海の上

ㅤ終わりは始まりというけれど、ぼくの終わりはぼくの終わりであって、誰の始まりでもない、単なる終わり。
ㅤ五月の終わりは、六月の始まりにあたる。六月未明のことだ。ついにぼくの指がかけた。夜明けの数時間前に、ぼくの指はぽろりとかけた。ちょうどすきな歌手の写真集をめくろうとした時だった。

ㅤすっかり夜が明けてしまった時分に、ぼくは自分が眠っていたことに気付いた。ぼくは呑気な人間なのだと実感した。
ㅤ雲の下に、陽光にすかされた海と、そこですいすいと動き回る魚たちがみえる。ぼくの指がかけた日であっても、空は晴れるし、雲は動くし、魚はうたうのだ。ぼくの指がかけて、ぼくがちょっぴり悲しい気持ちになっても、世界には不都合がないのだ。
ㅤきっと、ぼくが死んでも、こういうかんじなのだろう。悼まれるべき存在となったぼくに対しても、魚たちは常夏の島を思わせるあの陽気な声で歌いかけるだろう。それは、ぼくも同じで、魚たちに陽気にエサを与える。たとえ、小さな小さな魚たちのうちの一つが消えてなくなってしまっても、ぼくはそれに気付かないから、大きな茶わんに鮭のふりかけをかけるように、いつも通り大きな水槽に小エビのパウダーをふりかける。たまには、南国のジュースを片手に、特別なことがない限りは、音楽プレイヤーをポケットにつっこんだまま。

ㅤふとぼくが死んだときのことを考えると、甘くて白いソフトクリームのことを思い出す。舌の上で、透き通るように味が再現される。
ㅤうずを巻いたその頂点はすぐに溶けてしまう。上から上から、みるみるうちに、それはなくなる。
ㅤ普通のソフトクリームが溶けていく場合は、全側面から崩れるように、少しずつ空気になじんでいくらしい。
ㅤ食べたことはないが、白くて甘いソフトクリームを買った時に、売り子のお姉さんが、そう言っていた。本来ソフトクリームというのは甘くない、とも言っていた。
ㅤそして、お姉さんには金魚のような浴衣が似合っていた。ぼくはその人に一目惚れしてしまった。
ㅤお姉さんは淡い春の思い出、いつか忘れてしまうけれど、今は大切な記憶。
ㅤぼくの記憶の中でしかあのお姉さんは生きていられないのだから、ぼくは重大な責任を負っている。そう簡単には忘れられない人だけれど、時々不安になる。あの素敵なお姉さんが、ぼくとともに世界から消えてしまうのではないか、と。
ㅤ記憶がなければ、新しいぼくも始まらないわけで、始まらないとぼくの過去の時間さえもなくなってしまうのだ。しかし結局新しいぼくは、一つ前のぼくが作りあげた世界を受け入れられない。
ㅤさようなら、とね。消されてしまうよ、古い記憶は。不都合なものは、すべて忘れてしまった方が作業がうんと楽になるのだ。


ㅤぼくの指がかけたままなのに世界は回るし、次期にお姉さんの浴衣の色は記憶の海に揉まれて色褪せるだろうし、今も実は金魚の色としかわからないし、そういえば金魚は海では生きていけないし、来週頃には大きなクジラ鳥がやってきて小さな魚を全てさらっていくらしいし、もうすぐここにも夏がやってくるとも聞いた。雲の上には本物の桜の木がない。だから、春が欠けている。

海の上

海の上

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-04

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