短編集【薄明】

(薄明かりに、夢の残り香)

マイスター・ホラのお茶会

5年間連れ添った妻と、離婚することになった。
特にどちらに非があると言うことはない、本当にただ生活リズムが合わなくなっただけのことで。
それでも、どちらかが無理して合わせるのも納得できなかったし、お互いがこのまま空気のように掠れていくのも嫌だったから、夫婦をやめることにした。
妻も私もそれが一番いい方法だと考えたから、この話はするすると進み、二人の休みが奇跡的に重なった今日この良き日に、晴れて離婚届を提出する運びとなった。

役所からの帰り道、妻から寄り道を提案された。
「すぐそこに可愛いカフェがあるよ、君好みの。」
さっき離婚届を出してきたとは思えないくらい、普段と変わらない明るい声。
私も、担当者に紙を渡すまでは緊張していたようで、何だか気分が軽くなっていたので、
「いいね。行こうよ、おれがおごるからさ。」
と返事をした。
妻の言うカフェは本当に曲がってすぐの所にあった。旧跡も多い田舎の町並みに溶け込んだ外観は、確かに私好みだ。聞けば、古い土蔵を改築したものらしい。
店の名は「マイスター・ホラ」。
首を傾げる私に、妻は「あれ、知らないの。」と意外そうに目を丸くした。
「エンデの『モモ』よ。読んだことなかったけ。」
「残念ながら。ミヒャエル・エンデは読んだことがないよ。」
「じゃあ、いつか読んでよ。面白いから。」
澄んだ声で笑って、妻は店の扉を開けた。
清々しい木の香りの奥から、いらっしゃいませという穏やかな声が聞こえた。

テーブルについて驚いたことは、店の中を亀が歩き回っているということだった。
「カシオペイアよ。」
妻は嬉しそうに言う。「マイスター・ホラの亀。」
甲羅の直径が30センチはあるかという大きなそのリクガメは、『モモ』に出てくるカシオペイアという亀を真似ているのだという。
「マイスター・ホラっていうのはね、時間の番人みたいなおじいさんなのよ。全ての時間を司る人なの。」
「ふうん。」
頷きながらメニューを開いて、また驚いた。高級そうな和紙のページには、たった一行、
「マイスター・ホラのお茶会セット…八〇〇円」
とだけ書いてあったからだ。
眉をひそめた私を尻目に、妻は大層嬉しそうな顔で、
「すみません、お茶会セット二人分、お願いします。」
と注文をした。

お茶会セットがやってくるまで、実に三十分かかった。
その間、久しぶりにゆっくりと妻との会話を楽しむことができた。
家のこと、仕事のこと、昔のこと、趣味のこと、昔のこと、昔のこと……。
気がつけば、楽しかった思い出を掘り起こしては笑い合っていた。付き合っていた頃のこと、結婚式で俺が号泣したこと、新婚旅行で妻が迷子になったこと。
「やっぱり、時間が足りなかったのかな。」
ふと話が途切れたタイミングで、私がそうこぼすと
「時間泥棒だよ。」
妻はさらりとそう言って水のグラスを揺らした。
「マイスター・ホラの所に行くとね、自分の時間が見られるの。大きな振り子時計の下に綺麗な花が咲いている……その花が、自分の時間なの。」
店の中の心地よい静寂に、その声はどこか遠くから降ってくるように響いた。
「その花をね、時間泥棒は葉巻にして吸うの。吸わないと死んじゃう。だから、時間を節約するっていう綺麗事を言って、みんなから時間を盗むの。」
「……それも、『モモ』?」
「うん。モモの友だちだった町の人も、時間の節約で忙しくなって、モモの側から離れていくの。節約した時間は、全部盗まれているのに、気づかないの。」
何だか、自分のことを言われているようで、私は相づちも打てなかった。
妻は恨む風でも嘲笑う風でもなく、ただ大好きな本の説明をしているだけだろう。それでも、その話はどうしてか、妻からの最後の泣き言のように聞こえた。
あの、と口を開きかけたタイミングで、「お待たせしました。」と店員が声をかけてきた。

カフェを出たとき、外が存外暗いのに気がついた。
とっくに夕方になっていたらしい。随分と長居をした。
「あの月、おいしそうだねえ。」
妻の声に釣られて空を見ると、大きな満月が昇り始めるところだった。確かに、さっき食べた金色の蜂蜜とバターを付けた揚げパンに見えなくもなかった。
「……お茶会、楽しかったな。」
私が言うと、妻は心底嬉しそうに「でしょ。」と笑う。
「今日だけは、時間泥棒に勝ったな。」
付け加えて言ったら、笑顔が驚いた顔になって、それから少し崩れた。明日から別々に暮らすという日になって、初めて見る顔。
俯き加減になりながら、それでも妻は笑った。
「最後に勝てたねえ。」
月明かりに涙が光ったのを、私は黙って見つめていた。

コンドル

かつてこの街の空をコンドルが舞ったことがある。
嘘じゃない。ほんの三十年くらい前の話じゃなかったかな。
そのコンドルは、だけど可哀想に、飛んだはいいけど帰るところを見失ってしまってね。疲れて降りたところが、運悪く車道の上で、トラックにはねられてしまったんだよ。
うん、ここには野生のコンドルはいない。
あれは、動物園から逃げ出したんだよ。
市営動物園の、ひどく狭い檻の中にいる彼を哀れに思った誰かが、風の強い日に檻を壊してしまったのだって。
もともと広ーい荒野を飛ぶ鳥だもの、閉じ込められっぱなしは可哀想だからね。
でも、コンドルは死んでしまった。
尤も生きてたとしたって、彼が狩りをするのに適した場所なんかないんだ。
檻から出なければよかったのに。
本当に可哀想な話さ。

ああ、でも、彼の姿は勇壮だったなあ。
壊れた檻の上で暫し躊躇ってから、何か決意したように大きな翼を広げてね。ちょうど風の強い日で、桜の花びらが空に吸い込まれていったんだった。
彼は、地面に佇むしかない僕をただ静かに見てから、すっと風に乗ってあっという間に消えたんだ。
当たり前のような顔で。
コンドルは強い翼の鳥さ。どこまでも自由に飛んでだって行けるのさ。
こんなちっぽけな島国に生まれた僕と違って、彼は星にも届きそうな高地で生まれて、果てしない大空を住み処にするんだ。
何にも縛られちゃいけない。いけないんだよ。

「ね、でもさ、自由って言葉なんてさ。」
「恨み言でしかないんじゃないかな。」
「そもそもが、そいつは何処から来たんだい。」
「ひょっとして、檻の中で生まれたんじゃないかい。」
「そいつの故郷はどこだい。」
「自由かい。檻の中かい。」
「ねえ。」

「ねえ。」

檻を開けた時に笑ったのは、なぜだい。

夢の中で、私は千利休に会うことになっていた。
見慣れた電車に揺られていつの時代なのか解らない街に降り立った私を、僧衣のようなもので身を包んだ男性が待っていた。
あまり表情のない顔をした、だが穏やかそうな瞳のその人が、どうやら千利休のようであった。

「これを、お預かりしております。」
上品な白い封筒を差し出して、千利休は静かに言った。
きっちりと畳の目に沿って丁寧に置かれたそれを、だが私は受け取らない。
「読みたくない。」
「なにゆえ。」
「白は、悲しい。」
なぜそんなことを言ったのかは解らないが、私はとにかくその封筒に触れたくなかった。
「それはそれは。」利休も無理には押し返さず、
「それでは、これはなかったことといたしましょう。」
午後三時、小さな茶室。
渋い色合いの釜からはミルクの温まるくつくつという優しい音が響いてくる。
ふんわりと甘い香りのするそれを柄杓で掬い、利休は美しい所作で茶を溶く。
その様子をぼんやりと眺めながら、私はどこか重い気持ちで座っている。
先刻の白い封筒。
利休は差出人を言わなかったが、私はそれが誰なのか解っているような気がする。
同時に、その封筒に書かれたことも何となく見当が付いているように感じた。
直視しようとすると途端に消えてしまうそれらは、だが確実に記憶の底に沈んでいて、今
たどこか遠く遠くから私に向かって手招きしている。
そして、私は直感的に、その封筒を開くことが私にとって悲しいことだと知っていた。
「考えぬことです。」
抹茶ラテをくるくると掻き回しながら、利休は封筒を拾うと事も無げに囲炉裏にくべてしまった。
茶室には天窓があり、利休の墨染めの衣に秋の陽が落ちて、温かく不思議な色を醸し出す
薄暗い茶室にくっきりと象られた利休の姿は、何だか頼もしく見えた。
「まずは心を落ち着かせることが肝要。」
できたての抹茶ラテが私に差し出された。一礼の後、湯気の立つカップが私の掌におさまる。
しろくてまるくて温かみのある形。
「一服の茶、その温もりを忘れぬことでございます。」
言いながら手で「飲め」と合図され、私はそっとカップに口を付けた。
甘い。それでいて、ほろ苦い。
胸の中にすっと流れ込んでくる柔らかさに、思わずほっと息をついた。
「その心持ちで進めばよろしい。」
利休は頷いて、僅かに目だけで笑った。
秋の午後の陽が、私たちを包んできらきらと燃えていた。
満ち足りた気持ちに浸りながら、私はそっと瞼を閉じた。

雨の音。
気がつくと、私は薄暗くなった空を漂っていた。
何故か逆さまの赤い傘に乗り込んだ私は、ざあざあと音を立てながら流れてくる雨をかき分けて進んでいた。
ふと雨の水面を覗き込むと、水底にはあの白い封筒がいくつもいくつも漂っていた。皆、私の傘を追って流れに逆らうように泳いでいる。
先ほどまで感じていた幸福感は急にしぼみ、焦りと恐怖に心を急かされる。私は雨の流れに腕を突っ込んで、必死に水をかいた。
マスト代わりの傘の柄は今にも折れそうなくらいにたわんでいるが、風が吹いているわけでもなければ何か負荷のかかるものが繋がっているわけでもない。
しかし、柄が大きくしなり、びしびしと不穏な音を立てるたびに、傘の舟は大きく揺れた。一度、揺れに耐えきれなかった私が流れに投げ出されそうになったときには、白い封筒たちがもの凄いスピードで水面まで上がってきて肝を冷やした。間近で見ると、封筒たちは口々に何かを言っているようだった。なぜそう思ったのかは解らないが、そう確信して気を失うかと思うくらい怖かった。
空は、色がない。暗いとか黒いとか、そういう感覚もなく、ただ見てはいけないような、見たらそれきり目が見えなくなるようなそんな様子で、とにかく私は流れの中の封筒だけを睨みながら、必死で水をかき続けた。
どきどきという鼓動が辺りにこだまして聞こえる。全身が心臓になったようで、呼吸が整わず息苦しかった。雨の流れに触れ続けた両腕は冷えて鈍い痛みを覚えるようになっていた。
どこまで逃げればいいのか。そもそも、この白い封筒は何なのか。
千利休が囲炉裏にくべたあの封筒とこの封筒たちは仲間なのだろうか。
誰が私に何の用で。

あっ と思ったときには、

私は、雨の底の白い部屋の中にいた。
柄が折れてくしゃくしゃになった傘を右手にぶら下げて、左手には封の切られた白い封筒を大事そうに握りしめていた。
「遅うございました。」
一切の感情をどこかに置き忘れたような声で、一人の男が私に告げた。
「たった今、お亡くなりになりましてござる。」
深々と頭を下げた男の肩口から、部屋の真ん中に寝かされている人物が見えた。
紛れもない、私だった。
頭を上げた男は、ゆるりと立ち上がると「御免。」と低く言いながら、私の左手から封筒をそっと抜き取った。皺だらけになった封筒から、ぽたり、と滴が落ちた。
「そちらの傘も。」
言われるが儘に、私は右手を男の方へ差し出す。男はこちらもそっと取り去っていく。
先ほどまでの恐怖や混乱がいきなり消え、静かな世界に落ちてきてしまったことが、私から全ての感覚を奪ってしまったらしい。四方の白さはいやに鮮烈で眩しいほどなのに、頭はどこかぼんやりとした浮遊感で満たされている。体が空気でいっぱいの風船になっていて、重しか何かにつながれて立っているという形容が一番近いかも知れない。
寝かされている自分は微動だにしない。瞼を閉じて、静かに横たわっている。
苦悶の表情もなければ一片の幸福感も読み取れない、人形みたいな顔だ。薄い唇にもほお骨の高い頬にも色はない。どこまでも空虚な人間の顔面。
「恐れながら、」
男がまた抑揚のない声で言った。
「お連れ様なき今、お一人でゆかれることは相なりませぬ。」
私はまたどこかに行く予定だったのだろうか。お連れ様、とは恐らくそこで死んでいる私のことであろう。
ぼんやりした頭の中は不思議なくらい静かで、悲しみも諦めも生まれては来なかった。私の目は横たわっている人形のような私を見つめている。心の中があまりに空虚で、もしかしたらこの私自身も人形のようになってしまったのではないかとうっすら考えた。
瞬きもせず、呼吸も止まってしまったかのような時間がどのくらい続いただろう。
「しからば、これにて。御免。」
不意に男が私の目の前に立ちはだかり、大きな手でいきなり私を突き飛ばした。
視界がぐらりと動き、私は抗うことなく後ろ向きに倒れていった。

午前五時。
いつものように、私は自分の布団の上に仰向けで倒れていた。
枕元に置いた時計の澄んだベルの音が、闇の中に響いている。
ゆっくりと顔を横に向けると、カーテンの隙間から小さく朝の空が覗いていた。
凍てつくような寒さに磨かれた、冴え冴えとした蒼である。
徐々に意識が覚醒していくにつれて、何となく残っていた夢の中の風景が、風に吹かれた煙のように少しずつほどけて薄れ、さらさらと消えた。
最後にふっと胸の中に灯された秋の陽の金色も、淡く滲んで見えなくなる。
胸の奥底が、がらんとした。
いつもと何ら変わらない朝なのに、何かが足りない。重たかった荷物を突然落としてしまったような、妙な軽さ。私はどこかぎこちなく起き上がって、一つ一つ確かめるように生活の準備を始めた。
顔を洗って歯磨きをし、服を着替えた。季節は早くも冬になりつつあるようで、手足の先が血の気のない白に変わっていたから、昨日より少し着膨れしたような格好になってしまった。
蛍光灯の光も寒々しい台所に行って、まずお湯を沸かす。
戸棚からカップを引っ張り出したところで、強烈な既視感を覚えて息をのんだ。
白くて、丸くて、温かみのある形。
途端に、がらんどうの胸の中が流れ込んできた温かいもので満たされたのを感じた。
あまりにも唐突だった。誰かにいきなり赤ん坊を渡されたときに似た、柔らかな重み。
急にいっぱいになった胸が苦しくて、切なくて、目を見開いたまま暫く息ができなかった。自分でも知らないうちに涙が溢れていたが、急激に押し寄せた正体不明の温もりに頭が混乱していて、拭うことを忘れていた。
やかんの笛がけたたましく鳴ったところで、ようやく動けるようになった私は、握りしめたままだったカップにお気に入りのインスタント粉末を入れた。
柔らかで優しい緑色をした、抹茶ラテ。
お湯を注ぎ、スプーンでくるくる回していると、なぜだか懐かしい景色を見ているような気がする。白いカップの中で泡立って踊る抹茶ラテ。
息を吹きかけて一口呑み込む。
ほのかな甘さとほろ苦さに、思わずため息が出る。
ゆっくりと緊張がほぐれ、胸の中の温もりがじんわりと優しく全身に巡り始める。
落ち着きを取り戻したとき、空腹を感じた。面白いくらいに軽快にお腹が鳴ったから、思わず笑ってしまった。そう言えばこのところ忙しくて、空腹に気づいたこともない。
そう思ってから、「あ。」と声が出た。
自分の無意識の奥底にずっとあったものが、なくなったものが何か、解ったように思った。
今朝感じた奇妙な軽さの理由も、同時に何となくではあるが悟った。
もう消えてしまった夢の何処かで、丁寧に温もりを溶いていた誰かの指先が、一瞬だけ目の前をひらりと掠めた。抱いたカップの温度が掌に強く感じられる。
一つ、長い息を吐いてから、私は静かに一礼した。
結構な、お点前で。
窓の外の世界は、差しはじめた日の光を受けてきらきらしている。
山茶花の白い花が、肯くように優しく輝いていた。

短編集【薄明】

短編集【薄明】

夢うつつを集めました

  • 小説
  • 短編
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  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-17

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  1. マイスター・ホラのお茶会
  2. コンドル