路地奥の家

幼いころ

今ではほとんどひっそりとして、そのころの様子は見出すことはできませんが、通りをはさんで多くのお店が並ぶ本通りと呼ばれたこの地域はその当時のショッピング街であったのです。町内はもちろん近郊の村々から人々が銀行をはじめ衣類や食料を求めて集まってきたものです。その本通りのほぼ中心に当たるあたりに私の家がありました。どん詰まりになった狭い路地の一番奥です。路地の入口には右側に大きな八百屋さん左側に箒やなべ畑仕事道具などを道路に向かって並べた店がありました。
路地を入ると右側は八百屋さんの高い壁が続きます。左は荒物屋さんの赤土の土塀がが高く続いていました。とても狭い路地の奥に向かっていくと左側にこの荒物屋さんの裏には三つの家族が間借りのような形で住み込んでいました。私の幼い子供のころはよく遊びに行きましたが、ここにも子供が7、8人はいたのではないかと思います。
我が家はその奥のどんずまりになった部分です。どうしてこんなどんずまりに家を求めたのかと、今では思うのですがその当時は車とかの利用は考えてはいなかったのでしょう。今では父も母も亡くなり空き家となってしまった我が家は、処分しようにも生活の便の悪いこの場所は誰も見向きもしません。
でも、昭和の20年、30年の戦後の貧しさや経済発展の息吹を身に受けながら子ども時代・少年時代を過ごした私たちの時代はわくわくするような
夢や冒険を求めてがむしゃらに生きぬいてきたように思うのです。

魚屋さん
路地を出て、西に数軒ばかりゆくとこの町では唯一の魚屋さんがありました。いつも水が流れており、おじさんとおばさんが黒いゴムの長い前掛けをして長靴をはいて忙しそうに魚と格闘していました。「はいよ。」「はいよ。」と、威勢の良い声を掛けながら、木の板を薄く剥いで作ったシートの中央に刺身を要領よく載せるとシートを左右から折りたたんでそれを新聞紙でくるくると包んで輪ゴムでパチンと閉めると「はい、まいど。」といって手渡してくれた。あの木の皮は今では全く発砲スチロールに代わってしまって見ることはないが、水分を適度に吸い取る反面水分を保ってくれて、新鮮味が長く持続しるように思えました。
我が家は貧しかったので、あまり肉や魚も頻繁には食べなかったが、お酒の好きな父のために母としては精いっぱいご馳走を、と、思ったのかもしれない。母は毎日一里ばかり離れた母の郷にわずかの田んぼを作っていましたから家に帰るのも大変遅く、父のための料理にも時間を掛けられなかったという面もあったのかと今になれば思い当たることなのです。
魚屋は小さな店でしたから、通りに面して魚を並べるガラスのケースを置くといつも水を流して濡れているコンクリートの床があってウナギの寝床のような通路が奥の方まで暗く続いているのが見えていました。

下駄屋さん
魚屋の二、三軒東に下駄屋さんがありました。父方の遠縁に当たる家で、母がいつも遠くの田んぼに出かけて家にいないときに、家の鍵を預けていました。だから毎日のように学校から帰ると下駄屋に寄って鍵をもらっていました。下駄屋ですから普段は店でおばさんが下駄の鼻緒の取り付けを手際よくトントンとやっていたものです。必然的にそういった作業を目にすることになるのだが、おばさんの手慣れた作業は見ていて面白いものでした。
木を削って下駄そのものを作っていたとは思えませんから、下駄はおそらく二本の歯を裏表に組んだ木の部分を重ねて運ばれてくるのでしょう。店では鼻緒を取り付ける作業だけをしていたのでしょう。
下駄には三つの穴が開いていました。おばさんは鼻緒のミツマタになった部分をそれぞれの穴に差し込むと裏返して、抜けないように結び目をつけるのですが上手なものでした。魔法のように結ぶと下駄の鼻緒は抜けるものではありません。
おばさんはくるりと下駄を表に返すとその具合を確かめるようにくいっ、くいっと指を差し入れて引っ張ったものでした。下駄が今にもお客がその下駄を履いて歩きだすのを待ち望んでいるかのような音がしておばさんは満足そうな顔をしたものです。次におばさんは下駄を裏返しにして抱えるように自分の膝の上に引き寄せると自分の手元から金色のメッキの鮮やかな小さな金具を取り出すと鼻緒を止めた三つの鼻緒の上に素早く置きます。いつの間にかおばさんは口元からこれも金色の小さなくぎを唇の端に吐き出すと、金具の穴に二つ三つ押し込みます。全く小さな金づちですが手に持つと
トントントンと瞬く間に押し込まれた釘は金具と下駄をきっちりとくっつけます。同様にして三つの結び目はきれいな金具に覆われて下駄の裏側もきれいな商品になったという具合でした。
とは言っても、私のはいていた下駄がそんな高級なものではありませんでしたから下駄の裏にそんなものがついていたような記憶もありません。

下駄について
当時は下駄は手軽な履物でどの家でも自分の下駄は一つは持っていたものです。学校に行くときは薄い茶色のゴムが底に貼ってあるペラペラの靴を履いていました。それが厚みのある運動靴になったのは中学生時代だったかなと思うのです。下駄は、人によって履き癖がありますから下駄の歯の二本のちびて(ちびるは方言でしょうか、減っていく、しかも少しづつ・・・そういった感じを表します。)いく形は違ってきます。ですから人の下駄を履くと足の不安定な感じは履いている間感じていたものです。今考えるとあんな不便で動きを拘束される履物を履いて遊びまわっていたものだと思いますが当時は全く気にも留めずに走り回って遊んだものです。ですから鼻緒が切れてしまうことは日常茶飯事でした。しかも指に一番力の入る親指と人差し指ではさまれた部分の鼻緒がよく切れました。昔の侍の時代の娘さんが、鼻緒が切れて困っている時に、ある町屋の若い衆がそっと手拭いを口で切り目をつけてびりびりと破り、そっとその困っている娘さんに差し出すというシーンがありましたが、その善意が下心があったにしてもありがたいものだった、ということはよくわかりました。手拭いの例を出しましたが、何かひもを使って結びなおすのですがいくら強い紐でも細すぎると親指ではさんでいるその安定感が心細いのです。やはりいいやりかたのは何という布だったか、裂け目に沿ってびりびりと破り、二重、三重にして下駄の穴に通して裏で結び目を作るのです。でも、遊んでいる時に切れると悲惨なものでした。布がすぐあるものではありませんから、やむを得ず裸足で動くことになりますが、必ずといっていいほど釘や金具で足を傷つけることになります。いったん傷つけると直りが遅く、長い間苦しんだものです。化のうしたり、すると当時はめったに医者に行きませんから、栄養状態の悪い当時の子供はひどくはれ上がったものです。今では医者でしっかりと抗生物質をもらって、化のうすることは防げるのですが・・・。
人によって歩き方や走り方が違うのは仕方ありませんが、私の場合とてもいびつな歩き方をしているのでしょう、走ったりしていると下駄の先が、私の足の脛にカチンと当たったものでした。いわゆる弁慶のなきどころというところです。本当に痛く、涙を流してうつむいてじっと痛みに耐えたものでした。大きい下駄、特に父親の大きな下駄を履いている時に急に走り出したりすると時々、そんなことが起きました。
下駄の材にもいろんな木が使われていましたから、大きい下駄でも桐の下駄であれば軽くて上等だったものです。
思えばいつまで下駄屋さんが商売として成り立っていたのかわかりません。

F君の家
F君は同級生だった。家に遊びに行くと、奥からいつも汚いパンツをだらしなく履いたおじさんが出てきた。夏だったのだろうか?路地の入口の真向いの家の西に四五軒いったところだったから、近くだったのだがあまり遊んだ記憶がない。
この家は当時としても変わった家だった。今にして思えば、とにかくユニークな発見がある、面白い家だった。あのままであの家が残っていたら興味津々で家の中を見て回っただろうと思う。店としては電気屋だったかと思うのですが、冷蔵庫とかラジオとかあったような記憶もありますが朧です。でもあの家で強烈に印象に残るのが、あの店の繁盛していた当時がレコード屋だったのではないかということです。あの時代からあの店は廃屋同然だったから電気屋の商売もとっくの昔にやめてしまっていたようなものだろうけど、家に入ると、入口は広く商家にあるような広い空間があって腰かける程度の高さの畳を敷いた場所の背後に見上げるほどの棚がずらりと並んでいてレコードが一杯詰め込まれていました。本当にあれだけのレコードを並べた店も当時は珍しかったのではないかと思います。それとあのおじさんのパンツをずらしたように履いた亡霊のような姿が重なって、かなりユニークな家だと子供心に思ったものです。
そのレコードは当時にしても古くてほこりをかぶっているかのように棚の中に納まっていましたから、電気屋兼レコード屋としての商売は何かの事情で全くやめてしまって当分の長い年月が経過しているように思えたのです。F君は、引っ込み思案で、あまり話をしたことのない子供でしたから何度か数えるほどしか家の中に入ったことはなかったのですが、ウナギの寝床のような家の内部を奥に入ると広い中庭に出ました。その手前に小さな部屋が右手にありました。そこにあったのは何と柔道や空手に使うような道着がずらりと並んで釣り下がっていたのです。
私はこれは何かと聞いたのですが、おじいさんが昔教えていた。というのです。
詳しいことは忘れましたが、おじいさんは柔術家であったのでしょう。あたりに投げ散らかるようにして置いてあった棒や鎖やベルトのようなものがその柔術の内容を思い浮かべるように思ったのです。全く投げ散らかすように・・・・です。中庭のもう一つ奥にあったのが道場であったのかもしれませんが、その当時にはもう締め切ってあり、覗いた記憶はありません。
全くユニークな家でした。当時はそんなユニークさが当たり前のように存在していた時代であったのかもしれません。
もう一つ不思議なことがありました。
彼の家に住み着いた犬が居ました。黒い犬で彼の家に入るといきなり飛び出てきて今にも嚙みつきそうになるくらいに吠えられたことがありました。その犬は、彼のお姉さんが飼っていたのでしょう。この人はその時代しか居ないという感じの娘さんで、娘がそのまま服装も着たまま髪の毛も伸び放題といった感じの全くのおばさんで、をあの犬が付いて歩いていたものです。彼の家から四五軒先の向かいにこれもごたごたした感じの家に住んでいましたが、その犬はこのおばさんの大きく膨らんだスカートの後ろをよくついて歩いていました。この犬があるとき交通事故にあって、なんと脇腹から腸としか思えないお腹の中の物がだらりと垂れていました。自分の腸を垂らしたままとことこと歩いていたのです。その腸は妙に赤く、大きな塊の下に小さな塊がありました。それが、歩くたびにプラプラと揺れるのです。黒い体に赤い贓物。今考えると本当にそんなことが・・・と、思います。犬はそういう状態で生きていましたけれども、それからどうなったのかわかりません。

荷車を引いた犬
もう一つ哀れな犬のことを思いだしました。今でいえば動物虐待に当たるのでしょうか?
私の家があった路地の入口に八百屋さんがあったことを以前お話ししましたが、この八百屋さんはその当時、今でいう運送屋をやっていました。トラックを何台か持っていたのでしょうが、一台の若い運転手が子供たちに人気があって、よくトラックの荷台に乗せてくれました。そのことは後日お話ししますが、この店に町内から荷物を集めてもってくる人もいたわけです。もちろんトラックで集めれば効率もいいわけで、すぐにこういった荷物を集めて持ってくるという仕事はなくなる運命だったのでしょう。その集荷作業をする、荷車引きのおじいさんが居ました。私は大きな大八車で店の前に横付けするのを見ていたことがありました。その大八車を引いていたのはもちろんお爺さんですが、驚いたことに犬がひもで結わえられて荷車を地面を這うようにしてあえぎながら荷車を引いているのです。動物の性のなせる習慣なのでしょうか、当時はアスファルト舗装はされていなくて砂利や砂であちこちに凸凹がありましたから犬も大変であったと思いますが、本当に荷車を引くことが自分の天性であるかのように懸命に引いているのです。時々おじいさんは荷車の柄をお腹に当てて押しながら、ホイとかなんとか犬をけしかけるように歌うように言います。すると犬は自分の体をグイグイと押し上げるように引くのですが、そのうち犬もよくしたもので、次にはぐいぐいと低く低く体を沈めて地面をひっかくようにしてもちろん4本の脚は地面のゴロ石を掻くようにして何度もずるずると滑らしながら進もうとするのです。よく見るとその犬の引き綱のかかった背の部分は深く深くえぐれて食い込んでいるのです。つまり、首と肩の骨との間に深い空間がぽっかりと空いていたいたのです。その部分だけ体がない犬の想像がつきますか? そこに強く食い込んだ綱はこの犬が死んでもはや前に進まなくなった時に外されるのでありましょう。昔はそんな犬も居たものでした。

ナツメの木
私の家は、本通りから狭い路地を入ったところにありました。そこはどんずまりで私の家は平屋の母屋と、北側に庭があって庭の部分は土壁の大人の背丈ほどの追手に囲まれていました。父の姉が本通りを東に行ったところにあった呉服屋に嫁いでいましたからその縁で、その家のおばあさんが隠居所にしていたいわば別宅を譲り受けたものだったそうです。庭も大きな石があって、松も何本か大きな幹で植えられていました。今でも一本今にも枯れそうなものがろくな手入れもされずに立っていますが、何度も切り倒そうかと思ったかしれません。
その庭の追手の西側は菜園のようになっていて、母が毎日の4キロ先の田んぼに出かける農業にいそしむ合間に野菜を作っていました。その菜園の一番北側つまり庭の北西側に大きなナツメの木がありました。本当に大きな木で、私は庭側から庭木をよじ登って大手の上において並べてある瓦屋根の上に乗ってそのナツメの木に乗り移っては、ちょうど手ごろな位置に子供でも座れるように湾曲した部分がありましたから、そこに腰を据えて、北側の街並みの屋根の向こうを走っていた蒸気機関車の煙が見えました。「シュッツ、シュッツ。」という勢いのあるリズムが徐々に緩やかになり、駅に汽車が入っていく音、そして煙突から吐き出す白い煙がゆったりと流れていきます。やがて甲高い警笛を鳴らして汽車は蒸気のリズムを早めて出ていきます。その他にも蓮田の花や蓮の実や、蓮田の向こうの、当時あった風呂屋の前の道を行く人などを眺めていたものでした。ナツメの実がなるころは一杯取りためては母が帰ってくるまでのおやつの足しにしていたものでした。そう取り立てておいしいとは思わなかったのですが、まだ緑色のころからがりがりと口に入れてはその甘みの物足りない柔らかい歯ごたえのある実を食べていました。
この木も私が小学校の高学年になるころには切り倒されていました。切り倒された時のことは知りませんが、さぞかし天の覆いが取り除かれたかのようにぽっかりと明るくなったことでしょう。当分の間大きな幹の切り分けられた残骸が畑の端に積み上げられていました。

〇〇川
私の育った町はほぼ東西に川が流れていました。子供心に大きな川だと思っていました。大きくなってたくさんの川を目にするようになって、どこにでもあるような大きさの川であることがわかるのですが。今では上流にダムができてほとんどたまり水のように薄い緑色に静まっていますが、当時はとても自然な生き生きとしたスケールの大きな川であったと思います。雨が降れば水かさが増す。あふれるように流れる川は茶色に濁り、土手一杯にあふれるほどに堂々と流れる。日照りが続くと、川は広々とした砂原となります。真っ白なきれいな砂地でした。はだしで歩くとクイッツ、クイッツと足元から音が聞こえてきました。
川の水は大きく蛇行しながらカーブの地点では深い急流を作り、おおいかぶさるように竹藪がその深緑の深淵を隠していました。河原の側では小魚が集うきれいな砂地の浅瀬を作っていました。

路地奥の家

路地奥の家

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-06-06

Copyrighted
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