風を越えて
最寄駅より一つ前に降りたのは、日頃の運動不足を解消するため、と考えたわけではなかった。そのわけを強いて考えれば、季節が心地良かったから、と言えるかもしれない。桧山圭は、たった一駅前なのに歩いてみると見慣れない街並みに見入った。
三年前、建売の住宅を二十年ローンで購入した。二十年のローンで済んだのは、圭の年齢が40歳を少し過ぎていて多少の蓄えがあった事と、都心から離れたベッドタウンだったからだ。仕事場と自宅の往復がほとんどで、三年たっても一駅前のあたりなどなじみがなく、小さな商店街をいやに懐かしく眺めた。どの町々にも生活があり暮らしがあり、その匂いがある。古い商店街とはまた趣の異なる新しいカフェなどもあり、圭はコーヒーの香りに足を止めた。
そう、帰宅前に少し歩こうと思ったのは、仕事が早く済んでまだ夕暮れに間があったからかも知れない、と思いながら店の中を覗くと、客はまばらだった。壁際の席を取り腰を下ろすと、ふくらはぎの張りを感じ、普段あまり歩いていない自分の生活習慣を思い知らされた。ブレンドを頼み、ゴルフ雑誌を手に取る。ウェイトレスの女性のまつ毛があまりにも長くて、いや、長いというより見るからに作り物で、ここまで盛らないほうがいいのじゃないか、と、そうしたほうがまだ可愛いだろうに、とそんな事をふと思いながら、ページを繰った時、「ジュースは果汁100パーセント?」という声が聞こえた。圭は一瞬で年月が逆戻りした感覚を覚えた。ジュースは果汁ですか? 飲み物を注文数する時、綾子は必ず聞いた。その答えによって注文を変えるわけではなくオレンジジュースを頼むのに、だ。圭は、多少の混ぜ物をあろうが大したことではなく、果汁のみであったとして、それもたいした事だはない、と思っていたが、綾子に言ったことはない。
圭は壁際の席であったことを幸運にして、少し背を向けた。様々なことが押し寄せてくる。別れてから何年になるだろう。熱帯魚の水槽のほうに座った綾子を盗み見た。相変わらずポニーテールの髪型は綾子に似合っていた。圭は一度まぶたに焼き付けた綾子を再び振り返る事は無く、運ばれたコーヒーに口をつけた。奥二重の目は切れ長で、圭のような平凡な男を充分に惹きつける魅力を持っていた。頭の回転は速く、だからその唇から出る言葉は思いがけなかったり、時に辛辣であったり、優しみに溢れていたりした。
圭はカップに残ったコーヒーを見つめ、カフェに寄った事、一駅前で降りてしまったことを悔やんだ。背中で聞こえる、綾子と、ママ友であろう女性と二人の幼児の暖かい喧噪が聞こえてきて、それが辛く、店を出ればいいのに、固まってしまったように動かない膝にこぶしを置いた。
「これは約束だったでしょ」
綾子は譲らなかった。ポートランドでカフェをやりたい、というのが綾子の夢だった。英会話スクールで二人は出会ったのだが、何となく英会話を学びに来ていた圭と違って、綾子は真剣だった。気が合って出会いから一年で結婚した。私はあなたを愛しているから夫婦になるが、夢は諦めない、と綾子は言った。それはもちろんそうさ、夢の達成のために来ていた学びの場で会った男と結婚して、家庭に入ってなし崩しに目的のを諦めるなんて本末転倒だ、と圭も言った。同じ気持ちで歩き始めた新生活の中で、ずれが生じたのは子供の存在だった。子供は持たない、と綾子はかたくなだった。圭は二人の子供を望んだ。確かに子供を持つことは大きな制約を課されることは分かる。だが綾子の夢の実現にそれほど邪魔をするものだろうか、子供という大きなものを諦めなければ綾子の夢は叶わないものだろうか、圭は悩んだ。そんな意見の相違の中で、圭が綾子の夢、という言葉を口にすると綾子は怒った。夢、圭はいつしか、夢物語のような言い方をいつしかしていたのだろうか。やがて心もすれ違うようになってしまった。綾子の目的を尊重すれば、圭の家族を持ちたいという希望は潰える。真ん中を取る唯一の、子供を持っても綾子の夢を尊重する、という圭の考えこそ、綾子に言わせたら、現実は甘くない、それこそ夢物語、と一蹴された。
それでも十年別れなかったのは、やはりお互い、離れ離れになってしまうことが耐えられなかった。まだ好きだった。けれどそのまま、一緒に生活することがやがて保てなくなったのだった。圭にも仕事があった。資金を含めた雑多な準備も出来ていて、別れるとき、あなたのお蔭でここまで出来た、と綾子は言った。あれから数年になる。時折、どうしているか思わないこともなかったが、いや、いつも心のどこかにあったが、連絡を取ることはなかった。
圭は背後で聞こえる、声に耳を澄ませた。
風を越えて