蓄音機とか青春の輝きとか初恋とか
田舎の城下町に出張の用事があって、電車の待ち時間に少し余裕があったため、とある文学館に立ち寄った。
明治・大正の古き良き時代の、西洋の香りを色濃く残した木造の外観。
中に入ると、客は僕ひとり。
中央ホールには、奥に黒い暖炉が置いてあり、茶色い5つのダイニングテーブルが並べられていた。
窓際には古いヤマハのグランドピアノ。
なんだか窮屈そうに端に寄せられているので、気の毒に思って近づいてみると、柔らかな埃がちらちら被っており、案の定暫くは使用されていない様子だった。
ピアノ越しに古い桜の巨木が見えた。
手持ちぶさただったのか学芸員がつかつかと近づいてきて、
ピアノは暫く壊れたままになってしまっていて…
と言った。
僕は、
そうですか。
とだけ言い、柔らかな緑色を覗かせる桜の巨木を見つめ続けた。
学芸員が、
あの、古い蓄音機があるのですが、よろしかったらお聴きになりますか。
と言った。
蓄音機はホールには見当たらなかった。
お願いします。
と僕は頷き、彼女は隣室に引っ込んでいった。
暫くすると、パチンと何かが切れる音がして、ツーとレコードの擦れる音がして、控えめに柔らかな音色が響きはじめた。
カーペンターズの「青春の輝き」
のサビの部分を少々。
あ、すいません。これは私が昨日勝手に…
カチャカチャ、ストンと慌ただしい音がして、ツーと擦れる音がして、今度はシューマンの「トロイメライ」がゆっくりと流れはじめた。
つかつかと学芸員が出てきて、よろしかったら、腰掛けてください、といった。
私は桜の木が見えるように、一番窓際の椅子に腰掛けた。
学芸員も私の向かいの椅子にストンと腰掛けて、黒いストッキングと、ベージュのスカートの間から白い足を覗かせた。
見た目、20代前半位に見える女性が、カーペンターズが好き、というのは、少し可笑しかったが、僕はその学芸員に好感を持った。
曲間に入り、音がゆっくり小さくなってきた。
竹の針を使用しているんです。針がしなやかで、切ない音がします。
「切ない」
といった彼女の言葉が引っかかった。
ゆったりと時が流れる。
「イタリア水夫の歌」
が流れて、あぁいつ聴いたか、記憶にないほど小さいころに聴いたな、と思った。
途端、ぶわっと強風が吹き、桜の花びらが、それこそ無数に(本当に、そのときは花びらのピンク一色だった)舞い上がり、あぁ桜吹雪だ、桜吹雪だ、と僕は思い、なんだか少し切なくなった。
学芸員が、
隣に、小高い城跡があって、昔は徳川の殿様を出したお城だったそうなんですが、そこに大きな山桜がありまして。
と言った。
あぁ、山桜が。
ひょっこりと新緑を覗かせる桜の巨木を眺めながら、僕は桜吹雪が舞い上がり、ゆったりひらひらと落ち行く様を眺めていた。
桜の花びらが散って、そうすると、掃除が大変なんです。
ピンク色がすっかりなくなると、あぁ、いよいよ蒸し暑くなってくるな。夏が来るんだなと、そう思います。
そうか、そうですね。これだけたくさんだと。
桜の巨木が真っ白に霞んで見える。
僕は学生の時分を思い出していた。
初夏の暑い休日だった。僕は、彼女と一緒に、古い城下町を歩いた。
城跡に、彼女の出身校である女子高があって、その前の自動販売機で、ドクターペッパーと、アクエリアスを買った(なぜだかこういうことは鮮明に覚えている)。
彼女が、暑いので、中に入ろうと言い、手を引かれるまま、僕は女子高の正門をくぐり、玄関口を突きぬけ、職員室の前まで来た。
大丈夫大丈夫、待っててね。
彼女がそういうので、僕は職員室で待った。
ものすごくドキドキした。女子高にくることなど、まずない。
女子高生に鉢合わせたらどうしようかと思った。
しばらくして、彼女が〝関係者〟と書かれたプラスチックの札を持ってきて、僕はそれを胸につけ、彼女についていった。
美術室に入った。
中には白髪の初老の女性がいた。
こんにちは。ご無沙汰しています。
と彼女が言い、顧問の先生なの、と言った。
僕は先生にしてはものすごく齢だな、と思った。
彼女と初老の、その顧問の先生が昔話をはじめたので、僕はなんとなく気まずくなって、美術室のまわりをぐるぐると回った。
木原美奈
と書かれた絵が飾ってあって、それは彼女の描いた絵で、大きい眼を、角張った指が包み込んである。なんとも抽象的で、グロテスクな絵だった。
彼女、独特な感性してるのよ。
先生が、そう言った。
僕は何も答えず、絵を眺め続けた。
お茶を入れましょう。
と、先生が出ていき、彼女も後を着いていった。
古い、今にも脚が折れそうな椅子が窓際に置かれてあって、僕はそれに腰掛けた。
椅子がきぃと黄ばんだ音をたてて軋んだ。
全く気がつかなかったが、少し離れたところから、カーンという金属音や、ワーと甲高い歓声が聞こえてきた。
外を眺めると、ソフトボールの試合だった。
小柄な女性が、あっという間にダイヤモンドを回って、風のようにホームベースを突っ切った。
美術室のすぐ近くには芝生があって、真っ白なソフトボールがポツンと転がり、黒々としたセミが静かに静かに腹這いになっていた。
それはなんとも涼しげで、ガラス窓に屈折して差し込む柔らかな陽光に目が霞んで、僕はただただ、一面、真っ白く見えて、あぁ、気持ちがいいな、と一瞬まどろんだ。
白、真っ白。
薄目を開けると、音を立てずに、スッとセミが羽ばたいた。
限りなく真っ白に近い、だが微かにピンクの色を残した桜の花びらか一枚。
それは、柔らかに白い光を跳ね返すソフトボールと同化していた。
季節外れの桜の花びら。
僕は、それをとても美しいと思った。
その後の記憶は曖昧であるが、僕は彼女とキスをした。彼女の在籍した、3ーBの教室で。
彼女が、僕の肖像画を描き、それはやはりグロテスクな代物だった。
帰りの列車でもう一度、キスをした。
ショートカットの似合う、色の真っ白な明るい女の子。
会社に戻るための、列車の時刻が迫ってた。
僕はホームに立ち、田舎の単線の列車を待った。
線路が熱を帯びて、霞んでゆらゆら揺らいで見える。
彼女は、海外にボランティアに出掛けて、そこで知り合った年配のイギリス人と結婚した。
子どもは、男の子がふたり。
年配のイギリス人とは離婚して、日本に戻って来て、都内のとある病院で感染症にかかって呆気なく亡くなった。
ある人からこのように聞いた。
真実は定かではないし、特段感想はなかった。その話を聞いた瞬間は。
彼女とはひと夏しか一緒に過ごさなかった。
彼女と僕が交錯したのは、あの真っ白な夏の日のただ一点しかない。
カタカタと列車がゆらりゆらり近づいてくる。
そういえば、城跡の堀には綺麗な純白のクルメツヅジの木が植えてあった。
彼女が、戦時中に皇族の人がきて、祈念のために植えていった、とそんな話をしていたのを思い出した。
ツツジは今が一番美しい。
仕事が落ち着いたら、大事な人と見に行こう。
そう、僕は思った。
※すごくロマンティックな話をさせていただくと、白いツツジの花言葉は「初恋」なんだそうです。僕は気が多いので、いつでも「初恋」ですが…。
蓄音機とか青春の輝きとか初恋とか