126通りある帰り道のうちのひとつ
明日の朝のバナナがないから買ってくる、と和人が言うので、私も一緒に行くことにした。
コンビニまではここから少し歩く。マンションの前の川を越えて、住宅地を縫うように進んで行くと、県道沿いに建つそれにたどり着く。ここ、遠い、コンビニ、と原始人みたいな口調で思ってみる。
「涼しいな」
「うん」
「鼻歌の一つでも出てきそうな気分だ」
「じゃあ出せば?」
「いや、やめとく」
田舎でも都会でもない街の午後九時半は、案外にぎやかでもある。こんな時間だけど今日はセミも鳴いている(じりじりじり)。県道の車の音が遠く、何かの膜を通したかのようなくぐもった感じで耳に届く(こーこー)。どこかの家から食器のこすれる音や話し声が絶えず聞こえてくる(「えー、ケンちゃんパパも一緒じゃなかったのぉ?」)。
「今日は結構頑張ったな」
「そう」
「うん」
「いつ小説家になるの?」
「毎日書いてるんだから、もうなってる」
「そう」
「うん」
和人は裸足にスニーカー、私も裸足にクロックスを履いている。さっき食べた夕飯はもう全身に溶けて行き渡った気がする。歩いていると小腹がすいてきたような気がする。
コンビニの明るすぎる明るさに、なんだかほっとする。
「あった」と言って和人は残り一房になったバナナを手に取った。「ほかに買うもの」
「これ」私はポテトフライ(フライドチキン味)を差し出す。「おう」と言って和人は一房と一袋をレジに持っていく。
「違う道で帰りたい」和人が持ったレジ袋からポテフラを取り出しながら私は言う。こういうときは私が半歩先を行って、勝手に道を決める。マンションまでの道の選択肢はいくつもあって、曲がりたいところで曲がればいい。本当は住宅地を通る必要もなくて、県道沿いを歩いて一度曲がるだけでマンション前の橋が見えてくる。その道が一番早くて一番つまらない。
「なんかさあ、高校の数学でなかったっけ? A地点からB地点まで移動するための経路は何通りあるでしょう、みたいなやつ」
「あったな、一枚もらっていい? 場合の数とかいう単元だった気がする」
「単元…って単語久々に聞いた」
「あっ、うまいなぁこれ。『C』とか『!』とかそういう記号を使った気がする」
「あった、びっくりマーク。なんかテンション高そうだよね」
「そうだな。『7!』とかそんなテンションで言われてもな」
「ふふ。なんか、文系同士で数学の話すると、バカみたいになる」
「そうだな」
ポテフラのしゃくしゃくいう音が夜に溶ける。ふつうの家にしか見えない鉄板料理のお店(入ったことない)。猫の集会所(にゃー)。水を入れた大量のペットボトルを周囲にめぐらしている家(猫除け?)。
「高校のときすげえ数学の得意なやつがいてさ、どっかの大学の数学科に入ったけど、割と仲良かったんだけど、もう一枚くれ」
「うん」
「ありがと。そいつさ、いっつもヘッドフォンしてるんだけど、絶対おんなじのしか聴かないんだよ。スティーリー・ダンの『Aja』ってアルバムなんだけど、ここには無駄な音が一つも入っていない、世の中には雑音が多すぎる、俺はもうこれ以外の音楽は、というかここに入ってる音以外は一切聴きたくない、って言うんだよ」
「面白い人だね」
「そいつのiPod見たらほんとに『Aja』しか入ってないんだよ。ていうかiPodとかいらなくないかお前、って思ったけど」
「その人、いま何してる?」
「次の短編の主人公になる」
「長編書きなよ。短編は応募できるとこ少ないでしょ、なんとか新人賞、みたいなの」
「痛いとこを突くね」
「こないだ自分で言ってた」
「そうだな」
川に出る。和人はまだポテフラをしゃくしゃくやっている。和人は物を食べるのが異常に遅い。しゃべっていても、黙って食べてても。
「あ」橋に差し掛かったところで、マンションの方を見上げながら和人が声をあげた。「電気つけっぱだった」
「ほんとだ」二階の真ん中あたりにある私たちの部屋からは、白とも黄色ともオレンジとも言い難い光がぼわっと溢れ出している。「なんか、誰か別の人が住んでるみたいな感じ」
「確かに。変な感じだな」
「私たちが外に出てる間に、私たちに似た別の二人がやって来て、何食わぬ顔で暮らし始めるの。その二人には子供がいたり、私たちよりちょっとだけ幸せそうに見えたりするかもしれない」
「俺よりも小説家に向いてるよ」
「ありがと。でも、続きはあなたが書いて」
「よしきた」
マンションの狭い階段を登りながら私たちは微笑み合った。部屋の前に着くと、私はポケットから鍵を取り出す。鍵穴に差し込んで静かに回す。ほんとに誰かいるかもしれない、と思って一瞬躊躇する。二人になんて声をかけるべきなのだろうと考えながら、私はゆっくりとドアを開けた。
126通りある帰り道のうちのひとつ