すれすれ
知らない道ではなかった。
それどころか、日村が会社に遅刻しそうなとき、月に何度か自分の車で通る道である。狭い路地が入り組んでおり、何箇所か一方通行のところもある。ほとんどは、朝の7時から9時までの、時間帯限定の一方通行であった。
その日社用車で外回りしていた日村は、得意先で思いがけず時間をくってしまった。次のアポイントに間に合うよう、近道して会社に戻ろうとその路地に入ったのは、もうそろそろ昼になろうかという時刻であった。
朝と違い、狭い道の片側を塞ぐように配送業者が停車していたり、老人が自転車でフラフラと道の真ん中を走っていたり、近所の主婦が立ち話をしていたり、通りにくいことおびただしい。
次の十字路を右折すると時間帯限定の一方通行に入るのだが、日村は、ついいつものクセで、道路の左右にあるカーブミラーをよく確認もせずに曲がってしまった。あっ、と思った時には、反対側から入って来たでっかいワンボックスカーとお見合い状態になっていた。道幅が狭すぎて、とても離合できそうもない。一旦バックしようとしたら、後ろから軽自動車が入って来た。
どうしようか迷っていると、前方からワンボックスカーが近づいて来て、ギリギリまで道路の端に寄せて止まった。暗に、おまえがすり抜けて通れと促しているのだ。
日村はそれほど運転がうまい方ではない。自宅の駐車場に停める時でさえ、何度か側面を擦ったことがある。車幅感覚というものがイマイチなのだ。
今、前方を見ると、右のワンボックスの車体と左のブロック塀との間は、日村のハッチバックセダンの車幅とほぼ同じに見える。とても無理だ。
日村が立ち往生していると、後ろの軽が「ぷぁん」と軽くクラクションを鳴らした。日村の車さえ行ってくれれば、車幅の狭い軽にはどうということもない状況なのだ。
(くそっ。おれにどうしろって言うんだよ。あんたの車とは幅が違うんだよ。それに、前のワンボックス。自分はよけてるんだから、ご自由にどうぞ、ってか。これで当てたら、百パーおれの責任になるじゃんか。ふざけんなよ)
腹が立ったが、この状況を打開するには、日村が進むしかない。慎重に左右を確認しながら、カタツムリのようなスピードで前進を始めた。が、すぐにブレーキを踏んだ。
(うーっ、危ない危ない。ワンボックスに擦りそうだ。待てよ。こうなったら、多少おれの車にキズが付いても、ブロック塀に寄せた方がましか)
だが、先ほどの軽のクラクションで何事か察したのか、ブロック塀の切れた先にある玄関が開き、派手な色に髪を染めた年配の女性が、服を着せられた小さなイヌを抱っこして出て来た。日村の車を疑わしそうに睨んでいる。
(わかったわかった。どっちにも当てないで通り抜けりゃあいいんだろう。こうなったら、たとえ一時間かかったって、超スローで行ってやるさ)
日村は、羽根が触れるほどの軽さでアクセルに足を乗せた。が、また、すぐ止めた。
(ダメだ。無理だ。こんなの通れるワケがない。どう考えたって、左右どちらかのサイドミラーが当たってしまうじゃないか。あれっ。うん、そうか)
狭いパーキングにも停められよう、日村の車もサイドミラーを折りたたむボタンが付いている。日村は勇んでボタンを押した。
(どうだ、ざまみろ。これで左右に十五センチずつぐらいは余裕ができたぞ)
そのまま割とラクに途中まで進むことができたが、すぐに日村は大変なことに気付いた。サイドミラーがないと、左右にどれくらい接近しているのか、確認できないのである。もう一度ミラーを立てようとしたが、もはや、そのスペースがない。ドッと汗が噴き出してきた。
(うー、どうしよう。さっき見た限り、ギリギリ行けそうだったが)
また、後ろの軽がクラクションを鳴らした。さっきより強めの「ぶっ」という音だ。
(わかってるよ。行くよ、行きますよ。ああ、もう、どうなっても知らねえぞ)
その時、止まっていたワンボックスが動き、スーッと横を通り抜けた。結局、日村がサイドミラーをたたんだことが功を奏し、ワンボックス側のスペースに余裕ができたのだ。
(ざまみろ。やったぞ!)
喜んだのも束の間、前方から、さらに車幅の広いランドクルーザーが入って来ようとしていた。
(ああ、ああ、もう、無理。絶対、無理。もう、もう、勘弁してくれよ)
だが、それはランドクルーザーの方も充分わかったようで、バックしてよけてくれたのである。状況が変わらぬうちにと、日村は急いで横を通り抜けた。
その日以来、どんなに急ぐ時でも、日村は二度とその道を通ることはなかった。
(おわり)
すれすれ