『菊地の牛乳』【掌編・コメディ】

『菊地の牛乳』作:山田文公社

 事件は突然起きた。それはある朝の出来事だった。
「だ、誰か!」
 まだ日の昇らない真っ暗な家屋に、野村家に嫁いで来た野村咲子の悲鳴が響きわたった。
「どうした咲子!」
 それは野村家当主、野村菊地の声だった。悲鳴を上げた咲子の様子をばたばたと足跡を立てて駆けつけた。玄関先で崩れ落ちている咲子を見て菊地は咲子の肩を抱えるのだった。
「大丈夫か咲子!」
 その声におびえた様子で咲子は閉じられていない玄関を指さした。菊地は咲子を玄関通路の壁へと寄せかけて、拳を握り玄関を飛び出た。通りには早朝の冷たい空気は、肺を刺すようなほど鋭く、菊地の吐く息は白く染まっていた。
 通りを鋭い目つきで睨んだが、通りには誰もいなかった。てっきり泥棒か何かと鉢合わせして悲鳴を上げたのだと、思いこんでいた菊地は何事も無い通りを見て、事情を伺う為に玄関先で崩れている咲子に詰め寄った。
「咲子! 何があった」
 震える咲子は先ほどと同じく玄関を指さして震えるのだった。しかし事情がわからぬ菊地は咲子の肩を揺さぶりなおも問いつめた。
「答えろ咲子! 何があったんだ!」
 その問いにようやく咲子は口を金魚のようにパクパクと動かしながら、言葉を発したのだった。
「ぎゅ、ぎゅう……」
「ぎゅう…なんだ?!」
「牛乳が無くなってるんです」
「なに?! なんだと!!」
 菊地は咲子を放り投げるようにして、玄関の牛乳瓶置き場を覗くと、そこには牛乳瓶が入っていなかった。
「すぐに、電話だ!」
 菊地はまくし立てるように咲子に命令した。
「は、はい!」
 怒りに強く握りしめる拳が震える菊地だったが、内心なにか事情があってこのような事態になっているのだと、まだ菊地は楽観していたのだ。すぐに地域の営業担当が、おまけをビニル袋に詰めて頭を下げにくる、そう楽観的に考えていた。
 しかし、事態は菊地の思惑から大きく外れた。
「あ、あなた、確かに配達したとおっしゃっていますわ」
 菊地は咲子の報告を聞き顔を真っ赤にさせて、咲子から受話器を奪いとった。
「牛乳がまだ来ていないんだが、遅配しているのではないのかね?」
 しかし受話器の向こう側の男は素っ気なく答えた。
「いえ、お客様の所には既に配送が完了しています」
 その言葉を聞いた菊地の怒りが爆発した。
「ふざけるな! 以前も同様の事例があっただろうが!」
 しかし応対する男は淡々と答えた。
「では配送した担当を向かわせますので、牛乳瓶の受付箱に書かれている番号を教えて頂いてもよろしいですか?」
 菊地は受話器の向こうの若い男の応対に握った拳が震えた。以前の担当は親切懇意にこちらが申し訳なくなるほどに丁寧であった。しかし、いま応対している男は神経を逆撫でするような言葉使いであった。もし菊地は目の前に居たらぶん殴ってやりたいと思うほどに腹立たしかった。
「咲子、牛乳瓶の箱に番号があるそうだ。持ってこい!」
 菊地は咲子に指示して、電話機の置いてある壁を拳で殴りつけていた。
「まだか! 早くしろ!!」
 菊地の怒鳴り声に咲子はおびえながら牛乳瓶の箱を持ってきた。
「ジェイの3426だ」
 菊地の答えに、男は再度番号を尋ねてきた。
「すいません、早すぎて聞き取れませんでした。もう一度よろしいですか?」
 菊地の拳は壁を強く殴りつけて、受話器のマイク側に向かって大声で怒鳴りながら番号を読み始めた。
「ジェイの! さん! よん! に! ろくだ! 判ったか! このぼんくら野郎!! さっさと来い! 来ないとお前の営業所に10トン(トラック)で突っ込んでやるからな!」
 そう言い乱暴に受話器を置いた。そして黒電話の置いてある電話台を蹴り飛ばして今へと向かうのだった。時計の針はまだ朝の5時前だった。
 
 それから10分ほどしてから玄関の呼び鈴が鳴った。菊地は仕事前だと言うのに焼酎を飲んで時間をつぶしていた。菊地は先ほどの男が来たら殴り飛ばす算段でいた。応対時にあの人を馬鹿にしたような態度を、しっかりと矯正する必要があると考えたからだ。焼酎瓶を片手に行くと、自分より少し若い白髪交じりの青い帽子と作業服を来た男が深く頭を下げて立っていた。
「このたびは大変申し訳ありませんだ。 こちら側の不手際がありお客様に大事な商品がお届けされなかったことを深くお詫び申します」
 帽子を取り直角に頭を下げる男を見て、菊地は怒鳴るに怒鳴れなくなった。
「とにかく、代わりの牛乳をくれ」
 菊地は仕方なくそう言うと、配送員は再度深く頭を下げた。
「そうしたいのは山々なのですが、本部からは問題ないと指示されまして、ただ私は長いこと野村さんのお宅へ配送していたので、それを考えて少ないですが、私が注文したもので良ければお受け取りください」
 配送員は立った一本の牛乳瓶を玄関先へと置いた。
「つまりあんた方らには落ち度がないと……そう言うわけだな?」
 配送員は静かに首を縦に振って口を開いた。
「本社指示で、配送車にGPS(衛生位置情報)の取り付け義務と、配送完了写真が義務化されたんです」
 菊地はそれを聞いて愕然とした。
「つまり、牛乳は届けられたのか?」
 配送員は頷いた。
「じゃあ、盗まれたとでもいうのか?」
 配送員は深く頷いた。それを見た菊地は項垂れて、膝から崩れ落ちた。
「わしの牛乳、誰が持って行ったんだ……くそ!」
 菊地は床を拳で叩いて、力無く咲子へと告げた。
「咲子、警察に電話だ……。 牛乳が盗まれた。 それからコンビニで牛乳を買ってこい」
 その様子を見た配送員は深く頭を下げて呟いてから去った。
「ご愁傷さまです」
 警察が車でのあいだ、菊地は神妙な面持ちでコップに移した牛乳を飲んでいた。
「お味のほどは……」
 咲子の心配する声を聞いて菊地はちゃぶ台を蹴りあげた。
「こんな! こんなマズイ牛乳が飲めるか!」
 菊地はそう言い、その手にしっかりとコップを握りしめていた。
 朝日が窓からカーテン越しに差し込んでくる。それは菊地の出社の時間を知らせていた。菊地はコップの牛乳を飲み干してから、コップを畳の上に置いた。
「仕事に行ってくる……警察は任せた」
 立ち上がった菊地の背中に咲子はくっついて、頷きながら言った。
「はい、留守中の応対しておきます。 行ってらっしゃいませ」
 菊地は無言で頷いて、スーツに着替えて玄関を出て行く。菊地の背中には寂しさが漂っていた。肩をすくめて歩く菊地を手を振り見送る咲子は、エールとばかりに大きな声で叫んだ。
「牛乳2パック買ってまってますからー!」
 その声に菊地は一瞬立ち止まり、丸まっていた背中が一瞬で伸びた。そして咲子に背を向けたまま、手を高く突きあげた。菊地は意気揚々と仕事へと向かって言った。

 咲子は笑顔で菊地の姿が見えなくなるまで手を振りつづけた。

『菊地の牛乳』【掌編・コメディ】

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『菊地の牛乳』【掌編・コメディ】

まだ夜も暗い内事件は起こった。 それは野村家の妻、咲子の悲鳴から始まる。 慌てて玄関へと駆けつけた菊地は、崩れ落ちている咲子を抱えて問いただしても、咲子は玄関を指さし震えるばかりだった。 玄関を飛び出し辺りを伺う菊地。 だがそこには誰もいなかった。 再度菊地が、妻の咲子に尋ねると、ようやく口を開いた。 「牛乳がなくなっているんです」

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-07

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