礼子へ

 この家を建てる時、この部屋は4畳半の納戸になる予定だったが、留守勝ちの僕の物を入れる為の“書斎”と言う名前の物置になった。財産としては何の価値も無いが、本、釣具、カメラそんな雑多な物を入れる部屋になった。
その日、この部屋でダンボールの箱に入った古い手紙の束を見つけた。



圭一さんへ
 明けましておめでとうございます。そちらのお正月はどんな様子なのでしょうか。実家で茜と一緒にお正月を過ごします。おじいちゃん達が二人して甘やかすので大変です。別便でお餅などを少しお送りしました。砂漠なんて想像もつきませんがお体を大事にして下さい。茜と二人で無事の帰国をお待ちしています……

 この手紙をもらったのは昭和62年の正月。前年の秋に生まれた長女の茜と礼子を日本に残して単身で初めての海外、中近東勤務の始まった年、アラビアンナイトの土地に僕はいた。中近東なんて言い方はヨーロッパの言葉で、日本からは大遠西なのを思い知らされた。
 カーリウと呼ばれるコーランの朗誦、読むより詠むと言いたくなる独特のイントネーション、まるで雅楽の様に聞こえる。湿度が低く日陰では意外な程過ごし易いが、汗をかいた事を感じられないので、水を取り続けないと僅かな時間でも脱水症状で目眩がしてくる。2回ほど点滴のお世話になった。“地図に仕事を残す”この仕事を選んだ理由だった。食事はトマトで煮た豆と羊の肉と平べったいパンが続く。日本食が恋しくなったら寿司と蕎麦は700km、ラーメンは1500km離れた街まで行けば食える。風習や言葉の違いにも大いに戸惑ったが、まだ若かった僕には大いに笑えた事もあった。ある日、事務所で同期入社のM君に“ウッス”と挨拶した途端、所長に頭を叩かれた。現地では女性の下の部分を指すスラング。またある日、サンドバギーでイギリス人が来た。うちでもバギーが欲しいですねと行った途端、また所長に叩かれた。バギーとは売春婦の事だそうだ、だからあの様なタイプも含めてジープと言えと。しかし、何より一番可哀想だったのは、薩摩示現流のA君だろう。学生時代はインカレにも出場し、砂漠に木刀を持ち込むほどの熱血剣士だが、所長は現地の監督から“あの男は変態なのか”と真剣に聞かれたそうだ。何でもあの“キエーイ”と言う鋭い気合の声は、現地人の耳に“処女”と聞こえたようであった。まあ、朝から処女と連呼しながら棒を振っている男がいたら確かに変態としか思えないが。
 それから残念な事は、同期のM君が“インシャラー”にやられて帰国して行った。国立1期校卒業、何事にも真剣で生真面目で頭の回転も速かったが、真面目なだけに馴染めなかった様だ。本当の事を言って帰国させると自殺の恐れがあると、現地情報の連絡と称して適当に5インチフロッピーとファイルを詰めたアタッシェケースを持たせ、僕が飛行場まで送った。これで事務所の日本人スタッフは、所長の他に僕とA君だけになった。“インシャラー”に慣れるには、僕のように適当な性格の方が適していると所長に褒められたが、全く嬉しくない。

 何より正月は、僕たちの出逢った季節。
 昭和51年の正月に僕達は出逢った。僕のバイトする釣具店、この街で一番初めにルアーを扱ったことを自慢する店主の店。口癖の様に“俺は、開高健より先にルアー釣りを始めたんだ”と繰返す店主、銀鱗堂は僕のもう一つの学校だった。ある日、この店にふさわしくない客が現れた。長い髪、黒目がちの瞳、“美少女”と言うより“愛らしい”そんな少女だった。伯父さんの誕生日のプレゼント用と言ってたっけ。礼子は中学3年、僕は高校1年だった。
 昭和53年の初詣。元旦の華やかな街、10時にパール楽器店の角で待ち合わせ。滔々と流れる川の様な人の波、“圭一さん”と声を掛けられ、振向くとそこには和服姿の礼子がいた。初めて見る和服姿、月並みな表現だけど“惚れなおす”と言う言葉が合う。小春日和を思わせる暖かな日差しの武森神社の参道は、玉砂利を踏む音、人々のざわめきでにぎやかだった。おみくじを引き、絵馬を買い奉納する。僕は絵馬に“来年も礼子と一緒に”と書いた。満員の映画館、夕方まで一緒に過ごして家まで送る。門の潜り戸を抜け玄関までの短い距離、礼子が振り返った。“おやすみなさい”そう言って僕たちの唇が触れた。それから7年間“おやすみなさい”が繰返された。
 そして昭和64年の1月6日、長男の康隆が生まれた。その直後に世は平成となったが、礼子の親類の方が自分と同じで珍しいとお祝いを持って来てくれた。聞けば6日間だけの昭和元年の生まれとの事、7日間だけの昭和64年生まれと2人の並んだ写真を撮った。



圭一さんへ
 富士見公園の桜が綻び始めました。そちらは暑いでしょうが、お変わりありませんか。少しは休めているのでしょうか。結婚記念日のお花をありがとうございます。あんなに大きくてびっくり。玄関とリビングとキッチンに飾りました。家の中がまるでお花畑のようにいい香りで一杯です。娘たちにからかわれてしまって大変、でもありがとうございました……

 この手紙をもらったのは平成15年の春。この年、僕はアフリカの街にいた。タバコの箱を4つ合わせたほどの大きな蛾が毎日のように網戸に来る。物珍しさから写真を撮って礼子に送ったが、“こんな写真は要らない”と怒られてしまった。食用の蛾の幼虫の塩漬け缶詰を送ったら離婚されてたかもしれない。送らないで良かったと心から思った。お詫び代わりの花は効果があったようだ。

 春は僕たちが結婚した季節。
 昭和60年の1月、僕の滋賀への転勤の話が急に決まり、その年の3月に大急ぎで式を挙げた。悪友の牛山夫妻から“できちゃった? 付き合って長いもんね”と電話が来たのを思い出す。
 車で東名から名神と高速道路を走り大津の街に着く。満開の桜。全く知らない土地で、2人だけでままごと遊びの様な生活が始まった。スーパーで見た事もない食材に驚いたり、同じインスタント食品でも地元で買うものと味が違っているのに驚いたりと毎日が驚きと感動でいっぱいだった。休日には、近江八景を一日で回ったり、山中を超えて銀閣寺へ行き哲学の小路を二人で歩いたり、鯖街道を福井まで走ったり、まるで路面電車のように店の軒先をかすめて道路を走る電車で何回も京都にも行った。京都人の“滋賀作”と言う言葉を初めて知った、これに対して“琵琶湖に小便するぞ”、まるで掛け合い漫才の様な会話、でも琵琶湖が京都の水源だと知った。初夏には、窓の近くにホコリのようにたまった羽虫、大家さんに害虫駆除をお願いしたら“琵琶湖虫”といわれる羽虫だと一笑に付された。関東出身と言うと、こぞって鮒寿司を出された。噂に聞くほどの違和感はなかった、酒の肴には旨い。しかし、勤務した期間中、誰一人として“近江牛”を出してくれる人はいなかった。
 やがて妊娠、そして出産の時は礼子を実家にお願いした。それから長い間礼子を実家で暮らさせた。今でも申し訳なく思っている。
 それと、滋賀勤務の想い出は上の娘の名前。秋の比叡山に沈む夕日が琵琶湖を染める色を見て“茜”と命名した。茜が小学校の時、名前の由来を調べろと言う宿題が出て、あの日撮った写真を持たせたら花丸を貰って帰った来た事を思い出す。人の心を穏やかにさせるあの柔らかい茜色、諍い事と無縁に、たおやかな娘にと幸を願った。



 圭一さんへ
 電話を頂いて安心しました。テレビではお祭のように言ってましたが、ずいぶん違うんですね。でも無事で良かったです。今月はお帰りになるとのことですが、子供達が夏休みの旅行を楽しみにしています……

 この手紙をもらったのは平成9年の夏。一番下の桜が小学校に上がった年。
 その年、僕は香港の事務所にいた。本当だったら6月中に日本に引き上げる予定だったのだが、取引相手がカナダへ出国してしまい代理人の弁護士と話をするも埒が明かない。そうこうしている内に7月になった。
 7月1日の朝、中国の旗を立てた装甲車やトラックが一斉に香港市内になだれ込んで来る、啓徳空港も銃を持った中国の兵隊であふれて、亡国とはこう言う事かと思う。祖国と言う言葉は、国の外から見ないと解らないのかも知れない。近藤真彦のMade in Japanを思い出す。
夕方無事にマカオに到着し、礼子に電話した。結婚してからずっと心配ばかり掛けて、本当に申し訳なく思う。

 昭和52年の夏、僕達は二人だけで出掛けるようになった。
その日は図書館で逢う約束をしていたが、約束の時間を過ぎても礼子は現われなかった。時間を間違えたかと時計を見れば合っている。早く入らないと席がなくなってしまう、とりあえず入口から見やすい席を2人分確保してノートを広げる。何も手につかない。頭の中にはネガティブな思いが充満する。フラれた?すっぽかされた?結局昼まで待っても現れなかった。夜になったら電話してみよう、そう考えて図書館を後にした。
 17時、18時になり、19時になった。未練がましい、もしかしたら病気、事故、やっぱりフラれた、イライラがつのる。ダイヤルを廻す、ジーッとダイヤルの戻る時間にも神経がささくれ立つ。
「いつも夜分申し訳ありません。牧野ですが…」
「牧野君? ごめんなさい。実は礼子、夕べ盲腸で入院したの」
 汗が噴き出す。良かった、フラれたんじゃない。今日手術だったと聞いた。入院先を聞く、明後日には面会出来ると聞いた。
 翌日、1日が長い。問題集は進まない、銀鱗堂に時間潰しに行き、店長とダベっても何か上の空。佐久間さんが入院した事を話すと奥さんにお見舞いのことを聞かれた。正直、全く考えてなかった。
「お花なんて良いかもよ。お花屋さんでお見舞い用って言えば作ってくれるから。」
 見舞いに行く日、初めて花屋で花を買う。こんなに照れくさいとは思わなかった。病院の受付で病室を確認して、花に注目されている様で落ち着かない。勢いで病室まで来たけどノックする度胸がない。病室が分からないふりをして廊下をうろつく。さぞ、不審人物に見えたろう。看護婦さんがそんな様子を見かねたらしく連れて行ってくれた。カーテンで仕切られたベッドでは、いつもより青ざめたように見えた。あの瞳が力を失ったような、儚げな顔。
「佐久間さん、大丈夫?」
「ごめんなさい…」
 涙ぐんでいる。こんな至近距離で女の子の涙をはじめて見た。今でもどうしてそんな事をしたかわからないが、枕元のティッシュペーパーをつかみ出すと礼子の目に当てていた。無意識に僕は、礼子の髪を撫でる。その時、何かの気配を感じた。見られてる、病室の中からの好奇の視線、そうだここは病室だ、他の人もいる、あわてて僕は離れる。会話が続かない。明日また来ると言って僕は病室を離れた。まるで逃げるように。
「あの、牧野さん。」声を落として「カーテン、閉めていって下さい。」
 翌日も面会時間のはるか前に着いてロビーで時間をつぶす。エレベーターで病室に向かう。やはり病室に入るのは気が引ける。今日は看護婦さんも見当たらない。意を決して病室に入る。周りの視線が気になる。どんな風に写っているんだろう。礼子のベッドの通路側のカーテンが半分空いている。カーテンをノックする。
「はい」
 聞き覚えのある女性の声、カーテンを覗き込む。
「牧野と申します。お見舞いに伺いました。」
「礼子の母です。昨日はきれいなお花、ありがとうございます。」
 フルバンクさせた単車のフロントが流れた時のように心臓が締め付けられる。それから礼子のお母さんを含めてちょっとの間雑談をした。口が思うように開かない、言いたい事が言えない。宿題の話が出た。“じゃあここでやっちゃう?問題集持って来てもらって”思えばサルでも分かる下心丸出し、ここへ毎日来るための言い訳。
「すみません。礼子が御迷惑をお掛けします。」
もしかして、明日も来ていい?
 翌日から二人の勉強会が始まった。僕は意図してベットに腰掛けて勉強をした。礼子は拒まなかった。真横に礼子がいる、僕は礼子が好きだ、大好きだ。
「きやぁ~」
 振り向いた僕の目に二人の女の子が映った。
「やだ~ぁ礼子、お邪魔しちゃったぁ? 二人でお勉強? いいな~! え~宿題もうそんなに進んでるの~? あとで見せて~」
 病室が一気に華やいだ…いや…騒々しくなった。この二人見覚えが…
「あ、そうだ。あたし倉田夏美、それでこっちが山崎由子ちゃん、え~と…」
「牧野です。」
「思い出した。本屋さんでセントバーナードみたいな人と一緒にいた人でしょ。」
 しばらくして二人が帰るとまた病室は静かになった。
 なんとなく病室に居辛くなって僕達は二人で病院の屋上に行った。ビルの向こうに入道雲が広がる。日差しに思わず目を細める。
「牧野さん、ご迷惑じゃないですか?」
「好きでやってるんだから、僕は…佐久間さんが好きだ。だから勝手に来てるだけだから。」
 会話が続かない、それから二人とも無言で病室に戻り、やっとの思いで口を開いた“明日またね”。
 翌日も面会時間が始まると同時に病室を訪ねた、入る時に奥歯を噛み締めて、どんな顔をして行ったらいいのか分からない、でも、会いたい。拍子抜けするほどいつもの礼子がそこにいた。



圭一さんへ
 テレビでは毎日戦争のことばかりです。どうか無事に帰ってきて下さい。それだけが私の願いです。圭一さんのご両親も私の父母も、もちろん私も茜も康隆も桜も皆、圭一さんの無事を心からお祈りしています。牛山さん達も心配しています。同封したお守りは圭一さんのおじい様が昔に戦地で使っていたものだそうです。無茶は決してしないで下さい。無事の帰国だけを心からお祈りします。明日は子供達と武森神社にお参りに行ってまいります……

 この手紙が着いたのは平成2年の9月、配送不能のスタンプがベタベタと押され日本に送り返されてきた。
この年は、2度目の中近東勤務の年。ゴールデンウィーク明けに現地入りしてから3ヶ月も経たない8月2日、イラクのクエート進攻が始まった。
 帰国命令の出た日、事務所のジープを運転して空港に向かう。車内で所長から各人に3万ドル近い現金が配られ、“途中ではぐれたら、どんなルートでもいいから日本に向かえ”“領収書は要らない、金で命を買え”と。空港でジープを乗り捨て、パスポートチェックでは10ドル札を挟んで渡す。所長は、ローカル航空会社の予約カウンターで予約してあると言い張り、予約帖を奪い取り100ドル札を挟んで渡し、”よく見ろ、ここに5人予約してあると書いてあるだろう“といって強引にアンカラまでの航空券を取り、警備員のポケットに50ドルをねじ込んでエプロンまでガードさせ、飛ぶのも疑わしい旅客機に乗る。
 テヘラン経由でアンカラに飛ぶ予定だったが、カームンと言うローカル空港へ緊急着陸して足止めを食う。国際電話も通じない、その夜はブリーフケースを枕にロビーの床に転がる。手に入る食い物はペプシコーラだけ。何でこんなところで足止めをとイライラがつのって来る。寝付ける訳がない。あせりと不安で発狂しそうなる。
 2日目の朝は、冷え込みで目が覚める。警備員や空港職員が出てくると袖の下をばら撒き、手当たり次第に状況を聞くが、“インシャラー”の言葉しか返ってこない、何も分からない事だけは分かった。その日の夕方、やる事もないので現地人を真似て礼拝をしてみる。こうなればどこの神様でもいい、日本に帰らせてくれ。空港の職員らしき人に声を掛けられる。
「日本人、お前はムスリムか?」
「そうだ(今だけは)」
「ムスリムの日本人もいるのか?」
「寺院もある、清浄な食い物も買える、知らないのか?」
 海外勤務で鍛えられたのは、語学や、ましてや国際感覚などと言う美辞麗句ではなく“ハッタリ”だった。
 小額紙幣が心細くなってきた3日目の朝、空港の職員が昼にアンカラ行きの飛行機が来ると教えてくれる。航空券の予約を頼む、コーランの【食卓の章】を開き100ドル札を挟む、【汝信徒よ、一度取り決めた契約は全て必ず果たせ】で始まる章。一瞥の後、紙幣が抜かれたコーランが返される。航空券は高かったが背に腹は代えられない、5人の席を予約する。その日の夕方、紙飛行機よりは、幾らかマシな程度のプロペラ機でアンカラへ向かう。
 アンカラでは手分けして日本行きの便を探す。F君のバックに付けた日の丸のパッチのお陰で何人もの人に声を掛けてもらえた。
「お前は日本人か? どうした?」
「ベン ジャポヌム(日本人だ)、ドンメック ジャポン(日本に帰る)、クエート、戦争、探す、飛行機」
 単語を羅列しただけだったが意味は通じたようで、見知らぬ人のお陰で1時間半後の便が見つかる、ローマでトランジットしてパリへ、翌朝北回りで日本へ。道が見つかった、膝も手も震える、これで帰れる。そう思った途端ケバブの匂いが鼻につく、久しぶりの食い物の匂い。まるで飢餓難民の様にケバブを頬張り、甘くないカルピスの様なアイランで流し込む。所長の声がなかったら乗り遅れたかもしれない。チェックイン開始の時間だ、Fは、食い過ぎてトイレで吐いていた。
 夕闇に包まれたローマのチャンピーノ空港に着いた時は、煌々と点いた電灯に照らされた緑の木々を見て、安心感で腰が抜けてしばらく立ち上がれなかった。息つく間も無くトランジットでパリへ。夜のオルリー空港に到着した時は殆ど何も覚えていない。バカンス時期に予約もなく訪れたホテル。さぞ、不審な5人だったろう。汚れてヒゲも伸び放題、Fに至ってはスーツに安全靴。所長が5千ドルのディポジットでフロントを黙らせ部屋を取る。ロビーから礼子に電話する。時差の事は思い付きもしなかった。後でN君に礼子、礼子と選挙カーのように連呼していたと冷やかされた。
 ここまでの道程をペプシコーラとアンカラでのケバブだけで過ごした僕達は、プールボアール(チップ)に物を言わせて、冷えたシャンパンとアンドゥイユ、ソシソン・セック、フリット、フロマージュ等等、思い付くままの軽食を部屋に運ばせた。シャンパンをラッパ飲みし、貪り喰らい、しかし言葉少なに、そして泥のように眠った。
 翌朝、モーニングコールに叩き起こされ、二日酔い気味の頭を土産にシャルル・ド・ゴール空港を一番に出る北周りのJALに乗る。晴れてはいたが、カイユボットの描く空の様な僅かに灰色の混じったパリの空を後にする。アンカレッジでトランスファーのため機外へ出る。直前まで40度を越える気候にいたから当然だろうが肌寒い。やっと土産物屋を見る余裕が出来た。クエート土産がスモークサーモンじゃ格好悪いと笑い声も出る。所長が“墓場まで持って行く秘密だ”と言って全員でファーストクラスに席を変える。機内で出された蕎麦になぜか涙がにじむ、周りを見るとFとSも涙を浮かべている。
 成田からは会社のマイクロバスで本社へ。舗装された道路、電車、町並み、並木、日本がここにある。まるで子供のように窓の外の景色を眺め続けた。会社に着くと土着民(国内事業部)は案外冷たいが、ドサ周り(国際事業部)の連中が拍手で迎えてくれる。各々持ち出した書類、フロッピー、そして配られた現金が回収される。報告の後、3度の戦乱を潜り抜けた国際事業本部長から“これでやっと一人前だな”と余り嬉しくない褒められ方をされ、10万円の仮払いと3日の休暇をもらい会社から礼子に電話し、家へ向かう。
 駅では、あの瞳を真っ赤にした礼子が改札口にいた。“ただいま”と言った途端、ワサビの効きすぎた刺身を口に入れた様に鼻の奥がしびれ、視界が歪んで何も言えなくなる。周囲の奇異の目を無視して手を取り礼子の実家へ向かう。
 その日の夕食は近所の寿司屋の座敷で帰国祝いをしてもらった。両家がこんなに集まって食事をするのは結婚式以来かも知れない。板前さんがお祝いだと言って鯛の姿作りを出してくれる。旨い。甘酸っぱい寿司の香り、ワサビの香り、ビールの喉越し、時折触れる礼子の手。つい2日前まではコーラだけで3日を過ごしたのが嘘のようだ。何かの本で読んだ“天上の美味”と言う言葉が思い出される。途中で友人の牛山夫妻がお祝いに来てくれた。
 礼子の家に帰り風呂から上がると茜と康隆は、祖父母の部屋で寝ていた。僕も礼子の部屋で横になり、天井を見つめる。帰って来た実感がわく。礼子が部屋に来る。
「心配掛けてごめん」
「お帰りなさい」
 礼子の肩が震えている、あの花火の日の夜のように。礼子の声、ぬくもり、柔らかさ、香り。礼子は僕にとって日本そのものだ。

 昭和54年の夏、その年も一緒に富士見公園の花火を見に行った。浴衣姿の礼子、長い髪を上げた礼子が花火よりまぶしかった。
 花火が終わり礼子の家へ向かう。旭町の交差点を右に曲がれば近道だが、いつもは避けていた道。その横の通りは通称恋人通り、何組かの浴衣の女性を連れたカップルが足を向ける。信号待ち。
「…浴衣…自分で着られる…」
 つないだ礼子の手に力が入る。理解出来ない程、子供ではなかった。でも、後の事を考えられる程、大人ではなかった。僕は礼子の手を引き右へ曲がり、ネオンのアーチをくぐった。
 部屋に入ると抱きしめ唇を重ねる。浴衣に帯以外の紐が有る事を初めて知った。足元に浴衣が落ちる。礼子の肩が震えているのに気がつく。唇を押し当てる。いつもより長く強く。胸に置いた手に伝わるぬくもり、柔らかさ、弾力、何一つ隔てるものがない抱擁、時間の感覚が消えた。
 突然の電話の音、電話を取ると“お時間です、お泊りになさいますか”時計を見る。花火が終わってから3時間近く過ぎている。慌てて二人で服を着る。背を向けてスルスルと帯が結ばれてゆくのに見とれてしまった。ホテルを後にすると人気のなくなったアーケードにカラカラと小走りの下駄の音が木霊する。なんと言って言訳しよう、そんな考えが浮かぶが良い方法は思いつかない。礼子の家の手前で誰かを追い抜いた。“礼子、圭一君”僕達の名前が背中から呼ばれる。“こんな時間までどうしたの”答えられる筈がない。“まあいいわ。帰るんでしょ、一緒に帰ろう”無言で家へ向かう。くぐり戸を抜け、明かりの点いた玄関へ入る。心臓が破裂しそう、膝が震える。“ただいま。二人としゃべってたら遅くなっちゃった”陽子義姉さんに助けてもらった。30年以上経つが、いまだに頭が上がらない。



圭一さんへ
 本社勤務を心よりお祝い申し上げます。何より帰国を、いいえ帰宅を心からお待ちしています。成田にはみんなで迎えに行きますから、到着時間が判りましたらお知らせ下さい。
あなたの帰宅を心からお待ちしています……

 この手紙をもらったのは平成16年の11月。本社勤務の辞令を受けた。長い間家を空ける事が多かった、子供が生まれる時に家にいた事がなかった、君の実家にはずっと迷惑の掛け通しだった、父親らしい事もあまりしてやれなかった、それでも君達の事を思っていたつもりだ。いや、もしかすると帰れる距離ではないのを思い出したくなくて、忙しいフリをしていたのかもしれない。でも礼子と、茜と、康隆と、桜と暮らせる、嬉しくない訳がない。

 11月は礼子の誕生日、そして僕がプロポーズした季節。
 昭和59年、その日、僕達は富士見公園の近くのホテルにあるレストランにいた。通された席は、窓際の夜景が見える席、それからは他愛の無い話と食事、マナーブックどおりに食べられる人は大勢いるが、本当においしそうに食べる。
「おなか一杯。」
 食器が下げられ、予約の時にお願いしてあったとおり、デザートのメニューが運ばれてきた。
「じゃあ、デザートはいらない?」
「それは別腹!」
 デザートもあらかた片付いた頃僕は話を切り出した、誕生日は理由に過ぎない本当の本題を。
「夜景きれいだよね。」
「そうね。」
「あのさ、明かりがもう少し増えたらもっときれいになると思わない? それで…二人で明かり増やさないか…」
「え?!」
 イスから立ち上がる、礼子に近づく。
「僕と結婚して下さい」
 左手で礼子の左手をつかむと右手でポケットを探る。つかみ出すように指輪のケースを取り出して蓋を開ける。精一杯格好を付けたつもりだったが、自分の手が震えているのに気が付いた。そして指輪をつまんだ瞬間デザート皿に指輪は落ちていった。あわてて摘み上げるとそのまま取り上げ、薬指に指輪をつけた。座ったままの礼子の両手が僕のスーツをつかんだ。次の瞬間、店中から響く拍手・口笛に僕はパニックになる。蝶ネクタイ姿の店の人が近づいてくる。しまった、テンパッていて演奏中なのを忘れていた。謝るしかないと覚悟を決め、“お騒がせして申しわ…”そこまで言いかけた時に覆い被せる様に店の方の声が響く。
「おめでとうございます。これは当店からのお祝いの気持ちです。」
 ピアノ演奏が始まる。イントロがアレンジされていたから直ぐには気が付かなかったけれど、ワーグナーの婚礼の合唱、スカートにぽつぽつと落ちる水滴。僕は、座ったまま俯く礼子の頭を抱きしめて、ふと気が付く…返事は…その時に初めて聞くかすれた細い声が、“…はい…”。
 やがて演奏が終わり、また拍手。恥ずかしいと言う日本語の意味をよく理解できた。演奏は終わったがなんとも落ち着かない。礼子が上目遣いでこちらを見る。
 会計をお願いして席を立つ。支払いをしていると先ほどの店の方がやって来られたので、もう一度お詫びをと思い「お騒がせして申し訳ありません。」
「いえいえ、滅相もございません。それからこちらは当店からのサービスとさせていただきます。」
 忘れていた、誕生日用にバラとかすみ草をメインにお任せで花束を頼んでいた事を。ウエイトレスさんが小声で“かっこよかったですよ”と言って花束を渡してくれる。受け取った花束を誕生日おめでとうと言いながら礼子に渡す。
 店を出てエレベーターに向かう。エレベーターに乗り、二人きりになると高校生の頃、初めて二人で出かけた水族館を思い出した。でも今日はあの時よりドキドキしている自分がいる。エレベーターを降り、ロビーをまっすぐ横切り、車寄せに向かう。タクシーに乗ると、車が静かに車寄せを離れる。相変わらず俯き加減でいる。ハンカチを出し礼子の左手を取り、“ごめん。クリーム付きっぱなしだった”と言って指輪を拭こうとした時、不意に礼子が左手を引いた。無言のままの二人を乗せたタクシーは走り続ける。
 車を降り、礼子の家へと向かう。左腕にしがみつくようにしている。“愛おしい”そんな単語が浮かんでくる。くぐり戸を抜け玄関先に入る。僕の右手が髪にそれから腰に下りる、顔が上がる、いつもの様に唇が触れる…はずだった…が不意に礼子が玄関に向かい歩き出す。
「ただいま」
 声がまるで機械のように抑揚を失っている。
 お休みと言ってなぜか僕は逃げるように家へ向かった。家についても眠れない。リビングのサイドボードからウイスキーを取り出し、オールドファッションドグラスに注ぎストレートのまま喉に落とす。3杯目を飲んでから自分の部屋のベットにひっくり返って眠った。

 翌朝、母の声で目が覚めかけたが、しばらくベッドの中で夢と覚醒の中間にいた。不意に唇に何かが触れた感触、目を開けると礼子がいた。“夕べは、お休みなさい忘れちゃった”そういって僕に左手を見せる、指輪があった。初めて“おはよう”と言って唇が触れた。その日は、晩秋の抜けるような青空だった。



お父さん、お母さん。今日までありがとうございました。私達は今日から…

 この手紙が読み上げられたのは平成24年の5月、一番下の桜の結婚式だった。
 夢があると小さなデザイン事務所に就職していたが、ある土曜日の午後、一回り近く年上の男と一緒に家に来たのは忘れられない。小さい頃は体が弱く、すぐ熱を出した。何回夜中に救急病院へ行った事だろう。
 式も披露宴も無事に終わり、自宅に戻り礼服のネクタイを緩める。二人で暮らし始めた頃のように静かな家。そこには僕の妻である礼子がいる。ガールフレンドから恋人へ、恋人から妻へ、そして母へ、いつか祖母へと時間は流れて行く。
 お互い髪に白いものも増えた。でも、僕の想いは出逢ったあの頃から変らない。
 心からありがとう。
 僕の妻、礼子へ。

礼子へ

礼子へ

追想 そして想い

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-11

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著作権法内での利用のみを許可します。

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