蟻 (秋雨真鹿)

 動かなくなった男の肉を食い千切り、月光の下青白く照り返す肌の上を、体毛をひりりと震わせながら黒い微小が這っていった。肩骨によじ登り触角をぴくぴくと運動させ、頭部をやや斜め上、満ちかけた月の方へ傾かせた。退化した視界と夜の帳とではどちらが暗いのだろう。闇であることにどちらも違いはないとしても、目前を青く照射する月の光は煌めきはしないだろうか。
蟻の目に俺は見えていないのかもしれない、と男は薄い思考の奥で考える。俺を肉だと認識し齧ったのではなく、俺の肌に付着していた砂糖一粒を摘み上げただけなのだろうと。だとしたら俺は死んでいるのだ。俺はもう生物ではなく、その欠片を残した無機物に過ぎないということを蟻が教えてくれた。蝉の抜け殻だと思った。
しかし目だけは働くようだった。忙しなく触角を上下させる蟻が、視界の隅にぼんやりと輪郭を濁らせ映っている。発達した顎が肌の表面に触れそうだった。金属に似ていた。冷たく光らせたそれは切れ味が良さそうだ。あれが肌を裂けば赤い血が流れ出すのだと期待した。舐めてくれるだろうか。冷厳とした表情の月の下、仄青い肌を這い、膨らんだ腹と、冷たく光る下顎の先に血が垂れる。夜の砂漠に花が咲いた。

「オイ飯来てんぞお。…お前いつまでそこに居ンだ」
夕方の薄暗い公園の隅にしゃがみこんで、水飲み場の蛇口から溢れ出す水に性器をあてがい、先端から胴へびっしりと蝟集した恥垢を洗い流した。白い塊が排水溝に流れていくのを見ながら、路上で暮らしていくことに慣れたくないと思った。お前チンポ洗ってンかよおと背後で笑い声がした。今何時だろう。
「お前の分も貰ってくるわ」
顔が殆ど見えなくなるほどの白い髭を蓄え、元々その色だったのか、汚れを堆積させ変色したのか、糞を塗りたくったような焦げ茶色の上着を羽織った男が、笑いながらそう言って背中を叩く。尻を浮かせていたから転びそうになり、服を濡らさないように足をずらしつつ、だらりと垂れ下がった性器を拭くのを忘れたままズボンに仕舞いチャックを上げる。振り返ると彼はいなかった。炊き出しに並ぶ群衆が列を成していた。多分あれのどこかに居るだろう。男は立ち上がった。並んでいるうちに乾くだろうか。
プラスティックの容器の中身は飯と目玉焼きとほうれん草の胡麻和えと漬物だった。目玉焼きを米と混ぜ、黄身が全体に絡むのを見計らいかきこんだ。一緒に貰ったペットボトルのお茶を開け、空になった容器に流し飲みこんだ。一息吐き、あいつはどこに行ったのだろうか、と思った。
炊き出しのテントの影で、十八位の娘が忙しなく働いている。賑やかしい喧噪を構成しているのはホームレスだけではなく、ボランティアの張り上げる声の方が大きく占めるようだった。中年が多かったが、テントの下で飯を容器に一心不乱に詰めている娘は此処でただ一人の若い人間のようだった。髪を後ろで結び汗を掻いていた。
十八の頃を思い出そうとした。それは狂った遠近感を伴い私の目の前に現れた。何処に住んでいたのか、学校で何を勉強していたのか、友達の名前は何と言ったか、まるで思い出せなかった。ただひどく腹の空いた感覚と、父が振り下ろしたバットの銘柄は克明に覚えていた。曖昧模糊とした記憶に細部だけが印象されているのは奇妙だ。飯に困っていたのは今に始まったことではないが、寝ている時にバットで殴りかかってくる父はもういない。死んだのか消えたのかは思い出せない。
しかし自分が何故、いつから、このような生活をしているのか思い出せないのは不可解だった。今日の飯の献立、髭を生やした男、こびりついた恥垢、そんな記憶を順々に辿っていけば抜けられるような気がしたが、前触れなくとても硬い岩にぶつかってしまう。分厚く穴も空けられそうにない岩壁。その向こうに何があるのか思い出せない。仕方なく回り込んで進むことにした。終に見えてきたのは古ぼけた映像だった。
小学一年生の夏だった。この時も一人で公園で遊んでいた。違う、一人ではなかったのだ。遊び相手がいた。授業が終わり、夕焼けに地が浸された時分、帰り道の狭い公園に、あの浮浪者がいた。彼はいつもベンチに座っていた。傍らに置いた段ボールは寝具だった。彼は私を見るなり、髭むくじゃらの表情をほころばせ、手招きし横に座らせた。彼はポケットからカブトムシを出し渡してくれた。公園の周りは樹々に囲まれており捕獲には困らなさそうだった。太陽は眩しかった。
私はいつも礼を言った。カブトムシは彼の見えない所で離してやった。彼が捕まえるのはカブトムシだけではなかった。ポケットから出した握りこぶしを開き、ぱらぱらと落ちた粉末がきらめいた。暫く待てば、蟻がうじゃうじゃと寄ってきた。彼は蟻の大軍を両手で掬い取り、ガラスの瓶に残さず詰めた。白い粉末はまたポケットに入れた。蟻をどうするのか気になったが訊かなくてもよいようなことなので黙っていた。彼はその作業中ずっと笑っていたが、足元に一匹蟻が這っているのを見、慌ててそれを踏み潰した。私の足元にも一匹這っていた。これから何処に行けばいいのか考えあぐねているようだった。何を目指しているのか分からなかった。巣か、砂糖か、仲間か。どれでもないような気がした。私はそれを踏まなかった。蟻は触角を振りながら当てもなく歩き始めた。陽は暮れかけた。
夜になった。いつも夜中に帰り、寝ている私か母に怒声を浴びせながらバットを振りかざしてくる父はいなかった。奇妙な静寂が辺りを包んでいた。私は起き出した。窓を見る。満ちかけた月が外を明るませていた。外に出た。怖くはなかった。甘い匂いがした。月の匂いだろうか。いや夏の香しい夜気が私に夢を見させている。現に月が大きいじゃないか、まるで太陽だ。夢ならばどこまでも歩いて行ける。甘い匂いを辿っていこうと思った。虫の声が聞こえる。樹林が黒ずんだ身を歪ませている。気付くと公園に居た。どこをどう行って此処まで来たのか思い出せない。
公園にはやはり浮浪者がいた。父もいた。
浮浪者は血まみれになって横たわっていた。父は最後の一撃を振り下ろそうとした瞬間、こちらを振り返り、朗らかに微笑んだ。彼のように笑うんだな、と感心した。私にバットを差し出した。
彼を見下ろした。虫の息だった。もうすぐ死ぬ者の呼吸だ。バットを短く持ち、ヘッドを頭の後ろまで持っていき振り下ろす姿勢に入った。ひどく重かった。夢ではないような気がした。視線を下ろし、血に塗れた彼の全身を隈なく観察した。額からどくどくと流れ出す血は赤くなかった。黒々としたインキのようだった。冷え切った月の光を浴びてますます凍り付いていった。微弱な腹の動きが繰り返された。彼は私を見ていた。艶やかな光が瞳に瞬いている。どういうつもりか分からないと言っているように思えた。それは私が言いたいことでもあったのに。少し腹が立った。拳に力を込め、ゆっくりと狙いを定める。その時視界に何かが入った。彼の腹部にもぞもぞと黒い何かが動いている。蟻だった。
何かを探しているようだった。7センチ程進んでは、躊躇うかのように後退し、胸部へ方向転換したかと思えばいきなり立ち止まり角を細かく震わせている。何かを見つけては追いかけそれが途切れると戸惑っている様子。砂糖だと直感した。こいつと、あと私が吸い寄せられた甘い匂いも砂糖だったのだ。しかし砂糖に匂いなどあるだろうか。夢だからか。普段感じられないものを感じても別に不思議じゃないな。
蟻は降りる気配はない。砂糖がある場所を教えてやりたかったがまずバットを振らなければならない。そうしなければならない理由が何処にあるのか分からなかったがそれも夢だからだ。息を吐いた。狙うのは頭だ。そう心に決めても匂いは止まらなかった。本当にこれは砂糖だろうか、と思いながら私はバットを振り落とした。
先端の硬い振動が腕を痺れさせた。彼の身体が骨の砕ける音と共にびくびくと跳ねた。頭蓋骨は割れ血が糸を引いたが、もう一度振り下ろした。今度は柔らかかった。肉を潰している感覚が心地よかった。もういいだろうと思いバットを投げた。蟻はもういなかった。砂糖は手に入れられただろうか。

違う、これは記憶じゃなくて夢じゃないか、と気づいた時辺りはもう暗くなっていた。公園には私を残して誰一人いない。どうしたことだろう、まるで夢の続きみたいだ。夜空に月が浮かんでいた。
ふと、匂いを嗅いだ。なんだろうこれは、ほのかに甘い、いい匂いだ。いつか嗅いだことのある匂いだ。どこから漂ってくるんだろう。私は立ち上がった。元は近いような気がした。公園の中をぐるぐると歩き回ったが、近くなったかと思うと、急に途切れ、また歩き出すと、再び流れ出した。辿りつけないような気がした。しかし歩はなぜか止められなかった。誰かから命令されている気分だった。動いているのは紛れもない自分のはずなのにその糸を操っているのは別の存在だ。俺の他に誰かいるのか、と声を出そうとした。
その時、後頭部に衝撃が走った。勢いよく前のめりに倒れこんだ。何が起こったのか理解できないまま頭を起こそうとするとまた視界が破裂した、夜が一瞬白くなった。暖かな水が頭に垂れるのを感じる。見えなくても分かったこれは血だ。誰かが俺を殴ったんだ。相手の顔を見てやりたかった。しかし今度は身体のどの部分も動かない。ひどく寒い。血が暖かい、甘い匂いがする。匂いは血だったのだろうか。違う。力を振り絞りポケットを探る。ざらざらした砂の感触を見つける。ああ砂糖だ。やはりあれは夢じゃなかったんだこうして現実でも匂いを感じているんだから。ならば俺は死ぬんだなあ、とぷっと吹き出し、目を閉じようとした。その間際、私の背中を何者かが横切る感触が覆った。

月は明るかった。白くどこまでも続く砂漠は赤い血で溢れたオアシスに中断された。この地のどこかに甘い匂いを醸し出す豊穣な食物の山が隠れているはずだ。それを探すまでこの旅は終わりそうに無かった。しかし何故私はこの匂いを感ずることが出来るのだろう。遠い昔にもこんな匂いを嗅いだことがあったような気がする。あれは私が幼いころだったかな。
夏の涼しい風が吹き過ぎる中、裸の身に生えた体毛を強張らせながらこう考えた、自分が夢を見ていようといなかろうと、甘い匂いを追いかけることに違いはなさそうだ、蟻も人間もそんなに変わりはしないのだから、と。

蟻 (秋雨真鹿)

蟻 (秋雨真鹿)

「砂糖」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-06

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