Fate/defective c.09
第6章
3月25日。
その日は朝から雨だった。未明から降り始めた雨は、小雨になったり本降りになったりしながら、脈のように途切れることなく降り続いている。空には鉛色の雲が隙間なく詰め込まれ、重苦しい空気を地上に運ぶかのように冷たい風が吹きすさぶ。
「聖杯戦争」が始まってから恐らく5日目の朝を、俺は人生で最悪の気分で迎えた。
「……」
こんなに重く冷たい沈黙がこの部屋に降りたことなど、いまだかつてあっただろうか。華やかな色の集合体と化したお気に入りのフィギュアたち、もはや生命力と言っていいほどだったアニメのポスターは褪せて見える。好きなもので埋め尽くされたはずの俺の城塞に、1人、異質な人間が混じっている。シングルのベッドの上は大量の血痕で彩られ、その異常なまでの彩度が部屋の何よりも目につく。血の海に横たわる群青色の着物、それに身を包んだ一人の男――5日前、突如俺の目の前に現れた「アサシン」は、昨晩、変わり果てた姿で戻ってきた。
右肩から腹のあたりにかけてまでを、まるで巨大なフォークで大きく抉ったような生々しい傷。幸か不幸か、心臓をわずかに避けているので、アサシンは今もこうして生きてはいる。生きてはいるが……その苦痛を想像するだけで背筋に寒気が走る。見るに堪えない。だが目を逸らしてはいけない。
こうなったのは俺の責任でもあるのだから。
あの日、得体の知れない黒衣と仮面の人物に襲われ、命からがら逃げだした日、俺はアサシンから「聖杯戦争」なるものに巻き込まれたことを知った。
なぜ何の変哲もない一般人の俺が巻き込まれたのか?
それは、簡単に言えば俺が魔術師の家系の末裔だったからだ。しかも、相当優秀な、強い魔術師の家筋らしい。まるでライトノベルのような「主人公属性」に俺は思わず少年心をくすぐられたが、すぐにアサシンに厳しい現実を突きつけられる。
『しかしマスター、魔術というのは一朝一夕に扱えるようになるものではござらぬ。マスターの魔術回路は聖杯によって無理矢理こじ開けられ、強制的に開きっぱなしになっているようなもの。そのままでは自分の力を持て余したまま自滅してしまう』
要するに、俺は発電機に繋がれた自転車のペダルを延々と漕がされているようなものだ、という。修行を重ねた魔術師なら発電したいときに発電機のペダルをこぎ、やめたいときに自転車から降りることができる。だが魔術の心得など一切ない俺は、「聖杯」という魔力の塊によって強制的に発電機の自転車に繋がれ、やめることもできないまま永遠に発電するありさまというわけだ。
俺はありがちな奴隷の姿を思い浮かべた。石臼をごりごりと挽く奴隷に俺の姿が重なる。
『そんなことあってたまるか!』
試練、努力、忍耐、そういった類の言葉に特に弱い俺は一瞬で音を上げた。ライトノベルの主人公だってもう少しましな境遇に思える。
俺は聖杯戦争への参加を丁重に辞退した。が、その2、3時間後に更なる現実を突きつけられることになる。
身体の関節が針で刺されるような痛み、頭を締め付けるような頭痛。それは夜が明ける頃には無視できないほど激しいものになっていた。
『魔力の生成とは本来痛みを伴うもの。熟練の魔術師はそれをほとんど無効化できるが、マスターでは……』
『じゃあどうしろっていうんだ!』
痛い、痛い、痛い、痛い!もう嫌だ、どうして俺がこんな目に―― 聖杯など欲しくない。いらない。放っておいてくれ!
『聖杯戦争の監督役なら、或いは……辞退を申し出れば、令呪と引き換えに聖杯からの干渉を断ち切れるかもしれぬ。マスター、どうする』
『どうでもいい、何でもいい、ああ痛い――痛い、助けてくれ』
アサシンは切れ長の目をしばらく伏せて黙っていたが、『では、失礼』と短く言いおいて部屋から静かに出て行った。
それが2日目の朝。
3日目を地獄のような痛みと共に過ごし、4日目の朝、目を開けると血濡れの姿になったアサシンがいた。
「ああ、マスター……しくじった―― 申し訳、ない」
そう言って彼は倒れた。以来、気を失って、半分死んでいるような状態で昏睡している。
一体何があったのか。
俺はすべてを放棄していたつもりだったが、それは違ったのだ。アサシンがすべて肩代わりしただけの話だった。自分の痛みに盲目になって、あの時、命を助けてくれた人間を殺しかけたのだ。
治してやりたい。命を助けてやりたい。だが、やり方がわからない。俺はここに一人きりで、なすすべなく瀕死の男を眺めることしかできない。魔術回路というものは確かに俺の中にあるはずなのに、何の役にも立たない。
いや―― 何の役にも立たないのは、今に始まったことじゃない。
俺は、昔から、何の役にも立たない、ただのヒキニートだったじゃないか。
「……ごめんなぁ、アサシン」
俺のところに来なければ、こうならなかったんだ。
今の自分にできるのは、自分のために行動した人間をむざむざ半殺しにした「誰か」を、心のうちで憎むことだけだ。
不甲斐なさに泣けてくる。なぜあの時、アサシンを送り出してしまったのか。なぜこんなことになると気付けなかったのか。
仕方ない、聖杯戦争についてよく知らなかったから仕方ないじゃないか、という声が聞こえる。
俺のせいじゃない、いや俺のせいだ、俺のせいじゃない。でもやはり俺のせいなのだ。
痛い。
乾いた血で染められたシーツに崩れ落ちたとき、突然背後でガラスの割れる音がした。
「はいはい、お邪魔しますよ、っと。……うわ、こりゃ酷いわ。のんびりしてる場合じゃなかったな」
あまりにも場違いなのんきな声に、重い頭をやっと動かして後ろを振り向くと、白衣を着たショートカットの女が堂々と割れた窓から侵入してくる。ここは一戸建ての建物の2階なのだが……そんな疑問をあっさり払拭する勢いで、その女は俺の部屋の床に降り立った。
あっけにとられながらも、俺は最低限の疑問を口にする。
「……誰だ、お前」
「ああ、待って。別に君を殺そうとかは思ってない。君もつらいだろ?無理をしなくていい、ああ、殺すつもりはないけど監禁するつもりはある、とか、そういうとんちは無いから」
いやにべらべらと喋るその女は、白衣をひるがえしベッドに歩み寄った。
見た目的に、医者……と言えなくもない。だが、なぜここに?
助けてくれるのか?
「他のマスターが他人の陣営に手を貸すなんて、まあ普通はないからね。だけど君はちょっと不憫すぎるし、そもそも聖杯戦争は少しまともじゃないからさ」
ややつり目のその女は、アサシンの傷の上に指を添えた。
何を―――
言いかけて、口をつぐむ。彼女の指が静かに傷にそって滑る。その指が通ったあとは、信じられないことに傷が塞がっている。血が蒸発し、あるべきものがあるべき場所に戻っていく。筋肉が繋がり、皮膚が合わさり、微かな燐光を放った後にすべてが元に戻っていく。
「これが……魔術?」
目を疑う思いだった。彼女の手がアサシンの腹まで到達したときには、あの生々しく惨い傷はかすり傷程度にまで回復していた。
「ほんと、出血大サービスもいいとこだ。……そら、治った。二度はないから気をつけな」
女が顔を上げて、額の汗をぬぐう。俺は床にへたり込んだ姿勢のまま、関節痛と頭痛に軋む体を何とか引き摺って頭を下げる。
「どこの誰だかわからないけど、とにかくありがとうございます……助かりました」
「そんなしおらしくするなって。ちょっと気持ち悪いぞ」
彼女は無表情で言う。俺はぐうの音も出ず、ただ頭を垂れた。本当のことを言われると傷つくのだ、人間というのは。
「まぁ、私もタダ働きしに来たんじゃないんだ。治療の代価として、君にひとつ条件を出そう」
女は壁にもたれて、鋭い目でこちらを見た。『助けてやったのだから言うことを聞け』という、有無を言わさない空気がひしひしと伝わってくる。
恩の押し売りもいいところだが、あいにく今の俺には反抗するだけの元気がない。だが、聞くべきことは聞いておかなければ。
「待ってください、あんた、どこの誰ですか? なんで助けてくれたんですか? 俺たちは敵同士のはずですよね」
「順番に答えようか。私はシキナナクサ。四季が巡るの四季に、七つの種と書いて七種だ。キャスタークラスのサーヴァントのマスターであり、本業は薬剤師。なぜ君を助けたのかというと、協力関係を結びたいからだよ」
四季は髪をかきあげて、白衣のポケットから煙草を出した。人の家で堂々と煙草を吸う度胸に俺は感心する。
ふう、と彼女が息を吐く。狭い部屋に灰色の煙が揺蕩った。
「……仲間になって、どうするんだ」
「そう、良い質問だ。答えよう。私は君と手を組んで、バーサーカーを倒す」
「バーサーカー?」
アサシンから聞いたことはあった。聖杯戦争で召喚される7つのクラスのひとつ、狂戦士。だが、なぜバーサーカーを真っ先に倒すのか?
「君は知らないんだね。最近東京を恐怖に陥れている連続通り魔事件の犯人は、バーサーカーだ。サーヴァントが人間を殺している。おそらく、マスターのいないはぐれサーヴァントだろうね。どういうことかわかる?」
「さっぱり」
「聖杯戦争には神秘の秘匿、というものがつきものだ。平たく言えば一般人を巻き込んではいけない、という暗黙の了解だよ。それがこの戦争では欠如している。このままでは魔術そのものの立場が危うくなるんだ。だから問題児を処罰する、というわけ」
俺は何となくだが納得した。だが…。
「俺、魔術使えないんだけど」
彼女は俺の自白に軽く笑った。
「そんなことは大した問題ではないね。それより――いいのかい? 君のサーヴァントをあんな風にしたのは、バーサーカーだ」
―――なんだって?
心臓に冷たい血が通り過ぎたような気がした。久しく乏しかった感情が、胸の内からじわじわと湧いてくる。
アサシンは群青の長い髪を垂らして、まだ眠っていた。その顔は傷が癒えたからか少し安らかなものに見える。
そうか、俺は、怒っているのか。
好きなものだけで囲まれた甘えた生活をしていた頃には無かったもの。それを思い出した。俺は、怒っている。
俺のサーヴァントを死に追いやろうとした、バーサーカーを。
そして何もできない自分に対して。
「分かった。協力しよう。できる限り……できることはやる」
四季は煙草を咥えて笑みを浮かべた。
「ありがとう。その言葉を待っていた。…では、今日の午前0時に東京駅で待っているよ」
-
「ねえ、本当にやるの?」
曇天の下、声をかけられた。私は声の方を振り返らない。白衣のポケットから新しい煙草を取り出して、火をつける。灰色の煙が菌糸のように漂う。
「やるさ。アサシンのマスターを何とか仲間に引き込めた。本当は他の陣営にも声をかけたかったけど、聖杯戦争において協力的なマスターがいるとも思えない。セイバーだって、何となく断られたし」
協力はしないが邪魔もしない、と金髪の少女に言い渡されたのは先日のことだ。拠点に押しかけて傷を治療したからといって易々と心を開く人間もそうそういまい。私はおとなしく聞き分け、次のつてを辿ってきたというわけだ。
「アサシンだけでも、有効な戦力だよ。一人で戦うよりはマシじゃないか」
「でも……」
珍しくキャスターがしおらしい。霊体化した彼女の表情は見えないが、声が感情を物語っている。私は煙を吐き出してため息をついた。
「お前らしくないね? 不安なのか」
「嫌な予感がするわ。あたしの嫌な予感ってのは、だいたい当たるのよ」
私は、ふむ、と考えた。確かに彼女は長く神秘と魔術に携わってきた、マハトマの囁きを聴くキャスターだ。そんな彼女が嫌な予感がすると言えばそういう気がしてくる。
「だけどこっちも引き下がるわけにはいかないね。他がどうあれ、あんな狂ったサーヴァントに聖杯が奪われるのだけはごめんだ。私は……私は今日、この時のために生きてきたんだから」
兄を殺した病と薬が、この世にあってはならない。これはある意味では復讐だ。あの日の悲しみを二度と繰り返さないために、勉強した。研究し、人間の限界を知った。超えられない壁があった。しかしそこで諦めたら、今までの時間も、苦労も、兄の死も全て無駄になる。
だから万能の願望機に頼るしかない。他の願いを蹴落としてでも。私にはこの戦いでの勝利しか希望がないのだから。
その一縷の望みのためなら、命を賭けたって構わない。
「…分かったわ。あたしに任せて。絶対、バーサーカーを蹴散らしてあげる」
「ああ、頼りにしてるよ」
半分以上残った煙草を足元に捨て、ブーツで踏みつける。ジュッ、と微かな音を立て、吸い殻が灰になった。
Fate/defective c.09
to be continued.