まとめ
東京で生まれ育った。
私が生まれたころ、父と母が住んでいたのはアパートだった。私が生まれると両親は杉並区の外れの家を買い、私の小学校入学までの間をそこで過ごした。
父がよくお手製のぬりえを作ってくれた。父は絵が上手い。母は完璧主義な一方、お茶目で気まぐれだった。私は人前に出るのが苦手で、夜泣きをしない子供だった。よく3人で夕飯の餃子を包んだ。
猫が2匹いた。モモちゃんとゲンちゃん。どちらももとは捨て猫で、私の生まれるずっと前から母と暮らしていた。モモちゃんは賢くおとなしい子だった。ゲンちゃんは人を好かず、よく噛みついた。小さかった私をかばってできた傷跡が、今も母の腕のあちこちに残っている。そのせいか今も猫に噛みつかれるのは怖い。でも猫は好きだ。とても好き。
小学校に上がるとき、線路の向こう側の町へ引っ越した。向こう側はこちら側になった。家族は父と母と私の3人になっていた。
百人一首の時間が好きだった。みんなのお道具箱の中に輪ゴムでとめられた自作の札が入っていた。菜摘という名前は短歌からとられたものだ。国語教師である父の案だった。両親は今でも変わらず、私をなっちゃん、と呼ぶ。
小学3年生の夏、わが家に子猫がやってきた。小さくてあまり鳴かない、怖がりの茶色い毛玉。この子のことを話そうと思っても、いつもうまく言葉にならない。この夏で12歳になる。名前は母がつけた。「茶色いから茶々丸」。
母の意向で中学受験をした。吉祥寺と西荻窪のちょうど真ん中ほどにある私立の女子校に進学した。
学校にはあまり行けなかった。中学に入る少し前から、人を怖いと思うことが増えた。東京は人が多く、みな疲れ、いつも誰かが急いでいた。窮屈だった。父と母は私を叱った。私が何を考えているのかわからなかったのだ。それは自分にもわからなかった。私はいつも途方に暮れ、夜は天井を睨みつづけた。外に出られない日はリビングで猫と並んで昼寝したり、アニメを観たりした。あとはひたすら本を読んだ。小説の中の人々だけが、「ふつう」が無限にあると教えてくれた。制服を着て家を出て電車に乗り、それでも学校の前で引き返す日は、人の少ない平日の吉祥寺を歩き回った。美しい日々だったようにも思える。無関心な東京で、私の足音はいつも誰かの足音に紛れた。
「東京はいつも夜なのです」
繰り返し読んだ小説の一行が頭から離れなかった。
高校でできた数少ない友だちは、魅力的な子ばかりだった。彼女たちはいつも自然で、私は甘えることしかできなかった。
そのうちのひとりに誘われて、高校では軽音楽部に入った。先輩も後輩も怖かったけれど、バンドは楽しかった。
進路選択の折、お世話になった美術科の先生に「お前は勉強できるのか?」と言われ、納得してしまった私は美術コースを選択した。入学したころは美術コースが存在することすら知らなかった。母は反対した。創作は自己表現の手段からやるべきことへ変わった。
志望した大学に落ち、ムサビに入った。大学に入って少し経ったころ、アルバイトを始めた。小さいころスイミングスクールの帰りに寄っていた、高井戸のミスタードーナツ。2つ上の先輩と仲良くなった。その年のクリスマス間近、どんないきさつだったか、シフト終わりの午前2時にふたりで寿司屋にいった。午前3時半まで営業という身体を張った寿司屋だった。その後も、シフトが一緒にならないときには、夜遅いにもかかわらず私のシフトに合わせて寿司屋まで自転車を漕いできてくれた。そうして深夜の寿司は恒例行事となり、今年の春、先輩が就職でアルバイトを辞めるまで続いた。先輩は看護師になった。それと先を競うように、私は家を出た。
東京は好きじゃない。
でも、渋谷の人混みをすり抜けることができる。
東京は好きじゃない。
でも、大通りに広がる夜間工事の光が私を落ち着かせてくれる。
東京は好きじゃない。
でも、嫌いかと訊かれたら、わからない。
私は20歳になっていた。
そうして、東京は向こう側になった。
まとめ