初めての恋
1
「いったいここは何処だろう」車に揺られながら妙子は考えていた。車外に目を凝らして見ても周りは暗闇だけ、言い知れぬ不安だけが押し寄せてくる。今日一日だけで、あまりにも色々な事が起きた。まだ自分でも信じられないし、理解もしていない。これから何が起こるのだろうか、想像する事も出来なかった。
長かった夏休みが終わり大学での生活が再び始まった。久しぶりに会った友人と楽しくお喋りをし、授業を受ける。そんないつもと何ら変わらない一日の始まりだった。だが、2限目を終え友人と昼食に向かおうとしていると、「1号館事務室まで来るように」と呼び出しがかかった。行ってみると、担当者から
「石川さん、お家で事故があったとの知らせです。お兄様が迎えに来るそうなのでこのまま待っていてください」と言われた。
心配になった妙子は携帯で連絡をとろうとしたが母、兄、姉皆と連絡がつかない。妙子は迎えの車がくるまででジリジリしながら待っていた。亡くなった父が多額の寄付をしていたせいか大学職員の方たちが丁重に対応してくれている。妙子は少し気づまりを覚えた。
妙子の実父は妙子が9歳の時に亡くなった。実父の当時の雇主である秋山一豊が妙子を養女として引取ってくれた。使用人の子である妙子を何故か養父は可愛がってくれた。それは誰の目にも明らかなほど、実の娘である和江より可愛がった。子供の頃は大切にされる事にただただ喜んでいたが、妙子が思春期を迎える頃から、家での様子に違和感を覚えるようになった。養母の政江は妙子を確かに可愛がってくれたがその目は冷たく、義務的であった。兄義雄は妙子を無視した。和江に至っては嫌悪感を隠すこともなく陰湿な嫌がらせをした。秋月家は400年以上の歴史ある旧家であり裕福だったが、その家族の間には寒々とした空気が流れていた。
「今まで兄自ら、わざわざ迎えに来るような事は無かった。つまりそれだけの大事故があったという事だ」妙子はどんな悪い事が起きたのかとあれこれ考えてはため息をついた。
「一体何があったの。誰が事故にあったの」迎えの車に乗り込むと、妙子は兄に対して珍しく強い口調で聞いた。
「いいから黙っていろ。これからA&Kホールディングスへ行く。お前はただ黙って頷いていればいい」兄は怒っている、いや焦っているのかもしれない。兄は妙子の問いを無視し運転しつづけた。
いつもなら妙子もこれ以上は聞く事は無い。だがA&Kホールディングスという名を聞いて驚きを隠せなかった。
「なぜA&Kホールディングスへ。あそこは我が家の敵だってお父様が」妙子は独り言の様に呟いていた。
「そのA&Kホールディングスへ行く。加藤のやつ、くそ」義雄は口の中でもごもごと悪態をついていた。今の内容だけでは詳細は分らないが妙子はそれ以上聞くのは止めた。
「A&Kホールディングス」
養女の妙子は詳しくは聞いていないが戦前からの長い付き合いの加藤家の会社だ。だが、今では敵対関係にある会社だ。秋月家の回顧録で読んだ事がある。歴史は古く旧家で土地持ちの秋月家と建設業の腕を生かした加藤家が手を組んで一つの街を作りあげた。それは大げさな言い回しではなく、戦後の焼け野原を商店街、住宅地、商業地と開発していった。その後加藤家は一介の建築屋からA&Kホールディングスへと発展した。今では道路、橋からスタジアム建設まで手掛ける一大企業へと成長した。Aは秋月、Kは加藤を意味している。お互いになくてはならない存在だった。そう昔は。
今では何かにつけ反目し合いお互いを敵と見なしている。何がきっかけでそうなったのか妙子は詳細を知らない。ただ秋月家で加藤の名を言う事はご法度だった。
今、そのA&Kホールディングスへ向かっている。つまりそれだけの大事件が起こったという事だ。妙子の背筋に冷たいものが走った。これから何が起こるのか妙子には想像もつかない。
「なぜ、私も呼ばれたの。確かに以前は養女だったけれど、今ではなんの関係もないはずよ」妙子はまた独り言の様に言った。2年前養父一豊が亡くなった時、妙子は大学卒業までの援助と引き換えに秋月家に対するすべての権利を放棄した。戸籍上でも相続放棄後に籍を抜いている。運転している兄、いや以前兄だった義雄は凄い形相で睨むだけで何も言うつもりは無いようだった。
A&Kホールディングスに着くと待っていましたと言うように係の人が最上階へ案内した。扉を開けると、その向こうは広々とした会議室に大きな楕円形のテーブルがあり、すでに数人見知った顔が席についていた。母、姉が着席している。テーブルの反対には一人、東京のビル群を背に男性が座っていた。部屋の隅には弁護士バッジを付けた年配の男性が2名並んで座っていた。兄は何も言わず姉の隣の席に着いた。妙子は一瞬どうしようかと考えあぐねた。兄に続いて席に着くべきだろうか。向かいの男性が多分こちらの会社の方だろう。許しを請うのが筋ではないだろうか。妙子は向かいの男性に視線を走らせた。
「どうぞお掛け下さい」妙子の様子に気付いたのだろう、相手の男性は立ち上がると、向かいの席を指し示しながら言った。
妙子は男性の指示した席、母の隣に座る事にした。男性は妙子に笑顔を向け、妙子が座るのを待ってから腰を下ろした。
「女性が座るのを待ってから腰を下ろす。その立ち居振る舞いからして紳士的な人のようだ。背も高くて素敵だ」妙子は相手の男性に対し好印象を持ったが、周りの重い空気が「それどころではないぞ」と言っているように感じた。
おもむろに向かいの男性が口を開いた。
「さて、先週からの話し合いの件、結論は出ましたか」
この問いは誰に対して発せられたものだろう。妙子は訝った。それに「先週から」と言っている。
「まずは家族だけで話し合いたいのだが、少し時間がほしい」義雄が言った。額にはうっすら汗がにじんでいる。その様子から相手の男性が優位、こちらが劣勢なのが分る。
「分りました。私は席を外しましょう。10分でよろしいかな」よろしいかな、と聞いているがそれは命令のようだ。男性は余裕の仕草で立ち上がると妙子に一瞬笑顔を向けてから部屋を後にした。弁護士2人組もあとに続いて出て行った。
男性が部屋を出た後、部屋には一瞬沈黙が訪れた。それはとても重たい沈痛なものだった。
「秋月不動産は加藤に乗っ取られた」義雄が一気に捲くし立てた。
「加藤のやつ、債権をいつの間にか買い取っていたのだ。このままでは全てを失う。妙子お前が頼みの綱だ」最後の言葉は妙子に向けられたようだ。
妙子は何を言われたのか分らなかった。
「私が頼みの綱って、どういう事。一体何があったの」
その後の義雄の説明は、自分の経営能力の無さの言い訳だった。つまり借金で首が回らなくなり敵である加藤家に「今までの事は水に流して昔のよしみで」とすり寄ったという事らしい。秋月家の負債は加藤氏が個人的に肩代わりし、秋月不動産はA&Kホールディングスが吸収した。さらに義雄は、両家の関係を強固なものとするため、縁組を持ちかけたのだ。
「だったら、和江姉さんの方が私なんかより良いのでは。血筋から言っても」と妙子が言いかけるのを母が遮った
「和江はダメよ、妙子がいいの」その声は決然とした強い声音だった。いつも穏やかな母がこんな言い方をするのを初めて聞いた。妙子は驚きで何も言えなくなっていた。それからは義雄と和江の独壇場だった。
「今まで誰のおかげでいい暮らしが出来たと思う」「従業員の事も考えろ。皆を路頭に迷わすつもりか」二人が妙子を攻め立てた。妙子は事の成り行きの速さにただただ驚いてパニックになっていたが「ちょっとベッドの相手をするだけの楽な仕事じゃない」和江のこの一言に妙子は正気に戻った
「私にだって好きな人ぐらいいるわ」妙子のこの言葉と同時に会議室のドアが開いた。出て行く時と同じように堂々とした様子で男性が入ってきた。
「これで両家の絆は深まります。ありがたい事です」義雄が作り笑いをしながら答えている。妙子は異議を申し立てようと立ち上がったが、義雄の「黙れ」という一括で何も言い出せなくなってしまった。ここに妙子の味方は居ない。得も言われぬ恐怖が襲って来た。
それからは不安との戦いだった。加藤家の迎えの車に乗せられ、気づけば車は東名高速を走っていた。運転手にどこへ行くのかと尋ねたが返事は無かった。3時間近く車に揺られ、日も沈み鬱蒼とした暗闇の中、車がたどり着いた先には大きな洋館が建っていた。
「お疲れ様でした」運転手が口を開いたのは、この時が初めてだった。
「海が近いのかしら、波の音がするわ」妙子は思わず声に出していた。顔に潮風を感じる。
「はい、ベランダから見える日の出は、それはすばらしい眺めです」運転手も思わず笑顔で答えていた。答えてから「しまった」というような顔をしている。
建物に入ると50歳ぐらいの無表情の女性が待っていた。
「いらっしゃいませ。お食事は30分後です。それまでこちらでおくつろぎ下さい」
無表情と言うより無視かもしれない
「電話をお借りできないかしら」妙子は女性に声を掛けてみた。携帯をチェックすると圏外だ。
「旦那様の許可が必要です」とにべもなく断られた。あいかわらず無表情だ。妙子はこの家にとって歓迎されざる人物なのだと悟った。
妙子は一人で食事を取った。話し相手もいない寂しく味気ない食事だ。秋月家でも楽しい一家団欒は無かったが、それでも今よりはましだ。
食事を終えると部屋に案内された。妙子が今暮しているアパートより広い、ホテルで言うならスイートルームのようだ。続き部屋の先には大きなベッドそしてバス、トイレまである。この洋館は昔ホテルだったのかもしれない。そんな事を考えながらとりあえずベッドに腰掛けた。
「ちょっとベッドの相手をしてあげるだけで・・・」
という和江の言葉を急に思い出し、オロオロし始めた。妙子の心に渦巻いていた恐怖と不安が今にも爆発しそうな勢いで噴出してきた。急に吐き気がして来てトイレに駆け込むとさっき食べたものをすべて吐き出していた。吐き出しながら涙があふれてきた。最初は涙を堪えようとした。しかし一度涙があふれだすと堰を切ったように涙がこぼれ止まらなくなった。
その日の最後は泣きながらベッドに横になった。泣いて、泣いて泣き疲れて、いつのまにか眠っていた。
2、
翌日、朝日の眩しさに目を覚ました。窓に近づくと芝生の向こうに海が見える。窓を開け、ベランダに出てみた。運転手の人が言っていた通り素晴らしい眺めだ。妙子はしばしその眺めを楽しんでいた。すると下から声がしてきた。
「眺めは気に入ったようだね」下を見ると昨日の会議室の男性がいる。妙子は驚いて手すりから身を引くと部屋に逃げ込んだ。部屋に戻りどうしようとウロウロしていると、近くのテーブルに大きな箱が置いてある。昨日は無かったものだ。覗いてみると綺麗なワンピースが入っていた。下着まで入っている。考えてみれば着の身着のまま連れてこられた。風呂にも入らず化粧も落としていない。バスルームに行き顔を見ると泣いたせいで瞼が腫れ、目が赤かった。
「やだ、ひどい顔」妙子は自分の顔にビックリし、とにかくシャワーを浴びてすっきりする事にした。用意されていた服に着替え、髪を整える頃には思考もはっきりしてきた
「なに、気合入れて綺麗にしているのよ。バカみたい」
良く分らないうちに連れてこられて、これじゃ監禁みたいじゃない。昨日からの出来事はどう考えてみてもおかしな話だ。義雄兄さんがどんな約束をしたのか知らないが私は了承した覚えはない。大学での授業もある。しっかり話し合い理解してもらわないと。そういえば妙子は相手の男性の名前すら知らない。妙子は思わず苦笑いすると
「自己紹介から始めないと」と呟いた。
階下へ向かうと昨日の無表情の女性が待っていた。
「旦那様はテラスでお待ちです」そう言うと歩きだした。どうやら案内してくれるようだ。ついて行くとリビングの先のフランス窓が大きく開けられ、その先がテラスだった。旦那様と呼ばれる男性が悠然と足を組んで座りコーヒーを飲んでいる。テーブルにはすでに朝食が用意されておりいい香りがしていた。男性は立ち上がると妙子のために向かいの椅子を引いて待った。
妙子はどうしようかと逡巡したが、素直に腰掛ける事にした。
妙子はどこから話せばいいのか考えていた。考えながら相手の男性の様子を伺ったがその顔からは何も読み取れない。年齢的にもずいぶん年上のようだ。たぶん30過ぎだろう。笑顔を見せながら視線に隙が無い。敵に回したら怖い人だ、本来なら勝負は避けるべき相手だろう。簡単には逆らえない雰囲気のある人だ。
「昨日はよく休めたかな。ここを気に入ってくれると有難いのだが」男性は向かいに腰掛けながら言った。
「おはようございます。着替えを用意していただいたようでありがとうございます。あと、失礼ですが、お名前を存じ上げなくて。私は石川妙子と言います」妙子は頭の中で作成した「言う事、聞く事リスト」のトップをまず言った。
妙子の頭の中のリストには他に、
① 相手の名前。②ここは何処か。③なぜここにいるのか ④大学へ行きたい 等々
相手は名前を聞かれて驚いているようだ。「目がテン」とはこういう時に言う言葉だろう。
「僕の事を知りませんか。ご家族からなにも聞いていませんか」信じられないと言うように言う。つまり相手は「自分は有名人だ」と言いたい様だ。
「2年前、秋月の父が亡くなって私は家を出ています。時々母と電話で話すぐらいで、会社の事も家の事も何があったのか聞いていません」
妙子はそのまま頭の中の質問リストを最後まで一気に読み上げた。しゃべりながら不安と興奮がないまぜになって段々早口になり、最後には息が切れ、声が裏返っていた。
目の前の男性はカップの底に残ったコーヒーを飲み干すと、興味深いとでも言うように前に体を乗り出して妙子の顔をまじまじと見た。妙子が何を考えているのか読み取ろうとしているようだ。
「君は質問が多いね」男性は口元に笑みを浮かべながら質問に答え始めた。
「僕は加藤彰正。A&Kホールディングスで専務を務めている。現社長の息子でつまり後継者、遠からず社長になる予定だ。父は最近体調を崩していて、実務は全て僕がこなしている。今回の秋月不動産の吸収合併その他全てを取り仕切ったのも僕だ」ここまで言うと相手の男性、加藤彰正は妙子の反応を見るために一呼吸おいた。そしてその間は妙子に良い効果を与えている様だと思ったのか、彰正はそのまま話しを続けた
「君との縁組を持ち出してきたのは秋月の方だ。傾いた秋月不動産の債権者や銀行、投資家を黙らせるにはどんなに良い再建計画を提案するより縁組をするのが一番手っ取り早い。つまり自分の身内は潰せない。古い考えと思うかもしれないが銀行のお歴々はそういう古い考えの人が多くてね」
ここまで話すと彰正はまた一呼吸おいた。脇のワゴンにあったポットから自分のカップにコーヒーのお代わりを注いだ。妙子は言われた内容を吟味しようと頭をフル回転させていた。妙子は眉根を寄せ、頭には「考え中」という札が出ているような顔をしていた。
「ここは下田にある僕の私邸でね。ここを知る人間は少ない。今回は君の避難場所として来てもらった。今回の合併騒ぎが治まるまで君にはここに居てもらいたい。大学については休むなり休学にするなり僕の方で手続きをしておこう」
休学という言葉を聞いて妙子は飛び上がった。
「休学なんて、学校には行きたいわ。今参加している研究だってあるのよ。すごく大切な事なの」妙子のこの切羽詰まった声に彰正は何でもないように答えた。
「考古学専攻だったね。いつも穴掘りしているのかい」この小ばかにしたような言い方に妙子は腹を立てムキになって反論した
「穴掘りじゃなくて発掘調査よ。今は国との合同調査に参加しているわ。馬鹿にしないで」
「馬鹿にしているわけではないよ。君の一番の心配事がそこかと思ってね」
彰正は苦笑いした。妙子にとっての心配事は遊びやショッピングではない。自分との結婚話にいたってはスルーされている様だ。彰正は妙子のふくれ面を前に、真面目な顔つきで先を続けた。
「正直、今は会社の事を第一に考えてもらいたい。この合併が上手くいかないと多くの人が職を失う事になる。君と僕は婚約したという事で話を進めたい」
彰正は「婚約」という部分を強調して言った。妙子もやっともう一つの大きな問題に気付いた様で何か反論しようと口をパクパクしている。その様子に満足した彰正は最後のダメ押しをした。
「秋月家には君の学費を出す財力はもう無い。今後は僕が援助しよう。君は院にまで進むつもりだと聞いている」
妙子は彰正のどや顔に反発を覚えたが、秋月家がそこまで火の車なのかと思うとショックでもあった。
「ここには休暇で来たと思えばいい。婚約についても今すぐどうこうというわけではない。婚約しているふりをすると考えてもらえればいいだろう」
彰正は妙子の不安を出来るだけとり除こうと穏やかにそして優しく言った。その声音に妙子も思わず笑顔を見せた。
「私はいつまでここに居なければいけないの」妙子は必要であろう最後の質問を発した。
彰正は難しい顔をしている。コーヒーを優雅に啜りながら答えを探している様だ。
その間を家政婦の女性が遮った。
「旦那様、お迎えが来ました」彰正はこれ幸いと立ち上がると出かけようとしている。
「待ってください。最後の質問に答えてもらっていません」妙子の真剣な声に彰正は振り向いた。
「君に曖昧な答えで嘘をつきたくない。だから今はまだ分らないと答えよう。今回の合併の決着がいつつくのか数週間か数か月かなんとも言えない」
彰正は真剣な顔で答えた。彰正は妙子に対して公平に紳士的に対応している。安易な嘘でごまかそうともしない。妙子は率直なその答えは本当なのだと、彰正は正直に答えてくれているのだと感じた。
「僕はこれから出張で家を空ける。続きは三日後に。それまで外部との連絡は一切禁止という事でお願いするよ」
それだけ言いおくと彰正は出かけて行った。残された妙子は自分の置かれている今の状況を分析する事にした。猶予は三日間、彰正が帰ってくるまでに考える事は沢山ある。
3、
考える事は沢山ある。それは車に揺られている彰正も同じだ。手にある書類を目で追いながら思考は先ほどまでの妙子との会話に戻っていた。まず自分の事を知らない事に驚いた。彰正は妙子とすでに何度か会っている。妙子が覚えていないとは、それなりの地位につき権力も財力もある自分を知らないとは、彰正は苦笑いした。
携帯のつながる場所まで来るとさっそく仕事に取り掛かった。妙子の大学への休学手続き、アパートから荷物を送らせる。一通り指示を出した。あとは屋敷に閉じ込めた妙子を手に入れるだけだ。欲しいものは必ず手に入れる。今までそうやって生きてきた。これからが楽しみだ。彰正は妙子の事を思いながらほくそ笑んだ。
しばらくすると下田の家から連絡が来た。早速妙子がなにか駄々をこねているのかと思いながら電話に出た。
「ケンちゃんを連れて来てもらいたいの」
妙子の第一声に彰正は虚を衝かれた。ケンちゃんだと
「ケンちゃんとは何者だ」思わず威嚇するような声になっていた。
「私が飼っている犬なの。急にここへ連れて来られたから何も用意していなくて、ご飯も貰えずに一人で可哀そうよ。私がここから動けないのならケンちゃんをここへ連れて来てもらえないかしら」
彰正は今の状況を素早く考えた。下田の屋敷は古い洋館だ。家具調度品は骨董品としての価値もあり慎重な扱いが必要だ。そこに犬。だが妙子に好印象を与えるには丁度いいのかもしれない。骨董品と妙子の犬。天秤にかけ犬のほうが勝った。
「分った。君の荷物と一緒にその犬も連れて行くよう手配しておく。ちなみにその犬の大きさは、大きいのか」
「プードルの混ざった小さい犬よ。学校の前に捨てられていたのを拾ったの」それから妙子は愛犬ケンちゃんについて語り始めた。ベージュの巻き毛で、片手で抱けるほどの小ささ、カバンから顔をちょこんと出すしぐさが可愛い。ただ、自分だけに懐いているので他人には牙をむく。迎えに行く人に注意するよう伝えてもらいたい。妙子の話は尽きそうにない。彰正は思わず笑いだしてしまった。
「すまない。その話はまた今度聞かせてもらうよ。ケンちゃんには今日中に会えるようにしておくから安心しなさい」と言って話を切り上げた。電話を切ってからも笑みがこぼれる。
彰正は妙子と初めてあった時の事を思い出していた。3年前の業界団体主催の新年会に秋月一豊に連れられて来ていた。真っ黒の長い髪に色白の丸顔、大きな瞳は全てを見通すような深みと強さがあった。立ち居振る舞いも申し分なく、生まれの良さを感じさせた。一豊は自慢げに娘を紹介して回っていた。その様子からいかに娘を大切にしているかが窺えた。敵対している彰正のところへ挨拶に来る事は無かったが周りの噂話から彼女が養女であると聞き驚いた。まだ高校生で都内の有名私立女子高に在籍しているとの事、どうやら一豊が良い嫁ぎ先を探しているらしい。一豊にとっては娘の結婚も事業計画の一部だ。今から根回しをしておくつもりらしい。彰正は彼女が気になった。よく観察して見ると彼女自身自分の役割について理解している様子だった。
帰り際、彰正はラウンジの隅にいる妙子を見かけた。両手で膝を抱えてソファーに座っている。床には脱いだハイヒールが綺麗に揃えてある。見てくれが良くても窮屈で履き心地の悪い靴から自分を守ろうと体を小さくしている様なその姿が気になった。
翌年、秋月一豊が亡くなった。
次に妙子に会ったのは府中市での発掘調査だった。大型商業施設建設予定地で行われた埋蔵文化財の事前発掘調査でのことだった。その発掘調査作業員として妙子がいたのだ。小さなシャベルで地面を少しずつ削っていた。パワーシャベルを使う人間からすると何ともショボイ作業に思えるのだが妙子の目は真剣そのものだ。あのパーティーで着飾り作り笑いをしていた時より輝いて見えた。調査費用を出しているスポンサーとして紹介されたこともあるが本人は覚えていない様だ。彰正としては苦笑いするしかない。
彰正は、ここ数年何人かの女性と交際したが、なぜか妙子の事が忘れられなかった。今回向こうから転がり込んできたこの縁談話は、まさに
「まさに、飛んで火にいる夏の虫」彰正は呟いた。
彰正は今回のゲームを楽しむことにした。彰正にとって妙子との事はちょっとした余興にすぎなかった。
4、
彰正が出かけてから気付いた。ここに居なければいけないのだ。それも長期的に
「ケンちゃん。どうしよう」
妙子が最初に考えたのは飼っている犬の事だった。すぐに家政婦の石黒さんに
「加藤さんと連絡が取りたい」とお願いした。
石黒さんは、ただの嫌がらせかそれとも指示されているからなのか分らないが、にべもなく
「外部との連絡には旦那様の許可が必要です」と答えた。
「その旦那様と連絡が取りたいの。とにかくお願い」と妙子は頭を下げたが石黒さんは首を縦に振らない。自宅に犬がいる事、このままでは餓死してしまうと訴えるとやっとの事奥の部屋からコードレス電話機を持ってくると旦那様へ連絡を取ってくれた。
妙子は彰正とのやり取りでケンちゃんをここへ連れてくることになり一先ず安心した。ケンちゃんが来るまで別の事をして時間を潰そうと考えていると
「旦那様から屋敷を案内しておくよう言われております。お時間よろしいでしょうか」相変わらずの無表情で石黒さんが言う。折角なので案内してもらうことにした。
この洋館は明治時代アメリカ人のために建てられたものだという。石黒さんが自慢そうに話し始めた
「戦時中は病院としても使われていました。戦後はホテルとして、その後別荘として大旦那様が買い取りました。今は旦那様が時々いらしています」
石黒さんは解説をしながら図書室、リビング、書斎と案内していった。
「こちらの書斎は旦那様が仕事でお使いになります。重要書類もありますので決してお入りにならないように。通常は施錠されております。電話線はこちらにのみ引かれておりますが旦那様より石川様は外部との連絡は一切禁止と指示を受けております」
「その件は私も聞いています。石黒さんにご迷惑をおかけするような事はしません。ご心配にはおよびませんよ」妙子が了解の旨伝えると石黒さんが小さく笑みを見せた。妙子はそのちょっとした笑みが嬉しかった。この人は忠誠心の強い人なのだろう。まだ妙子がどう行動するのか警戒しているだけなのかもしれない。
「では、次にお庭の方をご案内します」石黒さんはリビングのフランス窓から出て案内の続きを始めた。
目の前には芝生、そしてその先に崖、海とある。
「柵もありますが夜は暗く危ないのでご注意ください。右手には海岸へ降りるための階段があります。旦那様より石川様が自由にできるのは敷地内だけと指示を受けております」そう言いながら柵まで真っすぐ芝生の上を歩いて行った。確かに右手に海岸に降りるための階段がある。
「まさか、この海岸はプライベートビーチとか言いませんよね」目の前に海を望みながら妙子は聞いてみた。
「はい、その通りです。海岸までが敷地内となっております。右手に見える突きだした岩から左手の大きな松の木までが当屋敷の敷地内になります。ただ波が荒く、深さもあるのであまり海水浴にはむきません。よほどの自信がない限り眺めるだけにした方が無難でしょう」石黒さんは、自慢そうな笑みを見せた。妙子は段々石黒さんが好きになってきた。
「では、このまま正面に回りましょう」そう言うと、右手に回り始めた。妙子は後に付いて行きながら海岸へ降りる階段をチェックしてみた。木製の階段は岩に沿って作られている。周りの景色に溶け込むように旨く作ったようだ。そのまま建物を周ってゆくとガラス張りの温室が見えて来た。
「温室です。大旦那様の亡くなられた奥様は蘭の栽培が趣味でした。今は私が栽培しています。ご覧になりますか」石黒さんは聞いてはいるが、自慢したそうな顔をしている。
「ぜひ見たいわ。よろしいかしら」妙子は下手に言ってみた。石黒さんははにかんだ様な笑みを見せた。だんだんこの人との接し方が分ってきたと妙子は思った。
温室内の花の説明を聞きながら、妙子は質問してみた
「石黒さんはこちらには長いのですか」
「はい、かれこれ25年ぐらいでしょうか」妙子はこの世間話をうまく利用する事にした。温室内の花を褒め、持ち上げながら、彰正の人となりを聞き出すことにした。彰正は休日にこの洋館に来る。俗世間の喧騒を離れ、命の洗濯をするための場所の様だ。だから携帯も繋がらないままにしている。この洋館の場所を知る人は少なく、電話番号に至っては極秘だ。彰正はここに来ると本を読んだり散歩をしたりして過ごす。温室の手入れも時々するがあまり上手ではない。温室をそのまま維持しているのはお母様の思い出の場所だからなのだろう。ここへ来る時は大抵一人、たまに秘書が訪ねてくることもあるが女性を連れて来たのは始めてなので今回の事は驚きだ。などなど聞き出せた。
最後の言葉、初めて連れてきた女性が自分であったことに妙子は驚き、少し嬉しくもあった。
昼食後、ケンちゃんが連れられて来た。ゲージから出してもらえたケンちゃんは妙子に飛びついて喜んだ。妙子も嬉しがったが、石倉さんは吠えられ牙をむかれた。午前中の良い雰囲気が一気に逆戻りし、無表情の石黒さんに戻ってしまった。
それから、彰正が戻るまでの3日間は今後の事について考える事にした。
5、
彰正は2日後の夜遅くに屋敷に戻って来た。時間は間もなく翌日になろうとしている。屋敷は暗くシンと静まり返っている。彰正は妙子の部屋を小さくノックしてみたが返事は無い。小さく開けて除くと足元で小型犬が牙をむいて唸っている。彰正はそそくさとドアを閉めた。
「あれが妙子の愛犬ケンちゃんか。ボディーガードとしては優秀な様だ」そんな事を考えながら自室へ引き上げた。
翌日朝、早起きの彰正はいつもの様にテラスに腰掛け新聞を読んでいた。
「おはようございます」妙子の声に新聞から目を上げようとすると足元で犬が唸っている。妙子は犬を抱くとそのまま椅子に腰かけた。
「お帰りは明日かと思っていました」と言う妙子の言葉に
「それは早く会えて嬉しいという事かな。それとも何か問題でも」彰正は緊張感をほぐそうとからかうように言った。
「両方ですね。でもケンちゃんの事はありがとうございました。2人で仲良くさせてもらっています」妙子は犬の頭を撫でながら言ったが、犬はまだ唸っている。妙子に対しても威嚇しているようだ。よく見ると片目が潰れている。
「慣れていない様だね。目はケガかい」彰正は質問をした。
「私が拾った時にはすでにこうでした。獣医が言うには多分最初から片目じゃないかと。眼球自体が元から無くて、だから捨てられたのかもしれませんね。この子唸るくせにしっぽを振っているでしょ。表現方法を知らないだけなのよ。ねぇ」最後の「ねぇ」は犬に向けられた言葉の様だ。
石黒さんが朝食を運んで来て、会話は一旦中断した。朝食は和やかな雰囲気で進んだ。話題はほとんど犬についてだ。高校生の時、校門前でウロウロしているのを保護した。最初は妙子も良くかじられた。秋月の家では飼うのを反対され、それもきっかけで一人暮らしを始めた。大抵の人に吠えるのでペットホテルなど人に預けるのは難しい。つまり妙子だけに懐いている様だ。
「保護してからずっと一緒にいるのかい」彰正は驚いて聞いてみた。自分を噛み、唸る犬を大切に思う妙子に驚いた。
「ええ。今じゃ一心同体よ。心が通じ合っているの。ケンちゃんが今考えている事は・・・そこのお前、妙子に変な事したら噛みつくぞ。かな」おどけた声で犬の心を表現した妙子の言い方、表情に彰正は吹きだしていた。声をあげて笑いだした。つられて妙子も笑った。朝食は良い雰囲気のまま終える事が出来た。
朝食後、彰正は海岸までの散歩に妙子を誘った。今後の事を話し合うには狭い部屋では威圧感がありすぎる。妙子も理解したのか承知すると、犬用のカバンを部屋まで取りに行った。犬は置いていかれないようにと妙子の後を追いかけていった。5分もするとトートバッグを肩に掛けて妙子が戻ってきた。バッグの隙間から犬が顔を出している。
「いつもこうやって連れているのかい」
「ええ」妙子はどや顔だ。
彰正と妙子は海岸に向かった。彰正はこの屋敷の解説を始めた。妙子が石黒さんから聞いた以外の新しい情報は、以前彰正の父親の療養のために使われていたという事だ。
「もう20年近く前の事だが事故に遭ってね、回復に1年程かかった。企業のトップがケガで動けないという事は外部には極秘でね、それ以来この屋敷の存在自体も極秘あつかいになっている」彰正は当時の事を思い出しているのか眉間にしわを寄せ辛そうにしている。
「今はもうお元気なの」妙子は聞いてみた
「ケガじたいはもう問題ない。ただ杖は手放せないがね。最近は持病の高血圧の方が問題だ」
「だから加藤さんが実務をこなしているのね」妙子のその問いかけに彰正は不思議そうな顔をした。
「その加藤さんはやめてもらおうかな。仮にも婚約者なのだから彰正と呼んでほしいな」
彰正は妙子の顔を見ながら茶化す様に言った。妙子は婚約者という言葉にドキドキしてうろたえた。
「ふりでしょ。ふり」思わずムキになって言った。
「ふりでも、ある程度の真実味は持たせないとね。妙子。僕は妙子と呼ばせてもらうよ」彰正はニヤニヤしながら言った。
「じゃ、私は・・・彰正・さん。舌噛みそう。アキさんと呼ぶわ」妙子は今までの状況から彰正には敵わない、逆らえないだろう事を感じていた。だがすべてにおいて主導権を握らせるつもりは無かった。妙子なりの呼び方をすることで、小さな抵抗を試みた。そしてこれからもう少し抵抗するための話し合いが始まる。
海岸まで来ると妙子は犬をカバンから出した。犬は楽しそうに駆け出して行った。
「あそこに腰掛けよう」彰正が指差した先に腰掛石があった。
彰正と並んで座り、しばし海を眺めていた。9月も半ば、まだ日差しは強いが海風は心地よい。
「さて、先日の続きを始めようか。君はまだ聞きたい事が色々あるだろう」最初に口を開いたのは彰正だった。
「ええ、秋月の家の事や会社の事を考えればあなたと婚約したふりをするという事は理解できるわ」妙子は「ふり」という部分を強調して言った。
「でもどうしてここに居なければならないの。隠れているみたい。学校の事もあるし、やはり東京へ帰りたいわ」妙子は出来るだけ冷静になろうと努めた。ここは感情論で話すべきではないと感じていた。
「僕との婚約を受けてくれて嬉しいよ」彰正は笑顔で答えた。本当の恋人への笑顔の様で妙子は妙にドキドキした。が次の瞬間彰正の顔は真剣なものとなった。
「ただ帰ると言うのは良い考えとは思えない。僕はこれでも有名人でね。合併の件もあり婚約の件は関係各所に知らせてある。マスコミは君のコメントを欲しがっていたよ」
妙子は驚きを隠せなかった。彰正も妙子の反応の良さに頷いている
「君のアパートや大学にもマスコミが行ったという報告を受けている。君のプライバシーを守るためにもしばらくはここに居た方が良いと思うよ」
妙子は青ざめていた。妙子の今までの人生は限られた選択肢の中から最良の道を選ぶことの連続だった。秋月家の養女となった時からずっとそうしてきた。秋月家に逆らわず、それでも自分自身を見失わないよう生きてきた。
今選ぶとしたら
「分ったわ」妙子は呟いていた。積極的賛成とは言いかねるが、という思いを言外に含んだ言い方だった。
「君の協力に感謝するよ。出来るだけ早く帰れるよう事を急ぐと約束しよう」そう言われて妙子は隣の彰正に視線を移した。彰正の真剣な瞳は本当に申し訳ないと思っている様だ。彰正の瞳は人を魅了する力があるようだ。これが社会のトップに立つ人のオーラなのだろうか。妙子はその瞳を真っすぐ見つめた。目が離せない。
「僕からも聞きたい事がある」彰正の言葉に妙子は我に返った。
「君が秋月家の養女になった理由は何だい」
彰正のこの問いに妙子の心は一気に冷めた。今まで何度となく噂に上り好奇の目にさらされてきた件。
「あなたも、私が父の隠し子ではないかと思っているの」妙子の声は冷たかった。
「その噂は知っている。正直に言って、あの一豊氏がただの親切心だけで君を養女にしたとは思えなくてね」この問いは彰正にとって一種の賭けだ。妙子が自分を拒絶するかそれとも信用して話をしてくれるか。彼女の答えの中に彰正が知りたいと思っていることがあるかもしれない。彰正は妙子の答えを待った。妙子は彰正の隣に座っている事に耐えられなくなり、立ち上がると犬を迎えに行った。名前を呼ばれた犬は妙子の手の中に戻ってきた。犬の頭を撫でながら妙子は考を巡らしていた。相手は信用できる人なのか、何を知りたがっているのか、その裏に何か別の事が潜んでいるのではないか。妙子は半ば無理矢理ここへ連れてこられた。だが妙子は今のところ不快に感じていない。妙子の本能は、彰正は信じられる人、今後助けてくれる人だと言っていた。
「結論から言えば私と秋月家に血縁関係は無いわ」妙子は硬い表情で彰正を真正面から見据えながら言った。彰正は頷くと先を促すような優しい顔をしている
「私もその噂は知っていたし、自分自身疑ったわ。確かに父はただの親切心だけで私を育ててくれたわけではないでしょうから。一番簡単な方法だけど血液型を調べたの。養父はAB型。私の父はO型、母はA型、そして私はO型」
妙子はここまで言うと、一呼吸置いた。彰正も理解したようで無言で頷いた。妙子は彰正の顔から安堵を感じ、また彼の隣に腰掛けた。
「戸籍謄本も取り寄せたわ。遡って調べようと思って両親の分も、そして父方の叔父を訪ねたの」
「それはいつの事だい」彰正も驚いたようで口を挟んだ
「中学へ進む前の春休みに、叔父は埼玉に住んでいたわ。会ったのはその一度きりだから今も住んでいるか知らないけれど。両親の出会いや父が秋月家の運転手になる経緯など叔父が知る限りの事を教えてくれた。両親は高校からの付き合いでいわゆる出来ちゃった結婚だったそうよ。実は両親は離婚なの、母は今も生きているはずよ、居場所は叔父も知らないと言っていたわ。私も探してはいない。とにかく父はまだ5歳の私を抱えて困り果てていた。それで秋月家の運転手になったの。住み込みで賄い付き、こんな好条件はないわ」
妙子が知っている事は以上だ。考えてみると知っている事全てを他人に話したのは初めてだった。
「こんな風に話したのは初めて。周りは噂をするだけで事実を知ろうとする人はいなかったわ。家族でさえ」妙子はポツリと呟いた。
「私は9歳の時養女として秋月家に迎えられた。なぜ私を養女にしたのか、使用人の娘の私をなぜ、その答えは私自身知らない。父に尋ねようと思ったこともあったけど、聞いた後自分がどうなるのか考えると行動に移せなかった。ただ確かに親切心だけで無い事は確かでしょうね。父には何か考えがあったと思う。結局、確認する前に父は亡くなってしまったけれど」
妙子は遠い目をしていた。自分の両親、養父を思い出すような、でもそれは楽しい思い出ばかりではなかった。
しばらくそのまま海を眺めた後、屋敷へ帰り始めた。
「君は周りをよく見ているね、まだ若いのに。それに冷静に分析して対処している」おもむろに彰正が言った。
「それは褒め言葉かしら」妙子は、はにかみながら言った。並んで彰正と砂浜を歩きながら、でも二人の心の間にまだ距離がある事を感じていた。妙子は立ち止まると、もう一つ確認しなければならない質問を彰正の背中に向け投げかけた。
「もう一つ聞いていいかしら。先の質問はただの好奇心、それとも調査」
彰正は一瞬振り向いたが、すぐにそのまま先を歩き始めた。その背中は「調査だ」と言っていると妙子は思った。妙子はそのまま立ちつくしていた。彰正が離れていく、その距離だけ心も離れていくのを感じていた。
6、
散歩から戻り昼食を取ると、彰正は仕事があると言って出かけて行った。次はいつ来るのか伝えないままの慌ただしい出発だった。彰正は逃げ出したのだ。妙子の洞察力に驚き、恐れたのだ。確かに彰正はある事を調べている。両親の20年前の事故。あの事故は秋月が仕組んだものだと思っている。加藤、秋月両家がなぜそこまで敵対するようになったのか。何がきっかけだったのか。
20年前、父の運転する車が事故を起こした。助手席にいた母は亡くなり、父は重傷を負った。当時、入院中で身動きの取れない父に代わり母の葬儀を取り仕切ったのは秋月だった。親族席で一人涙をこらえていた彰正は見た、一豊氏が弔辞を読みあげながら一瞬嫌らしく笑ったのだ。それは大仕事を終え満足だと言うような笑みだった。その後、両家の敵対関係が表面化し激化してゆく中で、彰正は「母の死は本当に事故だったのか」と考えるようになった。今回の合併を期に秋月家に残る資料をすべて調べよう。どこかに答えがあるはず、謎が隠されているはずだ。
そして同時に、以前から興味を持っていた妙子に近づく。妙子との事は気軽に考えていたが、彼女はそんな対象ではなかった。彰正は妙子に対する自分の不躾な行動を恥じた。そして、彼女の前から逃げ出したのだ。
7、
彰正は1週間たっても帰ってこなかった。妙子は下田の屋敷に一人取り残された。妙子は先日の最後の質問は失敗だったのだと悟った。だから、毎日掛かってくる彰正からの電話では、その事には触れずにいた。今日何をしたか、楽しかった事、困った出来事などを話した。彰正も仕事の事、進捗状況などを話した。だが、彰正は「次いつ来るのか」それだけは言わない。妙子もあえて「来てほしい」とは言わない。お互いに当たりさわりのない世間話をするだけだった。
暇を持て余した妙子は石黒さんの温室の手伝いをした。そして加藤家について少しずつ聞き出すことに成功した。今日は、20年前の交通事故では彰正の母が亡くなり、父が長期の療養を強いられた。その療養に屋敷が使われたという話を聞いていた。
「社長不在によるダメージは大きくて、会社は徐々に業績不振に、当時は色々大変でしたよ。大旦那様はベッドから電話で部下に指示を出していたけど。指示と言うより怒鳴っていたという感じだったわね」石黒さんが蘭の株分けをしながら懐かしそうに話した。
「20年前だとアキさんはまだ中学生かしら」妙子が彰正の事を「アキ」と呼ぶことに石黒さんは驚いていた。妙子はその反応を楽しんだ。
「ええ、旦那様もあの頃は辛かったでしょうね。まだ子供でしたから、何も出来ない自分を歯痒く思っていたでしょう」
つまり、その頃の思いをバネに仕事に没頭し、今のような大会社に押し上げた。という事の様だ。
「あの事故以来お二人ともすっかり変わられて、昔は仲の良いご家族だったのですよ。あら嫌だ、内緒ですよ」
石黒さんは言い過ぎたと思ったのか口をつぐんでしまった。妙子は安心して黙っているわと言うように笑顔で答えた。
妙子は残りの時間を図書室で読書と勉強をしてすごした。休んでいようと学業をおろそかにはできない。妙子はこの屋敷の蔵書を気に入った。「孤独な少女は空想の世界に逃げ込む」妙子は秋月家の冷たい雰囲気から逃れるために本の世界へ逃げ込んだ。昔、秋月家で読んだ本がある。懐かしく思い読み返してみる事にした。
山岡荘八の歴史小説。吉川英次もある。
彰正の口ぶりからして当分の間ここに居る事になる。妙子は一番長そうな吉川英次全集から「宮本武蔵」の巻を読むことにした。
何日も図書室に通っていて気付いたことがある。ここにある蔵書は秋月家のそれと類似している。趣向が似ているという事だろうか。だが両家は敵対していると聞いている。目の前の蔵書を眺めながら不思議に思っていると足元の棚に隠される様にある一冊の本が目に留まった「秋月家 回顧録」他の本に押されて背表紙が歪んでしまっているが、昔妙子が読んだあの本と同じだ。妙子はぎゅうぎゅうに奥の方に挟まっていたその本を取り出すと表紙をめくってみた。
献辞
「心の友、正成へ 君なくして今の成功は無かった ここに記した記録の半分は加藤家の功績だ 心より感謝を込めて 秋月一豊」
妙子は何度も読み返していた。その筆跡は明らかに養父のものだ。妙子の思考はグルグルまわったが何がどうなっているのか理解できそうもなかった。一体いつから両家は敵対するようになったのだろう。なにがきっかけで。本の末尾を確認すると出版は18年前だった。
彰正は東京の専務室で大量の書類に囲まれていた。同じフロアには今回の合併のための対策チームが諸々の対応に当たっている。秋月不動産はA&Kに吸収される。そして秋月家の負債については彰正が個人的に対応している。目の前の書類の山は秋月家のものだ。一豊は亡くなる直前までA&Kに対し妨害工作を行っていたようだ。個人資産を持ち出してまで執拗に行っていた形跡がある。妄執としか言えない。この状態で後を継いだ義雄が家と会社を失った。これは然るべき流れだったと言える。
「一豊氏がまだ生きていたらと考えると恐ろしくなる。なぜここまで敵視されていたのか」彰正は目の前の秘書、大山弘幸に向かって言った。大山は彰正の大学時代からの親友で、今は彰正の個人秘書をしている。今回個人的に調べたいと思っている20年前の件も理解し、調査を担当している。
「5年前の駅前再開発に対する住民反対運動。反対派に資金提供をしていたのが秋月だったとはね。あの爺さんにとっては何の利益にもならないだろうが」大山は5年前まで遡った内容を報告したところだった。他にも資材調達、土地取得に対する妨害等が報告された。
「どれだけの資料が残っているか分らないが、とにかく順に遡って調べている。20年前まで遡った時、お前が知りたいと思っている答えが分かると良いが」大山は頭を掻きながら「20年か、ずいぶん昔の事だな」大山はポツリと言った。
「俺にとってはつい昨日の事の様だよ」彰正は冷たい声で答えた。彰正の顔は声と同様冷たいものだった。
8、
妙子が下田の屋敷に来て14日目、彰正が帰ってきた。昼の電話で夕方帰るので夕食を一緒に食べよう。と言われ妙子は喜んだ。妙子はここ数日彰正からの毎日の電話を心待ちにしていた。そして「帰る」という言葉がいつ聞けるのかとやきもきしていた。
「石黒さんに伝えておくわ。気をつけて帰ってきてね」その言い方はまるで、恋人のよう。電話を切ってから自分の今の気持ちの変化に驚いていた。
久しぶりの楽しい夕食だった。会話もはずみ楽しかった。
「明日から2日間休みを取った。どこか行きたいところはあるかい。デートしよう」彰正に言われ、妙子は夢見る乙女の様にポーとしてしまった。
「妙子?」妙子は名前を呼ばれ、我に帰った。彰正は笑顔でその反応を見ている。
「アキさんの行きたいところに行きましょう。私この辺の地理は分らないから。というかここが何処だが分っていないし」妙子はおどけた様に言った。実際下田としか聞いていない。
食後、リビングで話をしながら行先を決めていった。
野外と屋内どっちがいいか。美術館、映画館、ショッピングどれがいいか。などなど話し合い、最終的には彰正のお勧めの場所へ行くことになった。
「で、どこへ行くかは明日まで内緒なのね」妙子は聞いた。
「君の好きだろう場所へ連れて行くよ。期待していてくれ」
その夜、妙子はなかなか寝付けなかった。考えてみると男性と二人で出かけるのは初めてだ。しかも相手は婚約者(ふり)だ。どこへ連れて行ってくれるのだろう。何を着て行こう。ケンちゃんは留守番だわ、石黒さんにお願いしておかないと、など色々考えているうちに眠りに落ちた。
行先は「下田博物館」だった。黒船来航後最初に開港した港、下田。
「妙子は歴史が好きだろう。丁度いいと思って。実は僕も初めて来た。解説は頼むよ」と彰正は聞き役に回ろうと構えている。
「私の専攻は考古よ。私に言わせれば幕末、明治なんかつい昨日の事よ」妙子は反抗するような言い方をしたが、実は自分の好みのど真ん中を選んでくれたことに飛び上がるほど嬉しかった。彰正に言われるまでもなく解説を始めていた。気付くと展示品の前まで彰正の手を引っ張っていた。傍目には手を繋いだ可愛らしいカップルに写ったことだろう。
9、
翌日は須崎遊歩道へ出かけた。しかも犬連れで。
「綺麗に整備された遊歩道ね。家族でよく来るの」妙子は何げなく聞いていた。
「昔はね」彰正は素っ気なく返事をした。
「お母様を事故で亡くしたそうね。私の父も事故だったの」妙子は慰めるように言った。家族を事故で亡くした。2人に共通する哀しみだ。彰正も同じことを感じたような顔をしている。
「中学までは毎年夏休みにここへ来ていた。母が作った弁当を食べたよ。20年ぶりかな」
「じゃ、今日は私とケンちゃんと一緒に食べましょう。石黒さんと二人でサンドイッチを作ったの」妙子は背中のリュックを叩きながら言った。
「いつの間に石黒さんと仲良くなったのだ。あの人は取っ付きにくいだろう」
「そうでもないわ、石黒さんは雇用主との間にきっちり線引きしているだけ。私はアキさんとは立場が違うから、それにかれこれ2週間一緒に居れば女同士話も弾むようになるわ」
2人は楽しそうに歩いた。今日は彰正が解説をする番だった。
細間の段では、用意したお昼を食べ一休み。解説板を読み景色を楽しんだ。そして石切り場跡から灯台を見た。ゴールに近づく頃彰正は誰かに携帯で連絡を取っている
「お仕事ですか」妙子は聞いてみた。休暇はこれで終わりだろうか。残念な気持ちが声に出ていた。
「いや、迎えを呼んだ」彰正はこともなげに言う
「え、乗ってきた車はどうするの」
「その車で秘書が迎えに来ている。帰ったらシャワーでも浴びて休むと良い。僕は少しやらなければならないことがあるけどね」
彰正のその声音はデートの終わりを意味しているようだった。今回の外出は言いつけを守った妙子へのご褒美だったのだろう。そう思うと妙子は寂しくもあった。
ゴール地点、確かに乗ってきたはずの車が停まっている。脇に立つ男性が彰正に向かって手を振っていた。
「秘書の大山だ」妙子は大山秘書に紹介された。妙子は彼が何処まで詳細を知っているのか考えると無難な挨拶しかできなかった。その堅苦しい様子に男二人が一斉に笑い出した。
「こいつは大学からの付き合いでね。全部知っているよ。緊張する必要はないから」と彰正が言うと
「そうそう、こいつの悪行はすべて知っているから。聞きたくなったら何でも聞いて下さい」と大山秘書もやり返していた。この二人は主従関係以前に親友なのだなと妙子は理解した。
その後は大山さんの運転で一路屋敷まで戻った。妙子は疲れていたので湯につかりリラックスした。入浴後、ほんのちょっとと思ってベッドに横になると、そのまま夢の中に吸い込まれてしまった。目を覚ました時、すでに時計は6時を回っている。
1階に降りて行くと書斎からかすかに話し声が聞こえてきた。2人は話中の様だ。妙子は石黒さんの元へ向かった。石黒さんはコーヒーを入れているところだった。
「夕食は大山さんもいれて3人になりましたよ」と声を掛けられた
「このコーヒーは書斎の2人のですか。私持って行きますよ」石黒さんがお願いという様子で頷いたので。妙子はコーヒーがセットされたトレイを持って書斎へ向かった。実は何が話し合われているのか興味があった。上手く仲間に入れてもらえないかという思いもあった。ドアノックして入ると部屋の空気は冷たかった。いや、気温は30度近いのに雰囲気は冷凍庫なみの冷たさだという事。妙子は余りの間の悪さに引きつった
「コーヒーを、石黒さんのお手伝いで、持ってきました」と言いながら部屋の中へ進んだ。彰正はデスクに腰掛けながら手に持った書類を睨んでいる。ソファーには大山秘書が座っていた。まず大山秘書の手元にそして彰正の腰掛けているデスクへコーヒーを運んだ。どう考えても楽しい会話に加わるという感じではない。妙子は頭を下げると部屋を出ることにした。
「妙子、ちょっと聞きたい事がある」彰正の表情は妙子が今まで見たことが無いほど険しく恐れるほどだった。だが一番の驚きは質問された内容だ。
「秋月和江はどういう女性だ。父親との仲はどうだった」
「和江姉さん」妙子は疑問をそのまま口に出していた。「和江姉さんの何を知りたいの」
彰正はまだ険しい顔をしている。それを補い取り繕ったのは大山秘書だった
「仕事の事で、ちょっと問題が発生してね。お姉さんの件が持ち上がった。君が知っている事ならなんでも構わないから教えてくれるかな」大山秘書は穏やかに言ったがこれは事実ではない。妙子は直感した。彰正の顔をまじまじと見た。その瞳は何か悲しみ含んでいるようだ。
「分ったわ、何が聞きたいの」妙子は彰正の瞳の悲しみを取れるかもしれない方に賭けた。
「家族関係を詳しく」大山秘書が言った。
「私が秋月家に入ったのは9歳だったからそれ以降の事しか知らないけれど、家族はその時点でバラバラだったわ。表面上は取り繕っていたけれど。和江姉さんは一番の被害者じゃないかしら。父の癇癪を一番に受けていた」
当時を思い出して妙子は眉根を寄せた。よく叱られて泣いている和江を見た。
「アキさん、言っていたわね。父が親切心だけで私を養女にしたとは思えないと。私、あの家での自分の立ち位置を考えたことがあるの」
妙子はここで一瞬ためらった。この話の続きは自分が想像しているだけの事、不確かなものでしかない。だが目の前の二人は話の続きを必要としている様子だ
「父が私を可愛がると、実子である姉さんはそれを恨めしそうに眺めるの。そんな姉の顔を見て父は満足そうな顔をする。まるで罰をあたえているようだった。姉は私より優秀だった。学校でも習い事でも私よりはるかに上手だった。でも父は見向きもしなかったわ」
妙子は当時の様子を思い浮かべながら言った。実際あの家には嫉妬と嫌悪が多くあった。それは温かい家庭、我が家と呼べるものではない。
「つまり、一豊氏はお姉さんより君を可愛がったという事かい」大山秘書が不思議そうに聞いている。
「いいえあれは見せつけようとしていただけ。私を本当の意味で可愛と思っていたわけではない。多分周りに対して演じていただけ。実際誰も見ていないところでは私に見向きもしなかったから」妙子は事実のみを淡々と答えようとした。今は自分の感情を吐露するべきではない。
「和江さんは21歳で結婚しているね。すぐ離婚しているがそれについて家では何かあったかい」大山秘書が聞いた。
「あれは父への反発と家を出るための結婚だったと思う。」
妙子の話を聞きながら目の前の二人が「納得した」というような顔をしている。
「いったい何を調べているの。なぜ姉さんの事を」妙子の問いに二人はどうしようかという顔をしている。以前海岸での会話で妙子は彰正を信じられる人と直感した。だが彰正の方からはまだ信頼を得ていない様だ。
「教えてくれる気になったら声をかけて。あと夕食は7時だそうよ」
それだけ言いおくと妙子は部屋を後にした。
夕食のテーブルには3人がついた。だが会話は弾まず大山秘書は帰っていった。妙子も早々に自室に引き上げた。なにか喉に痞えているようで、気持ちが塞いだ。
「とっとと寝よう」と犬に声を掛けベッドへ潜ろうとしていると、小さいノックの後彰正が部屋に入ってきた。険しい表情をしている。
「明日は東京へ帰る。君も一緒だ。2、3泊分の荷物を用意しておいてくれ」そう言いながらベッド脇に腰掛けた。妙子は東京行きとパジャマ姿を見られたことにドキドキしていたが、彰正は何も目に入っていないのかお構いなしに話を進めている。
「あとこの書類を読んでおいてほしい。余り気持ちのいいものではないが、今日までに上がってきた報告書だ。僕が調べている事について分かると思う」
彰正は大きな封筒をベッドへ置くとそのまま部屋を出て行った。
妙子はすぐに封筒の中身を確かめた。父が亡くなる直前まで行っていたA&Kホールディングスに対する妨害工作について。公共工事への入札妨害、風説の流布、それらに係る資金の流れ。まだ学生の妙子は詳細まで理解できるわけではなかったが、父がどれだけ嫌がらせをしていたのかは分かる。
「お父様、何てことを」妙子は呟いた。
そして最後の書類はDNA鑑定書のコピーだった。
「秋月一豊 は、子、秋月和江 の生物学上の父である可能性から排除される。
父は、子に観察された生物学上の父由来と考えられる遺伝マーカー(DNA型)が欠乏している。 鑑定結果は
D1S1656,D2S441,D10S1248,D13S317,Penta E,D2S1338,TH01,vWA,D7S820,D5S818,TPOX,D12S391,FGA,以上の
DNAローカスによって得られたものである。父権肯定確率は 、0%である。」
最後の書類については妙子の理解を遥かに超えていた。妙子は眠れぬ夜を過ごすことになった。
10、
一睡もできなかった。海から昇る日の出を陰鬱な気持ちで眺めた。この屋敷に初めて来たとき運転手の人が「素晴らしい」と表現していた日の出。まさかこんな気持ちで見ることになるなんて、妙子は皮肉に思った。いつものように階下のテラスへ向かうと彰正も同じだったのだろう。すでにそこにいた。
「ひどい顔だな」彰正の第一声だ
「お互いにね」妙子も答えた。実際二人ともひどい顔をしている。
2人とも石黒さんの用意した朝食に手を付ける事は無かった。石黒さんも二人の様子に気付いたようでどうしたものかと、いつも以上に無表情を装っている。
「犬は置いて行ってくれ」出かけに彰正に言われ、妙子は一瞬ためらったが石黒さんが優しく声を掛けてくれた。
「私がお預かりしましょう。ケンちゃんとは最近すっかり仲良しになりましたから」石黒さんの腕に抱かれた犬が小さく唸ったがすぐにおとなしくなった。妙子も今は反論する気力がない。2人は東京へ向け早々に出発した。
東京までの道のり、2人とも無言だった。
都内に車が入ると、これ以上の沈黙に耐えられなくなった妙子が口を開いた
「どこへ行くの」必要最小限の事のみ聞いた
「事実を確かめに行く。俺の実家だ」彰正のこの言葉には多くの意味が含まれていた。事実とは、昨日のあの書類の事実。一豊の妨害工作を、和江が父の子ではなかったという事を、その事実を知る人がいる場所へ行くという事。
「父は業界でも凄腕と言われ、今の規模まで会社を大きくした人間だ。だが女性関係は尊敬できない。今も看護士という名の愛人と暮らしている」彰正は冷たい声で言った。前を見据えたままでその表情を窺うことは出来ないが、ハンドルに置かれている手が必要以上に強く握られている。
妙子は考えていた。もし、和江の実の父親が加藤正成だとしたら、すべての辻褄があう。それに気づいた父が加藤家に対して嫌がらせをする。和江を可愛がることができず辛く当たる。母は知っていて何もしなかったのだろうか。耐えていただけ。きっと父は意地でも離婚をしなかったはずだ。なぜなら母の事を愛していたから。そう父は母をとても愛していた。父が母を見つめる目には愛があった。だから余計に母の裏切りを許せなかった。父は愛と裏切りの間で狂っていったのかもしれない。
「着いたよ」彰正の声に妙子の思考は中断した。
車は郊外の住宅地の一角にある和風建築の家に着いた。秋月家に似ているがこちらの方が新しそうだ。玄関を入ると奥から50過ぎだろうか身なりのよい女性が出てきた。
「彰正さん、いらっしゃい。お父様がお待ちですよ」女性が朗らかな優しい声を掛けてきた。彰正はそれを無視すると、ズカズカと勝手知った我が家というように奥へと進んでいく。妙子は彰正に置いて行かれまいと急いだ。急ごうとして出迎えてくれた女性にろくな挨拶もできなかった。彰正は廊下を左に曲がり縁側を歩いている、そしてその先の和室へ挨拶もせず入っていった。ふかふかの絨毯の上にソファーがあり、奥に加藤正成が座って待っていた。
彰正は挨拶もせず向かい側に腰掛けた。妙子は一瞬躊躇した。
「紹介くらいして下さい」という視線を彰正に向けたが本人は父親を睨んでいる。すでに戦闘モードに入っているらしい。
「失礼します」妙子は小さな声で言うと、彰正の隣に腰掛けた。
妙子のその声が、戦闘開始の合図となってしまった。
「どうだ、秋月はもう片付いたか」正成の言い方は尊大さを演出しようとしている様だ。杖を使っていると聞いている。体力的に弱い分、尊大な言い方で強さを表現しようとしている様だ。
「今日伺ったのは、別件です。今まで秋月から数々の妨害を受けてきましたが、あなたはなんら対策を講じていない。どうしてですか」
2人の睨み合いは周りの空気をピリピリさせている。間の悪い事に先ほど出迎えてくれた女性がお茶を持って入ってきた。
「あんなもの、負け犬の遠吠えみたいなもの、気にするほどのこともない」
養父とはいえ父の事を「負け犬」呼ばわりされたことに妙子はイラとした。
「俺が聞きたいのは対策をしなかったのには訳があったからではないかという事です」
彰正は冷静になろうとしているのか、淡々とした声音で話そうとしている。しかし自分を「俺」と言い、語尾が上がっているところからして、怒りを抑えようと努力しているのが分る。彰正の膝の上に置かれた拳が強く握られている。
お茶を配り終えた女性がそのまま正成の隣に腰掛けた。これが彰正の抑えを効かなくさせた。
「あなたは席を外してくれ」それは嫌悪する相手に対する言い方だった。女性はそそくさと立ち上がると出て行った。
「ここは私の家だ、お前に文句は言わせない」正成の言葉に対し彰正は用意してきた書類を突き付けた
「これだけの妨害行為になんら対策を講じなかったことは当社に対する背任に等しい。理由はこれですか」最後に差し出した書類は例のDNA鑑定書だった。正成はざっと目を通した。一瞬その目は驚きの色を見せた。
「だったとしても昔の事だ」この言葉だけですべてが理解できた。彰正は怒りに思わず立ち上がっていた。
「母さんの事故は秋月が仕組んだものだ。死ぬのはあなただった。母さんは身代わりにされたのだ」彰正の言葉に妙子は驚いていた。目の前の正成も驚いている。
だが、次の瞬間、正成の発した言葉に妙子は嫌悪を感じた。
「生き残ったのは私だ。一豊も死んだ。秋月も潰れた。生き残ったのは私だ」
妙子はたまらなくなって口を挟んだ。
「あなたは、あなたの事を「心の友」と呼んでいた父を裏切ったのですか。話し合いもせず逃げ続けたのですか」妙子は冷静な声で言った。
男性二人が驚いた顔で妙子を見ている。妙子は続けた。
「あなたが裏切り、逃げ続けている間に何人の人が苦しんだことか、恥を知りなさい」ここまで言われてさすがの正成も激高しだした。
「貴様誰に対して物を言っている」
「ええ、自分は偉いと勘違いしている恥知らずな人です」妙子は相変わらず冷静な物腰で言った。
「アキさん帰りましょう。必要な事は確認できたでしょうから」
妙子は立ち上がると彰正の顔を見つめた。
「ここに居てはいけない。帰りましょう」妙子は彰正の腕に手をかけながら優しく言った。彰正は最初妙子の顔を食い入るように見ていたが、妙子の肩に手を掛けると家を後にした。
11、
彰正は運転をできるような精神状態ではない。妙子は車のカギをひったくると
「タクシーで帰りましょう」と言い、さっさとタクシーを捕まえて彰正を引っ張り入れた。
タクシーは一路彰正の東京の自宅へ向かった。ここまで来て彰正が何を調べていたのか、妙子にも理解できた。彰正は母親の死の理由を知りたかったのだ。秋月家が事故に関わっていると考え、だから妙子に色々尋ねそして今日きっかけとなる事実に行き当たった。しかも自分の実家で。
彰正の自宅は都内のマンションだった。妙子は放心状態の彰正の腕をとり部屋へ向かいドアを開けた。正面のソファーへ座らせると
「やはりここはお酒だろう。しかも強めの」と思いキッチンを漁りウイスキーとグラスを彰正の前に置いた。彰正は多分いつもそうしているのだろう、グラスに酒を注いで飲み始めた。
「氷は」彰正がやっと重い口を開いた。妙子は冷蔵庫まで飛んで行って氷を用意した。妙子が戻ってくるまでに、すでにグラスが空になっていた。
「アキさん、お酒はウイスキーをロックなのね」難しい話は脇へ、別の話をした。
「妙子も飲むか」彰正が聞いてきた。
「私、お酒はダメ。弱くてすぐ真赤になってしまうの」
妙子は彰正の隣に座わった。彰正は無言のままグラスを口へ運んでいる。
どのくらいそうしていただろう。彰正が急に笑い出した。それは楽しそうな笑いだったので妙子は安心すると同時に驚いた顔をした
「いや、親父の顔を思い出して。恥知らずと言われて」と笑っている
「あれはだんだん腹が立ってきて、父はあなたのお父様に送った本に「心の友」と書いているの。父は気性の激しい人だったわ、色々問題のある人だけど情の深いところもあって、母の事をとても愛していた。同じようにあなたのお父様の事も心の友と呼んでいた。昔の事だけど」
「気性の激しい、か」彰正は小さく笑うとグラスの底に残った酒を煽った。
朝から食事らしい食事をしていない。妙子は空き腹で飲み続ける彰正が心配になってきた。
「なにかおつまみを用意するわ」妙子は立ち上がろうとしたが後ろから腕を引っ張られ、バランスをくずしそのまま彰正の腕の中に倒れ込んだ。彰正は妙子の顔を両手で挟むと
「君は素敵な目をしている。奥深くて透明感があって、この目に見詰められると、俺はこの目に惹かれた」と言いながらキスをした。妙子は只々驚いていた。驚きながら自分の思いを返そうと彰正の首に手を回して抱きついていた。いつ頃からだろう、妙子はこんな日が来る事を期待していた。
12、
翌朝早く、妙子は彰正に揺り起こされた。彰正は既にスーツ姿だ。妙子は一瞬ここが何処なのか考えて一気に目覚めた。彰正のベッドで妙子はまだ裸だった。
「俺は仕事に行くが、君はゆっくり休んでいてくれ。荷物は後で運ばせる」彰正はいつもと変わらない様子だが妙子は真赤になっていた。妙子は初めての事にどう答えていいかわからず、ただ頷いた。
「君は初めてだったね。今日は無理をせず休んでいてくれ」彰正の言葉に妙子は毛布を引っ張り上げて中に隠れた。彰正は毛布の上から優しく撫でながら
「行ってくるよ」と言った。妙子も
「行ってらっしゃい」と毛布の中から小声で答えた。
そう、昨日あのまま彰正とベッドを供にしたのだ。いちいち思い出して、妙子は狼狽しオロオロしていた。
「お風呂入ってさっぱりしよう」大きな声で自分を一括すると立ち上がったが、今いるマンションの部屋の間取りも分らない。服も加藤家に置いてきた車の中に入れっぱなしだ。近くにあったチェストから彰正のシャツを拝借すると風呂を探しシャワーを浴びた。キッチンでコーヒーを入れて一息ついた後、彰正の部屋を改めてしげしげと眺めた。
生活感のないガランとした部屋だ。男の一人暮らしなら汚れているかと思ったが塵一つ落ちていない。まるでモデルルームにいるような感覚だ。ただキッチンだけは生活感があった。飲み終わったマグカップがシンクにある。朝彰正が使ったのだろう。冷蔵庫の中をチェックし彰正の分まで料理をしておこう。妙子は目の前の材料で自分が作れるレシピを考えた。
夕方、秘書の大山さんが訪ねて来た。犬を連れて。
「ケンちゃん」妙子は喜んだ。荷物を運ばせると言っていたが、犬まで連れて来てくれるとは。妙子は昨日からの緊張感から解放された思いだった。
大山秘書は昨日何があったかわかった様子でニコニコしている。妙子は彰正に借りたシャツにスエット姿だ。どちらも大きすぎて裾や袖口を折り返している。何があったのか一目瞭然だ。妙子は恥ずかしかった。だが大山が考えていたのはその事ではなかった
「ここ数日のあいつの様子から考えると君がいてくれてよかったよ。君はいい支えになってくれているようだね」と言った。大山は純粋に彰正の事を心配している様子だ。
「あと、あいつから頼まれて用意したものです」と言って渡された。妙子名義のクレジットカードに携帯電話、家の鍵
「カードは裏にご自分でサインしておいてください。携帯は既に充電済みです。私と加藤の情報はすでに登録済みです。いつでもご連絡ください」
余りの至れる尽くせりで妙子は恐縮した。
「ここまでしていただかなくても」妙子はたまらなくなり言った
「これに関しては、立場上指示に従いご用意したまでです。後はお二人でお話しください」大山秘書はそう言いおくと帰って行った。その顔は満足そうだった。
妙子は持ってきてもらった荷物から自分の服に着替え、彰正を待つことにした。彰正は夜遅くに帰って来たので妙子の作った食事は必要なかった。だが彰正は妙子自身を必要としていた。
妙子はそれから毎夜、寝物語を語った。自分の幼かったころの思い出話、学校の話、将来の夢、色々だ。だが決して秋月・加藤両家の話はしなかった。彰正は穏やかな顔で妙子の話に耳を傾けた。
この日は考古学の事を話していた
「アキさんは穴掘りと言っていたけど、発見されたものが何にどう使われていたか考えるのが考古学よ。頭を柔らかくして想像するの」彰正の肩に持たれながら妙子は言った。
「想像する」彰正はいつものように先を促す。彰正は聞き役だ。
「この欠片はなんだろう。器、それとも髪飾り。どんなふうに使っていたのか、誰が使っていたのか。ピースがほとんど抜けたパズルを目の前にその絵を想像するようなものね」
「将来は研究者を目指しているのかい」
「分らないわ。この分野は枠があまりないの」妙子は好きな事を話した事もあり嬉しそうな声をしている。その瞳の輝きと声が彰正を癒した。
次の日は最近読んだ本の話をした。その次の日は小学生の頃の夏休みのキャンプでの出来事。彰正は妙子の事をほとんど知ることができた。
1週間も経ってくると彰正も自分の事を話す様になった。
「アキさん誕生日はいつ」妙子は聞いた。
「5月27日だよ」妙子は基本的な事項を知らなかった。
「今、何歳」彰正も聞かれて驚いた。妙子は自分の事をほとんど知らない。
「35だ」彰正の答えに妙子は驚いた。
「え、私より一回り以上、上だったの。やだ、そんなに」
「ヤダとはどういう意味だ」彰正は妙子の目を食い入るように見た
「そんなに年上だと思わなくて、でも見た目若いわ35には見えないから安心して」
「言われなくても俺は若いし、安心している」
2人は幸せだった。彰正は分っていた。妙子が自分を癒してくれていることを、幸せにしようとしていることを。そしてもう妙子を手放せなくなっていることを。
彰正は母の事を少しずつ話し始めるようになった。最初は子供の頃の楽しい思い出だった。それが20年前の母の死を境に変わった。
「車の事故だった。父が運転していて、カーブを曲がり損ねた。父は車外に投げ出されて助かったが母はそのまま崖下へ、車は爆発した」
彰正の妙子を抱きしめる手に力が入る。妙子も腕に力を入れた。
「秋月が葬儀を仕切ってくれたが、弔辞を読みながらあいつは笑った」
「それが父だったのね」妙子は父と呼んだが、その声に父への思い入れはない。
「ああ、あの時から絶対何かあると思っていた。理由は君も知っての通りだ」
「これからどうするの」妙子は聞いた。いつかは聞かなければならないと思っていた。事実を突き止めてそれからどうするのか。
「父の言葉じゃないが、一豊はもう死んでいる」彰正は怒りをぶつける先をすでに失っていた。でも彰正の目的は復讐ではない。ただ事実が知りたかっただけだ。
夜明け前、妙子は彰正に起こされた。激しく求めあった後彰正が静かに言った
「妙子。このまま一緒に暮さないか。ずっと傍にいて欲しい」
13、
二人の生活は穏やかなものだった。妙子は学校へ戻った。出席日数については大量のレポート提出と引き換えに考慮してくれることとなった。彰正は秋月不動産の吸収合併をうまくまとめ、このまま行けば来年4月に社長である父親が引退、名誉職へ退き晴れてA&Kホールディングスのトップとなる予定だ。妙子は幸せをかみしめていた。幸せ過ぎて怖いくらいだ。
その日、彰正は出張で帰らないというので友人宅へお邪魔することとした。友人の高津恵美。妙子は養女となるとき有名私立小学校へ転校する事になった。なかなか慣れない妙子の初めての友人が恵美だった。それ以来二人は仲良しで、大学は別だがこうして家を行き来する仲だった。
「妙子が婚約とかびっくりだよ。なかなか連絡つかないし」と最初は嫌味を言われたが、言葉とは裏腹に喜んでくれていることがわかる。
「自分が一番びっくりしているよ。なんかいつの間にかこうなっていて」二人は近況を報告し合った。その二人の話に恵美の母親が加わって恋バナに花が咲いた。この親子は妙子の憧れだった。実の母の記憶は無く秋月の冷たい雰囲気だけしか知らない妙子にとって高津家は家庭の見本のような家だった。
「でもこれで妙子ちゃんに麗佳さんの話をしても大丈夫ね」という高津夫人の言葉に妙子は何を言われたのか分らなかった。
「麗佳さんとは」妙子のこの問いに高津夫人が説明を始めた
「加藤さんの亡くなられたお母様よ。もう20年にもなるのね。酷い事故だったわ。私は一応加藤家の親戚なのよ」高津夫人の兄の妻、つまり義姉は加藤家の・・・・という事で遠い親戚の様だ。
「アルバム見る。麗佳さんのもあるわよ」と言われ妙子は是非にとお願いした。
アルバムに写る彰正の母麗佳は美しい人だ。彰正は、目元は母親似、全体的には父親似の様だ。高津夫人の昔話を聞きながらアルバムをめくっていて妙子は手を止めた
「これは母ですか」妙子は聞いていた。秋月政子だ
「そうよ、政子さんと麗佳さんとはお友達よ。学年は違ったけど同じテニス部で一緒だったのよ。それもあって麗佳さんの葬儀で弔辞を読んだのよ。あの事故は政子さんもショックだったでしょうね。あの後ぐらいからかしら、すっかり両家は仲が悪くなって。あらごめんなさい」
高津夫人は言い過ぎたと思ったのかもしれない。取って付けた様に謝った。
だが、妙子は高津夫人の最後の言葉を聞いていなかった。なにか引っかかるものを感じた。何か辻褄の合わない部分が。
「麗佳さんの弔辞は父が読んだと聞きましたが」妙子は尋ねていた。
「いいえ、政子さんよ。だって麗佳さんの先輩で友人でもあったのだから。そうそうお父様は確か葬儀委員長をされたのよ。あの事故で加藤さんは入院していたから代わりにお父様が葬儀を仕切ったのよね」
妙子はできるだけ高津夫人から話を聞き出した。秋月政子、加藤麗佳そして両家の繋がり、
「麗佳さんが先に結婚されて、子育てもあって疎遠になってしまったのよね。でも夫同士が大の親友だったからそれなりに繋がりはあったと思うわ。詳しくは知らないけど」
妙子の度重なる質問を高津夫人は不思議に思い始めた。
「妙子、大丈夫。なんか顔、怖いよ」恵美にも言われる始末だ。妙子は話題を変えてその場をやり過ごした。だが、自宅へ戻ってからも頭の中のモヤモヤが消えないままだった。
今日、彰正はいない。この広い部屋に一人でいると言い知れぬ不安が襲ってくる。妙子は深く考える事をやめた。
14、
妙子は父を早くに亡くした。実母の顔は覚えてもいない。秋月家の養女となるという事は妙子を全てにおいて救う事を意味していた。しかしいくつもの疑問があった。なぜ秋月家の養女になったのか、秋月家を覆う冷たい雰囲気は何故なのかなど多くの疑問があった。だが妙子はその疑問の答えをあえて確かめる事はしなかった。もし追及して秋月家を追い出されたらどうなるのか。それを考えると怖くて、疑問は心の奥に押し込め考える事を止めた。
今、また多くの疑問が沸いてきた。このまま疑問を追及するべきか。多分今までの妙子なら目をつぶり、やり過ごしていただろう。だが今回は彰正の抱えている問題だ。
妙子は紙を取り出し、今までに分かった事実のみを書き出した。
「ピースがほとんど抜けたパズルを目の前にその絵を想像する」妙子の得意分野だ
1997年 麗佳さん事故。2017年 現在。その間を埋めていった。
弔辞 秋月政子
葬儀委員長 秋月一豊
2003年 DNA鑑定
2015年 一豊死亡
妙子はここに自分の事を書き加えた。2002年 父、住込み運転手、2006年 妙子養女となる
妙子は意を決すると、養母へ連絡を取った。もう一人事実を知る人がいる。
15、
秋月の実家は静まり返っていた。歴史ある和風建築で文化財指定を受けている建物だ。加藤家も同じ和風建築だったが、重厚感などやはり違う。家政婦は既に暇を出されている様で、玄関で声を掛けたが返事は無く、妙子は勝手に上がることにした。そしてまず目的の部屋、書庫へ向かった。子供の頃秋月家の事を知りたくて「秋月家 回顧録」を読んだ。下田の屋敷でも見た同じ本だ。手に取り出版年を確認する。「2000年」とある。一豊が「心の友」とサインした本は麗佳の事故後に出版されている。これは大きな意味を含んでいる。
「妙子、来ていたの」突然声を掛けられて妙子は飛び上がった。
「お母様、お邪魔しています」
和室に場所を移し母と向かい合った。妙子は不安だった。これからどんな事実を聞く事になるのだろうか。でも今回ばかりは逃げられない、確かめないわけにはいかない。
「秋月家も終わりね。和江は友人と一緒に住むと言って出て行ったわ」おもむろに母が話し始めた。その目は虚ろだ。妙子は自分の近況を語りながら母の様子を窺った。母は何ら興味がない様子だ。今までも母が妙子に興味を抱く事は無かったが、加藤家の話の部分のみ反応が見られる。ここ秋月家で加藤家の話をするのは初めてだ。その話をするのが自分であることに妙子は妙な気分がした。
「伊豆にある別荘でしばらくお世話になったの、素敵なところだったわ。お母様の、麗佳さんの大切にされていた温室には今も蘭が咲き誇っていて、ご家族にとって大切な思い出なのでしょうね」
妙子のこの言葉に母は反応を見せていた。イライラしているようだ、体が小刻みに揺れている。母をよく観察していれば、何に興味があり、どう感情を表すのか分ったはずだ。今までは気付かなかったが、いや気付きながら見て見ぬふりをしていただけだ。妙子はそのまま話を続けた。彰正の母、麗佳の写真を見て美しい人だと思ったこと、母親想いの彰正の事なども話した。母は明らかに気分を害しているようだ。そして妙子は頃合いを見て本題に入ることとした。
「加藤麗佳さんの事故は、お母様が仕組んだ事なのね」妙子は震える声で聞いた。
「あら、今更なにを言っているの」政子は感情の無い声で答えた。
「最初から麗佳さんを狙ったの」質問する妙子の声が震えて裏返る。
「正成さんのためよ、あの人は邪魔だったから。だからあなたのお父さんにお願いしたのよ」
この答えは妙子を凍り付かせた。
「お父さん」
「そうよ、うまく細工しておくからって。でも後になってもっとお金が欲しいというから困ったわ。だから一豊さんに頼んだの」妙子は吐き気がしてきた。
「急に来て「金に困っている」と言うのよ。そんな事言われても困るでしょ。だから一豊さんに相談したら、「しょうがないから運転手として雇う事にする」って言って」政子はまるで他人事のように淡々と話している。
「ねえ、妙子。正成さんはいつ迎えに来てくれるのかしら。あなたからも言って下さらない。和江にも会わせたいわ」政子の目は虚ろだ、恍惚としている。いつから、もうずっと前から政子は狂っていたのだろうか。妙子は家を飛び出した。
妙子は以前よく行った公園へ向かった。つらい事があった時よくここで泣いた。でも帰る場所は秋月家だけ、当時はどんな辛い事があっても結局秋月家へと帰って行った。
妙子は人目も気にせず泣いた。妙子は事実を知ったのだ。そしてとうとう自分が秋月家にいる理由を知った。その理由は妙子を地獄へ突き落とすものだった。
携帯が鳴りとっさに出ると彰正だった
「妙子、どうした。何かあったのか」彰正の心配そうな声だ、妙子は上手く声が出せなかった。
「妙子」彰正の優しい声が今は辛い。
「ごめんなさい。今実家に来ていて。母と」と言い始めて電話で話すことではないと思い直した。
「今日は早く帰れそうだからどこか出かけないか」彰正の優しい声が妙子の耳に響く
妙子は彰正に返す言葉を考えていた。大好き、愛している。いつまでも一緒にいたい。どれも妙子にはもう言う資格のない言葉だ。妙子は涙があふれてきた
「妙子」彰正の心配そうな声だ
「ごめんなさい。電波の状態がよくないみたい。これから家に帰るから待っているわ」というと電話を切った。妙子はこれからどう行動するべきか考えていた。
重い体を引きずって自宅に帰った。いやこの彰正の家を妙子が自分の家と言って良いのか怪しい。ソファーに座るのも躊躇した。妙子は目の前のテーブルにボイスレコーダーを置いた。ここへ帰るまでに何度消去しようと思ったことか。再生ボタンを押してみると
「今更なにを言っているの」と政子の声が聞こえてきた。最新機器の性能の良さが恨めしい。消去しますかとの問いに「Yes」を選べばこのまま彰正と幸せに暮らせる。
いや、もうそれは幸せとは言えない。結局虚構の上に成り立った関係はいつか崩壊する。秋月家がそうだったように。
妙子は簡単に身の回りの荷物を積めるとテーブルにさっきのレコーダーと妙子が昨日書いたメモ、そして秋月家から持ってきた「秋月家 回顧録」を置いた。置き手紙でもと思ったがこれだけあれば全て理解してもらえる。今の自分に何が言えるというのだろう。父は人殺しで恐喝者。自分はその娘だ。そんな人間の言葉など誰が欲しがるというのだろう。
だが、妙子は一本だけ電話を掛ける事にした
「はい、大山です」秘書の大山さんがすぐに出た。
「妙子です。突然すみません。アキさんが今日は早く仕事が終わると聞いて、良かったらこちらにいらっしゃいませんか。一緒に食事でも、お話したい事もありますので」
今日は彰正の傍に誰かいてもらいたかった。彰正の支えになる人にいてもらいたい。
もう妙子が傍にいることは出来ないのだから。
必要な事をやり終えると妙子はマンションを後にした。どこへ行こう。妙子にはもう行く所がなかった。とうとう帰る家を失ったのだ。一人と一匹は東京の雑踏の中で佇むしかなかった。
16、
彰正のマンションを出た後、住む場所もなく手持ちの現金も少ない妙子は大学の友人を頼った。友人は何も聞かずただ茫然としている妙子を受け入れてくれた。だがそれも犬の鳴き声の苦情が出るまでだった。友人のアパートはペット禁止。これ以上迷惑はかけられない。それからは犬を連れて数人の友人宅を転々とした。結局最後は大学で師事している教授を頼り奈良県での発掘調査作業への参加を紹介してもらった。
「誰も私の事を知らないところへ、遠くへ行きた」妙子の言葉に皆が協力をしてくれた。周りは秋月家が破産したことを知っている。妙子の今の状況の理由はそのためだと理解し、妙子を問い詰めることはしなかった。
年の瀬、奈良県橿原市の遺跡発掘現場に妙子はいた。
季節は変わりすっかり冬景色だ。近くの公民館が事務所兼作業員宿舎で他の作業員と一緒に生活をした。妙子の事を知る人はいない。今はあの夏の思い出から遠く離れた場所で何も考えず別の事に没頭していたかった。
今日は年末最終日、年内の作業は終了だ。妙子はこのまま公民館で年越しすることにした。帰る場所のない妙子は留守番ということでそのまま留まることを許されたのだ。皆それぞれ自分の帰るべき場所へ、家族の元へ帰って行った。妙子は一人、帰る場所のない寂しさをしみじみ感じながら一人コタツで必要書類を作成した。年が明けたら来年の学費のための奨学金を申し込む予定だ。来年は4年生、あと一年で卒業だ。バイトもしてなんとか大学は卒業しようと決めた。教授も周りの友人も協力してくれるという。
妙子は年末の買い出しがてら散歩に出掛けた。ここ奈良は歴史好きには格好の場所だ、自転車で出かけ天皇陵を一回りし、その後町のスーパーで買い物をした。公民館まで帰ってくる頃には雪が降り始めた。
公民館の入口前に見慣れない車が止まっている。雪でよく見えなかったが、近づくと中から人が降りてきた。彰正だ。
妙子は自転車から降りると一瞬呆然とその顔を食い入るように見た。会いたいと強く思うと幻覚を見るのかもしれない、などと考えていた。
「妙子」声を掛けられて目の前の人が幻でないことが分かった。分かった途端、妙子はパニックに襲われた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お母さんの事ごめんなさい」叫びながら気を失った。彰正は妙子が崩れ落ちる前にその体を受け止めた。
妙子はヤカンの蒸気の音で目を覚ました。食器がぶつかってカチャカチャ音がしている。妙子はまだぼんやりしていて状況がのみ込めなかったが、奥から彰正が姿を現すとすべてを思い出した。
「これを飲みなさい。多分低血糖だ。ちゃんと食べているのか」彰正がマグカップを差し出した。言われるがまま飲んでみると砂糖たっぷりのコーヒーのようだ。
「すごく甘い」妙子は思わず言った。
「君は俺が心配するとは思わなかったのか。探すのに手間取ったよ。君の友達は皆口が堅くて」妙子が口を挟もうとすると
「もう全て終わった。心配しなくていい」と彰正がピシャリと言った。
妙子は彰正の優しさが、その声、視線が、懐かしくて心が温かくなった。でもここで甘えてすがりつく事は出来ない。
「私の父はあなたのお母様の事故の・・」最後まで言えない。妙子は最後の言葉が喉に痞えて苦しかった。
「それは親の罪だ。君はまだ生まれてもいない。ずっと昔の事だよ」
「私は、私の罪はおかしいと思いながら知ろうとしなかった事よ。安定が欲しくて、自分の欲のために目をつぶったの。もっと早くあの家を出るべきだった。こんな風になる前に周りの人を傷つける前に」妙子は段々興奮してきた。そんな妙子の様子を彰正が遮って言った
「妙子。止めるのだ。君はだれも傷つけていない。君の残した証拠から色々分かったことがある。多分もうずっと昔から秋月政子は精神的におかしかったのだろう。一豊氏はそれに気づきながら告発するのではなく守る道を選んだ。自分が標的になった後でも。君の父親の死は彼女が仕組んだものだ。本当は夫と運転手を同時に葬るつもりだったらしい。だが一豊氏はたまたま同乗していなかった。亡くなったのは君のお父さんだけだった。君も被害者家族なのだよ」
妙子は驚きで黙り込んだ。父の死はただの事故ではない。妙子の様子をみながら彰正は先を続けた
「一豊氏が君を養女にしたのは、秘密を知るかもしれない者を手のうちに置いておきたかったから、もしくは愛せない娘の換わりか、または父親を亡くした君への贖罪もあったのかもしれない」
妙子は彰正の言った内容を吟味していた。でも
「でも、私はそれを知ろうとしなかった。聞く前に父は亡くなってしまった」
「君が養女になったのは9歳の時だよ。まだ子供だ、何が出来たというのだ」彰正は辛抱強く妙子を納得させようと優しく言った。
「政子さんは入院したよ。和江さんとも話し合った。彼女も今までの多くの疑問に答えが出て安心したようだ。これからは母親を世話してゆくと言っていた。俺も援助していくつもりだ」
「よかった」妙子は安堵した。今までの経緯がどうあれ一緒に暮していた人たちだ、秋月家の人たちの事を心配していた。
「よかった、だけかい。色々な謎がありその答えを探していた、俺も君も皆も。でもそれは、誰かを裁くためでも復讐するためでもない。これですべて終わったのだよ」
妙子は心に大きくのしかかっていた塊が解けてゆくのを感じた。これで良かったのだろうか。
「本当に終わったの。終わりにしていいの」
妙子はまだ納得できていなかった。彰正は待った。妙子が考えを巡らせている姿を見ながら、そして納得するのを待っていた。
「妙子。もう昔の事を考えるのはよさないか。それよりこの指輪の答えが欲しいのだが」
彰正は言いながら妙子の左手を取った。妙子は驚いて声も出ない。いつの間にか左手の薬指に綺麗なダイヤモンドが輝いている
「君はアンティークの方が良いだろうと取り寄せてみた。サイズもピッタリだ」彰正はどや顔で言った。
「もう勝手な事はしないでもらいたい。いつも俺の傍にいて欲しい。これからは、君の事は俺が守る」彰正は妙子の手を握りながら言った。妙子は答えを声に出すことができない。ただただ頷くだけだった。彰正はその返事を聞くと妙子を抱きしめた。
「今すぐ君と愛し合いたい」
「え、ここで」妙子は狼狽えた。留守番中の公民館で
「その前に一本電話をしないと」と言うと彰正は携帯を取り出した。
「大山か。ああ妙子と一緒だ。予定通り今日から休みを取る。ああ、後は頼んだぞ」と言うと携帯の電源を落としてしまった。
「これで邪魔は入らない」
彰正は妙子が今まで見たことないほどの満ち足りた顔をしていた。妙子が見たいと思っていた、そうしてあげたいと思っていた顔をしている。妙子はただそれだけで幸せだった。幸せすぎていつの間にか笑っていた。
「なにがそんなにおかしい」彰正が聞いてきた
「だって、幸せ過ぎて。笑いが止まらない」
彰正もつられて笑い始めた。2人はお互いの幸せそうな顔を見つめあった。
初めての恋