凝視

凝視

その男は、あの橋の中程に立っていた。
いつも橋から対角に向かって川の流れの向こうを凝視しているかのような立ち姿であった。橋は人通りの街路が途切れた所にポツンと架けられ、この辺りは夜は人通りもなく、街灯と言えば対岸と此岸には橋の上に設けられた一基の水銀街路灯だけだから、その一灯にスポットのように照らされて男の立ち姿は余計に異様な風景だった。

橋はオレが利用している通勤バスの路線の途中にある。帰宅路線の駅から四つ目の場所で、帰りの時間帯には乗り合わせた大勢の客で、バスの中は今の季節柄とは対象的にむせかえるほどの熱気となる。
身動きできない程の車内で張り巡らされたバーを持ちながら、ここ何日かは進行方向に向かって左に居場所を確保している。人いきれで曇りがちの窓を時々手袋で拭きながら、バスが橋を通る頃合いにはあの男を窓の外に捜している。

どちらか言うと物見高いことやお節介は嫌いな方だが、この件に関しては少し好奇心が動いた。とはいえど、あの男の立ち姿に気がついたときから、恐らく二週間続いている、となるとオレでなくとも気になるという物だ。最初は自殺志願かなと思ったが、そう言う切迫した感じはその男にはなかった。

その日は抱えていた仕事が一段落した勢いもあって、駅に着いた時から決めていた。あの橋の一つ前のバス停で降りて少し酔狂をしてみよう、というわけである。
客でごった返す車内を迷惑そうな視線を感じつつ、オレは前の扉の方向に進んだ。このバス停で降りる人など殆どいない、それもそのはずでここら当たりは民家はおろか、工場や倉庫だって無いところだ。

バスのステップを降りたところで、余りの寒気にオレはコートの襟を立てた。
ーーーさ、寒い・・・覚悟はしていたがこれほどとは・・
この近くには建物らしい建物がないためか、冷えた空気とその寒気を含んだ風にさらし者のようになって、いささか閉口した。
あの橋まではすこし距離がある、歩きながら、しかしオレはもう後悔し始めていた。何をしているんだと思ったが、とりあえず橋まで行ってみよう。しかし、今日に限ってあの男がいなければ、まるでバカである。

ゆっくりとした登り坂を歩いて、すこし開けたところまで行くと橋は見えた。
相変わらず明かりと言えるのは一基の街灯だけ、そして橋と一体化しているかのような、あの男のシルエットも確認できた。
男は川向こうと橋に直角に正対し、川を覗こうかという立ち位置だった。いつものコートのような黒い物をはおっている。
オレは男の視線の先を探りながら橋に近づいた。視線の先は漆黒の闇だった、何も見えない真っ暗な闇が延々続いているのだった。

ーーーいったい、何を見ているんだろう・・
そう思いながら、男の立っている所まで近づいたとき、さて、どうやってこの男に声を掛けようか思案した。男はオレに気がついていないかのような素振りだ、いや気がついていまい。さて、どうしたものか・・、どう切り出すか、それともしばらく通りすがりを装って、諦めてこの場を立ち去るか・・・。
幾つかの選択肢が頭の中を蠢き、オレは躊躇したが、ええい、と直裁に切り出した。

「何か、いるんですか?」オレは言った
「ん・・・?」その男が目だけでこちらを見て、つぶやいた。
「いつもここに居ますよね・・・」オレは言葉を続けようとした
「だいたい、この時間帯にお一人で立ってますよね、何かあるんですか?」
「キミは警察かね?」男は低い声でつぶやいた
「あ、・・いえ、警察じゃないです。ただ、。バスから見えるんで、それで・・いつも、見てて、気になった物ですから・・」
ーーーあぁ、ダメだ、話が通らなくなってきた。やはりもう少し展開を考えて来れば良かった。オレは後悔した、やはり余計な詮索だったんだ。

二人の間に気まずい空気が流れた、男は黙ったままだった。しかたなくオレも合わせるかのように、橋から川の方を見て、暗い闇を見た。しかしそこには何もない暗闇が漂っているだけの空間だった。こういう空気の時は、頃合いを見計らって此処を立ち去ることにしよう、そうオレは思った。

男はオレが居る居ないにかかわらず、また視線を戻して、闇を見つめた状態になった。オレはこういう人も居るんだ、何をするでなく、ちょっと我々と違う思考を持った人なんだ。そう納得つけた。
「あ、・・失礼しました・・・どうも」男にそういって足先を来た道の先へ向けた。

「何を見ているか、聴きたいかね」

帰りかけたオレに、不意に男は言葉を返してきた。
オレは思わず振り返って、男の顔を見た。横顔はいつも見ていたが、男はこちらを見ている。広い額に長い前髪がかかって、眉が濃く鋭い目、しっかりした鼻、彫りの深い顔だった。
「キミはさっき、私と同じ所を見ていたが、何か見たかね・・?」男は言った。
「え・・いや、何も見えないので、逆に何をご覧になっているのか、知りたかったんですが・・・」オレは思ってもなかった展開に、言葉を繕わず聞いてみた。
「そうか、見えなかったか・・、こちらにもう一度来たらどうだね」男は手招きした。
「な、何が見えるんですか?」オレは聞き直した。
「そうだな・・キミには闇にしか見えないか・・」思わせぶりな言い方だった。
オレは手招きされた位置から、再度目を凝らして、この人が見ている先を見つめた。しかし、そこは相変わらずの闇であり、もっと先は街灯すら届いていない空間が広がっているだけだった。

「暗闇一色と言っても色々あるんだよ」唐突に男はそう言った。
「え・・?暗闇ですか・・暗闇じゃないんですか・・?」オレは男の言った意味を取りかねた。
「しっこく(漆黒)、くろつるばみ(黒橡)、くろとび(黒鳶)しこく(紫黒)ぬればいろ(濡羽色)あんこくしょく(暗黒色)他にも呼び名はあるぞ」
「あ、なんだ。色の話ですかぁ・・」オレは返す言葉を失った。
「キミはそう言うが、ただ単に色分けのために昔の人はそういう名付けをしたと思うかね」
「そ、そう言われてもですねえ。私はこの闇のことを言っているのかと思いましたから・・・、いきなり色を言われても・・ちょっと」オレははぐらかされたような気がして、ムッとしながら答えた。
「昔の人は、名付けされた色くらいの見分けをしていたと思わないかね」
随分と上から目線の物言いだった。なるほど、この男の言い分にも一理あるが、この男はそれを見分けるために、この橋の上に何日も立っているんだろうか?
「すいませんが、それとこの橋から見ている事とどう関係するんですか?」
「この闇一色の中にも沢山の色が潜んでいるんだよ、私はそれを見ている」
「あ、なるほど。やっぱり染色とか、そう言った関係の職業ですか」
「まぁ、それでもいいが・・ふふ・・」男は目を細めながらそう言った。

なんだか、トンだ関わりになってしまった。結局、色の見分けのために、この男はこの橋に立っていただけだったのだ。この何日かの疑問は氷解した。オレはまた、頃合いを見計らって立ち去ることにしようと思い始めていた。その途端に今までのやりとりで忘れていた寒さが襲ってきた。
「なるほどね・・あ、じゃぁ。だいぶ寒くなってきましたので、私はコレで。いいお話有り難うございました」愛想笑いをしてオレはその場を立ち去ろうとした。

進行方向に顔を向けた時に、ガサリと言う音がした。
振り向いたオレは目を疑った、男はやおら橋をヒラリと越え下に落ちていったのである。
コートの背中部分を空中に大きく広げ、真っ黒の橋の下に男は落ちていった。オレは思わず身を乗り出した。橋中央にまで戻りつつしながら焦った。
「おいっ!何するんだ、やっぱり自殺かぁ、おいっ」
下に向かって怒鳴った。声まで溶け込むかのような暗闇だ、下からの返事はなかった。川に飛び込んだかと思ったが、その飛び込み音もしなかった。ポケットの携帯を探りつつ、警察に電話すべきかどうか、左に右に動きながら目で下を探った。

「おーい、おーい」突然、下方から声がした。
「だ、大丈夫かぁ、どこにいる」オレは声を張り上げた。
「大丈夫だ、こっちの方を見ろ」声のする方向を見ると、ボンヤリと炎が点いている。ライターの火か、マッチか判別できないがどうやら無事のようだ。
「やれやれ、何のまねなんだコレは」オレはこの関わりに相当に後悔した、どうやら壊れた系の人のようだ。
「見えているか、こっちだ」また、男の声がした。
「方向は分かる、もう冗談はやめて上にあがってこいよ。ケガはないか、救急車いるか」そういって男を橋に上がってくるよう促そうとした。しかし、男のかざしてた炎が消え、再びあたりは暗闇に戻った。オレは焦った、橋の上から下をくまなく見ようとして、右に左に動いたが男の姿どころか、闇は闇に包まれたままで、まるで泥を見るような思いだった。

「びっくりしたか?」突然後ろで声がした。慌てて振り向くと、あの男がオレの後ろにいつの間にか、立っていた。
「いつのまに、上がってきたんだ」すこし激してオレは言った。
「ふふふ」男が手をかざして何かを見せた、よく見るとそれはコウモリだった。
黒のコートに溶け込んでいたものの、逆さに持たれたソレは黒にややグレイがかった黒であるとはいえど、識別は可能だった。
黒のコートに溶け込んだ色とは雖も、コートの沈んだ黒色に対し、それはやや明るい黒だった。バタバタと蠢くコウモリを男は空に投げた。
コウモリは直ぐに体制を取り戻し、また闇の中に消えていった。
「見えるじゃないか、ちゃんと識別できるじゃないか」男は薄笑いを浮かべてそう言った。
「あぁ、あそこまで分かりやすければな、しかしアンタこんな遊びをして、なにが楽しいんだっ?」人をバカにした振る舞いと物言いにオレは激高していた。もうひと言、浴びせないでは居られなかった。
「そう怒るなよ、分かって貰いたかっただけだ」
「分かる?何を!橋から飛び込んでコウモリ捕まえて、人をビックリさせて、何を分かれっていうんだ!」
「そう、怒るなよ。ホラ、もう目が慣れてきているはずだ」そう言って男は川向こうを指さした。
オレはその指先の向こうを見た、そこには確かに先ほどまで見えなかったモノが見えた。コウモリの大群が樹にぶら下がっているのだ。
「え・・・今までいたのか?」
「そうさ、アンタなかなか筋がいい。現代はどこもかしこも、電気のおかげで、やたらに明るくなって、闇が無くなった。いわば夜のない夜になったんだよ」
「ナニ言っている、夜は夜だよ、しかし、こんな闇の中にも微妙な色分けがあるんだな、感心したよ」
「昔の人は、貴重な蝋燭の火で、その微妙な色差を見つめていたんだぜ、大きな光量無しにだ。アンタも、もっと慣れれば、もっと違うモノが見える」
「コウモリ以外??・・カラスとかか?」
「違う、闇に住んでいるモノ達だ」
「闇に住んでいる?・・おい、何のことだ?妖怪?お化けか?」オレは男の真意を取りかねて、そう問い返した。
「ふふ、今に分かるさ。そのうちにな。楽しいぞ」男は意味深にそう言った、その表情には自信すら見えるようだった。
「あ、あんまり、かつぐなよ・・・」オレは少しこの男の狂気の部分に当てられた様な気がして、恐ろしくなった。男は相変わらず、オレとは違うところを見てニヤニヤしながら目配せをしているようだった。いったいにこの男は、この闇のナニを見て、ナニに笑っているんだろう。

「すいません、この子が何か失礼をしましたか?」突然、声がした。
見ると髪の毛が銀髪になった老婆が立っていた。オレはその生活に疲れきった佇まいに妖怪でも見ているかの如く驚いた。
「あ、いえ・・失礼など・・」オレは返答に窮しながら答えた。
「この子は、夕暮れからこれくらいになると家を抜け出て、ここに来るようになってしまったんで、困っているんです」目を伏せ目がちに老婆は男のそばに歩いた。
「いつもですか?」オレは尋ねた。
「幸雄、あれほど出てはダメだと言っているのに、お前は聞かないね!」まるで小さな子供に言い聞かせるかのように、男に向かって忌々しげに老婆は声を浴びせた。
「あ・・・、あぁ・・」幸雄と呼ばれた男は急に威勢を無くして口ごもった。
「引きこもりでしてね、もう長いこと。対人関係でおかしくなってしまって・・・此処に越してから少しは良くなるかと、思ったのですが、相変わらずで・・・」愚痴とも何とも言えない事を誰に言うと無く、老婆はブツブツとしゃべった。
「この子の言うことは、あまりマトモにしないで下さいな、この子は病気なんですから・・・」
オレは言葉を失った、あれほど明解にオレを説得してた男が、そう言うことだったとは、意外だった。

まるでマーキングに執着する犬のリードを引っ張るかのように母親に強く催促されて、男はうなだれ背を丸めながら歩いていった。大きなヒトの輪郭と小さな老婆の輪郭、二つのシルエットは橋の上の街灯の光が及ぶ所まではうっすら見えていたが、やがてシルエットは夜の闇の中に溶け込んで、もうどこにいるのか分からない程一体化してしまった。

オレはまるで一騒ぎした後の気まずい空気の中にいるようで、バツが悪く、気抜けしてしまった。一人残された居住まいのなさに、帰ろうと思ってもクルマの数もまばらなこの地域では、タクシーなど期待できない。しかたなくここに来るために降りたバス停まで戻ることにした。

寒さは足の感覚すらも鈍くしていた、バスの停留所までやっと歩いたが、停留所の上に設けられた小さな蛍光灯だけが唯一の光だった。ポケットに手を入れ込んで、寒さを凌いでいた。掲示された時刻表ではあと15分ほど待たねばならない。やるかたなく、震えながら視線はあちらコチラを彷徨うこととなった。

下からの冷気で足首から下が氷のようだ、血流を促そうと足を動かそうにも張り付いたような感覚になっている。ふと見ると逆方向の停留所に誰か居る。
蛍光灯が照らす光と闇の境界域に人影がある、ひとり、いやもっとだ。こんな時間に随分酔狂だな。オレは更に目をこらすとそれはゆうに数十人のシルエットに広がった。最初は人かと思ったが、それは明らかに、ヒトの姿をした違う何かだった。オレはあの男の言葉を思い出した、そうだ彼奴は「今に分かるさ。そのうちにな。」と言っていた。オレの背中を寒気とは違う冷たい何かが這った。

オレは得体の知れない危険を察知して、その場から逃げようとした、しかし足を動かそうとするのにうまく動いてくれない。多くの影達がぞろぞろと蠢いている。そのうちの一人がこちらを見た。オレの見つめる視線とそいつの視線が道路の中間辺りで見つめ合った。

オレはまじまじとその目を見た、沼の湖底のような幾世紀も堆積した泥のような色だった。その目はあの男と同じで、なぜか哀しみを感じるのだった。

凝視

凝視

ちょっと怖い話です。 体験談ではありません。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-07

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