救済
朝、その部屋から、朝日は見えない、けれども白く濁り出した空と、うごめき出す人の群れの気配で、また新たな一日の始まったことが診て取れる。男はのしかかって来る羊毛布団を、いかにも気だるげに払いのける。半分身を起こしながら時間を確認して、珍しく早く目が覚めたな、などとぼんやり考えて、煙草に火をつけながら、虚空を眺めている。
朝食を摂る時間は十分にあるが、なにかを口にする気分ではない。そのまま煙草をもう2本吸い、
身支度を整えて仕事に向かう。足取りは重かったが、毎日の道のりなので、気がつけばホームで
電車を待っていた。
「はぁ...」
思い違いをしてはいけない。かれは憂鬱に捕りつかれたのではない。これは彼の癖である。
ここで線路に飛び込んだりはしない。何事もなく電車に乗り込み、彼は通勤者の坩堝に、飲み込まれる。
仕事を終えた彼は、また同じ道を辿って帰路に着く。お決まりの溜息を吐いてスーツを着替え、
今日の夕飯について思案する。思案と言っても、独りの夕食などただの餌である。
空腹さえ満たされればそれでよい。インスタントラーメンを啜り、風呂に入り、そして寝る。
さてこんな風な生活が楽しいものだろうか。もちろんそんなことはない。
男の精神構造は一般である。彼の癖だという溜息が、単に癖だけの為であるとは、傍から見れば到底思えないだろう。しかして、それはこの生活が際限なく繰り返されると考えているからではなかろか。つまり、彼自身はそうではない。
週末である。男は日向でも人影に見えるような地味な井出達で、電車に揺られている。
通勤中の揺られ方とは、どこか違い、やや寛いだ様子である。妙に軽やかな足取りで改札を抜け、南西の方角へずんずん歩いていく。先に控えるは住宅街、その先の小高い山が見える。
彼はもはや山中にいる。平地からほとんど速度を変えず山道に入って登り続け、そろそろ
山頂に着くころである。小高い山ではあるが、普段の彼からは想像しえない、精力的な登り様である。
頂に達した彼はそこで絶叫した。天から声がする。
「苦しむのを止めなさい。」
男の精神は一般である。しかし、男は耳が変になったのかと思う。無理もない。さらに言う。
「なぜ、苦しむのです。思い悩むことなどありません。」
なにを、と思う。わたしは悩んでなどいない。
「わたしはあなたをいつも視ています。わたしの導きに従いなさい。」男は身が竦むのを感じた。
なんなのだ、これは。男は、おまえはなんだ、と問うてみた。返事は、なかった。
休みが明けて、また仕事に向かう。あれから声は聞こえない。
男はしかし、導きがあるのを時々感じるようになる。それはなにか指示のようなものだの、はっきりした啓示だのがあるのではなく、ある種の決断を迫られた際、悩まなくなった。
というより、悩めなくなったのだ。答えが最初から解るようであった。
実際、その選択は悉く功を奏し、もはやなんの不満も抱く余地がない生活であった。
ふと、死のうと思った。男にはどうして自分でもそう思ったかわからなかったが、もう死ぬしかないのだと悟りを得た。例の山頂にやってきた。
男は死ぬ前に、天に向かって叫んだ。
「これで、よいのだな。」
その日の空は、馬鹿みたいに晴れていた。
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