爆睡戦隊

第一夢 ヒュプノスの覚醒

 薄暗い部屋の中で二人の青年が睨み合っている。
 ここはどうやら会議室らしい。長机が「口」の形に配置されており、パイプ椅子が整然と並んでいた。汚れたホワイトボードには色とりどりのマグネットが星の様にばらばらに張り付いている。
 それなりに掃除されている床。空っぽのゴミ箱。
 見る限り、二人の青年は此処で会議の類を行っている様子はない。
 一人は窓に寄りかかって腕組みをしているし、もう一人は其処から数歩離れた所で長机に腰掛け背を丸めている。そして二人とも、もうかなり前から一言も声を発していない。
 部屋の中がこれだけ静かならば、窓の外や廊下から何らかの音が聞こえてもいいはずだが、そういったものも聞こえない。大体がこの建物は人通りの少ないところにあったし、そうでなくともこの会議室は最上階にある。その上、この最上階の会議室そのものが常時使われるものではなかったために、同じフロアに人がいること自体が非常に珍しかった。だから、この部屋は大抵の場合、ひどくしんとしていた。
「お前」
 不意に、窓に背を預けていた青年が低く囁いた。
「本当に、自分のやっていることの意味が解っているのか」
 その声は非難の響きを含んでいた。
 それを察してか、もう一人の青年は暫く黙ったままでいた。丸まった背中が、まるで叱られて拗ねた子供のように見える。
「本当に、いいのか」
 窓際の青年は、少し口調を強めて再び問う。
「もう後戻りできないぞ。どっちに転んだって……」
「わかっている」
 遮るように、もう一人の青年がはっきりと言った。
 同時に彼は丸めていた背を伸ばし、真っ直ぐに窓際の青年を見つめる。
「俺がやっていることは、リスクが大きな賭けだ。だが……」
「それ以前に、サカモト、お前がやろうとしているのは裏切り行為だ。違うか」
 窓際の青年が忌々し気に吐き捨てる。
「今は裏切りかもしれないが……俺たちの目指すところを考えれば、必ずしも間違いじゃないかもしれない」
 サカモト、と呼ばれた青年は少しもたじろぐことなく相手を見据え、
「俺たちは何のために今まで頑張ってきたか、その目的を考えろ」
「綺麗事だな。チームで作り上げたものを、お前一人の勝手にできるか」
「お前も分からず屋だな、今のチームでこのプロジェクトが生かせるとでも思っているのか」
「『向こう』なら生かせるっていうのか。あそこがどんな所か知らんのか」
 初めはやっとお互いに届くような小さな声であったものが、次第にどちらも冷静さを欠いた大声になっていく。もし部屋の外を誰かが通りかかったとしたら、微かにでもこの口論を聞きとがめたかも知れない。
 だが、今日予定されていた会議は全て滞りなく終わった後だったし、追加で行われるような小さな会議のために、わざわざ最上階まで来るチームも居なかった。従って、彼らの間に諍いがあったことを知る者は一人も居なかった。
「なあ、わかってくれ、シングウ。俺たちは同じ夢のために頑張ってきただろ」
 サカモトは腰かけていた長机から立ち上がって言った。そのままゆっくりと相手の方に歩み寄る。
「俺たちの研究を有効に生かせるのは、ここじゃないんだよ」
「どうしても、そうなのか」
 近づいてくる相手を睨みながら、シングウは念を押した。
 サカモトは何も答えず、シングウのすぐ目の前までやってきた。身長の高いシングウから威嚇するように見下ろされても、サカモトは視線を逸らすことなく真っ直ぐに相手を見つめた。
 そして、口を開く。
「お前はわかってくれると思ったのに」
 シングウが何か言い返すより早く、サカモトの手が動いた。
 音もなく床に崩れ落ちた友を顧みることなく、彼は会議室を後にした。

 見るからに「平素からハンガーにも掛けずに丸めておいたのだろうな」と思えるような皺だらけのスーツには、追い討ちのように盛大な泥跳ねがまだら模様を作っていた。
 首に巻きつけただけのネクタイは曲がっている上に、どう贔屓目に見ても就職活動の場にしてくるべきではない色をしている。常識的に考えたなら購入の段階でそんなネクタイを選ばないだろうに……とサトルは妙に感心する。
 全くその男は珍妙な格好をしていた。
 全身を覆っているのはスーツであるというのに、足下は泥だらけの運動靴で肩に背負っているのは目も覚めるようなオレンジのリュックサックである。おまけに髪はぼさぼさで、黒とは程遠い色に染められている。上着の裾からはだらしなくシャツが出ているし、ズボンの片裾は軽く捲れていた。
 見たところサトルと同じくらいの年頃だろう、人懐こい犬を思わせる顔はまだ社会の荒波に揉まれたことの無い初々しさを漂わせている。きっと自分も同様に頼りなげな顔をして見えるのだろう…とサトルはその男をじっと見詰めていた。
「……おはようございます」
 黙って自分に注目する覚を見て、男は照れたような笑顔を浮かべた。
 短い廊下を大股で近づいてくると、サトルの腰掛けている壁沿いの長椅子に自分もどかっと腰掛ける。
その拍子に男の髪やリュックから細かい水飛沫が飛んできてサトルを直撃した。反射的に少し退けながら、サトルは納得する。彼のスーツの大々的な泥跳ね、ドロドロの運動靴、水飛沫…その意味するところ。
(外は、雨か)
 窓の無い建物というのは不快なものだ。外の天気も解らない上に、何だか閉じ込められてしまった気がする。
 自分のリクルートスーツに小さく出来た泥水の染みを気にしながら、サトルはちらりちらりと辺りを窺った。
 白い壁が幅一メートル程度の廊下を圧迫するように聳え立っている。右側の端は階段に続き、左側の端は陰気な灰色のドアにぶち当たる所までその壁は並び、床には薄汚れた黒のカーペットが敷かれていた。扉に向かって左手の壁沿いにずっと茶色い革張りの長椅子が設置されている。男とサトルが今座っているのがそれだ。
 廊下の突き当たりの陰気なドアには、不釣合いなくらい爽やかな青い文字が躍っていた。
「ヒュプノス・コーポレーション」
 不意に目に映っていたものを声に出して読み上げられ、サトルはびくっと身を竦ませる。
 振り返ると、あの珍妙な男がハンドタオルで髪を拭きながら笑ってこちらを見ていた。
「変な名前ですよね……ヒュプノスって何か知ってます?」
「い、いえ」
 突然話しかけられ戸惑うサトルに男は物知り顔で人差し指をピッと立てた。
「ヒュプノスってのはね、ギリシア神話の眠りの神です。夜の女神の子で、死の神タナトスの兄弟神らしいですよ」
「はあ……」
 曖昧に返事をする。特に知り合いでもない人にそんな薀蓄を語られても、どう返して良いのか解らなかった。
 だが同時に男の博識にも感心する。タナトスという名前は聞いた事があったが、ヒュプノスは初めてだった。それ以前に、ギリシア神話など今まであまり触れたことがない。そういう世界が好きな人ならともかく、普通に生活していて詳しくなれる分野でもないと思う。
 この男は何処でそんな事を学んだのだろう。
 そんな風に少しでも興味のあるような眼差しを向けられたのを敏感に察知したのだろうか。
「失礼ですが、お名前伺ってもいいですか?」
 唐突に男は質問してきた。
「……アカツキ サトルです」
 先刻から虚を突かれ放しだと内心呆れはしたが素直に答えると、男は「アカツキさん、ね」と小さく繰り返し、
「俺はマクラ タカシという者です」
 右手を差し出してきた。
 サトルは何となく其の手を握り返して「どうも」とか何とか口の中で呟く。何故此の男がこんなにもフレンドリーなのか解らなかったし、唯でさえ昔からある程度の過程を踏まないと友達の一人も作れない性分の自分にとって、こんな風に遠慮なくこちらの領域に踏み込まれたというのは、そうそう無い体験だった。
 何だか澱んだものが自分の中に蠢くのを感じ、早々と握手した手を引っ込める。
 口を閉ざしたサトルを、マクラと名乗った男が不思議そうに見ているのが解ったが、敢えて無視した。
(嫌だな……だから来たくなかったんだよ)
 心中で溜息をついた。
 何も好き好んでこんな薄暗いビルに朝からやってきている訳ではない。通っている大学の就職支援機関が、就職活動に取り掛かるのが遅い学生を心配して、親切にも詳細を教えてくれたのがここだったというだけだ。
 今日は所謂採用試験の日なのである。
 今は地方の一都市で勢力のあるだけの会社とは言え、このヒュプノス・コーポレーションは寝具販売から様々なセラピーまで手広くサービスを行っていることで近年メディアでも取り上げられるようになり、全国展開も難しくはないと囁かれている企業だ。特に人の眠りに関する研究では多大な成果を上げているらしく、各界のセレブや著名人などから寝具の注文を受けることもあるとかないとか。
 うさん臭さを感じないこともないのだが、とにかく当然地元ではここの社員であることはステイタスであり、毎年かなりの数の若者が就職試験に挑戦する。だがそれだけの企業だ、求人が多ければ多いほど頭のいい人間が占める割合も増える。大抵地元の国公立大学の学生が内定を掻っ攫ってしまい、それ以外の者はまるで宝くじの当たりを待つように内定通知が来る事を祈るばかりとなる。
 サトルの在籍する大学は地元でも余り名前を知られていないような得体の知れぬ新設の私立大学である。正直な所、こんな所を受けても通用する筈が無いと思っていた。サトルにここを勧めた大学の事務員ですら「まあ、他の会社を受ける練習だと思って」と口を滑らせたくらいだ。サトルも尤もな意見だと思ってその場は頷いた。
 ところが。
 一次試験を終えて二週間後、サトルはこうしてまた此処の試験を受けに来ている。倍率十倍、応募してきた者の殆どが地元の国公立の医学部や教育学部の人間だった。どう考えても一ミリの勝率さえ見出せない難関を、サトルは見事突破し二次に進んでいたのである。
 通知を受け取った時、信じられない気持ちとうんざりした気持ちが半々で混ざり合ってサトルの喉を締め上げた。
 一時の会場ではあまり好ましくないものを見た。大学名を名乗る度に場違いだとでも言いたげな目でこちらを見る者が何人か居たし、彼らも彼ら同士で牽制し合っていた。のんびりと適当に大学生活を送ってきたサトルは、あまりに張り詰めたその空気のお陰で胃の調子を悪くしたし、おまけに軽い人酔いもした。もう二度とあんな所はごめんだと思ったものである。
 だが、こうしてまた呼び出された。
 本当は辞退してしまおうとしていたのだが、思わぬ幸運に大学も家族も有頂天となり、大袈裟に騒がれて後に退けなくなってしまった。
 学校の名誉なんかはどうでもいいとしても、アカツキ家の長男としていつも苦労している両親の嬉しそうな顔を踏み躙ることなどできなかった。結局受けるだけ受けに行こうと己に言い聞かせ、痛む胃をさすりながら出てきたのである。
 そんな訳で、今日のサトルはできることなら放置して欲しい気分であった。
 たが神は彼に初めから試練を与えた。よかれと思ったにしろ違うにしろ、その神が眠りのヒュプノスであろうと死のタナトスであろうと、余計な事をしてくれたと面と向かって怒鳴ってやりたいくらいの気分だ。
(くそ……早く面接が始まればいいのに)
 それさえ済んでしまえばとっとと帰宅できる。
(早く始まれ……)
「あの、アカツキさんは」
 サトルの纏う「話しかけるな」と言いたげな空気がまるで読めていないのか、マクラがのんびりした声で問いを重ねてきた。
「……」
 できるだけ自然な雰囲気で時計を睨みつけながら、サトルは何事か考えているふりをした。マクラが悪い訳ではないが、面接が始まるまでは彼の話は無視する方向でいくことを決意する。できるだけ人との接触は避けたかった。
「寝坊とかする方ですか」
「……」
「俺は結構しますね。昔からどうにも起きられないんです」
「……」
「今朝も、起きたら予定より二時間も後でね。しかも雨降りだったんで、結構慌てましたね」
「……」
「でもアレですよね、最近の若い人って寝坊しがちな人が多くないですか。俺が言えたことじゃないんですけど」
「マクラさんはお話好きな方なんですね」
 返答をしていないにも拘らず喋り続けるマクラに、さすがに少し苛立ちを覚え、思わずそう言ってしまった。
 言ってからコレは嫌味すぎたろうかと思ったが、出て行ってしまった言葉を今更引っ込める訳にはいかず、仕方が無いので普段は見せないくらいの愛想笑いで相手を見据える。
 対するマクラは一瞬きょとんとしたものの。
「ああ、そうかも知れませんね」
 さらりと肯定した。
 思いもよらない答えに、今度はサトルが呆気に取られる番だった。その隙にもマクラは再び話し始めてしまう。
(何なんだよこの人……普通初対面で、しかもこんな面接会場で会った奴になんか、話しかけないもんだろ?)
 頭を抱えたい衝動に襲われた時だ。
  ガチャッ
 軽く金属が触れ合う様な音に、マクラは話を止める。
 二人同時に廊下の突き当たりの扉に目をやった。
「アカツキさん、マクラさん、おはようございます」
 陰気なドアの隙間から現れたのは、首からIDカードを提げた白衣の男だった。
 年の頃二十代後半といった所だろうか、サトルに微笑みかける瞳からは穏やかで思慮深い性格が滲み出していた。IDカードには「ヒュプノス研究開発所長 シングウ シュウシン」と見える。確かに黒い縁の眼鏡といい少しやつれた顔といい、研究者というイメージにぴったりだ…それも、常に冷静で正確に物事を捉えることのできる一流の研究者だ、とサトルは何となく思った。その証拠に黒い髪は短く清潔感があり、無精ひげも生えていない。白衣も真っ白で中に着ているワイシャツも染み一つ無かった。
「本日の面接官を勤めます、シングウと申します。面接はこちらの部屋で五分後――十時半ぴったりから始めますので、それまでにお手洗いなど済ませておいて下さいね」
 静かな声で告げると、シングウは少しも無駄の無い動きで二人の前を通り過ぎ、階段の下へ消えた。
 その背中を目で追いながらサトルは忘れかけていた緊張感を思い出す。マクラのお陰でだれていた精神がぴっと引き締まる。
 だが、もう胃は痛くなかった。
(あの面接官だったら怖くなさそうだな…受かるかどうかは別として)

 サトルの勘は見事に的中した。
 時間ぴったりに部屋に戻ったシングウは、一貫して優しい態度でサトルとマクラに椅子を勧め、この会社を志望した動機と大学で専攻している科目について、そして自分の得意とすることについて二人が話すのをまるで子供の話を聞く父親の様に聞いた。
「はい……では、次の検査で最後になります、お疲れ様でした」
 全てを聞き終え、手元の書類に何か書き留めながらシングウは柔らかい声で説明を始めた。
「先程あなた方が仰ったように、我が社は寝具の販売を始め、最近ではアロマセラピーなどリラクゼーションサービスも扱うようになっています。睡眠について更に研究を重ね、お客様に最良の睡眠をご提供するのが我が社の仕事であり、今後あなた方にも請け負って頂くかも知れない仕事です。そこで……」
 そう言って、シングウは一度言葉を切る。
 絶えず動いていた右手が止まり、部屋の中はしんとなった。
 紙の上を滑っていたシングウの視線が不意につっと上の方に移動し、不安げに様子を見ていたサトルに突き刺さる。
 反射的にびくっとしたサトルを見て、彼はにっこり笑った。
「……あなた方には、最後にこちらのシミュレーションに挑戦して頂こうと思います」
「シミュレーション?」
 思わず鸚鵡返しになる。
 隣でマクラが一瞬嫌そうな顔をした。
 シングウは一つ頷くとやおら立ち上がり、部屋の隅に置いてあった巨大な箱に近づく。
 それは白みがかった銀色の機械で、ゲームセンターにあるレーシングマシーンに少し似ていた。片方の壁に大きな画面があり、それと向かい合うように座席シートが設けられている。シートはまるで高級なソファのようにふかふかで、素材も手触りの良い布のようだった。いかにも機械的で眩い外観とは違い、中は一面が漆黒だ。
「どうか身体は楽に……緊張するとあまりいい結果は得られませんからね」
 サトルにシートに座るよう手で指示しながら、シングウは優しい声で言った。
「手足を伸ばしてもらっていいですか?背中は背もたれに思い切り預けて下さい」
「はあ……」
「大丈夫ですか?……はい、問題はなさそうですね」
 柔らかなシートに寄りかかるサトルの様子を箱の外から確認し、シングウは一つ頷く。その後ろでマクラがどこか不安げな表情でこちらを窺っている。
 サトルは、慣れた手つきで画面の下にあるタッチパネルで何かを入力しているシングウを眺めながら、コレは一体何の検査なのだろうと考える。適性検査にしてはどうもおかしい。他の企業や公務員を受けた友人達の誰の話にもこんな検査の話は出てこない。
大抵は膨大な量の数字の書いてある紙にひたすら計算結果を書いていくだとか、「あなたは妖精を信じますか」という様なふざけた質問に延々と答え続けるものらしい。
コレは、何をする検査なのだろう?
一抹の不安に思わず深呼吸をすると、シングウに笑われた。
「緊張しなくて大丈夫ですよ。三分程、ここに流れる映像を眺めて頂くだけですから」
「はあ……」
「じゃあ始めますね」
 優しい、でも有無を言わさぬ声で静かに言って、彼はサトルの傍を離れた。
 同時にサトルと画面を包む箱を、暗幕の様な物が覆い隠す。一気に視界が闇一色になった。
「え……あのっ」
 慌てて起き上がろうとすると
「大丈夫ですよ。画面が見やすいようにそうなっておりますので」
 箱の外からのんびりとした声でシングウが制した。
 まあこれも面接の一つならば、と思い直して再びシートに寄り掛かる。
 それを待っていたかのように画面にぱっと白い文字が躍った。

『ヒュプノスの覚醒』

「……今度こそ来ますかねえ」
 不安と期待の入り混じる声でシングウが呟く。
 その隣で、マクラも心配そうに目の前の〈箱〉を見詰めていた。
 中からは森林の中にいると錯覚するような鳥の声や木々のそよぐ音が聞こえる。やがてそれは微かになり、代わって何処か遠くから静かな賛美歌が流れてきた。
「……シングウさん」
 不意にマクラが口を開いた。
「先輩はあれから、一度も?」
「ええ、現れていません。恐らく我々がこうして〈穴埋め〉を探していることには気付いていると思いますが」
「まあ、そこら辺は簡単に予測できますからねえ。何てったってキャリアは俺より長いッスから」
「でも、脆弱」
 低く言い切ったシングウの顔を、マクラは一瞬びっくりしたような表情で見る。
 だがすぐに苦笑を浮かべ頭を掻いた。
「……驚いた。シングウさんって結構言いますねえ」
「ええ、言いますよ」
 にやり、と似合わない笑みを浮かべて、シングウは眼鏡を中指で上げる。
 いつの間にか賛美歌は止んでいた。
 箱の中からは何も聞こえない。
否、規則正しい寝息が漏れてくる。
 シングウとマクラは顔を見合わせた。
「これは……期待できそうですね」
「……そうッスね」

 心地よい自然の音色に包まれて、サトルは暫くぼんやりしていた。
 これが何かの検査で、この結果によって就職できるかどうかが決まるのだということは、頭の片隅で理解していた。していたけれども、果たしてこれがどのようなことを検査しているのかわからなかった。
初めは、このような環境の中でも集中力を持続できるか見られているのではないかとか、油断させておいて突然何かが起こるのではないかと思っていた。
だが、いつまで待ってもそれらしいことは何も起こらなかった。穏やかな風のそよぎがフェードアウトした後は、眠気を誘う美しい讃美歌が聞こえてきた。それがやんだ後には優雅なピアノの音が聞こえ、やがて荘厳な雅楽の調べがサトルの瞼をそっと閉じさせた。
次第に夢の底へと沈みながら、サトルはぼんやりと一つのことを考えた。
こんなに体の力を抜いたのは、いつぶりだろうか。
 両手足がふわふわとした泡のように感じられ、肩や背中が空気を詰めた風船のように軽い。頭は柔らかな薄絹に支えられているかのようで、どこも痛みを感じるところがない。
 シートに密着している背中から大空の底へ落ちていくようにも、青く茫漠とした海中に浮かんでいるようにも錯覚したが、その不安定さが不思議と心地よくて、体も心も強張っているようには感じなかった。
 普段の生活の中では考えられない状態にある自分を確認して、サトルはどうしてか、笑いたいような、だが泣きたいような、どうしようもない幸福感に苛まれてしまう。静かな心のただ中にいながら、きらきらと高く吹き鳴らされるラッパの音を聞いているような、自分でも抑え込めない正体不明の喜びである。
 抗えない眠りの中に引きずり込まれながら、サトルはふと、生まれたばかりの頃はこんな感じだったのではないかと考えた。
 だが、そんな思考も雨に濡れた薄い障子紙のように儚くちぎれ、やがて寝息が聞こえるころには跡形もなく消えてしまっていた。
 
 次に目覚めたとき、自分が真っ暗な空間にいることに気づいて、サトルは一瞬恐怖した。
 だがすぐに、
「はい、検査終了ですよ」
という、あの穏やかで優しい声が聞こえたことで、自分が就職試験の検査を受けていたのだということを思い出す。
本当にこれは何の検査だったのか、こんな心地よい検査がこの世に存在するのなら就職試験だって何回でも受けていい。
そんなふざけたことを考えながら身を起こすと、同時くらいに暗幕が取り払われた。突如目の前にあふれた光に、サトルは思わず強く目を閉じる。
「お疲れさまでした。どうでしたか」
 シングウがこちらをのぞき込んでいるのが分かった。ゆっくりと目を開くと、彼はタッチパネルを操作しながら、静かな笑みを浮かべてサトルの様子をうかがっている。
「……すみません、寝てしまいました」
 これが検査だということの意味をようやくはっきり思い出したサトルは、何と答えるべきか一瞬迷った。「どうでしたか」とは何がどうだということを聞きたいのか、その意図にたどり着くことができず、正直に白状する。
「それはよかった」
 意外にも、シングウは満足そうに笑った。
「この検査は寝ていただくことに意味がありまして。最初にご説明すればよかったのですが、そうすると怪しまれてしまいますのでね」
 途端に少し饒舌になる。
 サトルが〈箱〉から出るのを手助けしながら明るい声で、
「こちらの装置は私のチームが開発したのです。我が社の社員たるべく素質を持った方を選考するには、通常のペーパーテストや面接では不足する部分がありまして。独自にプログラムしたこちらのシミュレーションを体験していただく中で、特に我が社での勤務に向いていると思われる方を探していくということになっております」
「はあ……そうなんですか」
「アカツキさんの仰ったとおり、大抵の方はこちらに入ると寝てしまいます。そうなるように作ってありますので、それに関してはご心配なく。寝ていただいた時の……まあ、そうですね、脳波と言いましょうか……その方の様子などを見させて頂いて、評価させて頂いておるのです」
 何とも楽し気に説明をするシングウを眺め、サトルは今更ながら不安になってきた。
 どうも話がうさん臭く感じられる。寝ているときの様子を見るというのも、どこか卑猥な感じに聞こえた。脳波でも何でも、これを見てこう評価しているんですよと言い切らないところが怪しい。
 シングウに抱いていた好印象はあっという間に黒く塗り替えられる。
この人は怪しい。この会社は怪しい。
そんなサトルの思いも知らぬげに、シングウは非常にご満悦の様子でサトルの手を握ると、
「お疲れさまでした。結果は後日、直接ご連絡させて頂く予定です。個人的な意見を述べるならば、いい結果をお知らせできることを希望しております」
 その笑顔にうすら寒ささえ覚えながらも、サトルは愛想笑いでお礼を述べてそそくさと退室したのであった。


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爆睡戦隊

爆睡戦隊

睡眠の足りない現代人を守る!? 寝坊しがち、夢見がちなヒーロー現る!

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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