夜明けが一番哀しい 新宿物語
夜明けが一番哀しい 新宿物語
(7)
「あんた、いったい、どうするつもり?」
安子がトン子を責めた。
「どうするって、わたしに聞いてもしょうがないでしょう」
トン子がべそをかきながら言った。
ピンキーはハンドルにもたれたまま眠っていた。酒の酔いが一気に回ったようだった。
「このままじゃあ、おれたち、確実に事故って死ぬよ」
ノッポが確信に満ちた声で、だが、心細げに言った。
「だから、自分で運転すればいいのよ」
安子はなお不機嫌に当たり散らした。
ピンキーは十分近く経ってから眼を覚ました。
「何処だい、ここは?」
彼は自分の置かれている立場をすっかり忘れてしまっていた。ハンドルを握っている事さえ、自覚していないようだった。
「あんたが、わけの分からない所へあたし達を連れて来ちゃったのよ」
トン子が腹立たし気に言った。
ピンキーはようやく自分の立場を理解した。再び、アクセルを踏んだ。
「あんた、大丈夫なの ? 冗談じゃないわよ」
安子がとがめる口調で言った。
「方向が、どっちがどっちだか分かんねえや」
ピンキーが投げ遣りに言った。
話す言葉つきに、まだ酔いの醒め切っていない気配があった。
「少し戻って、環八に出た方がいいと思うわ」
今まで黙っていたフー子が始めて口を開いた。
「ここは何処なんだ ?」
ピンキーは言った。
「東宝の撮影所の近くへ来ちゃってるわ」
画伯はみんなの足の下で体を折り曲げて小さくなっていた。座席に腰かけている事さえ出来なくなっていた。
フー子のうろ覚えの道案内で、どうにか環八通りから第二京浜へ出て横浜方面への道筋をたどる事が出来た。
長い時間の末に京浜東北線の関内駅の横を通過した時、トン子が急にはずんだ声を上げた。
「見て見て ! 横浜公園入口って書いてあるわ」
「横浜公園なんかあったって、しょうがないじゃないか。山下公園ならともかくさ」
ノッポが言った。
「ほら、あれが横浜スタジアムじゃない。野球場よ」
トン子は相変わらずはしゃいだ声を張り上げた。
車はそのまま、市庁や県庁の建ち並ぶ通りを走った。県庁わきの交差点の一角にある交番の赤い灯りを見たノッポが、
「ヤバイぜ、ヤバイぜ」
と、思わず叫んだが、ピンキーは意にも介さなかった。信号を無視して走り続けた。
横浜税関の建物の前を右へ曲がると、四百メートルほどで山下公園への道だった。正面にシルクセンターの、明かりを消した建物が見えた。その建物の正面を左へ曲がると大桟橋への入口だった。右手にあらかた葉を落とした枝を夜明け前の暗い空に無数に延ばしている、山下公園通りの銀杏並木が見えたが、ピンキーは迷う事なく大桟橋への道を突進した。
まだ寝静まったままの建物が並ぶ通りを走り抜け、送迎デッキへの突き当りに来てピンキーは急激にブレーキを踏んだ。みんなは再び車の中で放り出されたが、眼の前に広がる港の光景に眼を奪われていて、乱暴な運転に文句を言う事も忘れ、歓声を上げながら車を降りた。
「おお、寒いよう」
ノッポがボートネックの長袖シャツの腕を抱え込んで言った。
十一月も終わりに近い、海の匂いをはらんだ夜明けの空気は、冷え冷えとした冷気を肌に伝えて来た。
ノッポはそれでも先程までの不機嫌さも忘れ、初めて見る横浜港の眺めに御機嫌だった。
「ほら、見てよ。明かりがとってもきれい !」
トン子が叫んだ。
山下埠頭の倉庫の建物に沿って点々と連なる明かりが、ダイヤモンドの輝きを見せていた。
暗い水面は静かだった。赤い灯のブイが、あるか無しかの波に小さく揺れていた。
トン子が真っ先に送迎デッキへの階段を上って行った。
ピンキーも画伯も車から降りて来た。
トン子が上って行った送迎デッキから見下ろす大桟橋にはだが、期待に反して外国航路の大きな船の姿はなかった。小型のボートだけがぎっしりと船体を寄せ合って岸壁にへばり付いていた。
「なあんだ、外国航路の船なんていねえじゃねえか」
ノッポがもぬけの殻の桟橋を見下ろしながら、非難がましく言った。
トン子はノッポの口調に、不服そうに頬をふくらませたが黙っていた。
トン子とノッポと安子の三人は、送迎デッキの先端へ向かって歩いて行った。
「ほら見て ! あれがそうじゃない?」
トン子が不意に、倉庫に沿った方角にある白い船を指差して言った。
「バカねえ、あれは氷川丸じゃない。いつもあそこにいるのよ。あそこでは結婚式も出来るんだから。夏なんかハワイアンなんかやっちゃってさ、ビヤガーデンにもなるんだってよ」
安子が言った。
「そうか」
トン子が明らかに気落ちした声で言った。
国際船客ターミナルの内部も暗かった。
ピンキーと画伯とフー子は何処へいったのか、姿が見えなかった。
トン子達三人は肌寒さに体を縮めながら、送迎デッキのつきる所まで歩いて来ると "係員の許可なしには下へ降りないで下さい" と書かれた看板の前で立ち止まった。
桟橋へ降りる階段は鉄柵で閉ざされていた。
三人は仕方なしに鉄柵にもたれると沖合を見つめた。
港の入り口に違いない遠いところに、橋の形の灯の列が夢のように浮かんでいた。
「あんなところに橋があるんだね」
安子がくぐもった声で元気なく言った。
水面は依然として暗かった。その中で暗い空の藍を映してか、時おり鈍く光る水が幽かにうねって見えた。
三人はムクドリのように鉄柵にもたれたまま黙っていた。夜通し眠らなかった疲れと、昨夜来、満足な食事もしていない空腹感とが彼等の元気を奪っていた。
" こうして、じっと見つめていると、水っていうのはなんて恐ろしいんだろう・・・・ "
トン子は暗い水面を見つめて気勢の上がらないままに、心の中で呟いた。
ほとんど流れの感じられない水面が、はるか沖合から徐々にふくれ上がり、迫って来るような気がしてその巨大な体積と重量に圧倒される思いだった。
" まるで、今にも暗い水面がここにいるわたしを吞み込んでしまいそうな気がする "
トン子は思わず、「アッ !」と声を上げた。同時に援けを求めるような視線をノッポと安子に向けた。
「あれ見て ! フー子じゃない?」
トン子が指差しながら緊張した声で言った。
「本当だ ! あいつ、何処からあんな所へ降りて行ったんだろう?」
ノッポが間の抜けた声で言った。
トン子はだが、気が気ではなかった。
フー子は桟橋の先端に立ち、じっと暗い水面を見つめていた。
トン子には、フー子が今にも暗い海の中に身を投げてしまうのではないか、と思われた。
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