砂漠の旅 1
「君はあまりにかたすぎる。過ちでも良い。己の青春を殺すな、止めるな」
老いた偉大な人は言った。
偉大な人は、袖にぐるりと藍色を染みこませた、きなり色の絹を纏い、赤や紫に染めた藁を丁寧に編み込んだ機能的なサンダルを履いていた。
姿勢は正しく、背が高く、堀の深い顔立ちをしていた。はっきりとした瞳で放埓な純白の髪の毛を風になびかせながら、いつも少し遠めの距離感で青年に対峙した。背中には灰色に、散らすような白色の小さな小さな翼があった。
青年がいる。
彼は、確かに多くの事を教えてくれた偉大な人とはもうしばらく会っていない。彼は今一人、砂漠を旅している。彼は病に蝕まれつつあった。一生この病と向き合わなければならない。それも偉大な人に教えて頂いたことだ。彼はこの病と共に生きるすべを知りたかった。
彼の心には獣がいた。猫背で非常に痩せていた。ぬるりとした黒い短毛に包まれ、口は開ききってない上に歯も生えきっていない。目は薄くしか開いていなくて、黒目は左右の大きさが違った。耳だけ狼のようで異様に大きくピンと立っていた。彼には自分の獣が見える。あまり自分の獣が好きではなかった。彼はつるりとした肌を持つ何気ない人間の青年の容姿である。彼は今、木陰でマントにくるまり寝ている。ねじ曲がったガサガサの木立は朝焼けを待つように風に、少ない葉を震わせていた。
彼は病であった。内側から腐敗した脂質の塊が広がっている。心からじくじくと広がる。左足のふくらはぎは特にひどく、指で押すとぐにゃりと内部に指が埋もれた。
「この病は心が起因している」と偉大な人は言っていた。それは彼にもよくわかった。自分を意識していれば確かに脂質は脂質でないかのように、骨の部分の脂質は骨の機能を果たし、心臓の部分の脂質は心臓の機能を果たした。
しかし彼は青年の容姿を保持できず、どろどろと脂質と肉塊になり、地面に流れてしまうことがあった。
彼はこの病と共に生きるすべを知りたかった。
彼は藤色の陶器の小さな茶碗を持っていた。小さい頃、偉大な人に教わり作った。赤い粘土を成形し素焼きしたあと、藁灰でできたこってりとした釉薬をたっぷりかけて焼き、できた大切な茶碗だ。表面は不思議と全く貫入が入らず、つるりとしていた。(そのことを偉大な人も不思議がった)彼の形を保たせていたのはその茶碗だった。肌身離さずその茶碗を持ってさえいれば心が自分を失っている時も彼の形を茶碗が保持した。
遠くにかすかに太陽の気配がする。青い朝焼け前の空気。彼が起きたようである。
何気ない様子で、もそもそ伸びをし、欠伸をし、疲れがとり切れない様子であぐらをかき、木に寄りかかった。早めに出発せねばならない。日中は暑すぎて歩く気にならないのだ。涼しいうちに距離を稼がねばならない。
大量の荷物の中から、かたくかたく焼しめた、大きなパンを取り出し、ナイフで切り取る。動物の胃袋でできた保存袋からチーズを切り取りパンに乗せる。少しの水を飲みながら朝日の方向を見ながら黙々と食べる。半年ほど前から変わらない行為だ。
まだたっぷり食料はあった。
町はまだまだ先だった。今日は珍しく鳥が飛んでいた。空をはたくように翼を動かし、一直線に鳥は飛んで行った。奇妙な鳴き声を一言漏らした。
ふと何かが変わる気がした。
茶碗がピキン、と小さく音を立てた。小さな小さな一筋の貫入ができた。
彼は、それに気づかなかった。
砂漠の旅 1