夜明けが一番哀しい 新宿物語
(5)
母親の偏狭的な、ピンキーの行動への探索がそれから始まった。今までは素直に自分の言うがままになっていた息子の変化の裏には、何かの事情が隠されているに違いないーー。そして、母親の視線に入って来たのが牧本順子だった。
ピンキーは父親を思い出す事はほとんどなかった。父はある技術研究所に勤める一流の技術者だった。父親が自宅でくつろぐ姿をピンキーは、幼い頃から一度も眼にした事がなかった。出勤したその日のうちに父親が自宅に帰って来る事もまた、一度もなかった。研究、研究で明け暮れる父はそれだけに、数々の輝かしい業績も残していて、多くの賞も受賞していた。母にはそんな夫が自慢だった。夫婦揃って華やかな席に出席する機会も幾度かあって、母にとっては不足のない夫だった。
一方、母は、自分の心の中でなにかの満たされない思いもまた、抱いていた。そして、それが何であるのかも分からないままに、過剰なまでの愛情をピンキーにそそいでいた。
ピンキーは現在、ときおり手伝うテキヤの仕事も、面白いとは思わなかった。なにもかもがピンキーの興味からは外れていた。かと言って、本当に自分が興味の持てるものがなんであるのか、それもまた分からなかった。酒による吐瀉物にまみれながら、蒼い顔をしてなお吞み続ける自分だけが、確かな自分であるように感じられるのだった。
「帰るぜ」
マスターの上田さんが、一日の売り上げの入った鞄を抱えて、店の奥から出て来た。
「あら、マスター帰るんですか。横浜へ一緒に行かないですか?」
トン子が上田さんを見て不満気に言った。
「横浜?」
上田さんはなんの事だか分からないように、怪訝な顔をして聞き返した。
「ええ、あたしたち、横浜へ豪華客船を見に行こうって話してるんですよ」
トン子が言った。
「ごめんだね」
上田さんは話しにもならないと言ったふうで、トン子の言葉を突き返した。
「チェッ、つまんない」
トン子が不服そうに言った。
「なんで、おれが付き合わなければならねえんだよ」
上田さんも不満気に言い返した。
「だって、一緒に行ってくれなくちゃあ、車がないもん」
「いい気なもんだ」
上田さんは呆れたような顔をして、迷惑気に言った
彼等六人の仲間と上田さんの間には、暗黙の了解が出来ていた。上田さんは彼等を店から追い払わないかわりに、彼等は上田さんが帰ったあとも、決して店を荒らさないという約束だった。
「行こう、行こう、船を見に行こう。横浜へ行って船を見て来よう」
突然、ピンキーが何かを思い付いたように、大きな声を出して言うと立ち上がった。その唐突さには、トン子さえもびっくりして眼を見張った。
「ばかねえ。突然、大きな声を出して、びっくりするじゃない。行こう、行こうたって、 車がなくてどうやって行くのよ」
トン子は自分が言い出した事も忘れてピンキーを非難した。
「車なんか、パクって来りゃあいい」
ピンキーはふてくされたように言った。
「そうだ、パクって来りぁいいんだ。あんなもん、何処にでも転がってるよ」
ノッポが横から口を出した。
「あんたなんか、黙ってなよ。自分じゃあ、何も出来ないくせしてさあ」
安子が軽蔑口調で言った。
ノッポは途端にしゅんとなった。
ピンキーはすべてに決断が速かった。酔いに覚束無い足取りでテーブルを離れると、そのまま店内を出て行った。
「あいつ、大丈夫か」
上田さんが心配顔で言った。
「大丈夫よ。あの子はいつも、ああなんだから」
安子がわけしり顔で請け合った。
「ピンキーのポケットには、いつでもドライバーとナイフが入っているんだ。行く所のないピンキーは、喫茶店かパクった車の中で寝泊まりしてるんですよ」
画伯がもつれがちな舌でのろのろ言った。
上田さんもそれは知っていた。上田さんにも過去には、そういう経験があった。指名手配され、行く所がないままに、車の中で寝泊まりしながら、転々としていたものだった。
現在、上田さんは奥さんとの間がうまくいっていなかった。上田さんの女関係が因で、二年前、奥さんが一人娘を道連れにガス栓をひねって自殺を図った。その時、奥さんの命は取り留めたが、一人娘の"さゆり"は幼い体力で持ち応えられずに亡くなった。現在、上田さんと奥さんとの間には、通い合うものが何もなかった。のみならず上田さんは、奥さんが上田さんへの復讐のために男をつくっているのではないか、と疑っていた。その思いに確かな根拠があるわけではなかったが、上田さんは、あえて事実を知ろうとはしなかった。可愛い盛りの 一人娘を自分の責任で死なせてしまったという思いが、心の中から消える事がなくて、今では上田さんには、あらゆるものが価値のないものに見えるだけになっていた。現在、心の通う事のない奥さんと一緒に暮らしているのも、死んだ幼い娘の魂を宙に迷わせたくない、という思いからのみだった。その意味で上田さんもまた、家へ帰りたくない人間のひとりだった。
--ピンキーは思う。車なんかパクるのは訳のない事だ。だが、夜明けの横浜港で船を見ようなんて発想は、そう簡単に出来るものじゃない。あの九官鳥は千葉の"いも"のくせしやがって、おかしな事を考えるもんだ。
それにしても、外国航路の船をパクって、当てもなく海の上の旅に出たらどんなに素晴らしいだろう。行けども行けども島がなくて、ある日、突然、ナイアガラの滝のように、地球の果てで海がどこかに流れ落ちてしまうんだ。そして、大きな船もろともその中に落ちてしまって、霧のように砕け散ってしまう・・・・
なんて素晴らしい考え方なんだ。世界がなくなってしまうなんて、素晴らしい事じゃないか !
ピンキーは半分饐(す)えたような都会の夜の中で、うじ虫のようにうごめいている自分を見る。 こんなに夜が暗いのは、裏通りの灯りが乏しいせいばかりじゃない。心の中になにもないからだ。・・・・ ピンキーは一台の大きな外車に眼を付けた。
ピンキーが戻った時、上田さんはいなかった。安子がノッポと抱き合い、唇を押し付け合っていた。フー子は相変わらずテーブルいっぱいに髪を広げて眠っていた。画伯はいつも通り、人の眼を恐れる泥棒猫のように、背中を丸めてアンパンの袋に顔を突っ込んでいた。トン子一人が周囲の状況にシラケ切った顔で壁に背中を押し付け、ぼんやりと椅子に座っていた。
夜明けが一番哀しい 新宿物語