或る小説
或る小説
かつての私の日課は、仕事終わりにこの喫茶店でコーヒーを飲みながら或る本を読むことだった。
特にこれといった趣味のない私にとっては、至福の時間だった。
私は、本が好きというわけではなかったが、もう何度も読んで少し傷んでいるその本は特別だった。
その本は、仕事で手に入れた本だった。
私の仕事は、人を殺すことだった。
私は「死」だけを信じて育った。
劣悪な環境のスラムに生まれ、信用出来る者は誰もいない。
親は子を売り、友も女も平気で裏切る。
「正義」とは汚職者達がかざすモノ、「薬」とは廃人を作るためのモノ、そして「人間」とは… ゴミのように死ぬために生まれたモノ。
何も信じず育った私が唯一… 子供の頃から信頼できた真実は、「殺せば人は死ぬ」。
だから私は、人を殺す道を選んだ。
それは私にとって、天職だった。
力が強い者は、知識で殺す。
頭が良い者は、力と技で殺す。
両方とも強い者は、人間的魅力で殺す。
私から逃れるには、私を上回る才能が必要だった。しかし、そんな者にまだ出会えたことがなかった。数えて千人を殺す頃には… 「死神」という通り名が私を飾っていた。
ある時、私はある家を仕事で訪ねていた。
書斎にいたその男は、私を見て全てを悟ったように怯え、次の瞬間、彼の腹部からナイフの柄が突き出ていた。
壁一面が本で埋められた書斎だった。
ナイフの先から滲み出る朱い血を確認した私は、依頼者に電話をかけた。「全て終わった。」という報告をするために。
今、私が殺した男は何かを抱え込むように息絶えていた。
それは、或る本だった。
その本は、ある青年の話だった。
彼は成長の過程で多くの人々と出会い、話をしていた。
警察官、教師、商人そして、殺し屋。
一見、普通の日常を書き示したもののように見えるその本だが、そのすべての言葉が、私を興奮させた。
しかしその本は最後の数ページが破られていた。
私は、ここに書かれているはずの言葉が無性に知りたくなった。
だから私は、思い切ってこの本の著者を訪ねた。
しかしその著者は教えてくれなかった。
そのかわりある言葉をくれた。
「そんなにこの後の文が知りたければ、自分で書けば良いではないか。本を書くと言うことは、人を書くことだ。わしはお前の過去なんざ全く知らんが、お前にはそれが出来ると思っている。」
この時、ある殺し屋は死に、ある小説家が生まれた。
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