で……」
「いえ、私達もあなた達のことは気になるから、こうやって相談に来てくれるのはありがたい事よ。これからも遠慮はしないでね。それからね、あなた達の班はそろそろ組替えになるわよ」

 松崎も指宿もびっくりして聞き返す。

「え? そうなんですか? もう少し一緒に居られるのだと思ってました」
「今年は絞り込みが極端に早く進んだから、もうあなた達は先輩たちの班に編入されるのよ。あなた方の第一班がAグループで、第二班がBグループ入りね」
「残りの班はどうなったんですか?」
「四人残して後は全部脱落したわ。第二班は三人脱落したのでその四人を併せて八人ね。あなた達は脱落者ゼロで七人全員残っているから、今年の年少組一次候補は15名ということになるわね。例年の倍だから大豊作なのよ。常務が嬉しい悲鳴を上げてたわ。でも、修善寺くんと霧島さんがうまく行ってないなら、どちらかを二班と入れ替えることもできるけどどうする方がいいのかしら?」

 松崎がすぐに答えた。

「どちらも入れ替えないで一緒にA班に入れるようにして下さい。修善寺くんも霧島さんも私達で何とかして仲直りさせますから」

 指宿も同様にお願いする。

「仲直りというか、あの二人は別に仲違いしているというわけじゃないんです。話の行きがかりで変な方向に行ってしまったのがトラブルの原因なので、多分時間が解決すると思います。私達も気をつけてフォローしてますから大丈夫です」

 翠先生が口元で微笑み、眼を閉じて頷いた。

「分かったわ。それじゃあなた達は一緒にA班に編入するように人事にお願いするわね。その代わり修善寺くんと霧島さんのことはお願いね」

 二人は指宿、松崎と順に返事をした。

「はい、任せてください」
「わかりました。ありがとうございます」

 翠先生の言う通り、週末に班替えの説明があり、翌週月曜日に先輩たちの待つA班に少年らの第一班は編入された。

一番槍の誉

 月曜日の午後四時過ぎ、先輩社員たちのいるAグループに新入社員の属する第一班がBグループに第二班が編入された。Aグループには和倉がいる。先日のトラブル以来、多少調子は戻ってきたといえ復活には遠い状態にある少年にとって、兄にも等しい和倉が同じ班にいてくれることはありがたかった。

「今年は新入社員に出来の良い子が多かったせいで、いつもの年の二倍以上の編入者を迎えます。今年の新入社員、すなわち14期の社員は15名。そのうち第一班の七名がAグループに編入されます。それじゃ、14期は席次順に名前を名乗って頂戴」

 翠先生がそう言うと、松崎から順に名乗りをあげた。

「松崎聡華です。よろしくご指導下さい」
「指宿和泉です。これからがんばります」
「那須陽一です。ご指導よろしくお願いします」
「網代錦ですっ。一生懸命がんばります。よろしくっ!」
「霧島咲耶です。一生懸命がんばるのです。ご指導よろしくお願いします」
「修善寺空海です。よろしくお願いします」
「野沢泰友です。 ヤスって呼ばれてます。よろしくお願いします」

 翠先生は先輩社員を見て、自己紹介を求めた。

「9期の石和晴信(いさわ はるのぶ)です。僕が班長をやっています。よろしくお願いします」
「10期の強羅公時っ(ごうら きみとき)。Aグループ副班長だっ。よろしくっ」
「10期の水上雪嶺(みなかみ ゆきね)です。よろしくね」
「11期の諏訪晶(すわ あきら)です。よろしくお願いします」
「11期の和倉聖(わくら さとし)です。皆よろしくな」
「12期の穂高野麦(ほたか のむぎ)ですー。よろしくねー」
「13期の城崎直哉(きのさき なおや)ですよ。よろしくお願いしますよ」
「13期の塩原紅葉(しおはら くれは)です。お手柔らかに……」

 五期に渡って社員が集まっているが、各期一人か二人の先輩に対し、14期は7名だから、今年の年少組候補者がいかに多いかがわかる。翠先生は早速講義を始めるようだ。

「さて、いつもの年は顔合わせの日は講義をせずに社員食堂で歓談なんだけど、実は第一班の子たちは私の課題がひとつ残ってるのよね。湯布院先生が『調整する』って約束したのに全然守ってくれなくてねぇ。あなた達のせいじゃないのに申し訳ないけど、今日はそれをやるのでよろしくね」

 少年は、湯布院教授の課題提出後にあったトラブルを思い出して軽く溜息をつく。それに気がついた松崎が霧島をちらっと窺うが、こちらは特に反応が無い様だ。もっとも、霧島は少年と違って表情から内心を見せることが少ないから、本当のところはわからないけれども。

「じゃ、先週の打ち合わせの通り、講義の方はお願いね。講師は誰がすることになったのかしら?」

 翠先生が班長の石和に質問すると、石和は和倉をチラッと見て返事をする。

「初回からエースを出しますよ。和倉くんがウチの先鋒です」
「お手柔らかにお願いしますよ」

 微笑みながら翠先生に和倉が言うと、翠先生は口元で笑って返事をする。

「エースのお手並み拝見ね。14期のみんなも説明が分かりにくいところはどんどん質問しなさいね」

 和倉が以前言っていた、先輩社員から後輩への講義が始まるようだ。

「じゃ、軽くおさらいから行こうか。空海、現在の人工意識システムにおけるボトルネックを上げてくれ」

 いきなり少年に指名が来る。それもファーストネームでだ。

「リアルタイムシステムとしての応答性が不足して……」

 解答の途中で、和倉に怒鳴られ気味に突っ込まれる。

「それじゃ大雑把すぎる! もっと個別に問題を切り分けて回答してくれ!」

 少年は少し顔を赤らめて、ちょっと考えてからもう一度回答する。

「はい。一つめが人工神経系(ANS)と人工大脳及び人工小脳間の通信帯域不足。二つめが長期記憶エリアの不足です」
「それだけか? 他に無いか?」
「あと、それから…… 感覚情報貯蔵エリアの自動捨象プロセス速度不足です」
「あと二つほどあるな。忘れたか?」
「えぇと…… 記憶検索インデックスの自動リンク速度不足と……」
「ヒンティングプロセスはもう大きな問題になっていないぞ。それはガラテア2のAIの問題点だろ。ガラテア3でかなり解決されたし、ラボではそれを完全に解決した次世代のAIシステムの理論化が終わってる。既に実装も始まりつつあるんだぞ。それじゃ、他の人でわかる人は?」

 指宿と松崎が挙手する。

「それじゃそれぞれ一つずつ上げてくれるかな。最初に松崎さん」
「はい。短期記憶から長期記憶への転送における自動捨象プロセスと長期記憶内セマンティック・ネットワークの自動リンク制御の相互干渉問題です」
「そう、それだね。ではもう一つを、えーと……」
「あ、指宿です。セマンティック・ネットワークの自動リンク更新速度と長期記憶エリア容量の相反性問題です」
「その通り。長期記憶は物理的に不足しているだけではなくて、無制限なメモリ増加が指数的にリンク更新プロセスを増加させて、最終的にAIシステム全体のスループット低下を招くという問題だね」

 翠先生が和倉に質問する。

「和倉くん。五つ上がった問題点を二つにまとめて頂戴。簡潔にね」
「はい。まず一つ目ですね。メモリー周りの問題ですが捨象プロセスにせよリンクプロセスにせよ、個々の判断にかかるコストが大きいために、人間の脳と比べて非常に小さいメモリー内でやりくりしなければならないという問題にまとめられます。もうひとつは体内の各種センサーと人工神経系(ANS)、人工小脳、人工大脳の各ユニット間の通信帯域の問題です。特に修善寺が挙げたANSと人工小脳間、それと人工大脳と人工小脳間の再帰的制御のために必要な帯域にボトルネックが存在するために、反復性のない高度な運動機能は人間のそれに全く追いついていません」

 翠先生は微笑んで答える。

「よろしい。講義を先に進めて頂戴」

 和倉は講義を進め、最後に課題を出した。

「講義の最初の方で、翠先生が俺に問題点を二つにまとめさせたけれども、これを更に一つにまとめてみてくれ。ヒントはこの講義で十分出ていると思う。一応、この場で答えられる人がいるかどうかを聞いておこう。もし解答出来れば、ここで課題終了だ。君らはまっすぐ寮に帰って、風呂入って寝られるわけだな」

 もちろん、即答できる者がいるとは和倉も思っていない。彼は講義が終わった後に、後輩たちに付き合って少しづつヒントを出しながら結論を出させようと考えている。しかし、挙手した者が一名いた。

「ほぉ、松崎さんはわかったんだ。それじゃ、答えてみて」
「はい。人工意識(AC)のパフォーマンスと応答のリアルタイム性の相反という問題に集約できると思います。ACのパフォーマンスは現状のアーキテクチャでは長期メモリサイズがあまりに小さいことによって制限されています。メモリサイズは通信帯域と制御プロセス時間の指数的増加の問題に縛られています。通信帯域とプロセッシング速度はハードウェアで制約されていますから、実用的な人工意識の応答速度を得るために、これとトレードオフの関係になっている思考パフォーマンスが犠牲になっています。これが端的に言った場合の現在の人工意識の問題点と言えるのではないかと思います」

 指宿も挙手している。

「指宿さんは、質問? それとも異論があるのかな?」
「はい、質問があります。今の松崎さんの話を端的に言ってしまえば、パフォーマンスがハードウェア性能に縛られていると言っているだけなのではないかと思いますが、どうでしょうか」

 和倉は頷いて返答する。

「なるほど、そこまで話を単純化してしまえば、逆に何も言っていないのと同じだからね。AIを自動車に置き換えても通じてしまう話になるわけだ。さて、松崎さんはどう答える?」
「はい。現状のアーキテクチャではメモリサイズと要求プロセッシング負荷の関係、及び要求される通信帯域は指数的増加傾向ですが、これを支えるハードウェアパフォーマンスはここ二十年は一次関数的な増加です。これは、メモリサイズの増加にプロセッサが原理的に追いついて行けないことを示しています。単純なハードウェアの能力向上では対処できない問題ではないかと考えます」

 先輩社員達が顔を見合わせてざわついている。和倉の講義はよく練られていて、与えた情報には直接答えを示唆する文言がない代わり、それを総合して熟考すると答えが浮かび上がるようになっている。だから、『さすが和倉』と講師の手並みに感心していた所であって、そうそうあっさりと入社一ヵ月半の新入社員が結論を出せるとは誰一人思わなかったからだ。
 豈図らんや、まさか新人二人がここまで議論するとは。和倉はわくわくするような興奮を感じつつ、指宿にもう一度質問する。

「以上の説明だが、これで納得できただろうか?」

 内心は一本取られたと思ったものの、指宿は軽く微笑み、目を閉じて答える。

「はい。よく理解できました。ありがとうございます」

 和倉は一同をぐるっと眺め、講義と課題の終了を宣言する。

「今の松崎さんの回答で課題は終了だ。ちなみに、今彼女が挙げた問題点は、残念ながら次期モデルであるガラテア4でも研究中で、まだ十分には解決されていないんだ。もし、今の説明で今一歩分からない人がいたら、松崎さんなり指宿さんなりに質問してくれ。もちろん俺にでも良いし、俺以外の先輩社員にでもいい。では今日の俺の講義は終了。ご苦労様!」

 そして、着席している翠先生の方へ歩いて行き、苦笑しつつ頭をかく。

「負けました。ちょっと甘く見過ぎました」

 翠先生は今まで見たことがないほどニコニコしている。

「言ったでしょ、今年の子たちは手強いわよって。でも、あなたの説明は丁寧だったしわかりやすかったわ。だから彼女たちの理解が早かったのだと思うの。あなたの講義自体は二重丸よ」

 そう言って立ち上がりざまに和倉の肩を軽く叩き、松崎と指宿の方へ歩いて行って二人を交互に軽く抱きしめ、頬にキスした。二人とも少し戸惑い顔で頬を桜色に染めている。

「おめでとう。Aグループのエースに勝利よ。しばらくは先輩たちとの対決が続くわよ。これからも頑張ってね。ではみんな、今日の講義は終了よ」

 先輩社員から拍手が起こる。ラボ行きは入社順に関係無く毎年厳しく選抜され、先輩社員が追い抜かれることなど当たり前だし、全員が必ずラボに行けると決まっているわけでもない。いわば全員がライバル関係にあるのだが『須らく才能は賞賛すべし』という風土がピグマリオンには育まれており、それは年若い彼らにも受け継がれているのだ。拍手を耳にして、松崎と指宿は照れくさそうにしている。

「空海! 社員食堂に行くぞ。おごってやるから有り難く思えよ」

 大声で、和倉が言う。

「わかりましたよ、そんなでかい声で言わなくたってわかりますって。でも、メシは食ったから腹減ってませんけど」
「バカやろ、飲むに決まってるだろ! お前のお祝いと俺のやけ酒だ。完敗したからな」
「俺はまだ未成年だから、食堂で酒は頼めませんよ」
「俺が頼むから大丈夫だっての。おれはもう18で成人してるんだからな」
「大丈夫なんスか? 俺、見るからに未成年とかお子ちゃまとかいろいろ言われるんスけど」
「お前、鶴見の飲み屋で同期と呑み歩いてるんだろうが。何を今さら……」
「まぁそうなんスけどね。俺、社員食堂で呑んだこと無いもんだから」
「じゃぁ行くぞ。モタモタすんなよ」

 班長の石和晴信が苦笑しながら和倉に話しかける。

「プリンス! あんまり新人に呑ませちゃだめだよ。明日も朝から勤務があるんだからね」
「分かってますって」

 湯布院教授に付けられた渾名で呼ばれた和倉は不敵に笑って返答する。本当にわかってるのかどうか微妙な感じだ。少年を促して行こうとすると呼び止められる。指宿だ。目がキラキラしている。少年並みのわかりやすさだ。

「私達もご一緒して良いですか? 一回社員食堂で生ビール飲んでみたかったんです」

 もちろん和倉に否やはない。

「女性はいつでも歓迎さ。じゃ行こうか。11時までしか酒は出してくれないからね」
「はいっ。ほら、松崎さんも」
「う、うん」

 ちょっと強引に松崎を引っ張っている。結局、Aグループのかなりの人数が食堂で一杯やることになった。

悔悛の涙

「じゃ、新人の加入を祝してかんぱーい」

 和倉の音頭で乾杯する。明日の講義の準備があるというので、班長の石和と副班長の強羅は参加できなかったが、残りのメンバーは結局三々五々と全員食堂に集まった。和倉の両隣に指宿と松崎、正面に那須と少年、それに先輩の水上雪嶺がが座る。他の新人は先輩達に混じってとなりのテーブルだ。

「明日も先輩たちが講義してくれるんですか?」

 那須が和倉に質問すると、和倉の代わりに一期上の水上が答える。

「そうよ。石和さんと強羅くんが今いないのは、明日の準備に追われてるからなのね。私とムギちゃんは次の翠先生の授業では講師役なのよ。自分が講義を受けるよりもずっと大変」

 ムギちゃんと言うのは12期の穂高野麦だ。もう酔ってしまっている少年も水上に質問する。

「今日は和倉先輩は一人で講義しましたけど、石和さんとか水上さんは二人で準備してますよね。和倉先輩が一人だったのは何でです?」
「あぁ、和倉くんはAグループのエースだもん。今年の9月にはラボ行きがほぼ確定なんだよ、彼」

 指宿に捕まっていた和倉が水上に向かって声をかける。

「いやいや、まだ先の話だしわからんですよ。筆記試験があるわけだし」
「何言ってるやら。翠先生も湯布院先生も太鼓判じゃない。主任の先生二人がOK出してるんだから、決まったようなものだよ」

 水上がそう言うと、少年も軽口をはさむ。

「何だ、俺はてっきり和倉先輩が口が悪いせいで嫌われて、組んでくれる人がいないのだと思ってましたよ」

 指宿が少年を睨んで咎める。

「ちょっと、あなたは口を慎むんじゃなかったの? あなたは誓いを……」
 いきなりの発言に那須が動揺し、押し殺した声で指宿に話をやめさせる。
「ば、バカ! 霧島もいるのに何言い出すんだ、お前は!」
「え? あ…… で、でも……」

 失敗したのは指宿もすぐに気がついた。酒が入った状態で和倉と話をしているうちに、すっかり舞い上がってしまっていたせいなのだが、失言は失言だ。だが、和倉が急に笑い出して指宿に話しかける。

「あぁ、その話聞いたよ。こいつまたバカなこと言い出しだんだって? 次に失言して迷惑かけたら会社辞めるとか」

 少年が口を尖らせて抗議する。

「別に会社を辞めるとは言ってませんよ。集中教育コースを辞めるって言ったんです。でも何でその話知ってるんスか?」
「おぅ、翠先生に聞いたんだよ。あんたの弟分がバカで困るってこぼされてな。翠先生に心配かけんじゃねぇよ、お前は」
「どうせバカですよ、俺は」
「おう、超弩級のバカだからな、お前は。大体、いまさら集中教育辞められると思ってるわけ? お前はさぁ」
「書類書いて出すだけでしょ。簡単ですよ」
「受理されると思ってるのか? その手の書類は全部湯布院先生を通るんだぞ」
「通すでしょ、会社の正式な書類なんだし」
「だからお前はバカなんだよ。通すわけ無いだろあの先生が。会社の規則もクソもあるか通さんと言ったら通さん! とか言い出して、書類をシュレッダに放り込んでおしまいだよ。会社で一番の無法者なんだからな、あの先生は。あの規則に厳しい常務が逆らえないんだぞ」
「常務って、有馬常務ッスよね? メチャクチャ厳しいって聞きますけど、その人でも勝てないんスか? 湯布院先生って」
「あぁ、翠先生には弱いんだけどな」
「そのフレーズやめて下さいよ。俺の心の傷になってるんスよ」

 情けない顔で少年が言う。和倉は自分のジョッキに残ったビールを飲み干してから言葉を続ける。

「それとさ、霧島さんだっけ? お前がイジメたって言うのは」
「え? いや、いじめてないッスよ。どっちかというと、俺が怒られたんスよ」

 霧島がちらっと和倉を見て、すぐに目を伏せてしまう。

「何言ってんだ。お前、彼女に怒られたから逆ギレして『そんなに言うなら辞めてやる』くらいの勢いで、訳がわかんない誓言立てたんだろうが。ファーザーに言いつけてやるから楽しみにしてろ」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。前の神父様ならともかく、今の神父様は小言がめちゃくちゃ長いんスよ。おまけにお袋にも小言をくれるもんだから、家に帰ってからがまた大変なんスよ。それはちょっと勘弁して下さいよ」
「じゃあ黙っててやるから、霧島さんに謝れよ。バカなこと言い出してすいませんってな」
「でも……」
「自分が悪かったのはわかってるよな? お前の誓言の何が悪いのかも」
「……わかってます」
「誓言を撤回しろとまでは言わねぇよ。俺はクリスチャンじゃねぇけど、それがお前にとってどれほどの重みを持つのかまでわからんとは言わねぇ。でも、お前が間違ってたことがわかってるなら、霧島さんには謝れ。何を謝らなきゃいけないかはわかってるか?」

「和倉さん、ちょっと待って欲しいのです……」

 霧島がおずおずと、だがはっきりした声で話に割り込んだ。少年をチラッと見てから和倉を上目で見ながら話しだす。

「悪かったのは修善寺くんじゃないのです。私が言い過ぎたのです。いくら修善寺くんが口が悪くても、それが原因で私達みんながラボに行けなくなる訳なんて無いのです。私が悪かったのです。謝らなきゃいけないのは私の方なのです。修善寺くんは悪くないのです……」

 最初はちらちらと上目遣いに和倉を見ながら話していた霧島だが、段々声が小さくなってうつむいていき、最後は涙声になっていった。和倉が少年をまっすぐ見て問いかける。

「どうするんだ、空海。お前はこの子に何と答えるんだ」

 少年が和倉に答えようとすると、和倉は少年を穏やかに見据えて、しかしきっぱりとそれを遮る。

「俺にじゃない、この子に何と答えるんだ、お前は」

 少年は言い難そうに霧島に話しかける。しかし彼女の顔を見て話すことが出来ず、うつむいたままだ。

「俺、あの時君に『反省なんてしてない。開き直ってる』って言われて、すごく痛かったんだ。考えて見れば本当に君の言う通りだったから。それであんな約束をわざわざ口にして、誓言までしてしまったんだ……」
「でも、誠実な人間なら、たとえ心にそう誓っても、それは口にすべきじゃない。口にしてしまえば、それは自分の行いを正しく律したいという目的からはみ出して、人を傷つけるためのものに変わってしまう。そして俺は実際に君を傷つけてしまったんだ……」
「俺はあの時に口では『俺は悪いクリスチャンだけど』って言ったけど、本当はそんなことちっとも思ってなくて、誓言は違えずに守ってるんだからそんなに悪いわけじゃないと内心考えてたんだ。でも、そうじゃなかった。俺は自分の誓言で君を傷つけていたんだから。俺はそれで平気でキリスト者を名乗っていた事が恥ずかしい」
「霧島さん、君は悪くないよ。俺が悪かったんだ。言い逃れ様がない、君にも、神様にも。ごめんよ……」

 少年はさすがに泣き出すことはなかったものの、目に涙がいっぱい溜まっている。和倉が霧島に笑いかける。

「だってさ。コレで勘弁してやってくれないかな。こいつはとことんバカだけど悪気はないヤツなんだ。今の言葉にも嘘は無いよ。掛け値なしに馬鹿正直だからね。俺からも頼むよ」
「私こそ謝らなければいけないのです。あいこなのです」

 潤んだ目で和倉を見上げ、消え入りそうな声で霧島が返事をする。いつの間にか、全員がしんと静まり返って和倉たちのやりとりに聞き入っている。すると和倉が沈みきった雰囲気を押し流そうと、声に力を込めて指宿を呼ぶ。

「じゃぁ、コレで手打ちだ。指宿さん、これ俺の社員カードだから、もう一回これでビール全員分頼んできて。中ジョッキでね!」

 指宿が慌てて返事をする。

「はいっ。全員分ですね。すぐ頼んできます。松崎さん、錦ちゃん手伝って。那須くんたちもね」

 そうして、全員にジョッキが回る。和倉が音頭をとる。

「はい、コレで手打ちっ。乾杯っ!」
「かんぱーい!」

 全員で乾杯唱和。大して飲めない少年も無理やりという感じでビールを飲み干す。すると、ウェイトレスロボットがやって来て事務的に注意する。

「ご歓談中に申し訳ありませんがここはビアホールではなく社員食堂です。お静かに願います」
「あぁ、ごめんなさい。勤務中の先輩職員が食事中だもんね。これから気をつけますと、先輩方に伝えて頂戴」

 水上がそうロボットに言い、おそらく文句を言ったのであろう先輩社員が座ってる席の方へ頭を下げる。そして、和倉に話しかける。

「和倉くん、頃合も良い頃だしそろそろお開きにしようか」
「ですね、雪嶺さん。じゃあみんな、今日はこれでお開きとしましょうか。明日も工場勤務があるしな」

 和倉がそう言って立ち上がると、松崎が少し言い難そうな感じで質問する。

「あの、和倉先輩。ここの支払いはどうしましょうか。私たちの呑んだお酒の分は先輩の社員カードで支払ってしまったので、精算しないといけないですよね」

 和倉が片手を振りながら笑って返事をする。

「あははっ、今日は俺のおごりだよ。俺が誘ったんだしね。外で飲むと高いけど、ここなら俺たち寮生はタダ同然で飲み食いできるから懐は大して痛まないしな」

 指宿も心配顔で和倉に問いかける。

「でも、これだけの人数ですし悪いですよ。やっぱり自分たちの分はちゃんと自分で払わないと」
「いいからいいから。指宿さんたちもあっという間に先輩になって、後輩におごる立場になるよ。その時には後輩達に気前良くしてあげればいいんだからさ。とにかく、ここは俺のおごりさ」

 和倉はニコニコ笑ってそう言うと、新人たちは顔を見合わせてから口々に礼を言い、寮に戻っていった。和倉は少年に一言声をかけた。

「空海、今度の日曜日はどうするんだ。俺も一緒に行ってやろうか?」
「いや、教会へは一人で行ってきますよ。どの道、告解室には一人で入るわけだから」

 少年は懺悔して許しの秘跡を受けるつもりでいる。秘跡を受けたあとは、うるさ型の神父から長い長いお説教を喰らうのかも知れない。

打ち上げの後で

「いやぁ、どうなるかと思ったけど、和倉先輩がうまくケリ付けてくれてほっとしたよ」

 那須がそう切り出す。彼は食堂から戻る途中で松崎と指宿に声をかけ、学習室に呼んだのだ。

「ホント、我ながら失言だったわ。修善寺くんのこと笑えないよね」

 指宿がため息混じりに返す。確かに彼女の発言は不用意だったから、展開次第では非常に気まずい方向に進んでいただろう。

「何だか、あの二人って本当に仲の良い兄弟みたいだったね。和倉先輩が修善寺くんのことをとっても思いやってるのがよく分かったな。入社式があった日の夕方に、偶然あの二人がラウンジでお話ししてるのを見た時から『兄弟みたいだなー』って思ってたんだけど」

 そう松崎が指宿に言う。彼女はどちらかといえば口数が少なくて自分から話を切り出すタイプではないのだが、やはり酔っているのだろう、いつになく雄弁だ。指宿がほっとした様な顔で松崎に答える。

「本当に和倉先輩には大感謝だよね。私達だけだったら収拾つかなかったもの。でも、和倉先輩、口調は厳しかったけど修善寺くんを見る目がすごく優しくて、何だか修善寺くんが羨ましかったなー」

 なにやら遠い目で指宿がそう言うと、那須も笑って合いの手を入れる。

「はは、カッコよかったよな、和倉先輩。俺もちょっと憧れちゃったよ」

 松崎がちょっと心配気に那須に聞く。

「とりあえずは一件落着だと思うんだけど、あの二人もう大丈夫かな?」
「うーん、多分大丈夫だとは思うけど、まだまだお互いに遠慮やひっかかりとかあるだろうしな。やっぱり周りで多少フォローしてやるのがいいかもなぁ。たださ、何かあった時でも頼りになる相談相手がいることがわかったし、俺達としてはひと安心していいんじゃないかな」

 指宿も勢い込んで同意する。

「うん、そうそう。和倉先輩がいるんだから安心だよ。また何かあったら相談すれば良いしさ」
「いや、先輩にあまり迷惑かけるのも何だし、なるべくは俺達だけで何とかしようぜ」

 苦笑しながら那須がたしなめる。

「わかってます!」

 からかわれたと思ったのだろうか、指宿がちょっとふくれる。別に馬鹿にするわけではないが、彼女のあまりの分かりやすさに那須は内心でクスリとする。

「でも、修善寺くんほんとに大丈夫かな? 何だか泣いてるみたいだったし」

 松崎がそう言うと指宿が軽くため息混じりに返事をする。

「そうねぇ、ああしてると修善寺くんも可愛いのにね。外見と中身のギャップが激しすぎるよね、彼」
「空海も霧島さんを傷つけるような結果になったことは気になってたんだと思うよ。俺もあの後に俺の部屋にアイツとヤス呼んで話したんだけど、霧島さんの話を悪くねじ曲げて捉えすぎてると言う話は俺もしたんだ。その時にはアイツは自分の非をわかってたんだろうと思うな。今日、はっきりそれを霧島さん本人に詫びることができたんだから、結果的にはアイツの心はかなり楽になったんじゃないかと俺は思うんだよ」

 そう言いながら那須は松崎の表情を伺うと、安堵したような表情が浮かんでいる。あぁ、この子もしかして…… と思ったが、もちろん黙って気づかぬふりで通す。そして心のなかでつぶやく。

「残念だったな、ヤス……」

「霧島さんの方はどうなんだろうね? あの子も泣いてたしさ」

 指宿がそう聞くと那須が思案気な表情で返す。

「あの子は感情とか考えてる事とかが、普段なかなか表情に出てこないから分かりにくいんだよなぁ。正直なところ、あの子に関しては網代さんにお任せだしな」
「まぁ、錦ちゃんに任せとけばとりあえずは安心だけどね。今頃はまた相談役かな?」

 実は今現在、網代の部屋に霧島がいて、相談どころか『和倉先輩って素敵なのです! カッコイイのです!』な話しを網代に聞かせ続けていて、網代は疲れきって『うんうん、そうだね』をずっと繰り返していたのだが、もちろん指宿達にそんな事情はわからない。

「かもな。それはそうと、空海達のことも気にしなきゃいけないけど、集中教育はむしろこれから本番だし俺達自身もがんばらないとな」
「だね。明日の講義は石和先輩と、えーと強羅先輩だっけ? 宮城先生の授業だから修善寺くんにはきっちり働いてもらわなきゃ」

 指宿が明るく松崎に話しかける。松崎も軽く微笑みながら答える。

「そうだね。宮城先生の講義では修善寺くんが私達十四期のエースだもんね」
「ヤスの奴にも気張ってもらわなきゃな。アイツも宮城先生の授業では頑張ってるしな」

 那須がそう言うと、指宿がニヤリと笑う。

「那須くんもだよ。今日は松崎さんが頑張ったんだから、明日は男子が頑張る番だよ!」
「はっ! 了解であります、司令殿」

 那須は苦笑して指宿に挙手の敬礼をする。

「そろそろ学習室も消灯だね。部屋に戻りましょうか」

 松崎がそう促し、三人はそれぞれ自室に戻り床についた。

特別昇任試験

 夏真っ盛りに入った7月中旬、年少組を目指す者にとって何より重要な日が訪れる。そう、特別昇任試験…… ラボ行きの切符を手に入れるにはこの試験を乗り越えねばならない。1200点満点中1000点の得点で合格。合格者は試験翌週に成績発表と異動辞令の交付を受ける。

 試験は集中教育を受けている者全員が受験する。当然ながら新人の平均点は400点をやや超える程度で、今までの新人の最高記録が610点だが、初年度の成績があまりにも高い者はその後の成績が伸びないという理由のよく分からないジンクスがある。実際、610点の最高記録は和倉と同期入社した姥子龍馬という社員が取った成績だが、入社三年を過ぎた今、同期社員で最も評価の高いのは、入社時にはたかだか500点程度の成績だった和倉である。去年の成績が和倉が970点、姥子が750点であるから差は歴然としている。

 試験の前日も勤務は通常通り行われ、特に試験対策はされない。集中教育も行われるが、これは試験前日の無理なあがきを抑えるために、あえて講義で拘束して無理をさせないためである。その上、深夜一時に寮長が受験者の部屋をこっそりチェックして、徹夜勉強をしていないかどうかをチェックするくらいだ。

 そして試験が行われる。9時に開始して16時に終了する。試験に当たっては資料閲覧や諸計算のためにコンピュータの使用が許されるが、試験管理者以外への会話が厳しく禁じられ、挙手して管理者の許可が下りないうちに一言でも喋った者は内容の如何を問わずにそこで試験が終了する。そのため、試験は異常な静寂に包まれたまま進行する。

 試験結果は翌週に全員分が社内ネットワークの掲示板に公示される。当然ながら、誰が何点だったかということはガラス張りである。とりあえずの腕試し以上の意味が無い新入社員にとっては、ただドキドキしながら結果を待つだけの一週間だが、入社四年目を過ぎた者にとってはラボ行きがかかった天王山であり、一週間はひたすら長く、そして淡々と無情に過ぎていく。

 今年の試験では11期の和倉聖が1140点でトップ、次点が9期の石和晴信で1065点、そしてBグループから1005点とぎりぎりで切り抜けた9期の社員が一名で、この上位三名のみが合格者としてラボ行きの切符を掴む事となった。

 Aグループの新入社員の成績もまずまず良好で、最高点が指宿の540点、次が松崎の535点、少年が510点、那須が505点、霧島と網代が470点、最下位だった野沢さえ例年での平均以上の440点と全員健闘したと言えよう。

「修善寺くん! 和倉先輩がトップだったよ。ラボ行き決定だね」

 指宿が我事の様に興奮して、少年にまくし立てる。

「やっぱりすごいよね、和倉先輩。実は去年の試験でもあと30点で合格だったんだってさ」
「あぁ、試験前に雪嶺先輩から聞いたよ。もし合格できてれば二年半でラボ入りの最短記録だったって。まぁ、プリンス先輩は学校時代から秀才だったしなぁ…… それはそうと指宿さんも14期では最高得点じゃん。さすがであります、司令殿」

 この頃は指宿はすっかり『司令』で通っているのだが、もちろん本人は嫌がっている。

「なに敬礼してるのよっ! そんなことより、早く先輩のところに行ってお祝いを言おうよ」
「そうだな。実は今さっき強羅先輩からメッセージが入って、Aグループはみんな第二食堂にいるから早く来いって言われてるんだ。おいヤス! お前も一緒に来いよ」

 ちょうど学習室に入ってきた野沢にも否やはない。

「あぁ、プリンス先輩と石和先輩のお祝いな。待ってるんだろ、先輩達。俺らもさっさと行こうぜ」

 食堂に着くと、和倉、石和以外にずいぶん大勢取り囲んでいる。松崎や霧島達はずっと一緒にいたようだ。

「おめでとうございます! 和倉先輩、石和先輩」

 指宿が興奮を隠さず、合格者二人にお祝いを言う。見れば和倉も石和も、それどころか彼らを取り巻くみんなの目が赤い。

「え? どうしたんスか、プリンス先輩。目が真っ赤ですよ」

 少年がびっくりして和倉に尋ねる。

「お? おう、ちょっと石和先輩と大泣きしちまってな。畜生め、俺は絶対泣かないって去年みんなに宣言したんだけどなぁ」

 野沢が松崎達にも話しかける。

「じゃ松崎さん達が目が赤いのは、もらい泣きか?」
「うん…… 私達だけじゃなくてみんな。毎年こうなんだって」

 震え気味の鼻声で松崎が返事をする。彼女は目だけでなく、ハンカチで擦り過ぎたのか鼻の頭まで赤くなっている。

「何だよー、俺たち一歩遅れで遅刻だったのかよー」

 一緒に泣きたかったのだろうか、野沢が残念そうに言う。少年がお祝いをまだ言っていないことに気づく。

「和倉先輩、石和先輩、おめでとうッス。ラボでも頑張って下さい」

 石和が泣き腫らした顔で礼を言う。

「うん、ありがとう修善寺。僕らはさっき有馬常務から直接辞令を手渡たされてきたんだ。僕はアクチュエータグループ、プリンスはAIグループに配属になったよ」
「本当におめでとうございます、石和先輩、和倉先輩。ラボの配属は9月でしたよね。寂しくなりますね」

 指宿が二人を交互に…… ではなく、主に和倉を見ながら言う。誰に会えなくなるのが寂しいのかがまるわかりである。

「なぁに、指宿さんだってすぐに来れるさ。そうそう、14期の最高得点だね。おめでとう」
「ありがとうございます、和倉先輩。でも、なまじ初回で点が良いとその後が伸びないジンクスがあるって」
「なに、迷信さ。指宿さんと松崎さんは初陣で俺に一番槍をつけたんだぜ、伸びないなんて訳がないよ」

 笑って和倉が言う。するとAグループ副班長の強羅公時が大きな声で全員に声を掛けた。

「ちょっとみんな聞いてくれっ。例年通り、石和先輩とプリンスのラボ行きを祝ってAグループの壮行会をやるっ。日時は今週の土曜日朝10時から、ここ第二社員食堂でだっ。予約は副班長の俺が済ませてあるけど、当日の会場準備に手伝いが欲しいんだっ。ムギちゃんとヤスに手伝って欲しいんだけどいいかっ?」

 二人ともAグループの宴会部長だ。野沢が直ぐに返事をする。

「はい、やります。任せてください。ムギ先輩もいいですよね?」
「はっはっはー、大丈夫大丈夫。至高の宴会部長だからね、私」

 ちなみに『究極の宴会部長』は野沢が襲名している。強羅がまた大声で話しだす。

「それでっ、新人たちに説明しとくぞっ。今度の壮行会にはドレスコードがあるっ。普段着を着てきた奴は幹事が準備したステキドレスを着てもらうことになるからそのつもりでなっ。普通の格好はダメだからなっ!」

 そう、Aグループの壮行会はコスチューム・プレイが伝統になってしまっているのである。霧島がおそるおそる強羅に聞く。

「あの…… 強羅先輩、普通じゃない服って言うのは、例えばどんな物なのですか?」
「良い質問だっ。例えば俺はマサカリ一丁に真紅の腹掛一つだっ。霧島さんがその手の服を持ってなくても心配しなくていいぞっ。歴代の先輩たちが色々な衣装を寄付してくれてるからなっ。例えばだなっ、霧島さんにはバニースーツなんて似合うと思うぞっ!」
「えぇっ! あの、あの…… じ、自分で何とかするです。らいじょうぶなのれす」

 霧島は動揺のあまり声も裏返ってしどろもどろだ。松崎も何だか不安げな表情だ。指宿が真面目な顔で強羅に質問する。

「普通じゃなければいいんですよね? 別にセクシーじゃなきゃいけないという訳ではないですよね?」
「うむっ、セクシースーツは男のロマンだけど、別に強制するわけじゃないぞっ。振袖とかでもOKだぞっ」
「わかりました。それなら大丈夫です。期待して下さいね」

 なにやら勝算があるようだ。にっこり笑って指宿が返事をする。

「うむっ。じゃこれから幹事は打ち合わせするから、ムギちゃんとヤスは俺と一緒に来てくれっ」

 そう言って、三人は別の場所へ移っていった。

腰蓑とバニースーツ

 少年が和倉に話しかける。

「男はどうするんスか? 先輩は何を着てくんスか?」
「ん? 俺は毎年決まってるからな。悩む必要はないんだけどな」
「いや、何を着てくのかって……」
「内緒だ。壮行会で見せてやるよ。お前はどうするんだ?」
「いや、俺、Tシャツとジーンズと背広一着、それに会社の作業着くらいしか持ってないんスけど」
「どれも失格だな。言っとくが、そんな格好で来たらお前は裸で腰蓑一丁だぞ」
「え゛? マジっスか……」
「おう。俺が新入社員の時にそうなったぞ。 先輩たちが結構凝った衣装で来てる所で腰蓑一丁はキッツいぞー」

 苦笑いしながら和倉が言う。相当懲りたらしい。

「うーん、それは確かに…… 何か対策考えるっス」

 松崎は指宿に相談している。

「どうしよう。普通の格好がダメって言われても、私は当たり前の服しか持ってないし……」
「あはは、大丈夫。松崎さんの背格好ならウチにある服でなんとかなるよ」
「え? それってどんな?」

 指宿は松崎に耳打ちする。

「あぁ、それなら普段見かけない服装だよね。でも、私に着れるかな」
「大丈夫だよ。和服としては着るのにあまり手間のかからないものだしね」

 耳聡く二人のやりとりを聞いていた諏訪晶が話に割り込む。彼女は和倉と同期生だ。

「和服で着付けに手間がかからないっていうと、浴衣かな? 浴衣じゃだめだよ、バニースーツにお着替えだよ」

 指宿が笑って返事をする。

「浴衣じゃないですよ。もうちょっと珍しい衣装です。まぁ、当日を楽しみにしてて下さい」
「あはっ、期待してるよ。実は私も最初の年に浴衣で行って、バニースーツにお着替えだったんだよね。恥ずかしかったぁ」
「えぇー? でも晶先輩はスタイルいいし、レオタードがすごく映えそうなのにー」
「冗談! アレは…… そうねぇ、やっぱりサキちゃんクラスのボディラインじゃないとねー」

 すると霧島が慌てて返事をする。彼女は派手な見かけに反してとっても奥手だ。

「む、無理なのです。もっとおとなしい服が良いのです」

 クスッと笑って水上雪嶺が霧島に小声で囁きかける。

「大丈夫、サキちゃんにぴったりの服があるのよ。絶対気に入るわよ」
「え? それは一体どんな服なのですか?」
「おかしな服じゃないわ。ちょっと窮屈だけど、着た人が恥ずかしい思いをするような服では絶対ないから安心してね。サイズはサキちゃんにぴったりだと思うしね」
「わかったのです、お任せしますです」

 ちょっと不安そうだったが、霧島は先輩達に任せることにした。学生時代はミスコン五連覇の美少女なのに勉強一筋でやってきたこともあり、身を装うことに関しては非常に疎い子なのだが、そこに女性の先輩達の好意が寄せられた感がある。

「陽ちゃんはどうする? 腰蓑行く?」

 少年が那須に話しかけると、那須は慌ててかぶりを振る。

「冗談だろ? 何か考えるよ。 お前はどうするんだ?」
「うーん、実家に色々と昔風の変わった服があるから、とりあえずそれを着てくるよ。それでダメなら腰蓑だねぇ」

 少年はこういう部分では結構開き直れるタイプだが、那須は絶対にダメな方だ。少し顔色が悪い。

「アロハ服にサングラスとかじゃ……」

 そう言いかけた那須に、和倉がニヤリと笑ってバッサリと斬り捨てる。

「全くダメだと思うな。腰蓑になるぞ。ちなみに腰蓑だと下着付けさせてくれないんだよな。涼しくていい感じだったぞ」

 がっくりと肩を落とし、目に見えて顔色が悪くなってきた那須がつぶやく。

「何か考えてきます……」

 那須のつま先から頭のてっぺんまでをさっと一瞥して、指宿が那須に話しかける。

「那須くんにサイズピッタリの服があるよ。私達のと対になるようなのがね。良ければソレにする?」
「それってどんな服かな?」

 那須が不安そうに聞くと、指宿がこそっと耳打ちする。那須に安堵の表情が広がる。

「あぁ、それなら恥かかないで済みそうだ。恩に着るよ」
「何々? どんな服着るのさ?」

 少年が聞くと指宿がいたずらっぽく笑って答える。

「まぁまぁ、それはお互いのお楽しみにしようよ。錦ちゃんはどうするの?」

 網代はいつもどおりにニコニコしている。

「そうねぇ。道着でも着ていこうかな」
「道着って、柔道着みたいなの?」
「うん。まぁ私はバニースーツを着ても構わないとは思ってるけどね、サイズさえ合っていれば」

 実は度胸と腕っ節なら網代はAグループで最強だ。少年が網代に質問する。

「錦ちゃんって柔道やってんの? 初めて聞いたけど」
「うん、柔道じゃなくて柔術だけどね。かれこれ10年くらいやってるかな。勤め始めてからはたまにしか道場に行ってないけど」
「へぇ、錦ちゃん武道家だったんだ。ただ柔道着は微妙かもな。バニースーツかも知れないぞ。今年は幹事がコスプレにウルサイ強羅先輩だしな」

 苦笑しつつ和倉が網代に忠告するが、本人は平気なようだ。

「まぁ、その時はその時ですよ。でも、私のサイズに合うのがありますか?」

 すると水上が苦笑しながら返答する。

「ふふっ、多分大丈夫よ。バニースーツは各サイズを取り揃えてるから。一体何着あるんだろうっていうくらいに寄付された衣装があるのよね。本当に何の会社なのかしらね、ピグマリオンって」

 そんな感じで、壮行会の衣装についてひとしきり盛り上がった後、三々五々と人が散ってお開きとなった。

壮行会? コスプレパーティ?

「ヤス、ムギちゃん、ご苦労様っ。本当に助かったっ」

 壮行会の準備が終わり、後はAグループのメンバーを待つばかりとなった強羅が、幹事二人にねぎらいの言葉を掛ける。野沢が強羅に返事をする。

「いえ、俺ってこう言うの準備するのって大好きですから。それはそうと、ホントにそのカッコで出るんですか? 先輩」

 強羅は赤い六尺褌に「金」と大きく書いた赤い菱形の前掛けをして、大きなマサカリまで準備している。実際に飾る家は本当に少なくなった五月人形の金太郎そのままの格好で、わざわざ童形のかつらまで被るという凝りようだ。筋骨隆々でレスラーのような体型の強羅には、異様にハマった仮装だ。

「もちろんっ。今日の俺は強羅公時に非ず、我こそは頼光四天王が一将、坂田金時なりっ!」
「なりきってますねー、強羅先輩。で、私は例年通りにこれで行きますけどね」

 そう言った穂高野麦は純白のウサ耳にレオタード、それに銀ラメ入りの目の細かい網タイツとヒールという姿だ。ふくよかでボリュームがある割に、キュンと張り詰めてたるんだ線がどこにも伺えない。その自分のスタイルには自信があるらしく、堂々としたものだ。

「ムギ先輩のバニー姿も決まってますねェ。網タイツが眩しいッス」

 お世辞ではなく、本気で言っているようだ。そういう野沢本人は真っ白いドレスシャツにダークグレイのクロスタイ、それに漆黒のベストとスラックス。足元も黒いエナメルの革靴できっちり決めている。

「んふふ、ヤスくんの執事姿もなかなかだよ」

 穂高がそう言って艶っぽく笑う。そうこうしているうちに人が集まってきた。主賓の一人が登場だ。

「強羅先輩、ムギちゃん、それとヤス、今日は会場準備からコスプレまでありがとうございます」

 和倉が幹事達に礼を言う。

「いやいや、好きでやってることだよ。今年も新選組か。いつもながら凛々しいなー、お前は」

 強羅がそう返事をする。

「やっぱり地元のヒーローですからね」

 和倉がちょっと照れ笑いを浮かべる。袴に浅葱のダンダラ羽織、新選組の隊服に竹光の大小を差している。

「プリンス先輩カッコいー、土方副長だぁ」

 穂高がからかうと和倉が言い返す。

「だからぁ、去年も言ったろー。近藤局長だっての! おれは調布出身なんだからな。土方副長は日野!」
「土方歳三って、うちの近所の出身なんですか?」
「そうか、ヤスは日野だったな。今日はバトラースタイルか、宜しく執事を頼むぜ」
「畏まりました、旦那様」

 野沢は胸に手を当て、しかめつらしく執事然と御辞儀をする。

「うむ、大儀である」

 そう言ってノシノシと入ってきたのはもう一人の主賓、石和。呆れたことに甲冑姿だ。漆塗りの軍配と天井につっかえそうな風林火山の自分指物付き。一体どこで都合したことやら。

「風林火山…… 信玄公でございますか?」

 野沢がそう聞くと、石和が重々しく答える。

「いかにも。我が名は武田太郎晴信。法名を信玄。甲斐源氏が棟梁なり」

 吹き出しそうな顔で和倉が石和に話しかける。

「今年は甲冑ですか? よくこんな物を手に入れましたね」
「いや、こう言うの好きな趣味人多くて、結構売られてるんだよね」

 笑いながら石和が答える。彼の名の晴信は、出身が山梨である祖父が、地元の英雄である信玄に因んで孫につけたものなのである。そうしているうちにもう一人入ってきた。

「おはようございます。あはは、石和さんは今年は鎧兜ですね」

 諏訪が入ってくるなり石和を指さして笑っている。本人はひざ下まである長めのチャイナドレス姿だ。やや薄手のビロードの様な、艶のある黒い生地に金銀糸で鳳凰の小さな刺繍が入っている。

「おはよう、アキラくん。ドレスのスリットがセクシーで素晴らしいぞっ」
「強羅さん、それセクハラー! その赤褌一丁の格好もー」
「はっはっはー。今日は無礼講だから大丈夫なのだっ」

 何が大丈夫なのかさっぱりわからないが、諏訪が大笑いしているのでいいのだろう。

「はよーッス、もう集まり始めたんすか?」
「おはようございまーす。あーっ、金太郎がいるー」

 廊下で一緒になった少年と網代が入ってきた。網代は白い柔道着に黒帯、足元は黒い鼻緒の朴葉の下駄だ。少年は肩に一等海佐の階級章、胸には潜水隊徽章と記念章の入った旧海上自衛隊の純白の詰襟服を着ている。

「おっ、錦ちゃんは本当に道着で来たな。やっぱり実際に武道やってる人が着ると似合うなぁ」
「えへへー、プリンス先輩の新選組も似あってますよ。沖田総司ですね?」
「残念でした。近藤勇なんだなぁ、これが」
「そういえば先輩、確か剣道二段だったよね? 天然理心流だっけ?」

 そう言った少年に和倉が苦笑する。

「ばーか、学校の部活で古式の剣術なんか教えるかよ。それに剣術には段位なんてないしな」
「修善寺くんの服もカッコイイねー。これって本物なの?」

 諏訪が少年に聞くとちょっと誇らしげに答える。

「本物です。母方の祖父が海上自衛官だったんですよ。潜水艦の艦長だったんです。形見なんですよ、これ」
「へぇー、お祖父さんが艦長さんだったんだ。形見ってことはもう亡くなってるんだね」
「えぇ、俺が学校に上がってすぐくらいです。爺ちゃんは俺にも軍に進んで欲しいと思ってたみたいです。親父も国防軍の技官ですしね」

 野沢が少年たちに恭しくドリンクを勧める。

「お客様方、あちらでお飲み物の準備を致します。よろしければ……」
「おう、ヤス。バッチリ決めてるじゃねぇか。今日は執事スタイルだな」
「お褒めに預かり恐縮でございます。どうぞこちらへ。そちらの柔術家の淑女もどうぞ」
「あはは、ありがとう執事さん。飲み物は何があるの?」
「あちらのカウンターにバーテンダーがおります。そちらでなんなりとカクテルなどどうぞ」
「バーテンダーって…… あぁムギ先輩ね。あ、すごーい、白うさぎさんだァ」

 そう言ってカラコロと下駄の音を響かせて小走りに進むと、二人でなにやら話し始める。

「ヤスくーん、バーテンダーお願い。錦ちゃん着替えるってー」

 どうやら、バニースーツが着たくなったらしい。

「畏まりました。ではお客様方、こちらへお進みを……」

 いつもは給仕係のロボットたちが出来た食事を受け取るカウンターが、今日はバーカウンターになっていて、これでもかというくらい材料が並んでいる。ジンやウォッカなどはそれぞれ十本以上が冷凍庫に準備されているし、フルーツやらジュース類、リキュール類も聞いたことがないようなものがゴロゴロしている。野沢が相変わらずの執事ノリで少年に尋ねる。

「お客様、どのようなお飲み物をご所望でございましょうか」
「とりあえず生ビールくれよ。大ジョッキで」
「お前なぁ、カクテルバーでいきなり生ビールよこせとか一体アタマどうなってんだよ、このイナカモン!」

 野沢が演技を忘れて少年に文句をつける。少年が笑って返事をする。

「何だよ、サービス悪い店だな。いいのかよ、執事がそんなに柄悪くて」
「うるせえや、この不良海軍将校! ここで芋堀るんじゃねぇぞ」
「こらこら、ケンカするなお前ら。それじゃヤス、俺にはギムレットをくれ。先輩二人は、そうだな、ドライ・マティーニを。晶にはシャンディー・ガフを作ってやってくれ。空海にはギネスでも飲ませとけ」

 和倉が二人に割って入り、飲み物を注文する。気をとり直した野沢が元の調子で返答する。

「畏まりました」

 さすがに一人で作るのは大変なので、いつもはウェイトレスをしているロボット達にも手伝わせている。ロボットも黒のボウタイと純白のドレスシャツに黒いスラックスというバーテンダーらしい服装で決めている。随分と凝り性の幹事達だ。野沢は二人分のマティーニを作ってから、和倉のためにギムレットを作っている。素人の割にはなかなか手慣れたシェイカーさばきだ。そうするうちにも三々五々と参加者が集まってきた。

「あらあら、ずいぶん早くから集まってきてるのねぇ。金太郎に信玄に壬生の狼…… 好きよねぇ、あの人達も」

 そう言って入ってきたのは水上雪嶺と塩原紅葉、それに霧島だ。三人とも欧州宮廷風の衣装で揃えている。とても人の事を言えた筋合いではあるまい。

「おおっ! これは姫様と侍女が二人という構図だなっ。素晴らしいぞっ」

 強羅が喜んで声を掛けると、華奢な金フレームの伊達メガネにやたら豪華なメイド服を着た塩原が、こちらも文句なしに華麗なロココ風衣装で着飾った霧島にかしづいて挨拶を促す。

「姫様。下々の者共にご挨拶を下されませ……」
「あ、ええと、ええと、皆の者おはようございますなのです」

 塩原と揃いの衣装を着た水上が霧島を叱る。

「こらぁ、サキちゃんダメでしょ、打ち合わせ通りにしないと」
「ごめんなさいなのです。セリフを忘れちゃったのです」

 申し訳なさそうに霧島が謝る。塩原が一人、調子を崩さないまま水上に話しかける。

「水上様、姫様に対しお言葉が過ぎまする……」
「ふふ…… 左様でございますね。姫様、失礼仕りました」

 二人とも神妙な顔で演技を続けている。どう考えても強羅達のことは言えまい。そうこうするうちに、もう一組やってきたようだ。

「ほら那須くん、みんな来てるよ。急がないと」
「いや、まだ時間まで十分以上あるから大丈夫だろ?」
「よく見なよ、みんな来てるよ。ほら、松崎さんも急いで」
「う、うん……」

 他の二人の尻を叩きつつ、指宿が入ってきた。目敏く和倉を見つけると早速挨拶する。

「すいません、遅れました。あっ、沖田総司ですねっ?」
「ちがぁう! 近藤勇っ!」
「えー? こんなにかっこいいのに? あぁっ、サキちゃんすごい、完璧にお姫様だね」
「指宿さん達も綺麗なのですぅ。巫女さんなのです」

 指宿と松崎は白衣(びゃくえ)に緋袴という巫女装束、那須は狩衣の神主スタイルだ。

「うおぅ、二人とも強烈に巫女服似合ってるぞっ! 指宿さんなんて巫女服着るために生まれてきたとしか思えないくらいだぞうっ!」

 強羅がお世辞抜きで感嘆している。

「いえいえ、強羅先輩の金太郎には負けますよー」

 そう言いながらも指宿はまんざらでは無い様子だ。彼女の実家は神職をしており、彼女も少女の頃から巫女として手伝いをしてきている。そして彼女の巫女姿見たさに、正月には彼女の父が神主を務める小さな神社に、地元のファンが大挙してやってくるほどのシロモノなのだ。
 背は低いが、澄んだ切れ長の目に細い眉、すっと通った鼻筋、薄い桜色の唇。何より和紙と水引で止められた、艶のある漆黒のストレートヘアが白衣に映えて美しく、固定ファンが付くのも無理からぬ所。

「陽ちゃんは神主さんか。これなら腰蓑は免れたなぁ」

 少年がそう言うと、那須はほっとしたような笑顔だ。

「いやぁ、危ういところで指宿さんに救ってもらったよ。これからも司令殿には頭が上がらないな。で、空海は軍服か。親父さんのか?」
「いや、爺ちゃんの形見だよ。これ、今の国防軍の制服じゃなくて旧海上自衛隊のものなんだよ」

 二人の話に松崎が混ざってくる。

「修善寺くん、詰襟服よく似合ってるね。お祖父さんも軍人さんなの?」
「うん、潜水艦の艦長だったんだ。俺が小さい頃に死んじゃったから、あんまり海の話は聞けなかったんだけどね。それにしても松崎さんの巫女姿って似合ってるよね、陽ちゃん」
「司令官の親父さんにスカウトされてたからなぁ、今度の正月にはウチの神社に手伝いに来てくれって」
「やだ、からかわないで……」

 松崎は赤くなってうつむいている。今の彼女は薄い眉墨に、ごく軽く白粉をはたいてかすかに頬紅を引き、ちょこんと口紅をのせている程度の薄化粧なのだが、それが装束とあいまって清楚さを際立たせている。普段は化粧っ気がないこともあり、それとのギャップも今の可愛らしさを引き出している様だ。

「陽ちゃん達ノド乾かない? あそこでヤスがバーテンやってるから、飲み物頼むといいよ」
「そうするよ。今日も暑くてこの格好は応えるしな」

 そう言って、三人とも野沢のいるカウンターへ行く。

「ヤスー、生ビール頼むよ。ノド乾いちゃってさぁ」

 そう言われた野沢が渋い顔だ。

「陽ちゃーん、カクテルバーで生ビール頼まないでよ。ソレじゃあそこにいる不良将校と一緒だよ」

 和倉が野沢に提案する。

「まぁ、今日も暑いしな。それじゃ、女性二人にはソルティ・ドッグを作ってくれ。ウォッカを減らして薄く作ってやればいいだろ。陽一にはボイラーメーカーでも飲ませとけ。それから俺にはスレッジハンマーな」

 指宿が和倉に質問する。

「ソルティ・ドッグは知ってますけど、ボイラーメーカーって何ですか?」
「今作って差し上げますので、御覧下さいませ」

 和倉の代わりに答えた野沢の執事トークに、指宿が笑い出してしまう。

「う、うん、わかった。お願いね」

 野沢はショットグラスにバーボンをなみなみと注ぎ、大きなタンブラーに注いだ生ビールの中に、バーボン入りのグラスを落とし込んだ。ソレで出来上がり、ステアもしない。

「え? こんなにウイスキー入れちゃうの? 大丈夫かな那須くん」

 ソレに答える間もなく、那須はほとんど一息で飲んでしまう。タンブラーの中でショットグラスが滑り落ち、那須の唇に当たって止まる。

「うーん、まだ混ざってなかった。生のバーボンがキッツいなー」

 そう言った那須に、野沢がまた文句をいう。

「陽ちゃーん、一応カクテルなんだし一気飲みは勘弁してよー」
「だって、ノドカラカラなんだよ。マティーニお願いな」
「はいはい、畏まりましたぁ」

 処置なしといった表情で野沢がカクテルを作り始めると、指宿が呆れ顔で注意する。

「那須くーん、いくらお酒に強いからって、ウイスキーがあんなに入ってるのを一気飲みしちゃだめじゃない。壮行会はこれから始まるんだよ」
「あはは、もう我慢できなくってね」

 早くも酒が回り始めたのだろう、那須の顔が赤い。

「あらら、僕が最後かな? 遅刻じゃないよね?」

 そう言いながら13期の城崎直哉が入ってきた。呆れたことに最初っから腰蓑スタイルだ。この格好で寮から歩いてきたらしい。諏訪が早速呆れ顔で注意する。

「ナオやんさぁ、また腰蓑? そんなにソレ気に入ったの?」
「いや、今日も暑いし、この股間の開放感が忘れられなくて」

 悪びれずもせずに城崎が返事をする。ちょっと冷たい印象さえ与える美男子で、普段は真面目な印象が強いので正体とのギャップが甚だしい。

「全くこの露出狂は…… 廊下をその格好で歩いてよく警備員に捕まらなかったわねぇ。着替えるまでは外へは出て行っちゃダメよ」

 もはやお手上げといった風に諏訪が言うと、城崎と同期の塩原が霧島に忠告する。

「姫様、お目汚しでございます。あの者とは目を合わせぬほうが宜しゅうございます」

 もちろんちらっと見たものの、腰蓑一丁で何かがはみ出しそうな格好の城崎を正視できる霧島ではない。目を丸くして塩原に返事をする。

「ビックリなのです。ナオ先輩は変態さんなのです……」

 水上も薄笑いを浮かべて霧島に話しかける。

「フッ…… あの者は道化。我らが適当にあしらいまする。アレは姫様が直々にお相手なさるべき者ではございませぬ」

 侍女の二人は完全に何かの世界に入ってしまっているようだ。

「ナオやん、早くこっち来い! 駆けつけ三杯だぞ!」

 でかい声で石和と強羅が呼んでいる。もう二人ともすっかり出来上がっている様だ。カウンターには既に穂高が戻って来ていて隣にはバニーガール姿に着替えた網代も立っているが、ちょっと恥ずかしそうな表情だ。

「おぉっ、バニーガールが増えたっ! ガーターベルト付きのストッキングが素晴らしいぞっ、錦ちゃん」

 茹だったように真っ赤な顔の強羅が喜んでいる。指宿達は網代の方に寄って話している最中だ。

「あはは、錦ちゃんは黒ウサギさんだ。しかし凄いハイレッグだよね、このレオタード。でもさ、錦ちゃんは元々足長いし、ここまできわどいシロモノじゃなくても良かったんじゃない?」

 指宿がそう言うと、網代が頬を赤く染める。

「うー、サイズがぴったりなのはこれだけでさー。他のサイズにはもうちょっと大人しいのがあったんだけどねぇ。それにこのレオタード、胸元のカットラインがギリギリなんだよねー。もうちょっとでポロッと行きそうだよ」

 そう言って、羽織ったジャケットをずらせて胸元をチラッと見せると、指宿が目を見開いてびっくりしている。さもあろう、乳輪が微かにのぞくくらいのギリギリさなのだ。レオタードのカップサイズに対して、網代の胸が少し大きすぎるのかもしれない。

「うっわー確かに、きっわどいねー、これ」

 穂高も指宿に説明する。

「錦ちゃんは背が高いから、ぴったりの服が少なくてねー。で、一番過激なバニースーツになっちゃったんだよねー。多分コレ着るのって歴代でも錦ちゃんが初めてだよ。長めの燕尾ジャケット着てるから隠れて見えないけど、ほとんどTバックだしね、コレ」

「あちこちギリギリ過ぎて、とってもそのままじゃ着られないから、シャワールームでお手入れとか必要でさー。えらく時間がかかっちゃったよ。でも、サイズピッタリのスリーブレス・ジャケットがあって助かったぁ。これがなかったらさすがに諦めてたもん」

 網代はそう言って光沢地のジャケットの両襟をつまんでパタパタさせる。

「それはそうとさ、指宿さんと松崎さん、巫女姿似合うねー。すごくカワイイよ。私も来年はソレにしようかなー」
「あはは、それじゃ来年は錦ちゃんが着られるサイズの装束も準備しとくよ。ウチの神社も昔は巫女さんのアルバイトを頼んでたから、丈の長い装束とか、色々あるんだよね」

 指宿がそう言うと、松崎が一言添える。

「その代わり、お正月は指宿さんの神社でお手伝いね」
「それも面白そうだね。おみくじ売りとかするのかな?」
「まぁ、色々だよ。お正月前後だけは忙しいんだよね」

 指宿の父が宮司を務める小さな神社では氏子も減って、とうの昔に夏祭りなどは行わなくなってしまったので、せいぜい地鎮祭と正月だけの季節営業の神社になってしまっているが、それでも年末年始は初詣客で賑わうので忙しい。妙なファンが付いてしまっているのでなおさらだ。

全員気を付け!

「よーし、みんな揃ったなっ。ちょっと早めだけど始めるぞっ」

 ハイペースで飲み続けて完全に出来上がった強羅が、大きな声で話し始める。

「じゃぁ、これから石和先輩と、和倉くんの壮行会を始めるっ。石和先輩は1065点で、プリンスは1140点で特別昇任試験に合格されたっ。特にプリンスは歴代二位の好成績だっ。ラボでの配属先はみんな承知の通り、石和先輩はアクチュエーター開発グループの第二ワークグループ、プリンスは人工知能開発グループの第一ワークグループに配属されるっ」
「先輩とプリンス、それにBグループの玉川先輩の三人は8月末日をもって工場勤務を終了し、九月一日からラボに勤務となるっ。そして本日をもって集中教育コースも終了される。先輩、プリンス、こちらに二人で立ってくださいっ。他のみんなはこっちの方へ並んでくれっ」

 そしてラボに進む二人と、それを見送る者たちが向かい合うと、割れ鐘の様な大声を響かせて強羅が挨拶する。

「全員気を付けぇっ! 今までご指導有難う御座いましたっ!」
「有難う御座いましたっ!」

 追って全員で唱和、最敬礼した。和倉達も頭を下げている。石和が全員へ話しかける。

「みんな、本当に有難う。念願かなって、僕もプリンスもラボへの扉を開くことが出来た。僕は五年半で、プリンスは三年半でね。ここで僕達は一旦お別れする。でも、すぐにラボできみたちに再び会えることを確信しているよ」

 和倉もそれに続ける。

「先輩方、ご指導本当にありがとうございましたっ。それに晶やムギ、ナオに紅葉、そして新入社員のみんな、俺はお前たちにも本当に感謝しているんだ。俺の講義受け持ちの時にお前らがガンガン攻め立ててくれたおかげで、俺はこの試験に合格できるだけの力を付けられたんだと思ってる。本当にありがとう。石和先輩も俺もラボで待ってる。一刻も早く上がってきてくれ」

 和倉が少し早口で話す。泣くまいとしているが、目が少し潤み始めている。そして、こちらも少し目の赤くなってきた石和が話し始める。

「壮行会では涙はご法度だよ、プリンス。じゃ、ここで実務的な話をしておくよ。明日からAグループの班長が空いてしまうので、僕が班長の権限を行使して次の班長と副班長を指名します。班長は強羅くん、副班長は水上さんでお願いします」
「はい、了解しました」

 強羅、水上がそれぞれ返事をする。石和がニコッと笑って強羅達に話しかける。

「じゃ、班長としての僕の仕事はここまで。後は二人に頼んだよ」
「はいっ。それじゃ、これ以上やってると全員また泣いて湿っぽくなるから、堅苦しいのはここまでっ。この社員食堂は夜中の9時まで借りきってるから、そこまでエンドレスで飲むぞっ!」

 再び強羅の胴間声が響く。水上も全員へ話しかける。

「新人は知らないだろうから、今教えておくね。この壮行会には、今ラボに勤務している年少組の先輩達も顔を出すから失礼がないようにね。そこの腰蓑の人は特に! そうそう、湯布院先生達も顔を出すって言っていたからそのつもりでね」

 そうしてしばらくの間は、Aグループの者だけで歓談していた。ソフトドリンクと軽食は第二食堂を持ち場とするロボットたちが作り給仕もしているが、酒の方は野沢と穂高、それに網代の三人で出している。カクテルは基本的にすぐ飲み干して次を頼むものなので、バーテンダーは大忙しだ。野沢はどこで憶えたのか大抵のカクテルはレシピも見ずに、手慣れた動きで作っていて、素人くさい手つきの穂高に手順を教えたりしている。網代もカクテルを飲む方より作る方に興味が有るのか、野沢からやり方を教わって手伝いをしている。

「爺や、焼酎をもて。芋焼酎が所望じゃ!」

 酒には弱いので、ちょっと飲んだだけですっかり酔っ払った少年がでかい声で野沢を呼ぶが、当人は知らんぷりだ。

「酔っぱらいの不良将校め。錦ちゃん、そこの『どなん』って書いてある泡盛をロックで出してやって」
「はーい……って、これすごく強くない? いいのかな、ロックで出して」
「あぁ、六十度あるからね。今日は芋焼酎なんてほとんど準備してなかったからさ。アイツには『メチャ強いからガブ飲みするな』って言っといて」
「あはは、了解」

 そうこうするうち、年少組の先輩達も集まり始めた。普段着の人もいるが大抵はよそ行きの服装で来ている。女性は洋装が少なくて留袖などの和服が多い。一時期はかなり減った和服姿だが、海外のパーテイなどでは和服姿の受けが非常に良いので国内で再評価された結果、また流行り始めてきたのだ。一方の男性はと言えばかなりメチャクチャで、和倉のような派手な羽織袴姿や裃のものもいれば、怪しげなマスクにマント姿というカーニバルかハロウィンと勘違いしたかような仮装の者、昔のカートゥーンムービーのコスチュームなどなど、水上の言い草ではないが『ピグマリオンて何の会社なのかしら?』と言うところだ。

 よく見ると、先輩達は酒を飲んでいない。全員ソフトドリンクを飲んでいるのだが、その割には異常にテンションが高い。ラボに入ると全員マッドサイエンティストになるのかも知れない。男女四五人で集まって、なにやら軍歌みたいな歌を歌っている先輩達もいるが、少年たちはいい加減酔っ払っていて、何を歌っているのかさっぱりわからない。

「石和くん、和倉くん、おめでとう」

 そう言って入ってきたのは翠先生だ。隣に湯布院教授、後ろには宮城助教授もいる。翠先生は淡い萌黄の色留袖、湯布院教授も黒の紋付羽織袴の正装で来ている。湯布院教授が上機嫌で二人に声を掛ける。

「石和、おめでとう。アクチュエータのグループ長が期待していたぞ。あそこの古株研究員は俺の後輩だらけで歓迎会が手荒いから覚悟しとけよ」
「はい、ありがとうございます。こうして一歩前に進むことが出来たのも、先生方のおかげです。本当にありがとうございました」
「プリンス、おめでとう。お前、去年は惜しかったからなぁ。AIグループは三郎…… じゃねぇ、別府博士の手元で働くことも多い。それに先輩達はマッドサイエンティストが揃ってるから、面食らうことも多いし、今まで以上に勉強が必要だ。頑張れよ、年少組の意地を示してくれ」

 晴れやかな顔で和倉が返事をする。

「はいっ! 精一杯やりますよ。俺はこの日を心待ちにして、今まで先生にギュウギュウ絞られてきたんですから」

 黒のモーニングコート姿の宮城助教授もお祝いを述べる。

「石和くん、和倉くん、おめでとう。明日からはやっと長期休暇が取れるねぇ。入社してから今までは集中教育で有給休暇をほとんど取れなかったろうから、来月のラボ出勤までは今までの分を含めて十分休んでおくんだよ」

 和倉が返事をする。

「ありがとうございます、宮城先生。でも、俺は明日からでもラボで働きたい気分ですよ」

 すると、翠先生が柔らかな笑顔を浮かべて和倉をたしなめる。

「和倉くん、今ラボに入るとね、多分二三年は長期休暇が取れないわよ。ガラテア4のプロトタイプ製作に向けて、ラボはデスマーチの真っ只中なの。ここにお祝いに来てくれた先輩達、格好は変だけどお酒を飲んでいないでしょ。彼らはここを出たらまっすぐラボに戻って仕事を続けなければいけないからなのよ……」
「だから、貴方達は休暇をとりなさい。仕事は逃げないわ、ラボで貴方達を待ち構えているのよ」

 翠先生はそう言って目を細め、微笑を浮かべて石和に右手を出した。

「改めておめでとう、石和くん。今、メカトロとアクチュエータの開発現場は罵声が飛び交う戦場さながらの状況と聞いたわ。あなたはおとなしい質だから先輩達に気圧されることも多いだろうけれど、負けないで頑張って」

 石和は差し出された翠先生の華奢な右手を握り、頭を深く下げる。

「ありがとうございました、翠先生。先輩達に負けないよう、精一杯やります」

 翠先生は和倉に向き直り、話しかける。

「おめでとう、和倉くん。私はここでずっと集中教育に携わってきたけれど、今までの生徒ではあなたが一番飲み込みが良かったわ。本当に教えがいのある生徒だった……」
「私は夫と違ってラボへの出入りがとても少ないから、これからは会社の中であなたに会える機会はもうほとんど無いと思うわ。でもいずれは学会などで外で会うことが多くなると思うの。それを楽しみにしているわ」

 そう言って差し出された翠先生の手を、和倉は何も言わずに両手で覆うように握る。もう、ここでは翠先生と会えなくなってしまう、そう思っただけで、一気に湧き上がった涙が堰を切って溢れそうで、もう口が聞けなかったから。

 湯布院教授が和倉に話しかける。

「プリンス、ピグマリオンのラボでは研究者に三ランクある。ヒラの研究員とジュニアフェロー、そしてフェローだ。自分の名前でペーパーを出したり研究発表が出来るのはジュニアフェローからだぞ。そしてお前の実力ならば二三年でジュニアフェローになれるだろう。年少組には現場開発者としてだけではなく、アカデミシャンとしての能力もあることを証明してくれ。石和もだぞ。わかったな」

 授業ではついぞ見たことがなかった湯布院教授の優しげな表情を見て、和倉はついに我慢ができなくなり、涙が止めようもなく流れ嗚咽が漏れる。湯布院教授が優しく和倉の背中をポンポンと叩き、翠先生が話しかける。

「泣いちゃダメよ、和倉くん。壮行会では涙はご法度よ」

 そう言っている翠先生の目にも、うっすらと涙が滲んでいる。

「すいません、俺、絶対泣かないって去年も宣言して、今朝、寮の部屋を出てくる時にも自分に言い聞かせたのに…… やっぱり全然ダメですわ」

 無理に笑い顔を作りながら和倉はそう言った。

「湯布院先生、Bグループにも顔を出しましょう。玉川くんが待ってるでしょうから」

 宮城先生がそう促し、先生方は別会場で行われているBグループの壮行会へ顔を出しに行った。

 そしてしばらくするうちに一人二人と先輩達もラボへ引き上げ、予定閉会時間の夜9時を待たずに壮行会はお開きとなった。男で泥酔していないのはあまり酒を飲まない城崎だけ、女性も指宿と霧島は酔って眠ってしまったので、先に寮の自室に松崎や網代、水上達が送っていった。
 翌々日の月曜日、石和と和倉は翠先生に言われた通りに長期休暇を取り、当然ながら集中教育にも顔を出さなかった。しかしながら講義は今まで以上の容赦無い厳しさで行われ、残ったメンバーは寂しさを味わうどころではなかった。当日の担当は宮城先生だったが、先生なりの思いやりだったのだろう。

それぞれの理由

 和倉達がラボに入った翌年には少年たち14期にも15期の後輩が二名だけ増えた。その夏には水上雪嶺が1020点でラボ入りを決めた。
 そして年を越えた年度末の3月初頭、久々にあった連休の最終日、十四期のメンバーはそれぞれ外出先から戻ったところだ。特に課題の残りがあったわけではないのだが、全員揃って寮の学習室で夕食後の団欒を過ごしている。そこでの何気ない話の中で、それぞれの志望理由が話題になった。

「那須くんは何でピグマリオンに入ったの?」

 そう話を切り出した指宿に那須が答える。

「うーん、そうだなぁ。実は俺は大学への進学をずっと勧められてて、最初はここに就職して年少組を目指す積りはなかったんだよね」
「まぁ、スキップ組って普通は進学するもんね。俺もお袋が最期までうるさくて参ったよ」

 少年が顔をしかめて話に割り込む。指宿が重ねて質問する。

「なんで、進学しなかったの? やっぱりロボットに興味があったから?」
「いや…… 実はそれほどロボットに強い興味ってなかったんだよ。もちろん全然関心がなかったわけじゃないけど、空海みたいな『自分でロボットを作りたい!』って言うようなのは無かったな」
「修善寺くんは分かりやすいよね、志望動機」

 松崎が笑顔で言うと、少年が照れくさそうに答える。

「そんなに分かりやすい?」
「すごく分かりやすいのです。食堂でロボット相手に一日過ごして飽きないのは修善寺くん位なものなのです」

 こちらもニコニコしながら霧島が言う。指宿がまた那須に質問する。

「ロボットに強い関心がないのに、厳しいので有名なピグマリオンの集中教育コースに入ったのは何で?」
「そうだなぁ、やっぱり技術の最先端じゃない、ロボット製作って。そこに憧れた部分があるし、現実的な話、ここで年少組になってしまえば、同業他社と比べてもそうだし、他業種と比べても給料が圧倒的に良くなるんだよね」

 網代がうなづきながら言葉を継ぐ。

「そうなんだよね。私も進学を勧められてたんだけど、ピグマリオンに行きたいって話をしたら、そんな話を就職指導の先生に言われたよ。ピグマリオンなら進学するよりも年少組を目指したほうが出世できるって」

 すると意外そうな顔で野沢が網代に質問する。

「それじゃ錦ちゃんも待遇重視でここを選んだの?」
「いやいや、私はロボット作りたい組だよ。私は小さい時から格闘技やってきたんだけど、柔術が出来るようなロボットを作ってみたいなぁってずっと思ってたからね。学校の部活もサイバネ部だったし、ロボットコンテストのフリースタイル格闘大会にエントリしたこともあるよ。ウチの学校は野沢くんのところほど強くなかったけどさ。野沢くんは?」
「俺も作ってみたい組。俺の親父とかおじさんは子供の頃からロボット製作の趣味があって、その影響で俺も色々自分で作ってみたりしてたんだよ。もちろんセミ・インテリジェントタイプのフレームキット改造とかなんだけどさ。学校の文化祭とかではいつもロボットの出品だったな。サッカーボールのリフティングのデモとかやってさ。気楽だったなぁ、あの時代は」

 少年が野沢に話しかける。

「ヤスの学校はロボットコンテスト常勝だったもんなぁ。俺の学校にはそういうクラブがなかったから羨ましかったよ、お前の学校」

 野沢の出身校は『東京ポリテクニク』という名の私学校で、金持ちの子弟が多く入学する名門校。学問のみならず、運動部も文化部も全国トップレベルの学校である。少年や網代は公立校出身だから、部活の予算は有って無きが如しで、とても私立高にはかなわなかった。

 今度は那須が指宿に質問する。

「指宿さんは何でここを目指したの?」
「私はロボット自体よりもAIに興味があったのね。元々認知心理学とか脳科学を勉強したかったから」
「でも、それなら大学に進学するのが普通じゃないか? それこそ理研大の翠先生の研究室とかさ」

 思案顔で指宿が答える。

「うん、随分悩んだよ。どっちにしようかって。進路指導の時には翠先生がいる理研大を勧められたしね。でも、理論だけの大学と実際にロボットを作っているメーカーのラボでは、メーカーの方が実践的な研究ができるし、実際に評価の高い論文を世界で一番出してるのはピグマリオンのラボだよって、当の理研大の先生に言われたのね。それでここに入ることに決めたのよ」
「なるほどね。みんなそれぞれいろんな動機で入ってきてるんだなぁ。松崎さんはどんな理由?」

 そう聞いた那須に、はにかみながら松崎が答える。

「うん、私の家って私と姉さんと母さんの女三人の家庭なの。父さんは私が5年生の時に事故で死んでしまったから、それからずっと母さんが働いて育ててくれたんだよね。姉さんは進学したんだけど、私まで進学するとお金もそのぶんかかるから、それなら就職しようかなって」

 那須が松崎を少し驚いたような顔で見ている。そこへ霧島が不思議そうな顔で松崎に話しかける。

「でも、松崎さんはものすごく勉強できるのです。大抵の大学で特待生になれると思うです。奨学金ももらえると思うですよ」
「進路指導でもそう言われて励まされたんだけど、やっぱり進学するより働いてお金を稼ぐほうが母さんが助かるから……」

 松崎が穏やかな口調で話を続ける。

「でも、やっぱりロボットの勉強はしたかったのね。私の父さんはピグマリオンの下請けをやっている小さな工場で働いてたので、いつも私や姉さんにロボットの話をしてくれたの。そう言うのもあってここを選んだんだよね。ここならロボットの勉強もできてお金も稼げるから、私には丁度よかったの」

 少年が松崎が手にしている、褪せた紺色をした帆布のかばんを指さす。

「確か、そのいつも持っているかばんが、亡くなった親父さんの形見なんだよね?」
「うん…… お父さんはロボットが大好きで、時々ロボットのショールームに私を連れていってくれたのね。いつもそこで私と一緒にロボットに話しかけてたの、食堂で修善寺君がやってるみたいにね。このかばんもショールームの福引で当たったものなの」

 網代が霧島に水を向ける。

「霧島さんの志望理由って何かな?」
「私は那須くんと同じ理由なのです。ピグマリオンってすごく社員の待遇が良いのです。特に女性社員のお給料の平均が男性社員の平均よりもちょっと高いのです。そんな会社、日本には余り無いのです」

 野沢が霧島を茶化す。

「でも、集中教育がここまで厳しいと、ちょっと考え直しちゃうんじゃない?」

 真面目な顔で霧島が答える。

「厳しいのはわかってたのです。でも、ここで頑張って年少組に入れれば那須くんの言うとおり、待遇がすごく良くなるのです。だから今、頑張らなきゃいけないのは当然なのです」

 それを聞いて、明るい表情で少年が言う。

「そりゃそうだよね。楽に高給取りになれるなら、みんなピグマリオンに来ちゃうよなぁ。でも、霧島さんはロボット自体にはあまり興味がないの?」
「正直に言うと、ここに入るまではあまりロボットには興味なかったのです。面白いなって思うようになったのは、集中教育を受けるようになってからなのです。それから工場で勤務しているのも結構楽しいのです」

 那須が感嘆したように言う。

「それはすごいなぁ。普通は多少好きでも、こんなに厳しく教育されたら嫌いになっちゃうことさえありそうなのに」

 少し不安げな表情で少年が那須に質問する。

「それって、陽ちゃんがロボット研究への興味が薄れちゃったって事?」

 少し狼狽した風に那須が返事をする。

「あ…… いや、そういう事じゃないよ。確かにキツイことはキツイけど、講義自体はすごく興味深いし、実習やってても楽しいしな」

 そう言った那須の顔には貼りつけたような笑顔があった。
 野沢がため息混じりに割り込んでくる。

「課題がキツイけどなぁ。正直言って湯布院先生の鉄拳教育より、翠先生の課題責めがツライよ、俺は」
「何言ってんだよ、お前は湯布院先生にはほとんど殴られてねぇだろ」

 少年が口を尖らせる。実際上、湯布院教授に殴られるのは少年の役目になってしまった観がある。まぁ、殴ると言っても教鞭か拳骨で頭をゴツンとやるだけで、怪我をするようなことはない。教授が本当に怒ったときには逆に手が出ず、難聴になるくらいに怒鳴られるのだ。

「まぁな、お前がいるおかげで助かるよ。これからもよろしく頼むわ」

 野沢がおどけてそう言うと、少年が口を尖らす。

「たまには交代しろよ、友達がいのねぇやつだな」

 指宿が笑って少年にツッコミを入れる。

「そりゃあ無理よね。あなたが一番湯布院先生に気に入られてるんだもの。光栄なことじゃない」

 少年が肩をすくめる。

「ちぇ、人事だと思って。結構痛いのにさぁ。そう言えば明日も湯布院先生の授業だなぁ」

 那須が立ち上がりながら少年に声を掛ける

「俺、明日はナオ先輩の講義助手やるんで、その準備があるから部屋に戻るわ。じゃ、みんなお先に」

 そう言って自室に戻って行った。

終わりの兆し

 那須が部屋を出て行くと、松崎が指宿に小声で話しかけた。

「指宿さん…… 那須くん、この頃あまり元気がないんじゃないかって思うんだけど、どうかな?」
「元気ないよね。何と言うか、毎日少しづつ元気が無くなってる感じがする」

 それを聞いていた少年が怪訝そうに二人に尋ねる。

「元気がないって? 陽ちゃんが? 俺には特に変わったように見えないけどな。ヤスはどう思う?」
「俺も松崎さんと同じ意見だな。陽ちゃん元気ないよ。何て言うかさ、春前から特に感じる」

 網代も少し心配気な顔で話しに入る。

「いまさっきも、サキちゃんが『今ではロボット研究が面白くなってきた』って話したとき、明らかに表情が曇ったんだよね」

 霧島が不安気に網代に質問する。

「あの、私がまた余計なこと言っちゃったのでしょうか。だったら那須くんに謝らないといけないのです」

 網代が笑って諌める。

「まさかぁ、サキちゃんは何も悪くないし、那須くんだって悪くないよ。私が思うのはさ……」
「年少組を諦めようとしているのかも知れないね……」

 網代が言うより早く、ぽつりと松崎がつぶやいた。少年がすかさず立ち上がって松崎に食って掛かる。

「そんな馬鹿な話があるわけねぇよ! 何で陽ちゃんが集中コース抜けなきゃなんねぇんだよっ!」

 指宿がまっすぐ少年を見つめて、いつになく低い声で話しかける。

「落ち着いてよ…… 私も松崎さんと同じ意見だよ」
「何でだよ? 理由がねぇじゃねぇかよ! おまえら陽ちゃんに辞めて欲しいのかよっ?」
「そう思うの?」

 少し怯えた、泣きそうな顔で松崎が言う。その顔を見て少年は我に返る。

「…… ごめん、そんな訳がないよな…… 本当にごめん。でも、何で陽ちゃんが辞めようとしてるって思うんだよ。それを言ってくれよ」

 指宿が少年から視線を外さないまま質問する。

「那須くんが授業で最後に発言したのがいつだか覚えてる?」
「え? 急に言われても思い出せないよ。ヤスは覚えてるか?」

 野沢は首を傾げながら返事をする。

「俺もよく思い出せねぇな。逆に言うと、それくらい陽ちゃんは授業で発言してねぇんだよ。ついでに言えば課題を持ち帰ってみんなで討論するときも、質問されるまで何も言わなくなってんだよ、陽ちゃん」

 そこまで聞けば、少年にも思い当たることはあった。

「そう言えば、正月明けに湯布院先生のお宅で松崎さん達と鉢合わせしたじゃんか。その時は俺が湯布院先生の資料整理の手伝いで、松崎さんと指宿さんが翠先生の学会発表の手伝いだったと思うんだけど、その話を陽ちゃんにしたんだ。その時にちょっと陽ちゃん変だったんだよな」

 網代が少年を促す。

「どう変だったの?」
「陽ちゃん、俺に『休日に呼び出されてるのに、よく喜んで行くな、お前ら』って言ったんで、軽く『当たり前じゃん。こっちも勉強になるんだから』って返したんだよ、そうしたら……」
「そうしたら?」
「何か、すごく不機嫌そうな顔で『いいよな、お前……』って。俺、陽ちゃんのあんな顔、初めて見たからびっくりしてさ」
「それからは?」
「機嫌が悪そうだったのは一瞬だけだったんだ。それからすぐに珊瑚ちゃんの話になったから、俺もそれ以上気にしてなかったんだけど。今考えてみると、あの時の陽ちゃんの反応は普通じゃなかった」

 網代が指宿に質問する。

「和泉ちゃんが、那須くんにここの志望動機聞いてたのって、もしかして……」
「うん、聞いてみたかったの、彼の志望理由。やっぱりロボットにあまり執着無いんだよね、彼。単純に言うと修善寺くんと逆なんだよ」

 少年が指宿の顔を覗き込んで質問する。

「俺と逆って? 一体何が?」
「あなたは安月給だろうがデスマーチだろうが、ロボット開発の仕事が出来ればそれで良いんでしょ?」
「あぁ。でも、集中コースの奴はほとんどみんなそうだろ?」
「那須くんはそうじゃないんだよ。まず出世とかお給料が先で、仕事の中身はその次ぎなんだよ」
「でも、別にそれは悪いことじゃない、っていうか会社員ならあたりまえじゃんか。霧島さんだってそれは一緒だって言ってたじゃないか」
「そうだね。それでサキちゃんが『今はロボット製作の勉強が面白くなった』という話を聞いたときに表情が曇ったんじゃないかな。自分とは違うと思ったんだろうね」
「でも、陽ちゃんだって講義も実習も面白いって……」

 指宿に代わって網代が少年に話しかける。

「その時の那須くんの顔を見た? どんな顔してた?」
「え? どんなって…… よく覚えてないけど」
「作り笑いだったよ。すごく辛そうだった」

 松崎がそう言った。指宿が野沢を向いて質問する。

「ヤスくんさ、翠先生の課題がキツイって言って話に割り込んでたけど、あれは那須くんの様子に気づいてたからでしょ?」

 野沢は指宿を見ないで俯き加減に返事をする。

「…… あぁ、陽ちゃんの様子がおかしいと思って話を切り替えたんだ」

 少年がテーブルを見ながらつぶやく。

「俺だけ陽ちゃんの事に気付いてなかったんだ。俺、今までずっと陽ちゃんに助けてもらってたのに」

 霧島も少年を見て話しかける。

「気付かなかったのは私も一緒なのです。那須くんは修善寺くんだけじゃなくて、私や他のみんなの事をいつも気遣っていたのです。でも、那須くんが辛い時に、私は那須くんを気遣ってやれて無かったと思うです」

 網代が笑って二人をフォローする。

「まぁまぁ、待ってよ二人とも。私も気づいたのは最近だよ。なんか変だなって思ってはいたんだけど、それで那須くんに何がしてやれたと言うことじゃないんだからさ。それはみんな一緒だよ」

 松崎が全員を見回して話し出す。

「どうしようか、私は明日にでも翠先生に相談するべきだと思うんだけど」
「私もそう思う。那須くんが本気で進路に悩んでいるのなら、グズグズしないで先生方や先輩達に相談すべきだと思う」

 指宿がはっきりした声でそう言った。霧島や野沢も頷いている。だが、網代が異議を唱えた。

「でもさ、彼が悩んでいる段階で先生方に相談してしまったら、話が大げさになって、却って辞めようと考えている彼の背中を押してしまうことにならないかな? 彼は年少組行きを諦めたら会社も辞めて、改めて大学進学するとおもうよ。那須くんにはそれくらいの実力が十分あるし、彼は工場勤務をやりたくてピグマリオンに来たんじゃないんだからさ」
「それじゃ、錦ちゃんは私たちだけで那須くんを引き止めるべきだって考えてるの?」

 指宿がそう聞くと、網代はうつむいて頭(かぶり)を振る。

「ううん、そう言いたいわけじゃないよ。私にはどうすれば良いのかが判らないんだよ。指宿さんが言う通り、グズグズしないで手を打つべきかも知れないとも思うよ」

 指宿は少年を見て質問する。

「ねぇ、修善寺くん。あなたはどうするのがいいと思う?」
「俺は……」
「あなたが一番那須くんと親しいよね。それに、一番那須くんに世話かけたよね」
「あぁ……」
「もう一回聞くわ。あなたはどうすれば良いと思うの?」
「俺には…… 陽ちゃんが年少組を諦めたいと考えてるって言うのが信じられないし、信じたくない。陽ちゃんが会社を辞めようとしてるなんて考えたくない」
「でも、そう考えてる可能性が高いよ。それがわからないわけじゃないよね?」

 そう言った指宿の顔はいつもの明るい勝気な顔ではなかった。硬い表情で…… 悲しげだった。

「明日の昼休みに陽ちゃんに直接聞くよ。俺は陽ちゃんの口から何も聞かないまま、ああだこうだと悩みたくない」

 ようやく心を決めた少年がきっぱりと言った。すると松崎が少年に質問する。

「一人で那須くんと話すの?」
「俺も行くよ。空海だけじゃ心配だしな……」

 ボソリと野沢が言った、その時少年の電話が鳴った。和倉からのコールだ。

「はい修善寺です。なんすか?」
「すぐ俺の部屋に来い。湯布院先生の家に行くぞ」

 少年が電話に出ると、和倉は低くそう一言だけ言って電話を切った。

「え? ちょっと待って…… くそ、切りやがったよ、せっかちめ」
「和倉先輩でしょ? 何だって?」

 そう指宿が少年に尋ねた。送話器から漏れた声で相手が和倉だとわかったらしい。あるいは『和倉センサー』が内蔵されているのだろう。

「湯布院先生の家に行くからすぐ来いって。いきなり何を言い出すのかな、あの人は? とりあえず先輩の部屋に行ってくるよ」

 そう言い残し、少年は足早に和倉の部屋に向かった。

ちょっと飛ばしましたから

 少年が和倉の部屋に行くと、那須がいた。

「あれ? 陽ちゃんどうして? ナオ先輩の講義の準……」

 自動車のキーを持ち、上着を着込んだ和倉がぶっきらぼうにそれを遮る。

「そんな事はどうでもいい。行くぞ」

 そう言って足早に部屋を出ると、少年と那須も慌てて後を追う。寮の小さな駐車場には和倉の自家用車が一台ポツンと停まっている。HONDA NS-3500HV 本田宗一郎記念モデル…… それは世界最後の内燃機関搭載のハイブリッド車にして、最高出力330KWのモンスターマシンだった。
 和倉はさっさと運転席に乗り込み、エンジンを掛ける。そしてV8の低く乾いたアイドリングノイズと金属質のタービンノイズが響く中、二人を促す。

「湯布院先生が待ってる。急げ。陽一が後ろ。空海は助手席に座れ」

 二人が乗り込みシートベルトを締めると、車に内蔵のAIがお決まりの警告を始める。

「セルフチェック…… オールグリーン、ドアロック…… オールグリーン、シートベルト…… オールグリーン、ドライバーズポジション……」

 そこまで読み上げた時点でブツリと音声が切れる。和倉がAIの強制スリープスイッチを入れたためだ。もちろん違法改造である。少年が和倉に咎めるように話しかける

「先輩、車のAI殺しちゃうのマズくないスか? お巡りにバレルと……」

 そこまで話したところで車が急発進した。少年はシートにグイっと押し付けられ、今時のEV(電気自動車)とは全く異質な凶暴無比のエキゾースト・ノートが響きわたる。

「ちょ、ちょっと、乱暴っスよ」

 和倉は少年に目もやらず、眉一つ動かさずに返事をする。

「怖きゃ目ェつぶってろ。飛ばすぞ……」

 湯布院教授のアパートメントまで、AI任せの自動運転なら一時間かかる道程の筈だったが、40分少々で到着した。湯布院教授がエントランスホールで出迎えてくれている。

「おう、プリンス。随分早かったな」
「はは、ちょっと飛ばしましたからね」

 少年は心のなかで『ちょっとどころの騒ぎじゃねぇよ……』と思ったが、それを口にする元気がなかった。正直に言って膝が震えるほど和倉の運転が恐ろしかったのである。那須に至っては走る間ずっと目をつぶっていた。少年たちの顔を見て教授が笑う。

「何だよお前ら、随分顔色が悪いじゃねぇか。早く上がれ」

 そう言ってエレベーターホールに向かう教授に付いて、和倉を先頭に三人は歩いて行った。

「先生、翠先生は今日は?」

 和倉が教授にそう尋ねると

「あぁ、ウチのは明日の朝にこっちに帰ってくるんだ。学会が札幌であったんで、まだあっちにいるんだよ」

「それじゃ、飯とかどうしてたんですか?」
「馬鹿野郎、それくらい全部自分でやるに決まってるだろが。ウチにゃ、メイドロボットがいねぇんだからよ。もっとも、今日は珊瑚が全部やってくれたんだけどな」

 少年も教授に質問する。

「へぇ、珊瑚ちゃんも料理とか得意なんですか?」
「あぁ、俺仕込みだから本格的だぞ。特に有り合わせのもので一料理でっち上げる才能は、我が娘ながら大したものだと思うぞ。家事も手際よくこなすしな。今度の4月で十四歳になるけど、もうどこへ嫁に出しても恥ずかしくないくらいだ」

 玄関をくぐりリビングへ入りながら、教授はそう自慢気に話す。まぁ、あの器量で家事万能で、その上スキップ三回の賢い女の子となれば、父親の鼻がむやみに高いのも已むを得まい。

「その珊瑚ちゃんは今はどうしてるんです?」
「部屋で勉強中だ。来年は大学受験だしな。何しろ狙ってるのが産総研大だからな、大変だよ」

 教授と翠先生の奉職する理化学研究大学(理研大)と並び、理工系大学では最難関の産業総合研究大学、つまり宮城先生の務めている学校を目指しているらしい。勧められたソファに座りながら、和倉が不思議に思って聞く。

「理研大じゃないんですか?」
「あぁ、親の七光りみたいで嫌なんだとさ」

 そう言って教授は肩をすくめると、笑いながら和倉に尋ねた。

「それはそうと、一体どうした。要件もロクに言わねぇで『大事な用があるから』って言って押しかけて来たんだ。つまんねェ用事だったらタダじゃ置かんぞ」

 和倉は真面目な表情で話し始めた。

「相談は陽一…… いえ、那須くんの事についてです」
「集中コースを抜けたいって話ならお断りだぞ。何遍書類を書いてもシュレッダ行きだからな」

 教授は悪びれずもせずに那須に向かってそう言い、質問した。

「お前、去年の末辺りから、どうも授業で元気がねぇなと思ってたんだが、一体何を悩んでんだ?」

 那須は教授に向かい、話し始めた。

「僕は、これ以上集中コースで勉強を続けるのが辛いんです。やめさせて下さい。僕にはあそこで勉強を続ける資格がありません」

 怪訝な顔で教授が返事をする。

「コースに残る資格がねぇかどうかは俺達が決めんだ、お前らが決めることじゃねぇ。大体、何だって自分に資格がねぇと思うんだ?」
「僕はロボット製作がそんなに好きじゃないからです。好きでもない仕事なのにそれを隠して好きなふりをして、止めろと言われないのを良い事に、惰性で勉強を続けてたってうまくいくと思えないんです……」
「それに、空海みたいにロボットが大好きで、いつもラボに行くための努力を欠かさない奴らに対して申し訳ないです。俺にはみんなと一緒にやって行く資格がないんです」

 そう言ってうつむいてしまった。少年が那須に向かって話しだす。

「陽ちゃん何言ってんだよ! 陽ちゃんは前回の試験だって14期では5位だったじゃないか。6位の錦ちゃんとか8位のヤスはどうなるんだよ」
「前回はそうだったかも知れないけど、次はもうだめだよ。好きでやってる奴らと、出世とか給料のためにやってる俺じゃ、結局勝ち目がないんだよ。それに三位だったお前と、五位の俺の点数差は100点くらいあったんだぞ」

 湯布院教授がため息混じりに和倉に質問する。

「プリンス、どう思うよ、お前は」
「出世や給料のためにやってるのが駄目だって言うんじゃ、俺も会社辞めないとイカンですからねぇ。困りますよねぇ」

 とぼけたような顔で和倉が返事をすると、那須が食って掛かる。

「プリンス先輩は、ロボット製作に対してすごい情熱持ってるじゃないですか。俺は……」
「いやぁ、空海みたいなロボット馬鹿に比べれば、俺は給料と出世と名誉欲に駆り立てられてる俗物だよ。実際、昇給も昇進も嬉しいしな。今だって一番俺にとって重要なのは、ジュニアフェローの社内資格がいつ取れるかだぜ」
「でも、先輩にはロボット製作に情熱があるじゃないですか。俺には……」
「もうロボットの事はうんざりで考えたくもないか? それとも飽き飽きしてるのか?」
「そんな事はないですけど、空海達に比べたら……」

 教授が困ったなという顔で那須を諭す。

「あのなぁ、修善寺と自分を比べるのはあまり意味がねぇぞ。修善寺は十年に一人、いや二十年に一人の馬鹿なんだから、普通じゃねぇんだよ」

 あまり褒められている感じではないが、教授としては大絶賛なのである。少年が小声で教授に質問する。

「そんなに馬鹿ですか? 俺」

 教授は当然と言う様に返事をする。

「あぁ、俺が知る限り、社内ではお前がダントツのロボット馬鹿だな」
「はぁ……」

 あまり少年は嬉しそうではない。そして那須が教授に反論する。

「空海だけじゃないです。Aグループの中で、俺だけがロボット製作の勉強や訓練を楽しめてないんです。今日、14期のみんなで志望動機とかの話をしたんですけど、結局俺だけが何の情熱も持ってないのがわかりました。俺がピグマリオンで年少組を目指してたのは、結局給料のためだし、今でもそれは一緒です。でも、それは情熱を持って努力してる空海たちを馬鹿にしているようで辛いし、どうせ最後には競争にも負けると思うんです」

 教授は表情を改めて那須を諭す。

「あのなぁ、那須よ、ラボだって『仕事だから』ってやってる奴は珍しくないし、だから成果が上がらないってことはないんだぜ。それとな、あの三郎だって大学に入った頃はそんなにAIが好きだったわけじゃないぞ」
「三郎って誰ですか?」
「馬鹿野郎、お前の社長の名前だよ。別府三郎忠泰、アイツは俺の二年後輩だからな。アイツは今でこそ日本最高、いや世界最高のAI研究者だけど、大学に入った頃は俺みたいなメカトロをやりたがってたんだよ」

 和倉が意外そうな顔で教授に質問する。

「本当ですか? 別府博士がメカトロを?」
「あぁ、俺達が大学に入った頃は人工知能や人工意識研究が一時的に壁にぶち当たってて、うまく行く見込みが薄かった頃なんだよ。だから、俺みたいなメカトロをベースにした、人工意識を持たない自動機械の方向が研究の大きな流れだったんだ。実際にそっちの方向でどんどん実績が上がってた時代だからな……」

 教授はそう言って、また那須を見て話し始める。

「だから、三郎も最初は俺と一緒にメカトロをやってた時期がある。あいつがAI研究に向けて舵を切ったのは格さんの影響なんだ」
「格さんって、もしかして常務ですか?」
「あぁそうだ。格さんはAI研究に対してものすごい熱意を持ってたからな。ミンスキー賞やマッカーシーメダルは三郎だけじゃなくて格さんとの共同受賞なんだぞ」

 どちらも35歳未満のAI研究者に贈られる賞で、計算機科学におけるチューリング賞やゲーデル賞並の価値がある賞だ。

「そういう意味では、三郎にはAIにせよメカトロにせよ、それほど熱意があったとは言えねぇよ。少なくとも最初のうちはな。メカトロは俺に引っ張られたせいだし、AIは格さんが引っ張ったせいだ。でも、あいつは世界最高のAI研究者の一人なんだぜ。どうする? 那須」
「俺は別府博士みたいな天才じゃ……」
「俺ァそんな話はしてねぇ、情熱がどうのこうのとグズグズ言ってんのが気に入らねぇんだよ。大体お前は会社に入ってまだ二年も経ってねぇじゃねぇか。それでロボット製作の何がわかる。その奥の深さ、難しさ、面倒さ、そしてその楽しさの何がわかるってぇんだ? 笑わせるな! まだ始めたばかりのくせしやがって、もう音を上げるのか、あぁ? おい那須よ」

 那須はうつむいて言い返せない。

「お前が情熱云々を言うのは言い訳に過ぎん。俺の見込みを言えば、今年は強羅がラボに行くだろう。そして来年は松崎、指宿の二人は確実に、恐らく諏訪と修善寺も行けるだろう。その次ぎは団子だから順番は良くわからんが、いずれ全員ラボに行ける。それでお前は松崎達はともかく、修善寺にまで置いて行かれるのが面白くないんだろ?」

 何も言えない那須に代わって、少年が教授に反論しようとする。

「先生待って下さい。前回の試験は俺が勝ったけど、次がどうなるかなんて……」
「うるせェんだよ、オメェはすっこんでろっ!」

 物凄い勢いで怒鳴りつけられて、少年は慌てて黙る。顔が真剣だ、本気で殴られるかも知れないと思う。その時に部屋の隅から可愛らしい声がした。

「お父さん、どうしたの? 何を怒ってるの?」

花のように

 いつの間にか自室から出てきていたのであろう。リビングの入口に不安げな顔で珊瑚が立っていた。

「あぁ、勉強中だったのに大きな声を出してすまなかったな」

 急に相好を崩して教授が珊瑚に謝る。

「ううん、いいの。お父さんにちょっと教えて欲しいところがあったんだけど……」

 そう言ってテーブルを見る。

「ねぇお父さん、お客さんにお茶も出さないの?」
「あぁ、そういえば忘れてたな」
「駄目じゃない。お母さんに叱られるよ。お父さんと修善寺さんはミルクティーですよね、それからえぇと……」

 和倉が笑顔で自己紹介する。

「和倉聖だよ。三年前に一回会ったきりだから忘れちゃったかな? こっちは那須陽一」
「ごめんなさい。そういえば那須さんにも会ったことがありましたよね。そうしたら、和倉さんと那須さんは紅茶にしますか? それともコーヒー?」
「じゃ、紅茶をもらおうかな。空海と一緒でいいよ。陽一はどうする?」
「同じものを……」

 暗い調子で那須が返事をする。それを聞くと珊瑚はキッチンに行って茶を入れる準備を始めた。

「修善寺、お前ちょっと珊瑚の勉強を見てやってくれ。今、俺は手が放せんからな」

 教授が有無を言わさぬ口調で少年に告げる。

「え? でも俺、陽ちゃんのこと気にな……」
「嫌か?」

 そう言って教授が少年を睨みつける。

「いえっ、嫌じゃないですけど……」
「じゃぁ頼んだぞ。それから娘にデタラメ教えやがったら、改造手術だからな」
「はぁ……」

 少年は仕方なく頷く。普段であれば願ったりな話だが、さすがに今回は味噌っかす扱いにされている様で面白くない。
 そして、キッチンから戻って全員に茶を配り終わった珊瑚に、教授は機嫌よく話しかけた。

「珊瑚、お父さんはちょっとややこしい話があるので、勉強のほうは修善寺に見てもらってくれ。頭は悪そうに見えるけど、見かけほど馬鹿じゃないんで心配しなくていいからな」

 珊瑚は呆れ顔で父親を見る。

「お父さん、失礼だよ。修善寺さんは頭悪そうになんか見えないよ」

 そう言ってから、少年に向かって話しかけた。

「えぇと、お願いしていいですか? 修善寺さん」

 そう言ってふわっと笑った珊瑚を見て、少年は『花のように笑うってこういう感じなのかな?』と思う。

 そしてそれは男の友情が少女の魅力に、頭を垂れて屈服した瞬間だった。

神がその手を肩に

 少年と珊瑚がリビングから出ると、教授は那須に向かって再び話し始めた。

「で、邪魔なお子ちゃまを追っ払ったところで話の続きだ。那須よ、お前は大体、年少組を諦めてからどうするつもりなんだ?」
「プライベートに立ち入る様で悪いけどよ、お前は入社の前年に御両親を亡くしてるよな。それでお前の独り身の叔母さんに世話になってるけど、お前には妹が二人いて、そっちの養育費は叔母さん一人ではぎりぎりでしか支えられないんだったよな?」

 不審そうな顔で那須が聞き返す。

「…… その通りですけど、どうして先生がそれを? 誰にも話していないと思いましたが」
「二ヶ月ほど前に総務、いや格さんに頼んで調べてもらった。お前、ここでは品行方正だけど学校では随分やんちゃもしてたみたいだな。試験成績だけならスキップ三回だって行けたはずなのに、ガールフレンド優先で進級を二回も蹴った話も聞いたよ」
「とっくに振られちゃいましたけどね……」

 那須は無表情にそうつぶやいた。

「そういう状況でお前は進学を諦めてうちに来たんだろ。いいじゃねぇか、妹たちのためにここで頑張ればよ。仕事の面白さも辛さも、ハナからはわからねえ方が普通なんだ。続けていくうちに段々と見えてくるモンなんだよ。お前は焦り過ぎだし負けを恐れ過ぎだぞ……」
「それと、熱意云々の話は考えるな。そういうものまで含めて天与の才能なんだよ。神様って奴は誰にでもその手を肩には置いてはくれん。必ず選ばれたものに恵みを与えるんだ。お前にはロボット製作への強い興味を最初からは与えられなかったかもしれんが、仕事をこなす能力自体には恵まれてるんだ、それを無駄にするな。諦めずに前へ進め。その先に必ず道は見えるんだ」

 だが那須はうつむいて返事をしない。教授はため息をつくともう一度質問する。

「那須よ、お前が仮に集中教育コースをパスしたとしても会社を辞める気はねぇだろ?」
「…… はい、工場で頑張ろうと思います。年少組には入れなかったとしても、ピグマリオンの待遇は良いですから」
「だったら、何で集中コースが我慢できねえんだよ。そんなにキツイのか? キツイから辞めるのか? そうじゃねぇんだろ?」

 那須はうつむいて返事をしない。

「全く…… ちょっと待ってろ、格さんも呼ぶから。」

 和倉がびっくりして声を上げる。

「え? 常務ですか。この時間ですよ?」

 もう夜の十時を回っている。起きてはいるだろうが、呼びつけられるには迷惑な時間だろう。だが、教授は平気な顔だ。

「大丈夫だ、近所だしな」

 そう言いながら電話を掛けている。

「もしもし、俺俺、湯布院。そこに格さんいる? 風呂? あぁそう、じゃ霧江さん悪いんだけどさ、格さんが風呂から出たらすぐ俺んちに来いって伝えてよ。那須の件だって言えばわかるからさ。ごめんね、夜遅いのに」

 電話から女性の笑い声が漏れ聞こえる。常務の奥さんなのだろう。声の大きな人らしい。

「そうだ、今ここにラボの若い奴がいるからさ、そいつに迎えに行かせるよ。和倉って言う奴。……そうそうプリンス。背が高くてホストみたいな見かけの奴だよ。すぐ行かせるからさ。じゃあね」

 そう言って電話を切ると、和倉が不満そうな顔だ。

「先生ひどいですよ、誰がホストですか? 人聞きの悪い……」

 にこやかに教授が返事をする。

「いやお前、他の何に不自由しても、女にだけは不自由なさそうな見かけだからなぁ。格さんの家は知ってるだろ。迎えに行って来てくれ」

 全然フォローになっていない。もっとも教授の口の悪いのはいつもの事で、和倉もあきらめ顔だ。

「はい。じゃ行って来ます」

 憮然とした表情のまま、和倉は出て行った。有馬常務と湯布院教授の家は歩いても15分程度の近所にある。程なく和倉は常務とともに教授の家に戻ってきた。

宜しい、認めよう

「湯布院先生、那須くんの話ということでしたが……」

 有馬常務は、まだ髪の毛もちゃんと乾いていない様な状態で、本当に風呂上りでそのままこちらに来たようだ。

「あぁ、集中コースを辞めたいって聞かねえんだよ。何だってこんなに弱気になったんだか……」
「じゃあ、僕がちょっと話してみましょう」

 そう言って、常務は那須の正面に座った。隣に教授、横に和倉が座る。

「那須くん、君は今の14期でも成績は上位にいるし、そんなにジタバタしなくても、あと三年位でラボに行けるはずだよ。何をそんなに悲観しているのかを言ってくれたまえ」
「俺…… いや、僕には空海や他の同期生みたいな、ロボットにかける熱意がないんです……」

 表情を変えずに常務が重ねて質問する。

「なるほど、熱意がないのかね。その割には成績は良いね。特にグループ課題、まぁ集中教育では殆どがグループ課題だが、それに対してのオーガナイズ能力に対しては、教育担当の先生三人ともが、指宿くんと並んで最高の評価を付けているんだがね。最高評価というのは、君の先輩や後輩を含めての話だよ。それで熱意がないというのも解せない話しだね」
「僕がアイデアを出したり、議論をまとめている訳じゃないんです。ただ、議論の流れが悪いなと思った時に、適当に質問をしてみたり、いいアイデアなのに議論が活発過ぎて押し流されてしまった物を、もう一回すくい上げたりしているだけで、僕自身が創り上げたものなんて何にも無いんです。結局全部、みんなに頼りっぱなしで……」

 常務は口元で皮肉に笑って言った。

「君は自分が何をやっているのかを、何もわかっていないと見えるね…… まぁ良い。君は集中コースを辞めたいんだね。宜しい、認めよう」

 教授が慌てて常務に文句をつける。

「ちょっと待てよ格さん。止めてくれるんじゃないのかよ?」
「本人が辞めたいって言っているわけですからね、希望を無視するわけには行きません。集中教育は業務じゃないんですしね、建前上は」
「何言ってんだよ、コイツは一時的に弱気の虫に取りつかれてるだけなんだよ。ここを乗り越えちまえば、ラボで必ず使える男になるに決まってるんだよ。どう考えたって管理者向きじゃねぇか。コイツは」

 常務はニヤリと笑って頷く。

「えぇ、人材として貴重です。ですからウチで頂きます」
「ズルイぞ、横から攫ってくなんて!」

 もう、那須本人は蚊帳の外になっているらしい。那須も和倉もあっけに取られて二人を見ているだけだ。常務は薄笑いを浮かべたまま教授に話しかける。お願いしているような口ぶりだが、もう那須を連れて行く気で満々のようだ。

「いいじゃないですか、14期はAB両グループ併せて15名も採ったんですから、一人くらいは営業に下さいよ」
「冗談じゃねぇよ、営業は大卒から取ることに決めただろ」
「欲しい人材が目の前にいるのに、手をこまねいている様じゃ売上は上がりませんよ。優秀な研究者と同様に、優秀な営業マンが必要なんです、ピグマリオンにはね。ウチはもうファブレスの会社じゃないんですから、作ったロボットを一人でも多く売り込まなければいけないんです」

 すると教授が伝家の宝刀を抜く。もう駄々っ子と変わらない感じだ。

「ダメだダメだ、俺は絶対書類にサインしないぞ。全部シュレッダ行きだ。コイツは営業に行くよりラボに行ったほうが絶対に役に立つんだよ」

 常務も負けていない。

「隼人先輩、僕が会社の最終人事権者である事をお忘れなく。僕の権限で全部オーバーライドできるんですよ。たとえ三郎が先輩と一緒に文句をつけても一歩も引きませんよ、僕は」
「汚ねぇぞ、権力を振り回しやがって」
「そりゃ、先輩もあいこでしょうが。普段どれだけ僕や翠さんが我慢してると思ってるんです?」

 すると、那須が常務に向かって話しかけた。

「あの…… すいません、常務。僕は集中コースを外れたら、営業部に行くことになるのでしょうか」
「そう、工場勤務ではなく東京の営業部が配転先になる。不満があるかね?」

 那須はうつむいてしばらく考え、それから顔を上げてはっきりと言った。

「いえ、不満はありません。よろしくお願いします」

 それを聞いて、教授ががっくりと頭を下げる。

「畜生、格さんなんか呼ぶんじゃなかった……」

 すると少年が珊瑚と一緒にリビングに戻ってきた。珊瑚は常務に気づいて会釈したが、少年は全然気づいていない。珊瑚は常務に茶を入れようとしてキッチンへ行った。

「先生、珊瑚ちゃん、今日の分の勉強は終わりましたよ」

 そう言ってから、常務に気づいた。

「あっ、えと、常務こんばんわ。すいません気づかなくて」
「あぁ、いいんだよ。ええと修善寺くんだね。今のうちに言っておこうか。那須くんは集中コースを中途終了し、営業部に異動することになりました。ただ、実際の移動は年度が改まってからになりそうだから、あと二週間少しは今のまま工場勤務を続けてもらう事になります」

 それを聞いて一言も言葉を出せず、あっけに取られて立ち尽くしている少年から常務は視線を外し、那須へ向き直って確認する。

「那須くん、君は異動までは今まで通り集中教育を続けても良いし、それを望まないのであれば明日からコースを外れても構わない。どちらにするかね」
「明日は先輩社員の講義助手をしなければいけませんし、急に僕が抜けてしまってはAグループのみんなに迷惑がかかると思うので、異動までは今まで通り受講させてください」
「そうか、わかった。それから営業部員は工場内の寮ではなく、都内にある別の寮に住まなくてはいけないから、引越しも必要になる。3月の末までには退寮の手続きと引越を済ませておきなさい。君は自宅が府中だから、そこから通っても構わない」
「はい、わかりました。多分、自宅から通うことになると思いますが、叔母に相談してから決めます」

 少年は常務と那須を呆然と見、それから教授に話しかける。

「……先生、陽ちゃんは集中コースを抜けちゃうんですか?」
「あぁ、格さんに横取りされちまった……」

 少年の目から涙がぼろぼろこぼれる。

「陽ちゃんどうしてだよ、今までずっと一緒にやってきたのに、何で今になって辞めるんだよ。俺達と一緒にいるのが嫌になったのかよ。どうしてなんだよ……」

 和倉が少年を穏やかな口調で制止する。

「やめろ、空海」
「だって…… おかしいよ、なんで……」

 しゃくりあげながらなお言い募る少年に、教授も言う。

「やめるんだ、修善寺……」

 そう言った教授の顔は、とても優しくて…… 柔らかな表情だった。そして那須に向かってゆっくりと話しかける。

「那須、後でで構わないからコイツに、いやお前が仲間だと信じる人間には全て、お前の家族の話をしてやれ。楽しいことではないだろうが、こいつらにはそれを聞いて良いだけの理由がある」

 常務も那須に忠告する。

「僕もそう思う。丸二年近くを共に苦労した仲間たちだよ。営業部員になってからも、ラボや工場の人間とはずっと付き合いが続く。そこに信頼できる仲間達がいる営業マンは、仕事をしていてどれほど心強いか計り知れないよ。営業は何より人との絆で仕事をするんだ。営業として最初の仕事だと思って取り組みなさい」
「はい、わかりました」

 那須は静かにそう答えた。意志の光がのぞく、もう迷いを感じさせない眼差しだった。

辞令

 那須陽一は、2062年3月末日を持って営業部に異動し、集中教育コースからも外れた。集中教育コースにおいては、途中で落伍した者へは壮行会は勿論のこと、送別会のような物は原則として開かれない。そう、ただ消えて行くのだ。100年以上昔、米国のある将軍がそう言ったように。

 だが、表向きそうであっても、二年に渡って苦難を乗り越えてきた14期、そして先輩達や今年入った二人の後輩にとっては大事な仲間であった者である。それに対してそんな情のない事を考えられる者はだれもおらず、ささやかではあったがお別れの会がもたれた。
 壮行会と違い、会社からは一円も協力金や餞別が出ないし社員食堂も借りられない。それで会費を出し合って屋形船を借りきり、そこで別れを惜しむことにした。
 屋形船は扇島の桟橋から出発し、ぼんやりと輝く航路浮標や運河の角々にある赤灯台、青灯台を右に左にと眺め、ときおり内航貨物船とすれ違う。貨物船の引き波に揺すられながら屋形船が進む中、お別れ会は和やかに進んでいった。
 もう涙を流す者はいなかった。それはもう、たっぷりと流した後だったから。だから、みんな将来の話をした。ラボの話、営業の話、次の連休にみんなでどこに遊びにいくか。お正月はどこの神社に初詣に行くか…… そんな話をした。
 その間にも船は静かに進んだ。ベイブリッジの遥かに高い橋桁の上を、数珠つなぎの自動運転トラックが途切れなく走っていくのを、みんなで船の格子窓から遠く眺めた。そして赤く濁る春の京浜運河に、屋形船が白くさざ波を残して元の桟橋に戻ってきた時、お別れ会はお開きとなった。
 ラボからたった一人出席した和倉が、ほろ酔いかげんの湯布院教授と翠先生を車に乗せて送っていった。残りの年少組候補者はまとめて寮へ、そして那須は叔母と妹たちの待つ自宅へ帰っていった。

 年度の改まった2062年4月、16期の新入社員達が年少組候補生として教育を受け始め、そしていつものようにほとんどが淘汰された。そして16期は六名が残り、Aグループのグループに四名、Bグループに二名が配属された。
 その年の夏、湯布院教授の見込み通りに強羅がラボ行きを決めた。その時の松崎と指宿の得点はそれぞれ900点台後半、翌年のラボ行きがほぼ確実な数字だった。少年の得点もほぼ900点で、頑張り次第では十分ラボに手が届く数字だった。

 年の明けた2063年3月、珊瑚が無事に産総研大への入学を決めた。何かと湯布院宅に呼ばれることが多くなっていた少年と松崎は、珊瑚の勉強を見てやることも多く、湯布院宅での入学祝いの小さなパーティーには、二人とも呼ばれて出席した。

 そして7月、例年通りに特別昇任試験が行われた。大方の予想を裏切らず、主席は松崎聡華1180点で歴代一位、次席が指宿和泉1175点で歴代二位、その次を11期の諏訪晶が占めた。得点は1035点。少年も1020点でラボ行きを決めたから、都合四名がラボ行きの切符を手にしたことになる。
 絶望的なデスマーチの真っ只中にあって圧倒的に人手が足らないラボの負担を緩和すべく、合格基準を1000点から900点に引き下げようかと言う話もあった中で、即戦力を期待できる年少組四名の大量合格はピグマリオン・ラボラトリーズにとって何よりの福音となった。

 異動辞令を受け取るべく、呼び出しを受けた合格者四名が常務の執務室に急ぐ。執務室には社長の別府博士と有馬常務、そして主任教育者の湯布院教授が待っていた。常務が辞令を順に読み上げる。

「…… 松崎聡華 右の者に開発部人工知能グループへの異動を命ず」
「…… 指宿和泉 右の者に開発部人工知能グループへの異動を命ず」
「…… 諏訪晶 右の者に開発部人工知能グループへの異動を命ず」
「…… 修善寺空海 右の者に開発部メカトロニクスグループへの異動を命ず」

 常務から順に辞令を受け取り、別府博士から握手され、湯布院教授から肩を叩かれてねぎらいの言葉を受ける。執務室を退室した四人は仲間たち、今年の切符を取り損ねた年少組候補の待つ食堂へ向かう。止まらない涙のせいで前がよく見えない。食堂に着いた瞬間、女性三名が抱き合って泣き崩れる。そして少年もまた……

 辞令交付の三日後、セミが喧しく鳴き、高く高く白い雲が湧きあがる。そんな青空が広がる7月末、合格者四名を送る壮行会が例年のように社員食堂で開かれた。

我らの調はデスマーチのリズムに乗って

「では、これから今年の特別昇任試験合格者の壮行会を行います」

 普段ののんびりした声とは打って変わり、凛と張り詰めた声でAグループ副班長、穂高野麦が壮行会の開会を宣言する。今年は主任幹事なので例年のバニースーツではなく、黒いレディス・フォーマルスーツ姿だ。脇に控える野沢も暑さを我慢してモーニングコートで揃えている。

「今年の合格者は四名。松崎聡華さんが1180点で主席、指宿和泉さんがわずか五点差の1175点で次席合格です。三位が諏訪晶先輩で1035点、そして修善寺空海くんも1020点で特別昇任試験に合格しました。松崎さんは歴代一位、指宿さんも歴代二位の大記録です。ラボでの配属先はみんな知っていると思いますが、修善寺君はメカトロニクス開発グループの第三ワークグループ、それ以外の女性三名が人工知能開発グループへの配属が決まっています」
「合格者の四名は8月末日をもって工場勤務を終了し、九月一日からラボ勤務の開始になります。そして今日を最後に集中教育コースも終了です」
「アキラ先輩、松崎さん、指宿さん、修善寺くん、こちらにどうぞ。他のみんなは向かいのこちらへ並んで下さい」

 合格者と、それを送る候補者達が向かい合う。

「これからラボで頑張って下さいっ。今までご指導ありがとうございましたっ」

 穂高が声を張り上げて最敬礼すると、追って全員が唱和する。合格者にとって待ちに待った瞬間、候補者達にとっては来年こそ行きたい向こう側……
 そして、合格者がひとりずつ挨拶し、また元の歓談、いや馬鹿騒ぎに戻る。

 OB達も三々五々と集まってきた。カサノヴァにアイマスクのジオン軍将校、鎧武者に五月人形、ゴージャス・メイドに壬生の狼…… そして去年姿を消した衣装、烏帽子に狩衣を纏う者がいた。

「陽ちゃん…… 来てくれたんだ」

 少年が那須を見て放心したようにつぶやく。

「おめでとう、空海。実は昨日、あそこにいる近藤局長から『明日壮行会だぞ』っていきなり電話があってさ。俺は営業部員ですよって言ったら『構わねぇから乱入しろ』だって。寺田屋じゃないんだからマズイでしょう、って言おうとした時にはもう電話が切れてるんだもんなぁ」

 いつの間にか隣に来ていた指宿が、優しげに笑って少年に説明する。

「今朝、那須くんは和倉先輩や松崎さんと一緒に、うちの実家に来てたんだよね。ごめんね、黙ってて」
「司令殿にはいつもお世話になりっぱなしだよ。さすがに腰蓑で乱入するわけにもなぁ」

 おどけて那須がそう言うと、周りにはもう14期の同期生が並んでいる。

「陽ちゃん、営業マンは腰蓑一丁で裸踊りくらい出来なきゃ仕事は取れないぜ」

 野沢がおちゃらけてそう言うと、那須も言い返す。

「バッカ野郎、いまどきの営業マンがそんな泥臭い売り込みするかよ。前世紀の営業マンだぞ、それ」
「でも那須くん、接待では大活躍だって聞いたよ。特に女性のお客さんの接待では無敵だって」

 そう言ってからかうのは網代。もともと聞き上手で女性受けの良かった那須だが、異動してからはますますそれに磨きがかかり、先輩達から『お前は会社をやめてもジゴローで食っていけるな』などと皮肉を言われるほどだ。

「いやぁ、『女性の接待だけは人並み以上だが……』っていつも叱られてるよ」
「でもでも那須くんは異動してから、ずーっと売上目標をクリアしてるって聞いたのです。大卒の新人営業マンでは、売上達成できる人なんてほとんどいないって聞いたのです。やっぱり那須くんはすごいのです」

 ドレス姿の霧島がそう言ってマティーニの入ったグラスを那須に渡すと、那須がグラスを持ったまま丁寧に御辞儀をする。

「これは、姫様手ずから盃を賜って頂けるとは。感激にございます。それにしても今年はバニーガールが大変な事になっておりますようで……」

 少年が笑いながら城崎を指さす。

「アレでしょ、バニースーツに腰蓑の人ね。ナオ先輩、年々おかしくなって行ってるんだよねぇ。来年はどうなっちゃうんだろうなぁ」

 網代も吹き出しそうな顔で付け加える。

「最初は腰蓑なしでバニースーツだけ着るって言ってたんだよ。それは絶対無理だって言ったら、ちゃんと剃るから大丈夫だって」
「大丈夫なわけがないのです。何か嫌なものがはみ出すに決まってるのです。変態さんなのです。ナオ先輩はもう壊れちゃってるのです。うちのお兄ちゃんと一緒なのです」

 霧島が憤慨している。どうやら身内に似た様な人がいる様だ。すると塩原が脇から無表情に忠告する。

「姫様、大きな口を開けては見苦しゅうございますぞ。所詮あの者は道化、捨て置かれませ……」
「ハイなのです。ごめんなさいなのです」

「ねぇ、修善寺くん。さっきからラボの先輩達が歌ってる歌、何だか知ってる?」

 松崎が少年を見て聞くと、少年も首をひねる。

「いや、毎年先輩達が歌ってるんだけどな。メロディーは軍歌みたいで覚え易いんだけど、歌詞がわからないんだよなぁ」
「私もメロディーは何となく覚えちゃった」

 松崎はそう言ってぴったり隣に来て、少年の顔を見上げている。
後ろのほうからそれを見た野沢が、少年をからかいに行こうとするのを、指宿が耳を引っ張って止める。

「コラ、邪魔しなさんな」

 少年と松崎は指宿達にはまるで気づかずに、話を続けている。

「親父も爺ちゃんも軍人だから、俺は結構軍歌を知ってるんだけど、どれにも当てはまらないんだよね。オリジナルな曲なんだろうなぁ」
「何かの行進曲なのかな。最後のところで『我らの調べはデスマーチのリズムに乗って』って聞こえるしね」
「うん、そう聞こえるよねぇ。デスマーチかぁ、ラボに入ったら大変だろうな」
「でも、顔が笑ってるよ、修善寺くん」
「まぁ、ずっと行きたかったラボだもんな。デスマーチだろうが何だろうが関係ないよ」
「ふふっ、そうだね」

 そして、松崎の表情が少し曇る。

「でも、これからは私達、バラバラになっちゃうんだね。私や指宿さんはAIで、修善寺君はメカトロだもの……」
「うん、でもラボではAIとメカトロってビルは隣合わせじゃない。結構会う機会があると思うよ」

 そう言った少年に、今度は那須が声をかけようとするのを、指宿が目配せして止める。松崎は潤んだ目で少年を見上げ、深めに息を吸う。

「あの…… あのね、修善寺くん。これからも私達ずっと……」

 と、そこまで松崎が口にした時、全く遠慮なしに乗り込んでいってしまう人が約一名……

「空海っ、松崎さん、こっちこっち。お前たちこれからラボに行くんだから、社歌を覚えないとな。ここで練習だぞ!」

 一滴も飲んでいないくせに、やたらにテンションが上がった和倉が、二人の腕をそれぞれ両手に掴んで、ラボの先輩達が固まっている方へ引っ張って行く。それを見た指宿が額に手を当て、深く深くため息をつく。

「指宿さんっ、アキラくんっ、こっちこっちっ、早く早くっ」

 そんな気も知らぬ気の金太郎姿の強羅が、二人を呼んでいる。

「はいこれ、歌詞カード」

 そう言って甲冑を着た石和が少年たちに紙を渡す。それを読んだチャイナドレス姿の諏訪が怪訝そうに聞く。

「石和先輩、ウチの会社に社歌なんてあったんですか? 入社してから一回も歌ったことがないですけど」
「あぁ、そりゃ非公式のモンだからな。ラボの連中しか知らないよ。社歌というよりラボの歌だよ。人呼んで『実験室賛歌』 "Homage of laboratories"だ」

 出し抜けにそう言ったのは湯布院教授。今来たところの様だ。隣で翠先生が笑っている。

「よーし、それじゃ歌うぞ。繰り返し行くからなぁ」

 名は分からないが、かなり古株らしい風貌の先輩がそう言うと、ラボの先輩達が全員歌い始める。節はだいたい覚えている少年も松崎も、歌詞カードを見ながら歌う。湯布院先生と翠先生も歌っている。調子っぱずれの声が聞こえる。誰か音痴の女性がいるらしい。声の感じからして、どうも指宿が怪しいようだ。

 非公式の社歌、実験室賛歌。それはこんな歌詞だった。ラボでの生活をそのまま歌ったものなのだろう。


 我らが不夜城、実験室の、窓から望めば白む空。やがて輝く日が昇る。
 ベッドに寝たのは何時の日だったか、今やシュラフが我が寝床、汚れた白衣が我が寝巻。
 納期は来週、一秒たりとも延びはせぬ。曜日の感覚今はなく、昼夜の区別もままならぬ。
 仕事片付けやれ嬉しやと、帰り支度を始めた矢先、モニタに一行メッセージ。
 三十分で会議の時間だ、必ず出ろとのきついお達し。仮眠も取らさぬ不眠行。
 コーヒー煽ってシャワー浴びても会議で寝ぬのは至難の業よ、寝れば天国、起きれば地獄。
 終わらぬ実験、尽きせぬ課題、不眠のステップ過労のリズム、ふらつき踊る死の舞踏。
 仮説、実験、解析、検証、終わらぬサイクル、地獄の輪唱(カノン)。
 我らの調べはデスマーチのリズムに乗って、響き渡るよ実験室に。


 少年たちは2063年9月1日に開発部に配属された。
 そして歌の内容に嘘も誇張もなかった事を、少年たちは身をもって知った。










おしまい

我らの調はデスマーチのリズムに乗って

我らの調はデスマーチのリズムに乗って

「ロボットのお医者さん」の前史となるお話です。前作の主人公たちがまだハイティーンだった時代、義務教育を修了してロボット製造会社の開発技術者養成コースで絞られている頃を描きました。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
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