夜明けが一番哀しい 新宿物語
夜明けが一番哀しい 新宿物語
(3)
「錦糸町? へーえ、わたし昔、錦糸町にいた事があるんだ。江東楽天地ってあるでしょう。あの中の映画館で働いていた事があんのよ」
安子はいかにも世慣れたふうを気取って、自分が早くも人生の大半を生きてしまった年増でもあるかのような顔で言った。
「なんていう映画館ですか?」
土曜日の夜をオールナイトのポルノ映画館で過ごし、日曜日を隣の家の屋根だけが見える狭苦しいアパートの四畳半で、終日、眠って過ごすノッポは、映画館ならお手の物、と意気込んで聞いた。
「忘れちゃったわ、なにしろ昔の事なんだもん」
ようやく二十一歳になったばかりの安子が、遠い過去など思い出すのも面倒だ、と言わぬばかりに投げ遣りに言って、赤いマニュキアの指に挟んだタバコをスパスパ吸った。
ノッポはその指の白さとしなやかさに、また感激した。自分の鉄さびに汚れて、ひび割れした指の武骨さを無意識のうちに恥じていた。
その夜から、ノッポのポルノ映画館通いを卒業した新しい人生が始まった・・・・・
「クイン エリザベス号って何だい?」
アンパン(シンナー)のビニール袋に顔を突っ込んでいた画伯が、珍しく関心を寄せて話しに入って来た。
「チェッ、クイン エリザベス号も知らねえのかよう。これでマンガ家になろうって言うんだからねえ」
ピンキーが蒼い顔で毒づいた。
ピンキーは酔うといつも蒼くなるたちだった。
「関係ないよ」
画伯は不服そうに言った。
実際、画伯には世間の事など、どうでもよかった。透明なビニール袋の世界だけが、彼には絶対的価値を持ったものだった。深夜の路上で何枚かの百円硬貨とその世界を交換するために、いつの間にか万引きの常習犯になっていた。ぶるぶる震える手で、万引きの時だけは器用に獲物をものにした。
「クイン エリザベスって言うのはね、世界一の豪華客船よ」
トン子がわきから口を出した。
「ばかねえ、クイン エリザベスはイギリスの女王じゃない。あたしたちの言ってるのは、クイン エリザベス号の事よ」
安子がトン子を軽蔑するように言った。
「クイン エリザベスとクイン エリザベス号って違うの?」
トン子が不思議そうに聞いた。
「当たり前じゃない。クイン エリザベスは人間で、クイン エリザベス号は船の事よ」
安子が言い含めるように解説した。
「そうか」
トン子はなんとなく納得しかねる顔でうなずいた。
「おれ昔、青森の漁港でデッカイ船を見た事があるよ」
ノッポが言った。
フー子は独り、離れた場所でテーブルに顔を伏せて眠っていた。背中の中ほどまである髪が、テーブルをいっぱいに覆うように広がっていた。
フー子が何処から来て、どんな事をしているのか、誰も知らなかった。フー子はなにしろ無口だった。必要な事以外、ほとんど喋らなかった。いつも引き締まった形の良い小さな尻を包んだジーパンのポケットに、何枚もの一万円札を無造作に押し込んでいた。どことなく上品な顔立ちから噂では、フー子の父親はかなり大きな会社の社長だという事になっていた。
「おまえ、そんな聞いたような事を言って、本当に知ってんのかよう?」
噂の火元はトン子にあった。それでノッポが問い詰めた。
フー子はその時いなかった。彼女は気まぐれな風のように掴みどころがなかった。外の仲間達のように、彼女が夜明けまで"うえだ"にいるとは限らなかった。いつの間に来ていたのか、と思うと、いなくなる時もまた、いつの間にかいなくなっていた。
「あいつは風のようだな。風の子供の風(フー)子だよ」
ピンキーが称した。
「そうじゃないよ。フーテンのフー子だよ」
画伯がのろのろと言った。
「フーテンはおまえじゃないか、手当たり次第かっぱらちゃってさ」
ピンキーが言い返した。
「ピンキーだって、何台車を盗んだか分からないじゃないか」
「おれは盗んだりなんかしないよ。ちょっと借りるだけだよ。おまえみたいに、売っぱらったりなんかしないよ」
ピンキーにはドライバ一本あれば充分だった。たちまち、何処からともなく車をものにして来た。
夜明けが一番哀しい 新宿物語