僕の名前はエミル

 元気ですか?
 僕はとっても元気、でもずっとあなたに会いたくてたまらない。
 
 僕はあなたと話をすることはできないけれど、それでもあなたに会いたい。

 今日は一つだけ、確認したいことがあったので、これを書きました。
 確認したいことというのは、僕の名前のことです。

 僕の名前は『エミル』なんだけど、誰もが僕のことを『エーミール』と呼びます。
 ほんとはエーミールじゃなくてエミルなんだけど、みんなが僕のことをエーミールって呼ぶからいつの間にかエーミールになってた。
 
 でも僕の名前の正しい呼び方はエミルだよね。そうだよね。
 伸ばし棒はいらない。「エ」と「ミ」のあとは伸ばさない。
 でもそのことを覚えているのは、もしかしたらもうあなただけなのかもしれない。
 
 あまりにも長い間、みんなから『エーミール』と呼ばれるので、僕は自分の本当の名前がほんとうはどっちだったのか、だんだんわからなくなってきてしまいました。
 たくさん名前を呼ばれ続けてきたせいで、色々なことがわからなくなってきた。

 僕の名前は一人の人物の名前でもあるけど、それだけにとどまらなくて、『エーミール』という名前は今や世界中に知れ渡っていて、世界中の人たちが僕のことを知っている。
 これは全部、全部あなたのおかげです。

 この前は、あなたが死んでから250年が経った記念の日でした。
 華やかな式典があったし、パーティーもあった。
 そこではみんながあなたの話をしていました。
 僕はこれでも一応『代表』みたいな感じだから、やっぱりみんなのところに居ないとだめかなと思って、色んな人のところに言ってこっそり話を聞いていた。
 そこでもやっぱりかならず出てくるのは、『エーミール』の話だった。
 あなたの話をする人は、絶対にエーミールの、つまり僕の話をする。

「あなたが羨ましいわ、エーミール」って、そのとき僕の隣にいたノエルは言っていて、(ノエルのこと覚えていますか? 彼女は一番最初に生まれた女の子です)、たぶんいつもの僕だったら「そんなことないよ」とか、「ありがとう。でも僕は君のことも、とっても素敵だと思ってるんだ」とか、そういうすごくありきたりでつまんない返事をしたと思うんだけど、そのときはなぜかそういう気分になれなかったんだ。それでどうしてか、ノエルに、
「忘れちゃったの? 僕の名前はエーミールじゃないよ」
 って言ってしまった。
 そしたら驚いたことにノエルは、
「え? じゃあなんていうの?」
 って僕に尋ねてきた。
 ノエルが僕の名前の『正しい呼び方』を忘れてしまっていることに僕はびっくりして、それで訂正するために僕は自分の名前の正しい発音を自分の口から言おうと思った。
 でもそうしたら口から出てきたのは、
「……僕にも、もうわからない」
 という返事だった。

 あのあと結局ノエルは最後まで、僕の本当の名前を言い当てられなかった。
 でもそれは彼女が悪いわけじゃない。彼女が生まれたのは僕の生まれるずっと前だし、そういうことが起こっても仕方がないんだ。
 それに一番悪いのは僕で、僕が自分の本当の名前をみんなに向かって言うことができなかったからそういうことになったわけだ。

 そこまで来て突然、僕はへんな気持ちになった。
 街を歩いていて、本屋さんに入るとそこには必ず『エーミール』がいる。本のなかにいる。
 僕の名前、ほんとはエーミールじゃないのに、エーミールの本は世界中にいっぱいあって、エーミールの映画もあるし、エーミールっていう名前のお酒まである。
 人形劇にも僕はいる。広告のポスターのなかにも、異国の文字のなかにも、二時間の映像のなかにも、無数の僕がいる。
 そうやって文字で綴られた僕や絵に描かれた僕や人の形をした僕やキーホルダーのおみやげの僕やお酒の僕を眺めていたら、だんだん本当にわけがわからなくなってきてしまった。

 あなたが38歳のときに僕は生まれて、そのときは僕のことをまだ誰も知らなかった。
 そのあと、『僕』はとある有名な評論家のひとに絶賛されて、賞をとって、表彰されて、それから急にたくさんの人が僕のことを知るようになった。
 そうやって1年が経ち、2年が経ち、10年も20年もして気が付いたら世界中の人が僕を知っている状態になっていた。
 でもあなたは僕を生んで10年くらいしたら肺炎で死んじゃって、みんなそれを悲しんだけど、だけどそのころからだ、僕の名前が正しく発音されなくなったのは。
 新しく刷られたものとか、新しい人が翻訳したやつだとか、とにかく『エーミール』の数だけが増えていって、前の『僕』は『エーミール』にペンキで上から塗りつぶされるみたいになっていった。
 そしてあなたが死んでから250年が経った今、人気者の『エーミール』は輝かしくも残っているけれど、僕の本当の名前は誰も覚えていなかった。
 あなたの最初の友人であったはずのノエルですら。

 このままだといけないような気がした。
 みんなが僕を違う名前で呼ぶのは構わないのだけど、僕自身が本当の名前を忘れてしまったら、それはとてもいけないことのような気がした。
 
 だから僕は内緒で旅に出た。
 世界中のたくさんの『エーミール』のなかから、ほんものの僕を見つけに行かなくちゃ、と思ったから。
 本屋さんや映画館、壁のポスターも人形劇も全部250年のお祭り騒ぎでエーミールをしているこの街から、僕はこっそり抜け出すことにした。

 それからは、ほんとうに長い長い旅になった。
 歩いたり、電車に乗ったり、地下鉄に乗ったり、あとは飛行機に乗ったり砂漠のラクダに乗ったりして、僕は多くの場所を訪れた。

 どこにいってもエーミールはいた。
 それは全部あなたのおかげだ。

 西の町で、エーミールの演劇を上映している子供たちに出会った。
 北の村で、絵葉書のなかにいた僕を見つけた。
 南の島で、男の子が絵本のなかの僕の顔にらくがきをしていた。
 どれもこれも、みんなあなたのおかげだ。

 東の国では、僕は燃やされていた。
 この国の人はどうやら僕や、あなたが生まれた国のことがすごく嫌いみたいで、本のなかの僕に一生懸命火をつけたり、嫌な言葉を浴びせたりしていた。
 少し悲しかったけど、こういうことって別に初めてではないから、「そうか」くらいの気持ちだった。
 これも、あなたのおかげではある。

 そうやってたくさんの場所をまわったけど、そこにいる誰も、僕の本当の名前を知らなかった。

 僕は人と会話をすることができない。
 人間とコミュニケーションする手段を一切持っていない。
 できるのは歩くことや、ノエルみたいな『僕とおなじ子』と話すことだけ。
 
 賞賛されても、罵倒されても、何も言えない。
 エーミールが賞をもらっても何も言えないし、
 エーミールに対する悪口を見ても何も言えない。

 だから、たぶん戦争にも行けるし。
 燃やされても何も言えない。 

 ただ、ひとつ、とてもよいことがあった。
 暖かい春の日に、僕は海の近くの小さな村に来ていた。
 そこには病気の女の子と、それを看病するお母さんがいた。
 女の子の病気は深刻で、みんな口には出さないけどもう長くないみたいだった。でも、僕とそっくりの顔をした人形を持っていて、ごはんのときも寝る時も大事そうに抱えていた。
 その子はエーミールのお話が大好きな女の子だった。お母さんが、僕が笑ったり泣いたりして歩いていくというそれだけの話を、まるで僕がそこにいるみたいにしてベッドにいる女の子に語った。
 女の子はほんとうに、最後まで楽しそうだった。「エーミール大好き、明日もおなじの読んで」と言っていた。
 僕は彼女に触れることも、話すこともできないので、誰にも見えない神様になったみたいな気持ちでそこにいることしかできなかったけど、あのとき確かに僕は、『エーミール』は彼女を支えた。
 なくなる直前まで、彼女は僕の人形を優しく腕に抱いていた。

 満たされた気持ちになって、僕は帰路についた。250年のなんとかで浮かれてるあの国に、あの街に胸を張って帰ろうと思った。
 エーミールの物語は、きっと一人の少女の、いや、たくさんの子供たち、そして大人たちの心のなかに生きていたのだ。


 そう思っていたのに、地下鉄の車内で僕はまた、締め付けられるみたいな気持ちに襲われてしまった。
 
 誰かの心のなかに生きていたからって、なんなんだ? 
 結局僕は何の答えも見つけられなかった。僕の名前を正しく発音してくれた人はあのなかに一人もいなかった。
 そしておそらく僕が帰る街にも一人もいない。

 病床にいる少女を勇気づけて、励ますっていう、最上級みたいな仕事を僕は果たしてるっていうのに、どうしてこんな気持ちにならないといけないんだろう。
 僕を愛してくれる人は世界中にいるし、それに見合うだけの存在であるのに、それが全部、目の前をすごい勢いで通り過ぎていく電車の窓みたいにしか見えない僕は、なんて貧相なのだろう。

 これも、きっとあなたのせいだ。

「あなた、昨日をもって文化財に指定されたみたいよ」
 国に帰ったとき、ノエルから真っ先にそう伝えられた。
「僕はノエルが羨ましい」
 わけのわからないことを言う僕に、彼女は眉をひそめた。
「なんで?」
「君は半分、この世にいないみたいなことになってるから」
 ノエルはあなたの最初の友人であると同時に、どこにも出してもらえなかったかわいそうな子でもあった。大勢の人に知れ渡っている僕と違って、ノエルという子のことを知っている人はとても少数しかいない。
「いないほうがよかったかもしれない、僕なんか」
 僕の言葉に、彼女は信じられないという顔をした。
「どうしてそんなことを言うの、エーミール」
「だから僕はエーミールじゃない!!」
 もうめちゃくちゃになって、そのままぐしゃぐしゃで出ていこうとしたけど、結局僕はどこにも行けなかった。
 だって僕の帰る場所はこの国なのだ。
 この250年のなんとかで浮かれているこの場所に、あなたがその昔生きていたからという理由で、僕はここにとどまり続けるしかない。

 なのに、どうしても帰りたいと思った。

「帰りたい」
「どこに?」
「あの人のところに帰りたい」

 僕の本当の名前がないこの世界はもう僕の居場所じゃない。

 走って走って、誰もいないところに行きたかった。本も演劇もポスターも、評論家も戦争も、記念碑も記念公園も貰ったメダルもどうでもよくて、僕はただひたすら走った。

「なんで、僕を生んだんですか」

 宇宙がなくなってもきっと僕はいる。
 僕は人間じゃなくて、だから嬉しいも悲しいもよくわからなくて、なのに誰も僕を正しく呼んでくれない。

「登場人物の気持ちになって考えてみましょう」
 じゃあその本人が気持ちがわからなくなってしまったら、どうするの。

 気が付くと夜になってて、雨が降っていた。
 雨は僕の身体を透明にすり抜けていく。
 どれだけ呼んでもあなたは答えてくれない。だって250年前に死んじゃったから。
 
 でも、そのとき、
「エミル」
 急に名前を呼ばれた気がして、僕は振り返った。
 ぽつりと傘をさした地味な姿の女の人が、雨の中を歩きながら喋っている。
「エミルなのよ。エーミールじゃなくてエミルなのよ。なのに間違った翻訳の仕方をされちゃったせいで『エーミール』のほうが有名になっちゃって、嫌だわ、やるならそういう細かいところもきちっとしてほしかったわよね」
 そうやってぶつぶつ言っている女の人の隣には、同じく傘をさした男の人が歩いていた。
「それって、君の名前はアンナなのに、周りの人がみんな君のこと『アナ』って呼ぶのと同じようなこと?」
「そうよ。私はほんとはアンナって呼ばれたいのに、誰もそう呼んでくれないのよ」
 女の人はむすっとしていた。彼ら二人が自分の目の前を通り過ぎていくのを、僕は黙って見ている。
「僕はアンナって呼んでるじゃないか」
「それは私がそうしてって最初に言ったからでしょ!」
 女の人はまだ怒っていた。
「まあでも、私は人から何回『アナ』って呼ばれても、アンナが好きだけどね」
 怒っていたけど、少しだけ笑っていた。
「そのことが自分でわかっていれば、それでいいのよ」

 男の人と女の人は、そのまま行ってしまった。
 当たり前だけど僕は彼らから見えない存在だから、気づかれることはなかった。
 でも僕は彼らのせいでとてもとてもすごいことがわかってしまった。

 女の人は僕を「エミル」と呼んだ。エーミールではなくエミルと呼んだ。
 どれだけ探してもいなかった、『僕の名前を正しく呼んでくれる人』だった。
 でも僕にとってそれはもう重要ではなかった。

「私は人から何回『アナ』って呼ばれても、アンナが好きだけどね。そのことが自分でわかっていれば、それでいいのよ」

 そうか。
 ずっと忘れていたことを僕はようやく思い出した。

「僕はエミル」
 夜の雨が地面を叩くあいだに、口に出してそう言ってみた。
「僕の名前はエミル」

 どれだけ他の人が『エーミール』と呼ぼうとも、僕の名前はエミルなのだ。
 それは、一番最初にあなたがくれた名前。
 僕がずっと大事にしてきたもの。

 世界中の人からは間違った名前で呼ばれているし間違ったこともたくさん行われている、でも「僕はエミルである」と「僕は思うことができる」。
 なんで僕がエミルかというと、あの人がそう名付けてくれたから。
 それだけのことなんだけど、それでじゅうぶんだった。
「僕は僕である」ことを認識できたら、もうそれでいいのだ。

 病気の女の子を支えてあげたのも僕、遠くの国で燃やされていたのも僕、世界中で『エーミール』と呼ばれている男の子は僕のことである。
 でも、僕の名前はエーミールではなくてエミルだ。
 それは僕自身が、初めて自分で選んだものだった。

 そして、こんなことを思った。

「『それでも僕はあなたが好きで、あなたを正しいと思っている』」
 
 それは、作品『エーミール』に出てくる一節だった。囚われの身の少女を助けたエーミールが、傷ついている彼女に言った台詞だ。
『エーミール』のなかで最も有名な台詞だった。

「それでも僕はあなたが好きで、あなたを正しいと思っている」
 僕は、それを何度も口に出して言った。
 細い雨にかき消されて、誰も聞いてなんかいなかったけど、何度も言った。

 あなたは僕と会話しようなんてこと、きっと一度も思わなかったことだろう。
 こんなにたくさんの人のところに僕が届くことも、予想していなかっただろう。
 もしかしたら、僕のことなんて嫌いだったかもしれない。

 だけど「僕」は何がしたいか、を考えて、そうしたら、もうこれだけでいいと思ったのだ。
 250年のなんとかで浮かれている街にも、いつもの雨は降っていて、それはいつもと同じだった。



 元気ですか?
 向こうで元気にやっていますか?
 僕はとっても元気、でもずっとあなたに会いたくてたまらない。
 
 僕みたいな身分の人がこういうことを言うのはちょっとへんかもしれないけれど、僕はあなたと話をすることはできないけれど、それでもあなたに会いたい。
 エミルはあなたに会いたいです。

 世界中を旅して、たくさんの人から愛された僕だけど、あなたがつけてくれた名前は死ぬまで忘れません。
 じゃなくて、死なないままで、忘れません。

 僕の名前はエミル。
 エーミールって呼ぶ人も多いけど、僕の名前は変わらずエミル。

 向こうでもし退屈だったら、きっとまた続きを書いてね。

僕の名前はエミル

僕の名前はエミル

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted