「話を聞いていただいて、ありがとうございます。鬱の気分は晴れませんけれども、ともかくもう少し生きてみようという気になりました。相談員さんは毎日出勤しているんですか?」
 瑠璃子は電話相談センターで夜間相談員をしている。二年間の研修を受け資格を取得して、いまのセンターを紹介された。去年の一月から勤めはじめたので、一年半ほど経ったところだ。
 電話相談センターは二十四時間体制で対応している。昼間勤務と夜間勤務、深夜勤務の三交代制になっている。昼間勤務はベテラン相談員が、夜間勤務は瑠璃子のような非常勤の相談員が、深夜勤務は心理学専攻の男子大学生が従事している。夜間勤務は午後五時から九時までで、二人が交代で勤務している。瑠璃子の担当日は月、水、金曜日である。
 この相談者は二十五歳の女性である。これから手首を切ろうと思っているという内容だった。自殺企図の電話はこれまで受けたことがない。
 瑠璃子は初めてのケースに内心狼狽したが、まずはカウンセリングの基本に立ち、相手の話にじっくり耳を傾け、リストカットという非常手段を使おうとするに至ったクライアントの気持ちを理解しようとした。相手の言葉の合間に、それでもなお生きていてほしいという思いを伝えた。いまにも手首を切るのではないかと思うほどクライアントの心理が切迫することもあれば、瑠璃子の言葉が相手の心に沁みいっているようだと思えるときもある。クライアントの強ばった心理が徐々にほどけてきたような気がする。と思った瞬間に、クライアントは再び死という言葉を口にする。そんなことが何度も繰り返された。
 このクライアントの自殺願望には不定愁訴が渾融しているようだ。心理の根底には家庭環境に起因する不安感がある。それが昂じると、自殺念慮になるらしい。高校のときに両親が離婚し、彼女は母親と一緒に生活するようになった。ところが、二年前に母親が病死し、いまは一人暮らし。父親は再婚していて、現在の家庭が大事なのか、成人した娘には関知しようとしない。彼女はどうしようもない孤独感、寂寥に苛まれることが多い。
 瑠璃子が受講したカウンセリング理論では、カウンセラーはクライアントの言葉を傾聴し、クライアントの主訴を受け止めながら、クライアント自身が問題の所在に気づき、自ら解決の方途を探る手助けをすることになっている。クライアントの縺れた心の糸を縺れたままに辿っていくことが必要だと講義のなかで繰り返し教えられた。同行者となってクライアント自身がゆっくり縺れた糸を解きほぐせるようにしてあげ、ときには手を差し伸べてやること、たとえその歩みが遅くとも焦らせないこと、瑠璃子はそれを肝に銘じてクライアントに接している。
 しかし、この女性の相談を前にして、そんな方法論は吹っ飛んでしまった。瑠璃子自身がパニックに陥りそうになった。女性の声調も瑠璃子の対応を混乱させる要因だった。イントネーションが不安定に揺れ動いた。大体は低いトーンであり、時折甘えた声が混じる。そして、低いトーンは不自然な感じで、作った声音のように聞こえた。
「わたしは月、水、金の週三回、午後五時から九時まで電話応対しています。苦しくなったり、何か吐き出したいと思うことがあったら、どんなことでもいいから電話してくださいね」
 最後にそう言うのが精一杯だった。無我夢中の一時間半だった。脳が破裂寸前まで腫れあがったような気がした。いままでに感じたことのない強烈なストレスである。
 次の担当日の引き継ぎの際に、昼間の相談員に相談してみた。その相談員は行政の相談機関で二十年近く相談業務に携わった経歴を持っている。定年退職後にこのセンターに再就職してからも五年近く経つ。
「もしまた電話がかかってきたら、いのちの電話を紹介した方がいいでしょうか?」
「相談日誌に載っていた自殺企図のケースね。一概には言えないわ。もしかするとすでにいのちの電話でカウンセリングを受けたけれど、満足できなくてうちにかけてきたのかもしれない。カウンセリングには相性というのがありますからね。どうしても手に負えそうにないようであれば、そうせざるを得ないかもしれないわね。いずれにしてもじっくり傾聴することよ」
 ベテラン相談員の勘は当たった。二度目の相談のときに、クライアントはいのちの電話でも何度か相談したことを告白した。そこでは心に響いてくる言葉を聞くことができなくて、電話相談センターにかけてきたのだ。その日、クライアントは気持ちが落ち着いていたらしく、仕事などの日常的な話題も口にした。瑠璃子の言葉が相手の心にどう受けとめられたのかは定かでないが、クライアントはまた相談に乗ってくださいと言って、電話を切った。
 電話相談センターには多岐にわたる相談が寄せられる。しかし、電話相淡といっても、相談に値するものばかりではない。嫁との確執に悩んだ姑の愚痴の捌け口にされていると思うことも多い。それよりも腹立たしいのは若い男からの相談である。瑠璃子をテレホンセックスの相手にしようという輩がいるのだ。
 最初は性の相談を装ってかけてきた。相談員になって二か月も経たない頃だ。付き合っている彼女といざセックスしようとしても、勃起しないというのが主訴だった。セックスの場面を妙に念入りに説明するので、瑠璃子は不審に思った。しかし、それをあからさまに言葉に出すこともできないで、相槌を打ちながら耳を傾けていた。
 相談者の話は堂々巡りをしているので、早く核心にはいるように瑠璃子は促した。その瞬間である。電話口から呻り声が洩れ、「出たっ。サンキュー。おねえさん」という言葉とともに電話は切れた。
 瑠璃子は状況が掴めなかった。それについて考える暇もなく、次の相談がはいった。その相談を終え、報告書をまとめ、深夜勤務の学生に引き継いでから相談室を出ると、九時十分過ぎだった。
 電話相談センターは市民活動プラザの三階にある。三階には各種団体の事務室があり、この時間にはどこも業務を終了している。廊下には非常灯が灯っているだけだ。電話相談センターは廊下の端にあるので、瑠璃子は小走りでエレベーターに向かった。ハイヒールの足音が薄暗い廊下に響く。小走りに急ぐと、それは瑠璃子を追いかけてくる。そのとき、突然得心がいった。あの若い男はオナニーをしていたのだと。先輩の相談員から、そういった類の電話があることは聞いていた。しかし、自分自身がセックスの捌け口にされるとは思いも寄らなかった。不快感は自宅に戻るまで拭えなかった。瑠璃子は洗面所に直行し、歯を磨き、何度も口を濯いだ。
 次の当番のときにすこし早めに出勤して、相談センターの事務担当者に相談した。担当者からは、明らかにいたずら電話だと確信がもてた時点で相談を打ち切って構わないと指示された。一緒にいた五十代の相談員は、ああいった連中には好みがあるらしいから、あなたには今後もかかってくるわよと親切なご託宣を下してくれた。
 その託宣は現実のものとなった。あの男からは大体十日から半月に一回のペースで電話がかかってくるようになった。瑠璃子はそいつだと分かると、すぐ電話を切った。すると、男も戦術を変えたようだ。先にオナニーをはじめて気分を昂揚させておいたうえで、電話をかけ、瑠璃子の一言、二言でフィニッシュを迎えるようにしているらしかった。「こちら電話相談センターです」 という瑠璃子の声だけで、大きく喘ぎ声を上げ、一言も言葉を発せずに電話が切れたことすらある。
 受話器を通した瑠璃子の声はたしかに若い。四十を越えているのに、声だけだと三十歳前後で通用する。ちょっと鼻にかかったハスキーボイスは、フラストレーションを溜め込んだ若い連中にとって格好のターゲットになるのだろう。瑠璃子ファンクラブがあるわけでもあるまいが、ニューフェイスというかニューボイスというか、さらに新人が二人加わった。一人は高校生らしい。
 男の妄想のなかで自分がどんなふうに思い描かれているのかを考えると、薄気味悪さで受話器に伸ばす手が竦んでしまうこともある。
「今日も例の電話がかかってきたわ」
 仕事を終え帰宅すると、そう言うのが口癖になった。
「愛の定期便か。すぐ切っているんだろう」
「ええ、もちろん。でも、あの男だけじゃないのよ。ノイローゼになってしまいそう」
「きみ自身がどこかに電話相談しなくちゃならなくなるな」
 そう言いながらも、夫の竜介の口調にはどこか揶揄するような響きがあった。最初の頃、竜介は「すごいよな、きみは。声だけで男をいかせることができるんだから」といった冗談を瑠璃子に浴びせていた。
 「テレホンセックスも相談件数のうち」というのが相談員の合い言葉で、瑠璃子もいまでは柳に風と聞き流す術を身につけた。
 それよりも、最近瑠璃子を悩ませているのがストーカーである。ストーカー行為は自殺企図の女性からの相談と前後してはじまった。市民活動プラザから地下鉄駅までのコースでストーカーはあとをつけてくる。まだ竜介には打ち明けていない。
 竜介との夫婦仲はここ数年冷たいものになっている。カウンセリングをはじめたのもそこから逃げ出したいという心理の現れだったかもしれない。離婚という選択肢が瑠璃子の意識を掠めることがあり、相談員という仕事は自立の道を探るひとつの手段でもあった。
 市民活動プラザは地下鉄札幌駅北口から十分ほどの距離にある。オフィス街なので、瑠璃子が仕事を終える時間にはほとんど人通りが絶えてしまう。瑠璃子は市民活動プラザを出て南に向かう。二つ先のブロックには中央官庁の合同庁舎があり、その横断歩道を渡ると地下道に入れるのだが、ホームレスらしい男がいたりして気味が悪いので、地上をそのまま進む。その南西のブロックは路線バスの発着場になっているし、駅の北口もすぐ目の前に見える。ここまで来れば安心である。
 ストーキングされるのは市民活動プラザから合同庁舎の先までで、わずか七、八分である。しかし、その時間が二十分にも、三十分にも感じられる。スポーツシューズを履いているらしく、足音はほとんど聞こえない。間合いをとっていて、瑠璃子との間隔は短くもならなければ、長くもならない。瑠璃子には人の気配が漂ってくるだけだ。瑠璃子が横断歩道を渡ると、その姿はなくなっている。おそらく地下道に入ったか、違う方向に曲がったのだろう。
 そんなことが五、六日間隔で続いた。七月中旬に瑠璃子は思い切ってストーカーと対峙した。
 その夜、市民活動プラザの裏玄関を抜けて、南に向けて歩きはじめた途端、ストーカーの気配を感じた。いつもより二人の間隔が狭い。息遣いさえ聞こえそうである。瑠璃子は勇気を振り絞って合同庁舎の横で立ち止まり、ストーカーを待ち構えた。
「何度もわたしのあとをつけて、何か用なんですか?」
ストーカーは目深に帽子を被った顔を俯けたまま、唾を瑠璃子の足下に吐き捨てて、追い越していった。帽子から茶髪がはみ出している。街路灯の光に耳のピアスが反射していた。男としては小柄な方である。一メートル六十五センチくらいだろう。体つきも華奢な感じだ。
 帰宅したとき、竜介はニュース番組を見ていた。バスタオルを腰に巻いただけの姿でソファに腰かけ、風呂上がりの缶ビールを飲んでいる。そのだらしない格好について、瑠璃子は何度も注意しているし、娘の彩子は父親の姿を見るたびに大騒ぎする。けれども、竜介はなかなか改めようとしない。
「ねえ、聞いてほしいことがあるの」
「僕はいまニュースを見ているんだ。大事な情報収集の時間なんだよ」
「わたし、ストーカーにあとをつけられているの」
「なんだって。冗談だろう」
 瑠璃子は物語った。竜介はテレビを切った。時折缶ビールを口に運びながら質問を挟んだりして耳を傾けている。
「その男は二十代なんだろう。本当にきみのあとをつけているのかなあ。おばさんをストーキングするなんて、変態かもしれないな」
「ちゃかさないでまじめに人の話を聞いてよ。テレホンセックスだけならいざ知らず、ストーカーにまで付きまとわれるなんて。わたし自身がぼろぼろになってしまいそう」
 竜介は平謝りに謝った。翌日から、竜介は時間の都合の許すかぎり市民活動プラザまで迎えに来て、帰路をともにしてくれた。竜介がそんなフォローをしてくれるなんて、予想していなかったことである。そのおかげなのか、ストーカーの影は瑠璃子の周囲から消えた。半月ほどして、瑠璃子はもう迎えの必要はないと竜介に告げた。



 竜介はススキノ十字街から西に足を向けた。ボッサで美香が待っているはずだ。ボッサはジャズバーで、美香と付き合いはじめてから開拓した店である。美香とデートするときは、この店かススキノの奥にあるパブのいずれかを使うことにしている。
 エレベーターで三階に上がり、黒い革張りのドアを開けると、ステファン・グラッペリの「枯葉」が竜介を迎えた。ステファン・グラッペリはジャズバイオリンの巨匠である。店はL字型になっていて、ドアに続くスペースにはカウンターがあり、その先がテーブル席である。カウンターでは何人かの常連客がマスターとジャズ論を戦わせている。竜介はそれを横目に見ながら、マスターに会釈して奥に進んだ。
 竜介の姿を見て、美香が手を振ってきた。竜介が腰をおろすと、美香はオンザロックを作りはじめた。グラスは自分たちで作るとマスターに言ってあるので、こちらから呼ばないかぎりテーブルには来ない。ボトルキープしているのはアーリータイムスである。まだ半分以上残っている。二人は乾杯した。
「今日は外回りだったの?」
「クレーム処理だよ。ノルマで尻を叩かれ、客のわがままに付き合う。これが営業の辛いとこだ」
 竜介は不動産会社で営業課長をしている。美香は今年の一月に入社して、総務課に配属された。
 四月に人事異動があり、歓送迎会が行われた。カラオケで二次会をすることになり、ススキノへ移動するときに、偶然二人だけでタクシーに相乗りになった。騒々しいところは好きでないので、落ち着ける店に行きましょうと美香は酔いの回った甘え声で囁いた。竜介は途中でタクシーを止めて、ホテルのスカイラウンジに美香を誘った。それがきっかけで二人は付き合うようになった。週一回くらいの間隔で会っている。肉体関係もできている。美香のような若い娘が四十を過ぎた中年男と関係を続ける心理はよく分からない。
「あたしだって同じだわ。総務課はおじさんばかりで嫌。早く辞めたいわ。カフェを開くという計画はいつになったら実現するの?」
 美香はくっきりした顔立ちに似合わない、舌足らずな声音で喫茶店開業を話題にした。美香がどこか不安定な雰囲気を漂わせているのはきりっとした美貌と甘ったるい声とのアンバランスのせいかもしれない。
喫茶店開業のプランは、ゴールデンウィーク明けに会ったときに、ピロートークで口にしたものである。ところが、美香はすぐにそのアイデアに乗ってきた。話は広がり、喫茶店経営が安定したら、妻とは離婚するというところまで展開してしまった。身勝手な話だが、何度か話をしているうちに、現実味を帯びてきた。
 物件情報は仕事柄さまざまな形ではいってくる。二人で下見もした。いま考えている候補地は二か所である。一か所は藻岩山の山麓通りの近くにある物件、もう一か所は西区の旧五号線沿いの物件である。前者は竜介の会社で仲介を依頼されている物件である。引き合いがあるという口実で、竜介は自分の権限でとりあえずペンディングにしている。もともと喫茶店だった店舗で、二十坪の広さがあり、駐車スペースもたっぷりある。ただ、山麓通りから少しはいった場所にあるのが難点である。後者はテナントビルの二階にある。事務所スペースとして作られているので、改装費が割高になりそうだし、十二、三坪とやや手狭である。ただ、二人だけで切り盛りすることを考えれば、適当な広さだとも言える。
 ご多分に漏れず、竜介の勤めている不動産会社でもバブルの後遺症が重くのしかかっていて、リストラが進んでいる。身近な役職者でも何人かが犠牲になった。同僚のそんな姿を見ているうちに、竜介は焦慮に駆られるようになった。そんな竜介の眼前に現れてきたのが喫茶店開業プランである。可能性でもあり、逃げ道でもある。
 それよりも大きな要因となったのが美香の存在である。自らの身分すら危ういかもしれないのに、何を呑気なことを考えているんだと自分自身でおかしくなることがある。しかし、人生のターニングポイントを迎え、精神的、肉体的に消耗が進んでいると実感することが多いだけに、美香の若さと美貌にのめり込んでいく自分を抑えることができない。二人には二十歳近い年齢差がある。
「女房からの資金提供が私の計画の前提だからな。女房の説得が最大の難関だ」
「リュウちゃんだったら、得意の営業トークで奥さんを落とせるわ。でも、焦らなくてもいいのよ。それにあたしだって、八十万くらいは出せるわ」
 美香は最初のうちは課長と言っていたのに、いつの間にかリュウちゃんと呼ぶようになった。二か所の候補地は条件としては一長一短があるけれども、それなりのインテリア、厨房機器や什器類を考えると、開業資金として一千万は用意したいと考えている。美香の八十万では什器すら満足に整えることができないはずである。
「もう少し待ってほしい。必ず実現するから」
「うれしい。あたしはレストランで働いた経験があるから、パスタやカレー、軽食くらいなら作ることができるわ。地中海風のしゃれたカフェ。夏には外にオープンカフェを開くの。夢が広がるわね」
 美香は場所としては藻岩山の方を買っている。独立店舗だし、藻岩山山麓という立地条件が若い美香の気持ちを惹きつけているのだろう。美香の心理の底には、ウエイトレスとして忙しく立ち働く姿より、客としてゆったりした時間を過ごしている自分の姿が映っているのかもしれない。
 そんな美香を前にしてなかなか打ち明けられずにいるのだが、実は瑠璃子にまだ相談していない。竜介には喫茶店経営について苦い思い出があるのだ。
 もともと竜介は山っ気が強くて、大学を卒業してサラリーマンになったものの、結婚三年目で脱サラして喫茶店をはじめた。瑠璃子が教師という安定した身分を持っていたのも竜介の決心を後押しした。開店するとき、瑠璃子の父親から四百万貸してもらった。だが、喫茶店は二年ともたなかった。義父からの借金は踏み倒す結果になった。その後、竜介は不動産会社に就職し、真面目に勤めていた。
 大手銀行の支店長で退職した義父は妻に先立たれていたので、広い自宅で一人暮らしをかこちながらも、その一方で釣りだ、ゴルフだ、海外旅行だと満ち足りた生活を送っていた。その義父が八年前の二月に心臓発作で急逝した。瑠璃子が教師を辞めた二か月後である。真冬の寒い日だった。
 義父は七、八千万円ほどの遺産を残していった。相続人は瑠璃子だけである。義父の四十九日法要も済まないうちに、竜介は喫茶店開業について瑠璃子に相談を持ちかけた。一国一城の主になりたいという思いが疼きだしたのである。義父の遺産を当て込んだものであることは否定できない。しかし、瑠璃子はその計画を頑として聞きいれなかった。何度も口論した。結局、瑠璃子は拒絶の意志を貫き通した。遺産に関するかぎり財布を握っているのは瑠璃子なのだから、竜介としてはいかんともなし得なかった。
「でも、もたもたしていたら、物件は他の人の手に渡ってしまうかもしれないわよ。奥さんは何とおっしゃっているの?」
「いくら景気が悪いと言っても、会社を辞めるとなると、安定した収入の道が途絶えるからな。女房はなかなか納得してくれないんだ」
 相談してもいないのに、竜介はもっともらしい口振りで困難な状況を説明した。
「奥さんはカウンセラーをしているんですよね。そちらで一定の収入が得られるんじゃないの」
「女房がカウンセラーをしているなんて、言ったことがあった?」
 喫茶店の開業資金の件で瑠璃子のことを話題にするだけで、竜介は瑠璃子の仕事のことはもちろん家族について美香に話した記憶がない。もっともその点ではお互い様で、美香も家族のことを口にしたことがない。あるとき片親家庭だと舌を滑らせたくらいで、たまに訊ねてみても、すぐに話題を逸らす。家庭的には恵まれていないらしい。
 竜介は不審げな眼差しを美香に向けた。美香の顔に一瞬うろたえた表情が走ったように見えた。
「忘れたの。二度目か三度目かのデートのときに奥さんや娘さんのことを話していたじゃない」
「そうだったか。年をとると、忘れっぽくなって嫌になっちゃうよな。それはともかく、女房の収入は微々たるものだから、喫茶店で確実に収益が見込めなくちゃならない。その点では、候補にあげている二か所はいずれも確実性が高いと思うよ。私だってだてにこの業界で飯を食っているわけじゃないからな」
 竜介はグラスをぐっとあおった。空になったのを見て、美香は四杯目のオンザロックを作ってくれた。さすがに酔いが回ってきた。腕時計の針は十一時過ぎを指している。そろそろ店を出なければならない。
 去年は仕事が忙しくて、帰宅時間はほとんど十時、十一時だった。それが今年にはいってからは八時くらいには家に戻れるようになった。ところが、美香と付き合いはじめて帰宅時間が時々遅くなるので、瑠璃子は嫌味っぽく理由を訊ねることがある。竜介はこの四月に営業課長に昇進したために、残務整理や上司との付き合いがあると言い訳している。いずれにしても、喫茶店の開業資金の件があるので、瑠璃子の心証を害するわけにはいかない。それで、十二時前には帰宅することにしているのだ。
 竜介はタクシーで走り去る美香を見送って、地下鉄駅に向かった。



 ストーカーはいっとき姿を現さなかっただけだった。八月の第二水曜日に市民活動プラザからの帰路、ストーカーの静かな足音が一定の間隔を置いて瑠璃子のあとをついてきた。その翌々日の夜、一階のロビーを通り抜けるときに、瑠璃子はじっと自分に注がれている視線を感じた。
ホールではアマチュアバンドのコンクールが開催されていた。退庁時間がコンクールの終了時間とぶつかった。ロビーでごった返している若者の間を擦り抜けようとすると、妙に粘っこい視線に全身を睨め回されるような感覚を覚えた。視線の方向に顔を向けたが、視線の主は確かめようがない。
 それから十日ほど経った月曜日のことだった。瑠璃子は洗濯を終えてから、近くのスーパーに買い物に出かけた。そのついでに店内のファミレスで昼食を済ませ、自宅に戻った。ぼんやりしていると、電話が鳴った。
「大石先生のお宅ですか?」
 若い男の声である。先生なんて呼ばれるのは久しぶりだ。瑠璃子は九年前まで隣市の中学校で英語教師をしていた。おそらくその頃の教え子だろう。
「はい、そうですが。あなたは……」
「僕、沢木です。山の手中学校二年のとき先生のクラスだった沢木峻一です。これからお訪ねしていいですか」
「本当に沢木くんなの?懐かしいわね。何年ぶりかしら?それにしても、来るのは構わないけど、一体どうした風の吹き回し?」
「先生にお話ししたいことがあるんです」
「家まで来れる?」
「地下鉄からどのように行けばいいですか」
「地下鉄真駒内駅から十六番のバスに乗って、三つ目の停留所で降りてちょうだい。そこでもう一度電話をくれれば、道順を説明するわ」
 バスで来るように指示した。初めて来る者にとってはバスを使った方が分かりやすいだろうと考えたのだ。
「十六番のバスですね。分かりました。いま大通りですので、すぐ地下鉄で向かいます」
 沢木峻一は瑠璃子の最後の教え子の一人である。瑠璃子にとって、教師生活最後の一年は苦い思い出しか残っていない。
 瑠璃子は卒業アルバムを本棚から取りだした。親しくしていた同僚教諭に手配してもらったものだ。ソファに腰をおろしアルバムをめくった。最近では滅多に開く機会がない。
 卒業アルバムでは、瑠璃子が最後に担任をした二年五組の生徒は各クラスに散らばっている。沢木峻一は三年二組だった。峻一は眼鏡をかけた生真面目そうな顔でクラス担任の左後ろに中腰で立っている。
 かつての教え子たちの顔が、教室でのさまざまな場面が生き生きと甦ってくる。思い出は間断なく湧いてきて、切りがなくなりそうだ。瑠璃子は立ち上がり、リビングを掃除した。電話のコール音が鳴った。瑠璃子は峻一にバス停からの道順を教えた。バス停からは二、三分の距離である。瑠璃子は玄関先に立ち、峻一を待った。
 バス停の方向に向けた視線の先に、沢木峻一の姿が現れた。中学校時代と比べてもほとんど背丈は変わっていない。いまの若い男としては大柄の部類にははいらないだろう。
 瑠璃子は挨拶もそこそこに、峻一をリビングに案内した。峻一は窮屈そうにソファに身を置き、室内を見回している。
「コーヒーを淹れるから、ちょっと待っていてね」
 ダイニングに向かい、コーヒーメーカーをセットした。そのまま背中越しに峻一に声をかけた。
「元気だった?沢木くんのクラスを担任したのは十年近く前になるのね。早いわねぇ。沢木くんもすっかり大人の顔になったわ」
「この春大学を卒業しました。でも、就職に失敗して、いまパブでアルバイトしています」
 峻一は国立大学の名前を挙げた。中学校時代から成績が優秀だったから、高校でも順調に伸びていったのだろう。
 瑠璃子はコーヒーカップをテーブルに運び、峻一に勧めた。テーブルを挟んで、しばらく懐旧談が続いた。瑠璃子の同僚教師や峻一のクラスメートが次々と登場した。とうに忘れていた同僚の綽名が峻一の口を通して甦ってきた。かつての光景を記憶の底から手繰り寄せながら、瑠璃子は峻一が訪ねてきた用件を忖度していた。
 そんな瑠璃子の思いを感じとったのか、話題がひと区切りついたときに、峻一は居ずまいを正して瑠璃子に訊ねてきた。
「先生、嫌な名前を思い出させますが、今日は島影和彦くんの命日なんです。今日、彼のお墓にお参りしてきました。彼が亡くなってから初めてなんですけど」
「分かっているわ。九回目の命日ね。わたしも今朝仏壇にお線香をあげたわ」
 瑠璃子は毎年八月二十三日には島影和彦の霊を弔っている。この日を静かな心で迎えることができようになったのはやっとこの二、三年である。
「この前、中学時代のクラス会がありました。二次会で青山春樹の話になったんです」
「三年のとき、沢木くんは青山くんとはクラスが別だったわね」
「僕は二組で、あいつは四組でした。あいつとずっと親しくしていた同級生から聞いたんですが……」
 峻一は言い淀んだ。コーヒーカップに手を伸ばし、音を立てて一口飲んだ。カップをテーブルに戻しても、目を上げようとしない。そのまま言葉を続けた。
「七月に、あいつらは何人かでキャンプに行ったそうです。夜、酒を飲んでいると、昔話になって、酒の勢いのせいか、青山が先生にとんでもないことをしたと自慢気に話をしていたと言うんです」
 思い出が一気に甦ってきた。峻一はとんでもないことという言葉遣いをしているが、青山春樹はもっと直截的な表現を使ったのだろう。
 九年前の、二学期がはじまって三、四日経ったある日のことである。島影和彦が放課後の職員室に入ってきた。瑠璃子の席にまっすぐ向かってくると、「相談があります」と言った。瑠璃子は校長室の隣にある小会議室に和彦を伴った。和彦は学年でもトップクラスの生徒だった。ただ、小学校にあがる前に交通事故に遭い、足が不自由になった。中学校に入学してから、その足のことでからかわれることが多くなった。
「青山くんたちからいじめられているんです」
 青山春樹は普段から勝手に教室を抜け出したり、騒いだりと問題行動の多い生徒だった。暴走族に入っているという噂もあった。五、六人がその取り巻きグループを作っていた。
 瑠璃子は具体的にどんな行為をされているのかを質問した。和彦は三十分以上行きつ戻りつしながら青山たちの行為を語り続けた。聡明な和彦には似つかわしくないほど混乱した話しぶりだった。
 和彦の口から語られた行為はからかいにしては度が過ぎていて、執拗だと思われた。しかし、好奇の目にさらされ、からかわれたりいたずらされたことはいままでもあっただろう。そして、今後も免れることはできないはずだ。和彦を人一倍プライドの高い生徒だと考えていたがゆえに、瑠璃子は叱咤激励の意味を込めてあえて強い口調で励ました。
「不自由な足は一生あなたについて回るのよ。そこから逃れることはできないわ。ハンディキャップに負けては駄目。からかう連中を撥ね返すくらいの強い気持ちを持っていかなくちゃ。頑張り屋のあなただもの、きっとできるわ」
 和彦は瑠璃子の言葉に頷き、歯を食いしばるような表情を浮かべて、足を引き摺りながら職員室を出ていった。ガラス窓越しに見える和彦の姿は倣然と胸を張っていた。瑠璃子はその姿勢にむしろ痛々しさを感じた。
 翌々日、瑠璃子は授業の空き時間に校庭の外れで青山春樹を見かけた。一人だった。近いうちに職員室にでも呼び出そうと考えていたところだったので、ちょうどいい機会だと思い、和彦の件を問い乱した。青山は薄ら笑いを浮かべて、言を左右にするばかりだった。
「俺たちは島影くんのボディガードをしてやってんだ。それをなんだよ、難癖つけて説教垂れるってのかよ」
「躯の不自由なクラスメートをいじめるなんて、人間として最低よ」
「上等じゃないか。そこまで言うんなら、最低の人間がどんなものか思い知らせてやるからな」
 小生意気に、ドラマででも聴きかじった借り物の台詞を振り回している。そう感じて、瑠璃子は思わず青山春樹の頬を張った。
 その晩、事件は起こった。資料の整理をしていて、学校を出たのは午後八時過ぎだった。中学校からJR駅までは徒歩十四、五分の距離である。中学校は市街地の裏手にあるので、人家がほとんどない。ちょうど中間にある公園を歩いているときだった。木立が茂った一角から、二人の人影が飛び出してきた。
 いきなり口を塞がれ、二人がかりで茂みへと引きずり込まれた。街灯のかすかな光に浮かび上がった顔はストッキングで覆われている。ハンカチらしき物で口に猿ぐつわをかまされた。一人に両手を万歳の形で固定された。もう一人が足を押さえながらスカートを捲り上げると、ブラジャーをむしりとりパンティーを剥ぎとった。二人は交互に瑠璃子の躯を凌辱した。闇のなかの無言の行為だった。それがなおさら恐怖を増幅させた。時間が過ぎるのを耐えることしかできなかった。
 二人が立ち去ったあと、瑠璃子は辱められた箇所をティッシュで拭うと、のろのろと下着をつけた。身繕いを済ませても、歩き出すことができなかった。瑠璃子は公園のベンチに坐った。駅から列車のベルが鳴り響いてきた。鎌のような細い月が夜空を切り裂いている。どれくらい時間が経ったろう。三十分とも思えるし、二時間とも思える。やっと腰を上げると、駅に向かった。駅前でタクシーを拾い、帰宅した。
 瑠璃子は竜介に打ち明けることはできなかった。結局、瑠璃子                                                               はこの事件を自分の心の裡に留めることにしたのだ。
 青山春樹が犯人だと断定できる根拠はない。しかし、本人自身ではないにしても、春樹と何らかの関わりのある人間が自分を襲ったのは間違いないだろう。暴走族仲間かもしれない。
 翌日、教室で顔を合わせた青山春樹は平然と瑠璃子に視線をぶつけてきた。その視線に瑠璃子は思わず目を伏せてしまった。生徒の視線にたじろぐなんて、それまで考えたこともなかった。教師としての矜持は無力感に浸潤されはじめた。
 ホームルームの最中に島影和彦の父親から電話があった。和彦が他界したという連絡だった。
 和彦の死は首吊り自殺によるものだった。朝起きてこないので、様子を見に部屋に入った母親が息子の変わり果てた姿を発見したのだ。遺書はなかった。瑠璃子は和彦から相談があった事実を校長に報告したが、口外しないように指示された。
 マスコミからの取材には校長と教頭が矢面に立ってくれた。PTAとの協議の場には出席せざるを得なかったが、瑠璃子はいじめの事実はなかったはずだと回答した。これも校長の指示だった。
 瑠璃子にとって唯一の救いは和彦の両親が瑠璃子を非難しなかったことだ。和彦は周囲の生徒にはプライドの強い態度で接していたが、瑠璃子にだけは躯のハンディキャップや将来について率直に悩みを打ち明け、瑠璃子がいつも励ましてくれていたのを両親は知っていたからだった。その和彦も青山たちのいじめについてだけは口を閉ざしていた。もっと早く相談してくれればと、瑠璃子は幾度となく臍を噛んだ。
 マスコミ報道は半月ほど続いた。地元紙だけは一月近く生徒や保護者周辺を嗅ぎ回っていた。学校側は、いじめと認められるような事実は確認できないという立場を貫き通した。その間、瑠璃子は躯と心がバラバラになったような状態だった。自分自身の強姦被害は念頭から消えていた。
 その年の二学期末をもって、瑠璃子は中学校を退職した。結局、八年に満たない教師生活だった。
「あの頃、僕は青山たちとつるんでいて、一緒に島影くんをいじめていたんです。島影くんの自殺事件がきっかけで僕は彼らのグループを離れましたが、チクルんでないかと疑われて、今度は僕がいじめのターゲットになってしまったんです。それが島影くんに対する償いになるとも思えませんでしたが、僕はそれに耐えるしかありませんでした」
「沢木くんもいじめられていたんだ。わたしは島影くんの事件で心身ともに消耗しきっていて、クラスに目配りする余裕がなかった。教師失格よね。でも、なぜ沢木くんは青山くんのグループに入っていたの?あなたと青山くんとは結び付きようがないわよね」
 沢木峻一はクラスでもトップを争う優等生だったのに対して、青山春樹は行動が粗暴で、成績もどんじりに近かった。
「僕と青山は小学校が同じで、仲良くしていました。あいつは小学校五、六年頃からぐれだしました。中学校に入ってからは、親からあいつとは付き合うなと言われていたし、クラスも違っていたので、廊下で会えば言葉を交わすくらいでした。でも、二年になって同じクラスになってしまったんです。彼らのグループが島影くんをいじめはじめたとき、僕は積極的には関与しませんでした。かといって、いじめをやめさせるアクションも起こしませんでした。そのうちに仲間に引き入れられました。いじめの矛先が自分に向けられ、島影くんの身代わりになりかねませんから、断れませんでした。それに、勉強のライバルだった島影くんの足を引っ張ることができるかもしれないと心の片隅で考えていたんです。いじめは最初のうちはからかってやろうという軽い気持ちでした。それが用心棒代として金をせびるという恐喝まがいの行為にまでエスカレートしてしまったんです」
 教頭と瑠璃子は、マスコミに感づかれないように万全の配慮をして、青山春樹ほか数名から事情聴取した。事情聴取の結果、青山たちの行為は通常見受けられる悪ふざけの範囲をわずかに越える程度だと判断された。いわばグレーゾーンに止まったのだ。また、あるクラス生徒からは、青山が他の生徒にからかわれていた和彦を庇っている場面を何度か目撃したという情報も寄せられた。それも青山たちの行為に対する心証に有利に作用した。
 島影和彦は瑠璃子にいじめの具体的な内容を語っていなかったので、青山たちがゆすりを働いていたという話は初耳だった。
 それにしても、沢木峻一の訪問の意図はどこにあるのかという疑問が瑠璃子の心に伸び頭を擡げてきた。島影和彦の命日にあわせて、あの事件を思い起こさせようというのか。それとも、同級生から小耳に挟んだ強姦事件をネタに脅迫めいた行為に及ぶなどという魂胆でも持っているだろうか。よもやと思いながらも、そんな不安すら心をよぎった。
「島影くんを救うことができなくて、わたしはいまでも責任を感じているわ。でも、その気持ちを伝える伝える相手はいじめる側にいたあなたじゃないのよね」
「分かります。島影くんのお父さんやお母さんですよね。ただ誤解しないでもらいたいんですが、僕は先生を責めるために来たんじゃないんです。僕には先生を責める資格なんかない。僕はいじめについて何度か先生に打ち明けようと思いました。でも、僕はそれをしませんでした。醜い気持ちに引きずられてしまったんです。その結果、島影くんは自殺し、先生も大変な目に遭ってしまった。僕はあの事件についてとうとう島影くんのご両親に謝罪できないままでした。たしかお母さんは数年前に亡くなったはずです。僕の心の底で、島影くんのことはずっと尾を引いてきました。先月、クラス会で先生のことを聞いて、あの事件が再び大きく甦ってきました。そんなとき、十四日に市民活動プラザのロビーで先生を見かけました。コンサートに行って、帰るところでした。あとでクラスメートに訊いたら、先生があそこでカウンセラーをしているというのが分かりました。ともかく先生にだけは謝りたいと考えたんです。それで今日伺ったんです」
「そうか、あの視線は沢木くんだったのか。実は、わたし、六月から七月にかけてストーカーに何度かあとをつけられたことがあるの。ストーカーはしばらく鳴りをひそめていたんだけど、コンサートのあった夜、ロビーで誰かにじっと見つめられたような感じがしたのよね。それでまたストーカーに悩まされるのかと思うと、ノイローゼ気味になるほどだったの」
 瑠璃子は一連の出来事を多少端折りながら説明した。沢木峻一は真剣な顔をして聞き入っていた。相槌の打ち方はタイミングのいいものだった。瑠璃子はカウンセリングを受けているような錯覚に陥った。
「わたしは全部、同一人物の仕業だと思っていたわ」
 サイドボードの上にかかっている壁時計が時報のチャイムを鳴らした。四時である。そろそろ出勤の支度をしなくてはならない時間だ。瑠璃子はそれを峻一に告げた。峻一は慌てたふうをして腰を上げた。
 峻一が立ち去ったあと、瑠璃子は和室の仏壇の前に坐った。線香を供え、島影和彦の名を小声で唱えた。軽く叩いたはずの鈴の音が余韻を残して響いている。

 この日は竜介の方が待ち合わせの店に先に着いた。パブ・シルエットは南七条の飲食店ビル六階にある。窓際のテーブルが空いていたので、そこに案内してもらった。バーボンのオンザロックを飲みながら、美香を待った。窓際はカップルスペースなので、明かりは卓上のキャンドルライトだけである。
「ごめんなさい。書類整理が残ってしまったの」
 三十分して、美香が姿を現した。ちょうど一杯目のグラスが空くところだった。美香のコスチュームは黒地に明るい花柄が鮮やかなノースリープにネイビーブルーのパンツという組み合わせである。スレンダーなスタイルからは想像できないほどその胸はたわわであり、竜介はその量感を記憶のなかで堪能した。
 美香は椅子に坐りしなに、腕を伸ばして自分の唇に押し当てた人差し指で竜介の唇にそっと触れた。ルージュの匂いが唇に残った。ちょうどそのとき、ボーイが近づいてきて、注文を訊ねた。眼鏡をかけた中背の若者である。
「今日はワインを飲みたい気分だわ。いいかしら」
 竜介はイタリアトスカーナの白ワインをフルボトルで頼んだ。竜介もワインに切り替えることにした。二人はグラスをあわせた。静かな空間に玲瓏な音が響き、端のテーブルの男女が振り向いた。
「最近は仕事をしていても、喫茶店のことについ気が逸れてしまうの。インテリアとかメニューとか、あたしなりに考えていることがあるのよ」
 美香はバッグから手帳を取りだした。手帳には何ページかにわたって、全体的なレイアウトや壁に掛ける絵、それにテーブルや椅子の配置までがスケッチ風に描かれている。余白には、壁の色合いや絵のジャンルなどについてコメントが書き添えられている。
「仕事中にこんな絵を描いているんじゃないだろうね」
「まさか、そんなことはしないわ。あたしは真面目な社員なんですから。でも、昼休みにはリサーチを兼ねていろんな喫茶店に足を伸ばしているの。勉強になるわ。あたしは研究熱心なのよ」
 再び美香はバッグのなかをごそごそ探しはじめ、ハードカバーや新書版の本を数冊テーブルの上に並べた。タイトルを見ると、喫茶店開業のマニュアル本である。美香に突きつけられるまでもなく、竜介自身さまざまな資料にも当たったし、これまでの人脈を使って業界の人間からアドバイスを受けてもいる。しかし、何よりも重要で、先立つものは資金である。
「美香、資金計画は思惑どおりには進まないよ」
「奥さんが納得してくれないのね」
 竜介はかつての喫茶店経営の失敗談を打ち明けたいと思った。そうすれば、瑠璃子が承諾してくれない理由も明らかになる。しかし、それでは美香の信頼感を失う結果になってしまう。
「一千万というのは大金だからな。そう簡単に出してくれる金額じゃない。そういう意味では女房を甘く見ていたんだな」
「そんな悠長なことを言っている場合じゃないわ。もう八月も末よ。あの物件だっていつまでもペンディングというわけにはいかないわよね」
 テーブルに置かれたキャンドルライトが光の輪を広げている。下からの光を受け、美香の顔はいつもと違う陰影を醸し出している。声もどこか刺々しい。
「やむを得なければ、退職金を開業資金に充当するしかない」
「退職金はいくらくらいになりそうなの?」
「私は中途入社だから、せいぜい三、四百万じゃないかと思う」
「それだったら、計画どおりの開店はできないわね。中途半端な形でやるくらいだったら、手をつけない方がましかもしれない。あたしたちのプランはインポシプルドリームになっちゃうのかしら。リュウちゃん、貯金はないの?」
 小遣いをこつこつと貯め込んだ五十万の金は美香との付き合いで半分以上使い果たしてしまった。
「開業資金の足しになるほどのものはない。不動産会社のしがない課長風情なんだから、期待しても無理だよ」
「結局、奥さんが管理している遺産頼みなのね。リュウちゃんにはちょっとがっかりしちゃったわ」
 そのあと、行きつ戻りつしながらも喫茶店開業について話し合った。明るい展望が望めない状況にあることは明白である。美香は冗談めかして会社の金の着服というプランを持ち出したり、別れ話を口走ったりした。気まずい雰囲気のまま二人は別れた。十時前だった。こんなことは初めてである。
 帰りのタクシーのなかで、竜介は追いつめられた心境に陥っていた。さすがに美香の舌っ足らずな声も苛立ちを隠さなくなっている。このままでは美香は自分の手から逃れていってしまうかもしれない。もうすぐ五十の声を聞く自分にとって、最後の恋である。美香に対する執着で、竜介は分別を見失いかけていた。二十日ほど前に、夕食後クイズ番組を見ている瑠璃子に竜介は資金融通について小当たりしたことがある。あっさりと撥ね返された。もう一度掛けあってみるしかない。その決意を胸にタクシーを降りた。ドアを開けると、テレビの音が居間から流れてきた。
「瑠璃子、この前の話なんだが……」
「何度聞いても、答えは変わらないわ」
 瑠璃子はテレビの画面から目を離さずに口先だけで返事した。
「テレビを消して、聞いてくれ」
 リモコンでテレビの電源をオフにして、瑠璃子は嫌そうな表情を露骨に表して、竜介の方に躯を向けた。その途端、竜介はカーペットに頭をこすりつけた。
「このまま会社に残っていたら、僕自身も泥船もろともに沈んでしまう。この前はっきりと言わなかったんだが、実は藻岩山の山麓に手頃な出物を見つけてある。資金面でバックアップしてもらいたんだ。一千万融通してくれないか」
 竜介は言葉を慎重に選んで、何とか計画に瑠璃子を乗せようと掻き口説いた。あまりにも執拗だったのか、瑠璃子の表情に不快感があらわになった。声も角々しくなってくる。
「冗談も休み休み言ってほしいわ。商売の話は八年前に結論が出ているんだから、話には乗れないわ。悪いけど、あなたには経営の才覚はないと思う。サラリーマンの方があなたには似合うわ」
「だけど、会社が潰れてしまったら、どうしようもないだろう」
「新しい就職先を探せばいいでしょう。喫茶店に手を出しても、やけどをするだけよ。父の遺産は断じて崩さないわ。彩子の教育資金、それと大事な老後資金なんだもの」
一人娘の彩子は中学二年である。彩子はこれから正念場を迎えるところだ。
「いまを凌げなければ、老後もないだろう」
「何と言おうと、駄目なものは駄目。この二か月くらい自殺志願者から何度も相談がきたり、ストーカーにつけ回されたりして、私は身も心もくたくたなのよ。あなただって分かっているでしょう。わたし自身のことだけで精一杯なんだから、こんな思いつきみたいなことでわたしを悩ませないで。それよりもあなた、変よ。しつこくこんな話を持ち出すなんて、陰に女がいるんじゃない」
 言い募っているうちに神経が昂ぶってきたのか、瑠璃子の目に涙が浮かび、ハスキーな声が金属質の調子を帯びてきた。
「薮から棒に何を言い出すんだ。女なんかいるわけないだろう」
「あなた、わたしや彩子に恥じるようなことは本当にしていないんでしょうね。わたしの目を見てちゃんと答えてちょうだい」
「していないよ。それよりも、話を逸らさないでくれ。僕たちは我が家のこれからの人生設計を話し合っていたんじゃないか」
「何が我が家の人生設計よ。あなたひとりの身勝手な計画にわたしや彩子を引きずり込まないでほしいわ」
 竜介は再び喫茶店の話題に戻り、諦め切れずになおもくどくどと言葉を連ねた。瑠璃子はついに堪忍袋の緒が切れてしまった。激しい口論となった。竜介は、微々たるものであっても退職金がもらえそうなうちにともかく辞めると言い残して、自分の部屋に引きこもった。
 部屋を真っ暗にしたまま、竜介は椅子に坐り続けた。暗闇に向かって、「美香」と呟いた。美香の顔が、乳房の豊かな白い肉体が目に浮かんできた。美香を失ってしまうかもしれないという不安に胸が締めつけられそうである。瞼を固く閉じた。瞼の奥で小さな光が揺らめいている。竜介は打開策を考え続けた。



 自殺企図の女性から電話がかかってきた。もう六度目になる。瑠璃子は昼間の相談員と引き継ぎを終えて、業務についたばかりだった。
「もおしもしい……。いつもの相談員さんですよねぇ。あたしい、またやっちゃうかもしれないんですぅ」
 口調がおかしい。考えられるのは睡眠薬だ。
「何か飲んだの?」
「睡眠薬ですぅ。何かの役に立つかもしれないと思って、病院で処方してもらったのをためていたんですぅ」
「薬を飲んだことは初めて?」
「前にも言ったことがあると思うけど、あたしはリスカ専門よぉ。
くさくさするから、試し飲みしてみたの」
「飲んでからどれくらい経つの?」
「ええっとぉ、もう一時間以上経つかなぁ。だんだんと意識が朦朧としてきてぇ、もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれないと思ったの。そしたら急に淋しくなって、最後に誰かの声を聞きたくて電話したんだぁ。相談員さん、あたしねぇ、職場不倫しているの」
「あなたが自殺したら、相手の方が悲しむでしょう。好きな人にそんな思いをさせちゃいけない。わたしも悲しいわ」
「ありがとう。でも、彼はあたしのことを好きだと言ってくれるけどぉ……、結婚してくれないのよねぇ……。きっと奥さんのことが怖いんだわ。ねぇ……、相談員さんて何歳ですかぁ?」
 クライアントの口調がますます縺れてきた。睡魔が襲いつつあるのだろう。
「四十一歳よ」
「あたしの彼は四十五歳。二十歳近く年上なんだ。きっと相談員さんのご主人も同じくらいの年齢なのかなぁ。もしかして……、あたしの彼はご主人だったりしてぇ……。あっ、ごめんなさいねぇ、バカなことを言って……。あたしってまともな……恋愛をしたことがないんです。でも、あたりまえだよね……。こんなリスカを相手にしてくれるぅ……人なんかいるわけないもんね。彼だってあたしの躯が目的なんだと思う」
 そう言って、女性はけらけら笑いはじめた。通常の睡眠薬だと、副作用が少なく、薬理作用で死に至ることはないはずだ。とはいうものの、このまま放置しておくこともできない。
「あなた、いまどこから電話しているの?」
「あたしにも分からない。部屋で死ぬのは嫌だったから、地下鉄であちらこちらと移動していたの。A駅で降りて、いま東なんとかというお寺の隣の公園で休憩中でぇーす」
 瑠璃子は受話器を少し離して、残っていた昼間の相談員に市内地図を持ってくるように頼んだ。地下鉄A駅周辺の地図を開いて、寺院を探した。地下鉄駅から西に十五分ほどの場所に束雲寺という寺がある。その隣が大きな公園になっている。
「あなたのいる公園ってあすなろ公園なのね?」
                                           
「そんな名前だったかなぁ」
 あやふやな返答であるが、クライアントのいる公園はあすなろ公園に間違いない。どのような対処が適当か、瑠璃子は考えを巡らせた。警察の手を借りるのが順当だろう。しかし、警察という言葉を出して、クライアントがすんなりと受け容れるとは考えられない。瑠璃子に対する信頼感そのものがなくなって、電話を切ってしまうかもしれない。
「ねえ、これからあなたのところに行っていいかな。一緒に話しましょう」
「相談員さんがこっちに来るの。ということは、感激のご対面?恥ずかしいわぁ」
「これから向かうから、その場所にいてくださいね。わたしの携帯の番号を知らせておくから、何かあったら電話をちょうだい。電話番号は〇九〇-五五九九-八七一二よ」
 瑠璃子は昼間の相談員に事情を説明した。その相談員が残って、引き続いて電話対応してくれることになった。瑠璃子は急いで身支度して、市民活動プラザを出た。腕時計を見た。六時半を回っている。残暑の名残が肌にまとわりついてくるみたいだ。タクシーを探しながら、合同庁舎まで来た。合同庁舎の前にタクシーが何台か客待ちしていた。瑠璃子は個人タクシーに乗り込んだ。
 タクシーは西五丁目通りを北上し、地下鉄駅A駅の五叉路で左折した。商店街をしばらく走り、また北に向かった。東雲寺は閑静な住宅地のなかにあった。瑠璃子は寺の前で降りた。公園まで乗りつけると、クライアントは逃げてしまうかもしれないと慮れたのである。
 瑠璃子は東雲寺側の入口から公園に入った。日が落ちようとしていて、枝を広げた広葉樹が薄闇につつまれている。瑠璃子は左右に視線を投げながら園路を進んだ。遠くから子供の歓声が聞こえてきた。公園の中央は小さな丘になっている。ところどころにべンチが置かれている。若い女性の姿は見当たらない。瑠璃子は丘を回り、反対側の園路に向かった。四阿が点在しているが、人影はない。隅の方に公衆トイレがあった。女性トイレにはブースが三つあった。どれも空いていた。瑠璃子は小走りで公園の四囲を一周した。
 瑠璃子はベンチに腰をおろした。遠い山の端に沈もうとしている夕陽が雲を赤く染め上げている。
 彼女はどこに行ったのだろうか。いままでの相談内容も電話回線を通してだからこそ吐露できたもので、いざとなると顔を合わせたくないと考えたのかもしれない。瑠璃子は電話相談センターに連絡をした。クライアントから電話は入っていないという返事だった。
 もう一度園内を回ろうと思い、瑠璃子は立ち上がった。そのとき携帯の着メロが鳴った。
「相談員さん、ごめんなさいね。あたしぃ、いま地下鉄A駅の近くなの」
 クライアントはハンバーガーショップの名前を告げた。タクシーで五叉路を曲がるとき、角にその店があったような気がする。
「今度こそ動かないでね。それと何を目印にしてあなたを探せばいいのかしら」
「あたしはねぇ、オレンジのTシャツとブルーのロングスカートで、首にピンクのスカーフを巻いていまぁーす」
「すぐ行くから待っていて」
 瑠璃子は幹線道路まで出てタクシーを拾って、地下鉄駅に急がせた。記憶していたとおり、西五丁目通りの角にテナントビルがあった。一階がハンバーガーショップである。瑠璃子は釣り銭を受けとるのももどかしくタクシーを降り、店に駆け込んだ。こぢんまりとした店で、十脚ほどしかないテーブルは半分以上埋まっている。ほとんどがカップルや友人連れである。クライアントらしい一人客はいない。
 クライアントから電話が来てから、十分とかかっていない。それなのに彼女の姿は見えない。瑠璃子は踵を返して店を出た。外がすっかり暗くなっている。店の脇に地下鉄の出入り口があったので、階段を降り、改札口の周辺、さらに地下鉄のホームで彼女を探した。
 再び地上に出て、もう一度ハンバーガーショップを覗いた。やはり見当たらない。時計の針は八時二十五分を指している。瑠璃子は重い足を引きずり、地下鉄で帰路についた。
電話相談センターに戻ったとき、九時を過ぎていた。昼間の相談員は帰っていて、深夜勤務の大学生が瑠璃子を迎えてくれた。瑠璃子は学生に状況を説明した。問題ケースは相談員全体で情報を共有することになっているので、学生もこのクライアントについては予備知識を持っている。
「いたずらだったかもしれないですね。時々そういうクライアントがいるんですよね。自分に関心を向けてほしいという気持ちからなんでしょう。ただ、ここまで度が過ぎたのはあまりないでしょうけど。大石さんも難しいクライアントに気に入られてしまいましたね」
「わたしみたいに経験の浅い者にとっては、とても重いケースです」

 瑠璃子は長い眠りから目を覚ました。視界に誰かの顔が浮かんだ。しかし、焦点が結ばない。声が聞こえてくる。しかし、意味を持った言葉にはならない。視界がぼやけた。瑠璃子は眠りに引き戻された。
 再び目覚めたとき、名前を呼ばれているのが分かった。
「あなた」
「瑠璃子、やっと意識が戻ったんだな。よかった」
 竜介の声だ。
「あなた……。わたし」
「痛みはないかい?」
「ほとんどないわ。わたし、刺されたのね?」
 瑠璃子は思い出そうとした。痛みが背中に走った。思わず眉根をしかめた。
「無理しなくていいんだ。もう少し眠るといいよ」
 竜介はそう言うと、毛布を整えてくれた。瑠璃子は目を瞑った。
「今日は何日なの?」
 目を瞑ったまま、瑠璃子は訊ねた。
「九月四日、土曜日だ」
 昨夜の場面が甦ってきた。瑠璃子が市民活動プラザを出たのは九時半過ぎである。合同庁舎のブロックに向かうところで、背後から何者かが駆け寄ってくる音がした。振り返ると、目出し帽が眼前に迫ってきた。口を塞がれた。相手の掌をはがそうとしたとき、背中に鈍い衝撃を感じた。身をよじって逃れようとしたが、もう一度衝撃を受けた。叫び声を上げたような気がするが、記憶が定かでない。そこで記憶は途切れたままである。
 瑠璃子は窓の外を見た。陽光の粒子が窓ガラスに戯れている。一瞬、鋭い光の矢が射し込んできた。そのとき、看護婦が声をかけてきた。二十代前半の若い看護婦である。
 翌日、竜介が病室に戻ってきたのは午後三時過ぎだった。午前中、瑠璃子が主治医の回診を受けているときに顔を出して、参考人事情聴取に呼ばれたと告げて警察に向かった。それからだから、五、六時間警察にいた計算になる。
「ずっと事情聴取だったの?」
「そう。同じことを何度も繰り返し質問されてうんざりした。それに単なる参考人じゃないんだ。容疑者として取り調べられているみたいな感じさ。警察にしてみれば、僕も容疑者の一人かもしれないけれどもね」
「じゃあ、アリバイとかも訊かれたのね。一昨日、あなたは会社の飲み会だったわね」
 事件のあった三日の朝、竜介は出がけに、会社で宴会があるので遅くなると告げた。瑠璃子は帰宅時間が同じくらいになるなら待ち合わせて帰ろうと言ったけれども、二次会に流れると思うから先に帰ってくれと言い残して出勤した。
「一次会はエーデルシュタインホテル地下一階の洋風居酒屋だった。部長が得意先との打ち合わせで遅れたので、はじまったのが七時半過ぎだったな。だから、きみの事件が起きた頃は宴会の最中だったんだ。二次会は札幌駅北口のビルにあるスナックに流れた。病院から連絡を受けて、二次会を抜け出して急行した。それをしつこく訊いてくるんだ。何度も話しているうちに、逆に記憶が曖昧になってくる。さっきどう説明したか分からなくなってくる。すると、今度はそこを突いてくるんだよ。刑事ってのは嫌な商売だとつくづく思ったな。それが済むと、夫婦関係の質問だ。きっと明日あたりから近所で聞き込みをするんだろうな。被害者のはずなのに、プライベートを丸裸にされるなんて理不尽なことだ」
「犯人の心当たりは訊ねられなかったの?」
「それは最後の質問だった。疲れていて、詳しい説明をする気力が残っていなかったので、ストーカーのことだけを話した。きっときみも訊かれると思うよ」
 翌日の午後、中央警察署の刑事が瑠璃子の病室を訪れた。初老と三十前後の二人組だった。主に年嵩が質問し、若い方が手帳にメモしていた。襲われた前後の状況を特に詳しく聴取された。次に、当日の竜介の行動や夫婦関係について訊ねられた。ごくふつうの夫婦であること、その日の朝出勤するときに、飲み会があると言い残していったことを瑠璃子は刑事に説明した。ここ数年の夫婦不和や喫茶店開業の件での口論については、口にしなかった。その代わりというわけでないが、参考情報として、電話相談センターにおけるイタズラ電話やストーカー被害について伝えた。
「イタズラ電話の主は若い男なんですね。若い奴らは何を考えているのか分からんな」
 若手の刑事は独り言みたいに呟いた。と同時に、メモから目を上げて、瑠璃子の顔に視線を走らせた。その顔には、こんな中年のおばさんを相手にする奴の気が知れないといった表情が浮かんだように瑠璃子には思えた。年嵩の方は瑠璃子の感情の変化を感じとったのか、話題を変えた。
「この病室からだと、赤レンガの前庭がよく見えますね。十月の末になれば、見事な紅葉になるんでしょうな。もっとも、あなたはその頃にはとっくに退院しているわけですが」
「そうですね。経過が順調であれば、一週間ほどで退院だとお医者さんもおっしゃってくれています」
「私どもも早く退院できることをお祈りしていますよ。お疲れでしょうから、今日はこれで失礼します。私どもとしては犯人逮捕に全力を尽くすつもりですが、またいろいろお訊ねしますので、ご協力願います」
 その日から竜介は職場に出勤していたので、病院に顔を出したのは瑠璃子が夕食を食べたあとである。瑠璃子は事情聴取の様子を物語った。竜介はベッドの縁に腰を下ろし、耳を傾けていた。



 瑠璃子は五日後に退院した。入院中、二人組の刑事は二度病院を訪れた。年嵩の刑事はすでに聴取したことを確認したり、補足的な質問をしたうえで、捜査が進展していないことを申し訳なさそうに詫びた。
 それから十日ほど自宅療養して、瑠璃子は職場復帰した。二日後に、例の自殺願望のクライアントから相談があった。
「先々週お電話したんですけど、先生お休みでしたね」
「ごめんなさいね。ちょっと用事があったものですから」
「そんな、謝らないでください。先生にもご都合があるんでしょうから。でも、あたし、この二十日くらいすごい苦しかったんです」
 相談はそんな切り出しではじまった。しばらく沈黙が続いた。瑠璃子は辛抱強く待った。相談者はやっと口を開いた。
「最近、昔の憎しみの感情が甦ってきて、コントロールできない状態なんです」
「憎しみは強い感情よね。ものすごい心のエネルギーを消費するものよね。よかったら話してみて」
「弟の死に関連したものです」
 相談者の弟が死んだというのは初めて聞く話である。瑠璃子の心に、弟の死は事実なのだろうかという疑念が湧いてきた。もちろんそんな思いを口にすることはできない。
「お亡くなりになったのはいつごろのこと?」
「十年近く前です」
「弟さんはご病気だったの?」
「死因ということですね。いわば事故みたいものです。両親の仲がうまくいかなくなり、離婚したのも弟の死がきっかけだったと思います。思い返してみると、あたしがいまひとりぼっちなのもその結果かもしれません」
「それで、あなたは弟さんの死に関連して誰かを憎んでいるわけよね」
「そうです。当時弟の周囲にいた人間です。弟自身は命を失ってしまいましたし、家庭は崩壊し、あたしの人生もめちゃめちゃになってしまいました。事あるごとに、弟の顔が目に浮かび、あの頃の幸せだった生活を思い出してしまいます。そして、それを破壊した人間に対する恨みや憎しみが湧いてくるんです。何年も経っているのに、その当時よりもはるかに強い感情に心が占領されてしまっている感じです。なぜでしょうか?」
 瑠璃子は狐につままれた思いだった。普段とは様子が異なっていた。そもそも声音が違う。弟の死にまつわる誰かへの憎しみという重い話なのに、声のトーンが高かった。いままでは不定愁訴といっても、個々の悩み事は内容的には理解できるものだったし、クライアントとカウンセラーとの対話も成立していた。ところが、今日は相談者がほとんど一方的に語り続けた。何よりも不可解だったのは弟が不慮の死を遂げたという思いも寄らない事情が初めて告白されたことだ。正直なところ、今回ばかりは相談者の話の信憑性を疑わざるを得ない。それとともに、こんな内容を持ち出してきた相談者の意図も首を傾げざるを得ないものだった。
 それについてゆっくり考える暇もなく、次の電話が鳴った。沢木峻一の声が受話器から流れてきた。
「先生、大変な災難でしたね」
「北国タイムスを見たのね」
 瑠璃子の事件はこの地方紙の社会面に小さく報じられただけである。
「ええ。びっくりしましたよ。お見舞いに伺いたかったんですが、かえってご迷惑かと思い、遠慮していました。実は先生にお伝えしたいことがあるんですが、お会いできますか?」
 瑠璃子は峻一と翌日の午後一時半に中心街で待ち合わせることにした。
 翌日の土曜日、昼過ぎに瑠璃子は自宅を出た。待ち合わせ場所は駅前にあるホテル地階の喫茶店である。このホテルを指定したのは瑠璃子の方だった。いずれ自分がコーヒー代を奢ることになるだろうから、ゆったりした雰囲気のこの喫茶店を選んだのだ。
 正面玄関の回転ドアを抜けると、ロビーに中国人らしい団体客が十人近くたむろしていた。その脇を通って、瑠璃子は喫茶店に向かった。
 長身のウエイトレスが案内に立った。峻一の用件が何か分からないが、わざわざ呼び出すくらいだから、いずれにしても人に聞かれたくない類の話なのだろう。瑠璃子は店内を見回した。テーブルはあまり埋まっていない。瑠璃子は右奥の窓際のテーブルをリクエストした。
 濃いグレーの革張りソファが一杯千円近いコーヒーの値段に見合ったものなのかはよく分からないが、瑠璃子の豊かな腰を柔らかく受け容れた。瑠璃子はブルーマウンテンを注文した。
 コーヒーが運ばれてくるのを待っている間に峻一が姿を現した。一時半びったりである。峻一はソファに腰をおろして、笑みを浮かべた。
「先生、お元気そうで安心しました。先生は休日にはゆっくり休養しなければいけないんだから、お呼び立てしちゃいけなかったんではないかと気になっていました」
「大丈夫よ。幸いに軽傷で済んだから。でも、沢木くんにはこの前も驚かされたから、どんな話なのかとどきどきしてしまうわ」
「そんなふうに先回りされると、話しにくいですね。あまりいい話じゃないんです。事件のあとですから、ずっと躊躇していたんですけど」
 峻一はコップの水をぐっと飲むと、呼吸を整えている様子である。「先生、タバコを吸っていいですか」と訊ね、瑠璃子が頷くと、ジーンズの尻ポケットからタバコを取りだした。マイルドセブンのパッケージがくしゃくしゃになって出てきた。峻一はタバコをくわえ、百円ライターで火をつけると、大きく肺に吸い込んだ。それから、唇を薄く開けて煙を吐き出した。
 そのときコーヒーが運ばれてきた。峻一は話の出鼻を挫かれたみたいに、タバコを立て続けに吹かしている。ウエイトレスがテーブルを離れてから、話し出した。
「僕はススキノの外れにあるパブでアルバイトしています。そこでご主人を何度か見かけています」
「主人を?」
「先生のところを伺う二、三日前のことですが、二回りくらい年の離れたカップルが来店しました。そのカップルは三時間近く店にいたはずです。この前先生のお宅でサイドボードに飾ってあった家族写真を見て、びっくりしました。ご主人はその男性に似ていたんです。あのとき、よっぽど打ち明けようかとも考えました。けれども、その時点では一度しか見ていませんでしたから、先生に余計な心配をかけたくなかったんです。ところが、二人は三度ほど連れだって来店しました。間違いなくご主人でした。先生に伝えるのは心苦しいんですが、とても親密そうな雰囲気でした。それだけだったら、先生にご注進するつもりはなかったんです。でも、先週の木曜日のことでした」
 先週の木曜日といえば、竜介は客と中古住宅の購入に関する打ち合わせがあるので、帰宅が遅くなると言っていた日である。竜介が帰ってきたのは十二時近かったはずだ。
 峻一はそのときの様子を声を潜めて語りはじめた。
 その日、二人が来店したのは九時過ぎだった。女の方は少し酔いが回っている感じである。女は赤ワインのフルボトルとシーフードサラダ、ソーセージの盛り合わせなどを注文した。それから三十分ほどしてから、二人の隣のテーブルが空いたので、峻一は後片づけをはじめた。すると、二人の会話が耳に入ってきた。峻一は聞き耳を立てた。
「たった一週間で退院したんでしょう。あまりダメージを与えられなかったみたいね。なかなか思い通りにいかないものね」
 相手の女は甘い声とは裏腹の険しい表情を浮かべている。というより、もともと輪郭が整いすぎている美貌がその表情をきつくしているだけなのかもしれない。
「女房を説得して、義父の遺産を何とか出させる。女房を騙してでも脅してでも、喫茶店はなんとかオープンさせるよ。私を信頼してくれ」
 それを聞いて只事でないと感じた峻一は何度かテーブルの周辺に足を運んだ。隣のテーブルに新しい客が入ったときも、すぐオーダーを取りにいった。
「あたしだって、リュウちゃん任せにはしないわ。あたしなりにできることはするつもりよ。それと、あたしもいろいろと考えてみたんだけど、最悪の場合、リュウちゃんの退職金の範囲内ではじめることも考慮にいれなければならないと思っているの。理想ばかり追うわけにはいかないものね」
「そうか。きみがそう考えてくれるんだったら、現実的なプランを練り直して、適当な物件を探してみるよ」
 峻一は語り終えた。ウエイトレスを呼んで、水のお代わりを頼んだ。瑠璃子のコップはほとんど減っていなかったが、ウエイトレスは二個とも新しいコップと取り替えていった。峻一は一気に飲み干した。白い首筋で喉仏が上下している。瑠璃子はコップに手を伸ばしたまま、その冷たさを感受していた。
「その後はご主人たちのテーブルに近づく機会がありませんでしたので、聞くことができたのは以上のことだけでした。でも、聞き流すことのできない内容でした。それで、先生にお伝えした方がいいだろうと思ったんです」
「もう一度はいつ頃のこと?」
「先月の末です」
「その人は何歳ぐらい?」
「女性の年齢ってよく分からないんですけど、僕より少し上ってとこかな。二十代半ばという感じでしたね」
 竜介の会社には総務部と営業部に五、六人の女子社員がいる。「若い娘はいるの?」と以前に訊いたことがあるが、おばさんばかりだとはぐらかされた。
「沢木くんがさっき言っていた二人の会話だけど、間違いないのね」
「一字一句正確というわけではありませんけど、ああいう意味合いのことをしゃべっていました」
「相手の女性の言葉から考えると、主人もしくはその女性はわたしの事件に関わっているわけね。でも、主人は少なくとも関係ないわ。会社の宴会に出席していて、アリバイがあるの」
 第三者に依頼するなどという形で竜介が関与している可能性もないわけではない。しかし、竜介がそこまでだいそれたことを企てるとは考えにくい。竜介にはそんな度胸はないだろう。ただ、喫茶店経営がその若い女との共同計画であることはたしかだ。
竜介が喫茶店の話を持ち出してきたのは先月の上旬だった。それ以前にも勤務先の不動産会社が業績不振だと何度も口にしていた。それは喫茶店経営を切り出すための布石だったのだろう。二人が付き合いはじめていきなり喫茶店経営という話にはならないだろうから、二人の関係は日が浅いものではないはずだ。
「だとしたら、相手の女ですよ」
「でもね、あれは男だったと思うよ」
 がやがやした声が近づいてきた。中年女性の四人組である。瑠璃子たちの隣のテーブルに座を占めた。会話の勢いは増すばかりである。四人が思い思いにしゃべっている感じだ。どうやらデパートの顧客内覧会の帰りらしい。深刻な話題を続ける雰囲気ではなくなった。
 瑠璃子は峻一を促して喫茶店を出た。二人はホテルの前で左右に別れた。瑠璃子は近くのデパートの地下売場で総菜を買って地下鉄駅に向かった。



 沢木峻一は電気量販店で買い物をしていた。目当ては品物を買ってからパブに向かった。JR駅の西側高架下にある量販店を出たのが九時十五、六分である。今日は超遅番で午後十時出勤である。歩いていくとちょうどいい時間になるはずだ。
 峻一はヘッドホンを耳に当てて歩きはじめた。すぐ前に高層ホテルが奪え立っている。学生時代、このホテルのスカイラウンジでアルバイトしたことがある。ホテルの前を走る北五条通りの横断歩道を渡り、一ブロック過ぎると、赤レンガ庁舎の前庭である。
 樹々の枝越しに赤レンガがライトアップされている。観光客らしき人影がまばらに見える。たしか十時にライトダウンされるはずだ。
 正門にさしかかった。右手から何者かがぶつかってきた。その衝撃で、手に持っていたウォークマンが地面に落ちた。その人物はそのまま逃げようとした。峻一はウォークマンを素早く拾い上げると、追いかけた。正門前の横断歩道を越えたところで追いつき、革ジャンバーの肩に手をかけた。
 「いやっ、やめて」という女の声が響いた。女は峻一の手を振り払おうとした。女の手が峻一の頼をかすめた。目の縁が爪で傷ついた。思わず顔を庇った隙に、女は逃げていった。
 女は駅前通りに向かう途中でタクシーを拾い、乗り込んだ。タクシーは峻一の目の前を走り去っていった。ウインド越しに女の顔がはっきりと見てとれた。タクシーを見送る峻一の脳裏に、中学校時代の光景が甦ってきた。

 あれは九年前の七月下旬だった。夏休みがはじまる数日前だったはずだ。コンビニで漫画の立ち読みをして自宅に帰る途中だった。
「あなた、沢木峻一くんよね」
 後ろから呼び止められた。振り返ると、女子高校生が立っていた。管内で有数の進学校の制服を身につけている。メガネが整った顔立ちを一層冷たいものにしている。峻一より二学年上である。名前は島影美香。島影和彦の姉である。峻一が中学校に入学したときにミス山の手中学校と呼ばれていた。男子生徒たちはメガネをとった素顔を拝みたいと熱望した。それで、弟の和彦に素顔の写真をくれと頼む生徒さえいた。和彦に対するイジメがはじまる以前のことである。
「そうです」
「どうして弟をいじめるの」
「冗談じゃないよ。俺たちは島影くんの下校時のガードをしているんだ」
「嘘を言わないでよ。足の不自由な人間をいじめて恥ずかしくないの。あなたってほんとに情けない男ね。和彦とトップを争っている人間が青山みたいなクズの下働きをしているなんて」
 柔らかい、舌足らずの声を精一杯尖らせて、そう吐き捨てると、島影美香は峻一の脇をすり抜けていった。美香が最後に指摘したことが峻一の胸に鋭く突き刺さった。いじめの結果なのかどうかは定かでないけれども、たしかに和彦と峻一の成績は逆転した。それまで二番に甘んじていた峻一が期末試験で学年トップの座を奪い取ったのだ。
 美香は背筋を伸ばして歩いている。夕日を受けて、美香の姿はシルエットとなって浮かび上がっている。峻一は走り出した。美香の歩調は変わらない。峻一は美香に追いつき、その肩に手を掴んだ。
「俺は実力でトップになったんだ。変な言いがかりをつけるなよ」
「何をするのよ。やめてっ」
 美香は振り向きざま峻一の手を払った。そして、走り出した。美香の爪は峻一の右頼に一筋の傷を残した。峻一はその場に立ち尽くしていた。

 いま峻一にぶつかり走り去った女は島影美香である。そして、大石先生の夫と一緒にパブに来ている女でもある。中学、高校時代のメガネの印象が強すぎたし、化粧で印象が変わっているので、これまでは結び付かなかったけれども、面影は残っている。粘土の塊をヘラで削ぎ落として、形を整えたみたいな細く高い鼻。一重で切れ長の目。両端がきゅっとつりあがった唇。どうしていままで気づかなかったのだろう。島影美香はなぜよりによって先生の夫と付き合っているのか。単なる偶然なんだろうか。
「歩道の真ん中にぼけっと突っ立ってるんじゃないぞ」
 濁声とともに、誰かが峻一の肩を小突いた。と同時に、笑い声があがった。サラリーマン風の四、五人の男が峻一の脇を通っていった。峻一は現実に引き戻された。「花金か」
と峻一は呟いた。腕時計に目をやった。針は九時三十二分を指そうとしている。はっとした。ここは瑠璃子の勤務先とはかなり離れている。しかし……。よもやと思いながら、教えてもらっていた瑠璃子の携帯に電話をいれた。つながらない。時刻からすると、地下鉄に乗っているのだろうと考え、胸を撫でおろした。
 パブ・シルエットに着いたのは十時十分前だった。制服に着替えて店に出た。六分の入りである。瑠璃子の夫と島影美香が手前の方のテーブルにいた。美香はしきりにグラスを口に運んでいる。バーボンをロックで飲んでいるようだ。瑠璃子の夫が話しかけているのに、美香はほとんど言葉を返していない。
カップルが立て続けに三組入店した。ボーイたちは慌ただしくオーダーをとり、ドリンクや食事を運んだ。峻一はドリンクを奥のテーブルに出した帰りに、瑠璃子の夫に声をかけられた。ワイルドターキーをボトルでオーダーしてきた。美香が峻一の顔を見上げて、何か言葉を発しそうな表情を浮かべていた。
一息ついて腕時計を見ると、十時半になろうとしていた。峻一はトイレに向かった。大便用の個室に入り、瑠璃子の携帯の電話番号を押した。話し中である。もう一度コールした。電話に出たのは野太い男の声である。
「もしもし、そちらは〇九〇-五五九九-八七一二じゃないですか?」
「あんた、誰だい?」
「まず僕の質問に答えてください」
「気の強い兄ちゃんだな。こちらは警察の者だ。この携帯電話の持ち主は負傷して、病院に収容されている。それで、私たちはいま家族と連絡をとろうとしているところだ」
「負傷って。まさか刺されたんじゃないでしょうね」
「そうだ。どうして分かった?」
「持ち主の大石瑠璃子さんは一月ほど前にも刺されたことがあります。容態はどうなんですか?」
「命に別状はない」
「刑事さん、僕は沢木峻一といいます。中学校のとき、大石瑠璃子さんの教え子でした。犯人だと思われる人物が僕の店にいます。至急来てください」
「あんた、一体何を言っているんだ」
「犯人は島影美香という女です。僕は今晩九時半頃に赤レンガ庁舎の正門で彼女を目撃しました。彼女は大石先生のご主人と不倫関係にあり、今日も二人で店に来ているんです」
「なにっ、ガイシャの旦那がそこにいるのか。分かった、急行するよ」
 峻一は店の名前と住所を伝えた。それから十五分もしないうちに、チーフに呼ばれた。
中年の刑事が四人チーフの隣に立っていた。ずんぐりした体躯で猪首の刑事が警察手帳を見せ、「大石瑠璃子さんのご主人は?」 と訊ねた。峻一は二人のテーブルを指さした。刑事たちはそこに向かっていった。
 しばらくして、刑事たちが瑠璃子の夫と島影美香の左右を挟むようにして店を出ていった。翌日、島影美香は逮捕された。殺人未遂容疑である。翌々日には大石竜介も逮捕された。容疑は最初の瑠璃子襲撃事件である。警察の裏付け捜査で、九月三日の事件当夜、飲み会の最中にしばらく竜介の姿が見えなくなったという証言が得られた。
 島影美香については、革ジャンバーに証拠が残されていた。襲撃されたとき、瑠璃子は相手の躯を押しのけて、必死に身を守ろうとした。瑠璃子の両手の指紋が革ジャンの袖に鮮明に残っていた。赤レンガ庁舎の正門で峻一にぶつかってきたのもやはり美香だった。峻一の指紋も検出された。
 動かしがたい証拠を突きつけられて、美香は犯行を認めざるを得なかった。犯行に使ったナイフは自供どおり赤レンガ庁舎前庭の池で発見された。美香はナイフの処置に困って、池に投げ捨てたのだ。ナイフから検出された血液型は瑠璃子のものと一致した。
 峻一は何度も事情聴取を受けた。瑠璃子の事件に直接関わる事実関係だけでなく、事件の背景をなしている島影和彦に対するいじめ、そして和彦の自殺についてもさまざまな視点から長時間にわたって質問を受けた。その過程で、島影美香が犯行に至った経線についても知ることになった。
 島影美香は去年の七月に母親の一周忌を執り行った。離婚して、いまは新しい家庭を築いている父親と母の兄弟が集まっただけの寂しい法要だった。帰りしなに、父親は美香に一冊の手帳を手渡した。「お父さんがいままで預かっていたが、おまえが持っている方がいいだろう。これだけ時間が経っているから、おまえも冷静に受けとめることができるだろうからな」と父親はそう言い残して、立ち去っていった。
 深夜、美香はそれを読みはじめた。その手帳は弟の自殺にまつわる事実経過や心境を書きつづったものだった。美香はあるページに目を惹きつけられた。そこにはこう書かれていた。
「もともとは青山のグループのいじめが原因で、和彦は死を選んだ。しかし、大石先生の不用意な一言が和彦を死へと誘ったのかもしれない。『不自由な足は一生ついて回る。あなたの宿命だ』と大石先生は言ったそうだ。それはたしかに否定できない事実だと思う。でも、いじめの相談のために訪ねていった和彦に、本人が一生背負っていかなければならない重荷を宿命とまで決めつけて突きつける必要はないはずだ」
 思いが乱れたのか、書き殴ったみたいな文字である。それまで、弟の自殺に関して両親から担任に対する恨みがましい言葉は聞いたことがなかった。ここに綴られているのは母親がひとり胸に畳み込んでいたものかもしれない。このメッセージによって、大石瑠璃子に対する恨みが美香の胸に芽生えた。
 今年の一月に美香は不動産会社に就職し、総務課で庶務給与を担当することになった。三月に社員の家族関係のデータを整理していたとき、営業二課長の大石竜介のファイルを見て驚いた。配偶者欄に大石瑠璃子の名前があり、職業欄には電話相談センターカウンセラーと記されていたのである。
 愕然とした。あんな冷たい言葉を和彦に投げつけ、和彦を死に追いやった大石瑠璃子がよりによってカウンセラーをしているなんて許せない。美香の心のなかで、瑠璃子に対する恨み、憎しみが大きく燃えあがった。
 美香は瑠璃子に復讐しようと心に決めた。
 その手始めとして選んだのが大石竜介へのアプローチである。何より手っ取り早い手段だからである。四月の歓送迎会できっかけを作り、竜介が喫茶店経営に色気を持っていることを知ると、自営業への転進を慫慂した。竜介を籠絡するために、肉体関係も使った。
 瑠璃子本人に対する仕掛けについては、熟慮を重ねた。まず電話相談センターの周辺調査をした。その結果、センターでは自殺念慮などの重たい相談の実績がほとんどないことが分かった。それで、自殺志願者を装って、繰り返し相談した。甘ったるい地声では真に迫らないと考えて、声を作り、時々声調も変えた。
 徐々に瑠璃子のカウンセリングに余裕がなくなり、瑠璃子のなかで精神的なダメージが蓄積している。その手応えが確実に電話応対のなかから伝わってきた。睡眠薬を飲んだと言ったときなどは、瑠璃子は真っ青な顔をして公園を駆けずり回っていた。そんな姿を見るのが小気味よかった。
 それと並行して、瑠璃子の退勤時にストーカー行為も働いた。まさか女だとも知らないで、瑠璃子は本当に恐怖を抱いているようだった。
 最初は、瑠璃子の家庭に罅がはいっていく様子を想像したり、カウンセラーとして対応に窮しているのが電話回線から伝わつてくるのを確認したり、ストーカーにおびえる姿を見るだけで満足していた。その段階では、美香は自分自身でも復讐をどこまで成し遂げようとしているのかは分からなかった。
 その一方で、喫茶店開業の話は店舗物件探しをするまでにプランが具体化していった。そのなかで、美香は喫茶店開業を本気で考えるようになった。竜介との偽装恋愛も喫茶店プランも瑠璃子に対する復讐のシナリオだし、竜介は所詮そのための駒に過ぎないはずなのに、美香は自分の心境の変化が不思議でならなかった。いずれにしても、喫茶店開業の最大の障害が資金問題であり、瑠璃子がプランの前に立ちはだかっている。八月の末に会ったとき、別れ話を舌に乗せると、竜介は追いつめられた思いに囚われたのか、瑠璃子を襲撃した。しかし、瑠璃子は相変わらず資金融資には耳を貸そうとしないらしい。瑠璃子に対する瞋恚の念が美香の内心に燃え盛ってきて、抑えようがなくなってきた。その結果が十月一日の事件だった。
 父親の証言によると、美香は弟の和彦を可愛がっていて、弟の自殺にずっとこだわっていた。母親の死後、美香は何度か不意に電話をかけてきて、母親となぜ離婚したのかを詰問することがあった。美香の詰問は何年も前のことを蒸し返すものであり、その時点では母親の死による一時的な動揺だと思っていたが、いまにして振り返ってみると、娘はあの頃から精神的に不安定になっていたのだろうと述懐していた。そして、手帳に綴られた母親の心情が事件のきっかけになったのだとすれば、自分の行為が娘を犯罪へと導引してしまったことになるわけであり、不用意に手帳を渡したことを後悔していたそうである。

 峻一は赤レンガ庁舎の前庭を抜けて病院に向かった。前庭は紅葉の真っ盛りである。例年より二週間以上早い紅葉である。広葉樹が枝を大きく張り出していて、それが池面に紅く映えている。潅木が池の畔のあちこちで火の玉のように燃えている。外科は五階にあった。ナースセンターで部屋番号を訊き、病室に向かった。五一○号室は四人部屋である。峻一がベッドを覗くと、瑠璃子はベッドの上に坐り、テレビを見ていた。
 瑠璃子は峻一を談話室に誘った。オープンスタイルの談話室にはテーブルが五つ並んでいる。瑠璃子は先に立って、窓際のテーブルに坐った。
「沢木くん、自販機で飲み物を買ってきて。わたしはブラックコーヒー」
 瑠璃子はポシェットから財布を取り出し、百円玉三枚を峻一の前に差し出した。峻一は立ち上がり、入口脇の自動販売機に向かった。
 峻一が缶コーヒーを手にテーブルに戻ってくると、瑠璃子は窓外に広がる景色に目を凝らしていた。窓からは、赤レンガ庁舎の前庭が見える。
「わたしの病室からも前庭が見えるの。最初に入院したのもこの病院。あのとき捜査に来た刑事さんに、紅葉がはじまる頃にはとうに退院していますねと言われたのよ。それなのに、再び入院してこの季節を迎えるなんて、思いも寄らなかったわ」
 瑠璃子は弱々しげな頬笑みを浮かべた。
「ナースセンターで聞いたのですけれども、もうすぐ退院だそうですね」
「明々後日の予定。電話相談センターも辞めることにしたから、家で今後のことをじっくり考えようと思っているの」
「心身ともにゆっくり静養した方がいいですよ。それにしても、先生の周辺で起きたことがすべて島影美香の仕業だとは驚いてしまいますね」
「そうね、自殺志願の相談から、ストーカー行為、夫に対する誘惑、喫茶店開業計画、そして襲撃事件まで、わたしに対する恨みが彼女の動機だったわけよね。わたしはあんな言い方をしたわけでないから、和彦くんのお母さんの誤解だったんでしょうけど、彼に対して、わたしの配慮が不足していたことも否めない事実だわ。あんなにプライドの高い彼がいじめの相談に来たということの意味を深く考えることができたならばと、改めて悔やまれるし、彼に申し訳ないと思っているの」
 瑠璃子は鮮血を思わせる紅葉を眺めている。峻一はその姿を横目で見ながら、瑠璃子の胸に去来しているであろうものに思いを巡らせた。

大石瑠璃子は電話相談センターでカウンセラーをしている。六月にリストカット常習者の若い女性から相談があった。自殺志願の相談は初めてであり、瑠璃子自身がパニックに陥りそうになった。その後何度もその女性から相談が寄せられた。それと相前後して、瑠璃子は退勤時にストーカーにつきまとわれるようになった。一方、不動産会社で営業課長をしている夫の竜介は今年の一月に人社した総務課の美香と不倫をしている。 八月下句に、中学校時代の教え子、沢木峻一が自宅に訪ねてきた。峻一は島影和彦のことを話題にした。瑠璃子にとっては思い出すのが辛い出来事である。九年前のこの日、和彦は首吊り自殺をじたのだ。九月初めに自殺志願の女性から睡眠薬を大量に飲んだという電話が入った。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-10

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