信仰
兄が女を購うのに憧れた――――いつだったかも忘れてしまうほど遠い昔から……兄が塒へ戻るときに女の白粉のかおりを毒のように纏っていることがある。清涼でない甘い澱みのかおりである。兄の衣にまざる煙草の煙が肺の内へ噎せ返る感覚……私の手前でときに煙を喫む兄は、いつも女をあの甘くて鋭い眼で抱くのだと思うと、なんだかたまらない気持ちになって、私はひそかに、身を焼くほどの憧れをもって、兄を見ていたことがあったが……。
§◎§
兄だとひとくちに言っても血縁ではない。ほかならぬ私を、繁華の六区にほど近い芸者置屋へ捨てていったのが彼だから、きっと親かなにかだ、というのが、私を育てたそこの女将の言うことなのだが、私のための金を厭々工面して持ってくる兄の姿を見るにつけ、私は「これは親ではない」と、その度々、理由なく確信するのである。親というよりは兄というべきと心のどこかに思っていた。だから彼は兄なのである。彼が認めようが認めまいが別にして。
兄は獣のような人だった。理性を放棄してあるわけではないのだが、理性をどうにかして捨てたがっているように見えた。これは兄にとっての手枷・足枷の用をなしていたらしい、私の知る限りにおいては、兄は自発的に酒に酔い女に溺れ、それでいて自暴自棄にいろいろなものをかなぐり捨てるような生き方をしていて、それは痛ましくありつつ、子供の癇癪に似ていた。
そして兄は私の存在をまるで許容しないひとだった。私がその傍へ寄るのを何よりも嫌悪した。お前があるから自分はふしあわせなのだとでも言いたげに私を見た。
兄の態度がそうだったから……私はほんとうに、彼が誰よりも大好きだったのだが、それはなんだか、ほかのなにかによって思わされている、と――――したほうが自然に感じられる、刷り込みのような感情だった。その実、例示をするのは控えても、兄の私に対する仕打ちはひどいもので、置屋の女将をはじめとする私の周りの女たちは、「どうしたってコウちゃんはあんな男を」と口々に言ったものだった。だから――――疑問に思ったことはあった。けれども本当のところでは疑わなかった。疑えず……盲信する心しか、兄に対して抱くことができなかった、その覚えだけがくっきりと残っている。
しかし如何に、「思わされている」とはいえ、思ってしまった時点で私の負けなのだ。それはほかならぬ、私の気持ちになるのだから。
今になったからようやく私は、兄を恨み、憎む気持ちにもなれるのだが……。
§◎§
排除。
これは排除だ。
私は女を購うという行為に憧れた。今ほど花街が日常から乖離しない時代である。兄はよく女郎を購った。頽廃的ではありながら素の容姿だけは優れていたので(苦み走ったとかいう表現がよく似合った)、肉体におおらかな芸者に迫られることも珍しくなくて、また彼はそれを特別、嫌がりも遠ざけもしないところがあった。兄を嫌う一部の女もつまりは、私のことがなければあんな屑とは知り得なかった、昔だったらいざ知らず、云々、私が訊けば姦しく喋りたてるのである。女将がそこにいればまだ黙るところを、誰もなければ……。
一夜限りならば、かかわりあうだけ、兄は非常に魅力的に映る人間のようだった。その彼が女を抱く情景を、私はじかに見たことはないが、これを私は、美しくも醜い、半ば夢のような陶酔の中に幻視する――――のも、私が生来激しく夢見がちだから、兄へも都合よく視線を仕立て上げているだけなのに違いはないのだが。
私は兄に憧れた。だから、女を購う兄にも憧れた、ということなのだと、思う。屈折である。私はただ、彼になりたい。あるいは、この憧れに、完膚なきまでに打毀されてみたい……なりきれないならば破壊されたい……と、考えたことが幾度となくあって、私はこれを思うだけで、言いようのない震えが背骨から脳髄へ這い上がるようになってしまう。私は、こんな陶酔に身を焼かれるのを、我ながら恥かしく、気色悪く、感じるのと同時に、私をこんなふうにつくりあげたのは兄なのだと思うようにして、いわれのない八つ当たりを、気づかれないように、私の心の底でだけ、どれほどか昔から、繰り返していた。
気付いてしまえば――――あるいは思ってしまえば、それはもう、兄が私を嫌うのなど道理にほかならないと理解できた。
だが、こればかりは、それだけではない。
§◎§
私の兄は、まるで鬼のようなひと。
大粒の雨が降ったある時、兄は朝も過ぎた頃に、女物の傘を伴ってようやく帰ってきた。そして、部屋の隅で膝を抱えている私を見ると苦い顔をして、あとは無視を決め込むばかりなのだった。その彼の体からは、また白粉のにおいたつような気配がして、私はそこに、兄に抱かれた女を感じた。
「……おかえりなさい」
私は習慣から兄に挨拶だけはする。兄は何も言わないし、私を一瞥することもない。五畳ばかりの荒れた部屋の中に、彼は無造作に居ついては、煙管に火を入れ、静かな独居の壁に煙を吐き遣るばかりであった。
私は、あの置屋の女将に尋常小までは行かせてもらった。私はさほど頭に劣っていなかったから、行きたければどこまでもと女将は言ったが、私は固辞した。そのために、女たちの周りの世話をしながら、兄の姿を追い眺めるのが私の普段になった。その家に入り込むのも難しいことではなくて、むしろ不用心にも兄はあまり鍵をかけないから、許可など無駄だろうので勝手に居つき始めたけれど、それもいつのことだったか。少なくとも、数年は経っている、その間にいくらかの粗相をして、また酷い目に遭ったが、私が相応の卑屈さを備えたことによって兄はいくらか心を収めたと見えて、私のことを空気のように捉えることとしたようだ。兄が私に最低限、これは読むなこれは触るなと吐き捨てるように言いやったことさえ守っていれば……彼は私の「にくしんを知りたい」「このそばにて安心がしたい」という欲望を、否定はしても口に出すまではしないのだ。私はこれを、兄の一抹の情けと思って享受している。
ただ私は往々にして、その兄を怒らせることがしばしばあった。これを私は定められた悪癖と思い諦めがちにうんざりしている。
私には一つの愉快な特性がある。ただ、明確に知りそめたのは兄が死んだのちのことで、あのときの子どもの私は漠然ととらえているにすぎなかったのだが。
「見つかるな」と、後ろめたさとともに強く念ずれば、私の気配は空中に溶けてなくなってしまうようなのだ。姿の輪郭も、私の視線も、声も、感触も。私は外からの刺激を受け取るだけの存在になる。月の光の弱い夜など覿面である。私までも、自分で自分の姿を見失うまでになるからだ……この原理を、私は自分では知るはずがなかった。これも兄が死んでからほどなくして理解をしたが、いま兄を語る上では問題にならない。
私が初めて、このいやな性質に気付いたのは、粗相をしでかす数年前だから、小学校にあった頃だ。私はやっぱり兄のことが本当に大好きで、嫌がられても何かお役に立てることはないかと思っては、この周りをうろうろとしていた――――今思えばまったく迷惑な話である。そんなころのとある夕暮れ、なんだか無性に兄の近くに居たくなって、住処を少し抜け出したのだ。きっとまた厭な顔をされることも覚悟して、でも家中の女たちに気付かれたくもなかったから、ひたすらに、見つかるな、見つかるな、と心に強く念じながら、足音も立てないようにそろそろ、そろそろと外へ出て……そこまでの間に誰にも気づかれなかったのを当時は幸運と思ったが、おかしいと気づかなかったのは私の愚鈍さの表れである。そのまま綺麗な夕空の間を縫って、花街の目と鼻の先にある兄の居所まで急ぐのだが……その手前で、私はうっかり、同居の芸者の一人と往来のなかにすれ違ったのである。
顔が見えるすぐの距離だったので、しまった、と思った。しかしそれもつかの間、女は私のことなど気にも留めずに通り過ぎて行ってしまった。私は信じられない気持ちになった。日が沈み始めると、女将は私をあの置屋から出してくれないのだし、それはほかの女たちとて同様で、そう、今の女も、このほんの一カ月ほど前にはたまたま帰りの遅くなった私を叱りつけたばかりなのに――――第一、この無視の仕方が、明らかに私を視界に入れているはずの角度でありながら、私の存在など全く認識していないふうだったから……。
そこまで考える間に、立ち止まっている私の肩や背には、行き交う人が無遠慮にぶつかっていくが、比較的、短気な性質の人間が多いように思うこの時間のこの界隈において、私はまるで捨て置かれていた。人々に、私は見えていないらしかった……私はこう、気づいてしまったら、ふいに大きな孤独がこちらへ襲い来て、そのまま体を包まれてしまった。そういう気分になった。
怖くなったので、私は震える足に無理を言わせて走り出した。兄のところに早く行こうとしたのだ。群衆の中に在っての孤独など、未経験な子供には重すぎたのである――――兄の居所までやっとの思いでたどり着くまでに、心境においては永い永い時間がかかった。何せほんの数軒の家を通り過ぎるだけだのに、怖がりの私はぼろぼろと涙を流して、鉛のように重たい足を必死に前へ前へやるのに苦心し、息を切らした体内に心臓の音ばかりが、何かの太鼓の音じみて大きく響くものだから。その間にも、誰も私には気づかなかった……――――怖じつつ、やはり鍵のかかっていない家の戸を開けると、幸いにも兄はそこにいた。だが私の気配を察するどころか、戸が開いたことも分かっていないようだった。締め切られた窓の近くに腰を落ち着けて、いつもの煙管で煙をふかしている……私は玄関戸だけはどうにか閉めて、そうしたところで、兄からいつもの粗雑な扱いさえ受けられなくなったのを心に察し、いたく悲しくなってまた泣いてしまった。疲れ切った足から力が抜けて、私は土間から動けずにいた。ずいぶん声を上げてしまったはずだが、兄はしばらくのことこれにすら気付く様子はなかった――――しばらくは。
どれだけか泣いて、いくらの時間がたったものか知らないが、ふいに兄のいるほうから、何か驚いたような物音がした、私が顔を上げると、眼をいつもより見開いて私のほうを見ている兄がある。ああ戻ったのだろうかと思って気が明るくなったのもつかの間、兄が小さい声で、けれど鋭く、言った。
「……いつから居た」
兄は見たことのないような顔をしていた……確かに驚いて、でもその中には苦悶や怒りや、いろんなものが渦を巻いていた。私はそのうちのひとつに、一種の恐怖を感じ取った。
――――兄が私に、恐怖している。
この幼い、あなたの弟に。
「…………し、しばらく前から」
「どうやって入った。戸が開いたら気づかないわけがねえ。お前…」
「わ……私、」
声を上げたら、なんだか兄は聞いてくれそうな空気があったので、思うままに先のいきさつを話した。今思えばずいぶんな涙声であったと思うし、話口もめちゃくちゃで、それだけでも恥ずかしくてどこかの穴にでも入りたい思いになるのだが、あのときの兄は終始強張った顔で、私の話を終わりまで聞いてしまうと顔を少し俯けた。今回は運良く戻れたからよかったが、何かのはずみでまたなったらどうしよう、そんなことを兄に涙ながらに訊く私へ、兄は静かに一言、
「そうなったら俺のところへは来るな」
とだけ言い放った。徹頭徹尾、私へは感情を向けない兄にしては揺らぎの見える声だと思った。
「でも」けれど私はどうしたって聞かん坊で、そこまでで止しておけばいいものを、口をいろいろに言葉が突いて出る。「ああなるんだってなにか、なにかの、わけがあるんでしょう」
「あるんだろうな。勝手に考えていろ」
「わ、私じぶんのことなのにわからないんです」
「わからないままでいたって何の支障もないことだ」
「そんな……」
兄は何か……終わることのない不機嫌の中、ほんの些末な側面ではあるが、そこだけはとても傷ついたような表情でいて、私のほうを見ない。私はそれが悲しかった。
「……教えてくれないんですか。兄さん何か知っているんでしょう」
あのときの私は愚かだった――――そう訊いたとき、兄の肩が一瞬の間を置いて強張るのが見えたが……私は、ああ失敗した……と思った、…………次に私を見た彼の眼は、私を、仇敵を相手取ったときのように睨みつけていた。ああでも普段、私を――――直視に耐えないとばかりに見てくれない兄が、私を、私を見ている……見ている……と……思うと、骨の髄を冷たい電気が這いずり上っていく心地がした……それは……。
私のそういう……内面を知ってか知らずか。「それ以上言うな」兄は私への何かを抑えているような素振りで、忌々しげに吐き捨てるのだ。「言うなよ。言ったら今度こそ殺してやる。お前だってそこまでの分からず屋じゃねえだろう」
「――――にいさん、」
「やめろ!」
兄はもう私のほうを見なかった。
「おれをそんなふうに呼ぶな。おれに弟なんてない」
そうして後は何も言わなかった。私は否定された悲しみといっしょに、目の前の男が私へ与えたひとつの衝撃を抱えながら、浅くなりがちな息の合間でやっと絞り出すように言った。
「はい……葵…さん」
私は駄目だ。
私は…………兄から命令をされると、嫌でも従ってしまいたくなる。
兄の名前は葵といった。篠谷葵と、いった。
それを私は誰に聞くまでもなく、どういうわけだか知っていた。きっと女たちが囁きあっているのを聞いたのだろう。
それ以来私は兄を兄さんと呼ぶのを止したのだが、それもひとえに殺されたくないからだ。けれど私はどこかしらで、敵意と恐怖と罵りとを――――内包した兄の眼に曝されたときの、体が凍り付くほどのあの電気。冷たいものが脳に向かって這い上がっていくあの感触を……忘れられない。今思えばあれは……初めて味わう快楽にも似ていたのだ……ふたたびからは、初めてほどのものは得られないと聞くけれど、ほんとうかしらと思う。そんなことを口実に、私は何度彼を兄と呼びそうになったか。
私はそれほどの性悪とも言える。けれど……誰が、誰が私をこんな。こんな無節操につくりあげたものか……とも考えると……それは間違いなくあの兄のためなのである。
§◎§
……そういうことが、形を変えては何度も起こったこともあってか、ただでさえ気性に女らしい泥が混ざりつつある私が、憧れに負けて初めて女を購ったのは……そう、もう、忘れかけてもいるけれど、十八だか十九だかの、頭がおかしくなりそうな熱気を孕んだ夜である。何をせずいても汗が首元にわいて、ひやい湿りを帯びた己の体を、頭が持て余している、気分にさせられていて……その頃にもなればさすがに、私は夜に出歩いても何も言われないような歳で、だから財布以外は着のみ着のままに、幽霊のような足取りで、熱に浮いた体を引きずりながらこれをどこかへ放りだすつもりになって闇の中を歩いて行くのだ。
もとより……私の周りには置屋の芸者衆をはじめとして女ならば山といたけれど、同居の女をどうこうするほど私は無節操でもないし、そもそも兄は私があるためか、決まった店からは――つまり私のいる置屋および、そことつきあいの深い店からは――どんな器量良しでも誰も購わないのだ。逆に、女たちからも疎まれている節さえあるのだから購うにしたって無理がある。
きもちと同じくらいのぼんやりした記憶の中では、どの店で……どんな女を購ったのか……ということはあまり覚えていないが…………人からの小遣いで成り立っている私の財布程度で購えるのだから、大した店ではなかったのだし、大した女でもなかったのだろう。
実際、初めての女だ――――どんなものかと思って抱くには抱いた。薄暗く、湿った黴のにおいがかすかに体へまとわりつくような布団の中に、女の肌ばかりがすべての水を弾いて生白かった……この女は安いわりに若くて良い肉を持っていたのだろう、今思えば……ああこれだけの体があれば。これだけの体を持った女と、兄は…………と……そういうことを考えていたから私は不能になりきらなかった。女に触れられたらそれだけの反応をした。白い指と赤い舌とが私の上に熱っぽく這い回るのを私は見たり見なかったりした。女の華奢だがやわらかい体を羨ましく思いつつ……私の心はどこか別なところにあって、そのあいだずっと、体に凝る別な気持ちを色欲に変えては女にあてつけるようにした…ことを、私が購った女は察したらしくあり、或る情事の終わったところで、くたびれて横たわる女の白い体は、私をそっと睨むように眇めて「つまんない人ね」と呟くのである。
「…………何の話」
私はその時初めて煙草を喫んでみたくなっていた。それくらいのだるさが体いったいを覆っていた。
「つまんないのねって、言ったの。上の空なんだもの。心はともかく、あたしの体すら見ない男なんて初めてよ」
あんたそういう人だったのね。女は私のことを、もとから一方的に知っているような口ぶりだった。
「あんた童貞だったでしょ」
「……そうだね」
「じゃあなおさらに不思議。不思議なくらいつまんなくて、男らしくないのね」
男らしくないと言われたことはあるから、女の言葉は何一つ私の中に印象的に響かなかった。女は、体だけは私に纏わりつくようになりながら、そこのほとにこぼした精の沁みるのを一抹の不快感とともに味わっているらしかった。
「あんたの兄さんって」女がふいに口走るから私はついそちらを見てしまう。「女からはすごく好かれるようにできてるわ。何故だと思う」
「さあ。彼のことよく知らないんだ」
私には明瞭に答えようがなかった。
女は「嫌われてるものね」と微笑んだ。私はその顔を見なかった。それだけの会話にすら疲れて長い溜息をつくばかりである。私は女ばかりの中で育ったにもかかわらず、女と会話をするのがどうも苦手なようだった。
真夏の湿度がいよいよ汗と交じって、どこからがどれなのかとうとうわからなくなるころ、私の肌の上で女が艶めいて寝返りを打った。彼女はまだ起きているらしかった。
「あたしあんたの兄さんに抱かれたことあるわ」
沈黙の後に、思いのほか眠気に毒されない確りした声が私の耳を打った。私は少し身震いをして、寝ようと閉じていた眼をまた開くことになったが、そうして女を見ると、今はもう覚えていない顔のなかから、記憶に残るいやに冷めた眼が私の内面の戸惑いを見透かして光っていた。
「……そういうところよ。あんたよっぽどあの人のこと好きなのね」
「…………からかっているの」
「ううん…購われたのはほんとのことよ」
良い男だった……と女は感慨深そうに呟いて、どこか恍惚とこの表情を蕩かしている。私が兄のことを考えている時と似た顔だ……と思うと、私はどことなく厭な気持になった。
「やめてよね」
女は私の心もちに気付いたようだった……表情の奥まで見通す眼を女は持ち合わせているのだろうか、不思議だった。
「そんな眼で見ないでちょうだいよ」と女は私を薄笑いのうちに見る。「嫉妬でもしてるの」
私は何も言わなかった。けれどその言は間違ってもいないのかもしれない……と思った。私は兄のことがほんとうに大好きだ。それがたとえ、何か別なものに思わされていようといまいと、私は兄が大好きで、どうしようもない。……。…………私はそのとき兄を慕う心がわずかに厭わしく感ぜられた。何かの大きな障害のように見えて仕方がなくなった。私はそこまで私の認識を歪めさせるこの女が不思議で仕方なくも思った…………私は…兄を奪われたくないのだろうか、と考える。
「好きな人に全力でいられるのは女だけなのよ」
「…………」
「ねえ。そう思わないかしら……反対にね、男って女に本気になっちゃいけないの。あんたの兄さん……アオイっていったわね。あの人はそりゃ良かった……誰にも本気で恋しないんだもの。誰も好きにならないし……誰にも、本気で何かを思うってことがないんじゃないかしら。だから女も勝手に寄っていくのよ……」
女の声はずっと微笑んでいた。火照りのさめた私の首筋を細い指先で撫でやりながら……そのまま首を絞めでもしないか私は少し期待したが、そうならないことくらいは知っている……。
私は、彼女の認識に少しの誤解があると感じた。兄は――――少なくとも私のことだけは、ほんとうに、心の底から大嫌いでいるのだと、私はいつごろからか確信していたから、それと女の言うこととはそぐわないのだ……けれど、兄が、それほど他人に無感動であると、それがほんとうなら……私はなんだか……なんだか嬉しくなってしまう……あんな仕打ちを受けてもなお。
兄から、確固たる、あまりにはっきりとした嫌悪を貰っているのは、きっとこの世で私だけだ。女の言うことを信じるとするならば……それがどれほどの異常か……本人ではないのだからわからないけれど。あの兄の中に私が独占できるものがあると思えば…………私の体は今度こそ、言い知れぬ高揚に満たされて、女を抱くより……それははるかに気持ちがいい。
おそらくはそれに初めて気が付いたのはこの時であった。ずいぶんな歳月が経ったが……記憶に曖昧なこの女のことのなかで、思いのほかに聡明だった物言いだけは、今なお鮮明に覚えている。
どこかで女は私にこう言った。
「あんた、なんだか女みたいよね……」
私は何も言わなかった。
§◎§
私は兄に憧れた。だから兄のする行為にも憧れた。けれど成人するかしないかの頃に、私はとうとう兄のようにはなれないのだと確信をした。私は自分の気が迷ったときのほかはもう女を購おうと思わなくなった……初めの女にも、また来るといいと言われたけれど、ふたたび彼女を購うことはなかったし、姿すら見ない。
兄のことは――――ただ眺めるだけ。
兄は、私がなんの余計なこともしないで静かにそこに居る限りでは、私を置物として扱ってくれるから、私はぼうっと彼を見て、それで一日を終わらせることさえある。私でさえ、私のことを、おかしい奴だと……ともすれば何らかの気違いのようだと思うのに、自覚があるのに変えられない、じれったさに近いものを味わっているが、もうここまで来れば開き直りのほうが強くなる。
私の抱く憧れはすでに憧れの範囲に落ち着かないものになってしまった――――と思っている……あの恐ろしい兄が死んでもう大分月日が経つ。物覚えに自信のない私の頭の中で、あれほど絶対視した彼の姿さえ、遠い過去と化すことで薄らいでいくようだ……私は兄がただ大好きだったが、それすら愛とも憎ともつかない奇妙な思いに転じた。思い出が私のなかからふとした瞬間に溢れ出ることがある、兄はその時こそ私を掴んで、しばらくのこと離してくれなくなる――――私は……私は、あの兄が好んで使った煙管を未だに大事に持っているが……これだけは兄の真似をして、締め切った部屋の中に煙草の火を入れると……やわらかく苦い煙が立ち上るなかに、私は誰とも知れぬ虚像を幻視するようだ。兄ではない、私でもない。それでもあまりにも懐かしくて、泣きたくなるほどの郷愁が、私の中に渦巻いて、煙とともに火が立ち消えても、余韻を痛いほど残していくのだから仕方がなく……どれもこれも、すべて兄のせいだ。彼があんなに早く死んでしまったから、老いる私の中に彼の存在があれほど克明に刻み込まれているのだ……ほんとうのそのものはそこに有り得ない。それを宗教と呼ぶと誰から聞いたものだったか。
私の憧れは今や信仰と相成った。体に染め抜かれた被虐趣味。盲信すべき兄からの、心ばかりの贈答品。……私は……今なお彼をどうしてやりたいのか…………。
信仰