マッドブレイン−血統書付主−
第1話 マッドブレイン
いつからだろう。
自分自身に違和感を覚えたのは。
いつからだろう。
自分が人間ではないかもしれないと疑い始めたのは。
〝ひっ…こんな事して、只で済むと思うなよ…!〟
目の前で怯える男は、血まみれだった。
〝人殺し…人殺し!!〟
これ、あたしがやったのか?
〝織幡茉尋を、退学処分とする〟
真っ赤な鮮血は目の前を霞ませ、自分が何なのか分からなくなった。
川に架かる橋を渡り、キャリーケースを引きずりながら川沿いの桜並木を暫く歩いた。
柵を越えた土手には天気も良いからか、花見をする家族連れが楽しそうに笑っている。
そんな、どこにでもあるような幸せを横目に茉尋は目的地へと足を進めた。
(あ……)
周りの民家よりも一回り大きな、二階建ての一軒家を見つけた。
表札に瀧園の名を確認すると、ここが職場であり下宿先だと理解した。
(結局来ちゃったな…)
育ての親である父方の叔母はニューヨークに飛び立ち、住んでいたマンションも解約し、もはや行く宛てはここしか無い。
茉尋は折りたたみの鏡をショルダーバッグから取り出し、最後に身だしなみをチェックした。
ワイシャツもヨレていない。 先週に切ったばかりの髪も寝癖は付いていない。 ジーンズもチャックは開いていない。
「よし…」
黒い柵に囲まれた敷地内へと進み、玄関前で立ち止まった。
インターホンを押してみると、すぐに声が返って来た。
『はい』
若い男の声だ。
「あの、本日面接をさせていただきます、織幡茉尋です」
『あぁ、はい。少々お待ちください』
暫く待っていると、扉が開き、一人の住人が出迎えた。
「織幡茉尋さんですね。お待ちしてました」
出迎えたのは二十代半ばくらいか。
ライトブラウンのサラサラヘア。赤味がかったブラウンアイ。
色白で目鼻立ちの整ったグレーのスーツ姿の男は、茉尋を見るなり目を丸くした。
「織幡さん?」
「ハッ…すいません!」
「あはは。緊張してる?リラックスして下さい。とりあえず、中へどうぞ」
リラックスと言われても、他人と会うのは久しぶりで落ち着かない。
「お邪魔します…」
玄関を上がると、造りこそ普通の民家と変わらないが、広々としている。
通されたのはリビングで、茉尋はソファへ腰を下ろし向かいに座る男と改めて向き合った。
「改めまして、この家の主の坂城遥です。よろしくお願いします」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「じゃあ早速、履歴書を見せてもらえるかな」
「はい」
テーブルに差し出した履歴書を彼は手に取り、上から真剣な眼差しで眺めていく。
ふと、彼の左手に視線が止まった。
春だというのに、何故か左手だけ白い手袋をしている。
いや、手袋と言っても、指紋が付かないように鑑定士やタクシーの運転手やらが付けているものだ。
(潔癖症か…?)
ジッと眺めていると、視線に気付いた遥が顔を上げにこりと微笑んだ。
つられて笑顔を向けるが、引きつっていることは自分でも分かった。
そして彼は再び履歴書に視線を落とし数回頷くと、ゆっくり顔を上げた。
「なるほどね。家事は得意、と…。うん、採用」
何とも簡単に下された採用に茉尋は目が点になる。
「え、採用…ですか?」
「うん。今日からよろしくね」
ここで働く前提でやって来はしたが、こうもすんなり採用というのも何か裏がありそうで怖い。
「で、仕事内容だけど」
「あの、ちょっと待って下さい。本当に採用で良いんですか?」
「勿論。ウチに舞い込む依頼は様々で、わりと何でも引き受けるんだけど、日中は学校生活送ってもらって、放課後とか休日に働いてもらうよ」
ここで茉尋の思考は一時停止した。
「え……今、何て?」
「ん?日中は学校に通ってもらって、放課後とか休日に働いてもらうよ」
ご丁寧に繰り返したその言葉は聞き違いではなかった。
「ま、待って下さい!学校に通う!?ここでの仕事は聞いてますけど、学校に通うなんて聞いてません!」
「え、でも学力試験受けたでしょ」
「学力試験…?」
それはここに来る一週間前の事だ。
赴任先のニューヨークから一時帰国した叔母、織幡七重がバイトの話を持ちかけて来るや否や。
〝茉尋、ちょっとこれ解いてみて〟
〝何だよ帰ってきていきなり〟
〝良いから良いから。あんたの学力見せてちょうだいな〟
言われるがまま問題集を解いたが。
「まさかあれが…」
「平均点ギリギリだったけど、見事合格。入学手続きも君の叔母さんが済ませてるし、何の問題も無いよ」
学力テストにおかしな履歴書のテンプレート。何かがおかしい。
「いや無理です!あたしは学校通う気なんて…っ」
「また訳がわからない事件を起こすかもしれない…それが怖いんでしょ?」
「っ…」
叔母の七重は恐らくこの坂城遥とグルだ。
そうと分かった茉尋はソファから立ち上がった。
「採用取り消して下さい。悪いけど、学校通う気なんて全く無いから」
「君の叔母さんから事情は聞いてるよ。白雪女子に通ってたんでしょ。一年の夏までは」
確かに去年の夏までは白雪女子高等学校の生徒だった。
だったら知ってる筈だ。 退学になった理由も。
「君の叔母さんは、君に学校へ行って欲しいと願ってる」
「七重叔母さんが…?」
幼い頃に両親を亡くした自分を引き取ってくれた、唯一の身内である七重。
「何考えてんだよ七重叔母さん…」
「理不尽な仕打ちを受けた君のことを考えた上でだよ」
(理不尽……)
〝教師を半殺しにするとはとんだ不良だ〟
〝伊崎先生がセクハラなんて有り得ないわ〟
〝前々から思っていたんですよ。この生徒は目付きも悪いし、いつか問題を起こすんじゃないかって〟
誰も自分の意見なんて聞き入れてはくれなかった。
「理不尽なんて、そんなの…分かってるよ…」
垂れた拳に力が入る。
俯き震える茉尋に、遥は微笑みかけた。
「よし、決まり。契約成立」
「勝手に決めんなよ!」
「悪いけど、依頼人は君の叔母さんだから。君の意見は聞かないよ」
「充分あんたも理不尽じゃねぇか!」
「まぁまぁ。後悔はさせないよ絶対に」
どこからそんな自信が出てくるのか。
だがここである疑問が浮かんだ。
「依頼って何?七重叔母さんがあんたに何か依頼したってこと?」
遥はあぁ、と思い出したようにスーツのポケットから名刺を出した。
「申し遅れました。俺はこういう者です」
差し出された名刺には、マッドブレイン保護委員会の青少年部門長とやらの肩書きが添えてある。
「マッドブレイン保護委員会…?」
「そ。君の叔母さんは俺らマッドブレイン保護委員会に依頼をした。姪である君をどうにか学校に通わせて欲しいってね」
ここが派遣型の何でも屋なのは知っている。
だがマッドブレインとは何なのだ。
「待ってよ。ワケって、ワケわからないんだけど。マッドブレインって何?」
疑問をぶつけていると、突然携帯の着信音が室内に響き渡った。
「おっと失礼」
遥はポケットから携帯を取り出すと、電話だったようでそれに出た。
「はいこちら坂城。あぁ、うん。え、バレた?怒ってる?分かった分かった」
電話を切ると楽しそうにソファから立ち上がる遥。
「ちょうど良いから、茉尋、君に瀧園幸福委員会のメンバーを紹介するよ」
「待てよ!ちゃんと話を…」
抗議を示したその時、突然横から破壊音が聞こえたかと思えばリビングの扉が一瞬で目の前を通過し、壁にぶち当たった。
恐る恐る扉があった筈の方へ目を向けると、そこには一目見て不機嫌だと分かる表情を浮かべた少年が立っていた。
ポキポキと手の骨を鳴らす、同じ年ほどの少年。
その少年は瀧園高校の制服であるグレーのブレザーを身にまとっていた。
黒髪の隙間から覗く切れ長の目は少々血走っており、遥を睨みつけながら中へと足を踏み入れた。
「てめぇ、どこまで俺をおちょくりゃあ気が済むんだ」
「茉尋、紹介するね。彼は瀧園高校ニ年C組の矢神千暁。瀧園幸福委員会のメンバーだよ」
「だよ、って……」
とてもではないが和やかに握手を交わす雰囲気ではない。
ふと、只ならぬ怒りを露わにする少年の首に目が止まった。
少年の首には黒い革ベルトの首輪が装着されている。
あれは何なのだ。アクセサリーにしては悪趣味かつ浮いている。
「歯ぁ食いしばれ!」
次の瞬間、矢神千暁という少年は遥を目掛けて殴りかかった。
恐怖からギュッと瞼を閉じると。
「てめっ、このやろっ、くそっ」
(あれ……?)
何やら時間がかかっている事に気付いて瞼を開けてみた。
少年は次から次へと遥に拳を向けるも、遥は軽い身のこなしで拳を避けている。
千暁という少年はなかなか当たらない上に疲れたのか、肩で息をしながら項垂れた。
「そんなに怒らないでよ~。たかが寝顔ばら撒いただけじゃないか」
「ふざけんな!てめぇ犯罪だかんな!」
事情は分からないが、何やら揉めているようだ。
とそこへ、廊下を走る足音が近付いて来ると別の瀧園の制服を着た少年が二人、リビングに飛び込んで来た。
「千暁!」
「頼むから戻れって!」
二人の少年の顔を見るや否や、千暁という生徒は舌打ちをかまし窓辺に駆け寄ると、窓を開けて外へと逃走した。
「おい待て千暁!」
「レオ、理巧、良いよ。今日は好きにさせて」
「ったく…」
「もう少しで捕まえられたのに」
落胆する二人の男子生徒。
茉尋は傍らで固まっていると、彼らはその存在に気付いた。
「何だこいつ?」
金髪につり上がった目付きの少年は、眉を寄せながら茉尋を睨みつけた。
強面に睨まれた茉尋は口元を引きつらせながら一歩引いた。
「レオ、そんな睨んじゃ怖がるでしょ」
「睨んでねぇよ元からこんな顔なんだよ」
「ルカの言ってた新しいバイトちゃんでしょ?」
「あの、いや……」
もう一人の少年がずいっと顔を覗き込んで来た。
赤茶色の頭をピンで留め、アイスグレーの瞳をした何とも派手な風貌の彼は、茉尋を観察するなりやい歯を見せて笑った。
「可愛いね。ルカ、採用したの?」
「うん。さっきね」
「おい、まだやるなんて一言も言ってない!それに、学校通うなんてこっちは聞いてないよ!」
ワケが分からない上に勝手に話が進んでいる状況に、すんなり採用を承諾出来るわけがない。
だが遥は相変わらず呑気に笑顔を向けて来る。
「大丈夫だよ。ここでの生活は楽しいから」
「おい、それはあいつをからかって遊ぶお前の一個人の意見だろ」
「あーあ。千暁ってばまたドア壊しちゃって」
呆れる二人の男子生徒を横目に、茉尋は遥に詰め寄った。
「マッドブレインって何なんだよ?ちゃんと話せって言ってんだよ!」
「あれ、マッドブレインのこと聞いてないの?」
「採用したってのにそりゃあんまりなんじゃねぇか?」
遥をジッと睨み付けると、彼は眉を下げて溜め息を吐いた。
「うーん、仕方ない。千暁も揃ってのお披露目にしたかったんだけど。あ、びっくりしないでね?」
どういうつもりの忠告か。
小首を傾げていると、遥は左手の手袋を外した。
そして何をするかと思えば、その手をリビング内の書棚へと向けた。
静まり返る室内。
彼の人差し指が向けられる書棚へと目を向けていると、視界で何かが動いた。
目を凝らしたその瞬間、一冊、二冊と、次々と本が勝手に書棚から抜かれ床に積み上げられていく。
何が起きているのか。
彼は本に一切触れてはいない。
まるで生き物のように本がパタパタと音を立てて天井近くまで積み上げられていくと、やがてジェンガのようなタワーが出来上がった。
(本が……か、勝手に……)
有り得ない現象に頭が追いついていけないでいると、目の前がだんだんボヤけて視界が真っ白になった。
「はい出来上がり。どう?これがマッドブレインの特殊能力……あれ?」
遥が振り返ると、そこには茉尋の姿は無く。
「ここだここ」
金髪の男子生徒が指差す先の床に、茉尋が気を失って倒れていた。
「ありゃ」
「ま、知らなきゃそうなるわな」
「どうする?」
「とりあえず、部屋に運んでおこうか」
*
時々、自分が知らない、もう一人の自分の存在を感じる。
それはいつも、自分が予想していない時に現れる。
知らない間に背後から肩を叩かれようとした時。
道でトラックに撥ねられようとした時。
野球部のボールが飛んできた時。
どれもいつの間にか、回避できていた。
だが回避する度に、その代償は付いて回った。
そして人生最大の事件は、去年の夏に起こった。
〝君には指導が必要だね〟
〝内緒だよ〟
臀部に触れられた瞬間、頭の中で張り詰めた糸がプツリと切れた。
それからはよく覚えていない。
気付いたら、数学教諭は血まみれだった。
*
「ったくルカの野郎…っ」
橋を渡って住宅街の中を彷徨う千暁。
むしゃくしゃしながらも、力任せに開けたリビングの扉を思い出し肩を落とした。
「あぁくそっ。また修理かよ……。この首輪本当に効いてんのかっつうの」
ただ扉を蹴っただけだというのにああも吹っ飛ぶとは。
いや、これまで何度か吹っ飛ばしてきたが、この首輪があればと毎回気にしていなかった。
「俺のだけ欠陥品じゃねえのか……?」
「矢神」
「ああ?んだよこら」
不意に背後から何者かに呼ばれ振り返ると、頭に鈍痛が襲いかかった。
「っ……!?」
そのまま地面へと倒れ、彼の視界は徐々にボヤけ意識が遠ざかった。
*
うっすらと開けた瞼から垣間見えたのは、碁盤の目のような天井だった。
初めて見る天井。
ここはどこだ。
体には布団が被せられている。
瞼を擦りながら上半身を起こすと、知らない場所だった。
部屋の窓には真っ白な遮光カーテンが下がり、隙間から橙色が差し込んでいる。
どうやら夕刻のようだ。
(何だここ……確か……)
記憶を辿っていく内に、段々と思い出した。
「そうだ…本が勝手に…っ」
最終的には現実を受け入れられず気絶したのだと理解した。
そこへ、突然部屋の扉が開いたものだから肩を浮かせた。
「あ、ほんとだ。起きてる」
部屋に現れたのは、坂城遥と瀧園高校の制服を着た金髪と赤毛の二人だった。
「具合はどう?」
「な、何とか…」
「それなら良かった。キャリーケース引きずって来たし、疲れてたんだね。ぐっすり眠ってたよ」
そのようだ。
昼過ぎにここへやって来たというのに、すっかりカーテンの向こう側は日が暮れようとしている。
茉尋は自分に呆れつつ、遥に問いかけた。
「なぁ、さっきのは何なんだよ?」
遥は、あぁ、と頷くと話を始めた。
「この世には、普通の人間と、人間でありながら特殊能力を発揮する者がいる。その後者が、マッドブレインっていう人種で、俺らのことを指している」
「特異能力……」
「生まれながらに特異体質で、普通の人間には成し得ないことが出来る。そんな俺らはマッドブレインと呼ばれ、希少価値の高い人種として認定された。その数も少ないことからマッドブレインの存在を認めるマッドブレイン協会は、マッドブレイン保護委員会を設立した。その青少年部門の本部がここ、君が今日から働く瀧園幸福委員会だよ」
遥の説明を静かに聞くが、そんな団体や人種が存在していたとは素直に理解し難い。
だが先ほど、この目で見た彼の一芸は夢ではなかった。
「さっきの本が勝手に動いたのって……そのマッドブレインの特殊能力ってこと?」
「そ。俺の左手は物理的に物を操れる、サイコキネシスってやつだね。普段はこの手袋で能力発動を抑えてるんだ。それと、ここにいる彼らもマッドブレインだよ」
言われてみれば、この二人は遥の能力を目にしても平然としていた。
二人もまた、マッドブレインだと言う。
「今泉礼央政。彼は超聴覚の持ち主で、半径五キロ以内のあらゆる音という音を聴き取ることが出来る」
茉尋は強面の礼央政に目を向けた。
「音って……じゃあ今も?」
「いや、今は身に着けてるピアスのおかげで能力発動を抑えてるから、一般的な聴覚と変わらない」
「これ無しじゃうるせえなんてもんじゃねえよ。最近は訓練して音の聴き分けも出来るようになったが、まだ外せそうに無えや」
確かに、聴きたくもない音が年がら年中耳に入ればハタ迷惑な能力だ。
だが聞けば、先ほど目覚めた事に気付いたのはこの礼央政だそうで、僅かな衣擦れの音を感知したとの事だ。
茉尋はその飛び抜けた聴力にただ驚くばかりだ。
「で、こっちは円谷理巧。彼は目を見た相手を思いのままに操る催眠能力の持ち主で、裸眼で見つめられると単純に危ない。だから能力発動を抑えるカラーコンタクトを装着させてるんだ」
「俺は能力の発動抑制なんか望んじゃいないけどね」
にっこりと笑う理巧だが、聞いているだけで恐ろしい能力だ。
本人からしてみれば他人を思い通りにできる能力は好都合。
能力悪用を防ぐために、協会から能力発動抑制を強いられているとのことだ。
「とまぁ、能力を持ちながらも、能力の発動抑制をしながら俺らは普通の生活を送ってる。俺らの事、少しは理解出来た?」
「まぁ、なんとなくは」
ここまで聞いたら信じる他無い。
難しい顔をしながらも頷く茉尋に、遥は改めて話を切り出した。
「それでさっきの矢神千暁だけど、彼も一応マッドブレインの一人で、ここの住人だよ。けどなかなか困ったちゃんでね」
「あいつもマッドブレイン!?」
茉尋は応接室に怒鳴り込んできた生徒を思い出した。
あんな暴力的な男がいるとは、完全に騙されたと再認識した茉尋は布団をどかしベッドから降りると扉へと駆け出した。
だが扉まであと少しというところで、身体が急に動かなくなった。
「え!うそ!え!?」
「逃げちゃダメ」
唯一動く頭を振り返らせると、遥は手袋を外した左手をこちらに向けていた。
「てめっ……汚ねぇぞ!」
「やっと気付いたか。こいつはど汚え男だぞ」
「可哀想に」
「お前ら見てねぇで助けろよっ」
声を上げるも手を差し伸べてくれる者はおらず。
完全に周りが敵だらけという現実に目眩を覚えるた。
そして身体は走る体勢のまま後方へ引き寄せられ、ベッドの中へと戻って来てしまった。
布団が鉛のように重く、全く身動きが取れない。
「こんなことして良いのかよ!能力悪用じゃねえか!」
「茉尋の叔母さんに頼まれたんだよ。茉尋をよろしくってね。だからもう家には帰れないよ」
「っ……頼まれたって、あたしの何が……ここまで強制される覚えはねえよ!」
「強制される理由ならあるよ。それは君自身がよく知ってる筈だ」
遥の一言に、茉尋は唇を真一文字に結び彼を睨み付けた。
思い当たる節。
ありすぎて、何も言い返せない。
そしてある可能性に辿り着いた。
「あたしは、あんたらと同じなわけ?」
睨み付けながら尋ねると、遥はジッと目を見据え頷いた。
「その可能性は高い」
それを聞いて、茉尋の身体から力が抜けた。
「はは……そっか……だから叔母さんはあたしをここに……」
「判断材料は少ないけど、知らない間に能力が発動することは、自覚がないマッドブレインにも良くある話なんだよ」
確かに事が起きた時は決まって無自覚だった。
「茉尋の叔母さん……七重さんは、もしかしたらと思って君をここへ誘った。マッドブレインでも普通の生活を推進する、マッドブレイン青少年保護委員会にね」
学校を退学してからの自分は、家にひきこもりがちで、普通の生活とは程遠かった。
両親を早くに亡くした自分を引き取ってくれた叔母の七重が、陰ながらに心配していることは知っていた。
叔母には叔母の人生がある。
これ以上、面倒はかけられない。
「……分かったよ。分かったから、この重いのどかせよ。もう逃げないから」
観念すると、体の上の布団は空気を取り戻したように軽くなった。
*
南区三番街の外れに位置する鉄工所の廃屋。
繁華街や住宅街から離れたここは既に廃業しており、廃材やコンテナが積まれ、ここにやって来た当初は錆びた鉄の匂いが充満していた。
両親に手放されてから北区の孤児院で暮らしていたが、里親たる者が現れ、彼女は彼らに引き取られた。
里親として名乗り出る者の身分などに職員は触れず、ずさんだ管理だった。
そしてハズレくじを引いてしまった自覚も無く、私はただただ居場所を与えてくれる里親に縋り付いた。
だがそれは間違いだったと、幼心に気付いた。
彼らは拠点を移しながら、孤児院暮らしのマッドブレインを引き取っては海外に売り飛ばす人身売買グループだった。
何故自分を引き取ったのかは、能力を強いられてすぐに理解出来た。
私はマッドブレインであり、能力を吸収し、効果を無効に変えるのだと。
それを発揮するのに時間はそう要さなかった。
やらなきゃ死ぬ。
脅された私は、力を失った同胞が買い手に引き渡される様子を黙って見ていた。
そしてまた一人、今日も彼らによって売り飛ばされようとしている少年が目の前に転がっている。
「矢神、ザマァねえなぁ」
グループのリーダーである五藤は、縄で拘束される矢神千暁という少年の腹部を蹴飛ばした。
苦痛に歪める彼の顔は、もう何度も見たことがある。
私が彼の能力を奪わなければ、彼はきっとこんな目に遭わなかっただろう。
少年は五藤を睨み上げた。
「その目だ。その目だよ矢神。お前は人殺しの素質がある。お前に平凡な日常は不似合いだ。東南アジアの国家反乱軍が兵器を欲しがってんだ。テメェはそこで人殺しに一役買えば良いんだよ。まぁ、おまけも高く売れる事を願うんだな」
そう言って五藤は彼のスマホを片手に不敵に笑い、画面を操作し始めた。
「テメェ……ふざけんな!これほどけや!」
地べたでもがく少年の声が、私の胸をキツく締め上げた。
「は、破壊魔…?」
気を取り直し、矢神千暁について遥から話をされた茉尋。
彼が破壊魔と呼ばれるのには、彼の能力が関係していた。
「千暁はその名の通り、常軌を逸した破壊能力を持つ。彼が本気になれば、そこらへんのビルを倒壊するくらい、なんて事ない」
リビングの扉が吹っ飛んだのをしっかりとこの目で見たが、あれは能力発動抑制装置である首輪をした上での力だと言う。
(あの首輪、そういうことだったのか……)
「あいつはこれまで何人も病院送りにしてやがる。中学の時は酷かったっけな」
「ヤンキーっていうヤンキーを再起不能にする事にハマってたよね」
「あ、悪趣味だな……」
「ここに来てからは、あんなんでもかなり落ち着いた方だよ。仕事には渋々でも参加してるし」
「それで、そいつはどこにいるんだよ?あの時逃げられただろ」
もうすっかり太陽は沈み、外は夜になっていた。
「結局、学校にも顔出さなかったし、どうせそこらへんほっつき歩いてんだろ」
「何かしでかしてなきゃ良いけどね」
理巧が不穏な予感を口にしたその時だ。
リビングで聞いた遥の携帯の着信音が、突然部屋に響いた。
遥はポケットから携帯を取り出すと、噂をすればというやつか。着信は千暁からだった。
だが遥は暫し画面を見据えた。
仮にもモメてる最中に、あちらから電話を掛けてくるなんてことはこれまでに無い。
少々不審に思いながらも電話に出てみた。
「もしもし?」
『よぉ。あんたが矢神の保護者か』
聞き覚えのない男の声に、遥は眉をひそめた。
「誰だあんた」
彼の神妙な声色と面持ちに、茉尋は礼央政と理巧と顔を見合わせた。
『てめぇんとこのガキは預かった。返して欲しけりゃ部下連れて三番街の廃工場まで取りに来い』
それだけ告げると電話は切れた。
「おい!」
「どうした?」
「……千暁が拉致られたっぽい」
「拉致られた!?」
突然舞い込んで来た事件に、茉尋の頭は追いつかない。
「場所は三番街の廃工場。多分、相手は人身売買グループだ」
「人身売買?今時そんなの……」
「マッドブレインを専門に人身売買する裏の組織だよ。能力発揮が乏しい少年少女を主に、以前からウチの学生組を狙ってるのは知ってたけど、これを期に売り飛ばすつもりだろう。茉尋、危ないから君はここで待ってて」
「え……」
「すぐ帰ってくるから」
「いやちょっと待てよ!」
戸惑っている間に、三人は部屋を飛び出して行った。
(おいおい拉致って何だよ……あたしはあいつらの帰りを大人しく待ってるだけで……それだけで…)
「っ、良いわけ無い……!」
茉尋は急いで三人を追いかけるように部屋から駆け出した。
冷たいコンクリートの上で、拘束された身体中の傷が冷えて行く。
スマホを放り捨てた五藤は千暁を見下ろした。
「お前の飼い主と友達も高く売ってやるよ」
「は……そうなる前にぶっ殺してやるよ……」
「でけえ口叩いてられんのは今の内だ。こっちにも秘密兵器があんだよ。おい」
男が声を投げると、コンテナの裏から、とても小綺麗とは言い難い少女が怯えた眼差しで顔を覗かせた。
(ガキ……?)
「こいつは半径二百メートル圏内の能力を吸収するマッドブレインでな。親に捨てられた哀れな孤児だったこいつを、心優しい俺は拾ってやったんだよ。こいつのおかげで、俺は荒ら稼ぎ出来るってワケだ」
男の高笑いが、冷たい廃屋に響いた。
その頃、礼央政の聴力で千暁と五藤の会話を捉え、目的の廃工場へとやって来た遥たち。
「ここか」
「間違いねえよ。千暁の声が聞こえた。さっきまではな」
「さっきまで?」
立ち入り禁止のテープをくぐるなり、コンテナの裏からぞろぞろとチンピラたちが鉄パイプを手にして出迎えた。
「おやおや、随分とむさ苦しいお出迎えだね」
趣味の悪い和柄のシャツを着た男たちは、煙草を吹かしながら遥を見据えた。
「なんだ。保護者っつうから同じ頃合いのオッサンかと思ったら、まだまだケツの青そうな若僧じゃねえか」
「そりゃどうも。これでも今年で三十路の、立派なオッサンですがね」
「ほう。礼を言うのはこっちだぜあんちゃん。わざわざリーダーの商品を連れて来てくれるとはな」
後ろの礼央政と理巧も狙うつもりか、喉の奥で笑う男たち。
「悪いが三十路のオッサンは要らねえんだ。そこのガキ二人を置いてってもらう」
遥は横目で理巧がカラーコンタクトを外したのを確認すると、左手の手袋に手をかけた。
「それは出来ません。うちの従業員、返してもらいますよ」
遥は手袋を脱ぎ、不敵に笑う男たちへと左手をかざした。
だが。
「……あれ?」
「捕まえろ」
男の一言がスタートダッシュの合図となり、仲間たちは遥たちに襲いかかった。
「え!何で!?」
「俺も効かない!」
「やっぱりな……変だと思ったんだよ!」
能力が効かないことを理解した三人は、廃工場の敷地内を駆け出した。
「どうなってんの!?」
「あーっ!カラコン落とした!」
「落ち着けや!くそっ!千暁が簡単に捕まるからどおりでおかしいと思ったんだっ」
それに、工場に近付いた途端それまで聞こえていた雑音が消えた。
何かの力で能力が封じられている可能性が頭を過ぎる。
「待ちやがれぇええ!」
だがその可能性を確信に変えるにはこの状況は極めて困難。
三人は男たちから逃げる事しか出来ずに廃工場内を駆け回った。
外が急に喧しくなった。
千暁は外の喧騒に耳を傾けていると。
「リーダー!来ました!」
「おう、来たか。すぐに会わせてやるよ」
不適に笑いながら、男は千暁に背を向けて廃屋から去って行った。
(同行せずとも、二百メートル圏内の能力を吸収する、か。厄介だなおい)
千暁は体を反転させ、一人残った少女へ目を向けた。
よく見ればまだ小学生低学年程の年齢だろう。
幼ない瞳は虚ろに千暁を眺めていた。
「おい、分かってんだろ。こんなこと、もう辞めねえか」
少女は千暁に耳を貸すどころか、コンテナの陰に引っ込んでしまった。
(くそっ……だからガキは嫌いなんだよ……)
コンテナの裏でジッと身をひそめる茉尋。
三人の後を追って三番街外れの廃工場に辿り着いたものの、完全に入り口を間違えたようだ。
だが表では遥たちが敵側と対峙している筈だ。
幸いにも偶然見つけた裏の窓付近には誰もいない。
矢神千暁はどこだ。
むやみに動けば敵と対峙するかもしれない。
かと言って表に回って遥たちに加勢する度胸も無い。
一体何しに来たのかと、不甲斐なさに拳を握りしめていると。
「おい、あんな奴がご主人様ってか?」
聞き覚えのある声にハッとした茉尋は、コンテナの裏から顔を覗かせた。
(い……いたぁ!)
ロープで全身をグルグル巻きにされている千暁が、誰かに声を投げている。
千暁の視線の先を追ってみると、一人の少女が耳を両手で塞ぎながらコンテナの陰に隠れていた。
(……女の子?)
「あんなクソ野郎に人生捧げるなんざやめとけ。あいつはお前のこと、私利私欲の為だけの道具としか思ってねえぞ」
何を話しているのだろう。
何だかよく分からないが、今は近くに敵はいないようだ。
茉尋は意を決してコンテナの裏から飛び出し、拘束された千暁の元へ駆け寄った。
「おい!」
千暁は茉尋の声に肩を浮かせたが、彼女の姿を見るなり眉を顰めた。
「お前、ウチにいた……」
「説明は後でする!とりあえず逃げる!」
千暁の両手首に巻かれたロープは硬く、ちっとも解ける気配が無い。
それもその筈だ。ロープの結び目は接着剤で固められ、刃物でも簡単には切れないようになっていた。
「っ……」
こうなったら自力で運び出すしかない。
だが長身な男子一人を背負うには一人では無理だ。
茉尋はコンテナの後ろからこちらを見つめる少女に声を投げた。
「おい!頼むから手伝ってくれ!」
「無駄だ。あのガキ、完全に傷心しちまってる」
「どういうことだよ?」
「親に捨てられたショックから、外道に縋り付いてやがる。あいつは俺らの能力を吸収する、とんでもねえガキだ。あいつ自身が心変わりしねえ限り、このロープも俺には解けねえよ」
この少女が千暁の逃走を妨げている。
茉尋は俯く少女へ視線を向けながら立ち上がった。
「捨てられたって…」
「こいつは両親に捨てられたんだ。自分の腹から生まれた我が子が、特殊能力者……異物だと分かって手放すケースは珍しくねえ」
「そんな……」
背後で語る千暁の冷たい言葉が胸に突き刺さる。
ただ生まれただけなのに、望まれた筈なのに、呆気なく手放されてしまうとは思いも寄らないだろう。
茉尋は少女へと歩み寄った。
千暁は歩を進める茉尋に声を投げた。
「おい」
「人間て、選択肢が無きゃ判断なんて出来ないだろ。特に子供は、大人が選択肢を与えなきゃ何も始まらない」
少女は戸惑い後ずさるが、茉尋は少女の前で腰を下ろし、少女と同じ目線になった。
「ここにいて、怖くないのか?」
茉尋の問いかけに、少女は目線を合わせぬようそっぽを向いた。
「まだ知らないだけだ。お前のこと本当に大事にしてくれる人は、ここの奴ら以外に絶対いる」
「……嘘だ…」
ようやく口を開いてくれた少女に、茉尋は詰め寄った。
「嘘じゃないよ」
「じゃあ何で私のパパとママは私を捨てたの!?言ってたもん!捨てられた子は幸せになれないって、孤児院の皆が言ってたもん!」
声を荒げる少女の両肩を掴み、茉尋は少女の双眸をしっかりと見据えた。
「確かにお前の両親はお前を手放したかもしれないけど、だからって、捨てられたから幸せになれないワケじゃない。あたしにも両親はいないけど、たった一人だけ、あたしを理解して大事にしてくれた人がいた。その人のおかげで、一歩でもお前の言う幸せに近付きたくて、あたしはここにいることを選んだんだ。だからお前にも、あたしが選ばせてやる。こんな事より楽しい事、世の中にはいっぱいあるんだ。知りたくないか?」
少女は肩を震わせ、涙を流した。
「どうしたら良いのか分からないよ……。逃げたらきっと、死んじゃうよ……」
「大丈夫だよ。死なせないから。お前はお前のしたいようにすれば良いんだよ」
「っ…怖い……怖いよ……助けて……」
嗚咽交じりにその一言を聞けた茉尋は少女の頭を優しく撫でた。
「よし。もう終わりにしよ?疲れただろ」
少女が頷いたその時、千暁は身体に巻き付くロープが軽くなった瞬間を逃さなかった。
「おい、危ねえから離れてろ」
茉尋は少女を抱き抱え、千暁から距離を取りコンテナの傍に駆け寄った。
すると、千暁が歯を食いしばりながら苦悶の表情を浮かべたその瞬間、ロープは弾けるように分解し、弾けた拍子に何本かが茉尋の顔の真横を掠めた。
(これが破壊魔……!?)
後ろを振り返ると、コンテナに打ち付けられたロープの跡が窪んでくっきりと残っている。
立ち上がり首の骨を鳴らす彼は、身体の自由を取り戻すや否や、目の色を変えて廃屋の外へと駆け出していった。
「ぶっ殺す!」
「あ、おい!」
その頃敷地内では、三人が男たちに追われていた。
「駄目だ……三十路の足が限界と言っている……」
「あれは女の子の群れ。あれは女の子の群れ」
「おいしっかりしろ!間違ってもあん中突っ込むなよ!」
体力が消耗しつつある中、精神がやられ始めている遥と理巧。
どうにか二人の能力だけでも発動しないかと願うが、礼央政は自分自身の能力さえも発動しない辺り、それは叶わないだろうと舌打ちをした。
そして両脇にコンテナが積み上がる中へ走ると、目の前は行き止まりとなった。
「くそっ……」
「やっと……ゴール…?」
「あぁ、最悪なゴールだ」
逃げ場を失った三人は、恐る恐る振り返った。
「やっと袋の鼠だな」
五藤は前に出るとニタリと歯を見せた。
その手にはピストルが握り締められている。
ジリジリと後ずさる三人。
その時、礼央政の耳は微かに重なる雑音を捉えた。
それは徐々に音量を上げていき、やがていつもの騒音へと変化した。
「戻った!!」
「「え!?」」
状況が理解出来ない遥と理巧は揃って礼央政へ顔を向ける。
五藤は三人へ銃口を向けた。
「ごちゃごちゃうるせぇ。覚悟しろよ」
「おめーがな!」
突如として降り注いだ声に視線を上げると、積み上がるコンテナの上に、拘束されていた筈の千暁が立っていた。
「千暁!」
「お前どうやって……!?」
「ガキのあやし方を勉強しとくんだったな」
コンテナから飛び降りた千暁は地面に拳を向けると、拳が地面に届いた瞬間、男たちが立っていた足元のコンクリートはポップコーンのように弾けた。
地面と一緒に吹き飛ばされた五藤は地面から起き上がると千暁へと銃口を向けた。
「くそぉっ、ガキがあああ!」
数回の発砲音が鳴り響く中、千暁に当たる筈の銃弾は彼の背後にあったコンテナに当たり、千暁は五藤との距離を一瞬で縮めた。
「なっ……!」
「下手かこの野郎」
千暁は鬼のような剣幕で五藤を見下ろすと、彼からピストルを奪い、銃口をいとも簡単に捻じ曲げて見せた。
みるみる五藤の顔が蒼白していく。
そして間髪入れず五藤の顔面に拳がめり込み、五藤は遠くへ吹き飛ばされた。
コンテナに頭から突っ込んだ彼は最初の威勢は何処へやら、気を失い瀕死となった。
それを見ていた残りの仲間たちは鉄パイプを放り投げ、悲鳴を上げながら駆け出した。
それを見た遥が逃げ惑う男たちに左手を掲げると、男たちの動きはピタリと止まり、一箇所に集められた次には銅線が飛んで来て、男たちを何周も回ると厳重に拘束した。
「やっと静かになった」
「ちょっとレオ見えないよ〜」
理巧の両目を後ろから押さえる礼央政は、どっと溜め息を吐いた。
「何とか無事に終わったが、新人に助けられたみてえだな」
「え?新人って茉尋?」
すると、廃屋から少女を連れてこちらに駆け寄る茉尋の姿を捉えた。
「え、茉尋!?何でここに?ていうかその子誰?」
「え!?茉尋!?」
「良かった。皆無事みたいだな」
彼らの元に辿り着いた茉尋に遥は尋ねた。
「まさか俺らの後をついて来たのかい?」
「当たり前だろ。あたしだって、お前らのメンバーなんだから。家で大人しく帰りを待つだけの為に、叔母さんはあたしをあんたのところに寄越したんじゃないよ」
彼女の心意気は、遥を微笑させた。
「うん、そうだね。助かったよ」
「はぁ……疲れた。こんなハードな仕事聞いてねえぞ」
すると、膝に置いていた手に小さな温もりが重なった。
顔を上げると、泣き腫らした顔をくしゃりとさせた少女がいた。
「おねーちゃん……ありがとう…」
たどたどしい言葉に、茉尋は歯を見せて笑った。
「どういたしまして」
どうしたいかは自分自身が決めればいい。
勇気を持って決断した少女のように、これからもそうしていけばいい。
茉尋の初仕事は、散々な形で幕を閉じた。
✳︎
翌日、茉尋は遥と共にマッドブレイン保護委員会の幼少部門の施設を訪れた。
二番街の教会の裏に構えるここ鈴見児童保護施設は、マッドブレイン専門の施設とし、十一人の幼児から小学生までの児童らがそこで暮らしていた。
「災難だったわね。奴ら、東南アジアを中心に活動してた人身売買グループよ。これまでに売られた子供は海外支部の捜査局に捜索させて保護する予定だけど、なかなか時間がかかりそうよ」
白石恵那は庭で同胞と駆け回る子供達を眺めながら溜め息を吐いた。
彼女はマッドブレイン捜査局の捜査官で、昨日の事件は警察から彼女らへ引き渡された。
「いつもながらご苦労様。あの子もここを受け入れてくれて、何よりだよ」
遥は恵那を労わりつつも、礼を言った。
「あなたが保護したあの子は森川日和。九歳。あの子の両親は女の子じゃなくて男の子が欲しかった。あの子を手放した理由はそんな所よ」
「マッドブレインである以前の、大人のワガママだね」
「人間には色んな奴らがいるもんよ。そんなのは警察にどうにかしてもらうとして、私は私の役割を果たすとするわ。さてと」
恵那は茉尋の顔を覗き込み、微笑んだ。
「男所帯で何かと不満もあるでしょう。何かあったらいつでも相談しなさいね」
「ありがとうございます」
恵那の言い草に遥は苦笑しながら施設の門扉へ向かう彼女を見送った。
その時、彼女のパンツスーツのポケットからライターが落ち、恵那はそれに気付かず歩いていく。
茉尋はすかさずライターを拾い、門扉を開ける彼女へ駆け寄った。
「恵那さん!ライター落としましたよ!」
「あら。ありがとう」
茉尋の手からライターを受け取った時、恵那の指が茉尋の指に軽く触れた。
「……?」
恵那はライターを受け取ったまま暫し動きを止めた。
そんな彼女の姿に茉尋は小首を傾げた。
「恵那さん?」
「え、あぁ。ありがとう。それじゃあ、またね」
門扉を通り抜け、黒の覆面パトカーに乗り込む彼女を茉尋は見送った。
「どうかしたのかい?」
「分かんない。てか恵那さん、煙草吸うんだな」
「恵那はニコチン切れると怖いんだよ〜」
脅かす遥は、ニコチンが切れた彼女に身に覚えがあるようだ。
すると二人の元へ、ここの施設長であり幼少部門長の鈴見楓が森川日和を連れてやって来た。
昨日とはすっかり見違えて小綺麗になった日和は、淡いブルーのワンピース姿で二人の前に現れた。
「坂城君、お疲れ様」
「楓さんこそ。受け入れ感謝します」
「何言ってるの。この子がこの歳で第二の人生を送ると決めたのよ。応援しない訳にはいかないわ」
穏やかに笑う楓は日和の背中にそっと手を置いた。
「お姉ちゃんに話があるんでしょ?」
「え、あたし?」
日和は一歩前に出て、茉尋を見上げた。
「お姉ちゃん、私、これからも自分の事は自分で決められる。だから大丈夫だよ」
彼女の笑顔に、茉尋も微笑交じりに頷いた。
「頑張れよ。あたしも頑張るから」
「うん!」
子供達が楽しそうに庭を駆け回っている。
彼らの笑い声は、彼女にきっと幸せをもたらしてくれると信じて、茉尋は施設を後にした。
マッドブレイン−血統書付主−