蜘蛛の穴

くらげみん

アダンソンくんが、雑居ビルに囲まれた緑色の湖の上を、ひょこひょこ歩く。ちょうど私の人差し指の爪ほどの黒い塊が、白い壁にかかっている額の上を、ひょこひょこ歩く。そこに描かれる緑色の湖の真ん中に、まるでぽっかりと黒い穴が空いたかのように見える。深夜0時頃、ベッドの上で本を読みながらそろそろ眠りにつこうと思う時、ふと気がつくと、彼はそこにいる。毎日決まった時間、同じように、どこからやってきているかは、わからない。気がついたら、そこにいる。

私の同居人の、アダンソンくん。本名は、本名というか正式名称は、アダンソンハエトリグモ。初めて彼を見た時、体がガチっと強張って、手探りでティッシュを取り出そうとした。けれどもその黒い点を見つめているうちに、昔おばあちゃんに、家グモは殺したらいかん、と言われたことを思い出して、手を止めた。彼はいつもひっそりと暮らしていて、私の周りにそれはそれは唐突に、音もなく現れる。朝顔を洗う時の洗面台の鏡であったり、牛乳を取り出そうとした時の冷蔵庫の扉だったり、くたびれたパンプスを探そうとする時の靴箱の上だったり、気がついたらそこにいる。それから何度も家の中で彼を見かけるたびに、たった人差し指の爪ほどの彼が、縦横無尽に狭いワンルーム(彼にとっては広大なワンルーム)を行き来するのが、なんだかだんだん可愛らしくなってきた。私が仕事に行ってる間はどこにいるのか知らないが、私が家にいる間は、いつもどこか、気がついたら視界の端にいる。まるでわざと、自分の存在を主張しているかのように、白を基調とした家具や壁を好んでいる気もする。おばあちゃんが、家グモはええやつやけぇの、と言っていたのも思い出したりして、そんなちょっといじらしくてちんまりした彼を、私は同居人として、見守ることにしたのだった。

微睡みの前のゆったりと流れる時間に、彼が好んで現れるのは、その絵の上だった。背景は鉛筆で描かれて全て灰色の、ごちゃごちゃと汚らしいビルに囲まれた真ん中に、エメラルドグリーン、というのか、そこだけ緑色に輝いている湖。絵なんて詳しくないけれど、腐った都会にある透き通るような緑色が、まるで触れたら本当に揺れてしまうかのような湖の水が、非現実的なのに、どこかリアルで、好きだった。

「なんでビルに、湖?」

「これはこの近所のビルね。この辺クサイし、変なやついっぱいいるんだわ」

問いかけに対して、少しずれた返答がくる。あの人は窓を開けて、その「クサイ」空気の中にタバコの煙を吐き出しながら言った。

「ふうん、都会にあるオアシス的な?」

噛み合わない会話を何とか続けようとして聞くと、あの人は目を細めてうっすら笑いながら、少しの間黙った。

「…いや別に、何となく、湖があったら綺麗かなと、思っただけだよ」

それ以上は何も言わなかった。短くなったタバコをビールの空き缶の中に押し込むと、あの人は何かを飲み込むような顔をして、私に覆い被さる。私はちょっと待って、と言って、「クサイ」空気が家の中へ入らないように窓を閉めてから、愛も前戯もない、短いセックスをした。

湖の上にぽつんと一匹、吸い込まれるような黒点を残すアダンソンくんは、オアシスに浮かぶ毒だ。周りの汚い雑居ビルはフェイクで、夜にだけ湖の上に現れる彼こそが、真の闇なのだ。

音信不通となったあの人の家は、いつの間にかもぬけの殻だった。家を訪ねた帰り道、毎日絵の中で見ていた雑居ビルを眺めながら、何となく、あの人は緑色の湖に沈み込んだのだ、と思った。湖というか、あの突如現れた小さな闇の中に、吸い込まれていったのだ。今日も私の家の湖には、ぽっかりと、人差し指の爪ほどの黒い穴が空く。そうやってアダンソンくんのことを思い出すと、ちょっとだけおかしくなって、ふふふ、と声を出して笑った。笑ったあと、曇りがかって灰色になった空を眺めながら吸い込んだ空気は、びっくりするくらいクサかった。

蜘蛛の穴

蜘蛛の穴

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-06-01

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