八咫烏(7)
第七話「白昼夢」
「にしても、暑ぃなあ」
通りを歩きながら、烏平次が首筋の汗を手拭いでふいている。
「風がありゃあ、少しはちがうんでやすがねぇ」
烏平次のとなりをゆっくり歩きながら、雷蔵がうっとうしげにお天道様を見上げた。
浅草蔵前。隼助は体中を汗でベタつかせながら、ふたりのうしろを歩いていた。日差しが熱い。月代が焼けそうだ。隼助は烏平次の浪人髷の〝ヅラ〟にチラリと目をやった。オレも月代を伸ばしてみるかな――隼助は胸の中でつぶやいた。
ふいに、まえをゆくふたりの足が止まった。
「ここか」
烏平次が小料理屋の暖簾をくぐった。雷蔵もつづく。
「いらっしゃいやし」
店の右奥、板場のほうから店主の威勢のいい声が聞こえてきた。
はじめて入る店だ。藍色の暖簾には、ひらがなで『ふくでん』の文字が白く染め抜かれている。
「福天、か」
声に出してうなずくと、隼助も暖簾をくぐって店に入った。
「いらっしゃいまし」
下働きの若い娘が、料理をのせた盆を抱えて板場から顔を出した。そして娘は二、三歩足を運んで、はっとしたように立ち止まった。
「まあ、おまえさん方は、あのときの」
おどろいた顔を隼助たちに向けながら、娘が笑顔で会釈をした。
「元気そうでなによりだ」
烏平次も笑顔でうなずいた。
雷蔵もうなずいて、板場のほうに笑顔を向けた。
「御亭主も、達者なようで」
「これはこれは」
主人が板場のほうからやってきた。
「その節は、大変お世話になりました」
前掛けで手を拭きながら主人があたまをさげた。年の頃は、娘とおなじ二十四、五ぐらい。主人の名は多吉。娘は、おてる。ふたりは夫婦なのだ。
「あなた方のおかげで、私どもはこうして店をもつことができました」
多吉が客に料理を出すおてるをふり返り、互いに笑顔でうなずき合った。
「この御恩は、一生忘れません」
多吉は烏平次に向き直ると、もういちどあたまをさげて礼を言った。
このふたりを助けたのは隼助たち、八咫烏なのである。もちろん、正体は明かしていない。
「礼なら、アッシらより松葉屋のダンナに言いなせえ」
雷蔵が謙遜して笑った。
小間物問屋の松葉屋は、八咫烏と深いつながりがあるのだ。主人の名は、松葉屋伝左衛門。烏平次のまえに、八咫烏の頭目をつとめていた男である。
「もちろん、松葉屋さんにも感謝しております」
多吉が言う。
「あなた方は、私どもの命の恩人なのですから」
「おおげさだよ」
浪人髷の〝ヅラ〟をかきながら烏平次が笑った。
「それより、めしを三人前、適当に見繕ってくれ。それと銚子を三本」
「では、どうぞこちらへ」
多吉が奥の小上がりの座敷に案内した。ちょうどヒザぐらいの高さの畳の席。
「ささ、こちらへ」
隼助たちが案内されたのは板場のとなりの席である。烏平次は障子窓のある角のカベ際に座った。雷蔵も、卓をはさんで烏平次と向き合う形でカベ際に座った。隼助は雷蔵のとなりに板場を見ながら座布団の上にあぐらをかいた。
「いいお店ですね」
隼助は店内を見まわしながら多吉に言った。
「ありがとうございます」
小上がりの下で多吉が会釈をした。
すぐうしろのほうから、客の話し声が聞こえてくる。隼助は肩越しにふり向いた。背の低い障子の衝立の向こうで〝本多髷〟が四つ、にぎやかに話し込んでいた。
「では、しばしおまちを。それから――」
多吉が衝立の向こうの客を気にしながら声をひそめた。
「今日のお代は結構ですので」
すると、烏平次が困った顔になった。
「まあ、そう気を遣うなよ、多吉っつぁん」
「しかし、それでは私どもの気が済みませんので」
多吉がどうしてもと言うので、烏平次はしぶしぶあたまをたてにふった。
「それじゃ、お言葉にあまえて」
多吉はまんぞくそうな笑みを浮かべながら烏平次にうなずくと、板場のほうへ戻ってった。
おてるが酒と料理を運んできた。煮物の小鉢に焼き魚、山菜の天ぷら、漬物、淡雪豆腐、吸い物、そして菜飯。
「こりゃあ、おいしそうですね」
隼助は卓の上に並べられた料理に目を走らせた。
「主人が、腕によりをかけました」
卓のよこでヒザを折りながら、おてるがニコリと笑った。
「おてるさん。ほんとうに、お代はいいんで?」
申し訳なさそうに烏平次が尋ねた。
「はい、もちろんです。どうぞお気になさらないでください」
「それじゃ、遠慮なく」
烏平次は改まってあたまをさげた。
「御馳走になりやす」
雷蔵があたまをさげると、隼助も一緒に会釈をした。
「あとで心太をおもちしますので、どうぞゆっくりしていってくださいまし」
笑顔で会釈をすると、おてるは小上がりから降りて板場のほうへ戻っていった。
昼時なので、店内は客の話し声でにぎやかだった。土間には卓が八つほど並んでいる。もちろん、空席はひとつもない。隼助たちの小上がりも、客の笑顔で埋まっているのであった。
「あれは、たしか去年の今頃だったか」
烏平次が開け放った障子窓の外に目を向けながらお猪口をかたむけた。
「へい。ちょうど一年になりやすかね」
雷蔵も、しみじみとお猪口をかたむけている。手酌で一杯やりながら、隼助も去年の出来事を思い出していた。
ある満月の夜のこと。ふたりの若い男と女が、両国橋から身を投げようとしていた。そこを、オレたち八咫烏がたまたま通りかかり、ふたりを助けたのだ。それが、多吉とおてるだった。ふたりは心中しようとしていたのだ。わけを訊くと、白昼、少し長屋を空けている間に空き巣が入ったらしく、小料理屋を出すために必死で貯めた百両を盗まれたというのだ。挙句の果てに「夜の盗っ人は十両でも首は飛ぶが、スリや空き巣は油断したほうが悪い」と、役人にも叱られる始末。ふたりは激しく落胆し、いっそのこと死んでしまおうと捨て鉢になっていたのだ。
事情を聞いた烏平次は手紙を一筆したためると、多吉に渡してこう言った。
「これを外神田の小間物問屋・松葉屋という店にもっていきなさい」
松葉屋の主人・伝左衛門は、烏平次のまえに八咫烏の頭目をつとめていた男である。
「その手紙を主人に見せれば、金を貸してくれるはずだ。無利子で、な」
じつは、この手紙にはある細工が施してあったのだ。文面ではなく、紙に細工があるのだ。ロウソクの灯で軽くあぶると、紙の中心に黒い八咫烏の絵が浮かび上がってくるのである。いわゆる〝あぶりだし〟と呼ばれる細工だ。この細工が施された紙を松葉屋にもっていけば、なにも聞かずに金を貸してくれるのだ。そして、この紙にはもうひとつの使い方があった。身分の低い貧しい者が小判をもっていては怪しまれる。だから、小判のまま施す場合は、かならずこの紙に包むのである。それを松葉屋にもっていけば、一分金や〝穴あき銭〟に両替してくれるのだ。
隼助は酒でのどを潤すと、お猪口を置いて料理に箸を伸ばした。
「この菜飯、うまいですよカシラ」
烏平次は返事をしない。お猪口をもったまま、だまって障子窓の外をながめている。
チリン……チリン……チリン……
障子窓の向こうから、風鈴の涼しげな音色が聞こえてくる。
「いい音色だ」
障子窓のまえを風鈴売りの俸手振りが横ぎっていく。烏平次は風鈴売りを目で追いながら、静かにお猪口をかたむけていた。
めしは済んだ。心太も堪能した。だが、三人はまだ店にいた。酒も、まだ残っている。外は暑そうなので、もう少しゆっくりしていこう、というわけだ。
隼助のすぐうしろ、衝立の向こうで、さっきから四人の男たちが酔って騒いでいた。
「きのう、バクチで摩っちまってよ。ありゃあ、ぜったいイカサマだぜ。ちくしょう」
「やめとけ、やめとけ。バクチなんて儲かりゃしねえよ」
「なにかいい儲け話でもころがってねーかな」
「銭が欲しけりゃあ、八咫烏にでも頼むこった」
顔は動かさずに、隼助は烏平次のほうに目を向けた。雷蔵も、お猪口をもったまま烏平次の顔を見ている。
烏平次はだまってうなずき、ふーっと長い吐息をもらした。
「でもまあ、あれだよな。あんまり、おれたちを当てにしてもらっても困るんだよな」
「そろそろ、やり方を変えたほうがいいのかもしれやせんね」
雷蔵も迷惑顔でお猪口を呷った。
四人組の話は、まだつづいている。
「なにが八咫烏だ。たかが盗っ人じゃねえか。そんなやつらの施しなんざ、受けたくねえや」
隼助は、目の端からそっと烏平次の顔をうかがった。眉間にしわを寄せながら、障子窓の外をにらんでいる。雷蔵も、額に青筋をたてていた。
四人組は、さらにこうつづけた。
「そうだそうだ。義賊だなんだもてはやされて、調子にのるなっつうの」
隼助のよこでピシッ、と妙な音がした。横目で雷蔵を伺う。徳利をにぎった指の隙間から、酒が流れ出している。雷蔵はマユを〝ハの字〟にして、涙堂をピクピクさせながらイラだちをつのらせていた。
「らっ、雷蔵さん。それ、弁償ですよ」
クモの巣状にヒビの入った徳利を見ながら隼助はささやいた。
四人組の話は、まだ終わっていない。
「うわさじゃあ、やつらがばらまいてるのは小判じゃなくて小粒(一分金など)だってえ話しだぜ」
「やれやれ。義賊ってより、ただのコソ泥じゃねえか」
四人組の笑い声を聞きながら、隼助は歯を食いしばった。
――バリバリ!
「あっ、雷蔵さん」
雷蔵の手の中で徳利が粉々にくだけ散っている。ハの字になったマユの下で、雷蔵の鋭い目がギラギラと白く光っているのであった。
「――え?」
隼助の顔のよこを、ものすごい勢いでなにかが飛んでいった。
――バリン!
なにかがくだけ散る音。
「ぎゃあっ」
うしろで男が悲鳴を上げた。隼助は、あぐらをかいたままふり返った。衝立の向こう。男のあたまで割れたのは徳利だった。まるで打ち上げ花火のように、徳利の破片が広がりながら飛び散ってゆく。
「きたねえ花火だ」
烏平次の声にふり向く。赤い顔に瞳孔を小さくした白い眼。そこにいるのは、烏平次ではなく赤鬼だった。
「これからが本当の地獄だ」
般若のような形相で雷蔵が言いました。
四人組と乱闘になった。徳利、座布団、茶わん、衝立。いろんなものが店の中を飛んでいる。多吉は能面のような表情で呆然としている。おてるは顔をこわばらせながら多吉の袖をぎゅっとにぎりしめ、宙を飛びかう家具や茶わんを目だけで追っていた。
白昼夢、か。
隼助はフッと鼻先で笑った。夢の中なら、なにも恐れることはない。
「八咫烏は義賊だ!! なめるなよぉ!!」
止められるものなら止めてみろ。隼助たちは、悪魔に魂を売りわたしたのであった。
隼助は浅草紙――チリ紙のようなもの――を小さくちぎって丸めると、それを両方の鼻の穴に押し込んだ。鼻血を止めるためである。
雷蔵も、血がにじんだ口もとに手拭いを押し当てて、気まずそうにうつむいていた。
「壊した物は、おれたちが弁償する。これを松葉屋さんにもっていくといい」
烏平次は両目が青く腫れあがった顔で例の手紙を多吉に渡した。
「へ、へえ。助かります」
多吉は青い顔で手紙を受け取った。そして女房のおてるも、多吉の傍らで青い顔をこわばらせながら会釈した。
「本当に、とんだ迷惑をかけちまって申し訳ないです」
隼助は鼻声で謝った。
「い、いえ。とんでもないで……す」
おてるが放心状態のまま返事をした。
「そ、それじゃ、ごめんなすって」
雷蔵があいさつをすると、烏平次も青く腫れた目であたまをさげた。
店に背を向け、隼助たちは歩きはじめた。日差しが強い。風もない。月代でサンマが焼けるのではないかと思えるほど外は暑い。なのに、すれ違う人たちは、なぜかみんな寒そうに体を縮めて青い顔になるのだ。まるで幽霊でも見たような、青ざめた顔に……。
隼助はフッ、と笑った。むりもない。三人とも、まるで〝お岩さん〟のような顔なのだから。
「白昼夢、か」
両方の鼻に丸めた浅草紙をつっこんだ顔で、隼助はもういちどフッ、と笑った。
次回、第八話「露草色に吠える」
おたのしみに!!
八咫烏(7)