Fate/defective c.01
第1章
三月はまだ肌寒い日が続くが、その日は夜まで空気の暖かい日だった。だからうっかり時間を忘れて、春の宵の池袋をふらふらと歩き回っていたのだ。普段自室の暗い空気しか吸ってこなかった俺には、久しぶりの外の空気は何よりも澄んで美味いものだった。そうやって深夜の池袋を、お気に入りのアニメの同人誌の袋を抱えて阿呆のようにほっつき歩いていたのが、運の尽きだったのかもしれない。
俺、すなわち太田伸一はいわゆるただのヒキニートオタクである。彼女いない歴イコール年齢、当然のごとく女性経験は無く、特筆する特技もない。好きなことはアニメを見ることゲームをすること絵を描くこと、夢はイラストレーター。しかし芽は出ず今に至る。両親と実家暮らし、実に10年。もはや何かを諦められているのか、今日も池袋に繰り出す俺を無言で見送った。3年前に他界したばあちゃんすらも今際の際に「太田家に籍を入れて出来た孫がこれでは報われない」と愛想をつかすレベル。頭が良いかと言われればそうではない。何もかもが人並みの普通の人間だ。生来の運動音痴で、今日も得体の知れない痣を右手の甲に発見。
そういうわけだから、世情にもかなり疎い。世の中で何が起こっているのかなどどうでも良い。ニュースを見ることもなく、政治家のスキャンダルもタレントの結婚報道も猟奇的な連続殺人事件も、気づけば過去のものとなっていることが多かった。
そんな俺が、運悪く出くわしたのがその場所だ。
「ああ〜、喉乾いた。自販機ねえかな……」
春の宵、でかい独り言を呟き、表通りから人気の途絶えた狭くむさくるしい裏道に入る。両側に背の高いビルがそびえ、人1人はいるのがやっとの幅の道。途中に黄色いテープのようなものが貼ってあり、見るからに通行禁止だったが邪魔だったのでそれをむしって自販機を探す。幸か不幸か、すぐに人工的な四角い箱から明かりが漏れているのを見つけ、俺は同人誌の入った紙袋が汚れないように気をつけながら小銭入れを取り出した。
「コーラ、コーラっと」
くたびれた小銭入れから硬貨を取り出すために右手を突っ込む。その時初めて、自販機の白い光に照らされた右手の甲の痣が明らかに赤く腫れ上がっているのを見た。
いや、これは違う。腫れているのではない。明確な形を持って皮膚に印刷されているかのようだ。まるで子供が遊びでシールを身体に貼るように。しかしそれはシールというよりも、身体に彫り込まれた赤い刺青の方が近い。
刺青なんて掘った覚えは無い。不審に思って首をかしげたその瞬間、全身の毛が一斉に逆立つような、異様な気配を感じた。感じたというより「気配に襲われた」という方が近いくらい、あからさまな恐怖を。
「……!?」
上だ、本能的にそう思った瞬間、何かに引っ張られるように右側に体が傾いた。その刹那、頭上から何かが飛び込んでくる。
ガキン、と日常ではまず聞かない、刃物とコンクリートが激突する鋭い音が狭い路地に響いた。
「何だ……令呪の気配を感じたから来てみれば、ただの豚じゃないか。こんな深夜にサーヴァントも従えていないなんて、よほど自分の魔術に自信があるのか?」
地面にへたり込み、青年の声に振り向いた俺の目に写ったのは、黒い人影だった。
彼がこちらを見る。その顔はぞっとするような不気味な仮面に覆われている。その手には大振りの肉切りナイフがあった。姿が目に入るだけで、否応なしに彼から溢れ出る凄まじい殺気を皮膚に流し込まれるようだ。彼は、俺を殺すつもりだ。
それに気づいた瞬間、膝が震えだす。思い出したように、あからさまな恐怖に頭を支配される。
「な、ななな、な、お、おま、お前、誰だよ……!?」
握りしめていた小銭入れを放り捨て、逃げ出そうとするが恐怖のあまり腰が立たない。せいぜい半歩後ずさるのがやっとだ。奥歯が噛み合わず、指先が震える。
怖い。怖い。怖い。恐ろしい。助けてくれ、嫌だ、誰か、誰か……!
無表情な仮面の青年が、大振りの肉切りナイフをくるくると手の中で回しながら、侮蔑のようなため息をついた。
「度胸も技術も無いけど、魔力回路は一級品か。全く嘆かわしい。宝具を使う必要もなさそうだね。大人しく僕の餌になれ」
刹那、ヒュ、と風を斬る音が聞こえた。
あ。
俺、駄目だ。死んだ。
無為に過ごした28年という月日が脳裏をよぎる。何も成し遂げなかった、ただ無益に生きるには長すぎた日々。
目を固く閉じ、わけもわからず殺されるのを待つしかない俺が最期に思ったのは、「ああ、どうせなら可愛くて世話をしてくれる嫁が欲しかった」という、人生を締めくくるには実に薄っぺらい望みだった。
「……人の望みに重さなどあるまい。それが人を生かすのであれば」
バキン、と何かが砕ける音がした。俺は思わず体をすくめる。遂に終わりか、と思ったが、よく考えると身体に痛みはない。それどころか、目を開いてみれば外傷すら無い。
信じられない気持ちで目の前を見ると、そこには1人の男が背を向けて立っていた。群青の雅な着物を纏い、片手には白銀に輝く一振りの刀を握る長髪の男。
「な、……な!?」
驚きのあまり悲鳴に近い言葉しか発せない。その男性は微かにこちらを見た。涼やかな目元が俺を一瞥し、素早く敵に向き直る。
その時なぜか俺は酷く安心したのを覚えている。仮面の男が持っていたナイフが真っ二つになっているのを見たからではない。もっと心の奥底から、懐かしい街に戻ってきた時のような安心を覚えたのだ。だから突然現れたこの男に、俺は敵意を全く感じなかった。むしろ仮面の青年から発せられる滝のような殺意を俺の前で受けとめ、あらぬところへ受け流しているような気がした。
狭い深夜の路地裏に、凛々しい声が響き渡る。
「サーヴァント、アサシン。遅れてここに馳せ参じた。マスターの命を欲するなら、拙者と剣を比べてからにしていただこう」
仮面の青年はその言葉を鼻で笑った。
「は、宝具も持たない三流サーヴァントの癖によく言ったものだね。魔術師のメインディッシュに英霊のデザート付きとは、向う3日間は体力の心配をしなくて良さそうだ」
「界隈を騒がせている連続殺人犯の正体がサーヴァントとは、英霊も地に落ちたものよ。ここで成敗いたす!」
アサシンと名乗った青い着物の男は、そう叫ぶなり軽やかに地面を蹴った。刃が仄暗い路地裏の光を受けて鈍く光る。
「秘技――『燕返し』!」
もしこれが夢や幻覚でなかったら、なんだというのか?俺は自分の目を疑った。
刀が、刃が一度に三振りの太刀筋となって青年に飛びかかる。それはその名の通り、空を飛ぶ鳥さえ一息に仕留めるほどの速さ。
「や…やった!」
俺は思わず歓声を上げた。あれほどの速さで斬りかかられたら、絶対に逃げ切れない!
恐怖も忘れて立ち上がる。が、こちらに舞い戻ってきたアサシンに首根っこをがっしりと掴まれてすごい力で路地裏から引きずり出された。
「な、な、何すんだよ!?せっかく倒せそうなのに!」
「マスター、ここは撤退されよ。見栄は張ったが、あの者の言うことは正しい。拙者には、あのサーヴァントは倒せぬ」
サーヴァント?マスター?そういえばこの状況を何一つ理解していなかったことに気づき、俺はいまさら慌てた。
「サーヴァントとかマスターとか、さっきからお前ら何言ってるんだよ?俺にもわかるように説明――」
「それもまた後ほど!今は逃げるが必至!」
深夜の池袋の表通りを抜け、アサシンに引き摺られるように再び路地裏へ入る。風を切る音で背後に目を向けると、そこには空から路地裏に飛び込んでくる仮面の姿があった。
「ひっ…!」
「落ち着かれよ、今はただ走るのみ!」
「そんなこと言ったって追いつかれる……!!」
仮面はただひたすらに、器用な身のこなしで追い駆けてくる。室外機を踏みつけ、自販機を飛び越える。俺はアサシンに追いつくのに必死になりながら、ただ無我夢中で逃げた。
「無駄だよ、君たち。諦めることだ」
感情のない青年の声がすぐ耳元で聞こえた気がした。ゼェゼェと激しい呼吸に邪魔をされてうまく息ができない。
「っ、ダメだ、追い、つかれ、る!アサシン――」
悲鳴を上げた。こんどこそ無理だ。あの剣筋を以てしても倒せないなんて。
絶望に屈しかけた。
その時だ。
「此度放つは必中の矢、射抜くは仇の傲慢。射損ずるものならば弓切る他無し。――穿て、『一条一穿』!」
一筋の光の矢が仮面の青年の身体に間違いなく突き刺さった。
「ッ……!」
矢は深々と地面に突き刺さり、青年はその場に倒れこむ。
今だ。今ならアイツは身動きが取れない!アサシンも声を上ずらせた。
「左様。逃げるなら絶好の機会!何者かわからぬが、助太刀に恩を切る!御免!」
しかもさっきまでと違い、体が羽のように軽い。誰だかわからないがとにかくありがたい。俺はアサシンと並んで、春の夜中の池袋をどこまでも疾走した。
「カガリ。これは軽率な行動だと思います」
池袋を一望する高層ビルの屋上で、濃紺の和装に白袴の少年が、隣にいる金髪碧眼の女にそう言った。
「いくらはぐれサーヴァントに追われていたとはいえ、聖杯戦争でのマスターを助けるなど…」
「Nein、ワタシの素敵なアーチャー。これは必要な行動でした」
カガリと呼ばれた女はアサシンとそのマスターが逃げた方向へ目をやりながら、夜景の上でにっこりとほほ笑む。
「だって、まだ一日目でショ?あんまり早く死んでもらっては、せっかくの聖杯戦争がモッタイナイわ」
彼女の胸元に刻まれた幾何学模様が赤く光る。少年は深くため息をついた。しかしすぐに表情を引き締め、カガリと同じ方向を見る。
「じきにあのサーヴァントもこちらに気づきます。我々も撤退しましょう。結界を張りますから」
「ダメよ!あのサーヴァントと話がしてみたいわ!ほら、アレでしょう?最近街を騒がせている、リョーキ的殺人犯の正体が英霊だなんて、ワタシとっても好奇心をくすぐられ――」
「いい加減にしてくださいマスター!撤退です!担いででも拠点へ連れ帰りますからね!」
「まぁ、セクシャルハラスメントだワ!」
「人聞きの悪いこと言わないでください!」
池袋の上空を金髪の美女と白袴の少年がきゃあきゃあと駆けて行ったとは露知らず、それから数時間の後、一日目の夜が明ける。
Fate/defective c.01
to be continue.