たれこむ

 労基署が来るらしい。
 その噂が流れた時、社内はけっこう盛り上がった。社員わずか十数名の零細企業である。
 ただ、いきなり労基署が来るというのも不思議な話だが、どうやら元社員からのたれこみがあったらしい。それまでの一年で六人入社して四人辞めていたが、たぶん半月ほど前に辞めた鶴子さんと亀子さんのどちらかだろう。二人とも実家から通っていたから、見かねた家族が労基署に相談するよう勧めたのかもしれない。
 退職したというのに元の職場を告発とは、有り難い話である。しかし見方を変えれば、労基署に駆け込むのはやはりそれなりのリスクがあるという事だろう。
 以前、友人の職場に労基署から抜き打ちで調査が入った。時間外労働が月の上限を超えているという訴えがあったらしく、それなりの指導を受けたそうだ。社内では誰が「たれこみ」をしたかが話題になったが、どうも女性らしい、という事しか判らなかった。
 労基署が踏み込んだその日、友人はたまたま病院へ行くために有給をとっていたのだが、一部の管理職から「調査の日を知っていたから休んだのではないか」と疑われたらしい。面と向かって言われはしなくても、なんとなく雰囲気で伝わるので、その後しばらくは嫌な気分だったという。
 ともあれ、我が社にも労基署が来るのだ。
 解放される日が近いと聞かされた収容所の住人みたいに、我々社員の心に希望の灯りがともった。
 長年のサービス残業。始業前に済ませる事を要求されている、あれやこれやの作業。馬鹿みたいに安い出張手当。週四十時間の労働では説明がつかない、月に一度の土曜出勤。夏でも冬でも、外気温そのままの作業場でけっこうな肉体労働という環境。タイムカードがなくて、出勤簿にハンコという勤怠管理。夏休みと年末年始の休みのうち、各二日は有給休暇の強制消化であること。
 挙げてゆけばきりがない、納得いかない事の数々。もしかするとこれが、解消されるかもしれない。
 結論からいうと、その希望はあっけなく潰えた。
 労基署は来なかった、というわけではない。ちゃんと来た。四十代後半とおぼしき女性と、その部下らしい男性。女性は明るい色に染めた長い髪をなびかせ、トレンチコートに身を包んでいた。胸元には趣味の良いペンダントがきらめき、爪も美しく手入れされている。
 しかし彼女は社長とその家族という、経営陣としか話をしなかった。一つには社長側のガードが固かったという事がある。ふだん来客があると、社長はそれが目の前であり、会話の内容が全て聞こえていても、決して反応しない。応対に出た社員がわずか数十センチの距離を移動して「社長、山川銀行の鈴木さんという方がお見えです」と、あたかも来客が別の場所にいるかのような小芝居をしなくてはならない。それをしない限り、社長の中では「来客はいない」という事になっているのだ。
 だから労基署の女性たちが来たときも、社員が応対に出た。だが、いつもは来客無視を決め込む社長がいきなり飛び出してきて、そのまま応接室へ連れ込んでしまった。囲い込みである。
 とはいえ、労基署職員も別に監禁されたり脅されたりしているわけではない。その気になれば「社員と話がしたい」と要求することは十分にできたはずだ。むしろそれを断る経営者に後ろ暗いものがあると思うのは当然だろう。だが、彼女はそれをしなかった。一週間ほどおいて二人はもう一度訪れたが、その時も社長たちとしか話をしなかった。
 単純に、仕事を増やしたくなかったのだと思う。
 世間ではブラック企業だ過労死だと色々報道されているが、会社側の非が認められているケースは桁違いに悲惨なものばかりだ。言い換えれば、うちの会社の労働条件など箸にも棒にもかからない案件に違いない。そんなところでいちいち社員と面談していた日には、仕事なんか回っていかない、これが労基署の現実だと思う。
 だから彼女たちは経営者とだけ話をして、形ばかりの落としどころを決めて一件落着とするのだろう。とりあえず、訴えがあり、訪問し、聞き取り、指導した、という流れは踏んでいる。
 というわけで、我が社に下された労基署からの指導は「出勤簿に各自が出勤時刻と退勤時刻を明記すること」だった。タイムカード導入、ではない。時間外労働は絶対にさせていません、という主張を裏付けるためらしい。
 以来、我々は毎日出勤簿に判を捺し、出勤と退勤時刻を記入している。といっても九時と十八時以外の時間を書き込むことは許されない。十八時五十五分に帰ろうと、二十時十分に帰ろうと、退勤時刻は十八時なのである。それが労基署の認めた我が社への「改善策」だ。
 もうあれから三年ほどになるが、労基署からはその後何も言ってこない。たまに冗談で「次に何かあったら社長の目の前で労基署に電話する」と言ったりするが、まあそんな事はするだけ無駄というのも判っている。それを教えてくれたのもまた、労基署の訪問であった。

たれこむ

たれこむ

労基署が、やって来る。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-11

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