夜明けが一番哀しい 新宿物語
夜明けが一番哀しい 新宿物語
(6)
ピンキーは店の入口の扉を開けたまま、小指を口の中に入れて指笛を鳴らした。
トン子が最初に気付いて、まるで予期しない事に遭遇したかのように、びっくりした顔をした。トン子はいつもする事が大げさだった。
「あら、もう行って来たの?」
ピンキーは黙ったまま手招きして、早く来い、と促がした。
「ピンキーが帰って来たよ」
トン子が仲間達に云った。
安子とノッポが顔を離して入口のピンキーを見た。
ノッポの顔からは明らかな不満の表情が見て取れた。彼には、横浜なんてくだらない所へ行くよりは、ようやくその気になっている安子と寝る方がよかったのだ。
安子はそんなノッポを突き放して立ち上がると、ポシェットを肩に掛けなおした。
画伯は自分には関係ないかのように、透明なビニール袋に顔を突っ込んだままでいた。
「あんた、行かないの?」
トン子が画伯の背中をどやした。
画伯は気弱そうに困惑の表情を浮かべて立ち上がった。
おせっかい焼きのトン子は、今度はフー子のそばへ行って肩をゆすった。
フー子は眼を覚ますとわけが分からないように、しょぼくれた顔で前に掛かった長い髪の毛の間から周囲を見廻した。
「わたしたち、横浜へ船を見に行くのよ、あんたも行くんでしょう?」
千葉の家を出るたびに二、三千円の金をくすねて来るだけのトン子は、いつもピーピーだった。彼女はフー子に一番借りがあったが、返す当てなどなかった。コーラーやジュースを買うための百円、二百円の寸借が溜まりに溜まって相当な額になっていた。
トン子は五百円以上のまとまった金は借りなかった。百円、二百円の金なら踏み倒しても罪がないように思えるのだが、五百円以上の金額になると、なんとなく罪悪感を覚えてしまうのだ。フー子に借りた金が今までに幾らになっているのか、どことなくノー天気なトン子には計算出来なかった。
フー子はトン子に促されて、黙ったまま、長い髪をうるさそうに掻き揚げると立ち上がった。
フー子には何処となく陽炎のようにも思える透明な感じがあった。その存在の内側を誰もが苦もなく通り抜ける事が出来そうに思えるのだが、しかし、通り抜けたあとでも彼女は、依然として元のままの姿でそこに立っているように思えるのだった。
フー子は物事にこだわる事がまったくなかった。彼女にはあらゆる事が流れゆく水でしかないかのように見えた。彼女の存在が、多かれ少なかれ借金のある仲間達に重圧感をあたえる事はほとんどなかった。彼女が無造作にジーパンの尻ポケットからつかみ出す紙幣は、仲間達には単なる紙くずでしかないかのように見えるのだった。
フー子を最後に扉の外へ送り出すとトン子は室内の明かりを消した。
彼等の仲間内でのおしゃべりと共に、一番の世話焼きがトン子だった。上田さんが帰ったあとの店内の始末は、暗黙のうちにトン子の仕事としてゆだねられていた。彼女はなんとなく間抜けなお人好しに見える面とは裏腹に、細かい事にもよく気が付いた。そして、そんな事をしている時のトン子はむしろ嬉々として、生き返った魚のようにさえ見えた。
トン子が最後にシャッターを降ろして階段を上って行くと、深夜の路上にマーキュリーのクーガーが置いてあった。
「あんた、これ外車じゃないの !」
トン子は驚いて言った。
「文句なんか言わないで、さっさと乗れよ。ヤバいんだからよう」
ピンキーはいつでも不機嫌で怒っているみたいだった。
「誰が運転するの? ピンキーじゃ酔っ払いだから危ないわよ」
トン子はなおも、お節介焼きらしく口を出した。
「うるせえなあ、心配なら乗んなよ。おまえみたいな九官鳥は、ぺらぺらしゃべるだけで何も分かってねえんだから黙ってろよ」
ピンキーのいつも苛立っている事と、その毒舌には誰もが慣れっこになっていた。
「あんた運転しなよ」
安子がノッポに言った。
「やだよ、おれ。外車なんか運転した事ないよ」
ノッポは尻込みした。
ピンキーはさっさと運転席に乗り込むとドアを閉め、エンジンを掛けた。
みんなが慌ててツードアーの入り口へ廻った。
「誰と誰がうしろに乗るの?」
トン子が言った。
「うしろは四人だ」
ピンキーは言った。
「四人乗れるのかい?」
ノッポが気乗りのしない様子で言った。彼はまだ、安子と一緒の夜を過ごす事に未練を残しているようだった。
「トン子は太っているから前に乗りなよ。あたしたち四人ならなんとかなるわ。車が大きいから」
安子が言った。
安子、ノッポ、画伯、フー子の順でうしろに乗った。最後にトン子が乗ってドアを閉めた。ピンキーが一気に車を発進させて、彼等の深夜の旅が始まった。
横浜港への道順など誰も知らなかった。ピンキーの運転は噂にたがわぬ乱暴なものだった。深夜の路上に走る車の数は少ないとはいえ、ほとんど信号を無視して突っ走った。狭い道路ではジグザグ運転で先行する車を何台も追い抜いた。その度に後部席の連中は左右にゆすられ、体をぶっつけ合って悲鳴を上げた。
「あんたちょっと、もう少し静かに運転出来ないの?」
トン子が辟易して言った。
「おれ、気持ち悪いよ。胸がムカムカする」
画伯がげっそりこけた頬に、ほとんど血の気をなくした顔でうめいた。アンパンの袋も手放してしまっていた。
ピンキーは答えなかった。依然、百キロを超えるスピードで突っ走りながら、
「道を間違えたらしい」
と呟いた。
「えっ !」
ノッポが不快感をあらわに言った。
「ぐるぐる眼が廻りやがって、道がよく分かんねえや」
ピンキーが投げ遣りに言った。
「冗談じゃないよ。だからおれ、厭だって言ったんだよ」
ノッポは今にも泣き出しかねない声を出した。
「あんたが運転しないから悪いのよ」
安子かノッポに当たり散らした。
「だいたい、夜の夜中に横浜の港なんかへ行こうっていうのが悪いんだよ。そんな事言わなけりゃ、こんな事にはならなかったんだよ」
画伯が息絶え絶えに、力なく言った。
「だって、しょうがないでしょ。船を見たかったんだから」
トン子は泣き声でおろおろしながら言った。
「へッ ! ロマンチックなもんだ」
ノッポが悪意を込めて言った。
「ピンキー、車を止めてよ。間違った方向へいくら走ってもしょうがないでしょう」
トン子が涙声でピンキーに食って掛かった。
深夜の路上にけたたましいブレーキとタイヤのきしる音がして車が停まった。誰もが座席から放り出されて重なり合った。
「あんた、あたしたちを殺すつもり !」
安子が猛然と食って掛かった。
ピンキーはだが、その時にはもう、ハンドルにもたれてうつらうつらしていた。
みんなは改めて座席に座り直した。
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