短編集【黄昏】

(薄暗く不透明で曖昧な夢の如く、仄かな記憶)

【格子の指】

酔って殆ど方向も解らなくなった儘、男はゆらゆらとシャッターの並ぶだけとなった商店街を漂い歩いていた。
日付も変わった深夜一時、歩いている人間は一人もいない。もとより昼間でも閉まっている店が多くなった昨今では、酔っぱらいすら久しく見なかった。
蜘蛛の巣だらけの街灯が心細げに二つ三つ照らしている以外は、そのずっと先、よそよそしい白い光をまき散らしているコンビニに至るまで、明るいところもない。
しんと静まりかえった夜の底を、男はぼんやりと進んだ。

彼は、死にそびれだった。
何という理由があったわけではない。朝飯を食っている最中に、ふと「俺は確か今日死ぬ予定だったな」と思いついたのだ。
そこで、大学へ向かう道すがら、三回飛び出してみたら、三回とも直前で車が曲がって助かってしまった。
研究室の窓から飛び降りようとすれば、彼がふざけていると思いこんだ悪友たちも次々に飛び降りてしまい、大騒ぎとなった。 教授からは怒られたが、全員軽傷ですんでしまった。
どうやらこれでは死ねないらしい。だから、今度は飲み会で無茶をしてみた。だが、結果として得られたのは吐き気だけで、どうしようもなくこうして歩いているのである。

 歩いているうちに、男は無性に甘いものが食べたくなってきた。
 酒の後にスイーツなど女子ではないのだからと思うものの、一度気づいたらもう居てもたってもいられなくなった。
 とりあえず前方に見えるコンビニで何かしら買おうと足を早めた、まさにそのとき。
にゅ、と指が視界に割り込んできた。
「おわっ?!」
びっくりした拍子に尻餅を付いた。
途端に、笑い声が降ってくる。一人二人ではない、相当な人数だ。
一気に酔いが冷めた。
はっきりした目で見ると、丁度自分の顔の高さに古めかしい格子のはまった窓があった。辺りが暗いのも手伝って、、そこだけぽっかりと明るい空間が浮かんでいるように見える。
いつのまに、と思ったとき、格子の向こうにひょこっと男の子が顔を出す。
声もなく見つめている男に向けて、格子の隙間から小さな手が伸びた。恐らく、先ほどの指もこの子だろう。
「饅頭、ほしいか」
唐突に可愛い声で訊く。
「饅頭だぞ、饅頭」
「…俺にか」
「甘いもん、食いたいだろう」
ぴたりと言い当てられ、ぎょっとするより先に「確かに」と頷いてしまった。
「うまいぞ、月見屋のじいさんがくれたんだからな」
子供の手がひらひらと手招きする。
男はゆっくり立ち上がり、格子に近づいた。
眩しさに目が慣れると、格子の向こうが見えた。八畳間くらいの部屋には沢山の人が座っていて、一斉にこちらを向いた。
「…どうも」
気まずさに軽く頭を下げる。
その目の前に、ぬっと饅頭が現れた。
「ほら、饅頭」
さっきの子だ。よく見るとかなり色が白く、可愛らしい顔立ちをしていた。
男がもさもさと饅頭を食う間、男の子はじっとその様子を見ていた。その後ろに居並ぶ人たちも、やはり声も立てずじっと男を観察している。
少し気味が悪い。
「あ、ありがとうございました」
食い終わり、頭を下げたときも、格子の向こうからは無数の眼差しが男を射抜いていた。
すぐ立ち去るのも気が引けて思わず、
「あの、お礼は後日、」
すると、痛いほど鋭かった視線が、一気に絡み付くような歪んだ気配に変わり。

 にんまり。

強く肩を揺さぶられ、目を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。
「お供えを食ったのはお前か!」
月見屋と染め抜いた粋な手ぬぐいを首にかけたじいさんに怒鳴られ、訳も分からず振り向けば、すぐ後ろにはお稲荷さんのお社。
格子の中にずらり並んだ白稲荷、まだ夢うつつの男を見下ろして。

にんまり。

【笑う首なむありける】

少しゆったりと腰掛け、親しげに話を聞いている態を作れば、彼は却ってむっとしたような顔で
「信じていないでしょう?」
「はは、信じるも何も。君、」
「妄想だとでも?」
「いや、そこまでは」
だが、やりとりの間にも忙しなく目線を左右へ走らせ続ける男に、少しばかり嫌気がさした。
「君、生首なんてのは今時珍しくもないぜ」
「違うんです!ふつうのじゃないんです!」
「吠えるとか?噛みつくとか?」
「笑うんですよ」
正直、馬鹿馬鹿しかった。
この辺りは古い首切り場ゆえ、生首や首なしの目撃例が数知れない。
もう長いこと、いろんな人の首を胴体から離してきたのだ。何もないわけがない。
それに、危害を加えられたというならまだしも、笑いかけられただけで危惧するというのは、生身の人間の法ですら若干行き過ぎな感がないだろうか。
彼はかなり興奮気味だが、こんな名も知らぬ通りすがりを捕まえて、信じるも何も。
「笑う生首なんて話の種にもならん」
「でも、」
「お帰り、もうお帰り」
面倒になって追い払うと、彼は大変ご立腹の様子で帰って行った。
まったく、彼にはうんざりだ。
笑う生首がなんだというのか。
ため息をつく私の首筋をなでて、なま暖かい風が吹き抜けた。
九月だというのに、今年はさっぱり涼しくならなかった。
あの妄想癖の男も、それで苛々しているのだろう。
まったく、彼の妄想はどうしようもない。
笑う生首などどうでもよいが、少しは目の前の現実を見るとよい。

ごらんの通り、私にはそんな首すらないのだから。

【休日運命冷蔵庫】

今朝がた開いたばかりの薔薇の鉢に水をやって、その真上に洗ったジャージを干し、ついでにベランダの手すりに布団を引っかければ、もう十時だ。
大学生の休日など気楽なもの、と言ったら医学部の従兄に鼻で笑われたが、少なくとも自分の休日は大体こうだ。特にバイト先から何も言ってこなければ九時頃まで眠り、空腹に耐えきれなくなればのそのそと起きて飯を食う。
「さてと、」
窓は全開の儘、網戸だけはきっちりと閉めて、俺は冷蔵庫の前に座った。
一つ大きく呼吸し、ゆっくりと白い扉をノックする。つるりとしたそれは軽く無表情な音をたてた。
「あの…どうっすか?」

「…あかんわー」

本来なら内側から開くはずのない扉がいとも簡単に開かれた。危うく左ほほを打たれそうになり、後ずさった俺の丁度目の高さから何かが転がり落ちた。
「冷えたことは冷えたけど、まだぴっちぴちのまんまやで」
落ちた、と思ったものは空中でくるりと回転し、見事に着地した。
がらがら声なのは、風邪気味だからだろう。昨夜、必死に止めた俺を振り切り、冷蔵庫に籠もったのだから当然だ。
しかし。
「俺、早う、鯖な俺と別れたいー」
「知らないっすよ」
可愛くもない姿で駄々をこねる鯖を見たのは初めてだ。
彼は昨日の夕方、一尾十円という超特価で我が家に来た。本来ならば俺の夕餉になる筈だったが、パックを開けるなりこの調子で俺に話しかけてきたため、食べ損なったのだ。
「俺、鯖として死ぬのは嫌や!おいしい鯖やとしても、鯖と呼ばれたない!」
訳の解らないことを言うので、適当にふんふんと話を合わせ、じゃあどういう形で死にたいのかと訊けば。
「冷蔵庫に置き忘れてや」
何でも、俺が鯖だと認識することなく寧ろ彼の存在を忘れ去り、形もなくなったころに「これ何だっけ」と捨てられるのが理想らしい。
そんなのは勘弁こうむる、冷蔵庫が臭くなってかなわない。人に迷惑をかけるような死に方は遠慮すべきだ、と訴える俺を振りきり、彼はラップもパックも無い身一つでチルドルームに横たわった。
大体が市場に出された時点で死んでいるのだし、俺に食われて終わる方が無駄な命にならないのではと思ったが、それは言わないでおいた。本当に死ぬ気ならそんなこと構いもしないだろうし、冗談なら無視しておけば自主的に切り上げるだろう。
しかし。
さすがに途中経過くらい訊こうかと開けてみれば、彼はまだ「生きて」いた。
「寒いなあ…ちょっと辛いわー」
いっそ焼いて食ってしまいたい。
俺は、胸の底に生まれた殺意を何とか押さえて、彼をもう一度チルドルームに押し込んだ。

休日は短い。
自堕落学生の休みだって、何をするでも無い内にするりと夜になっている。
俺は買い置きのカップ麺にお湯を入れながら、横目で冷蔵庫を見た。あれからまた数時間、何の音沙汰もなく彼は閉じ籠もりきりだ。順調と言えば順調だが、きちんと「死んで」いるかは疑わしい。
思わず扉に耳を押しつけた。
「……。」
特に物音はしない。
寝ているのだろうか。だとするならば起こすのも何なので、俺は静かにその場を離れた。
「何してんの」
足音を忍ばせている俺を見て、彼女が呆れ顔をする。
夕方、俺が本屋に行っている隙に訪れた彼女は、遠慮のえの字もご存じないという様子で上がり込んでいた。今も腹が減ったの何のと喚いたため、なけなしのカップ麺を譲ったのだ。
全くとんだ女の子もいたものである。
「昼飯、食ってねえの?」
「食べたけど。ご飯一杯だけ」
「十分じゃねえか」
「いやいや、だってこの家って何もないじゃない、」
俺ん家で食ったんかい、とのツッコミに先行して、彼女は何とも不満げに、

「おかず、鯖だけだったし」

魚って足早いんだからね、早く食べないと悪くなっちゃって可哀想でしょ。
一つの命なんだから、とか何とか、偉そうなことを言って彼女はラーメンをすすった。

【蝉時雨】

その日は、南極に落ちた未確認飛行物体の映像が、朝から幾度となく流された。

全長十メートル、一方の対角線が極端に長い菱形。不気味な影のような、光沢のない真っ黒なボディには、無数の傷跡がついていた。調査機関によると、墜落地点の付近では通常の十倍以上の濃度の放射能が観測されているという。
メディアはこぞって「専門家」を画面に飾り、あれやこれやと仰々しい妄想を垂れ流していた。が、誰一人として明確なことを言えるわけでもなく、また言おうとする気もないらしかった。

「とにかく、あれは未確認飛行物体だ、と騒いでおけば気が済むみたいさ」
日本はフツウに平和みたいと皮肉れば、やたら大きな声で笑われる。
A国の貧しい地域で技術研修を担当している叔父は、昔から箸が転がるどころか、蟻が動いても面白がるような人だった。
「そりゃあ羨ましいこった!こっちじゃ昨日の首都の暴動のことですら、正確には伝わってこないからな」
「ああ、ニュースで見たよ。酷かった」
「そうか…日本では見られるのか」
ますますゲームみたいな世界だな、叔父はそう言って笑った。

未確認飛行物体は連日映し出された。
調査機関も遠巻きに観察しているだけのようだ。専門家と名乗る人たちばかりが無意味に重宝され、のさばっていた。政治家も、行き詰まった法案をそっちのけに、未確認飛行物体への対策を理由にして中身のない持論を披露した。
「無関係」な事にはますます関心を向けられなくなっていた。
A国の様子も映らなくなり、やがて白い小箱にひっそりと収まった叔父が無言のまま帰宅してきた。遠い国の当たり前にある空爆のことなど、もはや報じられるに値しないらしい。
すべてが、非現実一色に見えた。

いつの間にか、夏になっていた。
テレビの向こうには、未だ動きのない黒い菱形が重々しく沈黙している。
調査は進まず、いい加減メディアも飽きてきているのが明らかだった。専門家とやらはさっさとテレビから居なくなり、代わりに、保留となった未確認飛行物体への対策をめぐって、政治家たちの中身のない発言が繰り返し報道された。
僕たちは、ただ無気力にその映像を見続けた。
時折、あんなものに張り付き続ける必要はない、他に撮るべきものがあるだろう、と至極まっとうな意見を叫ぶ活動家もいたが、大体の人間が無関心を決め込むことにした。
僕たちの日常は、とにかく平和なのだ。

叔父の新盆が終わった。
最近はもう連日連夜の未確認飛行物体騒ぎも大方忘れ去られ、少しずつ現実味のあるニュースが報じられるようになった。遠い国で起こった暴動も、地球の裏側で始まった戦争も、僕たちの日常の中に飾られ始めた。
ただ、画面に映し出されるそういう映像は、どこまでも不自然で強引に作られた現実味のない絵でしかなかった。
僕たちの日常は、平和すぎる。

ふいに、空虚が僕を内側から食い破る音が響いた。

無意識に画面に目をやると、久々にあの未確認飛行物体が映っていた。一面真っ白な大地に沈黙し続ける黒い物体。果てしなく澄み渡った蒼穹。完成された絵。
まったく時間が止まってしまったかのように、その風景はそこに置かれている。
目を逸らそうとしたが、できずにいた。空虚が明けた風穴から、どうしようもない恐怖と諦観に似た感情が、嫌な音を立てて僕の中ににじり入ってくるような気がする。
縁側からざわっと吹き込んだ風に身震いをした。晴れだというのに、今日は妙に肌寒い。
テレビを消そう。
何故かそう思った。リモコンを探したが見つからず、仕方なく本体にある電源ボタンに指を伸ばした。思い切り押した、途端に何故かテレビが転がった。

それ は、ただの箱だった。

驚く僕の前に、中から幾枚も幾枚も、写真のような絵のようなものがこぼれ出た。
とても美しく描いてはあったが、よく見ればどれもこれも精密に描かれたもののようだ。

蝉時雨が空に滲みていく。
煩いはずなのに、あたりはしんとして、まるで世界には僕一人のようだ。
顔を上げれば、見慣れた家の中さえ何処かよそよそしい。例えるなら、馴染んだように作り付けた映画のセット。

「気が付いたかい」

唐突にかけられた声に振り向けず、僕は耳をふさぐ。
どうやら、とんでもない思い違いをしていたらしい。

ぱたん、ぱたん…と、世界が畳まれていく音を聞いた気がした。

【穴】

助けてくれ、我が家に「穴」が出た。絶望的だ、後輩がよりによって海老の殻なんか捨てやがった。
武器とか用意した方がいいのか?
もうどうしたらいいかわからなすぎて涙止まんない

落ち着け

何があった

とりあえず落ち着け、穴って何だ

ごめん、取り乱した
今日、職場の連中で集まって飲んでたんだ。男女七人で鍋つつきながら。
でさ、気を利かした後輩が海老やら蟹やらの殻を集めて捨ててくれたんだよ。
でもさ、そいつ、普段から注意欠陥なわけ。
そん時も、ゴミ箱の中も確認せずに生ゴミ捨てたんだ。

そりゃ先輩が居たら生ごみくらい捨てるだろ

穴が気になる…

ゴミ箱開けたら中確認するだろ普通。
でも、そいつ、しなかったの。
中が「穴」になってたのに、そのままエビ捨てやがった。
俺が気づいて叫んだらそいつも周りもポカーン状態でさ。
マジありえねえわ。

だから、穴って何だ

ゴミ箱の中毎回気にするとか潔癖すぎだろ

「穴」ってまだ生きてんの?

「穴」知ってるとか、オッサン乙

「穴」くらいみんな知ってるだろJK
ゴミ箱ん中が「穴」になっちまって喰われたっぽいやつ、たまにニュースになるだろ。

知らない俺はゆとり

ゆとり関係ない

戦前くらいまでは騒がれたらしいが、今はあんまり出ないらしいからな

昔だって、人のほとんど居ないような土地ででたらしいしな
俺の実家の方ですら、今じゃ昔話の域

あーもー何で俺ん家なの?
都内で出るとか初めて聞いたんですけど。

とりあえず家出ろ

コンビニで待機しる

結局、穴って何なんだぜ?

まだ家にいるの?

「穴」とか知ってるやついるんだな

このスレ、オッサンばっかだなwww

穴kwsk

「穴」は「穴」だよ
ゴミ箱なんかに突然現れるの
5分くらいでいなくなるけど、その間に何か捨てたら来ちゃう
生ゴミなんかは完全アウト

海老や蟹なんて「穴」にとっちゃいい餌だもんな
で、そこに人間が居たら……あとは、わかるな?

来ちゃうって何が

わからん
でも、昔からゴミ捨てる時は確認しろって言うじゃん

生ゴミはいかんよなあ

完全に食い物があるって思わせちまうしな

どうもわからん
そいつは妖怪かなんかか?

異次元の生き物だろ

生き物かなあ

幽霊ではないな

だが、狩りに来るってことは生き物じゃね?

さっきから1がいないのが気になる…

まさか喰われたか?

コンビニ移動中じゃね?

おーい、生きてるか

「穴」は来たか?

無事にすみました。ありがとうございました。今から移動します。

よかったよかった

ぶじか、よかった

ほんとに1か?

すんだなら移動しなくておk
おつかれー

何だ、妄想か

いや待て、何かおかしい

穴、穴っておまえらも好きだな

おまわりさんこの人です

何ですんだのに移動すんの?

コンビニから帰るってことでおK?

いやいやいや、おかしくね?

1おつかれさん

今日はゆっくり休めよ

結局、穴って何よ

1の妄想

鍋食べたい

「穴」、まだ生きてるんだなあ

【狐】

 僕の傍にはもう二十年来、常に狐がいた。
 どういった経緯でそれが現れたのか、不思議と記憶にないのだが、物心ついたときには既にいて当たり前の存在になっていた。
 狐、と言っても獣の方ではない。怪しげな白い狐面を付けた、赤い着物の女である。僕が小さかった頃は彼女も小さかったように思うが、長い黒髪や白く細い指などはいつまでも変わらず、年をとっていないようにも見えた。
 更に面白いことには、僕以外の人間には彼女が見えないようで、例えば街の停車場で僕の背後に彼女が立っていても、誰一人気づかない。普通の人間ではないことは確かだし、物の怪か幽霊の類か知らんと考えたことも一度や二度ではないのだが、それでもどうしてか僕は彼女を恐れたことが全くなかった。僕にとっては存在して当たり前だったから、彼女をどうにかしようなどと考えたことは一度もなかった。
 あの日までは。

 僕が二十歳になった日、縁談が舞い込んできた。
 隣町の中学校の校長の娘というそのお嬢さんは、十八になったばかりの可愛らしい女性だった。浅黄色に桜の模様の振り袖がよく似合う、お嬢さん自身も桜の花のような可憐な人だった。
 父も母も彼女にすっかり心奪われたようで、この話はとんとん拍子に進んでいった。誰も異を唱える者がなかったし、僕も何も言わなかった。
 けれども、僕はどことなく気が進まなかった。お嬢さんに不満があるわけではないし、そろそろ身を固めなければとは自分でも考えていたのだが、素直に喜ぶことができない。
 一体全体何が引っかかるのかと考えたときに、僕は人生で初めて自分の背後を強く意識して振り返った。
 相変わらず、狐面の彼女がひっそりと佇んでいる。
その姿を、初めてとっくりと眺めて、得心がいった。一体全体どうしたことか、僕は自分でも知らぬ間に、この奇妙な女に懸想していたらしい。
意識してみて愕然ともしたし、己の仕様も無さに呆れもしたのだが、同時にこの上ないほど愛しい気持ちが溢れてきたことに驚いた。
女はずっと黙って背後に立っていただけである。子供の頃から何をするともなく傍にいただけの、陰のような存在である。にも関わらず、僕の胸の中には得体の知れない熱い液体のようなものが流れ込んできて、どうしようもない切なさに呼吸が少し早くなった。女の黒髪や白い肌がひどく美しいものに思え、その不気味に黙り込んだ狐面の縁から窺える輪郭の滑らかさがどうにも艶めかしく思えた。
ふと、この女の顔が見たいと、そんな思いが生まれた。
そんなことを考えたことはなかった。狐の顔がこの女の顔だった。奇妙な面の下に人間の顔があるだなんて、その時まで思いつきもしなかった。
だが、一度そう思ってしまったら、もう止まらなかった。僕は半ば無意識のうちに、彼女へと手を伸ばした。
彼女の方は、やはり予想外だったらしい。今まで音もなくただぼんやりと立っているだけだった女が、明らかに動揺したように身を引いた。華奢な首が後ろへ大袈裟にのけぞり、黒髪が激しく揺れた。
そののけぞった時の顎と首の線が、一層妖艶に映った。
僕は何かに取り憑かれたように、大股に彼女に近づいて彼女の面を剥がしにかかった。顔を庇おうと必死になる細い腕を手で払い、華奢な肩を掴もうと腕を伸ばした。
 女は何とか逃れようと足掻いていたが、思う以上に力は弱く、あっという間に劣勢となった。不思議なことだが、彼女は明らかに人間ではなかったのだから、消えるなり何なり、とにかく僕のような普通の人間にあっさり捕まることもないと思うのだが、彼女は空しい抵抗をするばかりだった。
 そのうちに、僕の手が狐面に触れた。
 面の向こうから絶叫が聞こえ一瞬びくりと体が硬直したが、指の勢いは止まらなかった。そのまま力任せに面を引っ張り、叩き落とした。
「見ないでっ……」
 銀の鈴が叩き割られたような、何とも悲壮な叫びが上がった。彼女の手は必死の抵抗を見せたが、大人の男の前では柳の枝ほどの強靱さも持ち合わせていなかった。
 白い面は彼女の顔を離れ、弾き飛ばされて床へと落ちていった。ぱっと顔を覆ったその白い指も間に合わず、その指の間に差し込む真昼の光が、残酷にも彼女の顔を照らし出した。
 その目と、僕の目が一瞬合った。僕は彼女を見てしまった。
 途端、彼女の口から鮮やかな紅が吹き出した。目の前で彼女は地に崩れ落ち、あっと思う間もなくそのまま煙のように消え失せた。
 一瞬の出来事に、僕はどうすることもできず立ち尽くした。目の前には何一つ、それまで彼女が居た形跡が塵一つも残っていなかった。
 女など初めから存在しなかったかの如く、僕はたった一人で佇んでいた。

 以来、狐が僕の傍にいることはなくなった。
 今でも彼女の目と、彼女の口から吹き出した紅のことは鮮明に覚えている。夜明け前の浅い夢に見ることもある。そういうときは、朝未き闇の遠く遠くから、あの悲痛な叫びがか細く聞こえてくるようにも感じる。
 なぜ彼女は消えてしまったのだろう。その理由は全くわからない。現れた理由も、彼女の正体もわからないのだから、消えた理由などわかる筈ない。
 ただ、あの瞬間を思い出す度に、胸の底で強く閃く思いがある。
違う、と。
面が外れたとき、僕は僅かだが彼女の顔を見た。顔の形や肌の様子、口や鼻の形、そして、あの眼差し。
彼女は、狐と言うには優しすぎる面立ちをしていた。丸い顔に薄紅のふっくらとした頬、小さな口や困ったような眉、怯えたようにちらちら輝く小さな杏仁型の目。
それは、古来から女狐という言葉で表されてきた妖艶で残酷な美しさでもなく、僕との縁談を喜んでいたあのお嬢さんのような八重咲きの花に似た清楚な可愛らしさでもなかった。
女の顔は優しく、傷つきやすく、信じていた飼い主に裏切られ打たれた犬のような、何とも悲しげでどこまでも素直な面立ちだった。
その顔を目にした瞬間、僕は無意識に「違う」と思った。今まで背後にひっそりと立っていた、あの怪しい女はこんな顔ではない。もっと恐ろしく、それでいてこの世の者ではないような顔をしている筈だ。濁りのない瞳をして、怯えたような表情で人間を眺める、そんな女である筈がないんだ。
僕の狐は、もっと、全然、このような、普通の女ではないんだ。
女が消えた場面を思い出し、自分のこの思いをはっきりと意識したとき、僕は漸く、随分と勝手な夢想をあの面の下にぶつけていたと気づいた。
そしてそれを、あの狐に懸想していることすら気づかなかったように、自らの意識の届かぬ所にこっそりしまい込み、自分勝手に膨らませていたのだ。
あの瞬間、その妄想が否定されたとき、僕は残酷にも素直に思った。
違う、と。
その直後に彼女は消えてしまった。跡形もなく、狐らしく祟るなり化けるなりすることもなく、ましてや僕に何か残すものもなく。

狐の話はこれで終いである。
その後の僕の生活は至って普通だから、特に書くこともない。狐面の女が本当に存在したのか怪しくなってくる程に、僕の身の回りには何もない。
それが、どうしてか恐ろしいような気がするからたまらない。
最近では何だか狂気のようになってきた気がする。いない筈の彼女を探して背後を振り返り振り返り歩く僕を、妻となったお嬢さんは心配している。
そろそろ狐面の幻覚でも見るのではないかと思っている。

【きおくばな】

人の記憶には花が咲く。
誇張や比喩ではなく、記憶ある人はもれなくその身に花を咲かせている。
なぜ解るかって、見えるからだ。
今も、ファーストフード店の片隅に座りキーボードを打つ僕の目の前で、全身から小さな花をいくつも生やした女性がコーヒー片手に小説を読んでいる。
短めの髪にもピアス穴の残る耳朶にも少し笑っているように細められた目の縁にも、白みがかったオレンジ色の花がくっついている.
「……何?」
あまりにもじっと見つめすぎたのだろうか、彼女は本から目を上げて笑った。
「いや、」その瞬間、唇の横にぽつりと咲いた花に思わず視線を向け「…ほら、花が。」
「ああ」
僕の言動に慣れている彼女は、特に驚くことなく頷いた。
読み止しの本をテーブルに置くと、悪戯っぽく小首を傾げ、
「『花』しか見てないんだもんね、君は」
オレンジ色の花が一斉に甘酸っぱく香った。黄昏を思わせる、何処か“懐かしい”匂いだ。
花が香るのは、記憶が熟している証拠だ。
記憶は夢の中で幾度も漉され、最後の最後まで残しておくものだけが人の中にとどまる。
生活の中のことを、人は全て覚えているわけではない。当面覚えておきたいことだけが残り、それが花となる。
人が夢を見ているとき、花が散ることがよくあるが、それは漉されてしまって忘れられていく記憶なのだ。

閉じた瞼の横の花がはらはらと落ちる。
眠る彼女が知らぬ間に、何かの記憶が消えていく。落ちた花びらは僕が拾う間もなく、闇の中に消えた。
「見えたらいいのに…」
つい呟きが漏れたのは、自分の指に目がいった為だ。
僕には花が咲かない。
僕は生まれてから一度も「忘れた」ことがない。
物心ついてから、いや物心つく前と思しきものまで、一秒残らず覚えている。
記憶が夢の中で漉されることはなく、ゆえに蓄積しすぎた情報で僕は飽和状態だ。
今日見聞きしたこと、今までに見てきたものが繰り返し浮かぶ。
消えることないその万華鏡は僕の中を回り続け、その日々に疲れ果てたころ、現実と夢の境目が消えた。

そして、僕は他人の花が見えるようになった。

今でもこれが現実のこととは思えない。きっと夢と混同しているんだ。そう思う。
何年も見えている中で、忘れると散るとか熟すとか香るとか死期が近くなると実を結ぶとか、花について色々解ってきた。
あまりにも秩序立ってはいる。
でも、これは妄想だ。

彼女が寝返りを打つ。
やや乱暴に伸びまでしたので軽く蹴られ、思わず苦笑する。
夢の現実の境目がない僕は眠らない。
そもそもが現実も夢もないのだから、自分が起きているのか寝ているのか本当のところ判然としない。
だから、眠る代わりに花のことを考える。
彼女が今忘れた記憶はどんなものだろう、とか。今日香った、あの熟した記憶はどんなものだろう、とか。
彼女の唇の横に咲いた花を眺めながら、ふと、これが散る日もあるのだろうかと思う。
彼女が僕に注意を向けたときに咲いた花。多少なりとも僕に関わる記憶だ。
彼女が僕を忘れることはあるのだろうか。
忘れる、とはどういうことなんだろうか。
また彼女の体から、はらりと花が散る。受け止める前に夜に溶ける。
闇の中にたちこめる黄昏の香りは、夢とも現ともなく、ただぼんやりと切なく滲むだけだった。

【とびら】

扉を開けないで、と言った弟の声が悲鳴のようで、思わずドアノブから手を離しました。
まだ雨になる前――そう、確かに昨日の夕方四時近くです。
去年の春に大学に行って以来、この一年帰ってこなかった弟を心配した母からの要望で、私はこの週末を弟の部屋で過ごすこととなっていました。それは弟にも連絡済みでした。
初めは何があったのか聞いても答えませんでした。友だちか、彼女でも来ていて、それで慌てているのだと思いました。だから、暫くどこかで時間を潰してくる旨を伝えて離れようとしたら、今度は「行かないで」という叫び声が、扉のすぐ内側からしました。
一体どうしたのかと訊いてみたら、弟は少しの沈黙の後、急に泣き始めるのです。そのまましばらく泣き止まない彼をなだめながら、一時間くらい待ったでしょうか。
「姉ちゃん、俺、大変なもの見ちゃった」
唐突に、こんなことを話し始めたのです……――

一昨日、バイト先を後にした時は、特に何も気になるようなことはなかったそうです。
休日で、夜には上がれる筈だったのが延びに延びて、時間は深夜になっていました。尤も、弟のバイト先は忙しいらしく、そのくらいの延長は珍しくもないそうでした。
アパートの駐輪場に来たところになって、初めてすっと背筋が寒くなった気がしたそうですが、一刻も早く布団にもぐりこみたかった弟は気にも留めなかったそうです。
部屋は三階。移動手段は東側の壁に沿った階段しかないため、限界の近い体をひきずるようにして、弟は何とか自分の部屋の扉まで辿り着きました。
鍵を回しながら、彼は何となく、ふと三階の廊下を見たとか。
薄暗い蛍光灯が二本光っているばかりの廊下は相当不気味です。私も、一度だけ彼を訪ねましたが、こんなところによく住めるものだと思ったほどです。
他の部屋の住人は大半がもう眠っているらしく、静かな廊下には誰の姿も無かった。
静かに扉を開け部屋に入る時、最後に目に入った階段への曲がり角が何となく不気味で、弟は扉を閉めるより先に部屋の電気を点けました。
白い光の中に浮かぶ住み慣れた部屋を何となく見ながら、無意識に扉を閉めた、時。

だんだんだんッ

突然、誰かが扉を叩いたそうです。古い部屋の壁ががたがた云うくらい強い力で。
おかしいでしょう、弟の部屋は三階の真ん中辺りなのですから、彼のすぐ後に現れるなら廊下に人影くらい見えるはず。なのに、彼が部屋に入るときには誰もいなかったのです。
続いてドアノブがガチャガチャと回されたことに驚いて、弟は反射的に鍵を閉めようとしたそうですが、誰かがそれより早く、物凄い力で外側へと引っ張ったのだとか。
五十センチ程も開いた隙間から、弟の視界いっぱいに飛び込んできたのは、

黒く長い髪の塊。

否、だらりと俯き長い髪を床まで垂らした女でした。
季節に合わない厚手の赤いロングコートを纏い、裸足で立っている、女。その足はコンクリートに同化するくらい灰色に近い白で、とても生きている人間とは思えなかったそうです
鼻腔をくすぐる何とも言えない生臭さに、弟が悲鳴すら忘れて動けないでいると、力なく俯いていた女ゆっくりと顔を上げたそうです。
足と同じ色のその顔は、目と鼻のある場所が何かで抉られたような穴になっていました。黒くこびりついた血の跡に白く小さな虫が蠢いていたことが何より衝撃的で、弟は叫び声を上げて腰を抜かしたそうです。
玄関の土間に座り込んだまま、足が立たない彼を空洞の目でとらえながら、女はゆっくりと腰を屈め始めました。饐えた臭いが強くなり、ゆらゆらと揺れる長い髪と床が触れあうぱさぱさした音が近づいてきます。女の顔の無惨な傷はどんどんはっきりと見えてきてしまうのに、弟は目を閉じることもできず、ひたすら心の中で「来るな来るな」と祈っていたと言います。
ついに女の顔がドアの隙間からぬるりと入ってきた、時でした。

ぐちゃり……

何か潰れたような、厭な音。
一瞬、弟は熟れすぎた柿が落ちた音かと思ったそうです。恐怖で真っ白な頭の片隅で、もう一人の冷静な自分が「そんなわけがない」とつっこむのが何だかおかしく感じたと。
女は、相変わらずゆらゆらと頭を揺らすようにしていたそうです。
けれど、すぐに女の頭からどす黒い液体が溢れ、辺りに飛び散りました。
叫び声を上げたような気はする……とは、弟の言葉です。
実際、この辺りからの彼の記憶は、女の様子のみ異常なくらい鮮明で、ほかのことは余りにも曖昧なのです。
彼の話では、女の顔が半分になっていたそうです。
髪の毛の塊のようだった頭は上半分が消えており、その隙間から見える恐ろしい顔は、鼻腔代わりの傷より下だけになって、とめどなく溢れる黒い液体にまみれていました。ゆらゆら動かすたびに液体が廊下のコンクリートに落ちて、みるみるうちに水たまりができていきます。
……細部を思い出そうとするのは彼にとって苦痛のようでしたので、この辺りで私は一度彼を止めたのですが、彼は壊れたスピーカーみたいにぼそぼそと語り続けました。

ぐちり……

呆然と目の前の光景を眺めていた弟の耳に、二度目の鈍い音。
目の前から、髪の塊が完全に消えました。
同時に、残された女の肩から下の部分が、少しずつずるずるとこちらに近づいてきます。
先ほどまでと様子が違うな、と弟はここでも妙に冷静に観察する自分を感じたそうです。
女は、それ自身が動いていると言うより、別のものに引っ張られて近づいてくるように見えたのだそうです。コートに覆われた体は、時折細かく揺れながらこちらに近づき、おかしなことに少しずつ小さくなっていく。
今や女が腰から下だけを廊下の黒い水たまりに浸しているのを見ながら、弟はふと、女の体が廊下と部屋の境界を通過するとあの厭な音が聞こえるということに気がつきました。
考えてみると、女の消えた部分は扉の外にも中にも落ちていない。けれども女は段々と小さくなっていく。女の体は扉の隙間から彼の目の前までくるけれど、そこで消えていく。
さらに不思議なことに、扉のこちら側には女から流れ出る黒い液体の形跡がさっぱりない。女の一部が消えるたび、あの音がするたびに、黒い液体は派手に廊下を汚していくというのに、自分は一向に汚れる様子もない。
飛び散る黒い液体と、爆ぜたような塊の震えを目の当たりにして、よくもまあ弟は発狂しなかったものだと思います。恐らくは脳の防衛本能のようなものが働いて、あらゆることに対する感情を押し込めてしまったから、冷静のような状態になっていたのでしょう。
女の姿が忽然と消え果てしまっても、弟はただ目の前で起こる現象を見つめていました。

ずるっ…… ずるずるっ……

それまで聞こえなかった、何かを啜る様な音が狭い玄関に響きました。
ふと視線を落とすと、女の残した黒い水たまりに微かな波が立っています。
それは風に吹かれて出来るような静かな波紋でなく、明らかに何かの力で同じ方向に水が吸い寄せられていく跡。
暫くぼんやりと眺めて、弟ははっとしました。
水たまりの波は、弟の方に向かって液体が動いていることを示してしました。相変わらず扉のこちら側には一滴のしみも作らず、水たまりはこちらに近づくようにしてどんどん小さくなっていきます。
弟が見ている間に、黒い水たまりは消えました。まるで誰かが啜り込んだかのように。
(誰かが、啜り込んだ……)
なぜそう思ったのか解りません。しかし、弟は直感的にそう感じたそうです。
そして、同時に今まで目の前で起こったことが、フラッシュバックのように頭の中で再現されたと言います。
扉の中に入ってきた女の頭。半分になった、その顔。それが近づいてきて、消える。
何かに引っ張られた女の体。啜り込まれたような黒い水たまり。
廊下と部屋の境界線を越えるたびに消える女と、厭な音。扉の内と外。
それだけのことを脳内で再生したとき、弟は無意識に呟いたそうです。

「…お前が喰ったのか?」

ゆっくりと見上げた目の前に、何の 変哲も 無い 扉 が 。

――以上が、私の聞いた話です。
付け加えるならば、その話を聞いていたとき、偶然出てきたお隣さんに声をかけられました。部屋の中に入らずに扉の外から話しかけていたため、怪しまれたようでした。挨拶を返し、身内であることを理解してもらった私は、ふと思いだしてその方に聞いてみました。
「一昨日の夜中、弟が上げた悲鳴がうるさくありませんでしたか。」
お隣さんは再び怪訝そうな顔をしました。
「ひどく静かな夜でしたけどねえ。」
 お子さんがいるお家のようでしたので、これ以上怪しまれるようなことを言うと、弟が不審者扱いされてしまう気がして、私は適当な言い訳をしてその話を終わりにしました。
 お隣さんが部屋に入っていく音がしたとき、扉の向こうで弟が小さく「ひい」と声を上げたのが解りました。その声に続いて、
「女が自分の部屋の中に居たらどうしよう」
と怯えた声で呟いたのが聞こえました。
扉の〝胃袋〟が自分の部屋だったらどうしよう、と。
どうやら弟は、扉が女を食ったのだと考えていたようです。それで、込み上げる恐怖に圧されて、扉を開けないまま閉じこもっていたようなのです。実際、彼に扉を開けさせるのには、それから更に一時間ほどかかりました。

その日以来、私は思うのです。
気が付かないだけで、自分が餌にならずにきただけで。
もしかしたら自分の部屋の扉が「悪食」ということもあり得るのではないか。
今、ここへと踏み込んだら、ここから踏み出したら、自分がその異次元の胃袋に取り込まれてしまうのじゃないか。
なんてことは、考えるべきではないですけれど。

短編集【黄昏】

短編集【黄昏】

ほんのり怖い、かもしれない

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-17

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