合間
一
曇った表面を乾いた布巾で磨いていくと、コチコチと現れる時刻は、午後の一時半であることを示す。ランチを食べ終わったばかりで、大通りの一角に店を構える老舗の時計店であるにも関わらず、店内にいる客も、外からの来客も必ずひと段落するわが店の不思議は、私の師でもある前の店主の代から続いている。それに合わせる格好で、私の店になってからも、わが時計店では全時計の時刻合わせが行われる決まりになっている。わが時計店にある時計の個数は、地下で眠るものも含めて、おそらく数百は下らない。手巻きの物も、その全てが今もしっかり動いている。柱時計はない。卓上の物は、私が個人的に使うために持ち込んだ物なので、非売品である。なので、ここで売る物のラインナップは腕時計から構成される。古い物が大半、娘が店主である私に無断で仕入れている今時の物も一応置いてある(店の奥に仕舞うと、「勝手なことをしないで!」と店主が怒られる)。デザイン重視のシンプルなものなので、店内の雰囲気が壊れることはないが、それが置かれる棚と、それに並ぶ両隣の棚の間に、時代のズレが生まれているため、掃除がてら、時々私がその間を取り持って、世間話の一つや二つをしておかないと、双方から文句が出てしまう。カチコチ、コチカチと実に落ち着かない。時間をかけた分だけ、特定の腕時計の間で、製造年月日を超えた直接の交流が可能となり始めてはいるが、棚全体の秩序を形成するには至っていない。他の棚同士に見られるような、重みを感じる落ち着きが自然と生まれるには、まだまだ時間が足りない。競争するように、秒針の進み具合を早める、ある文字板のスケートボードの少年が口笛を吹きながら私にチッチとしながら言ったことは、若い頃の時分に、私が思ったことでもあった。その誤り、しかしながら、その気持ちの真摯さの両方を理解し、感じ取れる私としては、実に中途半端な返事しかできないものだから、スケートボードの少年には古いと言われ、密かに聞き耳を立てていた隣の棚の古い腕時計にも、若い若いと指摘されてしまう。心底困ったことではあるが、一方で、そう思えるのも、この店内には私しかいないのも事実である。歳をとる人の身をもってして、生まれたばかりの年月と、膨大に刻まれてきた年月の間を行き来して、私は人としての言葉を短く、時には冗長と思える程に、率直に述べるまでである。おかげさまで、その時間に、わが時計店を利用するお客はいない。大事な商品と、大切な話をするにはうってつけの空間となる。ネジを巻き、短針を動かし、共通する文字盤の上でぴったりと合わせるのに要する時間、どこまでも終わりがないように見えて、しかし確実に終えることが出来る作業の不思議は、わが時計店の店主にしか教えられない理由に支えられている。なので、その概要すら明かすことはできないが、その姿形をもって例えるなら、レモンとボールとグラスの一個と言ったところであろうか。別に美味しい一杯が飲みたいから、という欲求に駆られたイメージという訳ではない。円とか楕円とか、そういうものに近い、のかもしれない。はっきりしないのは仕方ない。なんせ、それは何百年と続いてきたわが時計店の秘密なのだから。その全てを包み込める言葉はそうない。
そうこうしているうちに、もう五分は経ってしまった。時刻は午後の一時半過ぎ。あと一分もすれば、午後初めてのお客が来店する。これは必ずである。わが時計店には決まりがある。
そうそう、それと今日は、孫が歩き出した初めての日でもある。しかも双子のどちらも、である。そのことを祝ってもらえて嬉しい。どの腕時計もカチコチいっている。飲み残した容れ物から、甘い香りが立ち上っている。
娘から教えてもらった、なんたらチョコ、という名前のパッケージは、私のコレクション入りが決まっている。つまり私は、それが気に入ったのだ。
合間