「デスバレー紀行 (仕組まれた彷徨)」

    8月18~19日
        1


 ちょっとウトウトしたようだ。
ロサンゼルスの大通りに面した24時間営業のファーストフード店にいた。こんなところでも1人でうたた寝していると、スリや置き引きにあう時間帯だ。それを見越してポケットには小額のプリペイドカードと小銭しか入れてない。
夜中の午前2時ちょっと前、出発にはちょうどいい時間だった。


 1日前、正確に言えば、それマイナス17時間の時差でたどりついた旅行者としては、昼ひなかに混雑する市街地を抜けたくはない。
全体に日本よりマナーはいいが、モサモサ走ればタクシーがクラクションを食らわせてくる。
頻繁にではないが、遅い車は取り締まりの対象だ。


 旅の移動手段のレンタカーは、ホテルのすぐそばの店舗だった。有名どころのダラーは安いし、ハーツは信用が置ける。そんな大手でもジープの車種にはかぎりがある。
「とにかく軍用系にして。アメリカに来た目的のひとつなんだ」
あまり聞いたことのないレンタル屋のカウンターに国際免許証と日本の免許、JAFカードとクレジットカードを並べて、それだけをくりかえした。
ジープならここ、と地元でおそわった店だ。バリバリのミリタリーだって借りられる、という話だった。
人好きのする鳶色の目の黒人が、
「う~ん?ヘヴィデューティってこと?」と首をかしげ、「一番人気のグランドチェロキーがあるけど、残念ながらダメだ。25歳未満には貸し出し禁止なんだ」
とつれないことを言う。
おれは24で高校のペーペー教師なのだ。
「それじゃぁ、ハーツと同じじゃないか。わざわざ来たのに」
口をとがらして文句を言うと、
「早まるなったら。最高のが残ってる」
と如才ない。
勿体をつけてロット番号を書いてくれる。
そして、
「ハンヴィだ」
と、ささやいた。
「えっ」
ちょっと硬直する。
1985年から量産が始まって軍事配備された古典的人気車のアレ?
バブル全盛の一時期、日本でも民間バージョンがずいぶん走っていたという、あのハンヴィ?
国防兵站局が2010年くらいの比較的新しいものも放出しているというから、それなのだろうか。
アメリカでもまるっきりの軍用仕様は公道走行できないので、たぶん、あこがれの装甲タイプではないだろう。
「カーゴタイプ?」
と聞くと、目をくるっと閃かせて笑った。
「見りゃわかる」
ちょっとドキドキする。
行ってみると
(なぁんだ)
いわゆる、なんちゃらハンヴィだった。


 かつがれたのか、ムダに喜ばされたのか…?
教えてくれた男がここの工作員だったのだろうか?
あてがわれた車は正確にはハマーH2で、軍用ハンヴィの無骨さとは縁遠い民間型だ。
高級SUⅤといわれるスポーツ多目的車で、なぜか西海岸あたりのアメリカ女性に人気がある。
居住性に優れ、パワーには信頼が置け、燃費も6,000CCにしてはかなり改善されている。
フリーウエイなら7キロは行くといううわさはウソではないだろう。
高級SUⅤの基本料金はやや高いが、安全安心は金で買うお国柄だ。足回りは新しく、日本語カーナビとオートクルーズがついている。
まぁ、スマホと端末でグーグルマップ検索ができるから、ナビは不要ではあるのだが…。


 高級SUⅤ、ハマーH2の魅力は、庶民には抗しがたいところがある。
日本ではあまり見ない25インチホイールがふつうにはまっているのもそそるし、シフトレバーにいたっては小型機をイメージさせる凝りようだ。
乗り込んでみると定員5人で、広々して快適だ。エアコンのききも驚くほどいい。
それでも、8月半ばの現地気温に慣れるため、暑いが設定は微弱にした。
昼食は、ロスにイヤというほどあるメキシカン料理店だ。滞在約2日で時差ぼけはまあまあ解消され、食欲はそれなりによみがえっている。
甘い飲み物をかたわらに、大辛のタコスを平らげ、のんびり休憩をすませてから、スーパーマーケットに買出しに出かける。


 行き先はとにかく乾燥した酷暑の地だから、水をガロン買いし、大型クーラーボックス2つに氷をたんまりぶち込んだ。
そのすきまにロサンゼルスの果物で一番うまいと思えるドラゴンフルーツをいくつもはさむ。
レトルトのポークチョップやクラブビスク、シチューなども物色した。ドライフルーツだらけのシリアルバーや、個人的に好きなガヴァジュースも買いこんだ。バドワイザーやエナジードリンクのレッドブル、カップラーメンも必需品だ。
買い物に満足してからマーケットの駐車場をグルグルする。左一本棒のウインカーや右折左折に体感を慣らし、日本とは違うんだよ、と体に教えこむ。
それからおもむろに、さっきのファーストフード店に転げこんだのだった。



        2


 午前2時きっかりに、市内の一番北の210号線を東へたどる。
大雑把なアメリカ人気質なのか、そういうルールなのか、だれもが車線変更のウインカーは出さない。夜間だけに車間を広く取って用心する。
途中、ラスベガス方面に向かう唯一のフリーウエイ15号線に乗りかえる。
このあたりは風の抜ける地点で、強風の日にはトラックの横転事故すらある危険地帯だ。ちょっと警戒したが風はなく、車体もふられることはなかった。
みんな目的は同じ方向らしく、きれいに並んだまま雪崩れ込んでいく。複雑に交差する、夜目にも広々とした道路がいかにもアメリカだ。


 2時間弱でバーストウを過ぎるあたりから、東ルートの40号線に去っていく車もあって道路がスカスカになってくる。
すいているのを幸いに、左側の追い越し車線をひたすら走る。本当は違反なのだが、背後に迫ってくる車はいなかった。
ベイカーで給油して127に移行し、ショーションをめざす。
あたりは真っ暗だから、たまに現れる村の明かりやヘッドライトがたよりだ。
それでもこの日は十六夜の月があかるく、遠くの景色にもそこはかとない旅情をかもしていた。
デスバレー・ロードと呼ばれるこの道に入ると、車はほんとうにいなくなる。ひたすら北に向かう前も後も、文字通り人っ子1人いないのだ。
日本でも東北自動車道などでは深夜、数十キロにわたって1台の車にも出会わないことがあるが、これは桁が違う。
行けども行けども、行けども、深々と月光に照らされた遠い山並みと、白々と続く路面だけだ。
焦燥にかられてオートクルーズを解除し、220越え(約137マイル)でカッ飛ぶ。
車重があるだけに、ハマーH2の加速はかなりのものだ。
交通事故にあった野生動物の死体に気をつけろ、といわれてはいたが、この夜は鹿らしきかたまりを一体見ただけだった。


 遠く鬼火のようにチラつく、小さな光が見えた。
近づくにつれ、人を誘い魅惑するような黄色っぽい明かりに変わった。
デスバレー往還の沿道に店を開いた観光客向けの雑貨屋だろうか?
トイレ棟と小屋が数棟あるだけの殺風景なものだったが、妻入りの入り口は開け放してあった。
人恋しい1人旅だ。
思わずスピードをゆるめて依っていく。
たぶん客寄せのためだろう。昔の西部劇時代のようなトントン葺きに作ってある。夜明け前の暗い道に、温かみのある明かりがもれ出て、夢のように懐かしかった。
手綱を馬つなぎにピシリと巻いて、拍車を鳴らして入って行きたい雰囲気だ。


 現実的な話になるが、こんなところでも車上荒らしがいないともかぎらない。
着脱式のカーナビをはずして、スペアタイヤの間に隠した。車を壊されても、当然ながら保険はきかない。


 ドアから覗くと、ゴソゴソ人の気配がする。どうも営業前の品出し中らしかった。
「おはよう、やってる?」
ダメもとで声をかける。
「おう、入ってくれ!」
瞬時に返事があった。
「今、届いたばかりだ。何でもある。たくさん買ってってくれ」
威勢のいい声で、華僑並みの商売っ気がかえってくる。
同時に顔をのぞかせてきた。
2人いて、両方とも白人だ。アメリカ人という人種はいないが、いかにも陽気なヤンキー野郎という感じで、観光客慣れしている。
「日本人か?」と問いかけながら「おれも行ったが日本はいい。お気に入りは、アサクサ・カッパバシさ」
と笑って、奥の棚にあごをしゃくった。
棚のいい位置に麗々しく、精巧な食品サンプルがいくつか飾ってあった。
「いいね!」
とホメると、
「だろう?食おうとするヤツさえいなけりゃ、最高のお土産なんだ」
と大仰に肩を落とした。


 もう1人がせっせと箱を開けて、ほれよ、という感じで見せてくれる。
トマト、たまねぎ、じゃがいもといったありふれた農産物にハチミツ、サラダにかける酢、味のついた塩、スパイス、ネイテヴや風景のエコバッグ、手工芸品、ロサンゼルスではあまり見ない銘柄のシリアルやビーフジャーキがあった。
「これはうまい。買い得だよ」
とすすめられるままに、ビーフジャーキを半ダースほど買った。
検疫問題で日本には持ち帰れないが、もつ物だから滞在中に食うか、知り合った人に差し上げてもいい。


 「そういや、腹すいてないか?チキンバーガーもできるが」
渡りに舟だった。長いドライブで、腹はへってきている。
「じゃあ、1つ頼む」
「ふふん、腕が鳴るワ」
相手が上機嫌になったところを見ると、おすすめの美味いヤツかもしれなかった。
ちょっと期待して見ていると、チキンは昨日の残り物だったが、それを揚げなおし、届いたばかりのみずみずしいたまねぎを輪切りにする。いんげんに似たグリーンビーンズとピクルスをはさみ、仕上げにさつまいものマッシュをたっぷりのせた。
マッシュはマヨネーズか何かでからめてあって、さらにケチャップと洋ガラシを注入する。
袋にいれて渡してくれたとき、絵も言われぬ芳香が鼻を通り抜けた。
「あっ、あと2つっ」
思わず追加する。
こういうノリに人種の別はない。
2人とも破顔大笑した。
「おめえ、話せるなや、アミーゴ」
メキシカン訛りでわざと言って、ハンバーガー係はいそいそと作り始める。
「やめとけ、こいつのバーガーはアメリカ・ライオンでも腹壊す」罪のない、よくある冗談をかます相棒もうれしそうだ。
「行き先はデスバレーだな?ま、腹いたで動けなくなったら、捜索には出てやるよ」
「頼むよ。レーストラック・プラヤに行くから。日本語で『助けてー』っていうのがレスキューの合図なんだ」
こっちも大笑いで返事をする。
「ラージャー。だが、だいぶ奥地だぜ。化け物の霊力で夜中に石が動いてるところだ。お~、怖っ、怖っ。でもまぁ、行くなら気張って行け」
ちっとも怖そうじゃない、にぎやかな返事を背に店を出る。
レンタカー屋にしろ、ここにしろ、出会う現地人は商売人ではあっても、悪意のない人ばかりだ。
この調子なら、今回の旅はいいものになりそうだった。



        3


 ナビで見ると、もうショーションの町はすぐ近くだ。
路肩から少しだけ平原に乗り入れ、さっそく紙袋を開ける。
う~ん、いい香り。
クーラーボックスからガヴァジュースを引っ張り出し、早速かぶりついた。薄切りのたまねぎがシャキシャキとうまい。まったりとしたさつまいもマッシュにピリピリとした洋ガラシが絶妙だった。しっかりとして野性味のあるチキンも口に合う。
おれは20分もしないうちに、3つのすべてを平らげていた。


 腹がくちくなると、本当に幸せな気分になってくる。
日本車よりハンドリングの遊びはあるものの、ハマーH2のおかげで道中は快適だった。包み込むようなクッション性はさすが高級車だ。
日本に比べ、路面はあまりいいとはいえない。大きな亀裂や凸凹もけっこうある。車社会のアメリカは道路を酷使するから、整備が追いつかないのだ。
ブラブラ外に出てみると、十六夜の月はすでに落ち、東の空には青インク色の暁の気配があった。
このあたりは日本と違い、夏でも日の出は5時半をかなりまわる。


 そんな薄闇の中を猛然と驀進してくるヘッドライトが見えた。3台がヒモでつながれたように、きれいな等間隔を保っている。
不思議がっているうちに、あっという間に接近し、わき目もふらず通り過ぎた。
チラッと見えた、日本の唐草模様の風呂敷のような怪しげな塗装。
車を使ったコソ泥の集団?
いや、コソ泥自ら唐草模様には塗らないだろう。それにこのイメージは日本人だけだ。
みるみる遠ざかるテールランプを唖然と目で追う。
????、しばらく意味がわからなかった。
ぼーっとしていても仕方がないので、こっちも発進した。その時はじめて、そういえば、と思い当たった。


 新車の耐久耐熱テストだ。
酷暑炎熱のデスバレーの夏は、世界中のメーカーにとって、試運転に格好の地なのだ。あれは時々、専門誌にスクープされる試作車に違いない。当然、日本からもやって来るから、あのコソ泥風唐草模様は日本流のユーモアかもしれなかった。
まぁ、冷静に言えば日本車である確証などなにもないから、ただの希望的観測に過ぎないのだが…。
とにかく珍しいものを見たという点では大いに満足できた。


 通常の走行距離と時間は30マイルが30分換算だから、ショーションにさしかかる頃には朝日が昇っていた。
夜中の1人旅の心細さからか、4時間未満で来てしまったことになる。
この辺りまではカー・ラジオの電波がよく入る。
やっていたのは朝のニュースで半分は聞き流した。
そのうちにデスバレーという言葉が繰り返され、以後は聞き耳を立てた。
アメリカではよくあることなのかは知らないが、銃を使った射殺事件らしい。立て続けに3件続き、デスバレーでは観光コースを外れぬよう注意を喚起して終わった。
旅の目的地だけに、なんとなく不穏な気がした。
それでもアメリカだからこんなものと肯定する気持ちもあって、すぐに忘れてしまった。


 この先は値が上がるため、ここでまた給油した。
何の変哲もない、ごくふつうのガスステーションだ。
田舎ではよくあることで日本のカードは認識しないから、事務所に給油機の番号を言って適当な金額を支払う。
余れば釣りが帰ってくるシステムなのだ。
先客がいて、子供を連れた母親が見えた。給油はすでに終えているらしく、車のそばの男になにかを渡していた。そのまま車に飛び込むと大急ぎというか、一目散に発進して行く。
(せわしない親もいるもんだなぁ)
そんな印象だった。


 案の定、金が余ったので、払い戻しを受けて事務所を出た。
さっきの男が車のわきに突っ立っている。180センチ越えのデブで、丸太ん棒のような見事な二の腕が威圧的だ。
年齢は不明だが、シワの感じから50歳くらいか?
ヤバそうな気はするものの、わけがわからない。必然的に無視するかたちになった。
そばをすり抜けるとき、プンと安酒の香りと異人種の汚れた体臭がした。
「@;mq-!!」
いきなりどなられた。
酒に爛れただみ声と早口で、何も聞き取れない。
同時に突き飛ばされてかなり痛い。
「なにがしたいっ?痛えだろっ」
とっさに、こっちも大声になる。
それでも
(チップの要求だな)
と勘がはたらいた。
実際には、彼に何もしてもらっていないのだから、この居丈高な要求は理不尽きわまりない。腹が立つが、ここは日本とは違う。
ヘタな拒否や抵抗は取り返しのつかない事態をまねきかねない。怒らせれば相手が銃をとりだす可能性だってあるのだ。
素直に手にあるつり銭をまるまる渡す。
ヤツはそんなものには目もくれなかった。
表情が猛悪に変わる。鉄拳をぶちかまそうと身構えるのが見えた。
これでピンときた。
この過剰請求はつまり、日本で言うカツアゲだったのだ。
さっきの母親はせっかちでもせわしないわけでもなかった。要求されるままに金品を手渡して、雲を霞と逃げて行ったのだ。


 「待てっ、ちょっと待て」
アル中のバカ力でぶん殴られてはたまらない。
牽制しながら手を肩まで上げて、お決まりの無抵抗のポーズをとる。
「右ポケットだ。紙幣とコイン、カードがある」
余裕のヤツは平然と脇の台?を示した。
「横着しねーで自分で出せ。置け、ガキめっ」
全くのしたり顔だ。
東洋人、とくに日本人は基本的に武器を持たず、無抵抗だと知っているのだ。自分でゴソゴソ他人の懐を探るような面倒は、最初からしないのだろう。
とにかく、それに従うしかない。


 給油機の陰から足早に近づいてくる音がした。
どうせ、ヤツの仲間に違いない。さわやかな朝っぱらから荒稼ぎとは、とんでもない罰当たりどもだ。
いきなり、ドサンと肩に手を置かれて、正直言って飛び上がった。
同時に、ヤツがとぎまぎする。
「また、やったのか。お見通しだぜっ」
第三者の声に、おれもとぎまぎと視線を移した。
事務所にいた中年男性で、叱るというより困惑顔をしていた。
「:#@qu…」
たぶん、言い訳だろう。
ヤツはゴニョゴニョつぶやいて、ヨタヨタの千鳥足をふみしめ、酔っ払いの全速力で建物の裏へ消えていった。
「なにか取られた?」
心配そうな質問には、笑顔で返事を返した。
「いえ、なにも。本当にありがとうございました。今の人、ネイティヴですよね?」
独特の赤銅色の皮膚と直毛で、そんな気がしたのだ。
「ああ、わかったかい?ショショーニ族だ。でも、ネイティヴではなく、インディアンと言ってやってくれ。最近の調査でも彼らはみんなそれを望んでる」
(ああ、そうだ。おれとしたことが…)
心の中ではたと気づいた。
ネイティヴという呼称は、アラスカのエスキモーなども含んでしまう、あいまいなものだ。
それに呼び名を変えることで、過去の白人のさまざまな悪行をなかったものにしようとしている、という世論もあるのだ。


 了解の意思を伝えると、
「いや、かばうわけではないんだが…」彼は握手を求めてきた。「おれはロジャース。よろしく」
「こちらこそ。北井芳樹(ならいよしき)。ならいです」
「なあい?ならい、ならい…ね。コーヒーどう?おごるよ」
これはありがたい申し出だった。二つ返事で事務所についていく。
歩きながら、ロジャースは白人に多い名前だが、この人はなにか混じっているという印象を持った。
こんな田舎の白人にしてはフランクすぎる。
もちろん、このあたりの住人はアジア人を見慣れている。だから、だれもがというわけではない。それでも彼らにとってオリエンティノ(東洋人)はオリエンティノであって、本心から対等ではないのだ。


 片隅にコーヒーと軽食のコーナーがあった。
ビアジョッキみたいな大コップに氷をガラガラと放りこみ、真っ黒なコーヒーを派手に注ぐ。
上部が真っ白になるほどの冷たいミルクが、アメリカンになって薄まった苦味とからんで、
「あ~~」
と、声がでるほどうまい。
「イケルだろ?」
「最高っす!」
「よかったら、おかわりして。ああ、それから、さっきのアイツね…」
「ええ」
知り合いなのだろうか?
話したそうな様子に、先を促す。
「悪いヤツじゃなかった、昔はね。むしろ、いい。能力もあったし、努力もした。商売で成功したこともある。だが、長続きしなかった、気の毒にもね」
「ああ…何と言うか…。先住民だから?」
「まあ、早く言えばそうかもね。いろいろあるんだよ。心がくじけちまうことが、さ。それが度重なると、ああなる」
彼の言わんとすることは、だいたいわかる。


 おれも多くの日本人のように、アメリカ・インディアンの歴史や現状を多少なりとも知っているからだ。
少し詳しくいえば、居留地への隔離は環境の激変による絶滅政策だったし、年金を餌に行われた同化政策は、彼らのアイデンティティの破壊に他ならなかった。
誇り高い民族を打ちのめし、屈服させるには、精神支柱の崩壊ほど有効なものはない。
保護の名のもとの隷従政策は、彼らの高い失業率を補うものではなく、常に貧困の社会底辺に辛吟させ、希望と意欲を奪い、自殺率を押し上げ、アルコールや薬物に依存させてきた。
それでもインディアンたちは部族政府を作りあげ、血と泥にまみれながらも、自らの文化と民族性を死守してきたのだ。


 「無理もないですよ」
おれは同情でなく言った。
「おれ、さっきの人を見て、日本の現状を思ったんです。今の日本は若者の失業率も高いし、就労してる連中も働く意義を見失っている。モラルも低下して、やったもん勝ち社会になってます。目標や夢を描きにくい現状で、自殺率も高い。1度、貧困に落ちたら、なかなか這い上がれない。薬物だって蔓延してるんです。そう、インディアンのみなさんと同じように。だから、その、つまり…」
言葉を切ってロジャースさんを見ると、彼はため息をつきながら、異様に真剣な目を向けていた。
「つまり、日本人もそうなるように、どこかで仕向けられてるとしたら…?」
おれはあえて、その先を言わなかった。彼の顔つきで、言外の意味は十分伝わっていたと思う。
彼はこういう話が出来る人だったのだ。
沈黙のあと、
「ショショーニ?」
そっとたずねると、
「ああ、クウォーター(1/4)なんだ…」
という返事が返ってきた。
はにかんだように笑った顔つきは、ちょっと悲しげだった。
2つの人種のはざまに立つ彼は、おそらく純血種とはまた違った寂寥感に悩むのだろう。
薄暮の時間にヒラヒラと彷徨いだして、鳥でも動物でもないと揶揄された、昔話のこうもりのように。



        4


 178号線に入り、進路を西にとる。
はからずもアメリカの暗部と、日本の未来を突きつけられたようで気が滅入った。
気づかないまま、忘れたままで旅したかったのに…。
憂鬱をを振り払うように、峠をガンガン下る。
ピィーンという耳鳴りと圧迫。水に潜るときのように、何度も耳ぬきする。
わきに置きっぱなしになっていたガヴァジュースのペットボトルがガコンといってへこんだ。
行き先のデスバレー国立公園で、最も人気のバッドウォーター・ベースンは塩湖のなれの果てだから、その底は海面下85,5メートルという低地にあるのだ。


 道路っぱたにあるデスバレー公園入り口の看板を通過する。
真夏のこのあたりは、たまにサンダーストームでも来ないかぎり雲ひとつない上天気が続く。
太陽の上昇にともなって、あっという間に気温は38度を越えてきた。
軟弱だが、開け放してあった窓を閉め、エアコンに頼る。夜通し走った疲れもあって、文明の利器は実に快適だ。
ついでにサングラスをかけ、日焼け止めもぬりつけた。


 それにしても人がいない。
このところの猛暑で、観光局がデスバレーにはあまり行かないよう通達を出しているせいだろうか?
人気スポットのバッドウォーター・ベースン駐車場が見えてきても、車一台いなかった
クーラーボックスから氷をつかみ出し、保冷水筒につめて持つ。
レンジャー・ハットと登山用のUVカットの長袖シャツ、自衛隊の純正手袋で太陽光線から武装する。
1歩足を踏み出すや、
「うぉっとお」
思わず声が出た。
暑い、いや、熱い!この時点で42度。
このあたりが、炎熱のデスバレーでも特別に暑いところだが、日本の熊谷あたりの42度とはわけがちがう。
日本の夏はやっぱりウェットで、汗が体表を流れて体温をさげる。
が、ここは違う。
熱せられた大気がワッと押し包んできて、毛穴から水分を遮二無二引きむしっていく。おれはウエスタンの銀行強盗のように、バンダナを三角折にして鼻と口を覆った。


 弱い熱風の吹きすぎる音がやけに克明に聞こえる。
木道があって、そのはるか先が塩で真っ白にかがやいて、青空との対比が見事なほどさわやかだ。
目に映る清涼感と焦熱の体感とのギャップに、脳がおろおろと混乱しているのがちょっと滑稽だった。
そう言えば8月よりさらに暑い7月半ばに、世界一苛酷といわれるバッドウォーター・ウルトラマラソンが、もう、102回も行われているのだからきちがい沙汰だ。
ここを起点に延々217キロ、ホイットニー山のふもとまで走り続けるのだ。
こんなレースはウサギとカメだって願い下げに違いない。


 一面が塩の白いフィールドに下りると、足元にだれかが掘った穴があって、水がしみ出している。
きれいそうなところの塩をひとつかみ削り取って、ビニール袋に入れた。ついでになめてみると、石灰やミネラルの苦味がある、ちょっと複雑な塩の味がした。
それがわずかづつ蒸発するため、体中ベッタベタだ。
この塩分ではいかにしても飲めない、という意味での悪水(バッド・ウォーター)の命名は、確かに的を射ていた       


 次の見所のデビルズ・ゴルフコースに出立する。そこは舗装路を外れて、荒野の砂利道に踏み込んだ先にあるのだ。
白くたおやかなバッドウォーターと違い、ぼこぼこした灰褐色っぽい岩が、はるか山ぎわまで広がっていた。
悪魔でもなけりゃ、ゴルフはできまい、といわれる大地は、石灰や砂礫、塩で二次形成されたような印象だ。表面にはギシギシととがった塩の結晶が付着していて、触るとチクチク痛い。
なぜかゴルフボール大から、両足すっぽりくらいの穴があちこちに開いていた。
自然の産物だけではなく、観光客が踏み抜いたものもあるらしい。岩はドーム状で中空なので、踏むと加重に耐え切れず、ボコンと陥没するときがある。
足元用心の看板が注意を促していた。


 シンとした足元から時々、ピキ、ピシン。パッ、キシシ、ピン、という、かすかでやさしい音がする。温度の上昇につれて、塩の結晶が崩壊しているのだ。
孤独で荒廃した地表から響く、ひそやかな虫の音に似たささやき。
無機的でなく、確かに生命を感じさせる孤高でさびしいこの声ほど、旅人の今のおれを揺るがすものはなかった。
おれ、おれ自身の、今ここにに生きてある不思議。そんな哲学的な感慨が、この地にはいかにもふさわしかった。
草木水石(そうもくすいせき)にすら、生命が宿るとした仏教は正しい。
死の谷デスバレーで、結晶は確かに生き物そのままに生息し、命を歌っていた。その詠唱はなんと純粋で歓喜に満ち、詩的で永遠だっただろう。
見渡すかぎりの方向が荒れ果て、乾ききり、瓦解し、拒絶する大地。それでもなお、塩の声なき声は、原風景とでもいうべき天地とともにおれを魅了して止まなかった。


 数ある景観ポイントのいくつかは帰りにまわし、デスバレー観光の拠点、ファーニス・クリークでレンジャー詰め所に寄る。気象や通行禁止箇所などの園内状況を知るためだ。
ここは名前のとおり泉のわくオアシスで、緑もなかなかに豊かなのだ。
ビジター・センターでは遅まきながら、入園料を支払った。
フロントガラスに張る赤いシール1枚で、デスバレーとセコイヤ国立公園を回れる。1週間有効だから足を伸ばしてもいいだろう。
過去3回訪れたアメリカの国立公園は、どこへ行っても日本では経験しづらい大自然の展示場だ。
このデスバレーのベスト・シーズンはやっぱり冬場で、とくにクリスマス休暇あたりは、ホテルが取りにくいほどの大人気になる。
まるで日本のゴールデンウイークのように人々がくり出してくる。
おれは混み合うのは嫌だから、観光シーズンだけは避けているし、やっぱり夏場が最高という認識がある。
今回も2週間の滞在だから、時間はたっぷりある。
デスバレーを去る前に、ここに沸く温泉に入ってもいいだろう。
規模は小さいが汗を流すには十分だ。
古い話だが、1970年代まで、国立公園の入園料は国外旅行者には請求しなかった。かつて日本人も憧れた、大らかで豊かなアメリカは、今はもうないのだ。


 ここには中心地だけに、ロッジやジェネラルストア、ショップ、レストラン、ガスステーションが集まっている。
さしあたり、用事は昼食と給油だ。
レストランはさすがに、そこここに人がいて賑わっていた。それでも長野県の広さに匹敵する公園内では微々たるものだ。
ここでうまいといわれるのはローストビーフサンドで、さっそく注文したけれど、案外、期待したほどではなかった。
朝の雑貨屋のチキンバーガーがうますぎたのだ。遠回りでも帰りに立ち寄ろうと思わせるに十分だった。
アメリカ人は味音痴で、質より量だと言う人はいる。
それはたしかに一面の真実だ。
全体的に塩分は濃いし、大味だし、スイーツなんかは頭が痛くなるほど甘い。
それでも気に入った店にめぐりあうことはある。それが旅の醍醐味なのだ。

      
 寄り道の最後に、映画「スター・ウォーズ4・6」の撮影地で知られる、メスキート・フラット・サンドデューンに立ち寄る。旅の目的地、レーストラック・プラヤへの道すがらにあるからだ。
観光客にも人気の場所で、砂を掃きどけたような駐車場には何台もの車が止まっていた。
名前のメスキートは、辺りに生える乾燥した砂漠性の樹木のことだ。バーベキューなどのたきぎによく使われる、おなじみの植物だった。
熱い風のよせた風紋が見事な、絵に描いたような砂漠だ。
日本の鳥取砂丘は、これに比べたら箱庭か盆景、極論すれば爪上の風景だった。


 『天に飛鳥なく、地に走獣なし。ただ、死者の屍もてしるべとなすのみ』の一節が浮かぶ。
まぁ、これはシルクロードの情景だから話は違う。
それでもはるか向こうに立ちはだかる赤い山々は、まさに火炎山を思わせた
吹き散らされて、砂丘のエッジをサラサラと微細な粒子が流れ下る。みるみる速度と幅を増すさまは流砂そのままで、西遊記の沙悟浄でも現れそうに見える。
こことは別に、デスバレーにはユーレカ砂丘と呼ばれるものがあり、そこは鳴き砂で有名だ。
まさに鳴砂山そのままではないか。
砂漠の連想は、苦笑するほど日本人だった。
他国の人々は同じ光景を見て、いったい何を思うのだろう。


 足元にはコガネムシの類だろうか?いくつもの甲虫の足跡があって、鳥のそれと入り混じっている。目を近づけても捕食されたかどうかは判然としなかった。
信じがたいが、夏の灼熱と冬の酷寒、砂と岩と礫のこの地で、哺乳類:51、爬虫類:36、両生類5、魚類:5、鳥類346、植物1,042もが命脈を保っているのだ。



        5


 いよいよ、目的の奥地に向かって走り出す。
近頃はレーストラック・プラヤへの道筋はかなり整備され、デスバレー自慢の星空を見てからでも、帰路は安全といわれていた。
いちおう、レンジャー情報を見直すと、なんと7月の豪雨と今月はじめの小さな地震で、夜間走行は禁止となっている。
道が荒れている証拠なので用心に越したことはなかった。
一旦北上し、それから南に戻るルート。
しばらくはフラットな道だ。
それから先はいよいよ、洗濯板と呼ばれるカーブやアップダウンの連続だ。石や岩がランダムにころがり、礫でザリザリとタイヤがすべる楽しい道が続く。
土石流やがけ崩れの跡を乗りこえて進む、ワイルドな場所もあった。
基本、トラックベースのハマーH2は、こういう道でこそ本領を発揮する。
車高は高いし、視界はバッチリ、フケのいいエンジンは、日本ではお目にかかれないような悪路もものともしない。
今更ながらにレンタカー屋に感謝した。
ただ、一日で最も気温の高い2時すぎなので、ラジエータ温度には気を使う。
やがて、たくさんのヤカンがぶら下がることで有名なティーケトル・ジャンクションを過ぎれば、夜中に岩がさまようミステリー・スポットはもうすぐだ。


 名前のプラヤとは乾湖のことで、カチコチに乾いた泥土に、大小250を越える石っころが転がる。そのほとんどになぜか、ズルズルと這いずったような軌跡が残っているのだ。
レーストラックは競走場、つまり競馬場を指すが、たしかにゲートを飛び出した競走馬のように、いっせいに同じ方向に突進しているさまは異様で不思議な風景ではある。
昔は雑貨屋の白人たちが言っていたような心霊や、エリア51の宇宙人説、水爆実験の影響などががささやかれていた。
動く瞬間を見た者はだれもいないからだ。


 だが、今はもうちがう。
2年前の2014年、謎は研究者たちによって解明されてしまった。証拠の動く映像もインターネットで公開されているから身もふたもない。
冬季の強い風、降雨、薄氷が奇跡的に作り出す大自然の驚異は、人々の興味をひきつけ、その興味ゆえに暴露されてしまったのだ。
神秘は神秘のまま手を付けるな、と思うのは、シロートのたわごとだろうか?


 やがて観光客らしき影がポツポツと見えてくる。
亀甲型にひび割れた大地の真ん中に、黒い岩山がそそり立つ。特等席、と呼ばれるビュー・ポイントで、これを通り過ぎれば動く石の原に到着だ。
砂利道を広くしたような駐車場に降り立つや、初老のご夫婦に話しかけられた。
東京からここだけを目的に来たそうだ。20数年前に1度来て、ぜひとも夫婦で今一度との願いが、やっとかなえられたと笑っていた。
ご夫婦は暑い中、1時間ほど散策したそうで、
「すごいラフロードよねぇ、早く帰らなきゃ。ここ日の暮れるの早いから、早くしないとね」
と、やけに帰りたがる。
「まだ、日も高いですよ。もったいない」
と笑うと、夫人はまゆをひそめた。
「この近辺に変な人がいるみたいなのよ。もう、何人も殺られちゃってるの。知らない?」
朝のニュースが思い当った。
それでも実感がわかない。
「じゃ、もう行くわ。あなたも気をつけてね。ほんっとに、ここの道はヒドイわよ。昔のまんま」
日本のきれいな舗装道路に慣れきっているのだろう。道路に苦情を申し立てながら早々に去っていった。
デスバレーで借りられるジープに乗っていて、ファーニス・クリーク・インに泊まると言っていた。
インは高級ホテルだから、余裕のある人たちらしかった。


ザックに保冷水筒と乾き物をつめ、ドラゴンフルーツをかじりながら、石の散らばる方向に歩き出す。
日が暮れるまで、このレーストラック・プラヤを歩きとおしてみるつもりだ。
そして暗くなったら、駐車場にこっそり泊まる。
本当は国立公園は全面的にキャンプは禁止だ。どこでも指定のキャンプ場があって、そこで一夜をすごす決まりなのだ。
それでもここに泊まりたかったのは、この動く岩の原で、思うさま星を見たかったのだ。、
レンジャーに見つかれば叱責と罰金かもしれないが、こんなところにまで夜回りはしないだろう。
まぁ、変な殺人者の話を聞いてしまったが、水や食料がふんだんになければ、ここに長居はできない。
昼間はクソ暑いし、危険生物もいる。よほど辛抱強くなければ、犯罪を犯すのだって一苦労のはずだ。
そんなリスクにめげない殺人鬼が果たしているだろうか?


まだ夏の17時前なのに日差しは夕方の斜光線で、すべての影が長く伸びている。
日中には50度を越えたらしい気温も、やっと下がってきて吹く風が心地よい。それでも35度以上はありそうだった。


 ひびわれて、広く平らな泥の原だ。
そこここに礫が転がっている。
ムービング・ロックとかセーリング・ストーンなどと言われる、この石たちは、すべて南側の山から崩落してきたものだ。
風向きと同じ北北東方向に前進し、風が渦巻くプラヤの中心ちかくでは、グルグル回転する傾向があるという。
大小さまざま、思い思いに泥の航跡を引いて鎮座まします姿は、
「おい、おまえはどこ行く気なんだよ?」
と問いかけてしまうくらい生き物的だ。
なかには数キロという距離を移動しながら、這い跡だけ残して忽然と消滅している岩もある。
1日の終わりのたそがれの中にポツンと残る存在の痕跡は、いかにも寂しくて、新聞に尋ね人の広告でも出してやりたいくらい心に迫った。



        6


 やはり、内陸性気候なのだろう。
ばったりと風の止む、夕凪時があった。
とたんに何の音もしなくなる。草木もない荒地で、虫の声?と思うのは自分の耳鳴りだ。
心音と呼吸音がやけに耳について、最初は落ち着かなくなってくる。自分がいかに毎日、雑音・騒音の中で生きているかを思い知らされた。
静かな、本当に静かなたそがれは、世捨て人でもなければ経験のしようがないのだ。
おれは昼間の余熱の残る泥土に座りこんだまま、雲をたきぎに燃えさかる夕焼けをいつまでも見ていた。
まだ西の残照が消え果てないうちから、大空では星々の大饗宴が始まる。
首が痛くなるほど見上げても、星座すらたどれないほどの数だ。ひときわ混み合った天の川が西陣織の帯のように流れていた。


 十七夜の月と星明りの中、スマホをGPSに駐車場へもどる。みんなまじめに帰って行ったらしく、もうだれもいなかった。
犯罪者がいるというなら、むしろ人の気配がないほうが安心だ。
ポツンと残されたハマーH2に乗り込み、座席をフラットにする。レトルトの夕飯をなべで暖めながら、バドワイザーを喉に注ぎこんだ。
(いやぁ、夜中の2時から、よく走ったワ…) 
疲れは感じないが、そんな感慨に浸った。デスバレーへの道すがらは、あんなに人恋しかったのに、今はかえってのびのびできる。
大自然の懐もこれくらい乾くと現実感がぶっ飛んで、1人でも心細くなくなるのだろうか?
それとも人間以外の怖いモノがいるので、そっちに神経が行くせいか?


 夜間に怖いのは霊や化け物の類ではない。
サソリ・タランチュラ・ムカデなどの毒虫だ。もちろんガラガラヘビもいる。人間と同じで涼しくなると、活動が活発化するのだ。
不用意に腰を下ろしたり、ジャリを引っ掻き回したりは避けたい。
レンジャーの話では建物の中にもフツーに入ってくるそうだ。
朝は脱ぎ捨てた靴を履く前に、思いっきり振って点検しなくてはいけない。不注意な日本人、サソリに刺されて死亡、なんて記事にはなりたくないものだ。


 動物でも油断は出来ない。コヨーテやキツネ、リスやネズミは恐怖の狂犬病の保菌動物だ。致死率100パーセントはだれだってゴメンこうむりたい。


 せっかくの得がたい大自然の中だ。思い切り1人を満喫したい。
スマホはここでは電波は入らないから、写真撮り以外は封印状態だ。
まぁ、暇と言えばヒマだった。
おれはでっかいアメリカサイズのバスタオルと、酒・つまみ、万一の用心にナイフをひっつかんで車の屋根に上がった。
月明かりのきれいな競馬場を振り返ったが、ここからではちょっと遠い。肝心のこまごましたところが見えない平地は、のっぺりとして単調だった。
それよりも星空が丸ごと感じられる。
やさしい微風が吹いていて、畏怖も恐怖も不安も、たった1人という孤独感すらなかった。
広げたバスタオルにゴロンと転がって、ビーフジャーキをかじる。
うまい、本当にうまい干し肉だ。ハーヴなのだろうか、独特のかすかな風味が後味に残るのがいい。日本ではあまりない大袋なのに、もう、2袋を完食していた。


 酒が回って猛烈に眠くなってくる。やはり疲れていたらしい。
寝てしまうには惜しすぎて、しばらく抵抗する。それでも奮闘空しく自然に眠りについていた。
同じ時期にオーストラリアに旅している友達が、なぜか隣にいた。
知り合った女友達の写真を得意げに見せてくる。
いろんな人種の女の子たちでとても楽しそうだ。まったく、どこへ行ってもマメなヤツはいるもので、コイツもそういうヤツだったのか。
「ったぁ、暇人!だけど、おまえ、こんなことしてていいのか?女の子どころじゃねーだろ」
そうなのだ。
おれはぺーぺーでも高校教師に身売りしているが、コイツは未だにそうじゃない。バイトを続けながら、趣味の海外旅行で女の子三昧とはのんきすぎる。
ちょっと嫉妬もあったかもしれない。
とにかく、
「現実見ろよ、現実。若いうちにどっかにすべり込んどかないと、後々キツイぞ」
と忠告した。
ソイツはヘラヘラ何か言って、んなことない、というような身振りをする。
「え?聞こえねーよ。ったくう」
それで目が覚めた。



     8月20日
       1


 朝凪の、全くの無音の中だった。
ここちよい、無理のない目覚めだ。こんな乾燥地帯でも夜中に露がおりるのだろうか?
それとも気温差のせいか?かすかに湿っぽい気がした。
ゴソゴソ起き上がると、車の屋根にいたおかげで、体のあちこちが痛い。
幸い、サソリもムカデもタランチュラも来なかったようだ。石や岩の這い回るミステリースポットの夜は、拍子抜けするほど平和で安全だった。残念というか、ラッキーというべきか…。
せっかく腹に呑んでいたナイフも出番はなかった。
日の出前にちょっと体をほぐしておきたい。しばらく歩いてレーストラック内に入る。
だだっ広い泥の原に向かってラジオ体操第一を実行した。


 「背伸びの運動…」
自分でナレーションしながら体を動かしていると、ゴワォオオ~ッという航空機の音がして、みるみる近づいた。
(えっ??)
はるかな山の端から顔を出した太陽を背に、真っ黒な機体が弾丸のように接近する。思う間に視界いっぱいに広がった。信じられないような低空でかすめる。
ドゴワッという風圧も感じだ。
進路を一瞬にして南北に取り、キラッと輝きながらターンする。
とっさにスマホを掲げるようにしてシャッターを押す。
ギュイイイと鼓膜が振動し、腹に響くゴウゴウという音が大地に反響して通り過ぎた。


 とりあえず、逃げた。車の中が一番安全そうだ。
間に合うはずもなく、あっという間に追いつかれた。ドブワッとまた風圧。体が持って行かれる。
足がもつれてすっ転んだ。
もう砂利道に出ていたから、とっさに突いた手のひらがズリズリにすり切れた。
目に見えて高度が上がるのがわかった。
お遊びはおしまいだ、そんな後姿だった。そいつはもう一度、弧を描くように進路をかえ、クルクルッときりもみを見せて遠ざかった。
ったく、人をすっ転ばしたくせに、拍子抜けするほどあっけらかんと悪気のないやつだ。
ハアハアしながら車にたどりつく。
デスバレーは複数の空軍基地の訓練空域になっている。
ジャンキーなジャーヘッドが、いや、もとい、おちゃめなパイロットさんが、眠そうな旅行者に活を入れてくれたのだろうか?


 ウワサには聞いていたが、実際に体験するとやはりビックリする。
現地の人の中にはマニアがいて、この気まぐれなサービスを受けようと、日参する人すらいるそうだ。
なんでもエンターティメントにして楽しんでしまうアメリカ人気質にはちょっと笑えた。


 はるかに遠ざかったとき、翼が広がった気がする。
と、すると可変後退翼のF14トムキャット?
まさか????メンテナンス性の悪い可変翼はとっくに退役しているはずだ。
幽霊機?
朝びらきの光の中で真っ黒に見えた機体が今更ながらにおどろおどろしく思えてくる。動く石の原でゴーストに遭遇するなんて『事実は小説より奇なり』だ。
とりあえず、スマホの画像を確認する。1枚だけ撮った決定的瞬間があるはずだ。
(う~ん…)
しばし、脱力する。
幽霊機は幽霊でなかった証拠に、しっかり写ってはいた。
だが、決定的瞬間ではなかった。明らかな振り遅れの写真で、腹のドアップが黒々と画面を覆っていた。
しかもブレている。
よほどの軍事マニアでも、コレで機種の特定はできないだろう。


たぶん、間違いなくF14トムキャットであったと思う。退役しても、あの優秀な艦載機は航空ショーでの需要があるはずだ。
この思いつきは、我ながらしっくりきた。アメリカの航空ショーはさながら退役機の見本市だ。
きっとそれを見たのだ。
ラッキーといえば、本当にラッキーだった。あの俊敏な「雄猫」の勇姿はいつまでも心に焼き付けておきたい。



        2


 今夜もここにやっかいになるつもりだ。
朝のうちに南側の山に登り、プラヤを俯瞰しておく。
日中の灼熱ころはどこかの岩陰でのんびり休み、日暮れ前にもどればいいだろう。
ちょっとかさばるけれど水を1ガロン(約4リットル)と、レッドブル500ミリリットル入りの保冷水筒を背負った。
山歩きは腹もへるから、水分も取れるクラブビスクを2つ持つ。あとは軽さ重視で、食いかけのビーフジャーキを道連れにした。
昨日みたいにドラゴンフルーツを片手に出発。
今日も暑くなりそうだ。


 南の山はベージュ色のプラヤに比べてかなり黒っぽい。
眺望を求めて登るヒマ人がいるらしく、最初は踏み跡をたどれた。草の影すらない丸裸の岩山は、風化してザリザリとすべりやすい。浮石もハンパない。
山頂に近づくにつれ、目の前の峰の傾斜がきつくなる。思ったより時間がかかるし、なかなかにハードだ。
手足を使ってよじ登ると、目の下に、プラヤが地図そのままに広がる。
カンカン照りのなかで、立ちんぼのまま保冷水筒を口に運ぶ。レッド・ブルはあっという間にカラになった。
(そうだ、水と言えば…)
いきなり、昔聞いた話が浮かんだ。


 眼下のプラヤは急激な雨が降ると、当然ながら、周り中の雨水を集めて、たちまちドロドロの泥濘になる。そんな時、運悪くプラヤを横切っている者は悲劇だ。
なにしろ南北4,1キロ、東西2,1キロの広さなのだ。そうそうに避難は出来ない。
粘つく泥は深いところでは人の背丈以上になるという。
そんなところに踏み込んだら最後、にっちもさっちも行かなくなる。
底なし沼そのままに捕らわれて、身動きすらできないまま沈んでいく。
『おれが見たのはスゥエーデン人だったね。かろうじて顔だけ出ててさ。もう、くたばってたんだけど、あんなに恐ろしい顔ははじめてだ。目と口を思いっきりひん剥いてさ。それを見て、おれは思わず逃げちまったワ』
ということになる。


 まぁ、これはただの作り話らしいのだが、実際にこの大自然を見ているとありそうに思えるのが怖い。
最近は異常気象で冬の雨が減り、かわりに夏の豪雨が増えていると言う。そうなると、いつ何時、突発性サンダーストームにあわないとも限らない。
恐ろしいのはプラヤだけではない。雨はあらゆる低地にいっせいに雪崩れ込む。
土石流や山津波の発生だ。保水力のない岩の台地は降った分だけ、そっくりそのまま地表を流れてしまう。
おれはと言えば、言葉通り「運天」のつもりでいる。
もちろん気象の変化や遠雷の気配などには気をつけるけれど、それ以上の不可抗力にはお手上げだもの。
いざとなったら『人事を尽くして天命を待つ』しかない。
元来、アウトドアとはそういうものだろう。        


 しばらく景観を楽しんでいると、目のはじで動くものがいる。
鳥だ。
足と尾の長いロードランナー(和名もミチバシリ)というヤツで、ファーニス・クリークあたりの道路や駐車場でよく見かける。名前のとおり、飛ぶより走っていることが多い変り種だ。
形と柄は日本のヒバリにちょっと似ていて、頭には突っ立ったような乱れた冠毛がある。
せわしなく岩山を下って、見る間に岩陰の茂みに隠れた。
興味がわいた。
危険生物は願い下げでも、せっかく来たデスバレーだ。
生息する生き物には会ってみたい。潅木の陰では、日本では見られない大型のトカゲが休んでいることがあるそうだ。
見られれば、眼福ではないか。


ソロソロと岩を下る。
途中で枯れ枝を拾った。これで茂みを掻きわけるのだ。ガラガラヘビだって、ひそんでいないとは限らない。
光合成より、太陽光線を避けることに腐心しているらしい葉っぱは、葉緑素の少ない灰色で、チリチリと硬い。サンドデューンのものとは異なる種類だった。
さっきのロードランナーはどこへ行ったか姿は見えない。足早な鳥のことだ、もう、とっくにどこかに移動したらしい。
人に噛み付くことで有名な、毒アリのファイア・アントに似た赤いアリが複数はいまわっている。
アリは動食性のサバクツノトカゲの好物だから、ひょっとしたらそのへんにいるかもしれない。
写真撮りのためにスマホを取り出して手に握った。


 パラパラと、近くで小型ヘリの軽いローター音がしている。
たぶん、観光用だろう。ここからは見えにくい丘の向こうに下りたようだった。
まぁ、金のある人はジープなんかで汗水たらして来ない。手っ取り早く美味しいトコだけ堪能して、さっさと日常にもどるのだ。



        3


 しばらく丹念に探したけれど、逃げていく小型のトカゲらしきシッポを、2度ほど見ただけだ。そろそろ飽きてくる。
暑いと気力が続かないのだ。
枯れ枝を放り出してまた水を飲み、日差しの中に出た。
たちまち太陽光線が肌に焼きつくが、もう少し南に足を伸ばしてみたい。


 だれかが岩陰からやってきていた。南の山塊を迂回するように道がついているから、観光客に違いない。すれ違いざまに挨拶でもして、できれば話もしてみたい。
足調を緩めたにもかかわらず、ヌッと現れた人物と危うく鉢合わせするところだった。
「失礼」
軽く言って道をゆずった。
大柄な男性で、背も横幅も長大だ。しっかりと踏みしめるように歩く靴は、無骨だが実に見事な牛革だった。
笑顔を作って振り仰ぐと、驚いたことにライフルを肩にかついでいる。
ちょっとギヨッとした。なにしろ、日本人は銃に慣れていないのだ。
その人もおれを見下ろして笑顔だった。
いや、だったと思う。
カウボーイハットを目深にかぶり、歯をむき出していた。
不器用な人なのだろうか?
とにかく話をしたい気持ちは消し飛んだ。
18歳でライフル、21歳で拳銃を所持できる国だから、危ない人というわけではないだろうが、威圧と言うか、不穏な空気を醸していた。
そそくさと道を急ぐ。一刻も早く離れたかった。30メートル、40メートル…。


 ドワシャッ。
聞きなれない音とともに浮石が飛び散った。わずか50センチほど離れただけだ。
残響音があたりに響く。
瞬時に全身が震えた。脊髄反射で、なにが起きたか理解できた。
体が金縛りのようになり、硬直した木偶みたいだ。
(動いたら今度こそ撃たれる)
おれはそう思いつつも、夢遊病のように振り返っていた。背を向けたままは撃たれるより恐ろしかった。
そのまま腰砕けで尻餅をつく。
ジャッ、ジャッという足早な音を聞きながら、脳は必死で状況を把握しようとしていた。
まちがいなく、すれちがったさっきの男だ。
白人らしい肉色の肌。ファーマー(農夫)を思わせるシャツとデニムのゴツイ服装。背には大して重そうでもないザック。
ここは国立公園だが、ひょっとしたら個人の土地も混じっているのかもしれない。
潅木の茂みを引っかき回したのが、不当な行為だったのだろうか?
声を絞り出した。
「すみません。おれは旅行者です。あなたに不利益をもたらすつもリはありませんでした」


 返事はなかった。
(あわててはいけない)
おれは思った。
同時に、ここに来る前、デスバレー国立公園の看板にみごとな穴が2つ開いていたのを思い出した。
つづいて昔ほどではないものの、西海岸では今でも新年の景気づけに銃をぶっ放して祝う輩がいるのが頭をかすめた。
ひょっとしたら、あいさつがわりに発砲する土地柄かもしれなかった。
いくら銃社会のアメリカでも、かなり無理がある発想だ。それでもとにかくそう考えて、相手の次の出方を待った。
その人はすぐ前まで来て、退路を断って立ちはだかった。
60越えだろうか?真南からの太陽を浴びて、やはり歯をむき出していた。
イヤな気がした。
とんでもないヤツに行き会った、そんな予感がした。
まさかとは思うが、ニュースのあの犯罪者だろうか?


 コツンと筒先がスマホを小突いた。
(えっ?物盗り?)
瞬間、そんな疑問が浮かんだ。だが、この場合、それが一番的を得た解釈だった。
(早く言ってくれよ)
突然の暴挙にやっと納得がいった気持ちで、そのまま手を離した。ヘタに差出したりしないほうがベストな気がした。
だが、
「何をしてる!さっさと拾え」
意外な返事だった。声も言葉もいなかジジイのものではない。訛りもなくニューヨークやワシントンあたりを思わせる都会的な匂いがした。
「拾え。立て!」
矢継ぎ早に命令されて、とにかく拾い上げ、よろよろと立ち上がった。
釘付けのように目をそらすことが出来なかったから、相手が引き金から指を離し、まっすぐに伸ばして軽くそえているのが見えた。銃口を掲げるように上に向け、わざとそれを見せつけている。
今は撃たないという意思表示なのだろう。
「なにを見ている?」
言われて少しあわてた。
おれは無意識に、穴のあくほど銃を凝視していたらしい。かなり年季が入ったもので、固い木の銃床は手油で黒光りしている。スコープなどはなく本体のみなのが、いかにも昔の銃の気がした。
「ウィンチェスターM70だ。ボルトアクション式小銃。3インチNATO弾(7,62mm)。全長約3、5ィート(1,050mm)。重量は9ポンドちょい(4,35g)さ」
マニアだろうか?
頼みもしないのにペラペラと説明したが、頭に残ったのはウィンチェスターM70という銃の名称だけだった。
ごつい指がスマホを指した。
「投げ上げろ!思い切りだ。」
一瞬、スマホをコイツの顔に投げつけてやったら、という考えが浮かんだ。
だが、ムダだろう。
飛び道具はナイフや棍棒とは違う。
初動の間違いは文字通りの命取りなのだ。


 たぶん、この60越えのジジイは、クレー射撃のように撃ち落したいのだ。でなきゃ、こんな妙な要求はするものか!
頭上に広がる青空があった。
(きれいだ)
と、つかの間思った。
おれは思いきり反動をつけると、全身で投げ上げた。
スマホは回転しながら、かなりの高さを飛翔し、放物線の頂点で粉々に砕けた。消音器などつけないのが、いかにもアメリカだ。
間近で聞く発射音は、やはり独特のものがあった。
射撃はグァムとニューカレドニアで経験していたが、どちらも拳銃だ。
飛び道具には全くの素人なので、ウィンチェスターM70とやらが、どれほどの威力を持つのかは知らない。
それでも近くの岩山に反響し、叩きつけるような迫力がある。
それがいつ何時、自分に向けられないとも限らない。


 とにかく、ハンターではないにせよ、銃を撃ち慣れている。
ひょっとしたら、撃つ目的のためにわざわざ、さっきの小型ヘリから降り立ったというのか?


 筒先は次に腕時計を指した。時計機能のほかに温度計と方位磁石がついている。
素直にはずして、これも力いっぱい投げた。
豆粒のようなガラスがキラッと光ったとき、これも見事に飛び散っていた。


 銃口がこっちに向いた。
冷や汗の出るような瞬間だった。瞬時に息が荒くなり、筋肉が突っ張る気がした。
無意識に後退していたと思う。
だが、ジジイの目的はおれではなく、背中のザックだった。
突っ立ったまま、袋を逆さまにして中身を振り落とした。転がり出たのは極ふつうの食い物に水、パスポート、財布、マスターカードを隠したごみ袋などだ。
これらはご要望には沿わなかったらしい。
もとにもどせ、と合図して、なぜか自分の時計を投げてよこした。
このご親切には本当にとまどった。
悪意があるんだかないんだか、相手の意図がつかめない。一応、礼を言って腕につけると、ちょっと古いタイプのオメガだった。
ゆるゆるで肘のすぐ上につけた。適度に重くて、キラキラとやけに金色が美しい。
金むくだろうか?
まさか、ね。


 その後は、すべてのポケットを引き出して見せた。空っぽで裏地が見えるだけだ。
ジジイは満足そうだった。
その時、おれはゾクッとした。あることを思い出したのだ。
(おれはナイフを持っている)
そうだ。
日本を出る前、専門店で購入したナイフだ。渡りの長い、優美なもので、昨日の晩に身につけたやつだ。今日はプラヤを歩く便宜上、スネに固定していた。スマホを投げつけるよりは、抵抗手段として確実だ。
そ知らぬ顔で相手を探る。
ジジイは、目の前の日本人が武器を携帯しているなど、夢にも思っていないだろう。
不意を突けば勝算があるのではないか?
今のおれは地面に散らばった荷物を拾い集めるのを許されている。かがんだまま、思わず左スネをなでる。
ジーンズの下に、硬く確かな手ごたえ。すそはジッパーで開く。
ジジイは関心を払っていない。というより、大抵の人は右利きだから、左手の動きには案外、無頓着なのだ。サウスポーは有利かもしれなかった。


(ケガをさせるだけでいいんだ)
相手の太ももをチラ見しながら、ためらいを叱咤した。それでも心にストッパーがかかる。
(うっかり、殺しちまったら?)
最大の気がかりが浮かぶ。なにしろ、刃物で人を襲ったことなどないのだ。力加減がわからない。
チャンスは一度だけだ。
一撃で相手の動きを封じなければ、ジジイは発砲するだろう。
さっきのデモンストレーションでも見たように、なかなかの手だれだ。
至近距離では銃よりナイフが有利だなどと、安易に考えてはいけない。銃床を振り下ろされるだけで、アタマはカチ割られる。
おまけに先手必勝とはいえ、先に手を出すのは、それだけでリスクがある。
当然ながら、アメリカの刑法も裁判もアメリカ人を守るためにある。東洋人の旅行者がいくら正当防衛を主張しても、通ることは少ない。
まして、なんとなく洗練された金持ち風のコイツは、けっこうな地位かもしれなかった。
下手をすれば、こっちが不審者や狼藉者にされかねない以上、こちらからことコトを構えるには不利すぎた。
短絡的な攻撃は、あとに禍根を残すことになるのだ。



        4


「南に行け!」
ヒトの気も知らず、威張りくさって退路を支持された。
一も二もなく従った。ジジイとおさらばできるのだ。
よかった。老人だけに殺人鬼ではなさそうだ。
振り向きもせず、南へ南へとひたすら進む。
もらった時計は時間機能のみだが、太陽の位置を見れば方角は察知できる。
今しばらく、言いつけどおり南に下り、おもむろに北にもどればいいだろう。


 かれこれ800メートルほど来ただろうか?
おれとしてはそろそろ車にもどりたい。そしてこんな物騒なところとは縁を切るのだ。
ゆるゆると立ち止まり、おもむろに振り向いてみた。
乾いた風の音だけで、動くものは見えなかった。さっきのジジイはとっくに、どこかの岩陰に消えたようだった。
人っ子一人いない大地に、これほどホッとしたことはなかった。
ため息をついて伸びをする。手をぐるぐる回して肩こりをほぐした。とりあえずの危機は去ったのだ。
さっきいたプラヤの南の岩山を目指し、今来た道を帰る。
非日常な出来事の連続に少々疲れはしたけれど、大事に至らなかっただけに楽しい気はしている。
日本に帰ったら、アメリカ行きに反対したカノにも、この話をしてやろう。
(いや、よけい怒られるかな?アイツ、心配性だから)
表情やしぐさ、声色が浮かんで、ちょっと笑えた。男にとっては冒険でも、女にとっては事件なのだ。


 ガシャキ、ンンッ。
ほとんど金属音に近かった。
目の前、ほんの20センチの石が、破片をはね散らかしておれを越え、後ろにすっ飛んで消えた。
本当の不意打ちだった。
瞬時に逃げていた。血圧が異常低下し、チカチカとあたりが点滅する。
(ジジイがいる。ウソだろ?)
(何がしたいんだ?しつこい、しつこすぎるっ)
(ちくしょう、どこにいるんだ?バカがっ。殺す気かよ。ちくしょうめ)
脳が発狂状態でわめきたてる。
足がカクカクと震えていた。至近距離での発砲も恐ろしいが、姿の見えないかなたからの狙撃は、場所が特定できないだけにさらに恐怖だ。
とにかく南へとって返した。
おそらく、ジジイのお気に召す唯一の方向だろう。
今はプラヤの南の山端しを、ちょっと巻く形の扇状地の一角にいる。さらに南には次の山塊がある。南西にかけて低い起伏のある扇状地が続くが、平らなところは狙い撃たれやすい。
歩きやすくても、そんな怖い位置取りはまっぴらだ。
躊躇なく、山側に向かった。
峰と谷が複雑に入り混じる地形は、遮蔽物が多いだけに有利な気がした。


 だが、南といっても、どこまで進めばいいのだろう?
この先は岩と礫しかない山地で、観光客も来ない奥地になる。特徴あるベージュのプラヤを見失なえば、遭難もありそうだ。


 耐えきれず、岩陰に座り込んだ。
喉が渇ききって呼吸困難になるほどだった。背負ってきた1ガロンはすでに半分以下になり、熱気で軽く湯になっていた。
(これからどうする?)
気がかりはこれだけだ。
おれは北にもどりたいのに、ジジイは南に追い立てたがっている。
何の酔狂かは知らないが、迷惑この上ない。
それに、この粘着は何だ?ジジイはおれをどうしたいのだ?
アタマの中が疑問符で充満するばかりで、ラチが開かない。
とにかく人殺しではないだろう。洗練された知的な印象から、どうしても犯罪者には見えない。
きっと、ちょっとひねくれた暴力ジジイなのだ。
人間は危機に直面すると、精神の安定のために事態を軽く考えようとするのだろうか?


 緊張が頂点に達して、決然と立ち上がった。
あてずっぽうの方向に声を張り上げた。
「聞いてくれ、どこにいる?何がしたいか言ってくれ。もう、十分だろう?おれは車に帰りたい。ここから去りたいんだ」
シンとしていた。
返事どころか、何の気配もなかった。
どこかに観光客の姿でもあれば、と目を凝らしても、飛鳥の影すらない。ここからは見えなくとも、ジジイはどこからか確実に見ているのだ。
「答えてくれ。頼む。おれは何もしていない。これはあんたにとっては遊びだろうが、おれから見れば犯罪だ。付き合う気はないし、いうなれば、あんたは不快極まりないキチガイだ!」
最後の言葉はキツかったが、紛れもない本心だった。
あいかわらず、反応はなかった。文字通り『のれんに腕押し』『ぬかに釘』だった。
空しく黙るしかなかった。
頭はめまぐるしく、とにかく次の打開策を探っていた。


 日本人の中でも、
「なぜ、そんなに銃を恐れる?」
と思うむきはいるだろう。
そりゃ、日本だって、猟の解禁時に手賀沼や印旛沼なんかで釣りをしていると、銃声と共に散弾がバラバラと降ってくることはある。
ハンターと鉢合わせしたり、葦の中に姿を見たりもする。
笑ってすませられるのは、ターゲットになったからではないからだ。狙い撃たれたわけではないからだ。
おれだって偉そーには言えないが、それでもアメリカを一人旅する関係上、多少の予備知識は仕入れている。
2011年、12月20日。オハイオ州でのことだ。銃のメンテナンス中の男が空に向けて発砲した。別に悪意はない。銃の調子を見るためには誰もがやるだろう。
ところがそれが、2,4キロも遠くにいた女の子の頭に命中した。アーミッシュで、宗教上の生活習慣から馬車に乗り、クリスマスパーティからの帰宅途中だった。彼女は死亡した。


 神はいないのか?と思える事件だ。
偶然に極めて希少な偶然が重なっただけ、と言えば言える。だが、この高度な殺傷力こそ、銃の本質なのだ。
つまり、意図しなくても人殺しになれる。はるかかなたから、未知の相手を殺害できるのだ。
そんな道具で狙われたとしたら、キチガイでもないかぎり、誰が平静でいられるだろう?


 ひたすら、谷筋をたどった。
距離を稼いでジジイをマイてしまうのだ。ヤツの荷物はおれのより軽そうだ。
水も大して持たないはずだ。水がつきれば追っては来まい。
ここからは見えないが、西の扇状地にはレーストラックバレー・ロードが平行している。その南にはホームステイク・ドライ・キャンプがあるのだ。競馬場指定のキャンプ場だから、誰かがいるかもしれなかった。
プラヤの端からほんの3キロほどで、たいした距離ではない。助けを求めるには最良の地だった。
だから安全に見えても、あんまり南東の山塊に踏み込んでは行けなかった。おれは意識して、常に西を気にし続けた。


勘で進路を南西にとる。行き過ぎては体力のムダだから、キャンプ場の手前で道に出たかった。
いや、出るのは危険だろうから、道を目印にすべきだ。
低い丘状の起伏を腰ほどの潅木にまぎれて登る。まばらでたいした目隠しにはならないが、体を無防備に露出するのはいやだ。
危険を冒してでも高所に登り、わだちの続く道路を確認しなくてはいけない。


 だだっ広いジャリの原に、石で囲ったスペースが点在しているのが見えた。ついでにところどころに、黒くすすけた石の塚。
(??)
最初、意味がわからなかった。
だが、北を見渡せば、長く続く白い帯。
ホームステイク・ドライ・キャンプだった。炎暑の中、必死で距離を稼いだおかげで、意外に早くたどり着いていたのだ。すすけた石はかまどの跡だ。
そして、そして…人の姿は…。
縋る視線の先には、だれもいなかった。一台の車も、一張りのテントすらなかった。
落胆はしなかった。いや、落胆は怖かった。希望を見出さなければ、狂ったような破壊行動に出そうだった。
こんなときは自己保存本能が作動して、正解を導き出す。
おれの場合もそうだった。
(こんなもんだよな。もう、12時近い。みんな目的地に向かって撤収したのだ。今頃、かんかん照りのテントにこもっているバカはいない)
そう。そうなのだ。
真昼間のキャンプ場は無人になる。当たり前ではないか。
みんな、午後か夕方に、三々五々集うのだ。


 熱気のため、そこにはいられなかった。
150メートルほど引き返せば山塊の裾があって、太陽が南中する今でも、わずかな日陰が確保できる。
ためらわずにもどった。そこで数時間を過ごし、そろそろ気温の下がる頃、そっと出て行って助けてもらう。キャンプに人がいれば、さすがのジジイも撃っては来まい。
こんどこそ、ジジイとおさらばするのだ。
息もつかずに、また水を飲んだ。緊張のためか、のどが渇いてたまらない。水といっても気温と同じくらいになっている、もと水だ。
一応、人ごこちついてから、再び辺りを見回す。
あいかわらず、ジジイの姿はない。
だが、どこか遠くから双眼鏡か何かで、確実に見ている気がした。


 さらさらと時間が過ぎていくのがわかる。
ムダに気をもんでもしかたがない。
自然に視線が地面に落ちる。乾ききった礫だらけのガレ場。つれづれに手をのばして触れてみた。熱くキシキシした感触。
何気なくザックを持ち上げて、ギョッとした。
軽い!
異常に軽い。
あわてて水のボトルを確認した。1ガロンの水は、あと500ミリリットルほどを残すのみとなっていた。
まだ、3時にもならない。
夕暮れ時までこれだけで過ごせるだろうか?、
もし、だれも来なかったとしたら?だれもキャンプしなかったとしたら?
考えたくなかった。
レーストラック・プラヤには世界中から観光客が集まる。
大多数が日帰りだとしても、野宿をする物好きはいるはずだ。そのためのホームステイク・ドライ・キャンプではないか?


 体の水分の蒸発を防がなければならない。
手のすり傷に巻いたバンダナを解き、また覆面をする。フェイスタオルをザックから引き出して、首から両肩に巻いた。多少、息苦しいが、がまんするしかない。


 陽が傾いてくるのがわかる。夕方の斜光線が影を色濃くのばしてきた。
気温がやや下がって、40度くらいになってくる。
温度計つきの時計はジジイに破壊されて、正確な気温はわからないものの、今日も日中は50度を越えただろう。
くちびるはとっくにひび割れて切れ、口角は両方とも裂けて、まるで妖怪『口裂け女』になった気分だ。
かなり前から、ぴりぴりと引きつるようなのどの渇きで、(水・水・水)という言葉が脳内をグルグルする。
(いや、ダメだ)と、自分自身をけん制する。(日が暮れるまで、日が暮れるまで…)と思いながら、手はボトルに伸びていた。
それっきり空になるまで、おれはおれを制御できなかった。



        5


 パラパラとローター音がする。
聞き覚えがあった。
期待に満ちて頭を上げる。間違いなく昼間の観光へリだ。
よかった、やっぱり客の回収に来たのだ。明るいサーチライトをつけて、ぐっと低空に接近してきた。
「おーい、こっち、こっち」
大声で手を振った。首のタオルを引きはずしてグルグル回す。
ヘリは確認するかのように上空を2周して、まばゆいライトを照らしつけた。
だが、無情に機首をそむけた。そのまま平行移動する。100メートルほど離れたところにホバリングして、何か荷物を降ろした。
ちくしょう。
おそらく、下にはジジイがいるのだ。ヤツが雇ったヘリなのか?
こんなところに見捨てられてたまるか!
機種は小型のヒューズで、アクロバット飛行が可能なほど機敏だ。小さくても積載能力にすぐれ、パイロットの他にもう3人が乗れる。
「連れてってくれ。早く早く、ヘルプ・ミー!遭難しかけてるんだ、早くっ」
エビかカエルのようにその場でピンピン跳ねた。近づくのはやはり銃が怖かった。夕闇のせまる中、矢継ぎ早にワメきたてた。全身で危機を表現したはずだった。
ヒューズはもうライトで照らしもしなかった。第一、こっちに寄り付きもしなかった。
信じたくない予想は、あっけらかんと現実になった。
卵形の機体は、いかにも任務を終えたのん気さで、そのまま夕映えの空に消えていった。
パイロットはやっぱりおれを無視しくさったのだ!


 (ジジイは乗っていかないのか…)
置き去りの失望より先にその落胆が来た。
ジジイはこの荒地に居残りを決め込んだのだ。じんわりとした恐怖で、最悪の事態がシミュレートできる。
おれがターゲットになったのは偶発かもしれないが、おそらくヤツはこの事態をはじめから仕組んだのだ。
ヘリをやとい、必要な物資を要求のままに運ばせる。荷物を大して持たないのは、いつでも補給がくるからだ。
やっぱり、殺人鬼だったのか?
すでに3名いるという被害者はジジイが殺ったものなのか?
考えたくなくて頭を振ったとき、猛烈な喉の渇きに気づいた。
同時に、初期の風邪のようないや~な熱っぽさがある。
それが体内水分の限度を越えた欠乏によるものだとは、何かで読んだ気がした。
ここにいてもムダだ。
キャンプ場を目指して、薄闇の中を歩いた。
銃の脅威よりも、だれかいるのでは?という希望がまさった。150メートルを祈る気持ちで浅い起伏を抜け、転がるように平地へ出た。


 だれもいなかった。
ガランとしたただの荒地…。
たそがれが終わって夜に入ったホームステイク・ドライ・キャンプは、静かに無人だった。
炎熱のデスバレー行きを警告する観光局の通達か、射殺犯を報道するニュースのせいだろうか?
観光客のだれもが、無防備なキャンプを避けているのは事実だった。
もう、へたり込むしかなかった。
それでも毒蛇・毒虫に気をつける理性は、まだ残っていた。
ザックを探ってクラブビスクを出した。かえってのどが渇くのでは?と不安だったけれど、水分の魅力に負けた。
おれは暖めもしないレトルトのまま、スープをむさぼり飲んだ。
かなり濃い味がした。口からのど、鼻の一部がうるおされる気がして、呼吸が楽になった。
頭上にはきのうと同じ、降るほどの星空。
そして十八夜の月。
昼間より涼しくなったせいで、3時間ほどがんばれたけれど、再びのどの渇きがきた。
わかっていたことだ。それでも、手は残り一つのビスクに伸びていた。
人はこうして、自ら深みにはまっていく。
『渇餓(かつえ)死には恐ろしい』昔の人の言い伝えは正しい!
まさに、じわじわと『現身に地獄を現ず』るのだ。


 カニ入りスープのおかげで、当面、飢えてはいない。しかし、問題は水だ。濃い味付けは血液濃度と浸透圧の関係で、唾液までを干上がらせる。
肺から気管支、のど、口、鼻は粘膜だ。両生類のように乾燥に弱い。
ひび割れるような呼吸器の痛みにたえかねて、その辺の潅木の葉っぱをむしり、ガムのように噛んだ。苦味と猛烈な青臭さでちょっとむせた。
やっと夜半をまわったところだ。のどの渇きは、じっとしていられないくらい強くなっていた。


 なすすべないおれに、猛烈な怒りがわいた。
苦し紛れに自分自身を地面にたたきつけた。そのまま、あたりを転げ回った。
声が出るものなら、わめいただろう。涙が出るなら泣き叫んだかもしれない。あたりに潜むかもしれない蛇や毒虫の類は、頭から吹っ飛んでいた。
絶え間なく爪で縦横無尽にかきむしるような、干上がった気管と肺の苦痛。
すでに息をするのが闘いだった。
もう、どうにも耐えられなかった。
(神や仏はいねぇのか?助けろ、てめ~ら!能無しめ。もう、わかった。わかったから!おれはこれから、道端に捨てられた猫ちゃんには、必ず水と餌をやる。こんなひでえ死に方ないワ!罪もないのに、かえ~そ~だろ!猫ちゃんをこんな目にはあわせねぇ。必ず食べ物と水をやる。だからおれにも水をくれ。ね、頼む、お願いしますから)
祈りというより、思念の羅列だった。


 皮膚も乾いているせいか、がさがさと傷つきやすくなっていた。力任せに転げまわった頭も顔も手も、無数の引っかき傷がついたのに体液もろくに滲まないのだ。
ここまで来て「尿を飲む」、これがいきなり頭に浮かんだ。
すませたのはロードランナーに会った後だったから、時間的には期待できそうだ。
さっそく、保冷水筒をあてがった。汚いとか気持ち悪いとかはなかった。
ちょろちょろと乏しい尿はいくらも出ず、さらに出そうとすると尿道が熱くなり、炎症でも起したかのようにひどく痛んだ。
自家製の水は口に含むと、塩分と老廃物のえぐみと苦味がいかにも体に悪そうだった。
もう、無用の長物でも投げ捨てるように、自分を地面に打ち捨てるしかなかった。
転がったまま、とろとろと意識が混濁した。
遠くから濃い緑色のゼリーの塊がやってくる。
巨大で熱せられていて、もわっと息苦しい圧迫。たまらず、這って逃げる、逃げる。
そいつの質感はまさに、長野土産の『みずず飴』だ。
濃厚で熱く、固めるために水分が飛ばしてある。
ぬっぷりと、最後の一回転で押し詰められた。全身を周り中から煮詰められる感覚。
声も出ないのに、絶叫して目覚めた。



      8月21日
        1


 月が落ちかけていた。夜明けが近い。
かすかな水の気配。
本能が一瞬できのうの朝の記憶をよみがえらせた。あの湿っぽい体感。
立ち上がった。死力を振りしぼるというヤツだ。水分が不足すると体がなえて動けなくなる。
一番近い茂みによろめき寄った。
首からすでにタオルを引きむしっていた。チリチリの葉の部分に押し付け、ギュッと押さえる。
わずかににじむ水分。
ガマンできずに葉に吸い付いた。水だ。わずかではあったが、間違いなく水気だった。
手近な潅木を必死で巡ってタオルを湿らせ、滴るようになるのを待って口の中に絞る。
もちろん悠長に待てないから、作業しながらも、露をふくんだ葉にむしゃぶりついて、直接補給する。
息が楽になると同時に、呼吸器の痛みがいくらか緩和された。干上がっていた細胞が、少しみずみずしさを取り戻す。
どんな乾燥地でも、朝方にはわずかな露が降りる。気温差の大きなデスバレーも、もちろんそうだ。ここに生息する多くの動植物は、この現象にすがって露命を保っているのだ。
だが、『葉末(はずえ)に置く露』は太陽が顔を出すと同時に、幻のごとく霧散する。
命の綱が消え去ったとき、体はまだまだ大量の水を必要としていた。
阿鼻地獄は次の叫喚地獄を招いたに過ぎなかった。


 夜明けの太陽がこれほど恨めしかったことはない。
このまま日が昇ればどうなるかは、夜の体験で骨の髄まで刻まれている。
恐ろしかった。
とにかく水を得なければ。
だが、どうあがいても、もう方法はない。思考が停止したのは水分の欠乏だけじゃない。万策尽きた絶望感も、それに拍車をかけていた。


 奇妙でけたたましい、鳥かサル?のわめき声がした。
意外に近い。
ちょっとギョッとして振り向いた。
30メートルほどの近さの丘から、その声が踊るように立ち上がった。
ジジイだった。
笑っている。わめき声はヤツの侮蔑の失笑だったのだ。じっとしていられないらしく手足を振り回し、腹を抱えては放し、ひとしきり笑いやまなかった。
ジジイは夜明け前からおれの行動を、ちくいち見ていたのだ。暗視ゴーグルぐらい持っていそうだから、おれはヤツに格好の笑いネタを提供したことになる。
夜明けとともに夢散する夜露に慌てふためく姿は、さぞかし滑稽だったろうよ!
「ガッハァゲハガヒャ」
という、思いっきり人をバカにした笑いの余韻を引きながら、ジジイはかがんだ。
朝日にきらっと後光が見えた。透明なそれが、今は神の賜物だった。今まで出したことのない獣のような唸り声が、自然に口を漏れていた。
頭上で振り回したそれを無造作に地面に置き、ヤツは堂々と背を向けて撤収していく。
あいかわらず、肩にウィンチェスターM70を担いだ背中に目を注いだまま、おれは獣のように四つんばいで前進した。


 「そう言えば、だな」
丘のさらに高みをめざしていたジジイがいきなり立ち止まった。
恐怖に似た警戒心で、全身が瞬時に硬直する。
「いっぺんには飲むな」まだニヤニヤと笑っていた。「死ぬぞ」
おれは片手を思い切り伸ばしてボトルをひっつかむと、丘を転げおリた。
本能的に、高さが40センチもない自然石のかまど跡に隠れた。
もちろん、姿は隠せない。それでもかまどを盾にせずにはいられなかった。
野良犬になった気がした。


 口でくわえてふたを開けた。知らない銘柄のミネラルウォーターだった。あんまり見かけない1リットルサイズだ。
ぬるい水を息もつかずに四半分は飲んだ。そして止めた。
理性はよみがえっていた。ジジイの言うとおり、体の要求するままに飲むと頓死することがあるのだ。
おれは用心深くボトルから唇を離し、そのままキャップを閉めた。
ジジイは丘の高いところからニタニタと見下ろしているに違いない。生き返った礼のかわりに、思い切りファック・サインを出してやった。
ジリジリいう感じで、細胞内に水がしみこんでいく。だが、それは妙な苦痛をともなう不快感だった
(飲みすぎたか?)
ひやりとしたが、全身の苦悶はそれ以上強くはならず、しばらくすると収まっていった。事前に葉末の露を補給しておいたせいだろう。
用心深く時間を置いて、水をすべて飲み干した。
(これから、どうなるのだろう?)
どうにも頭を離れない疑問と不安が再び湧いてきた。


          2

 叩きつける発砲音。
瞬間、体の反射でピョンと飛び上がる。筋肉の痙攣的収縮で体が自分じゃないみたいだ。
ジジイによる容赦ない責め苦が始まったのだ。もうすでに、俺には安息はないのか?
何度体験しても銃弾が本当に至近をかすめるときの、イヌ畜生でも追うような「シッ」という擦過音には慣れることがない。
文字通り金玉がちぢみ上がって、しばらくはもどらないのだ。
「南、南」
無意識につぶやいた声も哀れに震えていた。


 もう、完全に観光ルートから外れている。なんの見所もない荒地が続くだけの人跡絶えた場所なのだ。
そんなところにおれを追い込んで、ジジイは何をする気なのだろう?
相手の意図がつかめないのは本当にイラつく。確証はないが、たぶん殺人犯ではないはずだ。まさか殺しはしないだろう?
そう思いたい。
遮二無二、前に進んだ。ためらえば報酬は「シッ」という肝も凍る擦過音だ。
この音だけは死んでも聞きたくない。
必死に南を目指すも、すぐにへたり込んだ。
水、水、まだ水が足りなすぎる。地面にへばったまま、礫だらけの大地を見た。
そういえば、思い出した、
ここに幅1メートル程度、深さ5、60センチの穴を掘る。それに真ん中をへこませたビニールを敷き、真下に受けのコップを置く。
そうすれば昼日中でも蒸発する水を得ることが出来るはずだ。
脳が素早くシミュレートする。
ビニールはないが、これはビーフジャーキの大袋を裂いて代用できる。受け皿のカップはザックにある。
これはイケるのでは?
一瞬の光明だった。
だが、そんなことは考えるだけムダだ。
肝心の穴を掘るための道具。これがない。手や尖った石、ナイフではラチが開かない。
ここの地面はそれほど甘くない。
ナイフなどあっという間にただの鋼鉄の屑になるのだ。


 残された道は…。
両手を掲げて立ち上がった。
捨て鉢な気持ちだった。
もちろん、ジジイになんか縋りたくない。だが、この場合、そうしなければおれは自分の命すら保てない。
ま、ジジイもおれがクタバっては、楽しいお遊びが続行できないのだから、これはお互い様だ。
「水をよこせ!、ファッキュン・メ~ン。でないと、おれが干上がっちまうぜぇ」
傲慢に叫びながら、手足をバタバタしてアピールした、
ジジイはおれが力尽きて座り込むと同時に、自分も休憩体制に入るらしかった。
悠然と潅木の陰から立って、また、モノを見せびらかしてから置いた。おれはもう、あわてなかった。
水は半ガロンあった。


 ザックの食い物を点検した。
食いかけのビーフジャーキは残りが心もとなかったが、おれはためらわず、それを食い尽くした。
(ジジイにせびればいい)そんな気持ちだった。


 そういえばさっきから、なんだか上から押さえつけられているような圧迫がある。
あたりがスッと陰った。
(え?)
見上げた空は一変していた。
巨大で異様に黒い漏斗状の雲。成層圏にちかい上空は銀鼠(ぎんねず)に輝き、低空は黄や茶、鳶色、最下層は狂暴に渦巻く紺と黒だった。
写真集「神の風景」かなんかにある脅威の自然現象が、いきなり頭上にあった。
地に垂れ込めて神秘に美しく、破滅の指に似てに禍々しかった。
逃げ場を失ったいやな熱気が、湿気をまとって息苦しく垂れこめてきた。
パラパラと情けないローター音がして、例のヘリがやってきた。
ジジイを急いで拾い上げると、よろよろと押しつけられたような低空を飛び去った。
転変地ようの前触れだった。
サンダ―・ストーム。それもどでかい!


 ドンッと実態のある音がして地面にすっ倒れた
風だ。
だが、ここでは風は重く荒れすさんだ質量を持つ。異様な生き物に似た狂声があたりに轟きわたった。
人間に対し、決して友好的でない自然が、さらに本性を現したのだ。
本能的に逃げ場を探してあたりを見まわす。
運を天に任せるのも、いざとなると覚悟がいる。
ビタビタッをいう、やわらかい餅でも叩きつけるかの音がした。立て続けに当たると、重みで冷たく痛い。
雨が降り出したのだ。
もう、猶予はなかった。

 一瞬で周りじゅうが白濁する。記憶にある最も近い岩陰に全力で這い進む。
顔が地面に近いから猛烈なしぶきで溺れる。
ときどき両手でおわんをつくり、空気を吸ってからまた進むありさまだ。
ビッ・ギャラギャラ・ビッシーンドドドド、ドーン。
ギラギラと輝く光、音、地響き。真横から縦横無尽にすっ飛ぶ稲妻がSFの未来戦闘そのままだ。
伏せた体の回りをガレキで重い雨水が流れだした。みるみる水かさが増していく。
このままでは流される。
ここにいてはいけない。
火事場のバカ力で立ち上がり、小さくかがまって、やみくもに前に進んだ。
風が渦巻き、あらゆる方向から突き飛ばす。何度かすっ転んで、ヒザやヒジをしたたか打った。
死に物狂いで頭をあげ、豪雨を透かす。
風が息をするときに一瞬だけ見えるグレーにかすんだ岩山。
周囲を20センチ幅の閃光が蹂躙する。
ワヤワヤと雑踏の人声に似たささやきは電撃の前触れだ。
どこか近くに落雷し、体がポプ・コーンみたいに跳ね上がる。
大気が裂ける音だろうか?ガラスが端から割れるような、ギリギリという軋み音が轟く重低音に混じる。
生まれて初めて聞くこれが実に不気味だ。まさに心底、魂消るのだ。

 上り坂になったのがわかった。方向はまちがいないはずだ。ガツッとギザギザな障害物にぶち当たって跳ね返された。
その妖怪「ぬりかべ」こそが目的の岩場だった。
岩肌にしがみつく。大抵、下のほうにくぼみがあるはずだ。
がけ崩れの危険など、頭になかった。
たとえ崩れかけていたとしても、外界にいるよりはマシだった。
ザックを思い切り胸にかき抱くと、強引に這いずりこんだ。背中をゴリゴリと岩に押し付けて、アルマジロのように丸まる。
気温が急激に下がり、親指大の雹が降りだした。
ガラガラというジャリ採石場のような音で耳が痛い。
濡れネズミの体がガクガクと震えるほど寒い。
跳ねこんでくる雹になすすべなく打たれながら、おれは気の遠くなる気がした。


 嵐は突然に去った。
断ち切れたようにすべての音が止み、雨水の流れしたたる音だけが、夢のように響いていた。
すべてが濡れそぼり、荒れ果てていた。
当初、湿っていた風が、再び乾ききった熱気にかわっても、そこから動けなかった。
サンダ―・ストームもジジイも去ったのだ。
安堵感がしばらくの間、おれを無力にしていた。


 太陽が西にまわっていた。
やっとくぼみから立ち上がり、北を目指した。
体は打撲とひどい擦り傷だらけだ。デニムの両ひざには派手に穴が開き、登山用シャツのひじは破れすりきれ、袖口のボタンもなかった。レンジャーハットにいたってはやっと首にひっかかっている。
道は消え去っていた。川床となったそこは、ガレキと根こそぎ引き抜かれた潅木がうずたかく重なって歩きにくい。
午後の熱気も加わって、努力のワリには道がかせげない。
腹が減っていた。ザックがやたらに重い。
どうにも前に進めなくなった。
『ひだる神がつく』日本でいうソレだった。こんな乾燥地なのに、むりやり搾り出すような発汗。動悸、脱力感。
低血糖だ。
知らないうちにその状態に落ちていた。口に水以外の食い物を入れないと危険だ。
だが、もう、何もない。
いよいよ、おれもダメか?
こんなところでカエルの干物みたいにくたばるのか?悔しいと思うと同時に、どうにでもなれという気持ちがわいてくる。
へたり込んだ岩場を見て、ビクッとした。
いる。
陰になった裂け目から頭を出している。嵐で痛めつけられたのか、動作が鈍い。
のどのあたりがワクワクと動くデザートイグアナだった。
気力がよみがえる気がした。手を伸ばすと、そいつは警戒して動きを止めた。
そうっと指で腹をくすぐる。
右手はガレキをつかんでいた。
体長30センチくらいのソイツは、うっとおしそうにノソノソと這い出した。


 一撃で頭部はすっ飛び、破片が散らばった。
「こいつは毒はないはずだ。食える」
口に出して言っていた。
しっぽをつかんでブンブン振り回して、遠心力で血抜きする。フラつきながらナイフを取り出し、腹を割いて下処理をした。
命の危機感が嫌悪を超えていた。
皮はむきにくかったので、はげちょろけのまま、タコやイカを干すように潅木の枝を張って広げた。
思い出してバッドウォーターの塩を出し、入念にすり込んで太陽に向ける。
干物を作る気だったが、ソイツの体液が見る見る蒸発し干からびるのを見て、陽光で焼けた石の上に押し付けて焦げ目をつけた。
ここの石は目玉焼きが作れるほど焼けている。現に2013年ころには目玉焼き作りの大ブームがおきたのだ。
ちょっと青臭いが、良い香りだ。
生焼けかもしれなかったけれど、欲求のままに口にほお張る。
皮がゴムのようにかみきりにくい。
それでも食用ガエルの味だった。
おれはソイツを食い終わったとき、両眼が青い蛍光を発する気がした。



           3


 パラパラとあの音。やっぱり、来たか。
ジジイだ。何と執念深いヤツだろう。お遊びの続行に熱心すぎてあきれる。
おれの中で何かがささやいていた。
このままではいけない。どこかで決着をつけなければ。
ヤツは危険なサンダーストームの中に平気おれをで置き去りにした。おれが生きようが死のうが、ジジイにとっては遊びの対象が残るか消えるか程度だ。
(許せねぇ…)
おれは憤然と南に向った。
強い西日に照らされて足元がふらつく。
流されて来たらしい鋤の柄を杖にするも、すぐにへばった。鋤の柄は固くしっかりしていて、手によくなじんだ。
ジジイは40メートルくらい離れて突っ立ったまま、あたりを見回している。
一変してしまった景観に驚いているのだろう。堆積物やえぐれた深い溝で、ジープの観光客はしばらくは来られない。
おれはジジイと2人きりになったのだ。


 ふと、時計を見た。何の変哲もない。耳に当てても時を刻む音がするだけだ。
だが、なぜジジイは夜でもおれの位置がわかるのだろう?


 今まではろくにジジイを見なかった。怨霊のごとく背後にひそむ影はおぞましかった。
だが、今は違う。それとなくヤツの位置を探り続けた。
もう、たくさんだった。
この3日間、渇きに苦しみ、空腹に悩み、灼熱に焼かれ、突風や雨に打たれ、雹に凍えたのだ。
そして、生まれてはじめて自分でとった獲物。今の今まで生きていたものの命を奪ってまで食った体験は、確実におれを変えていた。


 ジジイは多分、獣を狩るのに飽きたのだ。そしてもっと楽しめる人間に移行した。
つまり口を利き、逃れようと努力したり、哀願したり、絶望したりする様。その情動を明確にみてとれる人間にだ。
これ以上に楽しめるおもちゃはないだろう。
他人を銃でおどし、意のままに従わせ、ゆがんだ優越感に浸る。
その卑劣な暗い喜びの対象には、旅行者が最適だ。
たとえ殺してもあとくされのない一人旅。若くて生命力に満ち、しかも温和な日本人。
最適ではないか!
おれははからずも、ヤツのメガネにかなったのだ。

 
 日が傾いて影が長くなってきた。
「食い物をくれ。あんたにもらった水しかない」
体力を温存しなくてはならない。
遠慮なく所望した。
ヤツのザックは保冷加工がしてあるらしく、内部が銀に輝いていた。
ジジイはその場でなにか出し、こっちに近づいて置いた。以前は30メートル以内には来なかったのに、だいぶ慣れたらしい。
それでも20メートル以内には来ない。用心深いのだ。
ほどこしはシャキシャキのレタスのはさまった大きなチキンサンドだった。冷たいジュースが添えられている。
おれの生殺与奪の権をにぎるジジイの、たまさかの親切。それでもその温情に涙が出る気がした。
「ありがとう」
礼の言葉が自然に口を突いていた。
手を伸ばすと真っ先に冷たい感触がきた。
(ああ…)
うめきに似た溜息が全身の緊張をゆるめた。ほおに押し当て、冷感を楽しんでから飲んだ。冷えた液体のこの冷気。この冷たさ。
この数日で忘れ去っていた快感だった。
体にしみわたるようにうまかった。
ジジイはこの保冷のおかげで数時間は冷たいものを口にできるのだ。
おれとの境遇の差。
ふと見ると、ヤツは10メートルくらい先にそのまま突っ立っている。
おれはしばらくの間、その存在を完全に忘れていたのだ。


 ジジイはなぜか去らなかった。
それどころか、その場にすわりこんだ。
10メートルの距離は今までになく近い。
(え?)意外な行動にかえって警戒する。飲み干したペットボトルをにぎったまま、用心深く相手をさぐった。
ヤツはウィンチェスターM70を肩にかけたままだ。
おれの所在を無視するような横向きの姿は、銃が体の一部のようになじんでいた。
あいかわらず不穏な雰囲気はあるが、犯罪者にありがちなすさんだ底辺のイメージは全くない。
「おい、ベトナム戦争を知ってるか?」
この場では意外すぎる質問だった。
いきなり問いかけられて、かじりかけのチキンサンドがあやうく喉につまるところだった。
おれは相手の意図を測りかねたから、とにかく食いものは大至急腹に詰め込んでおきたかった。
しばらく目を白黒させて、やっと声が出た。
「まぁ、常識程度になら。…アメリカは共産勢力の南下を防ぐ目的で、1965年ごろから介入したのかな?結果、戦闘には勝ち、外交では負けた。こんなところ?」
言いながら自然に体が相手に向いたが、ヤツはこっちを振り向きもしなかった。
聞いているのかいないのか、かなたを見たままだった。



          4


 「ウィンチェスターM70はいい銃だ。忠実で素直。最高だ。本来はハンター用で、そこでも評価は高かった」
ジジイが銃をゆすりあげて話し始めた。
いかにも思い出語りのぼそぼそした声だったが、周りに雑音がないのでよく聞こえた。
最初に感じた、使い込んだ古い銃の印象は正しかったのだ。
(ふーん、なるぼど。ベトナム戦争のころの銃なのか。昔だよなぁ。じゃあ、こいつはコレクターなのかな?試射に人間を使うなんて、悪趣味すぎるだろ)
口には出さなかったものの、やっぱり腹が立った。
「海兵隊の狙撃銃として一世を風靡したさ。スナイパー・ライフルとしても適正があったのだ。多くの兵隊を助け、多くのクズども(敵)をブチ殺したぜ。」
おれは黙っていた。
正直、どう返事していいかわからなかった。
急にうちとけてきたのは、このバカげたゲームにエンドマークを打つつもりだろうか?
だとしたら、ありがたいのだが…。
「カルロス・ハスコック1等軍曹。…知ってるな」
知ってて当然というような断定的な口ぶりだった。
首を振って否定した。
「知らない」
「へっ、オリエンティノ(東洋人)!」
ジジイは遠慮なくバカにしてきた。
知っていると答えれば話が弾んでいい結果が得られたかもしれない。
だが、知らないものはどうしようもなかった。
まして日本人にとって、ベトナム戦争は古い対岸の火事だ。
「覚えとけ、ガキ!世界最高の海兵隊員であり、最良のスナイパーだ。フランス人のくせに、ベトナム豚の手先になった糞インポ野郎を狙撃して、地獄に叩きこんだ大天使様さ。フランスの糞インポはアメリカ人捕虜をひでぇ拷問にかけるハエ悪魔(ベールゼブブ=巨大なハエの姿をしている)だ。国際法も知らんバーバリアン(野蛮人)めが!」


 言葉の末尾には怒りと怨念がこめられていた。
これがこの年代のアメリカ人の心情なのだろう。重厚長大な体躯が激高すると、ちょっと怖い。
「だが、カルロス・ハスコックだって、ウィンチェスターM70がなければただのクズだ。このウィンチェスターM70がな。シルバー・スターもパープル・ハート勲章もウィンチェスターM70があってこその業績だ。ウィンチェスターM70がくれてやった名誉なのだ。恩知らずの食い詰め兵士にな」
確かに半分はうなづけた。
実際のところ、そうかもしれない。
それでも違和感はあった。
マニアや愛好家はこういう思考になりがちなのだろうが、どれほどウィンチェスターM70が優れていたとしても、それを生かし有効利用するのは人間だ。
人間の能力なのだ。
それをあまりに否定してしまうのはどうだろう?


 「よっぽどウィンチェスターM70が好きなのですね」
おれは軽く言ったけれど、内心では
(ひいきの引き倒しだろ)
と叫んでいた。
銃が怖くて言えなかっただけだ。
ジジイは暮れなずむ残照の中で、はっきりと歯をむき出した。
「ウィンチェスターM70が好きだって?」
彫りの深い眼窩の中でまなざしが赤く燃える気がした。何か背筋に迫る気配があった。
ヤツは確認するかのように、ゆっくりもう一度繰り返した。
「おれがウィンチェスターM70が好きだと?ウィンチェスターM70をな。いいか、覚えておけ。…ウィンチェスターはおれだよ。おれの名前だ」


 しばらく、ポカンとするしかなかった。
「ウィ、ウィンチェスター、ウィンチェスターさん??」
まさかと思いながら訊ねていた。
ウィンチェスターは開拓時代から人気の、一群の銃砲の名称であると同時に、製作者の人名でもある。
歴史をたどれば、銃製造事業で成功した実業家であり、財閥であり、名家・名士でもある。
だが、家は絶えてしまっているはずだ。


 「ウィンチェスター」
この名は、日本でも結構知られている。
銃ではなく「ウィンチェスター・ミステリー・ハウス」でだ。オカルト系の雑誌や、TVなどでも特集されたことがある。
おれの高校の教え子たちも、
「デスバレーもいいけど、ウィンチェスター・ハウスに行ってよ。呪いがかかってるんだって、怖えぇ~」
と繰り返しリクエストしてきたくらいだ。


 呪いの家の由来は19世紀にさかのぼる。
女主人のサラ・ウィンチェスターは、1866年に娘を、1884年には夫を亡くしていた。
一人ぼっちになった彼女は、女霊媒師に心のよりどころを求めた。
霊媒のアドバイスは恐ろしいものだった。
「ウィンチェスター銃は昔から多くの人の命を奪ってきたわ。その恨みの呪いがかけられているから、ここにいてはダメ。西にのがれなさい。そして、死者のために家を建て続けるの。そうしているかぎり、あなたは命を全うできる」
サラはその言葉どおり、西のカリフォルニア州サンノゼに移り、38年間にわたって増築をくり返したのだ。
迫りくる悪霊を惑わすための行き止まりの階段、迷路の廊下、ベランダもなく開ければいきなり外のドア、秘密の交霊室などの怪奇な設備や、蒸気暖房、プッシュ式ガス灯、水圧を利用したエレベータなど、当時の最新技術も特徴だ。
文化遺産としても価値のあるヴィクトリア朝アン王女様式の建物は、現在でも世界中から観光客を集めている。
幽霊屋敷としても有名で、観覧はたいてい、1時間以上は待たなければならない。


 まぁ、英国貴族に端を発するという歴史ある血筋だから、本家は絶えても分家はたくさんあるだろう。
ウィンチェスターさんがいても不思議ではない。
現にそのひとりが目の前にいるのだ。
「ベトナムでの軍部が愚かだったのさ。アメリカ軍がな。これほどの銃を量産させようとした。短期間にだ。できるわけがない。質を落とさざるを得なかった。ウィンチェスターM70はレミントンM700にその地位を奪われた。レミントンM700ごときにな。そしてそれ以降、名誉は回復していない」
ジジイの声は低く重かった。
悲しげでもあった。
自然に同情する気持ちがわいた。
だが、おれは教師だ。
やはり、習い覚えた教科書や参考書の記憶が、すなおな同苦をさまたげた。
英語専科ではあるが、多少の経済の歴史は知っている。
ウィンチェスターM70の凋落は、コストダウンを目指すあまり、マイナー・チェンジをくり返したためだ。
そのために信頼を失い、結果、レミントンM700に取って代わられた。
レミントンM700は性能・価格・生産量をすべてクリアしていた。
ウィンチェスター側にも経営努力の余地はあったのではないか?
少なくとも歴史はそう伝えている。
たとえ、それがアメリカ軍が流した自己肯定の作話であってもだ。


 世界中の軍事産業がそうであるように、アメリカでも最高の武器が手放しで軍に採用されるとは限らない。
さまざまな思わくや裏工作、駆け引きや利害が複雑にからみあう。
ウィンチェスターM70は敵兵にではなく、その経済戦に敗北したのかもしれなかった。
「歴史がすべて真実ということはないでしょうね。その裏にある事実こそ、真に語られるべきものです。ウィンチェスターさん、あなたはそれを言いたいのでしょう?」
ジジイは荒々しく身動きした。
「おまえは何を言う?裏も表もない!」
イラ立ちが言葉を激しくしていた。
「ウィンチェスターM70だ。ウィンチェスターM70こそが真実なのだ!」


 思いがけない反発には黙るしかなかった。
不用意なことや失敬なことを言ったわけではなかった。
ヤツの怒りは、この場合不当なもののはずだ。おれにとっては理不尽きわまりないのだ。
それでも頑なな心には、他人が何を言っても、怒気を誘発する言葉でしかないのだろう。
怒らせてはマズい。沈黙が続いた。
空には星がまたたきはじめ、西空には今日の最後の茜色が照り映えていた。
心洗われるデスバレーの、本当に美しい1日の終わりだった。


 「おい、オリエンティノ(東洋人)」
ジジイがはじめてこっちに向きなおった。
カウボーイハットの下の顔が真っ黒に陰っていた。
「おまえにウィンチェスターM70の味を教えてやってもいい。腕がいいか、足か?あ?」
「えっ??」
ウソ寒い恐怖が背中をゾワゾワと通り抜けた。
夜の最初の暗がりの中で、ヤツは人間に見えなかった。
なにかウワバミのようなもの、人の心を持たない魍魎のようなモノ、ゆがんだ怨念を放つ別物に見えた。
座ったまま、思わず後ずさりした。
無意識のうちに体が震え出していた。
ウワサに聞くだけだが、手足を撃たれた銃創の痛みは、とにかく半端ないらしい。
屈強な男が泣き叫ぶのだ。
「お、おれはあんたが怒るようなことは、ななな何も言ってない」
「ふふん」
ジジイは鼻先で笑った。
同時にウィンチェスターM70を肩からはずし膝に横たえた。
撃ってはこない。
今のは脅しで、本当に痛めつける気はないのかもしれなかった。
そりゃ、そうだろう。
おれはまだまだ楽しめるおもちゃなのだ。傷つけて台無しにすることはないはずだ。
だが、口は災いのもとだ。
軽率な言動は厳に慎まなくてはいけない。
さすがに、もう、わかりきったことだった。
ニュースでやっていた3人の犠牲者は、まちがいなくヤツの仕業だ。
追い回し、疲弊させて楽しみ、飽きればブチ殺して放置する。
社会や法秩序への挑戦や侮蔑の意味もあるはずだった。


 この年までの来し方は知る由もないけれど、ジジイは長い鬱屈の人生を生きたのだろう。
金持ちで、地位や学歴もありそうだが、それは地に堕ちたウィンチェスターM70とウィンチェスター家の名誉を回復するものではなかった。
ヤツはしだいに偏屈になり、自分の不甲斐なさと不満を社会に転嫁しはじめた。
世を恨み、人を憎み、ついにウィンチェスターM70と自分を同一視するに到った。
軍用銃に採用されたものの、結局打ち捨てられ、ライバルのレミントンM700が今に至るまで高い評価を得ている悲劇の銃ほど、ヤツの心を揺るがすものはなかっただろう。
自分自身たるウィンチェスターM70は、冷酷で怨念に満ちた彼自身の正確な体現者だった。
ウィンチェスター家の呪いは、家にかかるものではなかった。
彼自身が呪いだった。
おそらく、歴代のウィンチェスター銃こそが、ウィンチェスター家の人々にまつわる呪いの根源だったのだ。


 「続けよう」
ジジイは気の変わったように言って、また、さっきのチキンサンドとジュースをくれた。
だいぶぬるくはなっていたけれど、まだ冷たかった。


 陰鬱な夜だった。
ジジイの本性を知った今、おれは覚悟を決めるべきだった。
このままでは、やがて殺される。
わざと手足を撃つと言って、おれのおびえた表情と仕草を楽しんだあのとき。
あのときのヤツの表情。
ニタッとほくそえんだあの嗤い。
他者の恐怖や苦痛が喜びとなった狂人には、人の心はない。あるのは殺すか殺されるかの凄惨な現実だ。
水や食い物をくれるからと、気を許してはいけないのだ。
肉牛や豚・羊の牧場主が何をするか?
時が来れば手塩にかけた家畜を容赦なく屠殺業者に引き渡すのだ。
ジジイも平気でそれと同じことをする。
無為にその時を待つのは愚かすぎるのだ。
(おびえるな)
心で自分を叱咤した。
(イグアナを食ったあの時を思い出せ。サンダー・ストームの中に置き捨てられたとき、どう思った?決着をつけろ。全力で戦え。むざむざ死んではいけない)


 月齢はもう、半月に近い。
だいぶ暗いが、目が慣れれば十分活動できるだけの光だ。
おれはさりげなくジジイの位置を確認した。
直線で50メートルほどのところに焚き火の煙があがったから、そこに居座るつもりだろう。
周りをよく見渡して地形と位置関係を覚えこんだ。
夜半をすぎてから、そっと起きだす。
今夜はやるべきことがあるのだ。
シャツを脱ぎ、音のしないように少しづつ2つに裂いた。ジーンズのすそを太ももの付け根で切り落とす。
杖がわりに拾った鋤の柄が今の希望だ。
試しに体重をかけたがびくともしない。
これはイケる。
しっかりした添え木をあて、ナイフを靴紐で厳重にくくる。
手製の槍の形にしてから、そっと振り回して手ごたえを見た。
靴をザックのそばに置き、シャツを細く裂いたデニムで左右の足に巻きつける。
また、周りを見回して位置確認をする。ほかの物はまだしも、靴だけは回収しなくてはならない。
二の腕の時計をはずして、その場に残した。
おそらく、これが位置特定の発信機なのだ。


 不意に東京に残してきたカノの顔が浮かぶ。もう、一ヶ月も会っていない気がした。
東京に帰ろう、日本にもどるのだ。
水を飲んでから、おれはそこを離れた。
衣服を出来る限り身に着けないのは、夜間行動の基本だ。
衣擦れの音は意外に響く。靴音はもちろんアウトだ。
しなやかなシャツはいいモヒカンになる。


 まず、指をなめて立て、風向きを見る。
風の吹いてくる方向がわずかに冷えるので、風上が探れる。
動物にかぎらず、人間でも風上から不用意に近づいてないけない。人は鼻は利かないが、風がかすかな物音を容易に伝えてしまうことはありえるのだ。
ゆっくり迂回して、背後から少しづつ接近する。
慎重に音と気配を消してだ。
ヤツが後ろを向いていたとしたら、もろに鉢合わせだ。だが、大抵の人間は獲物に背を向けない。
ジジイもそうだろう。


 植生の陰にチロチロ燃える炎が見えた。眠っている間も火を絶やさないのだ。
薄暗がりに慣れた目に火はまずい。
残像が残らないよう、視点をそらす。
ザックの陰に、毛布を引っかぶっているらしいカタマリが見えた。
ジジイだ。銃を抱えるように、横向きに丸まっている。
おれは故意や過失でも人を傷つけたことはない。
後ろめたい緊張で、息が乱れる気がした。
太ももをねらって槍を構える。
追ってこられないようにするだけだ。銃と荷物はもらうが、命は取らない。けがをさせるだけだ。
ジジイは傷ついてもヘリが呼べる。大事にはいたらないはずだ。
たぶん、きっと。
いいわけが頭をグルグルする。
それでもいざとなると猛烈に気が咎める。
この期におよんでもストッパーは外れない。
(やらなければ、殺られるんだ)
自分を叱咤する。
すでに3人も犠牲者がいるのだ。
でも、目撃したわけではない。ヤツではない可能性も…?
いきなり、昼間のチキンサンドとジュースが浮かんだ。おれは泣きたいほどそれに感謝したのだ。
そのジジイを…。
それに自分語りした時の声と仕草。異常ではあっても同情の余地はある。
この年までの不如意の人生は、ヤツだけの責任ではないだろう。
金や地位があっても人は救われない。
かえって、それが人をゆがませ疲弊させ、反社会行動に駆り立てることはある。
血筋や伝統も人を幸福にするとはかぎらない。
重い首枷のように自由を奪い、進歩的な発想を阻害し、低迷と困惑の人生を強いることもあるのだ。
それにおれは傷つけられてはいない、今のところは。


 ターゲットを銃に変えた。
槍先をそっと伸ばして銃身の中央に差し込んだ。
これは成功しそうだ。
力いっぱい跳ね飛ばす。
ダメだ、毛布がからむ。
ジジイが瞬間的に跳ね起きた。銃はまだヤツの手にあった。
「な~るほど。知恵はありそうだな」
ヤツが落ち着き払って言った。
「だが、ボーイ(ガキ)。ひとつだけ教えとく。ためらうな!」
銃床が振り下ろされ、受けた柄ごと両手がしびれた。
槍を構えなおし、たてつづけに数合渡りあう。
ウィンチェスターM70の固いクルミ材の銃床は、かなり手ごわい。
何度目かのつばぜり合いで靴紐はもろくも切れた。
ナイフは地に落ち、棍棒だけが手に残る。
ジジイが銃を構えれば最後だ。
手数を出して攪乱する。
ジジイもだいぶ目が慣れてきたらしい。攻撃が的確になって、棍棒では押されぎみだ。
ナイフを手にしたいが、ヤツもこっちの意図は知っている。
銃身をつかんで水車のようにブン回す。まるで三国志の張飛翼徳だ。
薄暗がりを利して機敏に動くしかない。
顔を狙ってフェイントを咬ませ、重厚長大なジジイの足を突き、なぎ払う。
ヤツの動きは年のせいか切れがない。それだけが希望だ。
ガシッとヤツのすねが痛烈な音をたてた。
ジジイがよろめく。一瞬の隙。
横っ飛びにスッ飛んで、ナイフをつかむ。
ヤツの目がギラつくのが夜目にもわかった。
「ぐゎわぉっおおおおおおおぅ」
怒りか、脅しか、自分の鼓舞のためか、ヤツがものすごい雄たけびを上げた。同時に銃を振り下ろす。
ナイフが一瞬ではじけ飛んだ。硬い銃床が手首をかすめ、肉がそぎ取れる。
二撃目をとっさに受けた棍棒は、ついに真っ二つに折れた。


 おれは地面に半身を起こしたまま、ヤツと対峙するしかなかった。
乱れて荒い呼吸が、お互いの口をもれていた。
ジジイがゆっくりと離れた。
大地しっかりと位置を占め、銃を構えるのが見えた。
最後の時がせまっていた。
音が消え、視界がコマ落しになった。
何の感慨もわかなかった。
おれの関心事はただ一つ、トリガーを引くヤツの指先だった。
まるで珍しいものを見るかのように、おれはそれを見続けていた。夜明けの最初の光が、静かに今日の始まりを告げはじめた。


              



                                   

「デスバレー紀行 (仕組まれた彷徨)」

「デスバレー紀行 (仕組まれた彷徨)」

旅行やサバイバルに興味のある方向け。 話は24歳の「北井(ならい)」の、デスバレー国立公園へのレンタカー選びから始まる。道路事情やアメリカ人気質、デスバレーの景観や印象などの楽しい紀行が語られ、銃を持った初老の男に出会ったことから、サバイバルに突入する。水を得る方法や夜間行動など、現実的な方法も見所。危険なサンダーストームにさらされた後、ついに反撃を試みるが・・・。 2016,8月作

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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