「またね」
どうして人は「またね」という言葉を知っているのだろうか?
目の前にいる日常がある日突然非日常にならない保証が
矍鑠と存在しうるわけないのに。
ネットが発達し、人とのつながりが曖昧なこの時代に
いつしか人は「またね」と言わなくなった。
「またね」を言わなくなった代わりに、常に誰かと繋がっている感覚を獲得した。
もしかしたら現代人はひどい寂しがり屋なのかもしれない。
一度つながりを遮断すると再びつながることにひどく億劫になる。
そして恐れる。拒絶されるのではないかと。
ともすると、現代人は寂しがり屋ではなくて臆病者なのかもしれない。
いや。やはり面倒ごとを後へ後へと追いやる面倒くさがりなのかも。
在りし日の「またね」が言えたなら、僕は胸を張ってもいいのだろうか?
今この一瞬を共にしている人に全力で向き合っていると。
多くの人、情報、感情、環境に揉まれながらもこの一瞬を大切にしているのだと
自信を持ってもいいのだろうか?
「またね」と言われたなら、
全力で生きなければならない。
また会うその時まで。
「またね」と言ったなら
また全力で生きなければならない。
約束を果たすために。
「またね」
次に会うその時まで。
「またね」
「またね」という言葉は誓いの言葉であり、約束であり、願望であるような気がするのです。
必ずまたあなたの前に現れようというような解釈は恣意的でしょうか。